「見にいこ、……いやどうかなぁ」
 テレビCMから流れる民族的な雰囲気を持った静かな歌。歌ってる女性の声が本当にきれいだ。きれいだなぁ。
「いつまでやってんだろう……」
 あの有名なアニメ監督の映画『借りぐらしのアリアドス』。少し前の作品まではちゃんと映画館で見ていたが、最近はすっかりDVD派である。『崖の上のピィ』は見に行こうかと思ったけど、結局見逃しちゃったし。
 『借りぐらしのアリアドス』は都会の真ん中、ビルとビルの間に住む14才の女の子のアリアドスの話である。ニンゲンのものを少しずつ借りて、暮らしているのだ。ただ、アリアドスがそうやって暮らすには決して破ってはいけない約束があって――。
 見てみたい気はするけど、見てみたくない気もする。うーん。どうしてアリアドスなんだ。蜘蛛が苦手なんだよな、俺。いや、蜘蛛に限らず虫全般苦手だけど。てんとうむしでもパニックになるからね。うん。黒い彗星とか出た日には夜眠らんないしね。
「……なっさけねぇ」
 自分で自分を罵倒して、寝転がった体を起こした。丁度、時刻は昼。昼。天気のいい昼……。
 外をじっと眺めて、俺は違和感に気づく。何かが違う。あるはずの、何かがない。外か?中か?――ベランダか!
「……」
 いない。ジュペッタが、さっきまでベランダでひなたぼっこしてたはずのジュペッタが、いない。

 ――おい!




 数分後。


「すわあぁぁぁぁあ!!!すみませんごめんなさい申し訳ないっす本当に面目ないごめんなさいごめんなさい!本気ですみません!ほら、お前も、お前も謝れよ!こいつもこう言ってるんで!本当、本気ですみません!」
 あ、ありのままに今起こったことを話すぜ!ジュペッタを探しに外に出て行ったら、数分後、二人で地面に額をつけて謝っていたんだ……。
「ぬ、ぬいぐるみ!俺がちゃんと弁償しますんで!本当、すみません!」
 俺の目の前にはただコンクリートの地面。額に冷たいコンクリートの感触。うぅ、顔上げることなんかできないよ。あれほど、ぬいぐるみには当たるなと言っていたのにこの困ったやつが、ぬいぐるみをサンドバッグ代わりに……なぁあーっ!
「捨てるつもりだったから、別にいいんですよ。本当に!」
 うぅ……そんなこと、そんな優しいこと言わないでください。もっと顔が上げられなくなります。
「でも、このぬいぐるみの足、濡れてるし、フローラルないい香りするし、洗濯してたんですよね!そんな、ぬいぐるみを洗濯なんてめったにやることじゃないじゃないすか!やっぱ、大事なぬいぐるみなんですよね……」
 断言する。きっと下が土だったら俺の顔ほぼ埋まってた。地面に額つけすぎて若干、ひりひりしてきた。
「……」
「……あの……。わっ!」
 俺は勢いよく体を起こして、一歩前へ出た。
「ぬいぐるみ、絶対俺弁償しますんで!いや、弁償します!本当に!」
 そこで、ふと気づいた。目の前の、困ったように笑う女の人。この人、この前カゲボウズと一緒にいた――あの雨の日の人だ。


「そんなに凹むなよお前……」
 帰り道。あの女の人から借りたぬいぐるみの残片を持ってゆっくり歩いていた。事件の犯人というか、トラブルメーカーはなぜかがっつり凹んでいた。うつむいて、肩を落として、ぺた……ぺた……。反省なのか後悔なのか。あまりに凹みすぎてて怒る気も失せてしまった。
「ジュペッタ」
「……」
「お前、おでこに砂が……、ん?」
 先ほどの土下座のせいで、おでこに砂がついているかと思ったら、どうやら違うらしい。よく、触ってみる。ざらざらとした感触に、ちょこっと擦り切れたジーパンのような感触。
「お前もでこ押しつけてたのな……」
 俺は大きくため息をついて、でも、少し笑ってしまった。やっぱり、似たもの同士かねぇ、俺らは。
「元気出せよ、な?ぬいぐるみは俺が何とかするからさ」
 ジュペッタは相変わらずうつむいたままだ。気づけばどこからかやってきた数匹のカゲボウズがふよふよと飛んでいた。
 ……よし。
「いいとこ、連れてってやるよ」
 ジュペッタが顔を上げた。

 自動ドアが開くと同時に、一気に冷気が身体の熱を奪う。やっぱり、クーラーはいいよなぁ。
 目の前のカウンターにはシンプルな装飾のされた店の看板(ミニ)が置かれている。『ポケモントリミングセンター』と書かれていた。
 カウンターにスタッフはいなかった。用意されていた、小さなベルを鳴らす。ちりんちりん。
 店の奥から聞こえてくる唸り声と悲鳴。怯えたのか、ジュペッタは強く俺の脚にしがみついていた。大丈夫、大丈夫だって。と声を出さずに言うと、やっぱり恨めしげに俺を眺めた。痛っ。パンチされた。
「すみませんー!今、ちょっとケンタロスのシャンプーをしてまして……あれ?」
「あ」
 エプロンをつけた泡塗れの従業員さん。この人、向かい側のアパートでよくカゲボウズを洗濯している人だ。
「ここで働いてたんですか」
「いや、最近からですよー」
 よく見ると、窓ガラスの外側にカゲボウズが何匹かぶら下がっていた。あれはジュペッタの感情に集まった奴らじゃない。いつも、この人と一緒にいるカゲボウズ……だと思う。いや、見分けの区別なんてできないけど、一匹だけ小さいのがいたからそう思っただけである。
 カゲボウズたちはこっそりと店内を覗いていた。それは、働き始めた息子をこっそり見守る母親のような――。 
「……愛されてますねぇ」
「愛されてるんですよ……いやいや、洗濯順番待ってるだけだと思いますよ。お前たちはまだ!」
 カゲボウズはふっと消えた。
「で、今日のご用件は?当店ではカットにシャンプー、リンスにコンディショナー、マニキュアから毛染めまで様々やっておりますが……」
「あの、一番スタンダードなのって何ですか」
「カット、シャンプー、リンスに爪や葉切りのコースですかね。お値段もお安くなっておりますし……」
 ……。
 カットはいらないな。毛、生えてないしぬいぐるみだし。シャンプーリンスって感じでもないな。毛は生えてないし。爪切りって言ってもシャドークローは厳密には爪じゃないし。
 あれ、俺何しにきたんだ?何を期待してここにきたんだっけ?
 ジュペッタを洗ってもらおうと思ってきたけれど、それってトリミングセンターじゃなくて、クリーニング屋か。だけど、大きなドラムでぐるんぐるんまわされるのもなんだか可哀そうだし、俺も嫌だ。きれいにしてもらおうと思ってきたけど、やっぱり俺に洗われるしかないのかね、ジュペッタは。
 すみません、何もできませんでした、そういえば……と笑って言ってここは帰ろうと言い出そうとしたとき、少しうつむいて考え込んでいた従業員さんがくっと顔を上げた。
「……よくよく考えればジュペッタにカットもリンスもいらないですよね」
「そうですよね……すみません。俺、帰りま」
「よし!」
 従業員さんは俺の言葉を遮り、自信たっぷりな表情で俺を見た。
「それなら俺に任せてください!こう見えても、カゲボウズを洗濯し慣れてますから!」
 そりゃ、頼もしいな。そうか、カゲボウズ、か。カゲボウズを洗濯し慣れてる人ならば、ジュペッタのこともよく分かってくれているだろう。布のポケモン。お洗濯。うん。
「よろしくお願いします」
 よかったなぁ、ジュペッタ。
 窓の外ではいつのまにか戻ってきていたカゲボウズたちが、嬉しそうな表情で風に揺れていた。

 夏の夕暮れ。ひぐらしがときどき、鳴く。
「よかったなぁ、お前。以前と比べ物にならないくらいきれいになったぞ」
 俺は手芸道具を片手に、ジュペッタと手をつないで歩いていた。ジュペッタもすっかり元気をとりもどしたらしく、楽しそうだ。
 あれから、俺はパソコンでぬいぐるみの情報を探したが、どうやら普通の市販品ではないらしく、もう新しいものは手に入りそうになかった。それなら、なんとかきれいに縫い直そうと思った。俺は裁縫とか正直やったことないし、うまく出来るかもわからない。ちゃんと直して行ったって「いらない」と言われてしまうかもしれない。でも、やる他ないのだ。新しい針、新しい糸、オレンジ色のふわふわした布――。いつか、ジュペッタも縫わなきゃいけなくなるのかもしれないし。こいつだって、一応布だし、綿だし。まぁ、その練習も兼ねてやってみる価値はある。
 ジュペッタの手はいつもにまして、するするしている。ふわふわしている。いいにおいもする。口元のジッパーもぴかぴか。体の色も若干落ちた気がする。あれ、それはいいことなの……か?いや、やっぱり、プロがやると違うんだなぁ。
『また来る機会があったら、また俺洗います。いや、洗わせてください!17番って言ってくださったら、俺休みの日でも出ますんで!』
 あの人の姿を思い出して、自然と笑いがこぼれた。泡まみれで、頭までびしょぬれ。でも――
「楽しそうだった、な」
 ジュペッタも笑って、大きく頷いた。
 
 ヤミカラスが鳴いている。
 帰ったら俺もお風呂に入ろう。自分の身体をきれいにきれいに洗濯しよう。洗濯して、ご飯を食べて、徹夜してでもぬいぐるみを直そう。一分でも一秒でも早くぬいぐるみを直して、あの人の所に持っていこう。
 最初は、あんなに重くてげっそりとした気持ちだったのに、今は何だか、清々しいような、まぁ、決して悪くはない気分。むしろ、いい気分かもしれない。


 橙に染まる夕暮れの空。がっかりしたように俺らから離れていく、カゲボウズの影が見えた。







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