トーホク地方は寒いものである。
 そんなことをナギサシティ出身のわたしが言おうものなら何を言っているのかと思われるのだろうが、シンオウの寒さとトーホクの寒さは質が違う。
 外に出れば寒く中にこもっていればなんとかなるのがシンオウの寒さだが、トーホクの寒さはむしろ家にいると凍みるものだ。外に出て陽光を浴びている方が暖かいなんてインドア派の代表例のようなわたしへの挑戦にも等しい。
 春に越してきた時はこの寒さに甚だ驚いたものだ。念願の南下だと思っていたらむしろ北にいるより酷かったのだから。
 ……そんなことを、周りにいるトーホクの友人に言っていたら絶縁されかけた。
 何故だろうか。わたしが「シンオウは寒すぎて人の住むようなところではない」などと言われてもそこまではしないと思うのだが。
 まあいい。今現在のわたしに必要なのは友人ではなくコートである。家の中でコートを着込むなんてシンオウではあり得ない話なのだが、トーホクでは必要になるのだ。何しろ壁がやたらに薄い。
 しかしこれで断熱材でも仕込まれていようものならわたしは7月で既に溶けて消えている。初めて経験した猛暑日というものは、できればもう二度と経験したくなかった。夏休みいっぱいを帰省に当てていたのは、単に運転免許のためだけではない。
 そんなことを思い出してもまったく室温は上がらない。ひとまず今はコートが先決である。
 八畳間備え付けの箪笥を開けば、クリーニングから受け取ってそのままのコートが――

 ……おや。
 わたしはこの箪笥に、こんなにたくさん服を詰め込んでいただろうか?
 黒が多いのは分かる。入れていたはずの、今探しているコートも、入学式以来しまいこみっぱなしのスーツも、ついでにそれっきり使っていないベルトもすべて黒だったはずだからだ。
 それにしても量がおかしい。わたしがこの箪笥に入れていたのはその三つだけのはずだ。しかし今開いてみれば、頭の方だけ白っぽいてるてる坊主が何十と……
 いや、ちょっと待て。
 そもそもてるてる坊主が何故箪笥の中に吊るしてある?
 そんなことを考えていた間に「てるてる坊主」の一つが、黄と藍と水色、三色からなる目をじろりとわたしに向けた。
 ……思いは確信に変わった。カゲボウズだ。




 それからわたしは、カゲボウズたちを箪笥の天井からむしっては投げむしっては投げ、やっとの思いでコートを引っ張り出すことになった。
 コートを着込んで一心地、と思ったが別の意味で寒気がする。床に転がされたカゲボウズたちが「うらみ」のこもった目線をこちらに何十と投げつけてきているからである。これを受けてPPだけの減少で済んでいるポケモンたちは実に強靭な精神をしているのがよく分かる。小心者のわたしはこれだけでHPまで0になりそうだ。
 こういう場合はどうしたらいいのだろう。わたしに除霊のできるような知り合いはいないし、この辺りの神社やお寺はそもそもどこにあるのかわからない。
 この下宿の大家さんなら一喝でカゲボウズなんて追い出してくれそうなものだが、それはそれで更に恨まれそうである。
 ここは除霊とかによる強制退去ではなく平和的撤退を願うのが筋であろう。しかしそのためには何をすればいいのかさっぱりわからない。カゲボウズの好きそうな呪いグッズなんて当てはないし、食べるのかわからないが木の実もうちにはない。下宿の先輩でも頼ればいいのかも知れないが、何せこの数である。足りるかどうか心配だ。
 あれこれと思案しながらカゲボウズたちを眺めているうち、彼らがみんなホコリで汚れていることに気が付いた。
 わたしはあの箪笥を数ヵ月は開いていなかったのである。いつ彼らがうちの箪笥に居座り始めたのかはわからないが、月単位であそこにいたなら汚れて当然だろう。
 目についた一匹のカゲボウズに声をかけてみた。言葉が通じることを祈って。

「……君たち、えっと……すごく、汚れてるよね?」

 そこまで言うと、カゲボウズは頷いてくれた。わかってくれたらしい。
 その際に頭の上のホコリが舞ったのか、小さくくしゃみをする。……あ、ちょっと可愛いかもしれない。
 いかんいかん、わたしは彼らに退去してほしいのだから。

「……じゃあちょっと、お風呂……入らない?きれいにしてあげるから、それからよそに移ってもらえたら……」

 そこまで言ったところで、カゲボウズはわたしから離れていく。やっぱりダメか、なんて思ったのも束の間だった。カゲボウズは仲間たちと、まるで会議でもするように話し込み始めたのだ。
 わたしに彼らの言葉は理解できないが、布が擦れるような微かな音は確かに彼らの言葉であるようだった。
 急に声を荒げるようにしたものに、そっと寄り添って宥めるもの。それを尻目に、全体に向けて話をするもの。反論を始めた複数のものに順番をつけて、場を取り仕切るもの。
 まるきり人間顔負けの議会である。カゲボウズがこんなに社会的なポケモンであるとは知らなかった。うちの大学に人獣比較学の教授がいないことが惜しくなってくる。研究してみたい気はするのだが。
 そうこうしているうちに意見がまとまったようで、先程と同じカゲボウズがわたしに近寄ってきて頷いた。
 時計を確認する。いつの間にか日付変更辺りになっていた。今の時間なら、誰かと行き合う可能性は少ないだろう。

「それじゃ行こう、ついてきて」





 深夜族で有名な先輩の部屋はまだ明かりがついていたようだったが、それ以外は特に人の動いている気配はしなかった。カゲボウズたちが静かについてきてくれたのも好都合だった。ゴーストポケモンなのだし、あまり騒ぐ方ではないのかもしれない。
 脱衣場にたどり着くと、まず備え付けの洗面台に栓をする。人肌程度、なるべく本物のお風呂に近い温度のお湯を張ってみた。冷水だと何より洗うわたしが寒い。
 カゲボウズを数匹入れてみれば、狭い洗面台はすぐいっぱいになった。後から後から入りたがる他のカゲボウズを押し留めて、残りは風呂場の方に連れていく。
 何故か二つある洗面器に同じように湯を張ってカゲボウズを放り込む。
 ……足りない。カゲボウズの方が悠々余ってしまった。
 またあの恨みのこもった視線がわたしを刺す。やめてわたしのHPはもうマイナスだ。
 どうしたものかと考えつつ一旦脱衣場の方に戻ると、先程洗面台に入れておいたカゲボウズが角や体のひらひらした部分を使って、器用にお互いを洗いあっている。人間のような手足はないのに、実に手慣れたものだ。
 野生のポケモンであっても、川なんかに入って体を洗ったりするのだろうか?……やっぱり可愛いかもしれない。
 それにしても、これではわたしの手はいらないだろう。きれいになったカゲボウズとまだ洗っていないカゲボウズを入れ替えるくらいしかわたしの仕事はない。
 カゲボウズたちはお湯の中がよほど心地いいらしくなかなか出ようとしないのだ。温泉地のマンキーの如く温泉を占領するカゲボウズの姿が一瞬脳裏に浮かんだが、流石に怖いので想像するのはそこでやめた。
 上がってきたカゲボウズたちをタオルで拭いてやる。元が布っぽい体をしているので絞った方がいいのではとも考えたが、最初の一匹に手をかけた辺りで恨まれそうになったのでやめた。

 そんなこんなですべてのカゲボウズはきれいな真っ黒の体に戻った。こう言うと妙な気もするが、本当にそうなのだから仕方がない。
 部屋の窓を開けると、カゲボウズたちは一匹ずつ外に飛んでいく。濡れたからか少し動きの鈍いものもいれば、軽快にそれを追い越していくものもいる。
 ポケモンと言えどもやはり人間と同じく千差万別であることがよく分かる。
 それにしても無事に出ていってもらって良かった。時計を見ればもう深夜一時を回っている。自覚したところで急に眠くなってきたので、さっさと布団を敷いて寝ることにした。明日は一コマ目から講義だ。憂鬱。




 ……妙に外がうるさい。
 誰かが叩いている。うちを。恐らく窓。声も聞こえる。

「――ちゃん!起きて!起きて!」

 しかもはっきり私の名前まで呼ばれている。こうなれば起きる他ない。
 枕元の目覚まし時計は午前五時過ぎを指している。いつもなら思い切り寝入っている時間なのに。
 寝ぼけ眼をこすってカーテンを開けると、窓の外で慌てた様子の隣人が必死に窓の上方を指している。寒いから窓は開けたくないなあ、などと思いながらその先に目を向けた。

 窓は開けていないのに凍り付きそうになった。
 窓の端から見える黒いひらひらは、まさしく昨日のカゲボウズたちではないか。
 これでは気の弱い隣人がわたしを叩き起こしにかかるのも当然だろう。これは少々恨みを買ってでも、きちんとここから出ていってもらわなければ。
 寝間着の上からコートを羽織って、一気に窓を開ける。今日の寒さは一段と身に凍みるような気がするが負けてはいられない、さっさとこのカゲボウズたちをうちの軒下からひっぺがさなければ――!


 カゲボウズが異様に固い。しかも素手で触りたくないほど冷たい。
 違和感に数瞬固まっていたわたしの耳に、隣人の声がようやく届く。

「起きて自転車取りに来たら、――ちゃんの部屋の外でカゲボウズがみんな凍ってて――」




 その後わたしは、隣人と協力してカゲボウズを軒下から引き剥がしてストーブを最強モードで焚いた部屋の中に入れる作業を涙ながらに行うこととなった。一コマ目は返上で。
 それからカゲボウズたちは暖かなわたしの部屋がずいぶん気にいってしまったらしく、いっこうに出ていく様子がない。
 だから今でもタンスはおちおち開けられない。彼らの安眠を邪魔しようものなら、すぐさまあの「うらみ」のこもった視線が飛んでくるからである。
 今のわたしの希望は、春になって外の方が暖かくなったら彼らは出ていってくれるだろうか、ということだ。






もどる