マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1096] 五、安息の地 投稿者:サン   投稿日:2013/05/05(Sun) 13:06:48   60clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 雨が降っていた。
 私はご主人の隣を歩いていた。
 真っ直ぐな道だった。どこかの街道だろうか、石畳が規則正しく並べられた道はどこまでも延びていて、決して見通しは悪くないはずなのに先は見えない。
 しとしとと地面を叩く冷たい水は、全身を舐めるようにじっとりと毛皮に染みていく。ご主人は何も言わずに、淡々と雨を割りながら進んでいる。だから、私も黙ってその隣を歩き続けた。
 当たり前の感覚だった。もうずっとこうやって、ご主人と一緒に旅をしてきたのだから。
 しかし、次第に様子がおかしくなってくる。ご主人の歩調が段々と速くなって、歩けど歩けど追いつけない。遅れまいと走り出そうとしたところで、ようやく私は異変に気づく。ご主人が足を速めたわけではない。私の足取りが重くなっているのだ。石造りの道はいつの間にかぬかるむ泥沼へと変わっており、一歩足を踏み込むごとに粘っこい感覚が吸いついて、満足に動けない。
 そうこうしているうちにご主人はどんどん先へと進んでいく。置いて行かれる!

『待って!』

 無我夢中になってもがきながら、私は叫んだ。
 たとえ言葉は分からずとも声は伝わったようで、先行く彼は足を止め、振り返る。見下す瞳には驚きの色。そして――

「お前、まだついてきてたのか?」

 ――今、何て。

「お前はもう、僕のポケモンじゃないだろう?」

 彼は、本当に不思議そうに。私の顔を見据えて、そう、言った。



『……いっ、おいっ! だい……ぶか!?』

『……どい怪我だ……空から……ってくるな……て……』

 まどろみの彼方に、冷たい悪夢が尾を引いて消えていく。
 ああそうだ。全部夢だ。ご主人があんなことを、言うはず、ない。
 分かっているつもりでも、心はばらばらに壊れきっていて何も受けつけようとしない。目を閉じたまま、熱いものが頬を伝っていく。

『おいったら! しっかりしろってば!』

『こらこら、あまり騒がないでやりなさい。傷に響くだろう。オーナーが帰って来たらすぐに知らせるから』

『そうね、それまでは静かに休ませてあげましょう。人間の街まで連れて行ってもらえればすぐに治してもらえるわ』

 すぐ傍で、誰かが話している。人間の言葉じゃない。ポケモンだ。
 オーナー? 人間?
 ふいに引っかかったその言葉が、一瞬にして恐怖の皮を剥く。

『……で、くだ……い』

『……何だって?』

『人間、は……呼ば、ないで……ください……』

 無理矢理絞り出した声は、ほとんど呻きのようなものになってしまった。それでも、どうにか周囲の相手には伝わったらしい。

『そりゃまた、どうして……ひどい怪我じゃないか! 人間の街に連れて行ってもらえば、すぐに治して……』

『お願い、します……絶対に……人間は、呼ばないで……』

 心からの懇願だった。もう、二度と連れ戻されたくない。あんな薄暗くて、薬臭い、冷たい牢獄めいた場所。ちょっと想像するだけで、気が狂いそうなほど、怖い。
 それはほんの少し触れただけでも跳ね上がってしまうほど、生々しくて、痛々しくて、赤黒く腫れ上がった記憶の傷痕。その記憶はもはや人間に対する過剰な恐怖心へと置き換えられていて。
 身も心もぼろぼろになった私は、壊れたように同じ言葉を呟き続けた。

『分かった、分かったから……とにかく今は眠りなさい』

 渇いてひび割れた心に染み入るように、その声は虚ろな意識の中でも妙にはっきり通って聞こえてきた。

『大丈夫、ここにはきみを傷つけるものは何もないよ。ゆっくり、お休み』

 あるはずのない幻を見る。優しく穏やかに諭してくれるその声は、暗闇の中で次第に輪郭を露わにし、彼の竜の姿になる。
 ねえ、キュレム。こうやって助けられるの、二度目だね。
 本当は分かっているんだ。どうしてあなたが私のモンスターボールを壊したのか。私を逃がそうとしてくれたんだよね。あのままじゃ、私は過去の思いに足を取られたまま、消えてしまっていただろうから。
 恨まれるかもしれないのに、憎まれるかもしれないのに、それでもあなたは自ら汚れ役になって私を救う道を選んでくれた。
 あなたの気持ち、すごく嬉しいよ。
 でもね、ごめんなさい。
 どうか今は、今だけは。あの小さな球に込められていた大事な思いに、大切な絆に。ほんの少しだけでいいから、さよならする時間をください――



 柔らかな光。緩やかな風。
 新鮮なようで、懐かしい。そんな感覚。目覚めとは、本来こんなにも爽やかなものなのだと実感する。とても温かい、穏やかな心地だ。
 木々のざわめき、土の温もり、川のせせらぎ。世界は豊かに色づいていて。そんな当たり前の情景が、何故こんなにも眩しく感じるのか分からなくて。つかの間、私は我を忘れたまま呆然と青い空を眺めていた。
 ここはどこなのだろう。
 身を起こそうとして、突如雷に打たれたように痛みが走った。
 そうだ。何を寝惚けているのだろう。私が目を覚ますのは、いつも檻の中ではなかったか。それに、節々がひどく痛むものの、いつの間にか身体も動くようになっている。
 動かせる範囲で首を回してみると、どうやら草地に仰向けの状態で寝転がっているらしい。眼前に広がる低い台地は、背の低い草を疎らに生やしながら樹木の群れを繋いでいる。
 どこかの林だろうか? なぜ私はここにいるのだろう。自分の置かれている状況がさっぱり分からない。
 思い出せ。思い出せ。あのときは、確か――

『やあぁっと起きやがった!』

 記憶を辿ろうとしたところで、どこからか声が降ってきた。甲高い、幼さを感じる声。
 目をやると、三角型に顔の尖った青い獣人が、腕組みをして尊大に此方を見下ろしている。彼は頭から生えた耳のような黒い突起を不機嫌そうに細かく震わせ、早口でまくし立てた。

『もう昼だぞ! どんだけねぼすけなんだよ全く! ぶっとい神経してんなあ。傷だらけで空から降ってきといてさあ、心配させんじゃねーよ馬鹿!』

 小さな獣人の苦情はまだまだ続き、幼さゆえの舌の回らなさも関係無しといった様子で次々と稚拙な文句を口にする。
 寝起きの説教にも面食らったが、私が驚いたのは、どちらかというと獣人の態度の方であった。こんなにも開けっ広げに気持ちをぶつけられたのがあまりにも久々すぎて、どうやって受け止めればいいのか分からないのだ。何より私をひたと見つめるその瞳は、いつも向けられる人形めいた空虚な目ではなく、生気の輝きをはっきりと宿している。
 迸る感情の躍動があまりにも眩しくて、私は馬鹿みたいにぽかんと口を開けたまま、目を白黒させていた。
 そんな私の態度が気に召さなかった様子で、獣人の声がまた一層荒くなる。

『やかましいよチビ太。そう一方的にまくし立てたら話ができないだろう』

『そうよチビお。まだ起き抜けなんだから、そんな風に言い寄ったらかわいそうだわ』

『だーもう、チビチビ言うな!』

 甲高い獣人の声をすり抜けて、ふいに落ち着き払った声が聞こえた。見れば、口回りにベージュの髭をたっぷり生やした栗毛の犬が二匹、尖った耳をぴんと立ててすぐ傍らに座っていた。少しだけあの子犬と容姿が似ている。が、あの荒れてささくれ立った禍々しい雰囲気とは対照的で、黒く澄んだ瞳は優しげな光を宿していた。
 小さな獣人はまだ何かを喚いていたが、栗毛たちになだめられると不服そうに口を尖らせて押し黙った。表情が素直な子だ。栗毛たちが向き直る。

『ああ、驚かせてしまったね。僕らは君の敵ではないよ。そう身構えないでおくれ』

『でも昨日より顔色が良くなったみたいだわ。チビ坊の採ってきてくれた薬草が効いたのかしら』

 彼らの優しげな口調には覚えがあった。夢うつつに彷徨っていた虚ろな意識の向こう側で、ずっと励ましの言葉をかけ続けてくれた誰かの声。ふいに仄かな夢の残り香が蘇る。彼の荘厳な竜の面影を感じさせた語り口調は、この獣のものであったようだ。

『いやはや、しかし驚いたよ。まさか空からポケモンが降ってくるとはね。天気予報ちゃんと見ておけばよかったな』

『やだわ、あなたったら。寝る前にちゃんと明日のお天気確認しておくよう、いつも言ってるじゃない』

『ダンナダンナ、おカミさんも。まずそれ天気じゃねーから』

 もしゃもしゃと髭を動かして笑う栗毛たちに対して、すかさず獣人が言い添える。
 彼らのやり取りは何とものどかな空気を演出していたが、私の思考は全く別の方向へと飛んでいた。
 空から、降ってきた?
 ぼんやりと霞みがかった記憶の輪郭が、少しずつ明確な形を成して浮かび上がってくる。肺が凍ったように息さえできぬまま、真っ青な空気の中を、ただひたすら落ちていく感覚。遠ざかっていく太陽と、無情に見下ろす黒い影。
 そうだ。地下というのはまるっきり見当違いであった。遮るものも何もない遥か空の彼方から、私は逃げ出してきたのだ。
 ふと不安の種が芽を出した。あの後キュレムはどうなったのだろう。彼も、無事に逃げられたのだろうか。

『あの、助けてくださって、ありがとうございます。それで、その……私の他に、空から落ちてきたポケモンはいませんでしたか?』

 二匹の栗毛と獣人は互いに顔を見合わせると、皆怪訝そうに眉をひそめ、首を横に振って見せた。
 頭の中で、急速に悪い想像が膨らんでいく。

『仲間が一緒だったのかい?』

 栗毛の一匹が気遣わしげに尋ねてきた。
 仲間、そう呼べる関係だったのだろうか。少し違う気がする。私は、ただ一方的に助けられていただけ。夜な夜な愚痴を聞いてもらい、たくさんの助言をしてくれて、その上私を全力で逃がしてくれた。彼には感謝してもし足りないくらいなのに。今の私には、その身を案じることしかできない。

『とりあえず、さ。色々思うことはあるだろうけど、考えるのはもう少し身体の調子が落ち着いてからの方がいいんじゃないかな』

 俯いたまま何も言えずにいる私を見かねてか、栗毛はそう言い、足元に置いてあった紺色のものをくわえて差し出した。しっかり完熟したオレンの実。私の拳より一回りほど大きなそれは、もぎたて特有の青臭さを漂わせている。受け取ってみると、固い皮から中身のずっしりとした重みが伝わってきた。もう一度栗毛の顔を見上げると、食べなさい、とでも言うように彼は大きく頷いて見せた。
 そういえばもう大分長い間、何もまともに食べていなかった気がする。
 相変わらず腹の重みは残っていたが、私はゆっくりと慎重に、紺色の木の実にかぶりついた。そのとたん、長らく忘れかけていた味が口中に広がった。歯ごたえのある皮からほぐれ出た柔らかい果肉がとろけるように溢れ出し、キリリとした酸味と、渋味と苦味とが絶妙に混ざり合って舌を焦がす。オレンの実独特の、自然の恵みを凝縮したようないくつもの味。遅れてやってくる仄かな辛さも、より味わいを深めてくれる。
 もうずいぶんと前から、空腹は限界を超えていたのだ。何の細工もない純粋で素朴な味が、堪らなくおいしく感じる。
 溢れんばかりの果汁を一滴もこぼさぬよう、貪るようにしゃぶってすすり、さらに一口、二口、噛みしめて。あっという間にへたごと食べ尽くしてしまうと、栗毛は何も言わずに二つ目のオレンを差し出してくれた。だから、私もそれを受け取っても何も言わなかった。いや、言えなかった。
 ここまでくるともう止まらない。涙も、嗚咽も、食欲も。ずっと押さえつけていたものが全部喉に押し寄せて、出ていこうとするものと、入り込んでいくものとが、ぐちゃぐちゃのごった返し。
 私は息をするように小さな木の実にむしゃぶりついてすすり上げ、最後の一口を飲み込んで、それから、空に向かって吠えるように泣き叫んだ。言葉にならない思いを、喉の奥から絞り出すようにして。もう自分でも何と叫んでいるのか分からない。自分の心が何色なのかも分からない。今はただ、何も考えず、空っぽになるまでこうしていたかった。
 ふいに柔らかな何かが濡れた頬に張りついた。分厚い毛布のような、栗毛の獣の大きな背。
 たまらず私は、その紺色の背中に顔を押し当てた。
 栗毛が息をする度に、優しい背中は緩やかに上り下りを繰り返す。
 ああ、温かい。そのじんわりとした温もりから、栗毛の精一杯の思い遣りが滲み出てくるようで。でも、それがどんなに温かくとも、凍えきった心が満たされることはなくて。本当に欲しい温もりはここにはなくて。それなのに、愚かで貪欲な私の心は無いものねだりばかりしてしまう。無いものは無い。そんなこと、とっくに分かり切っているはずなのに。
 会いたいのは。愛しいのは。切ないのは。
 どこまでも、本当にどこまでもちっぽけな私。そんな感情の吐露を、大きな背中はいつまでも受け止めてくれていた。



 綿雲のようにもこもことした何十もの羊たちが、なだらかな丘の草地を駆けていく。一子乱れぬ見事な様子で滑らかに動く黄色い一群は、まるで一匹の巨大な生き物か何かのようである。それは三日月のように大きく曲がったり、風船のように膨らみ丸まって、それからまた萎んだりと、何とも忙しない様子で姿形を変えていく。
 その集団の周りには、常につかず離れず二匹の獣が走り回っていた。林の中では栗色に見えた体毛が、太陽の下では黄金色に光を弾いてきらきらと輝いている。彼らは綿羊たちの群れを取り巻くようにひたすらぐるぐると走り続けていたが、丘のふもとに立っているのっぽの人間がぴういと笛を一吹きすると、すぐさまインディゴマントを翻し、今までとは反対の方向へと駆け出した。とたんに黄色い一群は驚いた様子で形を変え、追い立てられるように丘の上へと続いていく。
 栗毛たちの日常。人間と共に暮らし、助け支え合う。ポケモンと人間の間に結ばれた、ありふれて、それでいて貴い関係。
 生き生きと走る二匹の獣。嬉しそうな眼差しで見つめるのっぽの人間。そんな眩しい情景を、私は少し離れた木立の陰からぼんやりと眺めていた。
 あれから、私は栗毛たちの世話になりながら毎日を過ごしていた。ここら一帯は彼らの主人が管理している土地らしく、他の人間は滅多に奥までやって来ない。おまけに栗毛たちやこの辺りで暮らす野生ポケモンがひっきりなしに私の元を訪れては、食べ物を持ってきただの、この葉っぱを貼ると傷に効くだのと、何かと面倒を見てくれた。
 恥ずかしい話だが、私は何をされても戸惑うばかりで、まともな礼さえ言うことができなかった。誰かと言葉を交わすのも、優しさに触れるのも、目と目を合わせることでさえ、あり得ないくらいに新鮮で、嬉しく感じた。でも、自分の感情をどう表現したらいいのか分からなくて、私はもどかしさを抱えたまま俯くしかできないのだ。自分でも驚きだった。いつの間にか私の心はこんなにも麻痺していたのだ。
 それでも彼らは嫌な顔一つせず、進んで私の面倒を見てくれた。
 静かな環境と、心優しいポケモンたちの献身的な看病。そのおかげで、身体の方の傷は少しずつ治ってきていた。
 ぴゅーいっ、ぴゅう。鋭く甲高い音が鳴る。
 栗毛たちはわう、と一声吠えると綿羊たちを追うのを止め、笛を吹いた人間の元へと駆けて行った。のっぽの人間が栗毛たちに何かを語りかける。栗毛たちは嬉しそうにふさふさと尻尾を振る。

『おい、泣き虫!』

 栗毛たちの仕事を見学していると、どこからか獣人がやって来て私のすぐ隣で立ち止まった。
 泣き虫とは私のことだろうか。首を捻りかけて、思い出す。そういえばこの子と出会った直後に大泣きしたんだったっけ。
 出会ったとき同様の、腕組みしたまま此方を見下すふてぶてしい態度で彼は言った。

『こんなとこにいていいのかよ。お前、人間嫌いなんだろ』

 獣人の聞き方は妙に確信がこもっていた。一瞬驚いて、返事に詰まる。

『いや……そんなこと、ないよ』

『嘘つけよ。お前、大怪我して大変だったときに人間呼ぶなって喚いてたじゃねえか』

 いよいよ答えに困ってしまう。そんなことを言っていたのか。正直記憶にはない。が、心当たりも全くない、と言えば嘘になる。
 黒い帽子とマスクの間に覗く冷たい目。抑揚のない機械じみた声。喉元に迫る黒手袋。
 そんな悪夢にうなされて冷や汗まみれに飛び起きるのも、もう一度や二度では済まされない。
 とはいえ一度人間に連れ添って旅をした身としては人間を嫌いになれないし、全ての人間が悪人ではないことだって分かっている。
 栗毛の主人も心優しい人間なのだろう。それは遠くから見ていてもよく分かる。
 だが、そこまでだ。

『嫌いなんじゃない……怖いんです』

 これ以上人間に近づくことなど、今の私にはとてもできない。
 人間が、怖い。
 その感情はもはや疑う余地もなく、私の心の奥底に深く根を下ろしているのだ。

『なんだよ、それ。ワケ分かんね。どう違うってんだよ』

 獣人が苛立たしげに言い放つ。

『あんなにボロッボロでドロッドロの身体でさ。怯えて震えて、あんなうわ言まで呟いて……お前、人間に酷い目に遭わされたんじゃねえの?』

『いや、私は……』

『その首の傷』

 言いかけた私の言葉を、獣人は鋭く遮った。
 言われて初めて気がついた。首元に手をやると、皮膚の感触が他とは違う部分がある。手の平から伝わってくるのは、ざらざらとしていて微かに膨らんでいる感覚だ。それが首の回りを一周するような形で続いている。まるで、首輪でもしているみたいに。

『何があったらそんなところに火傷なんかするんだよ。人間だろ? 人間に傷つけられたんだろ! お前、何でそんな目に遭っておきながら怒らねえんだよ!』

 そう強い口調で言う獣人の拳は固く握られ、肩は細かく震えていた。

『何よ、それでチビ福が代わりに怒ってあげてるの? また変わったことをしてるわね』

 ふいに声が聞こえたかと思えば、仕事を終えたらしい栗毛の一匹がちょうど此方にやって来るところであった。
 獣人は荒い鼻息で私を指差し反論する。

『うるせー! ちげーよ、こいつが泣き虫で弱虫だからいけねーんだろーが!』

『何馬鹿なことを言ってるの。まあ、ごめんなさいね。チビ助は気は優しいんだけど、口を開けば雑な言葉しか出てこないの。この子、これでもあなたのこと心配してるのよ』

 そうだったのかと思わず獣人の方を見ると、小さく悪態をついてそっぽを向かれてしまった。何だか急に勢いがなくなったようだ。彼女には頭が上がらないのだろうか。
 栗毛は私のすぐ隣に腰を下ろした。

『あなた、最近よくここで私たちのことを見てるでしょう。羊追いに興味があるの?』

『えっと……そういうわけじゃないんです。ただ、懐かしい感じがして』

 そう言ってから、ようやく自分でも自覚した。
 栗毛と獣人が揃って不思議そうな顔をする。

『私にも、ご主人がいたんです。だから、ちょっと色々思い出してしまって』

 そう。私はあののっぽの人間に、ご主人の幻を見ていた。主人と戯れる栗毛たちを羨ましいと思っていた。それでも私はもう以前の私に戻れない。人間に対して確固たる恐怖を抱いてしまった今の私にできるのは、人間を遠くから眺めることだけなのだ。

『何だよお前、ただの飼われモンかよ! くっだらねぇ!』

 獣人は大きく息巻いたが、栗毛にじろりと一睨みされて不服そうに口をつぐんだ。栗毛が声を低め、改めて尋ねる。

『どういうこと? それじゃ、あなたのトレーナーは今どこにいるの?』

『分かりません。前にはぐれてしまって、それっきりで……』

 そういえば、あの黒ずくめたちの元でどれくらいの時間を過ごしていたのだろう。分からない。ご主人と最後に歩いた景色を思い浮かべようとしてみるが、うまくいかない。卑しい目をした男の顔と、紫猫の酷薄な表情が脳裏に霞み、慌てて私は首を振った。
 今頃ご主人はどこで何をしているだろう。私のことを探しているのだろうか、あるいは――

『はぐれたんじゃなくって捨てられたんじゃねえのか』

『ちょっと! 何てこと言うの!』

 栗毛が今にも噛みつかんとする形相で獣人に吠えかかった。あまりの剣幕に獣人は押し黙る。が、ふいに上がった視線が私に向けられる。真っ赤な瞳。その色は、彼の感情をありのままに表しているかのようで。

『俺は、嫌いだ』

 ぽろり、と。ほんの一滴が溢れたのをきっかけに、彼は感情を爆発させた。

『なあ、お前だって分かるんだろ! あいつらなんて、人間なんて! ……あんな奴ら、大ッ嫌いだ!』

 そう吠えるように吐き捨てて、止める間もなく林の奥へと消えていく。
 取り残された私と栗毛は、遠ざかっていく小さな背中を見送ることしかできなかった。
 ああやっぱり、とため息混じりに呟いて、栗毛は再び此方に向き直る。

『本当、ごめんなさい。あの子ったら、あんなこと言うなんて……』

『……いえ、気にしてないですから』

 私は小さく首を横に振って見せた。
 それに、罪悪感もあった。捨てたという表現で例えるならば、それはご主人ではなく私の方だろう。あの場で彼を守れなかった、それどころか守られることすら望んだ私は、自分からご主人のことを見捨てたと言っても過言ではないように思う。もう、何もかも、今更なのだが。

『実はあの子はね、昔、一度捨てられたことがあるの。自分のトレーナーにね。だからあなたのこと、昔の自分と被って見えちゃうのかな』

 初耳だった。私は思わず栗毛を見つめた。彼女は苦々しげな笑みを浮かべて静かに続ける。

『でもね、ずっとああやって人間を恨み続けていても……きっと、疲れるだけよ』

 それきり、栗毛は遠くを見つめたまま黙り込んだ。
 驚きもあったが、妙に納得している自分もいた。あの獣人が何かと突っかかってきたのはそのせいだったのだ。私の知らないところで、彼は私を案じて小さな胸を痛めていたのだろうか。
 もう一度、首元にそっと手を当ててみる。手のひらに伝わるのは、あの禍々しい首輪の痕。こんなところに傷があったって、自分ではよく見えない。それでもはたから見ればぎょっとするような痕になっているのだろう。目を閉じれば、黒い手袋が私の喉元を捕まえたときのあの感覚が、まざまざと蘇ってくる。
 この傷は、きっと簡単には消えてくれない。そしてどんなに時間がかかろうとも、完全に消え失せることもないだろう。なぜかは分からないけれど、何となく、そんな感じがした。
 少しだけ強張った私の頬を撫でるように、緩やかに風が通り過ぎていった。草地に幾重ものさざ波が走る。丘の上では綿羊たちがしきりに草を食んでいる。橙色の宝玉がついた尻尾を時折ぶらつかせながら、もそもそとのんびりした様子で口を動かし、辺りの草地を少しずつ開拓していく。
 その情景をぼんやりと眺めているうちに、私は無意識にある花を頭に思い描いていた。細長い緑の葉を大地に這わせ、日の光を求めて精一杯に首を伸ばし、鼓のような蕾を開く、あの花を。
 ふわふわとした黄色の花弁。無数に咲き乱れるたんぽぽ畑。
 あの人の、笑った顔を思い出す――

『……私、ご主人のところに帰らなくちゃ』

 帰る。あの人の元へ。ご主人の元へ。
 小さく呟くように口にした言葉の意味は、後からじんわり心に染みて広がった。
 栗毛がはっとしたように此方を向くのが分かった。私はそれには構わず、丘に広がる黄色の花々を見つめ続けた。

『約束、したんです。ご主人に会いに行くって。絶対に、会いに行くって』

 約束。
 一般的に言うそれとは少し意味が違うかもしれない。本来ならば、互いに同意した上で交わすのが約束というものだ。

 ユイキリ、主人に会いに行け――

 あのとき、キュレムが何故そんなことを言ったのかは分からない。それでも、彼は確かにそう言った。あの切羽詰まった状況でも、キュレムは最後まで彼らしい堂々とした態度を持って、力強く私を送り出したのだ。
 彼にはいつも助けられてばかりいて、私からしてあげられたことは何一つなかった。与えられるばかりで、歯がゆくて。もう、直接恩を返す機会があるのかも分からないけれど。
 私がご主人の元に帰ることが、少しでも彼の思いに報いることへ繋がるのではないだろうか。
 どれだけ大変かは分からない。私のモンスターボールだって粉々に壊れてしまった。手がかりなんて何もない。それでも、私は。

『……そっか。それじゃ、早く傷を治して、会いに行けるようにならないとね』

 栗毛は穏やかな笑みを浮かべてそう言うだけで、多くを問いはしなかった。
 それが彼女なりの優しさなのだろう。素直にありがたく思った。
 でも、言葉に出せない。態度で表せない。私は小さく頷いて見せるしかできなくて、また胸の内に歯がゆさが残る。

『それにしても、チビ吉くんには困ったものだわ』

 言いながら、栗毛が深いため息をつく。

『あの子がここに居着いてから大分経つのに、未だにあの調子だものね。もう少し、前向きになってくれればいいんだけれど』

 人間が嫌いだと言っていた獣人。ひょっとすると、ここへ辿り着いた境遇は私と似ていたのかもしれない。ただ一つだけ分かるのは、私と違って、あの子は人間の優しさに触れたことがほとんどないのだろう。
 何だか変な感じがした。
 いっそご主人のことを忘れられれば、こんなに悩んだり、苦しんだりすることはない。人間という種族を全部丸ごとひっくるめて、躊躇いなく憎めたはずだ。
 あの場所にいたときは、確かにそう思っていた。願ってすらいただろう。なのに今は、とても恐ろしくて、悲しいことのように感じてしまう。
 林の奥に消えていった、悲しみと憎しみをいっぱいに湛えた泣き顔が、まだ目に焼きついていて離れない。
 そういえば、少し不思議に思うことがあった。

『でも、あなたたちのご主人も、すごく優しそうな人間ですよね。それなのにあんなこと言うなんて……』

 私の言葉に、栗毛は微かに首を傾げた。意味が伝わらなかったのだろうか、つけ加えようともう一度口を開きかけたとき、突然栗毛が笑い出した。そうか、そんな風に見えていたのね。そんなことを言いながらひとしきり笑ったあと、彼女はようやく答えてくれた。

『あのね。あの人は、別に私たちのご主人ってわけじゃないわ。ただのオーナーよ。この土地の住人』

 今度は私が首を傾げる番だった。あれほど親しげな人間が、主人ではない? 一体どういうことなのだろう。

『ふふっ。そうね、確かに普通だったらそう見えるでしょうね。でも何て言うのかな。うまく言えないけど、私とダンナがオーナーの仕事を手伝ってるのは、あの人がトレーナーだからとかそういうわけじゃないのよ。簡単に言っちゃえば、同じ場所で暮らしているご近所さんって感じ。縁みたいなものかしら』

 衝撃的だった。それでは栗毛たちも野生のポケモンということになるのだろうか。言われてみれば、確かに今までの今まで栗毛たちがモンスターボールに入っているところを見たことがない。それなのに、あんな風に共に暮らすことができるのか。あんな風に、助け支え合うことができるのか。

『私はね、人間だからとか、ポケモンだからとか、そういうのってあんまり関係ないと思うの。大事なのは自分の気持ち。ありのままを見て、感じればいいのよ』

 恋と一緒でね、最後にそう一言つけ加え、栗毛はウィンクして見せる。
 ぴうい、甲高い笛の音。たんぽぽたちがのそのそと動き出す。笛の響きに従って颯爽と草原を駆けていく獣の姿を、私はいつまでも眺め続けていた。


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