悪徳勝法の馬鹿試合
1
目を開けた瞬間、目が合った。
眠りから覚めたばかりの青年は、今、知らない誰かと見つめ合っていることに気付く。
寝惚けた脳裏に暗黙の了解がよぎる。
目があったらポケモンバトル。
頭の中でけたたましい警報が鳴り響いた。
きけんよち。
みぶるいした。
眠気が一気に吹き飛んだ。
未だぼやけている視界の真ん中で、おぼろげな人影を確認した。
華奢なシルエットが純白の後光を放っている。
知らない誰かは、朝の太陽を背負うようにして突っ立っていた。
「そこのポケモントレーナーさん! ちょっとお時間よろしいですか?」
始めて耳にする声だった。
聞くだけで癒されるような、幼さの残る高い声。
相手が年頃の若い女性だと分かった途端、
たちまち青年の初心が震えだした。
知らない女性がこちらに向かって歩いて来る。
何かを期待せずにはいられなかった。
ふと青年は、自分が椅子に座っていることに気が付いた。
昨晩、公園のベンチで野宿したことを思い出す。
顔を上げると、知らない誰かは、もう目の前にまで迫っていた。
はちきれんばかりのむちむちした、抱き心地抜群であろう青い果実が、
今、青年の目の前に立ち、見下ろしていた。
生々しく柔らかな曲線美を描いた肉体から、
水を弾く花弁のような肌をこれでもかと露出している。
一歩進むごとに、肉付きのよいあらゆる部分が揺れ動いて仕方ない。
だらしないのにハリのある、魅惑のメロメロボディだった。
青年は貞操の嬉々を覚えた。
「ねえ、ねえ? 私のポケットモンスターと勝負しない?」
ビキニのお姉さんが勝負を仕掛けてきた!
初めての体験を前に、青年は自分がポケモントレーナーになれたことを今までで一番感謝した。
まさか女性が自ら声をかけてくれるだなんて!
たまらないくらいに、そそる展開だった。
退屈な日常に突然現れた謎の女トレーナー。
仕掛けられたポケモンバトル。
そして勝負の後にはなんやかんやでラブロマンスが始まって……。
青年の脳内で、薔薇色の妄想、もとい邪な雑念が満ち溢れた。
「……ねえ。するの? しないの?」
考え込んでいた青年に向けて、ビキニのお姉さんはうかがうようにして再び尋ねる。
「ポケモンバトルですよね。俺はポケモントレーナーですから、もちろん引き受け……」
「引き受けます」と、言い掛けた直後、青年の舌があらぬ方向へと動いた。
冴えわたった頭脳が、勝負を仕掛けられている事実に対し、的確な判断を下す。
「……引き受けません! 俺はバトル、断りますよ!」
危なかった!
危なかった!
危なかった!
危なかった!
危なかった!
危うくトレーナー人生の全てを失ってしまうところだった!
九死に一生を得た気分で、青年の心臓がバクバクしていた。
背中から冷や汗が吹き出し、呼吸が少し荒くなる。
青年は胸の内で、緊張と安堵を同時に感じとった。
己の軽率さを戒める。
「どういうつもりかな?」
「どう、と言われましても……」
「目があったらポケモンバトル。背中を見せるわけにはいかない。知ってるよね?」
「そんな暗黙の了解、俺には関係ありませんよ」
「ポケモントレーナーだよね、君。バトルしないなら、トレーナーやってる意味、あるの?」
ムッとして青年が顔を上げると、
ダークブラウンのショートカットがパラパラとなびいていた。
揺れる髪の隙間から、水着のお姉さんが顔をのぞかせる。
丸い輪郭、丸い鼻、丸い瞳、丸い唇、全てのパーツが丸まっている。
美少女というよりも、微妙女といった感じだった。
決して整っているとは言い難い顔立ちを前にし、
青年の顔つきは大仏のような無表情へと変わっていった。
期待を裏切られた気分だった。
現実の非情さを思い知らされたつもりになった。
もはやその心に邪なる雑念は存在しない。
下等な欲求は消失し、青年は完全なる冷静さを取り戻した。
「君、名前は?」
「人に名前を問うなら、まずは自分から名乗るべきじゃあないですか?」
いがみあう寸前のような空気の中で、二人はにらみ合った。
挑発的に見下すビキニのお姉さんは、『ヒメリ』と名乗った。
青年は挑戦的に見上げ、『シオン』と名乗った。
途端にヒメリが不敵な笑みを浮かべたので、
シオンは名前という情報を教えてしまった事に対して得体のしれない恐怖を感じた。
本名を伝えたのは失敗だったのだろうか。
「ねえシオン君。さっきも言ったけど、目があったらポケモン勝負っていうルールがあるの、知ってる?」
「知ってます」
「じゃあどうして? 教えてくれないかな。私が納得の出来るように。バトルを断ったワケを」
『春なのにビキニ一丁でこんなさびれた公園にやってきたなんて、不審者っぽいなんか嫌だ』
とは言えなかった。
『その顔で色仕掛けとかふざけんな』
なんて台詞は失礼になると思い、口をつぐんだ。
正直には答えてはいけないような気がする。
そもそも女性の方から声をかけてくるなんて、異常事態だとしか考えられなかった。
何らかの理由があるに違いない。
シオンは悩む。
悩みながら、たまたま偶然無意識に横を向いた。そこに答えはあった。
「ヒメリさんは今、俺にポケモンバトルを仕掛けてきた。
何故か? それは俺にポケモンバトルで勝てると思っているからだ。
だから俺は、俺がポケモンバトルで負けると考えた。つまりは、そういうことです」
「……は? ……え? いやいやいや、それちょっと極端すぎじゃないかな?
確かに私は勝つ自信があるからこそバトルを仕掛けてるんだけど……
でもだからって君が負けるとは決まってないでしょ。
そういうの、やってみなきゃ分かんないって」
「いや、始める前から分かってしまう場合だってあります。
例えば今、ヒメリさんは俺にポケモンバトルを仕掛けてきた。
それは俺がポケモントレーナーだって分かってしまったからだ。
普通だったらバトルを仕掛ける前に、トレーナーかどうかを尋ねるんじゃありませんか?」
「うーん。それはどうかな。
私、トレーナーの人にもポケモン持ってない人にでも、片っ端から声掛けてるし。
バトルしませんか? ってね」
「いいえ。ヒメリさんは分かっていたはずです。俺がポケモントレーナーであることを。
それも自分より弱いトレーナーだと思ったはずだ」
「どうしてそうなるの?」
「だって、こいつが、ここにがいるから」
シオンは自分の隣を指し示した。
ベンチの上でレモン色の生物が寝そべる。
全裸のピカチュウがふんぞり返っていた。
「君のピカチュウ?」
「そうです。俺のピカチュウです。ニックネームは『ピチカ』。メス。たぶん一歳くらい」
シオンはピチカを抱きかかえた。腕に柔らかい感触が当たる。
目の前で垂れる乳とどちらが心地よい感触だろうか。つい、くだらないことを気にしてしまう。
「ヒメリさんは、このピチカの姿を見た時、
その側にいる俺がポケモントレーナーだと考えたはずだ」
「かもね」
「そしてヒメリさんは、このピチカよりレベルの高そうなポケモンで闘えば勝てる、とか、
電気タイプが相手なら地面タイプで攻めれば良い、なんて戦術を編み出せる。
要するに、敵に手の内が知られてる以上、俺に勝ち目はありません。
だからバトルは引き受けられない」
シオンは、闘いから逃げる理由を誇らしげに語った。
我ながら的を射た発言だと思っていた。
「……うんうん。そっか。なるほど。分かった。
つまりシオン君の持ってるポケモンって、そのピカチュウ一匹だけなんでしょ?」
「……えっ?」
ドキッとした。うろたえる。図星だった。
ピチカは親切なトレーナーから譲り受けたポケモンであり、
シオンは野生のポケモンを捕まえた経験が一度たりともない。
仮に二匹目を捕獲出来たとしても、
毎日の餌を買う大金が無ければ、育てる技術も無く、面倒をみる根性すらシオンは持ち合わせていない。
「俺のポケモンが一匹しかいないっていう証拠でも?」
シオンが見上げるその先で、微笑を浮かべた彼女は目を光らせる。
ヒメリのみやぶる。
「だって、そうじゃない。ピカチュウ見られてバトル不利っていうなら、
他のポケモンを使って、一対一のバトルに持ち込めばいいんだもの。
闘わせないポケモンを見られて、バトルが不利になるなんてことないよね。
君が勝てないと思った理由こそが、
君がピカチュウ以外のポケモンを持ち歩いていない証拠だよ。違った?」
しばらく考えて、ヒメリの言葉を理解した。
墓穴を掘ってしまったことに今更気付いた。
シオンのくだらない油断の一言が、情報戦の敗北をうながしていた。
トレーナーとしてあるまじき失態であった。
自分の馬鹿さ加減に呆れる。
しかし、そんなことはすぐにどうでもよくなり、シオンは開き直って、言った。
「そもそも俺はバトルするつもりなんて最初からなかったんだ。
ピチカ一匹しか持っていないことがバレてしまったことも含めて、
俺に勝ち目はありません。悪いですけど他のトレーナーを当たって下さい」
腰に手を当て、そっぽを向いて、ヒメリは呆れたようなため息を吐く。そのまま三秒。
気を取り直したかのようにして正面を向くと、再び二人の目が合った。
相変わらず色々と丸い、と思った。
「別にさ、負けたっていいじゃない? バトルすれば。困るわけじゃないんだからさ」
組んだ腕に柔らかそうな乳を乗せて、ヒメリは軽々しく言ってのけた。
この人は本当にポケモントレーナーなのか?
ひょっとして馬鹿なんじゃないのか?
それとも罠か?
疑いながらもシオンは、わざわざ自分の状況を一から説明し始めた。
「いいですかヒメリさん。ポケモンバトルってのは、いわばギャンブルです。
敗北すれば財産を失い、まともな人生を終わらせることになってしまうこともある。
つまりポケモンバトルは人生を賭けたバトルでもあるんだ。ガキの遊びとはワケが違う。
だから俺は、俺が絶対に勝てるバトル以外するわけにはいかない。
負けて人生ブチ壊すわけにはいかないから。
何も考えずに、誰とでもバトルなんてしてしまえば、すぐに借金背負っちまいますよ」
シオンが力説する間、ヒメリは目を閉じ、うんうんうなずいていた。
適当な相槌ではなく、よく理解した時のうなずきに見えた。
ヒメリはこの話の経験者だ、と思った。
「では、早速、交渉をしましょう」
「交渉?」
シオンは顔を強張らせる。
「そうです。交渉です。何でもいいの。
シオン君は、どんな条件でだったら私達とバトルしてくれる気になる?」
「……それは、どんな条件でもいいんですか?」
「うん。とりあえず言ってみて」
シオンにバトルするつもりはなかったが、条件を言うだけならば無料である。
作った条件次第では、シオンとピチカにも勝機が生まれるかもしれない。
逆に、この取引で一歩でも誤った場合、シオンの負けが確定してしまう。
自分をつねった。
もう絶対に油断をするな! 出し抜いてやれ!
シオンはじっくり考えてから、言葉に気を付け、交渉を切り出した。
「まずはフェアに、だ。ヒメリさんの手持ちポケモンを見せてください。
俺だけピチカを見られているなんて不公平です」
「まずは、ってことは他にも条件出すつもりかな?」
「そうなりますね」
「なるほどね。まぁいいけど。私の持っているポケモンはコイキング。コイキングが一匹だけ」
一瞬、聞き間違えたのだと思った。
次に、きっと言い間違えたのだろう、と思った。
「えーっと……あの最弱のポケモンの?」
「間違いなく、コイキングだから」
「え? あの赤くて丸くて、骨と皮だけの魚の……あいつ?」
「嘘はつかない。嘘だったら、私、シオン君の言うこと何でも聞いてあげる」
シオンはガッカリした。意気込んで勝機を見出そうとした自分が間抜けに思えてきた。
ヒメリは間違いなく嘘をついている。
シオンは、ポケモンを『教えてください』とは頼んでいない。
『見せてください』と言ったのだ。
つまり、姿形を見るだけで、シオンがバトルする気の失せるような、
凄まじいポケモンを持っている可能性がある。
そして、何でも『言う』ことを『聞く』。決して『叶える』つもりはない。
ヒメリは間違いなく嘘をついている。そこまでして勝ちたいのかと、シオンは呆れかえった。
「もちろん、賭け金は無し! そんなもの、なかったことにしてあげる!」
シオンの表情を読んだのか、慌ててヒメリが叫んだ。
シオンは何が何だか分からなくなった。
「あの、賭け金無しって……じゃあバトルに勝ったとしても、何のメリットも無いじゃないですか。
どうして俺達がバトルする必要があるんですか?」
「そんなの決まってるでしょ。私達がポケモントレーナーだからさ」
さも当然のように言ってのける。
思わず、ヒメリに見惚れてしまった。
かっこいいな、と素直に思った。
いつの間にか、ポケモンバトルを引き受けない理由がなくなっていた。
無性にポケモンバトルをしたくなる。
いっそのこと、勝ち負けにこだわらなくてもよいポケモンバトルを思いっ切りやってみたくなる。
「ピチカ。目を覚ませっ」
過去の情熱を取り戻した時、シオンはピチカを優しくゆすっていた。
ふいに、ピチカを負け戦に出陣させようとしている自分が見えた。
勝てば問題ないと、すぐに開き直った。
シオンは立ちあがり、目を覚ましたピチカを抱き、強い意志を持って、言った。
「ヒメリさん! やりましょう! ポケモンバトル!」
この地点でポケモンバトルの勝敗は決した。
最初からシオンに勝ち目なんてなかったのだ。
つづく