崖が崩れはじめる。俺よりも上の方にいたフーディンが、足を取られ、転ぶのが見えた。
「だああぁぁぁっ!」
 渾身の力を振り絞りフーディンの体を受け止める。重いなぁぁぁ!!ちくしょううぅぅ!!この頭でっかちいぃぃ!足を泥に沈ませ、何とか転ばずに耐える。つもりだった。
 かかとがわに草か何かがまきつき、重心が一気に後ろに傾くのを感じた。視界が上へと向いた。空が見えた。
「うぐっ!」
 そのときだった。背中が弓なりに反る。人生で一番、背骨が反ったとか思った。その背骨の反った形のまま、俺の体は静止した。きうぅ。小さな声がした。俺の背中を後ろからぎゅうぎゅう押しているのは、いつの間に出てきていたムウマージだった。サイコキネシスの光が、ゆっくりと俺とフーディンを包み込む。指の先、足の先までが紫の光に包まれている。
 けれど、いつもより、弱い。普段の彼女ならもっと強い力を出せるはずだが、体力のない今、長くは持たない。
 時間はない。目の前には、フーディンの頭がある。――やるしかない。俺たちがどうなろうとも、これをやるほか、ない。大きく深呼吸をして、唾を飲み込む。フーディンの耳に届くよう、わずかに顔の向きを変え、俺は言った。
 
「フーディン……頼む!」


 ――黄金色に輝く二本のスプーンが、大きく折れ曲がった。


 土砂は崩れない。木も倒れない。その場所で止まってしまっている。否、止められている。時間が止まってしまったかのように、泥も木も動かない。
 突然の状況に戸惑っている彼らに俺は傾いた姿勢のまま叫んだ。フーディンのサイコキネシスの力で、土砂や木々の動きを止めている。
「行ってくれ!はやく、ここから逃げてくれ!」
 俺とムウマージがフーディンを支え続けなければ、あっという間に土砂は流れ出すだろう。だから、俺は逃げられない。
 ――フーディンの力が切れたら?
 考えたくもない。

 トレーナーは苦い顔をしていた。彼の隣で、彼のポケモンであるリオルが一生懸命に彼の手を引っ張っている。彼の拳が、白くなる見えるほどにきつく握り締められていた。彼のポケモン達も、同じ表情をしていた。けれど、すぐに彼らはずぐに身体を翻し、走って行った。 こういうとき、レンジャーはどうしなければならないか。彼はわかっている。レンジャーの鉄則。より多くを助けられる道を選べ。もし、俺が彼だったら、ああいうふうにできただろうか。ぐずぐずして、困らせそうな気がする。もし、そんな機会があったら俺もあの人のように振舞うようにしよう。――あれば、だけど。
 アブソルとリーフィアが道の先導をしている。まぶしい光を放つルカリオの波動弾が藪や木々を吹き飛ばす。
 
 地面が動きはじめる。

「もう少しだ、フーディン!」
 フーディンが苦しそうに唸る。いくら、強い超能力を持ったポケモンだとは言え、これだけ多くの物体を一度に操るのは簡単なことではない。だが――

 まだ近い。この土砂崩れの規模は分からないが、ひどい場合には広範囲にわたる場合もある。彼らを巻き込まぬよう、少しでも時間を稼がなければ。
 俺も全身に力を入れる。超能力はないけれど、やれることをやるしかないのだ。
「ムウマージ、フーディン!力の出し惜しみなぞするなよおぉ!もし、力が切れて土砂に飲み込まれたって必ず死ぬわけじゃないんやぞおぉ!!死ぬかもしれんが、そんなことは考えるな!!」
 体の筋肉が悲鳴を上げているような気がする。いや、サイコキネシスで支えられているはずなのだから、体に負担がかかるはずはないのだ。ムウマージの力が、弱く、なってきている。

 地面が滑る。パラパラと小さな小枝が顔に降りかかってくる。力を入れて無理やりに木の棒を折ったような、軋んだ音が耳に届く。そして、一気に、滑り落ち始めた――。


 もう、無事に逃げ終わったか――?


 泥が視界を覆い隠していく。フーディンにまわした腕に力をこめ、背中側に手をまわしてムウマージを抱き寄せる。体が浮いた。自分を支えるものは、もう一つもない。あとは、落下をしていくのみ――。

 あ――。

 一瞬ではあったが、何か輝くものが見えたのだ。それは光を纏った猫のような形をした、何か。未確認生物カーバンクルのような、額の赤が光っていた。そして、その後ろから古代の翼竜が流れ落ちる土砂をその身体に受け、勢いを止めた。そこまでしか、見えなかった。直後、体の右側に強い痛みを感じ、頭を打った。激しい頭痛が徐々に消えていくよう。そこで、意識が切れた。 


――――


 痛い。身体中が痛い。
「ん……?」
 痛い?
「痛いということは……つまり、俺は生きている!」
 腕の中のムウマージとフーディンが嬉しそうに微かに鳴く声が聞こえた。俺は二匹をぎゅっと抱きしめた。温かい。動いている。息をしている。俺達は、まだ、生きている。何だか目頭が熱くなって、頬に温かいものが零れた。嗚咽が、漏れる。死を覚悟はしているけれど、死ななくて良かった。本当に良かった。
 けれど、そう。まだ、仕事は終わっていない。喜ぶのは帰ってからにしないといけない。両手で、顔をこすり、涙を拭きとった。二、三度叩いて、気持ちを入れ替えてようやく体を起こした。体の上に降り積もった土や落ち葉が落ちる。全身、泥だらけ。腰のモンスターボールを確認する。きちんと三つある。そのうちの一つがぐらぐら揺れている。が出せない。こいつはあまりにも血の気が多すぎて、トラブルをよく起こしがち、すなわちトラブルメーカーである。だから、自分で出てこられないようなモンスターボールに入れてあった。まぁ、今でてきたいという気持ちは分からなくもないが、お前は駄目だ。
 ムウマージは抱きしめていたおかげでそこまで負傷はしなかったようだ。フーディンのほうは若干、傷が目立つが……まぁ、だいじょうぶだ。こいつなら。俺の身体も痛みはするが、骨折したり、大量出血はしていない。不幸中の幸い、か。
「フーディン、ムウマージ。緊急事態のアレ、頼む」
 合点承知之助だい!とばかりに、フーディンがスプーンを前にかざす。あれだけ、崖を転がり落ちたと言うのに、こいつはスプーンを手放さなかったのだ。見上げた根性である。ある意味。フーディンがじこさいせいをし、それにムウマージがぴったりとくっついていたみわけをする。そうすれば、ある程度までは体力を回復できる。

 俺はぼんやりと崖へと目を向けた。まだ、頭がぼうっとして記憶が曖昧だ。一つ、一つ、何が起きたかを思い出していく。
 そうだ、輝く猫のようなポケモン。あれはエーフィだ。恐らく、がけ崩れの被害を緩和してくれたのだろう。きっと、フーディンの力だけじゃ、俺たちは今生きていなかったと思う。土砂に埋もれて、死んでいたか、もしくはあの少年のようになっていたと思う。命の恩人、いや恩ポケモン。誰の、ポケモンだったのだろうか。

 ムウマージが俺の体にぴったりと張り付く。いたみわけ。
「ん……あと、あれ。なんだっけ。エーフィだけじゃなくて、えーっと……」

「――休んでおけ、ロー」
 古代の翼竜――アーケオロスが赤い光となって消えた。泥まみれの俺を一瞥もせず、前をすたすた歩いていったのは赤い女性だった。その女性の顔は一瞬しか、見えなかったが、どこか、危うさを感じた。その人が凶悪とか、怖いとかそんなんじゃない。冷淡な顔に、鋭い眼光、低い声。だが、その奥に重いものを秘めているような気がした。あふれ出してしまいそうなほど、重いものを必死に秘めているような、そんな危うさ――だった。

「大丈夫か!」
 レンジャー達が走ってくる。怪我はなさそうだ。少年も、無事なようである。
「大丈夫です!重傷ありません!」
 何とか立ち上がる。うん。フーディンとムウマージのおかげで、大分痛みが引いた。
「あの人は……?」
 青年のレンジャーが顔をしかめて、彼女を見る。
「あぁ、なんか助けてくれたみたい、です」

「あ……あなたは?」
 赤い彼女が振り向いた。風が巻き起こり、雷が近くに落ちた。木の葉が舞い上がり、彼女の赤い髪も舞う。
 そんな中、彼女は一切動かずに、ただ平然と直立していた――。





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