突然降り注いでいた雨に横殴りの突風が加わって、鍋がこけた。

幸いこけた側には誰もおらず、熱湯で火傷したりする者はいなかったにせよ、大事な携帯食料をつぎ込んだ一品が舞台に立たずして玉砕したことに、彼の口からは思わず、罵り声が飛び出しそうになる。

「・・はぁ・・・」

が、しかし――唐突に脳裏を過ぎった亡き祖母の教えが、喉元まで出掛かっていた悪態を寸での所で押さえ込み、代わりに口からもれ出てきたのは、『よくある事』に対する、何時も通りの溜息だけだ。

『一人でいる時にも、軽々しく汚い言葉を使うものでは無い。  誰も聞いていなくとも、神様はちゃんと聞いていらっしゃるものだ。』――まだ彼が幼い頃、折に触れてぶー垂れる度に、当時まだ在命していた祖母は何時もどこからともなく現れて、彼にそう言い聞かせたものであった。
当時は、周りに人はいない筈だと思ってブツブツ文句を垂れていたのにもかかわらず、いつの間にか耳の不自由な筈の祖母に聞き付けられていた事に、何時も不思議な思いを抱いたものであった。
・・・まぁ今から考えてみれば、単純に老人性難聴の結果、低い声でブツブツと言っていた彼の言葉が、聞き取りやすかっただけの話なのだろうが。

しかしそれでも、今から考えればあの教えも、それなりに尊いものであった。
――現に悪態を吐いている様な状態と言うのは、往々にして興奮する余り、状況を冷静に判断できていないケースが圧倒的に多い。
この様な情勢下では、それは判断力の低下を招き、決断・決定の切れ味を、大いに鈍らせるのだ――
 
  
僅かな間にそう思い起こし、改めて気持ちを切り替えようとした彼ではあったが、しかし現実と言うヤツは、そう可愛い物では無い。
 
新たに生じた突風と言うヤツが、これまた予想外に強く、どんどん強くなる雨足と競合して、鍋を突き転がすに飽き足らず、続いて今の状況下では必須とも言うべき焚き火の火を、吹き消してしまったのである。  ・・・どうやらこの谷間は、ここら一帯の風の通り道になっているらしい。

低体温の患者がいる場面では、暖を取る焚き火はまさに命綱である。
すぐに彼は、救助者の周りで押し合い圧し合いしているポケモン達の中から、再びリーフィアとビーダルとを、薪集めに走らせた。  ・・・『百代の森』で修行を積んだリーフィアのコナムなら、この状況下でも乾いた枝を見つけ出して来るのに、それほど苦労はしないだろう。


と――そうこうしている内に、不意に技を収めて一休みさせていたルカリオのリムイが、崩れた崖の上に向けてハッと視線をめぐらせ、そのままかの方向をじっと睨み始めた。

それを受けて彼自身も、新たに現れた存在が何者であるか確認しようと、いつでも指示が飛ばせる状態で目を凝らす。  ・・・彼のチームの連中は、揃いも揃ってトンズラのスペシャリストだが、仮に現情勢で野生ポケモンの襲撃を受けたなら、救助者の安全確保の為にも、一当てで片付けなければならなかった。

しかし幸い、崩れた崖の上から姿を現せたのは、彼が使いにやったリオルを抱きかかえて崖を降下してくる、一人のトレーナーであった。

まだ若く、自分とそう歳も離れてはいないだろうそのトレーナーは、姿を現すや開口一番、嬉しい内容の言葉を口にする。

「ポケモンレンジャーです! 大丈夫ですか!」

望外の幸運である。
ポケモンレンジャーとはまさに、自然の中でポケモン達と共に生活し、環境の保全や一帯の安全の管理・取締りを任とする、この道の専門家である。
一時は彼も憧れた覚えのあるその職業者であれば、下手な通行人よりは遥かに頼りになるであろう。
相手の言葉に手を上げて応えつつ、青年は肩の荷が大いに軽くなるのを感じて、静かにほっと息を吐いた。

地に足が着くや泥だらけのびしょ濡れで、容赦なく彼の胸に飛び込んでくるリオルを受け止めてやりながら、その功を労って、背中を軽く叩いてやる。
――同時に背後からは、早くも薪を集め終えた二匹の手持ちが、急ぎ足に駆けて来た。

次いで彼は目の前の相手に向けて、救助者である若い人物の容態を、手短に伝えた。
頷く相手はすぐさま、ボールに手も触れずにただの一声で、大きな体格の草ポケモンを、一瞬でその場に呼び出す。

一瞬目を見張るも、レンジャー達が使用している特別仕様のモンスターボールのお陰だと聞いて、なるほどと納得する。  ・・・確かに、険しい場所に分け入る時に最も大切なことは、常に手の自由を確保しておくことだ。


――しかし、一時はこれで落着するかに思えたにもかかわらず、そうは問屋が卸さなかった。

間の悪いことに、丁度救助者をトロピウスの背中に括りつけ終わったところで、更に一段と雨足が強まり、風の勢いも激しさを増し始めたのだ。
  
トロピウスは大柄な体格で、積載重量には比較的余裕のあるポケモンだが、飛行方式自体は、多分に風任せなのである。  ・・・彼らは羽ばたいて飛翔するのではなく、草ポケモンならではの繊細な感覚を上手く用い、風に乗って空を舞うのだ。
よってこれでは、空に飛び出した所で、まともに姿勢をコントロール出来るとはとても思えなかった。  ・・・元よりこの風雨では、ピジョットやカイリュークラスのポケモンで無いと、まともに飛べるものではなかっただろうが。

一瞬彼は、自らの手持ちで何とか補助出来はしないかと考えたが、それもすぐに諦める。  ・・・現状況では、彼の飛行要員であるチルタリスは、ほぼ戦力外であった。
チルタリスのフィーは、シンオウリーグでも十二分に力を発揮したツワモノであったが、何分今は綿のようなその翼に大量の雨水を吸っており、満足に飛べるような状態ではなかった。
・・・元より、ここに降りた時も降下飛行だったから何とかなった訳であって、こんな大雨の中飛びながら技を繰り出したり、人を乗せて高く上昇することなど、幾らレベルの高い彼女と言えども、無理な相談であった。

ルカリオのリムイとリオルのラックルも、実は空を飛べない訳ではなかったが・・・所詮はコピー技に頼った、一時的な仮の飛行能力。  ・・・正直ネタにはなろうものの、翼も無い彼らが空に浮いた所で、実用性なぞは欠片ほどもありはしない。
後は、電磁浮遊が使えるぐらい。
 
仕方無しに彼らは、トロピウスを離陸させる事を諦めて、救助者を再び岩陰に戻そうと、申し訳無さそうに項垂れるトロピウスを慰めながら、その背中に向けて手を伸ばした。


――しかし、何故こうも急に、雨足や風の勢いが変動するのであろうか・・・?
青年自身も、幼い頃から新奥の厳しい自然環境の中で、野生児さながらに駆け回って来た経験があったが、ここまで急激に天候が変化し続けるような事は、嘗て無かった事である。

疑問に思う彼の脳裏に、この辺りの地方に伝わっていると言うある神々の伝承が、チラリと過ぎる。
『雷神・風神伝説』と呼ばれるその伝承によれば、この地方には昔から、雷雨を司るポケモンと突風を意のままにするポケモンの兄弟が棲んでおり、時折両者が出会う度に、激しい雨風を伴う何とも傍迷惑な兄弟喧嘩が、勃発するのだと言う。
・・・そう言えば、遠くに見えていた雷雲がこちらに近付いてくるに従って、吹きすさぶ風も、どんどん強烈になって行っているような気もする。

・・・まぁしかし、それはあくまで伝説の範疇であった。
少なくとも彼はそう片付けることにしたし、それが余所者である彼の思考の限界でもあった。  



――そう、その時点では。

崖の上に陣取ったレンジャー氏のアブソルが、吉兆か凶兆か、上空の暗雲に向けて、力強く咆えた。





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