俺は大学生だ。大学つっても、農大携帯獣獣医学科なんだが。まぁ、それもあって俺は今日からアパート暮らしを始めることになった。しかも運良く発見したアパートは超格安。俺の新しい船出を、神様も祝福してくれてるってことか、うん!

――――――と、数十分前までは俺もそう呑気に思っていた。

「ここが幸薄荘……?」
 俺はその新しい住居を見た途端一瞬で絶句した。正直に感想を言おう。クソボロい。下手すれば、ここ本当に人が住んでいい場所なんだろうか、と疑ってしまうほどだ。念の為パソコンから印刷した地図を見たが、やっぱり間違いなさそうだ。てか、アパートの門の近くに『幸薄荘、新規入居者募集中』と書かれた古い板が打ちつけられているから当たり前か。傍らの相棒・くろろ(種族名で言うならグラエナ)が、不満げな鳴き声を上げる。お前も嫌か。嫌だよな、分かるよその気持ち。だって俺も嫌だし。……だがしょうがない。
「……行くぞ、くろろ」
 そう言った刹那。
 ビシャアア!!
 激しい水音と共に、全身を冷たい水の感触が襲った。身体を見ると全身泥水まみれ。くろろも被害を受けたらしく、全身真っ茶色。なんてこった、くろろが色違いになってしまった。呆然とする俺を尻目に、大型トラックが呑気に走って行った。……入居初日からこの大惨事。さすが幸薄荘、その陰気な名前は伊達じゃない。一瞬走って行って文句を言ってやろうかと思ったが、やめた。もやし男の俺にそんな脚力はない。仕方なく、そのままとぼとぼ歩いて大家さんに挨拶しに行く。初っ端から大家さんに驚かれた。そりゃそうか。
 とりあえず俺の部屋に直行。部屋入ったら着替えるか。くろろも洗ってやんないと。そう思いながら、俺は何気なく部屋のドアを開けた。
 …………真っ黒いテルテル坊主が部屋を埋め尽くしていた。
 ピシャッとドアを閉める。何あれ。前の住民のいやがらせか。いや、でもあのテルテル坊主見覚えが……あ、そうだ、思い出した。カゲボウズだ。なんだポケモンか、なら平気だよな、ということでドアを開ける。今度は青い無数の眼とばっちり視線が合ってしまった。本能的な恐怖で反射的に再び閉める。傍らのくろろが苛々したように吠えた。分かってるって。くそ、こうなりゃ男は度胸だ。思い切ってドアを開けた。
「……あれ?」
 部屋は空っぽだった。少し古びた感じの埃まみれの部屋だけが視界に広がっている。ふと窓を見ると空いている。あそこから入ってきて、再び出てったんだろうか。でも何でカゲボウズが民家に? 腑に落ちないまま着替えて、くろろを連れて外に出る。
 アパート外に水場があるのを発見。運のいいことにたらいも置いてある。俺はたらいに水を張ると、再び部屋に戻って家から持ってきた『携帯獣専用ボディシャンプー・長毛タイプ用』を持ってきた。この際洗ってやれ。戻ると、くろろは既にたらいの中で待機している。こいつはシャンプーが好きなんだ。シャンプーを適量掌に取った時だった。頭にこつんと何かがぶつかった。何気なく顔を上げた俺は、次の瞬間たらいの中に尻もちをついてしまった。くろろが痛そうに悲鳴を上げる。俺達の頭上にはかなりの数のカゲボウズ達が浮遊していた。おそらくさっきのやつらだろう。興味津々の目で見下ろしてくる。唖然としていた俺の尻に、突然痛みが走った。悲鳴を上げて立ち上がると、くろろが牙をむいて唸っている。噛みつかれたらしい。ごめん、お前のこと忘れてた。
 とりあえずシャンプーを開始する。といっても、カゲボウズ達に凝視されながらのシャンプーなので、なんだか落ち着かない。くろろも同じなのか、時折周りを威嚇する。こら動くな、目に泡が入るぞ。カゲボウズ達は自分達も洗ってほしいのか、俺の頭にまとわりついてくるが、こいつらに毛は生えてないからこのシャンプーでは無理だ。だが向こうはそんなこと気にしないのか、平気で金だらいの中に飛び込んでいく。そこでくろろがとうとう堪忍袋の緒が切れたのか、突然1匹のカゲボウズに飛びかかった。寸前で抱きつき止める。唸り声を上げながら歯をむき出すくろろの首にしがみつきながら、俺は慌てて叫んだ。
「く、くろろ待て! ウェイト!」
 俺の指示に渋々くろろは動きを止めた。やれやれ。ゴーストタイプに噛みつくは効果抜群だ。下手したら引っ越し初日から大ごとになるところだった。
 噛みつかれそうになったのが怖かったのか、カゲボウズ達は潮が引くようにくろろの周りからいなくなった。代わりにいっそう俺にまとわりついてくる。真っ黒い体のせいで手元がよく見えない。「ごめん、ちょっとどいてくれ」と声をかけながら、俺はカゲボウズを掻き分けてシャンプーを強行する。
 カゲボウズ達のせいで進行速度が格段に落ちたシャンプーは、午後5時半にようやく終了した。あぁ、しゃがみっ放しで首が痛い、腕が痛い、膝が痛い。ついでに噛みつかれた尻も痛い。ぐったりして部屋へと戻る俺達の後ろを、カゲボウズ達がついてくる。部屋の中にまで入ってきたが、追い返す気力もない。実家から持参した弁当を食べるが、その間もカゲボウズ達は俺達の周りを飛び回っている。くろろはカゲボウズが自分のポケモンフーズの皿に近づくたび、また唸り声を上げている。疲れるから騒ぐなよ。
 あぁ眠い。食器を片づけた俺は、部屋の床に大の字に寝転がった。傍らにくろろがうずくまって眠り始めた。ぼんやりと開けっぱなしの窓を見ると、外は夕焼けだった。橙色の空を背景に、空を漂うカゲボウズの影が不思議なシルエットとなっている。何故かその風景に見とれながら、俺は意識が薄らいでいくのを感じた。顔を覗きこむカゲボウズ達の顔がぼやけてくる。
 ……明日になったら、カゲボウズ達にえさでも買ってきてやろうかな。
 その思いを最後に、俺の意識はブラックアウトした。




おわるのか






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