誰かが引っ越してきたらしい。
 さっき俺の部屋に引越し蕎麦を持ってきた。冴えない感じの大学生だった。あの顔は、幸薄荘にある108のジンクスの一つ【ざまあ鍋】を知る日も遠くなさそうだ。

 とか思いながら、久しぶりにハローワークで良さそうな仕事を紹介してもらえてほくほくしていたのでカゲボウズが現れなかったのに、なぜかいつもタライを設置しているアパート裏の草むらへ出てきてしまった。

 大家さんがしばらく草刈をサボっているのか雑草ぼうぼうの裏庭を見つめて、驚いたことに御影先輩が座り込んでいるのを見つけた。

 アパートの裏の壁に寄りかかって、煙草を吹かしながら右手で一匹のカゲボウズの頭をつまんでいた。

 カゲボウズはイヤイヤとでもいうように首を振っているが、御影先輩はそんな様子をもろともせず、目の高さまでそいつを持ち上げてじっと見つめている。
 首を振っているカゲボウズがとても健気で、つい俺は先輩に声をかけてしまった。

「御影先輩」
「あ」

 先輩は咥え煙草のまま口の隙間から煙とともに間の抜けた声を出すと、拍子にカゲボウズをつまんでいた指を離したようだ。

 カゲボウズはふわ、と先輩を避けると、ぴゅーっとこっちへ飛んできて、俺のYシャツの胸ポケットに飛び込んできた。
 見上げる目が二、三瞬き、若干うるんでいるようにも見える。

「先輩、あんましカゲボウズを邪険に扱わないでやって下さいよ」
「だってそいつ俺のトゲピーいじめたんだもん」

 先輩はずるずると背中で壁を滑り、気だるい動作で地面に腰を下ろして煙を噴出す。

 いじめたって、子供かアンタ。

「なんでYシャツなの」
 先輩が言った。確かに俺がスウェットじゃないのは珍しい。
「仕事探しに行ったんです」
「へー。見つかったの」
「見てください」

 俺は折り皺のついた求人リストのコピーを出した。

   登録No.017 『ポケモントリミングセンター』
   ピカチュウからマンムーまで、どんなポケモンもピカピカに!
   愛する手持ち達に、あの頃の輝きを……

「ここなら自転車で通える距離だし、割と給料もよさげで」
「……洗濯が趣味なのか?」
 先輩は真面目な顔で言った。

「んなわけないじゃないスか」
「でも何か最近よく洗ってない? 黒いの」
「あいつらここんとこ自分からタライに飛び込んでくるんですよ。すっかり味しめちゃったみたいで」
「へー」

 あ、そういえば。

「こないだまた何匹か土団子になってたんで、洗濯しようとしたんですけど、何か何匹からかすごくフローラルな香りがしたような」
「ふーん」

 まさか、他の家でも。
 それも何か良い香りのする家で。
 たとえば女の子の家で。
 まさかそんなことはないだろうな。
 そんなことはないはずだ。
 そんなの羨まし過ぎる。

「…………」

 先輩は微妙な視線を俺に向けると、突然ゆらりと立ち上がった。
 胸ポケットでカゲボウズがびくっとした。

「寝るわ。」

 先輩は言い残すと、二階の自分の部屋へ戻っていった。
 去っていく背中は、大家さんが「御影さん似合うと思いますよ?」とどこからともなく持ってきた、かなめいしの柄がプリントされたTシャツ。

 どこかでテッカニンが鳴いている。

「……今日、昼飯コンビニの幕の内弁当なんだけど、食う?」
 俺が胸ポケットにたずねると、中の黒いのはとくに返事をしなかった代わりに部屋まで間違いなくついてきやがった。



 終わっていいのよ





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