マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1048] 三、忘れえぬ思い 投稿者:サン   投稿日:2012/10/13(Sat) 13:00:22   79clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 新しい日常が始まった。
 目が覚めると、檻の向こうに毎日違う人間が私のボールを持って現れる。いちいち黒ずくめの顔なんて覚えていないが、昨日と別人かどうかの見分けくらいはつく。だからといって、別に何の感情を抱くわけでもないが。
 そのままあの縞馬と戦った闘技場まで連れられて、毎日へとへとになるまで戦わされる。相手は毎回違うポケモン。誰もが沈んだ目をして、自分のボールを持つ人間の指示をただ黙々と聞くだけだ。それに倣って、私も大人しく言うことを聞いて見せた。
 正直なところ毎回指示を出す人間が違うというのは難儀なもので、無茶苦茶な指示を出されたり、全く合わない呼吸を無理に合わせなければならなかったりと気苦労も多い。
 何度も何度も戦って、身体中がすっかりぼろぼろになるころ。私はようやく戦いから解放され、簡単な傷の処置の後、再び鉄格子の中へ戻される。そのときには、もうすでに余力など残っていない。泥のように眠り、起きると、もうそこには別の人間が私のボールを持って立っている。
 毎日、毎日、闘技場と檻の往復だけ。戦って、眠って、起きて、また戦って。うんざりするほど繰り返し、それでもまだまだ終わりは見えない。



『ずいぶんとやつれたように見える』

 暗闇の向こうから声が聞こえてくる。
 この場所に来てから度々例の夢を見る。一寸先も分からぬほどの真っ暗な闇の中、声だけの誰かと話す夢。低く落ち着いたその声は、何かと私の身を案じてくれる。夢を見る度に、私はいろいろなことをその声だけの誰かに話した。この場所での暮らしのこと。野生だった頃のこと。そして、ご主人のこと。何の繋がりも築かれないこの場所で、気づけばこの夢が唯一心の内を吐き出すことができる場になっていた。

『今日も、あまり食べられなくって』

『ひどい顔だ』

 戦いばかりの日常はともかく、あのきつい匂いを放つポケモンフーズだけは未だに馴染めずにいた。それでも何か食べねば衰弱していくのは目に見えている。今のところ水と一緒に無理矢理飲み込んで、何とか飢えをしのぐしかなかった。そんな荒っぽい食べ方のせいか、いつも腹に重苦しい感覚がつきまとうようになってしまったのだが。
 そういう話をしたら、以前は何を食べていたのかと尋ねられた。かつての記憶を手繰り、答える。

『ご主人が、よく、手作りしてくれたんです。木の実とかを使って。仲間たちも皆好きな味が違うから、わざわざ別々に作ってくれたりとか』

 何とも情けない話だが、以前の私にはそれが普通のことだった。その一食のありがたみを実感することもなく、ただ出されたものを平らげるだけ。何と無遠慮だったのだろう。その清々しいまでの図太さが、今となっては憎らしくも羨ましい。

『なかなかに気の回る主人だな』

『ええ、本当に。今思うとびっくりです』

 別に、それほど深い意味を込めて言ったつもりも、意識して表情を作ったわけでもない。なのに。声は、気遣わしげな響きを伴って、私の心の奥底を鋭く突いてきたのだ。

『ユイキリ。きみは、主人の話となると、いつも悲しそうな顔で笑うのだな』

『え……』

 突然の指摘に、私は返す言葉を無くしてしまった。
 鋭い刃先を煌めかせた言葉の矢は真っ直ぐに飛んでいき、隠していたはずの心に小さな穴を開けたのだ。自分でも知らず知らずのうちに布を被せて、見えないように、見ることのないようにと隠していた、深い心の奥底に。
 冷たく凍りついた頭に追い打ちをかけるように、再び声が滑り込む。

『……主人に、会いたくはないのか?』

 ああ。溢れてくる。ヘドロのようにどす黒く、どろどろと惨めで醜い感情が。
 黒い思いはとぐろを巻き、他の色んな思いまでも引きずり絡めてもつれさせ、ぐるぐる、ぐるぐる、と頭の中を駆け巡る。
 大事な大事なご主人を守れなかったのは誰?
 守るべき相手に助けを求めて泣き叫んでいたのは誰?
 そうやって語りかけてくる声は、意地悪な悪魔などではなく、間違いなく私自身のもので。
 どこまでも黒々と渦巻く意識の中、私はかろうじて弱々しい返事を喉の奥から押し出した。

『……分かり、ません』

『分からない、だと?』

 訝しげに声が言う。
 そうだろうな、と思う。初めてこの場所へ来たときの態度から考えると、きっと理解できないだろう。あのときはただ赤ん坊みたいに泣き喚いて、救いの手を差し伸べられるのを待つだけだったのだから。

『こうなってしまったのは、全部、私のせいなんです。私が、弱かったから。なのに……』

 脳裏に蘇る、あの白昼の悪い夢。紫猫の不適な笑み。爛々と光る男の目。そして、本当に何もできなかった、ぼろくずみたいな自分自身。
 守ろうなどとは笑わせる。守られていたのは、ずっと私の方だった。私はご主人の腕の中で、甘い現実に浸りながらのんびり暮らしていたに過ぎなかったのだ。
 止めどなく湧き出る黒々とした思いを断ち切るように、私は頭一つ振ってため息をついた。

『……こんな私が、もし、もう一度会えたとしても……ご主人と一緒にいる資格なんて、あるわけない』

 小さく呟いた本音の声は、風穴の開いた心の奥底へと帰ってゆく。
 真っ黒な気持ち。真っ黒な記憶。真っ黒な行く先。心の蓋をほんの少しでも開ければ、もう自分ではどうすることもできないほどに黒で塗り潰されていて。
 ああ。もういっそのこと。

『全部忘れてしまえれば楽になれるのに、か?』

 驚いて目を上げる。今、心を読まれた?

『ユイキリ。きみは、私に名を教えてくれただろう』

 呆然と闇を見つめる私に、声はいつもと同じ、ゆっくりとした口調で語り続ける。

『とうに答えは出ているだろうが、きみには少し考える時間が要るようだ。
 きみがなぜそこまで自分を責めるのかは分からないが、誰しも最初から強いわけではない。ならばどうするか? それは簡単でいて難しい。我々皆が抱く願いだ』

『……でも、私は……』

 言いかけたところで、何も言葉が見つからない。分からない。本当に。
 私は何がしたいの?
 このままここで暮らしていくの?
 ご主人に会いたいの?
 会ってどうするの?
 ごめんなさいって言えばいいの?
 分からない。ワカラナイ。
 思いは泡のようにふつふつと湧き上がり、浮かんでは弾けて消え、ぶつかり合っては混ざり合い、もはや思考の筋道を成そうとしない。
 口をつぐんで俯く私に、声は、静かに言い放った。

『どうにせよ、機が熟すまであと少し時間がある。それまで、よく考えておくといい』



 また、目が覚めた。一日が始まる。
 黒ずくめが檻の前にやってくる。私をボールに戻して、闘技場へと向かう。
 いつもと同じ。全く同じ。
 ボールの向こう側で後ろに下がっていく廊下の景色をぼんやりと見つめながら、昨夜の夢の記憶を辿ってみる。何を考えればいいのだろう。何の気力も湧かない。代わり映えのしない日常に、自分の意識がどんどん希薄になっていくような気がする。こっちが現実のはずなのに、頭は夢の中の方がはっきりしているのではないだろうか。
 結局大して思考は進まぬまま、広いバトルフィールドでボールのスイッチが押される。
 ああ、また一日中戦わなきゃ。今日の黒ずくめはどんな命令をしてくるだろう。面倒な指示とかされなければいいけれど。そんなことを思いながら、最初の対戦相手と向かい合う。
 その瞬間、杞憂も、何もかもが吹き飛んで、頭が真っ白になった。
 なぜ。なぜ、そんな姿をしているの。
 私の目の前に立つのは、あのときの子犬。泣きじゃくり、何度も何度も繰り返し主人の名を叫んでいた挙句、罵倒され、蹴りつけられ、鉄の口輪をはめられてどこかへ連れて行かれた、あの哀れな獣だ。
 なぜ分かったかといえば、その幼い顔立ちと甲高い声に、微かな面影を感じ取ることができたからだ。実際どうして気づけたのか自分でも不思議である。
 それほどまでに、子犬の姿は変わり果てていた。興奮露わに逆立つ全身の毛は無茶苦茶に踏みにじられた毛糸玉のように汚れ乱れて、鼻に皺を寄せて闘志全開、今にも標的に食いつかんと唸り声を上げるその姿は、もはや子犬と呼ぶには似つかわしくないほど異様な脅威を放っている。この短い期間に何をどうしたら、ここまでの変貌を遂げるというのだろう。
 目と目が合って、久しく感じることのなかった感情が心の底から迸る。
 この場所に連れて来られてから何度も見た、すっかり見慣れたはずの、淀んだ光を浮かべたその瞳。全身剥き出しの敵意の熱が、そこだけは冷たく凍りついていて。
 なんで。どうして。同じ日に、同じ時間に、同じ心を持っていたはずのこの子犬が、こんな荒んだ目をしているのだろう。
 私が戦いに明け暮れていた間に、あなたの身には何があったの?
 喉まで出かかった疑念の声は、すぐさま恐怖にかき消される。
 聞いたところでどうするの。答えなんて、返って来ないに決まってる。それに、知りたくない。きっと知らない方がいい。
 すっかり麻痺したものだと思い込んでいたけれど。心の激情は、ただ単に突貫工事の脆い壁で塞き止められていただけだったんだ。予想だにしない出来事に直面すれば、こんなにも呆気なく壊れてしまうのだから。
 いつしか冷たい目をした子犬の容姿が、自分の姿へと変わっていって。私の前に立つ私は、淀んだ光を浮かべた目で、顔いっぱいにどろどろに歪んだ微笑みを浮かべて、私にこう言った。

『あなたも、こうなるんだよ?』

 怖い。怖いよ。
 ねえ、助けて、ご主人――
 もう私には、そう願う他にどうすることもできなくて。後で自己嫌悪に陥ることを分かっていながら、心の中に浮かべたその面影にすがるのを止められない。
 実際にはほんの数秒の顔見せだったのだろう。あり得ぬ幻は、相手方の黒ずくめが何かを叫んだことで唐突に消えていった。それを合図に子犬が此方に向かって飛びかかる。空中で薄茶色の毛玉は大きく横に裂け、ぎざぎざの白い牙を前面に剥き出した。その様子も、ひどくゆっくりに見えた。
 おそらく私にも何かの指示を飛ばされていただろう。でも、もう何も聞こえない。何も感じない。音も消え、色も果て、世界は私を置き去りに、静かに時を進めていった。



 その後のことは、もうよく分からない。子犬以外の相手とも戦った気がするし、そうじゃない気もする。
 今更だが、きっと私は他のポケモンよりほんの少し演技がうまいだけだったのだろう。黒ずくめたちが怖い。逆らったら、何をされるか分からない。だから器用に心を殺した振りをして、大人しく言うことを聞いているように見せかけて、でも、独りになれば膝を抱えて泣いていた。
 どれだけ意地汚いのだろう。どれだけ浅ましいのだろう。それでも私は生きたかった。“私”として生きていたかった。それなのに、その先を見据えることもせず、望む勇気もなく、ただひたすらに己の生にしがみついて足踏みするだけだった。だから、たったこれだけのことに気づくのに、こんなにも遠回りをすることになってしまったのだ。



 気がつくと、私は檻の中にいた。いつ戻って来たのかも思い出せない。
 場はちょうど食事の時間らしく、同居者たちは例の回転する壁の前に群がって、いつも通り押し合いへし合いの執着ぶりでせっせと頬張っている。
 身体が熱い。喉が痛い。ずっと震えが止まらない。私は泣いていた。鉄格子にもたれかかって膝を抱え、顔を埋めて丸まりながら、声もなく静かに涙を流していた。
 きっと、答えはシンプルだった。それはどこまでも純粋で、透き通った、揺るぎないものだったのに。それなのに、私はそれを否定して、遠ざけ続けた。
 ここへ連れて来られてから今の今まで、たくさんの心の壊れたポケモンたちを見てきた。見慣れてきたとさえ言ってもいいだろう。ここにはそういった生き物しかいないのだから。皆、恐ろしいほど物事に無頓着で、黒ずくめの命令を淡々とこなすだけの機械のような生き物だ。しかし、あくまでも自分は違うと思っていた。自分がそんな薄っぺらな生き物になるなんて、想像すらもしなかった。
 今日、あの子犬が目の前に現れて、ようやく私は己の危うさを知ることになったのだ。目と目が合ったあの一瞬、子犬と私の辿ってきた道の違いを思い知らされた。視線、表情、息づかい。子犬から感じられるものの全てが、言葉よりも何よりも強い説得力を伴い物語っていた。もうあの子は、かつてのポケモンじゃない。心を殺され、過去のことは何もかも忘れ去り、完全にこの場所への仲間入りを果たしたのだ。あれだけ求めていた主人のことも、主人を求めていた、自分のことさえも。
 ああ、どうしてもっと早く気づけなかったのだろう。ちょっと考えれば分かることだろうに、何かと理由をつけて現実から目を背けようとして。馬鹿みたいだ。
 もう、嫌だよ。こんなところにずっといたら、いずれ私も毒されて、私が私じゃなくなってしまう。人も、ポケモンも、みんなが自分の心をズタズタに引き裂いて、それで笑っていられるんだもの。おかしいよ。こんなの、どうしてみんな平気でいられるの。
 分かったつもりではあったけど、その真の恐ろしさが改めて身を食むようだった。
 きっと、今までは運がよかっただけ。適当な演技で黒ずくめたちを出し抜けていただけなんだ。結局そんなものは、ほんの少し寿命を延ばすだけ。私も、いつ心が死んでしまうか分からないんだ。
 そう思ったとたん、今まで感じたことのないくらい酷い寒気に襲われた。
 嫌だ。忘れたくない。ご主人のことを。私に名前をくれて、居場所をくれて、優しさをくれた、大好きな人間のことを。

『……いたい』

 会いたい。会いたい。会いたい。あの人に。ご主人に。
 あの柔らかな笑顔に包まれたい。あの優しい声で私の名前を呼んで欲しい。そして、あの温かな腕に抱かれてぐっすりと眠りたい。
 ずっと押し殺していた彼への思いが、堰を切って溢れたようだった。
 それは忘れ去ろうとしたはずの記憶。願ってはならないと潰したはずの夢。
 温かくて、懐かしくて、悲しくて、切なくて、苦しくて。
 決して負い目が消えたわけではない。だが、もはや戒めの楔では感情を抑えることができないのだ。
 会いたい。思いは、願いは、たったそれだけ。どこまでも純粋で、透き通った、揺るぎない気持ち。
 泣いている場合じゃない。じっとしている暇だってない。行かなきゃ。ご主人に、会いに行くんだ。
 私は乱暴に涙を拭い、顔を上げた。
 脱出の当てがあるわけではない。それでも、あの子犬の変貌した姿を見てしまった今、こうしてここにいることがとてつもなく恐ろしく思えてならなかった。息をする度に吸い込む埃っぽい空気が、つんと鼻をつく食べ物の匂いが、凍てついた氷のような同居者たちの視線が、徐々に私を蝕んで狂わせていくのではないかと、過剰な疑念さえ呼び起される。
 とにかく早く逃げ出さなくちゃ。でも、どうしたらいいだろう。
 辺りを見回して、ふいにあるものが目に留まった。食事の時間になると山盛りのポケモンフーズが壁の向こうから現れる仕組みの回転扉。
 私がいつも口にするのは、皆が食べ終わった後の方だ。一匹、二匹と食事を終えて離れていくのを待ってから、ほとんど空になった窪みに手を突っ込んで数粒だけ頂戴している。覗き込めばそこそこの深さがあって、毎回前のめりにならなければ奥まで手が届かないくらいだ。そう、ちょうど小さなポケモンならば十分に入り込めるほどに。そしてこの回転扉は皆が満足して離れると、勝手に壁の向こうへ動きだし、元の何もない壁へと戻るのだ。
 こんなにもタイミングのいいことがあるのだろうか。まさに今、音を立てて窪みが閉まりつつあるところであった。
 あの先がどうなっているのかは分からない。でも、もう迷っていられない。私はなりふり構わず駆け出すと、口を狭めていく窪みの中へと身を滑り込ませた。僅かな空間でたちまち光が遮断されたかと思うと、ガチャンという音がして動きが止まった。真っ暗で何も見えない。
 私は息を詰め、五感を目一杯に使って周囲の様子を探ろうとした。どんなに目を凝らしても、黒い影で塗り潰された空間には僅かな光さえ見えない。だが突き出した鼻面に、一瞬だが確かに空気の流れを感じた。それに、音も聞こえてくる。錠つきの扉が動くような、金属めいた音。もしかしたら出口の音かもしれない。
 よかった。真っ暗でよくは見えないけれど、ここはちゃんとどこかに繋がっている。いよいよ希望の光が実感を伴って兆し始めた。喉の奥で、ばくばくと心臓が波打っている。
 会える。ここを抜ければ、ご主人に会える――!
 私は体制を低めて四つん這いになると、足元に十分注意を払いながらゆっくりと歩き始めた。高まる気持ちを抑えつつ、空気の流れを感じた方向に向かって一歩ずつ進んでいく。
 どうやらここは食糧庫のような場所らしい。例のきついポケモンフーズの匂いがあちらこちらから漂ってくる。ただでさえ苦手な匂いだ。普段の虚ろな状態ならば、決して耐えられなかっただろう。
 時折、ごうん、ごうん、と重量感溢れる無機質な響きが聞こえてくる。何かの機械が動いている音だろうか。おそらくだが、ここから各檻に食糧が振り分けられているのだろう。
 嫌な感じだ。何から何まで管理され、閉塞的で人工的なここでの暮らし。その禍々しい渦の中に引きずり込まれるところであったことを思うとぞっとする。いや、ここで失敗すれば同じこと。もう後には引けない。私は絶対に立ち止まれない道を歩み出したのだから。
 やがて、暗闇の奥に一筋の光が見えた。出口だ。
 いてもたってもいられなくなって、私は駆け出した。
 会える。会える。あと少しで、ご主人に会える!
 興奮が膨れ上がっていくと同時に、妙な感覚が胸の奥に引っかかった。ふいにこの先へ行ってはいけないと、誰かから警告されているような気がしたのだ。
 だが、無駄に足を止めればその分捕まる可能性も高くなる。
 違和感の正体を何も掴めぬまま、私は転げるように光の中へ飛び込んだ。
 食糧庫の先は、白い蛍光灯が寒々とした光を放つ細い通路であった。檻と闘技場の往復時に使われる廊下と通じているのだろうか、普段ボールの中から見る情景とはよく似ていた。
 例の黒ずくめの人間が三人ほど、途中の壁にもたれて何やら立ち話をしている。
 私は息を詰めてそっと様子を伺った。
 冷たい壁に阻まれた陰気な通路は奥まで真っ直ぐ伸びており、一定の間隔毎に十字の曲がり角があるようだ。一番奥の突き当たりは、どうやら登り階段になっているようである。
 ここは地下なのだろうか? だとすると、出口はあの階段の上にあるのか。いずれにせよ、黒ずくめたちの前を通らなければならないのは間違いない。隠れられるような場所がどこにも見当たらないため、見つかる覚悟で一気に駆け抜けるしかなさそうだ。
 私は息を深く吸っては吐いてを繰り返し、少しの間目を閉じた。心の奥底では、まだあの違和感が不穏な煙を立てながら燻っている。
 迷っている場合じゃない。ご主人に会いに行くんだ。何があっても、絶対に立ち止まらないようにしないと。
 私は意を決すると、力強く床を蹴り上げた。前足と後ろ足を交互に動かし、みるみる勢いを増していく。
 私に気づいた黒ずくめたちの間から驚きの声が上がる。突然のことに呆然と見ていただけの彼らの様子が、脱走だ、という誰かの一声で皆一様に我に返ったようだった。ばたばたと慌ただしく動き出す。

「おい、首輪は!」

「着けてないみたいだ! あいつ確かBだぞ」

「ボール、ボール取って来い!」

 猛々しい土砂降り雨のような足音を立てながら黒ずくめたちが追って来る。
 覚悟していたこととはいえ、全身が燃え立つように戦慄した。
 止まるな。駆け抜けろ。人間を振り切るくらい、簡単なはずだ。恐怖で負けそうになる心を、必死になって叱咤する。

「ジヘッド! そいつを止めろ!」

 背後から光が放たれ、私の目の前に降り注いだ。白い光はみるみる形を成していき、一つの身体に二つの頭を持った黒い竜の姿になる。

「竜の息吹だ!」

 二つの頭が同時に仰け反り、青く煌めくブレスを吐き出した。私は急ぎ足を速めた。直撃は免れたものの背中をかすったらしく、ビリリとした刺激が走る。だが、これしきで怯んではいられない。私は双竜の胸元まで一気に詰め寄ると、右の頭の顎に発勁を食らわせた。右の頭はたちまち首をのたうたせ、苦痛に呻いた。
 今のうちだ。
 双竜の足元を素早く駆ける。抜けた、と思ったその瞬間、腹に鋭い痛みが走った。左の頭が、胴を丸々包み込むような形で噛みついてきたのだ。とたんに肺が圧迫され、息が詰まる。鋭利な牙は容易く皮膚を裂き、めきめきと嫌な音を立てながら少しずつ私の身体に食い込んでいく。私はぎゅっと歯を食い縛り、双竜の頭を掴みあげると、ありったけの力で引き抜こうとした。双竜も負けじと顎に力を入れて、離すまいとしているようだ。
 こうしている間にも、黒ずくめたちの足音がどんどん近づいて来る。早く、早く何とかしないと。だが焦って力めば力むほど、腹を蝕む痛みがじくじくと増していく。玉のように浮き出た赤い液体が、重みに耐えきれず床に滴る。
 双方一歩も譲らず組み合ううち、もう一方の首が起き上がり、此方を見据えて大きく息を吸い込んだ。もう一つの首ごと竜の息吹を浴びせるつもりか。
 とっさに私は掴んでいた頭を引っ張った。突然のことに反応しきれず、双竜は足をよろめかせる。右足に全体重をかけて、双竜の頭を一気に床へと叩きつけた。二本の首を生やした身体はバランスを失い、派手な音を立てて転倒した。
 また攻撃される前に、早く逃げよう。幸い階段はもうすぐそこだ。
 背後から飛んでくる黒ずくめたちの怒声を無視して、私は再び駆け出した。
 腹の傷は、もう大して気にならない。走る度に高まっていく感情が、痛みも恐怖も全て薄めてくれているようだ。
 私は飛びつくように階段へ到達すると、勢いそのままに登って行った。
 あとちょっとなんだ。ここを登れば、きっと、ご主人に会えるんだ。
 いよいよ実感を伴って膨らむ期待。同時に、酷く不快な――目の前が眩んでいき、吐き気がして、胸の奥底をじらじらと焦がすような――そんな感覚が、少しずつ大きくなってくる。これは、あのとき感じた違和感だ。まるでご主人に会える期待が膨らむほどそれに比例するように、いや、むしろその膨らんだ期待を取り込んで、更に大きく成長しているようである。この先へ行ってはいけないという警告が真っ赤に色を変え、もはや抗いようのないほど強大な力を持って私を苛んでくる。
 喉に穴が開いたみたいにうまく呼吸ができなくて、どんどん息が苦しくなり。黒いカーテンが両側から閉じられていくように、視界がみるみるうちに狭まって。もはや自分の身体とは思えぬほど鉛めいた重さの圧しかかる全身が、とうとう這って進むことさえできなくなり。
 一瞬、なぜだろう、と思ったが。一つだけ、心当たりがあった。思い出した。私と、ご主人とを繋ぐ、一つの道具の存在を。
 何なのだろう。思えば思うほど、固く強く、繋ぎ止められてしまうなんて。何なのだろう。こんなの、どうしろと言うの。おかしいよ。おかしくて、涙さえ出ないよ。
 諦めというよりも、空っぽになった、本当にそんな感じだった。だから、後からやって来た黒ずくめたちに押さえつけられ、罵詈雑言を浴びて、どこかへ連れて行かれる間も、私はただ呆然と絶望の底を眺め続けるだけだった。


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