食糧が底を尽きた。

冷蔵庫を開け、その事実に気がついた私は愕然とした。
そういえばここ数日はコンビニ弁当ばかり。しばらく自炊してなかった。

でも今から食材買い出しに行って、それから作るのも面倒くさい。
何より、調理が終わるまで私自身がもつかどうか……。せっかくの休みなのに……。

そこから外食しに出かけるという決断に達するのは、早かった。


とはいえ、いったいどこへ行こうか。
また「マクドオーバ」行くのも味気ないしなぁ……。
そういえば外食は会社の近くばかりで、あんまりこの辺で食べたことなかったかも。

あてもなくふらふら歩く私の目にとまったのは「定食屋」と書かれたのれんだった。
外観は普通の戸建て。いかにも個人がこじんまりとやっている感じだ。


気がつくと私は、そののれんの文字に引き寄せられるように、店の中に入っていた。
よほど空腹だったに違いない。というか空腹だ。

「いらっしゃいませー」
すぐに人の良さそうなおばさんに迎え入れられた。


内装も、いかにも個人の家といった感じだ。
カウンター席しかなくて、すごく狭い店内だけど、なんだか懐かしい空気が流れていて安心する。
我ながらいい店見つけたなぁ、とちょっと嬉しくなった。


メニューを見る。

「…………安っ!」

思わずその値段に声が出てしままった。
そのあとで、この近辺が学生街だったことをぼんやりと思いだす。
会社まで通いやすくて安いとこ……って理由であの部屋借りたけど、そっかそりゃ家賃も安いよなぁ。
そういえば確かに家のすぐそばに、いかにも貧乏学生が住みそうな古いアパートもあるし。


ワンコインでもお釣りがくる値段がずらりと並ぶメニューを一通り見る。

その端に書いてある「夏季限定 冷やし中華」という文字が飛び込んでくる。
普通の女性の例にもれず、私も「限定」という言葉に弱い。

「すみませーん。冷やし中華一つ!」
「プラス50円で大盛りにできるけどどうします?」
にこやかに訊いてきたおばさんに、大丈夫ですとにこやかに応じ返す。
お腹は減ってるけど、流石に大盛りにするほどではない。基本大食らいじゃないし。

「トッピングはどうしますか?」
渡されたメニューに目を通す。

『とっぴんぐめにゅう

 紅しょうが 五円
 わかめ 五円
 ……

や、安い。
こちらも破格の安さだ。
その安さに、気がついたら叫んでいた。

「すみません!全部盛で!」
「冷やし中華中盛、全部盛ー!」

……まあ、全部盛にしても、この値段なら財布も痛くないだろう。
おばさんの声を合図に、厨房では、いかにもこだわりの料理人といった感じの瞳をしたおじさんが、冷やし中華を作り始めた。
特にすることもないので、私は厨房で冷やし中華が作られていく様をぼんやり眺めていた。

鍋から引き揚げられたつやつやの麺が、次の瞬間には流水と氷で冷やされていく。
そして、水が切られた麺はガラスの器に盛りつけられる。
さらに、その上にカニカマ、ハム、キュウリ、トマト。見事な手際で盛られていく。
紅しょうが、わかめ、錦糸玉子、枝豆、鳥ささみ。超豪華。
さらには目玉焼き。ん?
不思議に思った瞬間、タレがかけられ、冷やし中華は完成した、……わけではなかった。


次の瞬間、おじさんはそばに置いてあったカゴから、黒い布を一匹取りだし、完成した冷やし中華の上に載せた。

「はい、お待ち遠。」
その冷やし中華をおばさんが満面の笑みで運んでくる。

冷やし中華の上には、カゲボウズが一匹、ちょこんと鎮座していた。

「…………?」

怪訝そうにカゲボウズを見る私に、おばさんが
「あら?全部盛っていうからてっきりカゲボウズもかと思ったけどいらなかった?ごめんなさいねー。」
と慌ててやってくる。

「……カゲボウズですか?」
「そう。うちの看板息子。嫌なことがあった時でもこの子がいると箸が進むって評判なんですよー。」

そうなんですかー。あ、せっかくなんで憑けといたままにしといてください、とおばさんに言った後、いよいよ待望の冷やし中華に取り掛かる。

…………。
カゲボウズがじっとこちらを見つめている。
ちょっと食べづらいなぁ。
そう思いながらも、カゲボウズの下から麺を引っ張り出し、食べる。ううむ絶品。


カゲボウズかー。
麺の上に座って相変わらずじっとこちらを見る瞳を見ながら、ぼんやり思い返す。
そういえば、思い出したくないあの夜も、何故だかうちにカゲボウズが来てたっけ。
この辺、カゲボウズが多いのかしら。

ぼんやりあの人のことを思い出す。
あの日からしばらく経って、やはりあの人のデート現場を目撃したのだろう。
友達からメールが来て、半ば強引に飲みにつれだされた。

「アタシもあれだけアイツは辞めとけって言ったけど、まさかアンタの恋があんな形で終わるとわねー。」
あの娘の言葉が思いだされる。
「ま、結果的にアンタがアイツに引っ掛かんなくてよかったんじゃないの。」
その言葉に私、悔しくってムキになって反論したっけ。余計切なくなったけど。

「とっとと忘れな。新しい良い恋するんだよ。」
最後の言葉がこだまする。
私こんなにつらいのに、何もわかってくれないって、どんどん腹が立ってきたっけ。
あの時の感情がよみがえってくる。


カゲボウズが、目の前をひょいと横切った。
どことなく嬉しそうな表情だ。それになんだか気持よさそう。

その瞬間ふと、気持ちが軽く、そして落ち着いてきた気がした。

確かに。
あの時は苛立って一方的に出て行っちゃったけど、今冷静になって思う。
あの子の言うことも一理ある。新しい恋した方がいいんだろうな。

後でメールしよ。「ごめん」ってことと「ちゃんと忘れる」ってこと。


気持ちがどんどん軽くなって、確かに冷やし中華の箸も進んだ。
カゲボウズは相変わらず、こちらをじいっと見つめていた。

いつの間にやら、豪華な冷やし中華は皿から姿を消していた。


「ごちそうさまでしたー。」

お腹は満たされ、そして心はすっきりして、私は店を出た。
これが看板息子の力かー。確かに食事前より気持ちいい。
また来よっかな、とどこまでもまっすぐな三色の大きな瞳を思いだしながら家路に就く。

さっき思い出したアパートの前を通り過ぎる。
ふと見てみると、私の記憶の中の物より、さらに年季が入っているように見える。
洗濯ひもには、黒い布……カゲボウズが気持ち良さそうに風に揺られていた。
やっぱりこの辺カゲボウズ多いのかしら。


そして住みなれた我が家の前に来た時。


「……あ。」

そこにいたのはこの間のジュペッタと、つぎはぎだらけのヒメちゃんを手に持った、その相棒さんだった。


おわり






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