マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.1105] [番外編]幸せの最大値 投稿者:咲玖   投稿日:2013/05/25(Sat) 18:29:28   58clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:PG12



 ねえ、直斗。僕は“物”になるよ。もう二度と、誰かを傷つけないように。もう二度と、幸福を減らさないように、僕は“物”に徹するよ。そして、必要な時が来たら、直斗、君に命令してほしい。そういう風に、契約をしよう。もう僕が誰かを傷つけないように。ごめんなさい。でも、君が幸福でいられるというのなら、僕は幸福なんて要らないから。だから、
 僕は目を覚ます。嫌な夢を見ていたが、忘れた。カーテンの向こう側は、薄明かりに晒されていた。でもまだ、直斗は眠っている。いつ彼が起きてもいいようにと、僕は居住まいを正す。それから、視覚器官を移動させて、カーテンを見た。安い一枚布の上と横から早起きの太陽の光が漏れていて、カーテンが光に押されているみたい。この情景に名前はあるのだろうか。薄明光線、という言葉が頭に浮かんだ。違うけれど、なんとなく思いついた。そういう、頭に浮かびやすい言葉はいくつかある。最大多数の最大幸福、とか。
 僕は視覚器官を動かして、直斗を見た。固い椅子の背もたれを限界まで倒して、サングラスの僕を掛けたまま、ぐっすりと眠っているのだ……多分。距離が近すぎる所為で却って見え辛いけれど。三十代も後半に入ったけれど、まだまだ格好いい方だと僕は思う。引き締まった体。適度に切り揃えられた黒髪。今はまだ瞼の下の青い目。眼瞼の下で眼球が動いている時って、夢を見ている時なんだっけ。なんにしろ、いい夢ではないのだろう。起こした方がいいだろうかと思うけれど、それは契約に入っていないし、また余計な手間を掛けさせたと思われるのが嫌だから、僕はじっとしている。その内朝日が直斗を起こしてくれるはずだから。
 僅かに目を離した隙に、カーテンの向こうの光はその強さを増している。暗かったこの事務所も、少しずつ光を取り込んだ。このまま朝日が昇れば、その明るさで直斗は目を覚ますはずだった。
 予想外。事務所のドアがバン! と開いた。
 直斗が飛び起きた。ずり落ちた僕を掛け直し、背もたれを起こす。ドアの向こうの光の世界からやってきたのは、逆光で顔が見えないけれど、女性。
「探偵さん、っている?」
 直斗は真っ直ぐ座ると、
「探偵は私ですが」
 と営業スマイルを作った。
 女性は事務所が暗いことを訝しがらないのが、トントントンと直斗の机の前まで進んで、机にバンと手を置いた。ドアだってぶち破る勢いで開けてたろう、乱暴な女性だ。
 乱暴な女性は要求も乱暴だった。
「お願い、友達が事件に巻き込まれたの。犯人を探し出して!」
 そして女性はウルウル、といった感じで直斗を見る。視覚を調整して分かったけれど、器量は悪くない。もっとも、薄汚れた衣服と山ん婆ヘアで台無しだ。日に焼けた肌が傷んでいる。三十路くらいだろうか。腰に六つフル装備したモンスターボールも、年季が入っている。
 そんな女性に、直斗は慣れた様子でこう受け答えした。
「事件の捜査なら警察へどうぞ」
 そして、机の上の電話から受話器を取り上げてみせる。ここから警察に電話してもいいよ、という具合に。しかし、女性は直斗の手ごと受話器を掴むと、押さえ込むようにフックへと戻した。なんて乱暴な奴だ。
「警察は動いてくれないもん」
 駄々をこねるみたいに彼女は言った。口調からすると、早熟なティーンエイジャーだろうか。女性の歳というのはパッと見では分からない。そう考えると、モンスターボールも、年季が入っているのではなく、単に扱いが悪くて傷だらけに思えてくるから不思議だ。
「だから、探偵さんに頼みに」
「お気持ちはお察しします。しかし、当探偵事務所でも、昏睡事件については取り扱っておりません」
「探偵ってそういうことするもんじゃないの?」
 女性は声を上げる。怒り半分、当てが外れた動揺半分といったところ。この狼狽え具合から見るに、三十路ということはないだろう。
「表のプレートに“海原探偵事務所”って書いてあるのは何なのよ?」
 彼女の指が、開かれたままのドアの方向を指した。ドアの外は、すっかり明るい。
「そのままの意味です」
 直斗は営業スマイルを崩さない。
「当事務所の業務内容は、主に行動調査と行方調査となっております」
「つまり?」
「主に、離婚の時の浮気調査と迷子のポケモン探し」
「事件の捜査はしてくれないの?」
「しませんね」
 直斗は断言すると、開いたままのドアから出るよう、彼女を促した。「事件の捜査は警察にお願いしてください」と言い添えて。「でも、警察は……」少し粘ってみせたものの、結局彼女は外に出ていくことになった。不承不承、といった感じで。
 良かった、と僕は胸を撫で下ろした。彼女は出ていく。ドアがバタンと閉まれば、部屋はまた暗くなる。そして日常が戻ってくる。もう一寝入りして、時間になったらカーテンを開けて、それで彼女のことは忘却の彼方。直斗の幸福は減らない。めでたし、めでたしだ。
 そこで、なんで余計な一言を付け足してしまうのか。
「離婚の際には是非、当事務所をご用命ください」
 開いていたドアが、閉まった。ただしそれは僕の展望とは別な閉まり方だった。事務所を出ていきかけた彼女は、ドアの手前で止まると、直斗を振り返って見た。それはもう、鬼子母神はかくや! って感じで。
 彼女はドアから机までの短い距離を電光石火の勢いで駆け抜けると、その勢いを乗せて、右ストレートを撃ちだした。ボグ、と鈍い音がした。
「サイッテー」
 そんな捨て台詞を残して、今度こそ彼女は去っていった。
「全く、何だってんだ」
 直斗は再び暗くなった事務所の中で、呆れたようにぼやいた。
 ただし、「腹、大丈夫かな」と付け足すあたり、お人好しなのだと思う。
 直斗を殴ろうとしたけど踏み込む場所を間違えて机の縁に腹をぶつけた上、グーパンチは届かなかった女のことなんて、僕はどうでもいいのだけれど。直斗の幸福が減らなければ、それで。……過保護なのは分かっているさ。

 直斗は僕の予想以上に、お人好しだったらしい。
「イドラ、行くぞ」
 そう言って、寝室で寝ていたリグレーのイドラを運び出した。底の浅い鞄に入れ、肩に掛ける。イドラはモンスターボールが嫌いなのだ。なら横を歩かせればいいじゃない、と思う人もいるが、イドラには足がない。悪い奴に切られてしまったらしい。エスパーポケモンだから念力を使えばいいじゃない、とその次に人は思うのだが、これがどうも難しい。僕もやってみたけれど、足のあるポケモンが、足を失った状態で移動するというのは、それがエスパーポケモンであっても難しい。まあ、訓練して少しは動けるようになったみたいだけれど、基本は鞄移動。イッシュくんだりまで行って、そんなポケモンを引き取って帰ってしまうあたり、やはり直斗はお人好しだ。
 直斗はリグレー入りの鞄にモンスターボールを入れると、事務所を出て、鍵を掛けた。『本日の営業は終了致しました』のテンプレートの紙を貼っ付け、事務所の入ったボロビルを出る。エレベーターもあるが、待ってても来ないし、いつ落っこちるか分からないようなボロなので、使わない。六階から階段で、ご苦労なことだ。リグレーも気を遣ってはいるが、やはり重いだろうに。
 そうやって苦労して階段を下りて、また歩く。太陽は余程気が早いのか、もう夏本番といった勢いで辺りを熱している。アスファルトの続く向こうに、陽炎が揺れていた。暑い。直斗は小さくため息を吐いて出発した。
 行き先は、つい最近までは近くにあったけれど、統廃合の結果、一時間以上歩いた先にしか存在しなくなったポケモンセンター。まあ、これはマシな方だと思う。山間の村なんかでは、山の麓の町まで行かなくちゃポケモンセンターがなくて、そうなると村に人が来なくなって、過疎化が進む一方だと聞くから。かつては、そういう村にポケモンジムが配置されて、村おこしの役目を担っていた。けれど、旅のポケモントレーナーが犯人の凶悪事件が起こって、旅すること自体が白い目で見られるようになって、各地にあるポケモンジムを回って修行するというスタイルは崩れてしまった。今ではポケモンジムは、ポケモンのことを学ぶ塾みたいな形で、町の真ん中に残っている。ジムバッジは塾の修了証みたいになって、ポケモンジムの権威は下がり、挙句、私立のポケモンジムというのまで出来てきた。もっとも、『ポケモンジム』の名称は使えないから、リトルジムとかサブジムとか、規定逃れのそれらしい名前を使っている。そして、そういう私立ジムが、未だに旅をしているポケモントレーナーたちの新たな一里塚となっているのだから、何の皮肉なのやら。
 そういった私立ジムの一つを横目に見て、進む。繁盛しているらしく、立派な店構えをしていた。ここで不意に、鞄に揺られていたリグレーが、「気持ち悪い」とこぼした。
 直斗が立ち止まってリグレーを見た。
「大丈夫か、イドラ?」
 放っておけばいいのに。このリグレーは、大したことじゃなくても世界の終わりみたいに騒ぎ立てるんだから。しかし、僕の予想していなかったことに、リグレーはコクンと首を縦に動かした。
「そうか?」
 鞄を掛け直し、直斗は進みだす。私立ジムの前を通り過ぎる。リグレーが、ほっとしたように息を吐いた。
「なんかあのジム、嫌な感じでさ」
 聞いてもいないのに、リグレーが答えた。言ったところで、直斗には分からないし、僕は相手をしないけれど。どうせ、あのジムがゴーストタイプ専門だから嫌だったとか、そういうオチだろう。相手をするだけ、無駄なんだから。

 一時間以上歩いてやっと、お馴染みの赤い屋根が見えた。どんなに時代が変わっても、ポケモンセンターの基本的な外観は変わらない。自動ドアをくぐると、これまた変わらない内観が出迎えてくれる。真正面にカウンター、広いロビーに待合用の椅子がいくつか。直斗は真っ直ぐカウンターには向かわず、まずロビーの隅にある椅子に腰を下ろして、休憩を取った。暑さで参ってしまったのだろうか。しかし、普段は少し疲れてたって、目的を先に済ませるのに。僕はちょっと直斗の体調が心配になった。
 少し休むと、直斗は何事もなかったかのように立ち上がって、カウンターに向かった。平日昼間のポケモンセンターは、がら空きだ。目的の人物、須藤光一を見つけて、必要な情報を仕入れる。まず直斗は、ここ三日間で、ポケモンセンターの宿泊施設を利用した女性について尋ねた。宿泊の際に提示するトレーナーカードの顔写真のデータを見せてもらったら案の定、そこに今朝の横暴山ん婆が入っていた。それから直斗は、彼女と同室の人間がいなかったかどうか聞いて、その情報も貰って、ポケモンセンターを出た。帰り際、須藤光一は「お気をつけて」と手を振ってくれた。彼には昔から目をかけていたから、今でも直斗を慕ってこうして情報を都合してくれる。情けはかけておくものだと思う。『情けは人の為ならず』という昔の人の言葉を噛み締めて、次に向かったのは、警察署だ。
 警察署に着くと、直斗は慣れた様子で馴染みの刑事を呼び出して、しばらくつっ立って待っていた。周囲のポスターを眺める。『能力アップ薬に注意! 麻薬と同じ成分の偽物が出回っています』『ポケモンの無責任な繁殖・売買は違法です』『ポケモンバトルはマナーとルールを守りましょう』……いつも思うのだけれど、このポスターは一体誰に訴えかけているのだろうね。
 直斗が普通自動車免許取得のパンフレットを見ているところで、呼びつけた刑事がやってきた。ハイヒールを高らかに鳴らし、パンツスーツ姿で現れた、直斗より一回り年下のこの女性、名を結城夏輝という。直斗に一目惚れしたらしく、それ以来、何かと直斗に情報を都合してくれる。直斗もそんな彼女を利用、いや虚仮、いや重宝させてもらっている。まあ、頑張り屋の後輩以上に何も思われていないことは、彼女も分かってやっていると思う。
「海原さん、今日は何のご用かな? あ、私明日非番なんですよ」
「昏睡事件について聞きたい」
 結城夏輝の台詞を半分スルーして、直斗は単刀直入に尋ねた。途端、夏輝の顔が曇った。「捜査中の事件だし、犯人捕まらないし、機密情報多いよ?」
 昏睡事件。その名の通り、被害者が皆、昏睡状態に陥っている事件だ。昏睡状態になっていること以外には外傷もなく、どんなポケモンの技が使われたかのかも判然としない。何も手がかりが掴めないまま、旅のトレーナーを中心に、被害者の数はうなぎのぼりに増える一方だ。野生ポケモンが人を襲ったのではないかという説もある。とにかく五里霧中の事件だった。
「じゃ、被害者の名前だけでも」
「それもちょっと」と夏輝は渋った。直斗も少し、引いてみせる。「じゃ、確認だけ」言いながら、さりげなく夏輝と距離を取った。
「昨晩の被害者は安藤康隆、で間違いないな?」
「どうしてそれを? まだ報道もされてな」
 途中で気付いて口を塞ぐ。今更黙っても遅いぞ、結城夏輝。
 夏輝はバツの悪そうな顔をして、直斗を応接室に誘った。
「私から聞いたって言わないでくださいね?」
「言わないよ、もちろん」言わなくてもバレバレだものね。
 夏輝は一つに括っていた髪を解き、結び直す。そして、「どうして分かったんですか」と直斗に聞いた。
 直斗は今朝からの推理を惜しげもなく披露する。
「今朝、俺の事務所に、『友人が事件に巻き込まれたから犯人を捕まえろ』って女性が来た。明らかに旅装で、ポケモントレーナー。汚れ具合から昨日今日ぐらいに町に着いたのは分かった。それから、彼女は『事件に巻き込まれた』とか、『警察は動いてくれない』とか、どことなく歯切れが悪かったからカマをかけてみた。『昏睡事件の捜査は受け付けてない』と言って。今、警察が動き辛くて、被害に遭っても被害者と断言し辛いっていったら昏睡事件だからな。で、その通りだった。後は女性の素性を調べて、それから、同室の人間を調べればいい。事件に巻き込まれたなんて、友人のポケモントレーナーに警察が一々知らせるはずないだろうから、彼女が自分で気づく要因があったはずだ。どうせ同じ部屋を取って、昨日帰ってこなかった、とかだろう。調べたら、同室の人間に荷物を置いたまま戻ってこない人間がいた。それが安藤康隆だった。こんなところだ」
 夏輝は悔しそうに頷いた。分かってしまえば簡単なことだ。僕は直斗と一緒にいて、いつも気付かないけれど。
 夏輝は俯いたまま、口を開いた。
「夜中に搬送された安藤氏のケータイに、明朝から電話を掛け通しだったそうです。警察にも未明に来ました。朝の四時でしたよ」
「俺のところにも、大体そんな感じの時間に来た」
 あの山ん婆、ほうぼうにそんなことして回ってたのか。直斗も苦笑する。夏輝も少しホッとした様子で相好を崩した。
「あ、でも」
「何だ」
 夏輝の疑問を、直斗はすかさず拾い上げる。夏輝は調子をつけるようにコックリ頷くと、こんな話をした。
「その女性、柿崎凛子さんですが、安藤さんが事件に巻き込まれたと分かったのは、部屋に戻らなかったからだけじゃありません、って言ってましたね」
「他に何か?」
 直斗が穏やかに先を促す。夏輝が髪をいじりながら、「それがね」と切り出した。
「カード占いで気付いたんだそうです」
「カード? タロットカードか?」
「本人は別物ですって言ってましたけど、私には違いが分かりません」
 夏輝が胸を張って言う。この合理的で他人に迎合しないところを、彼女は自分で気に入っているらしい。
「とにかく、柿崎凛子さんが何故タロットカードの話を持ちだしたのか、私には理解できません」
「理由はあるんだろうさ。俺にも分からないが」
 直斗に分からないなら、夏輝にも僕にも分からないな。
「あと、あの歳で女一人で旅してるっていうのも珍しいですよ」
「歳?」
「ポケモンセンターで見た時に、確認は? 彼女、二十歳なんですよ」
 直斗の動きが一瞬、止まる。それは不自然なくらい長い一瞬だったのだけれど、夏輝は気付かずに話続ける。
「十二歳とか十五歳とかで旅をしてる子は稀に見ますが。二十歳って高校でも大学でも中途半端ですし、何故でしょう?」
「妙だな」
 そう言う直斗の声も妙に上擦っている。流石に夏輝も直斗の様子に気付いたらしく、「どこか具合でも悪いんですか?」と尋ねてきた。
「悪いと言えば悪いな。食欲がない」それは心配だ。
「どうしたんでしょうね?」
「さあな」
 直斗は立ち上がると、場を辞した。後ろから、「明日非番なんですよ」と声が飛んでくる。
「どうせ事件の捜査が入るんじゃないのか?」
「知ってます? 私また捜査外されるんですよ! 今回は警部補にドロップキックかましました!」
 君はまたやらかしたのか、結城夏輝!

 警察署を出て、直斗は歩きだす。
「全く、結城は何回問題起こせば気が済むんだか。もう少し周りとの協調性があれば。目の付け所は悪くないんだが」
 リグレーに半ば独り言のように喋りかけつつ、直斗は道を右に曲がったり、左に曲がったりした。自分でどこを歩いているか、把握していないものらしい。居た堪れなくなって、僕は直斗の耳の後ろを軽く叩いた。しかし、直斗は気付かない。そのまましばらく道を進んで、途中で気付いて引き返した。
「あいつは柿崎じゃなかったはずだ」
 そんなことをリグレーに確かめつつ。いや、この国で結婚したら、大半の女性の苗字は変わるからね。
 直斗が二十歳という年齢に反応するのには、わけがある。要するに男女関係になって逃げましたというわけだが。それだけなら、良くないけれど、まだ良かった。あまり真面目に年齢を逆算されては、困ったことになる。いや、直斗がちゃんと話していれば、いや、場の雰囲気に流されなければ、というか僕がしっかりしていれば……。
 そんなわけで、直斗は今年で二十歳ぐらいの人間を見かけると、どうしても、それとなく、家族関係を探らずにはいられない。その性癖の所為で結果的にポケモンセンターの須藤光一に慕われることになったのだが、人生何がどう転ぶか分からないとはこのことだ。その時、既に転倒していたけれども。
「生まれてるかどうかも分からない人間だ。まさか俺を探す為に旅に出たわけでもないと思う」
 な、と直斗はリグレーに同意を求める。
 リグレーは首を横に傾けて不賛成を示した。嘘でも頷くとこだろ、そこは。

 やや回り道をして事務所に戻ると、本日二度目の山ん婆と遭遇した。もっとも髪を整えてきたから、もう山ん婆ではなくなっていたけれど。
「貼り紙を見ませんでしたか? 今日は店仕舞いです」
「今日が駄目なら明日にするから」
 しれっと元山ん婆、柿崎凛子が答える。髪に櫛を入れた今は、吃驚する程普通の女の子に見えた。
「警察呼びますよ、柿崎凛子さん」
 直斗はそう言って、貼り紙はそのまま、事務所へと戻る。「ちょっと!」閉めようとしたドアに足を挟まれた。
「事件のこと、どうなったの?」
「当事務所では刑事事件の捜査は行なっておりません」
「じゃあ行方調査! 犯人探しじゃなくて、私の個人的な依頼なの。話だけでも聞いてくれない?」
 流石にこれには直斗も観念して、ドアを開いた。そして、彼女を中に入れた。どうせ、今日無理だと言っても明日来るに決まっている。どうせ犯人探しじゃない行方調査と言いつつ、犯人探しをねじ込んでくるのだろうが、彼女は諦めないのだろうし、それに、直斗も事件のことは気になっているようだから、どのみち首を突っ込むのだろう。お人好しだ、直斗は。
 直斗は凛子を誘って、事務所の応接スペースに向かった。凛子は途中、足をさすってから直斗を追いかけた。どうやら、さっき挟んだのが意外と痛かったらしい。ざまあみろ、だ。二人は背の低い机を挟んで、向かい合わせになるように座る。先に座った直斗を見て、凛子が感心したように声を上げた。
「探偵さんって、目が青色なんだ。いいなあ。私も青色が良かったなあ」
 直斗は少し癇に障ったようだった。目の色に触れられるのは、嫌いなんだ。
「目の色で探偵業が捗るわけではありませんよ」
「でもいいなあ。私には遺伝しなかったんだよね。あ、サングラスしてるのってその所為? 青い目の人は強い光が苦手って聞くから」
「ご依頼の件は」
 延々続きそうな凛子の目の色談義をぶった切って、直斗が言う。凛子はむう、と頬を膨らませた。なるほど、仕草だけ見れば、子どもっぽい二十歳と言われて納得できる。肌年齢は三十路だが。
 凛子は前に身を乗り出すと、直斗の目を見るようにしてこう言った。
「私の父親を探してほしいの」
 直斗はポーカーフェイスで、凛子に先を話すよう促した。
 凛子は乗り出していた体を伸ばし、背筋を伸ばすと、少し考えてから言葉を紡ぎだした。
「私のお父さんは、私が生まれる前にいなくなったの。元々トレーナーとして、旅してる途中の恋愛だったの。妊娠して、そのまま二人とも旅を続けて、別の道を選んだっきり、会えなかったの。写真とかはないから、手がかりはお母さんの言葉だけ」
 そこで凛子は間を置いた。そして、鞄から何かを取り出しながら、
「それも、黒髪で若い男の人とかで、当てにならないから」
「そんな人間は、この国にはごまんといる」
「うん、で、ね。私はこれで探すことにしたの」
 凛子は鞄から出した手の平サイズの物を、直斗に見えるように差し出した。
「タロットカードですか」
「これはジャギーカード。確かに似てるけど、ちょっとルールが違うの。絵柄が人間じゃなくてポケモンって決まってて、全部で二十五枚。逆位置や正位置はなくて、純粋に出てきた絵柄で占う」
「二十五枚、カードの一組の枚数としては、少なくありませんか?」
「そうね。一般的なトランプカードは一組五十二枚、占いでよく使われるタロットカードは一組七十八枚。でも、タロットで使われるのは大抵、大アルカナの二十二枚組だし、それにこのカードは、絵柄がポケモンでしょ? 占う人の手持ちポケモンから特徴的な示唆を得られるから、枚数は問題じゃなくなるの」
 舌がよく回る娘だ。占い師としてやっていけるんではなかろうか。
 直斗はジャギーカードの絵柄を見ながら、いかにも不思議そうにこう言った。
「そのような手段があるなら、探偵の力は必要ないのでは?」
「有り有り、大有りなの!」
 凛子は大げさに手を振ってみせた。不自然な程芝居がかった仕草で、直斗を指差した。
「これは所詮占いだし、私は人探しの素人なのよ。プロの力が欲しいの。それと、人探しのプロに占いを見てもらって、私の力が人探しに役立つかどうか見てほしい」
「それは、どういう?」
 流石の直斗も、この説明は理解できず、聞き返した。
「つまりね」
 凛子は再び身を乗り出す。
「私の占いでね、探偵さんの真実をどこまで当てられるか、力量を試したいの」
「それは、そこら辺の人に頼めば済む話では?」
「駄目なのよ。占いしますって言って集まる人って、そもそも占いしたい人でしょ? 協力的だから、試金石にならないの」
 凛子は胸の前で手を合わせてみせた。直斗は腕を組んで沈黙の時間を少し稼いでから、口を開いた。
「私には、君がどうしても私を占いたいように見える」
「ばれた?」
 何かと言って誤魔化すかと思いきや、凛子はあっさり認めてしまった。
「実は、私は探偵さんに個人的な興味があってね」
「そうか」
「ね、だから占いしていい?」
 直斗は脱力したように、「そうか」ともう一度言った。直斗は容姿の所為で、『個人的な興味』を持たれることがよくあるのだ。しかし、お茶や映画の誘いはよくあったが、占いのお誘いとは新しい。凛子は意外と強敵ではないだろうか。
「じゃあ、占いたければどうぞ」
「やった」
「その前に」
 直斗は手を上げて、凛子を制した。
「今回の事件、友人が巻き込まれたのを占いで察知したと聞きました。その話を詳しく聞かせて貰えませんか?」
 言い終えると、直斗は手を膝の上で組んで、傾聴の姿勢に入る。
「ええっと、昨日のこと? うん」
 直斗の目が鋭く光った。占いの好きそうな女の子のこと、この話を持ち出せば喜んで喋り出すと思っていた。だが、なんだか歯切れが悪い。
 凛子は頻りと、直斗の左後ろに掛かっている時計を見つめた。まるで、何かを思い出そうとしているように。そして、時計の秒針に合わせて何度か頷いてから、その時の話を始めた。
「今朝早く、胸騒ぎがして目が覚めたの。そしたら安藤さんがいないし、何かあったのかなと思って、ジャギーカードを並べてみたら、私に一番近い男性に凶相、と出たの。普段ならちょっと運が悪いくらいだと思って気にしないんだけど、大きな荷物が置きっぱなしで。それで私、不安になって、彼のケータイに電話してみたの。病院の人が出てくれたから、思わず『家族です』って嘘ついて、面会に行っちゃった」
 凛子はそこまで早口で言うと、息をついた。
「その時のカードは?」
「え?」
「占いをしていたんですよね? 凶相と出た、その時のポケモンのカードは?」
 明らかに、彼女は動揺した。目を思い切り直斗から逸らすと、「ミミロル」と小声で答えた。
「そうか」
 直斗は不意に僕を外した。そして、目を逸らした凛子を、羨ましがられる青色の目で見つめた。
 そして、こう言った。
「君は嘘をついている」
 カチ、コチと時計の秒針の音が響いていた。まるで時間それ自体が止まってしまったかのように呆然としていた凛子だが、我に返ると、「ほんとのことだよ」とおどけてみせた。しかし、直斗も譲らない。
「いや、違うな。ついでに、俺を占いたいという話も、大筋では嘘だろう」
「なんでそこまで言うの?」
 根拠があるなら見せてよ、と凛子は言った。直斗は僕を手に持ったまま、空いた方の手で、彼女の手の中のジャギーカードを指差した。
「そのカードだよ。俺がさっき見た一組の中に、ミミロルはなかった」
 単純な話だ。
 凛子は直斗を見た。そして、手の中のカードを見ると、苦笑した。見ていると不思議な気分になる、清々しい苦笑で、彼女は「ばれちゃった!」と言うと、手の中の一組を机に置いてから、鞄の中に手を突っ込んだ。
 すると、机の上に置いたのとそっくりなジャギーカードが、一組、二組、三組、四組、五組、六組。
「地元とか、旅先で出会った友人に描いてもらってたの」
 彼女は計七組百七十五枚のカードを、全て表にして広げた。色んな地方の色んなポケモンが描かれている。よく見ると、絵のタッチは似ているが、違う人のものだ。
「ポケモンも地方差ってあるでしょ? 色んな組のカードがあった方がいいなー、と思って。ちなみに一応これ全部、オンリーワンのカードだからね?」
 ミミロルのカードがあった。無難に、両耳を伸ばしてこちらを向いている構図だ。一体これのどこが凶相のカードなのやら。
 直斗はメタモンのカードを取り上げると、裏表と見て、机の上に戻した。
 凛子の方は、ミミロルのカードを持ち上げて話を続ける。
「ジャギーカード占いっていうのも、でっち上げなの。その人の手持ちポケモンや出身地から、馴染みの深そうなポケモンや思い入れのありそうなポケモンのカードを選んで、二十五枚のセットを組むの。でもって、引いたカードにそれらしい説明を付けるの。私、手品もちょっとかじってるから、少しは思い通りのカードも引けるしね」
 凛子は近くに散らばっていたカードを適当に集めると、何度か切って直斗に差し出した。直斗は一番上のカードを取る。「タツベイよ」その通りだった。
「あなたは向上心があり、常に努力を怠らない人です。常に大局的な物の見方を試みますが、目の前の物事に集中して、周りが見えなくなることもあります。夢や目標に対しては頑固ですが、環境の変化には柔軟に対応します……なんてね」
「大抵の人間はそれで当たっていると思うわけか」
 直斗は引いたカードを返した。
「君は、自分の母親の手持ちポケモンを交ぜたセットを組み、かつ、わざとそのポケモンたちを引いて、並べていたんじゃないか? そのポケモンたちの組み合わせに反応する人間が、自分の父親だろうから」
「当たり」
 凛子はミミロルのカードを脇に除けると、散らばったカードから、六枚、つまみ上げて、こちらに見えるように表をかざした。
 ラッタ、オオスバメ、メノクラゲ、サイホーン、ロコン、ネイティオ。
 僕が反応した。思わず体が変形しそうになるのを耐え、僕は視覚器官だけ移動させて直斗を見た。いつもの青い目、いつものポーカーフェイス。
「どうも俺は、君に疑われているらしい」
 微笑を浮かべると、直斗は僕を掛け直す。
「自分に遺伝しなかった、と言っていたところを見るに、その失踪した父親というのは青い目だったんだろうな」
「先入観を抱かせるつもりはなかったんだけど。口って災いの元ね」
 そう言うと凛子は、カードの海の中からメタモンのカードを取り上げた。
「父親探しは頓挫したようだし、目下の問題は」
 直斗はミミロルのカードを持ち上げた。
「こいつだな」

「ところで、なんで途中から丁寧語じゃなくなったの?」
「君が一向に丁寧語で喋らないから、途中で面倒になった」

 直斗は再び、暑い中ポケモンセンターまで繰り出した。何故か凛子も一緒だ。
「君は付いてこなくていい」と言ったが、案の定、付いてきた。
「探偵さんの仕事に、興味あるから」そう言って笑みを浮かべたが、僕としては、直斗が彼女の父親だという証拠を探し出そうとしているみたいに思えて、気が気でない。直斗は平気なんだろうか。まあ、まだ親子だと決まったわけじゃない。凛子の母親の手持ちポケモンと、直斗がその昔愛した女性の手持ちポケモンが一緒だなんて、ただの偶然かもしれないじゃないか。
 私立ジムの前を通る時、再びリグレーが文句を言ったことを除けば、概ね平和な道中だった。それと、凛子が私立ジムについて尋ねたこと、リグレーのことを聞きたがったことぐらいだ。私立ジムについては、直斗は知らないと答えた。旅のトレーナーの情報網に乗っていないジムだそうだが、後で凛子が勝手に調べるだろう。リグレーについては、この国には生息していないポケモンだと、直斗は簡単に説明した。
「じゃあ、高値がつくから誘拐されちゃったり、そういう心配ってしない?」
「しない。イドラは足を切られてるから」
 淡々とした直斗の台詞に、凛子は顔を歪めて「かわいそう」と叫んだ。「ところで」と直斗が話題を戻す。
「ポケモンの誘拐が多いのか?」
 凛子は眉間に皺を寄せて、「うーん」と唸った。彼女は意外と、リアクションが大きい子だと思う。
「噂は聞いたことあるけど、実際の被害は聞いたことないや。それよりか、他の地方のポケモンを連れてきて、無闇に繁殖して売りさばいて、残った個体が逃げ出して野生化したりとか、そういう被害の方がよく聞くよ」
 そういえば、警察署にポスターが貼ってあった。『ポケモンの無責任な繁殖・売買は違法です』――凛子は息継ぎをして、続けた。
「安藤さんを占った時にね、彼、ミミロルのカードを見て、変な反応したのよ。どう変か、って聞かれると困るんだけど。だから私、カードの位置の解釈を変えて、反応を見てみたの」
「解釈って、変えていいのか?」
「いいのよ。私が始祖の占いなんだから」
 凛子はリグレーを抱っこしてから、話の続きをする。僕は、その点は凛子を評価することにした。重いリグレーを抱きかかえて、直斗の負担を減らしてくれるとは。でも、まだ信用したわけじゃない。
「その時は、将来について占ってたんだけど。このままトレーナー続けるべきか、諦めて就職口を探すべきかって。普段なら、ミミロルは飛び跳ねるから、大きなギャップを飛び越えなければならないでしょう、みたいな解釈を出すんだけど、その時は、『この位置にあるカードは、凶兆を示しています。あなたが未来にやろうとしていることは、これによって困難に陥るでしょう』って言ったの」
「それで?」
「『やっぱりやめた方がいいか』って彼が言った」
 ポケモンセンターの自動扉をくぐる。
「何が、って聞いても、はぐらかされたんだけど。その夜よ、彼がいなくなったの」
 涼しい風が体全体に当たる。暑さで溶けかけていた僕は、身を持ち直してこっそり深呼吸した。
「少しの間だけど、一緒に旅をした仲だし。ミミロルのことがあるから気になっちゃって。それでね、私、思ったんだけど」
 直斗の方を向こうと、後ろ向きに歩き出した途端、凛子はロビーの椅子に引っかかって倒れた。幸い、椅子に座り込む形になったので、怪我はなかったものの、万一抱いているリグレーが怪我したらどうするつもりだったのだと問いたい。直斗が困るじゃないか。
 直斗はというと、「大丈夫か」と凛子に尋ねて、彼女の隣に座った。全く、お人好しだ。
 凛子は足をひょいと上げると、カウンターの方を向いて座った。直斗も彼女に合わせて体の向きを変える。
 凛子はリグレーを膝の上に乗せると、さっきの話の続きを始めた。
「でね、ミミロルとその進化形のミミロップって、この地方にはいないけど、紹介されて人気はあるじゃない? だから、ミミロルやミミロップの強制繁殖とか違法売買とかがされてるんじゃないか、って推理したわけ。そして、彼はそれに関わって、何かあって、昏睡状態になっちゃった。
 でも、そこからどう進めればいいか分からなかったし、警察に言おうにも、わけを話したら、彼に前科がつくって思って。それでひとまず、探偵さんを頼ったの。でも、本当に彼が犯罪に関わってたとしたら、前科とかも仕方ないことなんだよね」
 全部言い終えると、凛子は直斗の顔を覗き込んだ。
「ねえ、さっきから黙ってるけど、大丈夫?」
 言われて、直斗は背筋を伸ばした。
「大丈夫。ちょっと考え事してただけだ」
「そう?」
 凛子は不服そうな顔をした。「顔色悪いよ?」
「光の加減だろ」
 そう言って、直斗はそっぽを向く。僕には近すぎてよく分からないのだけれど、言われてみれば、確かに、顔が青い気がする。
「本当に大丈夫?」
「海原さん」
 第三者の、明るい声が割って入った。直斗と凛子が彼を見上げる。直斗の快い協力者、須藤光一だ。
「また何かご用事ですか?」
 今朝来てまた今来たことに、疑問はないらしい。普段はもう少ししっかりしているのだが、時折心配な程鈍感になる。今も、ありがたいことに、直斗の不調には気付かないでいてくれている。
「ああ。最近、ミミロルやミミロップの所持が増えてないかどうか、データを見てみたい。あと、モンスターボールの売り上げのデータ」
「モンスターボールの売り上げはすぐ出ますが、ポケモンの所持の方は時間掛かりますよ。掛けてお待ちください」
 そうやって、直斗に対してポンポンとデータを出してしまうのは、どうなのだろう。意気揚々と持ち場に戻りかけた光一だったが、途中で振り向くと、
「海原さん、具合悪そうだけど、大丈夫っすか?」
 余計な一言を言った。
「食あたりだ」
「最近暑いですものね。気を付けてくださいよ」
 直斗の言葉を簡単に信じて、光一は今度こそバックヤードに去っていく。素直なのは美点でもあるが、その内詐欺の被害に遭わないか心配だ。それで直斗が二次被害に遭わなければ、僕は別にいいのだけれど。
 思いがけず、後ろから襲撃者はやってきた。
「食あたりって、何食べたの? 食欲ないんじゃなかったの?」
 直斗と凛子が振り向く。やはり、刑事の結城夏輝だった。まだ一日の業務は終わっていない時間だろうに、何故かもう私服に着替えている。パーカーに綿パンという格好だが、色合いがハスブレロ。センスない。
「お前、非番は明日じゃなかったのか?」
「知ってます? 私、今日から謹慎なんですよ」
 やっぱり。同じ日に一体何をやらかしたのかとも思うが、聞きたくない。「謹慎なら家で大人しくしとけよ」という直斗の言葉を無視して、夏輝は凛子にすっと視線をずらした。
「おーっ、ユーは明け方のタロット娘!」
「その節はどうも」
 凛子は大人しく頭を下げる。
「私は捜査外されたからユーの手伝いは出来ないけど。自慢のタロットで犯人見つかるといいね」
 あはは、と凛子は笑って誤魔化す。
「ま、この人はこう見えて優秀な元刑事で現探偵さんだから、頼れば解決すると思うよ」
「俺としては、お前が事件を解決したという知らせを聞いてみたい」
「ま、その内」と答える夏輝。「それと」夏輝は一歩下がると、二人の顔を交互に見た。
「さっき立ち聞きしてしまいましたが、もしかしてミミロル系統の闇取引について捜査してらっしゃる?」
 はじまった、と僕は思った。結城夏輝は激昂して上司に頭突きしたり裏拳を食らわしたりしなければ、そこそこいい刑事なのだ。
「だとすればそれは十中八九、カラ取り引きですよ。つい先月、ここいら一帯で大規模摘発がありまして、主要な闇繁殖場をぶっ壊しちゃったんです。それ以後、目立った取り引きはありませんし、今から大規模繁殖を始めようにも、もう供給過多ですから」
「供給過多?」
 凛子が首を傾げる。夏輝はいつもと変わらぬ調子で答えた。
「もう売りすぎちゃってね、ミミロルを買いたいって人にはほぼ行き渡ったってことです。他にもパチリスとかザングースとかアブソルとかが供給過多になってましたね。繁殖させるだけさせて、買い手がつかない状況でした。そこら辺の種類の取り引きは、しばらく収まってると思います。繁殖場はさっきも言ったように、破壊してしまったので」
 それじゃ、と言って夏輝は背を向ける。と思いきや、「本来の目的を忘れてた」と言って戻ってきた。カウンターまで行き呼び鈴を鳴らす。間もなく現れた光一に、夏輝は「健康診断お願い」と言ってモンスターボールを預けた。
「あの、夏輝さん」
「何だい?」
 トレーナーカードを取り出し、ポケモン預け入れの手続きをしている夏輝に、凛子が問いかける。
「繁殖場とか、そこで生まれたポケモンがいるんですよね。そういう子たちって、事件の後、どうなるんですか?」
「一応、引き取ってくれる人や慈善団体に渡すべし、ってことになってます。でも実際は殺処分。生まれたても何も、関係なしにね」
「分かりました。答えてくださってありがとうございます」
 凛子は夏輝に頭を下げると、立ち上がった。
「あのさ、ちょっと出よう」
 凛子はやや強引に直斗の手を引っ張ると、ポケモンセンターの外へ出た。

 外は相変わらず暑かった。太陽はまだまだ、沈む気配を見せない。
「あそこのお店に入ろう」
 そう言って凛子が指差したのは、有名な量産ブランドを取り扱っている靴屋だ。チョイスが喫茶店とかでないのがよく分からなかったが、入ってみて納得した。靴屋には、靴を履いて合わせる為の椅子がそこここにある。二人は大きめの椅子を選ぶと、並んで座った。直斗は手で顔を扇いだ。ポケモンセンターと比べると、この靴屋の気温は生温い。
「ごめん。なんかさっきの話聞いて、あそこには居辛くて」
 直斗は「構わん」と言った。しかし、凛子は聞いていないらしく、靴の箱の山を見回している。
「なんというか、ね」
 靴屋の生温い気温に慣れた頃、凛子は口を開いた。
「ユートピアってないんだなあ、って思ってさ。私の故郷の、ホウエン地方でもああいうことはあった」
「へえ、故郷はホウエンなのか」
 直斗は影でそっと胸を撫で下ろした。あの女性はジョウト地方の出身だ。
「うん。パパの実家がホウエンにあってね」
「パパ?」
 直斗が怪訝な顔をする。自分が何を言ったか気付いていなかったらしい。凛子は直斗の顔を見てから気付いて、説明を始めた。
「お母さんはジョウト地方の人で、ジョウトで私を生んだの。そんで、子どもを連れて苦労してたお母さんを援助して、結婚もしてくれて、助けてくれたのが私のパパ。パパはホウエン地方の人なんだ。後で家族皆、ホウエンに移り住んだの。パパは私にもよくしてくれるの。本当にいい人」
 凛子はそこまで言うと、ふっと笑った。いい話だというのに、妙に寂しげな笑みだった。
「そんなにいい人が父親なら、なんで生物学上の親探しなんか」
 そう言う直斗は、少し苦々しげだった。彼は、生物学上の親にも、法律上の親にも恵まれなかった。
「幸せじゃないから、かな」
 直斗は、凛子から目を逸らした。凛子は話し続けている。
「お母さんが今年のはじめに亡くなってね。お母さんは、私の生物学上の父親のことをずっと気にしてた。死ぬ間際までずっとその人のことを言ってて。それは、お母さんの青春の思い出かもしれないけど、それじゃ、お母さんを看取ったパパがかわいそう。私にかわいそうって思われる状態になっちゃったことがすごく嫌。お母さんは死んじゃったのに、後に残った私とパパの上に、その生物学上の父親の影がちらついてて。なんだかやりづらくなるの。だからさ、いっそ生物学上の父親を探しだして、その人が生身の人間だって分かれば、そういう影も怯える必要もない。私のパパがどういう人で、お父さんはどういう人か分かれば、それならなんとかやっていけると思うの。だからね、この機会に私、大学休学して旅に出ちゃった。元々、旅には出てみたかったし、ポケモン育てるのも好きだし、パパも応援してくれたから。でも、色々世間の汚い面も見てきて、悲しかったな。ホウエンでもポケモンの殺処分はあったし、こっちはもっと制度が整ってるかと思ったけど、変わりないんだね。ま、同じ国だしこんなもんか」
 凛子は虚ろな笑い声を上げた。
「このまま、お父さんも見つからずに帰ることになるのかな。休学は一年、って、パパと決めてるんだよね」
 そしてまた、笑う。
「もちろん楽しいこともあったけどね。
 ねえ、探偵さんは私の父親じゃないの?」
 まるで、時限爆弾が放り込まれたみたいに感じた。触ったら爆発する。でも、時間切れでも爆発する。直斗はしばらくの間、無反応だった。それから、「計算が合わない」と淡々と告げる。
「俺は今年で三十六なんだ。お前が今二十歳だから、俺は十五か十六で子どもをこしらえたことになる。それはまずいだろう」
「それが、合ってるんだ。お母さんがそう言ってた」
 直斗は凛子に完全に背を向けた。そして、肩を竦めてみせる。
「それが事実なら、放っておけばいいだろう、そんな奴。そんな歳で子どもを作るなんて、どうせろくでなしだ」
「仮にそうだとしても、私の親なのよ? もうちょっと言葉を選べない?」
 鍋が沸騰するように、急に凛子は怒りだした。僕には理解できない。何故会ったこともない、血の繋がりがあるだけの親を擁護できるんだ? 君には既に、理解力ある素晴らしいパパがいるじゃないか。そっちの、素晴らしいパパの元へ帰れよ。直斗の過去を突き回して、彼の幸福を減らす真似はやめてくれ。
 これ以上彼に付きまとうなら、“僕は契約を無視するぞ”――
 直斗の指が僕に触れて、我に返った。そのまま彼は何気なく僕を掛け直す。
 ずっと、直斗の傍にいた。直斗の膝の上が僕の居場所で、直斗の手の平の温もりが僕の存在理由だった。今、僕は彼の鼻の上で固まって、もう指先でしか触れて貰えない。僕の幸福は、どこへ消えていったのだろう。その分、直斗が幸福になってくれればよかったのに、なんで。僕は思考を停止させる。後悔の無限ループを終わらせる。過去はもう、終わったんだ。
「最大多数の最大幸福」
 直斗が呟く。凛子は戸惑ったように直斗を見上げた。
「幸福の量が一番大きくなるように、社会が運営されることを理想とする。功利主義の考え方だ」
 直斗は立ち上がった。
「誰かの幸福は誰かの不幸だ。誰かが儲ければ誰かが損をする。この世界の幸福の最大値は、決まってるんだ。なら、幸せな誰かは、それ以上欲張るべきじゃない。幸せになろうとして、却って不幸な目に遭ってると自覚があるなら余計に。さっさと元いた家に帰って、幸せな古巣で安穏としていればいい」
「そんなの」凛子は拳を握った。「そんなの、間違ってる」
 直斗は片手を上げた。直斗お得意の、詭弁だ。
「百匹の飢えたポケモンがいる。一匹が死んで九十九匹が飢えを凌げるなら、それは正義と言えないか」
「そんなの」
「そういうものだ」
 凛子は言い返す言葉を探している。言葉を探して、彼女は自分の靴先を見つめている。
「誰かがポケモンを売って儲けようとした。その結果が何千匹分のポケモンの処分だ。それを見て悲しいと思うなら……幸福の量を減らすなら、そんな無駄なことはせず、さっさと帰宅した方がいい」
 凛子は何か言いかけたが、直斗はそれを無視して、靴屋を出た。須藤光一に、用事を頼んだままだ。しかし、直斗はそれを忘れたのか、思い出せないのか、町をただ朦朧と進んだ。いつか、どこか分からない場所に出て、直斗は自嘲気味に呟いた。
「俺は、晶子と同じ返答を望んでいたのか」
 やっと世界には夕焼けが訪れたというのに、焦がされ続けていたこの町は、まだ酷く暑い。
「許してくれよ、ミーム」直斗が呟く。しかしその呟きは、僕には理解できない。
「返事は、なしか」 直斗はリグレーの鞄を背負い直すと、また当てもなく、歩き続けた。

 〜

 思えば生まれた時が、直斗の人生におけるケチのつきはじめだった。
 父親は見た目と金回りのいいクズだったそうだが、母親の妊娠が発覚した瞬間雲隠れした。母親も母親でクズで、生まれたばかりの直斗に名前を付ける代わりに、男を引き止めるのにクソ程の役にも立たなかったクズ呼ばわりした。臓器売りに売り飛ばされなかったのは不思議でもなんでもなくて、僕が直斗に興味を示して、四六時中ずっと彼の傍にいたからだった。その頃の僕は、まだポケモンだったので、直斗に降りかかる火の粉を払ってやっていた。あとは近所のおばさんから同情で貰うご飯を食べて、直斗は成長していった。
 しばらくしたら、母親は自分と息子を男に売り込んだとか言って、男の家に行って、結婚した。自分の体が魅力的だから高値で買われたのだと、堂々と吹聴して回るようなクズだった。そして昼間っから、いや、あんな女のことはどうでもいい。問題は、自分と“息子”を売り込んだと言っていた点だ。全く、最低な奴だ。結婚相手の男もだし女もだ。あの男、直斗に手を出そうとしやがった。今でも、一字一句、覚えている。「綺麗な目してるじゃねえか」そう言って、手を伸ばしてきた。僕は当然、激怒した。それでも理性は保っていて、何針か縫う大怪我ぐらいで済ませておいた。そんな甘っちょろいのじゃ駄目だったんだ。男は、怪我をしたから仕事が出来ないとかほざいて、女に働けと指示をした。出来る仕事は一種類だったけど。で、こともあろうに、直斗まで働かせようとした。直斗は逃げた。逃げても、何度か保護者どうとかという理由で連れ戻された。僕らはまた逃げ出した。何度も逃げる内に知恵がついてきて、僕らは戸籍を買うという方法を実践した。お金はゴミ山から金属を拾い、高レートのポケモンバトルを年上に吹っかけて、なんとか稼いだ。そして、少し高かったけれど、両親のいない、天涯孤独の身の上の潔白な人間の戸籍を買った。それが“海原直斗”という人間だった。実年齢より二つ年上だったけれど、直斗は大人っぽく見られたし、問題ないだろうと思っていた。
 彼は戸籍上十歳になったら即、初級のポケモンの取り扱い免許を取って旅に出た。そこからは根無し草生活だった。途中、コガネシティの路地裏で死にかけていたイーブイを拾ったりもして、そこそこ楽しくやっていた。
 人生に必要な大抵のことは、旅で出会った人たちから習った。最大多数の最大幸福、という言葉も、そういった人から学んだように思う。そこで僕らは思ったんだ。この世の幸福には最大値がある、皆が皆、幸せにはなれない、とね。僕ならそこで幸福を他人から奪ってしまえと思うのだけれど、直斗はそうではなくて、皆の幸せを願う優しい子だったから、僕はそれに付き従った。僕は直斗が大好きだからね。
 そうして、あの人に出会った。とても優しく、賢いかと思いきや、時々頭のネジがすっぽ抜けていた。直斗は彼女に出会って、恋らしきものをした。あれが恋かどうかは、ちょっと分からない。多分、あと二年遅く出会っていれば、二人はもっと幸福だった。
 彼女は直斗を、戸籍通りの年齢の青年として扱った。直斗も、そのつもりで振舞っていた。それがあんなことを引き起こすなんて、僕らは分かっていなかった。で、後になってとんずらした。一緒にいられる精神状態ではなかった。愛があった分、余計酷くなった。とにかく遠くへ行きたくて、直斗はその場で一番高かったチケットを買った。そして、船に乗ってイッシュに旅立った。
 イッシュではまた根無し草生活だった。悪くはなかった。一番良かったのは、目の色をどうこう言う人が少なかったこと。そこで流浪の生活を送り、リグレーを引き取って、直斗は再び故郷へ戻った。
 再び踏みしめた故郷の地には、何も残っていなかった。あの血の繋がりがあるという理由で直斗を好き勝手しようとしたクズも、そのクズを買って悦に入っていたクズも、行方不明でほぼ死亡者とニアリイコールの扱いを受けていた。昔の家も、いつの間にか取り壊されて、後に新しい建物が建っていた。
 ずいぶんと気分の晴れた直斗は、新しいことにチャレンジしてみることにした。それは、どこかに根を下ろしての生活。職業には、就職に有利なジムバッジもあったし安定しているという理由で、警察を選んだ。この頃は、幸せだったと思う。親友と呼んでいい存在が、一気に三人も出来た。彼らには、自分の本当の歳のことも話した程だった。戸籍を買ったことは言えなくて、自分が生まれた時に二歳年上の兄が死んだから、その籍に入れられたのだと、嘘をついたけれど。
 三人の内一人は、かわいくて、優しくて、聡明で、勇気のある女性だった。彼女が晶子だ。晶子は直斗を好いてくれていたみたいだが、直斗は決して、親友以上の関係になろうとしなかった。きっと、そろそろ幸福の量が天井を突いてしまうと、思っていたのだ。直斗は、頑なに晶子に手を出そうとしなかった。他に野郎が二人いた。そっちとくっついた方が、きっと彼女も幸せだと思いたかったのだろう。それが、たった一度だけ、その決意はたった一回だけ、揺れた。それがあんな結果になるなんて、運命は、どうしても直斗を叩き落さなければ気が済まないらしい。

「階段で上ろう」直斗は言った。
 ヤマブキの新名所、町を一望できる展望階のついたテレビ塔。確か、そういう触れ込みで完成した塔は、高くて、なんだかすごくて、観光やデートにはピッタリの場所だった。その高い展望階まで、階段で上ろうと、直斗は言ったのだ。
 晶子はエレベーターがあるのに、としばらく渋っていたが、やがて直斗に賛成した。そうね、警察官だもの。このくらい、運動しなくちゃあ。地上階でラージカップのソフトクリームを食べた彼女は、そう言って笑っていたのだった。
 あの塔の最上階、つまり展望階までは、エレベーターで行くことも出来たし、階段で行くことも出来た。エレベーターは長い順番待ちで、階段の方は、途中でばてても大丈夫なように、高さ数メートルごとに休憩所が設けられていた。それでも、階段で上る酔狂は少ない。時折下りの人とすれ違い、時折休憩所で休み、二人は黙々と、少しずつ最上階へ上っていった。
「疲れたけど、なんだか幸せ」
 何度目かの休憩所で、晶子はそう言った。「じゃあ、どこかで誰かが不幸になっている」直斗は淡々と言葉を発した。
「あら、そんなことないわ」
 そう言う晶子に、直斗は、あのひねくれた、百匹の飢えたポケモンの話をした。そして聞いた。君ならどうする? と。
「あら、簡単よ」晶子は微笑んだ。
「皆が少しずつ、犠牲になるの。そうしたら、独りだけ悲しい思いをしなくていいわ」
 ね、と言って、晶子は両手で直斗の手を包んだんだ。
 それから、二人は塔を上り進んだ。異変を感じたのは、直斗だった。彼は近くにあった休憩所にぱっと飛び込んで、そこでしばらくじっとしていた。それが正しい選択だった。そうしなければ、数秒後に階段を落下するように通過した人の群れによって、彼らはもみくちゃにされてしまっていただろうから。最悪、そこで圧死していたかもしれない。人の群れとはいうものの、実際は怯え狂ったケンタロスの群れみたいな勢いで、集団が通った瞬間、丈夫なはずの塔がぐらぐら揺れたようにさえ感じた。
「ここで待ってて」
 直斗は晶子にそう言い含めて、自分は上へ向かった。集団は上から下へ、転落するように進んでいった。つまり、上の展望階で何かが起こったのだ。直斗は、警察時代で培っていた正義感でもって、その原因を突き止めようと思った。嫌な予感がしていたから、晶子は連れて行かなかった。ここで待ってて、と言った。そして、直斗はその選択を後悔することになる。ずっと、ずっと、永遠に。でも、選択肢があって、その先がどれも絶望しかないとしたら、直斗は、一体どうしたら良かったんだ。一緒に連れて行って、あの光景を見せれば良かったのか? 彼女だけ先に避難させて、あの殺戮に巻き込めば良かったとでも? それとも、僕が残って、彼女の目も耳も塞いで、動けないようにしてやればよかっただろうか。そうすれば、僕が憎まれるだけで済む。それだけで済むなら、良かったんだ。
 展望階は、惨劇の後だった。後でバベルタワー事件と名付けられるこの惨劇。どこぞのカルト教団が起こしたものだったそうだ。神を呼ぶ、とか言って、やったそうだ。この場に居合わせず、後になって新聞でこの事件を読んでいたなら、どんなに良かっただろう。儀式と称された、人の所業とも思えないあの出来事を、薄っぺらい言葉の羅列で見ていたなら、どんなに良かったか。
 デュナミスもイドラもいたけれど、僕は怒りに任せて、教団の上層部がいる真っ只中へと飛び込んだ。そして、奴らを危うくミンチ肉にするところだった。それをしなかったのは、罪は法律で裁かれるべきだという、警察官のポケモンとしての最低限の矜持が、まだ僕の中に残っていたから。それと多分、直斗の止める声が聞こえたから。でも最低限半殺しにはした。だって、さ。どこの世界に、人間を切り刻んだ挙句、部位ごとに並べる狂人どもを擁護できる理論があるっていうんだい?
 狂人どものことは最早どうでもいいんだ。彼らは全員死刑になったそうじゃないか。もっとも、僕も死刑になるべきなのかもしれない。
 さて、僕は無我夢中で暴れまわった。狂人どもを粛清して、さあ地上に帰ろうと、笑顔で振り返った僕を迎えたものは……僕は自分の視覚が信じられなかった。
 直斗が死にかけていた。僕を止めようとして、僕に殺されかけたんだ。
 泣いた? 泣けなかった。僕に対する怒りと憎しみが強すぎて、別の物体に変異してしまいそうだった。必死に深呼吸を繰り返して、僕は体をずるずると引きずって直斗のところまで行って、そして、僕の体を部分部分に切り分けて変身させて、直斗の傷口を塞いだんだ。その頃の僕には、直斗とDNAレベルで同一の細胞に変化することなんて、朝飯前とは言わないけれど、出来たからさ。
 直斗は一度は死にかけた体を叱咤激励して、長い長い階段を、今度は降りていったんだ。エレベーターはもう使えない。だから、降りるしかなかった。パニックに陥った人が、人を轢きながら行軍したその痕を。
 ただ、晶子のことだけが支えだった。
 晶子は、休憩所にはいなかった。生きていてくれと願って、直斗は先へ進んだ。そうして、とうとう地上階へと辿り着いた。
 そこも、展望階とあまり変わらない惨劇があったようだった。でも、余りに感覚が麻痺していて、直斗は、その場で一人、佇んでいた晶子に歩み寄るので精一杯。
 彼女は泣いていた。
 そこで僕らは、やっとこさ、あの大きな鳥に気付いた。
 赤く燃える、太陽みたいな優しい炎。でも熱くて、恐ろしくもある。
 彼女はホウオウを連れていた。そして、バベルタワーの地上階で、ホウオウを解き放った。
 その時、願い事なんて、一つだろう。彼女は優しかった。
「お願い、皆を生き返らせて。お願い」
 でも、神様と呼ばれるポケモンにも、出来ないことはあるらしくて、ホウオウは首を横に振ったんだった。晶子は何度も、何度も、同じ言葉を繰り返した。お願いされる度に、ホウオウは首を横に振っていた。
「もういい。行け」
 直斗は言った。
「お前がテロリストのポケモンと勘違いされると困るから。晶子を連れて行け」
 ホウオウは、この指示には素直に頷いて、晶子を乗せて、とりあえず、遠くへ飛んでいった。
 その後になってようやく、警察隊が到着して、直斗にも、事情聴取をした。それから解放されて、何時間経ったのかすら分からない道を、直斗はフラフラ歩いた。そして、家に帰り、ベッドに倒れこんで、随分長いことうなされていた。
 そして、目覚めた時、僕は直斗と契約した。
 もう誰も傷つけないよう、僕は“物”になる。そして永遠に、ポケモンとしては活動しないことにする。それを破る唯一の例外は、直斗、君の言葉だけ。君の為なら僕はなんでもする。なんにでもなるよ。でも、その時が来るまで、僕は永遠に、

 さよなら。

 それが僕の贖罪。

 〜

 どんなに悔いても、どんなに憎んでも、朝はやってくるのだ。
 もう何も語るまい。もう何も感じるまい。僕は直斗の交換可能なサングラスとして、一生を過ごすんだ。
 コンコン、と事務所のドアが叩かれた。直斗は「少々お待ちを」と言って、髪を撫で付けてから、ドアに向かう。
「よう。おはよう」
「おはようございます、海原さん」
 そこにいたのは、須藤光一だった。「はい、これ」昨日頼んだ資料を、わざわざ持ってきてくれたらしい。「ああ、ありがとう」夏輝の情報で、ほぼ不要になってしまったのに、手間を掛けさせてしまった。
「あがるか? 何もないが」悪いと思ったのか、直斗がそう口にした。
「では、出勤までまだ時間があるので、失礼します」
 真面目にペコリと頭を下げて、光一は部屋に上がった。
 事務所にあったティーバッグの紅茶と、いつかどこかで貰った、とりあえず賞味期限前のクッキーを光一に出す。光一は、こちらが申し訳なくなるぐらい美味しそうにクッキーを食べて、「また、用事があったら言ってくださいね」と言っている。
「そのデータが事件解決につながったら嬉しいですね」
「そうだな」
 まさか不必要になったとは言えず、直斗は礼儀程度に、印刷されたデータを見ていた。ミミロル系統の取引数と、処分数が書かれたデータだ。取引数の、実に倍の数の個体が処分されている。しかし、夏輝に既に指摘された以上のことは見当たらないように見える。
「結城刑事なら、こういうのから真相をばばーっと言い当てるんですかねえ」
 光一は言いながら、クッキーの袋をひっくり返していた。「あ、もちろん海原さんもですよ。あれ?」光一が首を傾げた。
「クッキー、六個入りって書いてあるのに、僕、五つしか食べてないですよ?」
「俺は食べてない」
「ですよねえ」
 光一はキョロキョロと机の周囲を見回した。そして、「あっ」と叫んでティースプーンを紅茶へ突っ込んだ。「すいません、紅茶の中に落っこちてました」
 刹那、直斗はデータを机の上に叩きつけた。紅茶のカップが、小さく飛び跳ねてチャリンと鳴いた。光一が小鼠のように縮こまる。
「ああ、悪い。怒ったわけじゃない」
 言いながら、直斗の目はミミロルのデータを追っていた。
「悪い、光一。大至急頼まれてくれ」
「あ、はい。アブソルですか、パチリスですか、それとも」
「いや」
 直斗は顔を上げた。その目は強い光を湛えていた。
「ホウエン地方のデータだ」

 光一はその名に恥じない素早さでもって、頼まれたデータを持ってきた。こいつと夏輝が組めば、いいコンビになるかもしれない。そんなことを、僕はチラリと思う。
「やっぱりだ」
「何がですか?」
 データを検分した直斗が、二枚を光一の方に向けて、それぞれある一点を指し示す。
「こっちはこの町で起きたミミロルの大量売買、大量処分のデータ。こっちはホウエンの一都市で去年行われた、闇売買の大規模摘発の前後のデータ」
「はあ」
 直斗の指が、データの目盛りを指した。
「ここが大事だ。こっちのミミロルも、ホウエンの町の、これはコリンクか、どっちも同じくらいの数、取り引きされている」
「はあ」
 グラフは月日が経つにつれ、取り引き数という縦軸を増していく。だがある数量に達すると、それ以上は頭打ちとなり、やがて、減少に転じる。
「どっちも儲からなくなってから捕り物をやってるな。ここも何かありそうだが、目下のところは、これだ」
 直斗は処分数の項目を指し示す。
「全然数が違う」
「本当だ」
 光一はそこだけは分かったらしく、目を丸くして言う。
「取り引きした個体数は変わらないのに、ホウエン地方の方が処分数が遥かに多い。これだけじゃない。取り引きの規模と処分された個体数の割合を図ると、ホウエン地方は取り引き一に対して処分数が二十近い値になるが、この町では取り引きされたポケモンの倍程度しか処分されていない」
 凛子が言っていた、「制度が整っているかと思ったけど、ホウエンと変わりない」という言葉。多分、彼女は数字をどこかで見て、実際のシステムを夏輝から聞いて、その間にギャップを感じていたのだ。
 直斗はデータを置く。「どちらが正常なのか……」
 光一が直斗をちらりと見る。そして、口を開いた。
「僕、ポケモンセンターで聞いたことあります。優秀な個体を一匹手に入れる為に、何百匹もポケモンの子どもを産ませて、そこから厳選するんだ、って。だから、いい個体を選んで取り引きしてたなら……」
「取り引きされた一匹の個体の裏で、二十匹ぐらい闇から闇へ葬られていても、なんら不思議はないねえ。しかし、データに表れるのはごく一部で、実際は三十匹から五十匹は葬られていると聞くよ!」
 横から、夏輝が首を突っ込んできた。今日はケロマツカラーのジャージだった。
「お前、謹慎はどうなったんだ」
「やだなあ、私の謹慎と非番はイコールですよ。しかし、ホウエン地方のデータとは、思いつかなかったね!」
「須藤が探してくれたお陰だ」
「いえ、僕はただ言われて」
「しかも、取り引きの傾向がドンピシャ一致。よくこんなデータ見つけたね!」
「須藤が数、探してくれたからな」
「データ分析したのは海原さんですよ」
 光一は、殻にこもる亀みたいに、首をすっこめた。
「だが、手柄には違いない」
「お見事、お見事」と夏輝が囃し立てた。
「さて、横流しかな、食肉市場かな? 私がそのデータを照らし合わせて、数に合わないミミロルたちの行方、探しますね!」
 夏輝がデータに手を掛ける。
「いや、それは後でいい」
「ホワイ?」
 夏輝が首を傾げた。光一も一緒に首を傾げる。直斗は二人を見て、「見当は付いているから」と言った。
「ただし、須藤、出勤しろ。結城は自宅で謹慎しとけ。情報の裏付けやるだけだから、俺だけでいい」
 そんなあ、と夏輝は頬を膨らませた。光一は時計を見て、大慌てで事務所を飛び出した。夏輝は中々、その場から動かない。
「俺だけでいいーとか、死亡フラグじゃないですか。私も連れてってくださいよ」
「駄目だ。自宅謹慎っつったら自宅謹慎」
 直斗は夏輝の頭に手を乗せた。そして、クシャクシャと撫でる。
「まずは、自分の身の回りの法律を守れ。正義感ばっかあっても、自分が法律破ってるようじゃ、守る人間にはなれん」
「でも、海原さん……」
「出来るな?」
「……イエス」
 いつになく不貞腐れて、子どもっぽい表情になった夏輝を残して、直斗は心当たりの場所へと向かった。リグレーを置いて。

 ★

 テレビか何かで、見たことがあった。
 宿泊施設に置いてある、何の変哲もないメモ帳。あまりに平凡すぎて、必要な時にならないと、思い出されもしない存在。
 そのメモ帳の一番上に、そっと鉛筆を置いて、滑らせる。
 ドラマとかでは上手くいく。でも、こんなの、成功するのは前に書いた人が、よっぽど筆圧が強い場合だけだと思う。
 ほら、真っ黒になった。無理だった。
 柿崎凛子は紙を手放す。紙はヒラヒラと待って、ベッドの下に潜り込んだ。
 ああ、やっちゃった。掃除の人が困るから、拾っておこう。
 彼女は床に寝そべるようにして、覗き込む。
 答えはそこにあった。

 ★

 よく考えれば、おかしい点はいくらでもあった。
 なんといっても、私立ジムの癖に、誰かが出入りしているのを見たことがない。情報もないときた。それに、リグレーが異様に怖がっていた。
 ゴーストタイプ専門のジム、とはよく言ったもの。恐らく、ゴーストポケモンが生まれる元になりそうなエネルギーが、中に充満しているのだ。
「デュナミス、頼む」
 ボールから出現した水分子は、さっと地面に溶け込む。「さて」直斗は敷地を踏んで、扉に手をかけた。「頼もう、ってところかな」
 扉は無音で開いた。直斗は建物の内部へと踏み込む。誰かが最近、中に入ったのか、埃の薄く積もった廊下を歩き、もう一枚、現れた扉を開ける。
 くそ、と直斗は小さく毒づいた。
「デュナミス!」
 先程伏兵として配置した水分子を呼び戻す。
 ポケモンたちが、落ち窪んだ目を直斗に向けた。
 私立ジムの奥には、ジムバトルに相応しい、広大な空間。しかし、そこで行われていたのは、死臭漂うポケモンたちによるカゴメ・カゴメ。それ以外に何が行われていたかというと……周囲の壁に穿たれた鎖と、不自然に細かく配置されたパーティションを見れば分かりそうだ。
 床の配管を強行突破して出現したデュナミスが、元の形へと戻る。イーブイが水の加護を受けし、シャワーズ。ただし、多勢に無勢。
「海原さん!」
 ポケモンたちに囲まれていた女の子が、柿崎凛子が直斗を呼んだ。

「波乗り!」
 シャワーズが配管に残っていた水を強制集結させ、展開。
 排泄物のような、えぐい臭いの水がポケモンたちを押し流す。綺麗に揃えられていたパーティションをドミノのように押し倒し、隠れていたものが顕になる。鎖に繋がれていたのは、人だったものか。直斗と凛子も多少は被るが、それは必要上の犠牲。
 相手を倒せていれば、そうとも言えるのだが。
「ポケモンか……?」
 直斗が今しがた押し流されたはずのポケモンたちを見た。ダメージを受けているが、痛みを感じていると思えない。ミミロップ、アブソル、パチリス、コリンクに、ミカルゲ、ザングース、ヤミカラス、ピィ、トゲチック……多種に渡るポケモンたちの内、ゴーストタイプは先の波乗りで少し傷を負っている。それ以外のポケモンたちの眼窩は虚ろで、死臭を放っている。
「死体を念力かなんかで動かしてんのか。元を叩くぞ」
 直斗はデュナミスの名を呼ぶ。指示されたのは電光石火と溶けるの合わせ技。動く遺体をふっ飛ばし、あるいは溶けるで通過して、シャワーズは一気に距離を詰める。目指すは一躍暗所で目立つ回転体、この場で唯一のゴーストタイプ、ミカルゲ。
「ハイドロポンプ」
 激流、要石を穿つ。
 そして終わりだ。

 繰り人形たちが脆く崩れ去る。
 その中央で、汚水を被ってへたりこむ彼女に、直斗は歩み寄った。
「大丈夫か」
 そしてややあって、「凛子」と名前を呼ぶ。
 差し出された手に、凛子は素直に掴まった。
「お前はどうしてここに?」
 直斗に問われて、凛子は今にも泣き出しそうに顔を歪めて、涙声で話し始めた。
「ポケモンセンターの泊まってた部屋にあったメモ帳……使ってたみたいだから、もしかしたらと思って調べてみて、書き損じか要らなかったのか、ベッドの下にあって、それ見て」
「そうか。よく調べたが、無茶だったな」
 直斗は口元を緩めると、凛子の背中をトントンと叩く。「無茶じゃないもん……」凛子が蚊の鳴くような声で呟いた。モンスターボールは腰のベルトに六つ、揃っている。恐怖で身が竦んで出せなかっただけだろう。
「あ、そうだ、探偵さん」
「何だ?」
 凛子は無理に笑顔を作ろうとして、唇を歪めてから、直斗に「この前の問題」と
言った。
「百匹のポケモンが飢えてたら、畑に種を蒔いて、モンスターボールに入って、春まで待てばいいのよ」
「新理論だ」
 直斗はまんざらでもなさそうに、笑う。どちらともなく、扉の方へ向かった。

 何が起こったのか、直斗と一緒に吹き飛ばされた僕にさえ、よく分からなかった。
 ただ気付いたら、ジムの奥まで数十メートルの距離を、一気に飛ばされていた。
 僕も衝撃で、直斗のところから飛ぶ。バトルフィールドの隅っこに落ちたサングラスに、誰も興味を払わない。
 直斗が、手酷くふっ飛ばされたにも関わらず、起き上がって凛子の身を案じていた。
 凛子は、出口側のフィールドの端で、泣きそうな顔で、固まっていた。慌てて出したらしい、六匹のポケモンが彼女を囲んでいる。直斗はそれを見て、安堵の息を吐く。だが、エンディングよりゲームオーバーの方がより身近な状況であることに、変わりはないようだった。
「かーごめ かごめ」
 フィールド中に、黒い霧が生まれる。
「かーごのなーかのとーりーは」
 黒い霧に、目玉が生まれる、口が生まれる。
「いーつ いーつ でーやーる」
 ポケモンの遺体からも黒い物が湧き出て、それも別の異形を成す。
「よーあーけ の ばーん に」
 壁に繋がれていた人々からは、金の仮面を持った異形が生まれる。
「つーるとかーめがすーべった」
 霧はそれぞれに合体し、より協力な異形を生み出す。
「うしろのしょうめん」
 そして、
「だー あれ?」
 首だ。

 素早い身のこなしでその場から跳んだ直斗だったが、それでも足りなかった。
 この“場”から生まれたゴーストポケモンたちに押さえつけられ、あっという間に動けなくなる。地面に這いつくばる格好の直斗の前に、一際大きな影が差した。
『ケラ ケラ ケラ』
 奇妙に笑い声を響かせながら、それは出現した。
「サマヨールか」
 異形の首、サマヨールは、『クス クス クス』と再び響く笑い声を立てた。
「答えろ」直斗が叫ぶ。「お前らは、一体何をやっている?」
『オホ ホ ホ ホ』
「答えろと言っている」
『ウ フ フ アハ 見て分からない?』
 サマヨールは、一つしかない目で、うっとりの辺りを見回した。黒い霧でほとんど視界のないそこに、さも美しい偶像でもあるかのように。
『人間をつかまえてー オスとメスを同じ箱に入れてー しばらく放置しました
 人間たちがいつもやってることじゃない?』
 霧の向こうで、息を飲む音がしたような気がした。
 直斗は、サマヨールの目を真っ直ぐ見て答えた。
「赤子を産ませて、人身売買か」
 がん、がんと霧の向こうから大きな音がした。相変わらず、霧が濃くて姿が見えない。凛子は何をやっているんだ?
『フ フ フ あなたみたいな殿方は嫌いじゃないわよ?』
「ポケモンの遺体は何に使った?」
『クス クス クス』
 また、霧の向こうから大きな音。一体、何をやっているんだ?
『なあーん に も 本当はポケモンを飼育係にしようとしたの でも だ め ねえ すぐ 傷んで ゴーストポケモンに なっちゃう もーん』
 サマヨールの体を覆う包帯が、ボロボロと剥がれた。中から小さな、しかしもう原型をとどめていないポケモンの遺体がこぼれ落ちて、霧の中に消える。サマヨールは包帯を巻き直すと、『ケ ケ』と笑った。
『ほかーに 質問は ないかしらあ?』
「昏睡状態に陥った人間たちがいるな。あれは何の為だ」
『ウ ク ク ククククウククウク』
 一頻り奇っ怪な鳴き声を上げた後、サマヨールは愉快そうに答えた。
『人間だってするじゃなあい? 厳選 あれは 要らない 個体』
 サマヨールは顔をぐいと直斗に近づけた。『でも あなたは 優秀な 個体 かも?』サマヨールは、弦をバラバラに弾くような、奇っ怪な笑い声を上げた。そして、大きな手を直斗に伸ばす。直斗の顔が一瞬苦痛を堪えるように歪んだ。
 ――綺麗な目してるじゃねえか。
 駄目だ、直斗に触るんじゃない。僕は焦る。でも、声が出ない。出せない。僕は物だから、声を出せない。出しちゃいけない。動いちゃいけない。僕はいつも、間違いを選択してきた。
「ミーム」
 直斗の声。
 君は、誰を呼んでいるんだ。
「ミーム、助けてくれとは言わない。ただ、許してくれ」
 手が近付く。下卑た笑いが聞こえる。やめて、直斗に触らないで。
「いつもお前に頼って重荷を負わせていた。俺は見捨てられて当然だ。だから、ミーム」
 あのクズみたいな男の目が、サマヨールの手が僕の頭の中でグルグル回る。なんだよ、幸福の量はどれだけカツカツなんだ。僕らは幸せになっちゃいけないのか。僕と直斗は。
「変身を解いて、こっから凛子を連れて逃げろ。あんただけでも、幸せになればいい」
 違う。
 僕らは、本当は。そんなことを、願ったんじゃない。

 思い出した。


 熱いくらい眩しい光が、黒い霧のフィールドを照らし出した。
『ヤメロ』と叫びながら、サマヨールは空中で身を捩った。
「やめるもんか」
 僕のレパートリー中、最強の変身であんたらを終わらせてやる。
「直斗に手を出した罰だ」
 聖なる炎が、サマヨールの包帯を燃やしていく。
 世界中の弦を一斉に打ち鳴らしたような、凄まじい音を立てて、サマヨールが燃えていく。
『ク く や しい』
 燃える。サマヨールに中身はない。燃え尽きる。そうして、終わると思っていた。だが。
『これ デ おわる モノカ』
 サマヨールの赤い目が僕を見る。その瞬間、僕の脳みそを直接揺すられたような衝撃が走った。僕は空中で投げ出され――変身が解けていた。
 今のは怨念、か。それもとびっきり強力な。僕の中の技を使う力を、一気にゼロにしてきたらしい。そうすると、僕は変身できなくて、落ちる。
「ミーム」
 差し出された手の中に落ちた。ぺしょ、と間抜けな音が鳴る。久しぶりの感触。
「直斗」
 声帯の作成くらいは、まだ出来るらしい。もっと直斗の名を呼びたい。もっとその手で撫でていてほしい。でも、それどころじゃないみたいだ。
 直斗は僕を抱えたまま、後ろに下がる。さっきより大きな影が、建物の中に生まれていた。
 サマヨールの進化形、ヨノワール。
 さっきのサマヨールが、進化したようだ。燃え残りの包帯を払う。ばかりと腹が開く。世界中の嘲笑を混ぜ込んだような不快な声が、そこからジム全体に響いた。赤い一つ目が見開かれる。直斗がとっさに目を腕で覆うが、遅かった。
「直斗、くろいまなざし!」
「知ってる」
 これで、僕らがここから出るには、こいつを倒すしか方法がなくなってしまった。
「デュナミス、波乗り」
 シャワーズが声を上げて、水のうねりを生み出した。周囲に集まってきた雑魚ゴーストを、これで一掃する。だが、キリがない。まるで、無限に種を蒔いたかのように、フィールドから、ぼこぼことゴーストポケモンが湧いてきている。きっと、この地に恨みつらみが染みこんでこうなったんだ。
 周囲に集まってきたゴーストポケモンたちに、シャワーズが再度波乗りを仕掛ける。キリがない、と直斗も呟いた。
「凛子! お前だけでも先に逃げろ!」
 直斗は入り口の方向に向かって、そう叫んだ。
「嫌よ!」すぐさま返事が帰ってくる。
 凛子は自分のポケモンたちに周囲を守らせて、扉に何かしていた。十徳ナイフで、蝶番を何度も叩いていた。
「何その、自己犠牲カッコイイみたいな! 幸せの最大値とか小難しいこと言って、ばっかみたい!」
 凛子は叫ぶ。叫びながら、ナイフを打ちつけた。
「最大値があるなら、それを増やせばいいんでしょうが!」
 蝶番が、割れた。
 すぐさま彼女のキノガッサが掛け寄り、残りの蝶番を壊す、そして、扉を外した。
「最初からキノガッサでやれ」
「馬鹿で悪かったわね!」
 彼女は直斗に噛み付いてから、バトルフィールドから外へ続く廊下へ飛び込んだ。どうやら、そこにはゴーストポケモンたちは入れないらしい。
 凛子が、外側の扉に手を掛ける。扉を開く。
 太陽の光が、流れ込むように建物の中を満たした。
 と同時に、ゴーストポケモンたちの断末魔の声が、地面から吹き上がった。思わず耳を塞ぎ、耐える。たった数秒間の出来事。でもこの数秒間、僕は、まるで地獄の亡者たちの声の千年分、濃縮して聞かされているようなおぞましさを感じていたのだ。
 地獄のような数秒間が過ぎ、辺りは陽光に照らされた。
「勝ったなあ」
 殆ど落っこちるみたいに、直斗は仰向けに倒れた。僕を抱いたまま。空と、当たり前の廃墟が見えた。割れた窓から光が差し、蔦がたらりと伸びていた。昼だったのだ。さっきまで夜のように暗かったのが、嘘みたいだ。
 直斗と凛子を呼ぶ声が、外から聞こえてきた。「すいません、何故か鍵がかかってて」光一の声だ。「この建物の上に、暗雲が垂れ込めてたよ。扉を凛子嬢が開くと同時に、それが雲散霧消してね!」夏輝がいいものを発見した、と言う風に声を弾ませている。
「私、今回役に立たなかったなあ」
 一匹で落ち込んでいるのは、リグレーのイドラだ。
「気持ち悪い、って怖がってたから」
「置いてかれちゃって、可哀想に。そんなの、置いてく奴が悪いんだから」
 本物の怨嗟が混じった声でリグレーを慰めている凛子。
 そして、直斗。
「海原さん?」
 光一、夏輝、凛子の三人が交互に呼びかける。
「ちょっと、運ぶの面倒なんだから起きなさいよ」
 凛子が直斗の手を突く。しかし、直斗はピクリとも動かない。
 三人とポケモンたちは、互いに顔を見合わせた。

「最近顔色悪いとか調子悪いとか言ってたから、本気で心配したのよ? 何、結局お腹空いてただけ?」
「心配したのか」
「してません」
「今さっき」
「一瞬だけ!」
 散々うだうだ言っていた凛子も、光一と夏輝の二人に「他の人に迷惑だから」と窘められて、病室の外に退散していった。「やれやれ、やっと静かになった」直斗が身を横たえる。「静かがいいなら、僕は黙っとこうか」「好きにしてくれ」直斗が目を閉じる。じゃあ、好きにしよう。僕は直斗にそっと寄り添って、どうでもいい話をする。

 昏睡事件の被害者は、あれから皆、目を覚ました。今回の昏睡はポケモンでいう、極度のパワーポイント不足に当たるのではないかという推理がなされ、そしてその通り、被害者たちはヒメリの実を食べさせれば目を覚ましたらしい。あの場所で、恨みや怨念に散々当てられたのだろう。被害者は、ポケモンの闇取引という儲け話につられて来た人が大半だったそうだ。私立ジムに挑戦しようとした旅のトレーナーもいたけれど、それは少数だった。それと、野生のポケモンが加害者だったから、保険で補償されなければ、泣き寝入りするしかないようだ。
 今回の事件の真の被害者、人身売買に利用されていた人たちは、今、色んな組織が協力して、身元を特定している。でも、旅のトレーナーが多いみたいで、難航しているそう。赤子の方の行方は、悲しいけれど、もう分からないだろうということだ。
 夏輝と光一は相変わらずいい連中で、直斗のお見舞いによく来てくれる。その一方、データ集めのとデータ解析の鬼才の名コンビ誕生かと、ある方面から期待されているらしい。しかし、夏輝は未だに揉め事を起こす天才でもあるそうで、直斗はまだ彼女のことを心配している。
 直斗は倒れたついでだからと、精密検査を受けることになった。結果が出るのはもう少し先だ。よく考えてみたら二日近く食事をしていなくて、低血糖状態になっていたのだった。ちゃんと食べなさいよ、と凛子には散々、説教された。
 その凛子だが、後で聞いたら、なんでも事件被害者の安藤といい関係だったらしい。僕が見る限り、安藤は格好良くないし、楽して暮らせればいいやみたいな人間で、そんなんだから闇取引に引っかかるのだが、何故凛子と付き合っていたのか分からない。凛子は、ヒモ男に吸い寄せられるタイプなのだろうか。そうなるとこれから、心配しなくちゃならない。
 そう、直斗は凛子に、自分が父親であることを打ち明けた。……のだが、結果は「知ってた」という惨憺たるものであった。凛子は、父親が黒髪で、青い目で、イケメンで、名前が海原直斗であることを、母親から聞いて知っていたそうだ。だったらあの手の込んだ占いカードはなんだったんだというと、直斗から言ってほしかったのだと。
 それから、リグレーのイドラのこと。イドラはポケモン用車椅子の訓練をすることになった。そうすれば、今よりもっと上手に、念力で移動出来るようになるのだという。僕としては、直斗にあまり世話をかけなければ、それでよい。
 そして、僕のこと。
「思い出したよ」
「そうか」
 直斗は、それだけ言って、再び目を閉じた。「もう、“物”でいいなんて言うなよ」そう、僕に言い含めて。
 僕も目を閉じた。
 昔から、僕はちょっと変なメタモンだった。部分的な変身が得意で、声帯模写も得意。だから、そんな僕が直斗と出会えば、彼に変身してみようと思うのも、当然のことで。
 はじめはちょっとした気持ちで始めたことが、途中から、直斗が言い寄られたり、迫られたりすることから庇うことになって、そうやって近付いてくる人を傷つけることになって、いつの間にか、僕はミームとして傷つけたのか直斗として傷ついたのか、分からなくなっていた。それが、塔のことがあって、僕は、直斗が傷ついていたことを盾にして、他人を傷つけていたのだと知った。だから、何も傷つけない“物”になろうと思った。でも、それが却って直斗を傷つけて、けれども僕はポケモンに戻ることもできなくて、僕らは一緒に手に入るはずの幸せを目減りさせていた。でも、そんな後悔も贖罪ももう終わり。
 これからは、もっと心安く過ごせる。最初のきっかけを、思い出すことが出来たから。
 ――僕が直斗に変身したら、僕らの幸せは二倍になる。
 たったそれだけの、僕らの変身の方程式。
 とても簡単な、幸せの最大値の増やし方。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー