赤い月




 中天を横切る月を見上げつつ、俺は一人耐えていた。
 重い体に霞む視界。刻一刻と鈍る嗅覚に、辺りを包む血の臭い。既に指一本動かす事も出来ねぇってのに、なの未だに俺は死ねない。
 隣に転がってるクソッタレ。俺をこんな目に合わせやがった張本人が、まだくたばってねぇからだ。思いっきり腹を引き裂いてやったと言うのに、赤い瞳をカッと開いて、同じ色の舌をダラリと垂らしながらも、そいつは未だに意地を張ったまま、意志ある目付きで俺を見る。互いに相手より先には逝けないと、思い詰めてるってな訳だ。

 止めすら刺せずにへたり込んでいる俺達を、生温かい風が無遠慮に撫で回して行く。しかも御丁寧な事に、そんな馬鹿共を見守っている月までが、嫌味か皮肉か知らないが、異常なまでに赤かった。血の色を思わせる、くすんだ紅――本来なら明るい筈の立待月が、不気味な澱みを伴いつつ、時折雲塊にその目を閉じられながらも、死に行く二匹のポケモン共を、無言のままに見下ろしている。
「今夜の月は滅法赤ぇな」――儘ならぬ苛立ちから眉を顰めつつ、思わずそう吐き捨てようとしたのが不味かった。口を開いて息を吸った途端、相手の尻尾が食い入っていた腹の傷から、熱い鉄錆が逆流して来る。呻きと共に力無く咳き込み、身を捩りながら喘いでも、瀕死の状態にあった俺の身体は、最早自身の生命活動に於ける些細な過誤ですら、補い切るには至らなかった。
 俄かに遠のく虫の声と、滲んで砕ける赤い月影。自らの血液で溺れながらも、俺は混濁して行く意識の中、隣の野郎がどうなったのかと言う疑問だけを、只管頭の中で掻き回していた――



 次に目が覚めた時、俺は一体何がどうなっているのか理解出来ずに、束の間の間目を白黒させていた。
 ――と、その時。不意に聞こえて来た呼びかけが、一気に俺の意識を覚醒させた。
「あ……! 気が付いた……!」
 聞き慣れぬ独特の『鳴き声』と共に、視界に現れる獣の頭。嬉しげに視線を向けて来る相手の姿は、普段俺達が極力接触する事を避けている、異種族連中のそれだった。
 頭頂部を一杯に埋めたしなやかな黒い毛は頬の辺りを伝って零れ、反面色白な顔面には殆ど毛髪の類は突き出ておらず。一片の敵意も見出せない穏やかな表情でじっと此方を見つめていたのは、ポケモンの俺でも一目で端麗な顔立ちをしていると評価出来る、まだ年若い人間の娘だった。
 意識が明確になると同時に、周りの様子もはっきりとする。頭上に覆い被さっていたのは、木製の板で作られた堅固な天井。そして俺が横たわっていたのは、その感触からも十分に念を入れて用意されたと分かる、上質な干草と綿毛鳥の羽毛で形作られた、鎧窓の隣にある寝床の中。
「まだ傷が塞がってません。……ですから、もう暫くはじっとしていて下さいね」
 噛んで含めるように諭し掛けてくるそんな相手の態度に戸惑いを覚えながらも、依然重い体を持て余し続けていた俺は、止む無く休息を要求する本能に身を委ね、ゆっくりと目を閉じた。

 それから数日の間、自力で起き上がる事すら出来なかった俺は、毎日熱心に世話を焼いてくるその娘に、されるがままになっていた。……他の連中からは『ヒメサマ』とか呼ばれていたそいつが何を考えていたのかは知る由もなかったが、こっちも二進も三進も行かなかったのは事実。命を助けられた手前もあり、指示には大人しく従いつつ、恒常的に続く発熱に浮されながらも、只管体の回復を待った。
 やがて熱が引いて歩けるようになると、俺は娘の介添えを受けつつ、運び込まれていた部屋の外に出た。ふら付く体を支えられながら廊下の角を幾度か曲がり、所々に立っている武装した男達に頭を下げられつつ案内された先は、建物の離れに位置している、大きな湯殿だった。
 天然の出湯が絶え間なく湧き出ていたその場所で、俺はここまで自分を引っ張って来た相手の勧めに従い、湯加減が丁度良くなっている箇所を選んで身を沈める。温度調整の為に引いて来てある清水と源泉とが混じり合っている辺りに陣取り、暫しゆっくりと体を伸ばしていると、当初は湯に沁みた傷の痛みが、だんだん和らいでいくのが分かった。
 やがて十分に身を休めた後、そろそろと湯船の中から腰を上げた俺は、娘が待っている湯殿の縁に向けて歩いて行く際、ふと目を落とした水底に、見慣れた痕跡が残されているのに気が付いた。

 それから数日が過ぎた後、俺は初めて自分の意志で、与えられた部屋から外に出てみた。入り口に詰めている若侍は最初はビクつき、次いで戸惑った様な目で此方を見詰めてきたが、俺は敵意が無い事を態度で示すと、そのまま相手の前を横切って、何時もの順路を辿り始める。
 途中に詰めている他の武士達も、取立てて騒ぎ出す事は無く。やがて前方に何時もの湯殿が見えて来た時、俺は見慣れたその建物の中から、二つの影が歩み出て来たのを目に留めた。……程なくして先方も俺の存在に気付き、一方は驚愕の目を、そしてもう一方は落ち着き払った無表情を持って、俺の面を凝視する。
 狼狽して此方を見詰める娘の背後に控えていたのは、予想していた通りの相手。長い体に真っ赤な瞳。巨大な毒牙に刃の尻尾。胴中に刻み込まれた傷跡も生々しい立派な雄のハブネークが、無言で視線を送る俺の顔を真っ向から見返して、静かに舌を出し入れしている。……湯殿で鱗を見つけた俺と同じく、何処かで宿敵の存在を感じ取っていたらしいそいつは、冷たい目付きで此方を睨みつけながらも、何時もは立ててある尻尾を寝かせ、そのまま微動だにしようとはしない。
 やがてそれを受けた俺の方も、おろおろと両者を見比べている娘を尻目に、ゆっくりと踵を返し、元の部屋へと戻り始める。幾ら俺達が互いに憎み合っているとしても、最低限度の節度はあった。傷の手当をし、食事を運んで来てくれた相手。熱に喘ぐ額を冷水で濡らし、満足に動けぬ中下の始末までしてくれた恩人の面に、泥を塗りたくる訳にも行かない。
 部屋に帰って直ぐに、娘がやって来て礼を言った。同時に今まで隠して来ていた事を詫びて来たりもしたが、俺の方はそんな御託に興味は無く、そちらは適当に聞き流す。

 その数日後、再び顔を合わせて互いの意志を確認しあった俺達は、その場でここに滞在している間の、不戦の約を取り交わした。



 俺達には本来、互いに率いていた群れがいた。  俺は嘗てこの周辺を縄張りにしていたザングース達のリーダーで、あいつは現在此処を仕切っているハブネーク共の頭領だ。俺達は代々この近辺に住み着いており、互いに襲撃し合い、追い散らし合いながら、ずっと世代を重ねてきていた。
 一つ前のボスの代に、俺達の群れは勢力を盛り返した牙蛇の大群に駆逐され、この辺りの勢力圏を失っていた。俺達が戦ったのも、この所再び双方の力関係が均衡し、終わりの見えなくなり始めていた小競り合いに、一気に蹴りを付ける為。……ずっとその結果を待っていたであろう二つの群れが、何時まで経っても消息の掴めない互いのリーダーを探して鉢合わせする事は、容易に想像出来た事だった。

 日々暑熱が強くなっていく初夏の昼下がり、血相を変えて走り込んで来た村人の言葉を耳に挟んだ俺達は、俄かに騒然とし始めた周囲の人間達を尻目に、臨時の塒である屋形の敷地内を駆け抜けた。
 番士が控える頑丈そうな構えの門を潜り抜け、慌てて道の脇によける村人共を散らしつつ、一気に村の外れまで。遠巻きに見守る疎らな人垣を悲鳴と共に突き抜けると、互いに睨み合う二つの群れの間に立ちはだかる。……遅れてやって来た牙蛇共々一睨みくれる事で、俺達の間の約定は、そのまま互いの群れ同士の協定となった。
 村に向かって引き返していく道すがら、無理な疾走から再び開きかかっている傷口を、なるだけ目立たぬ様に庇って歩く俺に向け、同じ方角に向かうヤツは、呆れた顔をして言葉を吐く。
「……貴方も変わった猫鼬ですね」
 馬鹿面下げて抜け抜けとほざきやがった相手に対し、俺は精一杯の皮肉を込めて、「テメェが言えた義理じゃねぇだろ」と突っ返す。漸く新しい鱗が生え変わりかけていた蛇野郎の脇腹からは、ここ数日で厭きるほどに嗅ぎ慣れた薬草の香に紛れて、薄っすらと血の臭いが滲んでいた。

 俺達は別に、群れの動向自体は縛らなかった。……元より憎みあっている二つの群れが、同じ場所で大人しくしていられるとは到底思えなかったからだ。
 ところがしかし――互いに敵対している二つの群れは、俺達二匹の思惑に反し、互いに睨み合いながらも、結局村の近辺に居付いたまま、動こうとはしなかったのだ。
 一つには、丁度今が双方にとって、子育ての時期に当たっていたからだろう。
 育ち盛りのチビ共に腹一杯食わせつつ、外敵から無事に守り切ると言うのは、一つの群れ全体で互いに力を合わせたとしても、全く容易な事ではない。食糧確保の問題もあるし、他の肉食性のポケモン達にとっても、非力なチビ共は絶好の獲物だったからだ。
 その点この村の周辺は、纏まった数の人間達が生活を営んでいるだけあって、様々な面で都合が良かった。人間の集落には、スバメ等の一部の連中を除けばポケモンは滅多に近寄らなかったし、彼らが管理している畑や水田・果樹の並木には、俺達の獲物である小動物や小型のポケモン達が、実りを目当てに幾らでも寄り集まってくる。
 更に何より大きかったのは、事実上最大の天敵であったお互いの群れ同士が、この村の周辺では全く脅威となり得なかった事だ。……互いに明確な敵意を抱き、常に虎視眈々と付け入る隙を窺いあって来た相手の襲撃を、此処では夢にも警戒しないで済むのである。

 また、これは村の外に出てから気が付いた事なのだが、俺達が厄介になっているこの場所は、人間達が『煙突山』と呼んでいる山の、丁度麓の辺りに位置していた。元々『人間共の領分』として近付かなかったこの辺りには、俺達が屋形で使っているのと同じ様な温泉が、至る所に湧き出ている。
 表面上は大人しくしている二つの群れも、裏では互いに穏やかならぬ感情を抱いている事は間違いなく、特にまだ若い連中の中には、相手方と共に村の遠方まで繰り出して、一当てやらかす者も珍しくなかった。
 双方の約定の手前互いに殺し合うまでは行かなくとも、そう言った連中は大なり小なりの傷を負って、村の周辺へと戻ってくる。そんな喧嘩の当事者達の傷の手当に、温泉が注目される事となったのだ。
 野に生きる者達の本能として、互いに傷の手当や療養に専念している時は、俺達は不思議と相手への強い敵意や闘争心を、忘れる事が出来た。更に温かく治癒効果の強い薬湯は、生傷の絶えない若い衆だけではなく、全身に古傷の目立つ壮者や老兵達にもすこぶる好評だった。軽はずみな行動には慎重でも、内に秘めた憎しみは事の外強い彼らが、湯治の間だけは苛立ちを忘れて、静かに寛ぐ事が出来た。

 人間達の方も、最初は荒々しい性格で知られる俺達の事を警戒していたものの、此方が一切危害を加える気がない事を悟ると、寧ろ進んで傍に寄って来る様になっていった。
 人間と言うヤツは、一度馴れると此方が戸惑う程に図々しかった。チョコチョコと走り回るチビ共に木の実をやったり、傷を負った連中に対し、頼まれてもいないのに薬草を寄越して来たりする。連中は俺達が居付いた事により田んぼや果樹が荒らされ難くなり、普段詳細に見る事の出来ない野生のポケモンを間近で見られる事を素直に喜んでいた。
 やがて双方の群れの内にも、決まった畑や水田の周辺に陣取って狩を行う者が出て来ると、人間達はまるでそいつ等を家族の様に見做して、野良仕事の合間に様子を見たり、傷を負っていれば何くれと世話を焼こうと近寄ってくる始末。仕舞いにはガキ共までが寄って来て、此方のチビ共に関心を持つまでになってしまった。

 二月も経ち、ずっと療養していた俺達が再び元の通りに動き回れる様になった頃には、俺達二つの群れは完全に、村の生活に溶け込んでしまっていた。


 それからも結局俺達は、子供を抱える群れの親達の意見を汲むと言う形で、村の周囲に留まり続けた。……かく言う俺自身にも、既に療養中に娘が一匹生まれており、安全で利便性も良いこの場所を、すぐさま動く気にはなれなかった。
 停戦の約定は、しっかりと守られていた。当初は俺とあいつが組になり、定期的に村のあちこちに足を運んでは、不穏な動向が無いか監視していたものだが、落ち着きを見た現在では見回りの回数も減り、不愉快な共同作業も不定期なものとなっていた。
 そんなある日、久し振りに散策も兼ねて村を回っていた俺達は、偶々足を伸ばした村外れの川辺で、信じられないものを見る事となった。


 そこにいたのは、二匹のチビ共―まだ幼い一組の、子供のザングースとハブネークだった。……しかも両者は諸共に、俺達が良く知っている面だったのだ。
 ザングースの方は、紛れも無く一月ほど前に生まれた、俺の一人娘。そしてハブネークの方は、少し前に面識を持った、ヤツの甥だった。何れもまだまだあんよのガキ共は、どう見てもここ数日で知り合ったとは思えない様な慣れた調子で向かい合い、小さな爪と尻尾を光らせて、真剣な表情で対峙している。
 驚きの余り思わず声を掛けようとした俺を、隣にいた蛇野郎が尻尾を伸ばして差し止める。何の心算かと訝る俺に向け、無言で様子を見ようと促したヤツは、そのままの姿勢で前方にいる、二匹の動きに目を移した。
 やがて二匹のガキ共は、互いに申し合わせた様に動き出すと、相手の隙を誘っては飛びかかり、体を捻って取っ組み合いを始める。……しかしその一方で、明らかに両者とも互いの体に無用な傷を付けぬ様配慮しており、仕舞いには十分に暴れ回った挙句、はしゃぎ合いながら川の中へと飛び込んでしまった。
 きゃっきゃと愉しげに水を掛け合うチビ共を眺めつつ、ヤツは何処か遠い目付きで、自分に問いかけるように呟いた。
「ああやって、生きて行く事は出来ないのでしょうかね……? 我々には他に、取るべき道があるのではないか――あの子達を見ていると、そう思います」
「出来るわきゃねぇだろ。……そんな寝言、抜かした所で何の価値もねぇ」
 柄にもなく静かな調子でのたまう蛇に対し、俺は素っ気無い口調で言葉を返す。更に続いて、そのまま自らの腹の内を、目の前の相手に向けてぶちまけた。
 何故なら、俺は知っている。――憎しみは消えない。そう、消えないのだ。
 二つの群れは今の所満ち足りて大人しくしているが、腹の底では常に、相手に対する敵意と猜疑の念を渦巻かせていた。若い奴らは決闘紛いの角突き合いを止めなかったし、年配の者も時折刺す様な目で、相手の側の連中をジロリと睨む。約が守られているのは必要であった為と、後は単純に名誉の問題に過ぎなかった。
 全く反論してこない所から、ヤツもそれは十分理解しているのだろう。……俺はまだまだ若かったが、それでも相手側に対する憎しみを駆り立てられる材料は、幾らでもあった。
 親しい友や優しくしてくれた大人達が、襲って来た牙蛇の手に掛かり、無惨に殺されるのを幾度も目の当たりにして来た。俺より更に若いこいつにしても、それは変わらない。
 今はこうして互いにじゃれ合っているあいつ等も、やがては周囲に立ち込めている憎しみの念に毒され、容赦のない現実を目の当たりにする事で、俺達と同じ運命を辿るだろう。……その時に嘗ての思い出に苦しむのは、間違いなく当人達なのだ。
「こうしてられんのも今の内だけだ。冬が来るまでには、此処を立ち退かなきゃならん。……どうしても変わりたきゃ、先ず俺達の代が全滅でもしねぇ事には無理だろうよ」

 ――それが、俺の下した結論だった。



 それから更に、一月程も経った頃。秋も酣となったこの村では、一年で最も忙しい時期を迎えていた。
 広い水田には色付いた稲が重い穂を垂れ、立ち並ぶ果樹には形良い実がたわわに実る。常に居付いて狩を続ける事により、間接的に他の動物やポケモン達の食害を防いできた俺達の存在もあって、村は近年に無い豊作に沸いていた。
 収穫作業が始まると、手透きの連中の内人間に馴れていた者は、尻尾の刃や両手の爪を用いて、進んで手伝いに加わった。……当人達は居候としての借りを感じての事であったが、例によって人間共が喜んだのは言うまでも無い。
 やがて全ての作業が一段落すると、一年の収穫を祝っての、盛大な秋祭りが始まった。
 その規模たるや見事なものだった。元々俺達が世話になっていた屋形の主は、この近辺の領主であると同時に、この地方全体を束ねる、大社の宮司であるらしい。
 娘の言によると、何でもこの神社に祀られているのは、それぞれ赤青二色の色をした、一対の宝玉であると言う。片方は海の神を、もう片方は大地の神を封じていると言うその宝玉を奉じているからこその社格であり、それを大切に護り続ける事が、彼女の家の代々の役目だった。

 祭りの間、俺達は互いの群れを監視しつつも、騒ぎ回る人間達や浮かれてはしゃぐチビ共を眺めながら、穏やかな一日を過ごした。
 巫女舞や流鏑馬と言った一連の催しを見物し、方々から手に入れた取れたての木の実を齧っている内、やがて神事の合間を縫って、祭司頭でもあった娘が、様子を見にやってくる。
 紅白の装束を身に纏った彼女は、「今日は貴方と御揃いですね」と俺に向かって微笑んだ後、顰めっ面で目を逸らす俺の隣に、静かに歩み寄る。俺達の間に位置を占めた娘は、少し離れた所で遊んでいるガキ共を柔らかな眼差しで見詰めつつ、静かな調子で口を開く。
「こんな穏やかな日々が、何時までも続いて欲しい。……今は心から、そう思えます」
 傾き始めた日の光を浴び、長く伸びた影を互いに交差させて遊ぶチビ共。何れも異なる三つの種族の子供達を眺めながら、何処か寂しそうな表情で、彼女はそう呟いた。
 俺とあいつは、どちらも互いに黙りこくったままだった。……その時はそれ以外に、出来る事など無かったのだから。
 ただ、その時の娘の物言いに、何処と無く引っ掛かるものを感じたのは事実だった。


 その言葉の意味は、遠からず明らかとなった。
 祭りが終わって数日後。立て続けに二つの使者が、村の領主である娘の父親を尋ねてきたのだ。どちらも全員が同じ色の装束で身を固めた奇妙な一団は、何れも長時間に渡って屋形の一室を占領し、同室する娘の父親と激論を交わしていた。

 そして、更にその翌日――事情を聞いて駆けつけて来た蛇野郎と共に、一緒になって屋形を訪れた際。俄かに物々しくなっていたその場所で、俺達は他ならぬ娘自身から、村の周辺より離れるように懇願される。……戦が始まるというのであった。
 自らの陣営の象徴とする為、かねがね宝玉の所有権を譲り渡すよう圧力を掛けて来ていた二つの大勢力が、今回遂に業を煮やし、最後通牒を突きつけてきたのだと言う。所詮は家格だけで実を伴わぬ小領主では、侵攻されれば一支えも出来ず、蹂躙される事は目に見えていた。
 娘の口上は丁寧だったが、其処には同時に、断固とした決意も滲み出ていた。止む無く俺達は屋形を辞すると、その足で群れの連中の所へ行って、数日の間に村から引き上げる事を通達する。
 翌朝、まず最初に牙蛇の群れが、まるで黒い大波が引くようにして、村の東へと去って行った。俺は敢えてヤツを見送らなかったし、向こうも態々挨拶しに来る事は無かった。……既に村を離れる時点で、連中との停戦は解消されていたからだ。
 やがて、その日の夕方。今度は俺達が大挙して、村の西に向け移動を開始する。朝方に牙蛇達を見送った娘は、今度も俺達の出立に際して別れを告げる為に、沈んだ表情で姿を現す。
 俯き加減に言葉も少ない彼女を前にしても、俺にはしてやれる事が何も無かった。俺達には人間の言葉は話せなかったし、両手に鋭く輝く爪は、静かに気持ちを伝えるには、余りにも無骨に過ぎた代物だった。
 しかしそれでも、俺には何かがしたかった。無意識の内に前へと踏み出した俺は、唯一自発的に血で汚した事の無い大きな尾を持ち上げ、感情を堪える娘の体にそっと触れた。驚いて顔を上げた相手に対し、精一杯の気持ちを込めて表情を緩めると、苦悩に沈んでいた相手の瞳に微かな光が戻り、同時にそこに、静かな寂しさが取って代わるのが分かった。
「ありがとう」と小さく呟いた彼女は、続いて再び以前に見せた、あの柔らかくも毅然とした態度を以て、静かに俺に対して別れを告げる。「あなた方と共に過ごした日々を、私は決して忘れません――」そう口にした相手の瞳の中に、嘗て熱に浮かされていた時に目にした、あの暖かみに満ちた表情が重なって見えた。
 不覚にも込み上げて来た感情に、何時かの蛇野郎の言葉が頭を過る。『もし彼女が、同族であったなら――』 ……例え戯れであろうともそんな事をほざきやがったあの野郎は、果たしてこの様な別れが訪れた事を、どう受け止めているのだろうか――?
 やがてろくに手入れもして来ていない毛羽の立った尻尾を収め、ゆっくりと後ろに一歩後ずさった俺は、くるりと踵を返すと威声を張り上げ、群れの仲間達に出発を告げた。遠ざかる村を振り返る者が後を絶たないまま、俺だけは最後まで、後ろを振り返る事は無かった。



 それから、一週間程の後――東の空に立ち昇る黒煙を目の当たりにした俺達の群れは、予てから予定していた通り、未だに幼いガキ共や一部の付き添いだけを残して、全員で村の方角へと直走った。
 やがて村を見下ろす丘の上に達した時、眼下に広がっていたのは、大量の獣を引き連れた異なる二つの陣営が、村を戦場として互いに干戈を交えつつ、村民を狩り立てながら屋形に向けて進撃している光景だった。
 火を掛けられ、水流で打崩される家々と、道に転がり出ては軍兵に追われ、切り倒されて行く村人達。両の瞳をギラ付かせ、房尾を振立て逸り立つ周りの連中を抑えつつ、突っ込む際の呼吸を計っていた俺は、ふと目をやった先―村を挟んだ、反対側の丘の上―で、何かが蠢いているのに気付く。……今一つ輝きの鈍い月の光に洗われ、唐突に現れ出でた暗黒色の集団は、村の反対側から攻撃を掛けているもう一方の軍勢に向け、まるで雪崩落ちる寸前の濁流の如く、狭い丘の上に犇き合っている。
 それを目の内に留めた瞬間、一転して間髪を入れず突撃を下命した俺の耳に、漸く奇襲に気がついた間抜け共が、味方に急を知らせる為に吹き鳴らした、竹法螺の音が飛び込んで来た。



 密やかな虫の音が響き渡る中、俺は一人待っていた。
 身を焼く痛みに滴る血潮。刻々と増す虚脱感に、徐々に薄れる気力と意識。
 立ち尽す草叢に他者の気配は無く、最早自分自身も長くは持たねぇだろうってのに、それでも俺には確信があった。
 脇を抉った鳥人の蹴爪。半身を焦がした灼熱の炎を思い返していると、前方に蟠る闇の一部が、ずるりと手前に動いた気がした。錯覚かと思って目を凝らす内、再度動いた漆黒の影は、再び見開いた月の目によって、一匹の毒蛇へと姿を変える。此方の存在に気付いたそいつは、体に突き立つ矢を咥えると、引き抜き吐き捨てニヤリと笑った。
 強張っていた全身の筋肉が快い感触と共に蘇り、冷め掛けていた闘争心が沸々と煮える。惚け掛けていた頭の中は俄かに澄み渡り、湧き上がって来た高揚感が誇りと共に、俺の口元を弓形に曲げる。

 ……そうとも。俺を送れるのはお前しかいない。
 生まれてずっと負けを知らず、相手を引き裂く事しか知らなかったこの俺に、お前は唯一敵として、死が何たるかを教えてくれた。同じ場所で命を救われ、同じ相手に心惹かれて、同じ目的に全てを賭けた。
 娘が俺達に与えてくれた、尚幾許かの時――存分に堪能させて貰ったその猶予も、どうやら此処で時間切れらしい。
 あの時変わった、互いの運命。……最期にその修正を許されるのは、当事者同士を置いて誰が居ようか?

 心地良い充足感に満たされつつ、念入りに手入れし終えていた尻尾を高々と持ち上げた俺は、そのまま沈み込む様に姿勢を下げ、両手の爪を煌かせながら、上機嫌で空を見上げる。
 瞳の内に飛び込んで来たのは、確かに見覚えのある丸い月影。最後に一言独り言ちると、俺は同じく尻尾を振り上げていた牙蛇に向け、力一杯地面を蹴った。

「今夜の月は滅法赤い――」





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