マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1083] 投稿者:夜梨トロ(海)   投稿日:2013/02/15(Fri) 18:02:48   50clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 五



 あの夜話していた内容を僕は問うことができず、だらりとした日々がただ過ぎていくだけだった。ウインディは金縛りでもあっているかのように丘の上から一歩も動くことはなかった。海を見に行ったあの日に倒れこんだその場所で。ウインディより大きく力のある生き物は僕らの住む森には存在しない。だから彼をもっと安全な場所に移すことは叶わなかった。雨が降る中体を縮こまらせている姿は元来雄大であるだろうはずの彼の雰囲気とは天と地ほどもかけ離れていた。日に日に落ちていく毛が風に乗って流れていくのを僕は遠くから黙って見つめる他無かった。現実味を帯びなかった死という出来事が確実にウインディの傍へ歩み寄っているのをひしひしと実感する。
 僕の中に眠るのは気持ち悪い粘着物。一体ウインディになんと声をかければいいのだろう。外の世界からやってきたウインディを否定した僕が、何を言えるというのだろう。もう、何もかも今更だ。
 青空を仰ぐ。
 鳥が羽ばたくのを見つめる。



「坊、いつまで意地を張っているつもり」
 聞き慣れた声が真上からやってくる。おじさんがすぐ傍にいるのは分かっているけれど顔を上げずむしろ更に地に埋めた。
 山の向こうに太陽は沈み、恐らく真上には真っ暗な空を背景に星や月が見えているだろう。見慣れてきた光景だからすぐに頭の中に思い描くことができる。
 しばらく時間を置いてから、呆れたようなおじさんの溜息が耳に届いた。
「ウインディはあなたをずっと待っているの。今、ちょっと元気が無いから動くことはできないけれど、だからこそ、あなたが行かなきゃ」
 説教臭いおじさんは苦手だ。責められているようにしか聞こえない。いや、実際責められているんだろう。どうして彼を否定したのだろう。どうして海に行きたいなどと言ったのだろう。どうして自分のことしか考えられないのだろう。力も無いくせに欲望のままに走る。馬鹿みたい。
 と、僕の頭に鈍い痛みがのしかかる。おじさん得意の拳骨だ。思わず高くて変な声をあげた。
「男の子がうじうじしない。あのね、ウインディと話せる期間はもう、大分限られているの。話さなかったら、絶対に後で後悔するよ」
 もう十分後悔してるというのに。
 でも何もしなかったらもっと後悔するのも分かってる。
 目頭が妙に熱くなる。限られた時間、押し寄せるであろう後悔。僕はゆっくりと顔を上げておじさんの顔を見た。周りは随分と暗くなっていた。星明りに微かに照らされたおじさんの顔。なんだか久しぶりにおじさんの顔を真正面から見たような気がした。おじさんは憐れむような悲しむような、でもしんと落ち着いた複雑な表情を浮かべていた。混乱していながらもおじさんは覚悟というやつを決めたのかもしれない。僕はどうだ。今、うじうじして現実に目を背けているだけ。誰に顔向けすることもできない。それでも前を見据えなければならない時がやってきている。
 瞳から涙が出るのをぐっと堪える。さっき拳骨を食らわせたおじさんの手が優しく僕の頭を撫でる。丁寧に乱れた毛を繕ってくれる。注がれる愛情をひしひしと感じて、僕は自然と俯いた。
「もうこれ以上後悔はしたくないでしょ」
 おじさんの言葉に僕は僅かに頷く。
「なら、行きなさい」
 おじさんは呟く言葉で僕の背中を押す。
 顔を上げて丘の上に佇むウインディの姿を目にとめる。ほぼ真っ暗だけれど、彼の特徴的な体毛が夜の中で輪郭を象る。寝転がったままで今どこを見ているのかこちらからでは分からない。山を見ているのか空を見ているのか、どこも見てはいないのか、あるいは眠っているのかもしれない。皆目見当もつかない視線がどこを向いているのかを知りたいと望むなら、彼に寄り添う他ない。
「……おじさんは、来ないの?」
 恐る恐る尋ねるとおじさんは静かに首を振る。
「今はいいの。きっと、後から行くわ」
 すぐに空気に溶けてしまう小さな声でおじさんは言った。
 僕は複雑な思いを抱えながら僅かに頷き、ゆっくりと歩みを進める。草むらを踏む音と風の音とが混ざり合う。後ろからおじさんの視線を感じる。おじさんはいつも僕を支えてくれる、だから僕は再び歩き出すことができる。お母さんがいなくなっても、落ち込んでも、病気になっても、そして今も。
 あっという間にウインディの目の前に来る。随分と彼はやつれてしまった。遠くから見るよりずっと毛は乱れ抜け落ち、その下に見える肉の姿が露わになっている部分もある。星光に照らされ赤黒く佇むそれに対して僕は咄嗟に目を逸らす。風に乗って彼から僅かに異臭がするのを捉える。異変は確実に獣を蝕み、手招きする死に抵抗なく歩み寄っているようだった。これが、あの時疾風と化した獣の末路だというのか。張り裂けんばかりの咆哮と共に炎を吐き散らした獣と同じだというのか。なんて、なんて残酷なんだろう。
「やあ、来たのか」
 考え事をしていると向こうから声がかけられ僕は体を震え上がらせた。まるでそよ風のような声だ。本当に小さく掠れた声なのに、何故かすとんと僕の耳に届く。
 後戻りはできない、そう心に言い聞かせて僕は一歩一歩を踏みしめウインディの顔の隣にやってくる。ここまで近くにやってきたのはそれこそあの海を見に行った日以来のことだ。
「久しぶりだな」
「うん……」
「元気そうで何よりだ」
 皮肉のつもりだろうか、ちくりと思うがそんなことはないんだって解ってる。純粋にウインディはそう思ったのだと思う。でも死を目前に控えた彼にそう言われると、どう言葉を返したらいいのか分からなくなってしまう。
「今日は空が綺麗だと思わないか」
 その声に導かれるように僕はウインディの視線の先をなぞる。思い描いていたはずの空なのに、忘れかけていた空だった。雲一つ無く、頭上に光る一等星。今の僕等を取り巻く状況には不釣り合い程見事な快晴だ。無数の星が辺り一面に敷き詰められて心が一気に奪われる。吸い込まれそうになる。遠くにあるのに手が届きそうだ。月は無い。今日はいない。星を観察するには絶好の機会だと言える。
「空を見るのが癖だと言っていただろう。私も何しろ暇でね、空を見ることを趣味にしてみたのだ。意外に面白いな。色々な表情を見せる。自然と自分の考えもまとまっていく。いかに自分がちっぽけな存在かを思い知らされる」
「やめてよ」
 そんなこと言わないで。
 ウインディがちっぽけな存在だと言うなら、僕は一体何になってしまうんだよ。
 突然強い口調になった僕に違和感を感じたのかウインディは僕をちらと見る。黒く大きな瞳に自分の姿が映る。その瞬間、息を呑んだ。失望が走る。吸い込まれてしまいそうな威圧感は、もうそこに無い。
「癇に障ったか。すまない」
 あっさりと謝罪される。余計に弱々しさが強調されてしまったようだけど、なんでこんなにすらりと認めてしまえるんだろう。
 ウインディは大きな息を吐く。彼にとっては何てことのない小さな溜息かもしれないが、ちょっと大袈裟な表現をすると僕にとっては強風の煽りを受けたようだった。
「それにしても、なんだか今日の空は違うな」
 ぽつりと言うウインディに僕はもう一度改めて空を見る。違うという意味を理解できず首を傾げる。
「どういうこと?」
「分からない。だけど、空気が何か違う気がする」
 ふうんと僕は単調な相槌を打つ。改めて空を見て空気とやらを耳を立てたり鼻で嗅いでみたりして全身で感じ取ってみるけれど特に変わった様子はない。どういう意味を指しているのだろうか。
 と、突然ウインディは表情を歪め痺れたように体を固く硬直させる。喉から何かがせり上がる音がしたが必死に堪えているようだった。僕は落ち着かせようと彼の顔を撫でてみた。本当ならおじさんが僕に風邪をひいて苦しいときによくやってくれたように背中をさすってあげるべきなんだろうけど、僕には到底無理なことだった。けれどウインディはほっとしたように笑みを浮かべる。小さくありがとうと呟いた。喉の奥から慎重に絞り出した声だった。僕は視線を逸らし、前足のウインディの毛にふと視線を寄せた。風に流れて、ふわりと綿毛のように飛んでいく。
「私は何も後悔していないよ」
 ウインディはそう呟いた。
「海へ行ったこと、何も後悔していない。あれは私が言い出したことだ。君は何も悪くない」
「そんなことない」
 全力で首を横に振った。そんなこと、絶対ない。
「僕があの時行きたいって言わなければウインディはこんなことにならなかった。あの時ああ言っちゃったからウインディはこんなことになっちゃったんだ。僕は行きたいって言っちゃいけないって、安静にしてなきゃだめって分かってたのに、おじさんの言うこと素直に聞いていればよかったのに!」
「それは違うよ」
 熱くなってきた僕の言動をそっと獣は冷静に制止する。僕は意地になって顔を上げると、ずっと空を見ていたはずのウインディの顔がこちらにまっすぐに向いていた。それは違う、違うんだ。彼は強調するようにそう繰り返した。
「私は前から分かっていた。この森にくる前から、自分の命は長くないということを。君が海に行きたいと言わなかったとしても、結果は変わらなかった」
 強さは無くとも決して揺らがない瞳は覚悟の証。何か声をかけようとしても、僕の小さな頭じゃ何も言葉が浮かび上がってはこない。
「それに海に行きたかったのは私の方なんだ」
「え?」
 ウインディは深く頷いた。
「ずっと前に諦めたはずなのに、まだ少し心残りがあった……終わらせたかった。現実を見て、もう本当に元の生活に戻ることはできないのだと」
 ――こうして海を間近にすると、本当に戻ることはできないのだと実感させられる。
 海を見に行った時にウインディが口走った言葉が走る。
 そんな悲しいことをするために海に行ったの。どうしてそうまでして諦めなきゃいけないの。ウインディは強いのに、どうして諦めるの。全部心の中にしまい込んでしまう。彼に訪れている哀しみがあまりに大きくて、僕には抱えきれるものじゃなかった。
 ウインディはふっと何故か微笑んで再び空を見上げる。数秒後に大きく目を見開かせ小さく声を漏らした。
「どうしたの」
「見てくれ」
 溢れんばかりの興奮に無理矢理蓋をしているような震えた声音だ。不思議に思って空を見上げる。空に広がっているのはきらきらと光る星々だけ。圧巻の情景だけれど先程見たものと変わりはない。
 謎に包まれた彼の真意の問おうとした時だ、西に一筋の閃光が煌めいたのは。
 息を止める。
 出来事が目に焼き付く。
 心臓が高鳴る。
 視界を広く保つ。そうしていたら別の場所の空にさっと軌跡が描かれる。
 丁度一年程前の今頃の季節に、おじさんと見た流星群を思い出した。記憶と現実が重なり僕の目前に無限に開ける。暗闇の中に僕等二人、溶けている。丘に座っているんじゃない、夜の中に在る。沈黙と一体化している。手を伸ばせば届きそうだ。瞬きすら惜しい。息は雑音に思えるのに、流れてくる風は心地良い。再度閃く光。一瞬の輝き。儚くも強い瞬き。その度音は完全に消える。
「……少し、昔の話をしていいか」
 隣からやってきた掠れ声が僕の心を叩く。僕は小さく了承の返事をした。昔の話とは、海で話そうとしていた続きだろう。あの時僕は我を忘れてしまったけれど、今なら落ち着いてウインディの話を聞くことができると思えた。
「ありがとう」
 一呼吸を置いて、ウインディは視線を上空に留めたまま、遂に隠していた自らの過去を語り始めた。
「……君は生まれた頃からこの森にいただろうが、私は生まれた頃から人のポケモンだった。物心がついた頃にはあの家にいたのだ。とても温かい家族でね。その頃は私はガーディと呼ばれていた。そこに居たある男の子は特に可愛がってくれて一緒に遊んでくれて、私も一番好きだった。何一つ不自由の無い生活だった。何もしていなくてもご飯はほぼ定時に出てきたし、傍に寄るだけで撫でてくれた。とても幸せな日々だった」
 その様子はとても僕に想像できる賜物ではなかったけれど、その声は甘く温かいものでなんの偽りもなく確かにウインディが幸せに溢れていたことを示している。懐かしむ優しい声音を妨げようとは思わなかった。
「しばらくして男の子は成長した。人は歳を重ねある一定の年齢に達すると旅をする風習があった。彼もそれに倣うように旅を始め、私は当然のように彼についていった。旅の途中で仲間は増えていったが、一番の信頼を置かれているのは、ただの自負に思われるかもしれないが間違いなく私だった。彼の期待に応えようと私も必死に体を鍛えた。旅を進めるうちにガーディとしての限界を感じた時、躊躇わず進化の道を選んだ。そうして私はウインディになり、時に彼の槍となり盾となり、傍に寄り添い続けた。どれくらい旅をしたのか分からない。勝負に勝ったり負けたりを繰り返して、彼も随分大人の顔立ちになってきた頃、私達は歩いていた地方を遂に一周した。勝負の世界で頂点に立つことは叶わなかったが、彼は喜んでいた。私も喜んだ。挫折を繰り返したがそのたび仲間と越えてきた。支えあって生きてきた。そして見たことの無い世界をこの目に焼き付けることができた。ずっと家にいることも幸せだったが、私は苦労の果てにかけがえのない世界を手に入れた。確かに私は生きていた」
 その間も空を流れ続ける星の姿。僕等を見下ろし静かに包み込む。
 そして、と彼は切り出す。僅かにトーンが低くなったように思えた。
「私達は旅を終えるか続けるかの選択に迫られ、彼は続けることを選んだ。まだ見たことの無いものを見ていたいと息を弾ませた。私も同意だった。世界を知れば知るほど、知らない世界があるということを知るのだ。欲求は止まらないものさ。彼と私ともう何匹かの仲間は共に海を渡ることを決意した。海の向こうには何があるのだろうと、旅を始めた頃の童心に帰って胸を躍らせたものだ。そしてこの地にやってきた。見たことの無い生き物がたくさん居て、正直驚いたよ。まだこんなに知らないことがあるのか、とね。他の人にも私は随分珍しい目で見られたものだった。それがもしかしたら、仇になったのかもしれない」
 声がどんどん小さくなっていく。どんどん沈んでいく。最初のうちの温もりはどこに消えたのだろうか。手にとるようにウインディの感情の揺れが分かる。それほど明確に彼の心の色が言葉に表れていた。
「ある日のことだ。ボールに入っていた私は突然その場がぐるりと回転するのを感じた。突然の衝撃に何があったのか分からず、外を見ようとしたが真っ暗で何も見えなかった。彼は自分の歩いている情景をボールに入っている間私たちにも見せようと、ボールを普段から表に見えるようにまとめていた。だから間違いなくそれは異変だった。ボールから出たかったけれど自分から出る方法を心得ていなかったため、何もできずただ時間が過ぎるのを待った。ようやくボールから出してもらった瞬間、私に鈍痛が襲い掛かった。攻撃を受けたのだ。なんのことだか全く分からなかった。そこは灰色の四角い部屋だった。見知らぬ白っぽい服装をした人間と何匹かの知らないポケモンが私を睨みつけていた。私は主人や仲間を探したがそこには誰も私の知る者はいなかった。重なる技の連続に私は抵抗を試みたが麻痺にでもされていたのかうまく体が動かなかった。傷ついた体のまま足には重い枷がつけられた。最初の方は威勢が良く吠えたり炎を出してみたりしたが、ろくに餌を与えられず瞬く間に衰弱していった。そして私は何かを悟った。いつしか抵抗は弱体化を助長するだけだと理解した。何日も閉じ込められた末、諦めたのだ」
 淡々とウインディは話していた。起こった事象だけをひたすらに上辺だけなぞっているかのようだった。けれど、最後の一言には自嘲が込められているように僕には感じられた。
「そしてある日から人間たちは私をその部屋から出し、体にロープを縛り付け、大量の重たい石が乗った滑車を運ばせた。休めば容赦なく鞭がとび、怒声を浴びせられた。ただただ私は運び続けた。私の他にも同じようなポケモンは沢山いた。皆表情は暗く、一言も喋らなかった。無論、私も」
 けれど重労働は永遠というわけではなかった、彼はそう言ってから一度呼吸を整える。
 こんなに話し続けて体の方は大丈夫なんだろうか。でも止める権利は僕に無い。僕はただ聞き届けるだけ。もう、ウインディがやりたいように、したいようにすることに従うだけ。幸い、冷たいほど静かな環境のおかげで掠れ声を聞き取るのはそう難しいことではなかった。
「私達が作りだしていたのはある大きな城だったが、何年もかけてそれはようやく完成した。けれど私の体はもうボロボロになっていた。既に他の同志で過労死をした者もいた中だった、私の体に異変が訪れたのは。口から吐き出された嘔吐物に混ざった血や心臓の異常な高鳴りがそれを物語っていた。呼吸困難に陥った発作だったが、もう用無しとなっていた私は再び牢獄に閉じ込められるだけだった。死を覚悟したが、私の目の前にかつての主人と同じくらいの風体をした青年が突然現れ、手当を施してくれた。どこで私の状態を知ったのか定かではないが、彼は必死に私を励ましてくれた。それは、数年ぶりに感じた愛情のように思え、私にはとても心地良かった。その甲斐あって、私は何とか一命を取り留めた。私は彼に御礼を言った。すると、私達の言葉は人間に通じないはずなのに、彼はどういたしまして、間に合って良かったと言ったのだ。彼は私達の言葉が分かるらしい。けれど、随分固く心を閉ざしているねと彼は残念そうに呟いていた。不思議な青年だった。彼はそれからいくつか話した後、最後に、君のためにもポケモンを解放させる、そう言って去っていった。今になってもその真意がよく分からないけれど……。兎にも角にも、なんとか生き延びたもののもうかつての力を持ち合わせていなかった私はずっと閉じ込められたまま、しばらく時が経つのを傍観していた。途中で幾度かの地震が起こったりもしたが、まったく外の様子が分からないまま生きていた。死んでいるのと同じようなもので、もう思考は完全に停止していた。その時、突然いつもとは違う音に気が付いた。長い地震は止まらず、部屋が綻びを見せ始めていた。私はその時突然逃げるという選択肢を思いつき、枷をつけたまま小さな部屋を跳び出した。勿論容易ではなかったが、壁は随分脆くなっていて、持てる力を全て出しきって脱走に成功した。狭い廊下を通り抜け、僅かに残る記憶を頼りに私は外へ出た。久しぶりに見た青空の色をよく覚えている。とても綺麗な蒼だった。見慣れたはずなのに妙に感動してね、ずっと見つめてしまっていたんだ。そうしたら、黒いドラゴンが城のてっぺんから飛び出した。その背にあの青年が乗っているような気がした。彼も逃げたのかな。よくわからないけれど、一直線に空を横切っていった。まるで……そう、まるで流星のように」
 彼は最後に思い出すように付け加えた。
 僕はそれを聞いて、僕は見ることのできなかった黒い流星の話を思い出した。咄嗟の連想だったが僕の中に確信めいたものが光った。その瞬間呼吸ができなくなりそうなくらいの興奮が襲う。もしかして、黒い流星っていうのは、その黒いドラゴンのことだったのか? それも、間接的とはいえウインディと繋がっていた。それって正直、すごいことだと思う。
「それがずっと遠くに行くのを見届けてから、私はその場を後にした。けれど野生環境で育ってこなかった私は、図体は大きいくせに見知らぬ土地でうまく生活ができず、また何度か発作にも襲われ、更に衰弱していった。それでも私は掠れてしまいそうな主の顔を思い出すたびに、その足を動かした。ある雨の日、私は悪い足場にもっていかれ崖から落ちた。下に広がっていた木々が多少クッションになったものの、そこで大きな怪我をしてしまいもう限界を感じていた。それでも何故か足は動いていた。……そしてあの、御神木の前で君に会ったんだ」
 僕は視線をウインディに移した。ウインディがやってきたあの瞬間の出来事が僕の脳裏に鮮やかに染まる。
「そして私はあの時の青年に助けられたように救われた。森の温かな雰囲気に癒され、ようやく心穏やかになることができて幸せだった。けれど君は最初なかなか打ち解けてくれなかったね。その理由をおじさんに聞いたよ。お母さんが人間に捕まえられ、精神的に大きなダメージを負い、森の外、特に人間に対して強い嫌悪感を抱いていると。私は、その時思った。これが多分、運命なんだと」
「運命?」
 僕が聞き返すと、ウインディは静かに頷いた。
「主と引き離されたことも体を痛みつけられたことも重労働をさせられたことも理不尽だと思った。それは多分、確かなもの。けれど、病気を患い、あの青年に生かされ、君に生かされた。偶然に偶然が重なっていく奇跡に感銘すら受けた。私はきっと、最終目的地が君であるように生きていたんじゃないか、そう思ったんだ」
「そんな、無茶苦茶な」
 首を横に振りながら動揺を隠さずに僕は返す。どうしてそんな大がかりなものに僕が名を連ねているんだ。
「私はそれなりに波乱万丈な生活を送ってきた。理不尽なことも、君に伝えるための過程だったと思えば納得ができる」
「押し付けないでよ。僕はついこないだ会ったばかりなんだよ」
「もう少しだけ、聞いてくれ」
 荒くなってきた僕の口調を鎮める。また暴走してしまう前に僕はふと冷静になり、口を紡ぐ。
 ウインディは夜空から再び僕に顔を向けた。彼の目に強さが戻ってきていた。確固たる意志が宿っている証拠か。
「私は人間に囲まれて生きてきた。人間の中には良い人間もあれば悪い人間もいる。身を以てそれを知っている。私の主人も多くのポケモンを捕まえてきた。それを私も当然のように思っていたから、君のようにそれに対して深く悲しんでいるポケモンがいることは想像もしなかった。だけど、それをいつまでも恨んでいていいのか。こんな私が言っても説得力に欠けるかもしれないが、君にはまだまだ未来がある。私はもう死のうとしている、だから今、君に伝えたい」
 言葉の一つ一つが噛みしめられているような重さを感じる。黒い瞳にちっぽけな僕が映る。果たしてそんな僕に、彼の一心に願う思いを受け取りきることができるのだろうか、自信は無い。
「この森は居心地がとても良い。けれど小さな頃の私がそうだったように、あまりにも狭い世界だ。だから考えも偏ってしまうのだと思う。経験は一生の宝になる。ここの森に居る限り外を知ることはなかったと思うが、君はお母さんを失うという形で外の世界と接触し、また私をきっかけに海を見た。君が思うほど世界は怖いものや恐ろしいものばかりじゃない。美しくたくましく生きている。それを君も分かっているんじゃないか? 君は知るきっかけを持っているのに、知ろうとしない、それは勿体ないことだと私は思う。勿論、何をするのも君の自由だけれどね」
 彼はその目にたくさんの風景を映してきたのだろう。
 たくさんの痛みを伴いながら、掛け替えのないものを手に入れてきたのだろう。それは僕には羨ましくも、あまりに眩しい。
「でも僕はお母さんを捕まえた人間を、絶対に許せないんだ」
「それでいい。許せと言っているんじゃない。けれど君はそれに固執し過ぎている。それでは息苦しいだけだ。実際、君は、この森の中ですら動けていない」
 言い返そうとして出てこない言葉に僕は肩を落とす。結局、何も言い返せない動けない。人間を恨んでも対抗するのは怖い。外を気にしてもここを出るのは怖い。恐怖と矛盾。弱さと小ささ。僕を掴んで離さない。そしてそれに甘え続ける。結局震えて息を殺しているだけ。そうやってきて一体どれだけの時間が経ったのだろう。
 このまま何も変わっていてほしくない僕の一方で、この状態から抜け出したいと思っている僕も確かにいる。ウインディが後者の僕の手を引くのを感じる。泥のように重たく冷たい記憶に沈む僕の手を引く。まっくらやみの中で呼ぶ声がする。
「君には力がある。なんだって出来る」
「――違う!」
 引っかかりを覚えた僕は咄嗟に叫んでいた。
「僕はなんにも出来ないんだ。ずっと震えてるだけで、走ることしかできない。でもその走ることだってウインディの方がずっと速くて、ウインディは大きくて強くて、お母さんだってそうで。僕とは全然違う。ウインディに最初近づけなかったのだってさっきまで傍にいられなかったのだって全部怖かったから! 矛盾ばっかりでどうしようもない弱虫なんだよ。そのくせ後悔だけはいっぱいして、口先だけ。分かるでしょ、僕には力なんて無い」
 心の中の叫びが声となって跳んでいく。途中で胸の奥が焼けるように熱くなって、息苦しくなる。目頭がほんのり痛んだ。自分の心の中で繰り返し繰り返し呟きながらも外には決してさらけ出さなかった部分を吐きだす。言うだけ言って、それでもウインディに心の奥で叫んでいる。
 助けて、と。
 苦しい、と。
「そんなことは無い」
 ウインディは一呼吸置いてから淡白な声で言う。
 心臓の鼓動は速まったまま収まらない。僅かに振動する呼吸を必死に抑えようとしながら、まっすぐに睨みつけるようにウインディの両眼を見据える。
「じゃあ、僕にある力ってなんなの」
 挑発するような言葉は呼吸に合わせて震えていた。ウインディは間伐入れずに口を開いた。
「未来があるということ。それは即ち無限に広がる可能性があるということ。そして何より自由だということ。……これが、君の力だ」
 暗闇の中で一筋の閃光が僕の中を走った。明確になんの曇りもなく彼は言い放った。その自信に満ちた言葉は確かに僕の胸を打つ。
 耳に届いたのは静寂の声。
 ずっとそこにありながら、ずっと聞こえなかった、僕自身も分かっていなかった僕の中に眠る思いを引き出す声。
「確かに身体的能力は君はまだ幼い。けれど、そればかりが力ではないんだよ。私は確かにその点では強いかもしれないけど……もう死にかけだ。もうずっと囚われ続けて、大切な時間を失ってしまった。自由は力だ。それもコントロールの難しいもの。今の私にはよく分かる。君には何もかも選ぶ権利がある。矛盾ばっかり? 自覚しているのは戦おうとしている証拠だ。口先だけ、後悔ばかり、よくある話だよ」
 ウインディは一度間を置いた。風が空に吸い込まれるように吹いていく。星明りに照らされてはらりと彼の毛が揺れた。
「押し付けがましいが、複雑な過去と考えを背負っているからこそ前に進んでほしいと私は思っているよ」
「……どうしてそこまで僕に言ってくれるの」
「どうしてだろうな。覚悟していたつもりだったけれど、死を目前にして後悔がやってきたせいかもしれない。私がまだやりたかったことを君に押し付けているだけなのかも。だとしたら、ただのエゴだな。君が思うより私はそんなにすごい奴ではないんだ」
「そんなことない」
 僕は全力で首を振った。
「僕は、僕は」
 溢れだそうとする感情。もうなんでもいい、溢れてしまえ。拙い言葉を紡げ。吐き出せ。
「――僕は、ウインディみたいになりたい」
 僕は小さく弱くちっぽけだ。だから大きく強く堂々としたウインディの姿に嫉妬し、気に入らなくて、けれどどうしようもなく焦がれた。今までぼんやりとしていた理想をたとえるとすれば、間違いなくウインディだ。理不尽に対する思いや信頼していた者への焦がれは僕とちょっと似ている、考えもしなかった共通点を確かめ、自らの力の無さに失望していた僕に力があると憧れの存在から背中を押された今ならそう素直に思える。ウインディのようになりたい。理想像ははっきりと目の前に見据えられた。方向は前。きっと、人間に対する恨みもお母さんとの思い出も抱えて、僕はようやく進みだすことができる。ウインディがもうすぐ力尽きても、僕の中でウインディは生きていく。
 それほど変化を見せなかったウインディの表情に驚きの色が広がる。虚ろになった瞼が上がって大きくなった瞳が僕を捉える。しかしすぐに目は閉じられ、口を固く塞ぐ。頭が下がり、何故か小刻みに震えているように見えた。僕は足を一歩一歩踏み出して更にウインディに近づき、少し背を伸ばして彼の大きな鼻に自分の鼻を当てた。彼のあたたかな息を感じる。生きているんだと確かめるように実感する。
 ありがとうとウインディは籠った声で言った。
 その一言だけで、十分だった。




 少し時間を置いてから、おじさんは僕等の隣に姿を現した。落ち着いた雰囲気を敏感に感じ取ったおじさんはほっと安堵の溜息をつく。おじさんは不思議だ。なんだか、全部わかってるみたい。
 星の降る真夜中、僕等は失われている時間の間少しでも傍に居るように体を寄せ合っていた。一年前もそうやっておじさんと流星群を見ていた。当時のことを思い出し、ふと僕は声を出した。
「そういえば去年、おじさん言ってたよね」
「何を?」
 おじさんは不思議そうに聞き返した。
「ほら、流れ星が消える前に願い事をしたら……みたいなさ」
「ああそうね。そう、流れ星が出てきてまた消える前に三回願い事を心の中で唱えることができたら、その願いは叶うって言われているの」
「なんだか懐かしいな。その話、聞いたことがあるよ」
 ウインディも知っているんだ。ここまでくるとウインディというよりおじさんは本当に一体何者だろうっていう気になってくるなあ。でもあんまり深く知ろうとは思わない。おじさんだからそうなのかも。そこにあんまり理屈はいらない。
「でも三回なんて無理だよ」
「あら、坊には願い事があるのね。どんなもの?」
「い、いいじゃん、それは」
 頬が熱くなるのを感じる。気恥ずかしさに出てきた言葉は裏返っていて、おじさんもウインディも思わず小さな笑い声をあげる。それが更に羞恥心を掻きたてる。
「お、おじさんはなんか無いの?」
 慌てて切り返すとおじさんはそうねえとぼんやりとした声で少し考え込む。
「……もっと時間が長ーくなりますように、というところかしら」
「ははは、それは良いな」
「えー、どういうこと」
 ウインディが同意する一方で思わず疑問の声をあげると、おじさんはふふふと上品に含み笑いをする。
「ぼんやり空を眺めている時間も、楽しい夢を見ている時間も、今みたいな幸せな時間も、ずーっと続いていればいいのになあって思うのよ」
 どうしても叶わない願いのようだけど、おじさんの考えていることは珍しく僕にも身に染みるほどよく理解できた。特に三つ目の例えがそう。理不尽なことに、楽しかったり嬉しかったり、そういう所謂幸せな時っていうのはいつもよりもあっという間に過ぎてしまう。多分既にいつもの就寝時間は過ぎていると思う。僕の中には眠気の泡がぷつぷつと浮かんできていた。実感すると更に大きくなって、一つまんまるな欠伸をする。
 漆黒の世界を彩る星が煌めく中、また一つ二つと流星が顔を出した。けれどあまりにもそれは速すぎて追いつくことができない。願い事を三回唱えるなんて本当に、それこそ夢物語に近い。けど、憧れてしまう。きっとおじさんはこっそり心の中で挑戦していると思う。たとえその願い事が叶わないことだと解っていてもやってみる。おじさんは、そういう感じなんだ。そういうおじさんで居てほしい。だから、黒い流星の真実は僕の胸の中に静かにしまっておこうと思う。
 また一つ欠伸をすると、ウインディがそっと苦笑する。
「眠いか」
「……ちょっとだけ」
 素直に言ってみると自分が想像していたよりも小さな声が出てきた。
「もう寝る時間は過ぎてるものね」
「そうだな……そうだ、子守唄でも歌おうか」
「ええ?」「まあ」
 僕は少し眠気を覚まして思わず聞き返しウインディを見る。おじさんもさすがに驚いたようで同じような行動をとった。僅かに笑みを浮かべながらウインディは小さく頷く。
「幼い頃に、主人と共によく聞かせられたものがあってね。うまく覚えているかどうか分からないが……まあ、この声だからただの雑音かな」
「ううん、そういうわけじゃないよ」
 最後の自嘲に対して、考えるより先に僕は否定していた。
「聞かせて」
 子守唄なんて久々だ。お母さんにもたまに歌ってもらっていた。それとは違うものだろうけど、白黒の思い出が籠った懐かしさに浸る。おじさんも深く何度か頷き、制止しようとはしなかった。
 ウインディは了承し何度か深呼吸をする。その度に痛々しい掠れた風のような音が彼の中を走る。




 その夜、僕の耳に残る掠れ声の子守唄。
 小さく小さく、小さく響く。
 瞬間に閃く、永遠の歌。
 消えていく意識の中でそれはだんだんと霞んでいった。




 朝の鳥の鳴き声と共に僕は目をそっと開けた。白い太陽の光がいつになく優しく思え、爽やかな風が辺りの草原を揺らす。いつの間に寝てしまっていたのだろうか。流星群は終わり透き通るような空の色が風景を演出する。朝早くから活動する生き物の声が辺りにちらつく。朝だな、と実感する。ありきたりで平凡な感想だ。でも、嫌いじゃない。包み込んでくれる全てが僕を守ってくれているような錯覚。背中を押してくれているような幻想。いや、実際僕の心をそうやって励ましてくれている、きっと。
 ふと思い出したように僕は顔を下げ隣にまだ眠っているウインディを見た。
「ウインディ」
 彼の名前を呼んだ。
 返事は来ない。
 静かに僕と彼の間に風が通り抜けて行った。彼の口元は微かに笑っているように見えた。
「ウインディ」
 もう一度彼の名前を呼んだ。
 返事は来なかった。
 ウインディの瞳は永遠に開けられることはなかった。


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