声が飛び交っている。その声が悲鳴でも怒声でもなく、喜びの声であり笑い声であることを俺はとても嬉しく思う。
「あ……」
 鼻をすする。目の前の景色がぐにゃりと歪む。慌てて俺は真上を向いた。眩しい光が目を射る。太陽の光がこんなにもありがたいものだとは思わなかった。眩しさに幾度か瞬きをすると頬の上を水滴が転がる感覚がした。くそっ。涙腺が弱いってのは……不便なものだな!
「あの……」
 小さな声と共に右腕の袖を掴まれ、ごしごしと目を拭い振り向くとそこに立っていたのは、木の実を分け与えてくれた少女だった。先ほどまではぱんぱんに膨れ上がっていた背中のリュックは、すっかり中身がなくなり小さくなっていた。もう、木の実は十分に行き渡ったのだろう。身の丈に不釣合いな鞄を背負っていたから重くないかと心配していたが、ほっとした。
「手当てしますよ」
「ん……手当て?」
 手当て? はて、どこだったか。と考え込む。そのとき、少女が顔を自分の顔のほうに近づけてきたので驚いた。少女は目を閉じたまま、幾度か息を吸った。さらに驚いて、女性に対して極端に免疫の無い俺の身体はそこで硬直した。視線だけを彷徨わすと、少し離れた場所でムウマージとフーディンがあきれたようなじと目で俺を見ていた。違うんだぞ、お前ら……これは、アレだよ! アレ!
 少女が一歩下がり、ふわりと長い髪が軽やかに踊る。「ちょっと、座ってくださいね」いわれるがままに座り込むと、彼女がリュックを背中から下ろし中をあさる。少しして、中から出てきたのは、包帯や消毒液。
「強い、まだ新しい血の匂いがしていたものですから……きっと、目の上らへんですよ、ね?」
「あ、あぁ」
 少女の手がそっと額に触れる。そういえば目の上切ってたっけかとかと思い出すと同時に、彼女が盲目であったことを思い出した。あぁ、だから匂いか。そう、匂い。
 ――お前ら! 匂いだぞ! 匂い! 匂いだからだぞ! 何も、やましいことなんて考えてないぞ! 近くて、どきどきしたとかないからな!
 目で離れた場所から俺を見ているムウマージとフーディンに訴える。もとから細められていたムウマージの目がさらに細くなる。おい!
「いていて」
「すみません、消毒液染みますよね……。ちょっとだけた」
「いや、違うんです……あ、いや、大丈夫です!」
 傷跡に消毒液が染みる。でも、それ以上に痛い。奴らの視線が痛い!
 ぷいっ。ムウマージは顔を背け、ふよふよとどこかに行ってしまった。えっ、どうする? みたいな顔でフーディンがムウマージと俺とを何度か交互に見比べ、彼女の後にのそのそついていった。何か言って挽回しろよお前! 上空を旋回するドンカラスが、何やらギャーギャー喚いている。どいつもこいつも……。俺はがっくりと肩を落とした。
 
「あの子は、何か悪さをしませんでしたか?」
 俺は何を言うものか分からずただ固まっていると、少女はやわらかな声で言った。額に器用に包帯が巻きつけられてゆく。彼女の指の腹が俺の肌に触れるたびに身体はいちいち硬直する。やきもち妬きなムウマージのせいだ。ここまで、女性慣れしてないのは。自分に言い聞かせるように、頭の中で繰りかえす。
「あの子?」
「あ、リザードンのことです。暴れん坊の」
 あぁ。あの、リザードン。この子のポケモン……だったのか。
「いやー、助けられましたよ。あいつがいなきゃ、俺たちゃ今頃全身血まみれだったかもしれないですよ」
 風神の暴風が吹き荒れた時、俺のポケモンたちももう一人のレンジャーのポケモン達も相当なダメージを負った。あの状態から、風神を倒すのは恐らく無理だっただろう。彼女のリザードンが現れ、猛烈なたいあたりをかましてくれたおかげで、風神を倒すことが出来たのである。
「よかった……。本当によかっ」
 彼女の言葉を遮る大きな音。その方向へ視線を向けると炎の線が空へと一直線に伸びている。耳を澄ませば、リザードンの吼える声も。
「もうっ!あの子ったら!」
 俺はつい笑ってしまった。はっと息をのんだ色白な彼女の顔が下の方から真っ赤に染まってゆく。恥ずかしさからか、彼女は指をてきぱきと動かし、少しきつめに包帯の端と端とを結びつけた。その結び目を自分でも少し整えると、俺は立ちあがった。体の節々が悲鳴を上げている。特に腰。最近、歳を感じるようになった。そんなに歳はとっていないはずなんだが。
 少女がもう一つの包帯を出したところで俺はそれを遮るために、少女の美しい赤の頭に手を置いて撫でる。「あ、あの?」困惑したように少女は俺を見上げる。俺は頭だけを下げ、礼を述べる。そして、最後に一言。
「次お会いしたときには、一戦願いたい」
 正直、見てみたい。彼女が成長して、あのリザードンとエーフィとどのような関係を築けているのか。彼女と彼らの間にある絆の太さはどう変わっているのか。――俺みたいな端くれをとっくに凌駕して、はるか上にいるんじゃなかろうか。それは、彼女がポケモントレーナーとして修行をしても、しなくても変わらない――そう。修行したって手に入らないようなものをすでに彼女は手に入れているような気がしたから。
「――じゃあ」
 彼女の頭から手を離し、背を向けて歩き出す。奴らの始末を話しあうため、彼らが待っている。彼女もまた、後からやってくるだろう。指笛を吹く。高い音が響き、肩にドンカラスが舞い降りてくる。先でムウマージが不機嫌なまま、フーディンがにやにやしたまま、俺を待っている。彼らのもとまで走り、フーディンの頭に一発拳骨を落とし、俺は振り返った。エーフィとリザードンを従え、また手当てに向かう彼女の後ろ姿があった。

―――――――――
  
 さて。
 あの、やんややらかしてくれたあいつらをどうしようかという話し合いである。
「ゲットする、……というのはどうでしょう? 皆さん程のレベルなら、彼らも認めると思うんですが」
 一人が言う。うん。名案。ただ、やっぱり、それは――。
「私は遠慮するよ」
 俺が言葉を発する前に、彼女は毅然と言い放った。彼女に向けた俺の言葉は行き場を失う。えーっと、
「そういえば、体の具合、大丈夫なんですか?」
 ……我ながら何たる付け足し。警官らしいその女性は、思いのほかすまなそうな顔をして「そちらこそ、怪我は? 私が未熟なせいで、迷惑をかけた」なんて言うので、俺はまた言葉に詰まってしまい
「いやあ、元気、元気。ピンピンしてますよ!」
 ガッツポーズをしてみせる。ドンカラスがギャーギャー鳴いたが、俺を馬鹿にしてるのは丸見えだった。ちくしょう。
 ふうとため息をついた彼女の横顔に、以前の張り詰めた空気のようなものはすっかり消えていた。そういえば、彼女はなぜここに現れたんだか聞いていなかったなぁなんて思うけれど、少しだけ笑みを浮かべゾロアークを撫でる彼女を見て、どうでもよくなった。何であれ、マイナスでなければいいのだ。ものってのは。

 青年が現れたのはそれから少し経ってからであった。彼は到着するなり、頭を下げた。そして、謝罪の言葉を口に――する前に俺はそれを遮った。謝罪の言葉なんていいんだ。むしろ、こっちから言わせて欲しいくらいだ。
「これからどうするんですか」
 アブソルを連れたレンジャーが彼に問う。彼も俺もこの後は通常任務に戻るだけ。無線なんて便利なものが発達すると、報告しに戻ります! なんてのが極力少なくなるのが、便利なゆえに不便なところである。
「取りあえずは、一番近いジムにでも、足を運んでみます。……実は当初は、そんな気なんか無かったんですけど……気が変わりました。 あなた方みたいなレベルの方達がレンジャーや警察官をやっておられるのでしたら、この地方のジムは相当楽しめそうですから」
 嬉しいことを言ってくれる。その時、ふと、警察である彼女をみると、ふいと顔を背けていた。心なしか顔が少し赤いような――気のせいか。気のせいだよな。
 彼もまた最初に見たときよりも、どこか清々しい表情だった。なにか、憑き物が落ちたかのように、澄み切っている。土砂に覆われる寸前に垣間見た彼の表情にあった不完全燃焼のような感情は、あの雨でどこかへ流れてしまったに違いない。風神と雷神、彼らの残したものはけっしてプラスではないが、完全にマイナスでもない。彼にも、彼女にも、新たな旅立ちと気持ちを与えてくれたのではないだろうか。

―――――――――

「さあ、風神。貴様をどうしてやろうか」
 先ほどの場所に戻ると風神はまだ、そこに蹲っていた。そりゃ、あのリザードンのたいあたりをくらえばダメージは大きいだろう。風神を頼むと言われてしまったのだが、もう一人のレンジャーである彼は無線の呼び出しが入り、次の仕事へ向かってしまった。俺の手の中には、その際彼がこれ、お礼にもならないですけど、すっごいうまいんで!と言って放り投げてくれたトロピウスのバナナのような果物の房がある。
「お前にはさんざんなことをされたからなぁ……こらしめてやろうかねぇ……はっはっは」
 と、悪役らしく高らかに笑……俺は悪役じゃねぇ。そういえば。風神はただ俺を睨みつけている。俺は風神に近づき、息を吸い、覚悟を決め――

 ――果物を二本彼の手元に置いた。

「お前のおかげっちゃなんだけど、俺もう一回バトルをしてみようかななんて思ったわ。それから、お前たちと戦ったおかげで、あの人たちの悩みも吹き飛ばされちゃったみたいだし……感謝するよ。それが一本」
 俺のポケモン達も彼のまわりに集まった。ムウマージが傷ついた彼を癒す。彼は驚いたらしく、わずかに目を見開いた。
「ただーっし、風だの吹かせて暴れられちゃ困る。そこでもう一本。貸し。貸しを作っとくから。だから、お前がまたどこかで暴れたら俺が行くから」
 我ながらきたないやり方だ。相手に無理やり、貸しを作らせるなんて。

「じゃ」
 俺は歩きながら、振り向かずに手を振った。彼が後ろで立ち上がる音がする。もしかしたら、このまま後ろから殺されるかも。なんて思うと背筋が冷えた。だけど、振り返らない。
「また、どこかで会ったら、お手合わせ願んますよ」
 落ち葉にかかとを沈め、歩く。後ろで彼の唸る声がする。

 風が吹いた。強く大きな風の塊のようなものが後ろからぶつかってきて、倒れそうになるところをこらえる。その風は落ち葉や枝を巻き込んで森のどこかへ駆け抜けていった。
 その風の音に混じって、かすかに聞こえた低い音。

『――良かろう――』


「ったく。普通に言えっての!」
 今はもうここにいない風神さんに向かって俺は叫んだ。なぜか笑いがこみ上げてきて、俺は一人で笑い続けた。笑いつかれて、落ち葉の上に横たわる。吹き付ける風は冬のそれ。秋の嵐が過ぎ去れば、冬の冷気がやって来る。季節の変化はめまぐるしいほどにはやく、あっという間に過ぎていく。雪をつかさどるは、誰だ。雪王か、雪女か、鬼氷か、冷鳥か。

 ムウマージとドンカラスをボールになおす。お前ら、じっくり休めるのはまだ先になりそうだ。晴れ渡った空を見上げる。思い切り息を吸い込む。心にあるのは少しの不安と、少しの楽しみ。それらをしっかり携えて、俺はフーディンの持つスプーンを握る。次の仕事はどこにある?
「さあ、行くぞ!」
 冷風の吹きぬける中、フーディンの金色の長い髭が得意げに揺れている――。





もどる