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  [No.1160] 天原フォークテイル 投稿者:リナ   《URL》   投稿日:2014/02/17(Mon) 23:03:17   64clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:何してもいいのよ

 カフェラウンジ1Fに投稿中の「天原フォークテイル」の改稿、訂正版になります。
 長くなった話数をまとめてこちらにストックしていく形になります。

 気が向いたら、また頭から読んでみてください(^^)


  [No.1161] 1.噂の座敷童と、横笛吹きの中学生 投稿者:リナ   《URL》   投稿日:2014/02/17(Mon) 23:05:43   1281clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 1.噂の座敷童と、横笛吹きの中学生


 それは確か、ちょうど九月の始まる頃だった。
 あっという間に過ぎ去った夏休みの後に、嘘かと思ってたけど、やっぱりちゃんと二学期が始まって、久しぶりに教室でユズちゃん以外の友達とも会って、早速二年生最初の実力テストの範囲表が配られて、呆気にとられていたあの九月の始まる頃だ。 うちの中学校――天原中学校では年に五回定期試験があって、生徒たちはいつも苦々しい顔をしてそれを歓迎していた。その隙間に挟み込まれる「じつりょくてすと」とはいったい何者なのだろう? 今回はどういう顔をしてこれを迎えたらいいのか、みんな迷っているようだった。
 担任の三橋先生が言うには、二年生はどうやら「中だるみの時期」とかなんとか揶揄されているようで、試験の平均点は下がるし、生徒たちのやる気も下がるし、点数を見た親の気分はもっと下がる。そしておまけに、家庭によってはお小遣いも下がる。最初はこれが中二病ってやつなんだと思って「たいへんな時期だね―」なんておしゃべりしていたら、ユズちゃんにデコピンされてしまった。
 ユズちゃんのデコピンはすごく痛くて、ヒットした直後は涙が出たし、五時間目の社会の時間中ずっとおでこが赤くなっていた。女子バスケットボール部のユズちゃんは握力がとても強かったのだ。もう知ったかぶりしておしゃべりしないように気をつけよう。そんな風に思った九月の始まる頃のことだった。
 座敷童(ざしきわらし)がこの町に住み着いたという噂が、どこからともなく流れ始めたのだ。
「近頃は座敷童なんてもうほとんど人前に出て来なくなったから、噂が本当ならちょっとしたニュースね」
 ユズちゃんはそんな風に言っていたけど、私は座敷童なんて見たことがなかったし、昔はごく普通に現れるものだったのかとか、どんな背格好をしているのかとか、実際のところ何ひとつ知らない。そんな私の困惑をよそに、噂にはどんどん情報が追加されていった。
 私たちと同じくらいの年齢の女の子で、短く切り揃えた黒髪をしている、らしい。その子は夜になると天原(あまはら)駅に現れる、らしい。そして駅前広場に佇む「もろの木さま」と、なにやら話をしていた、らしい。
 十月の一週目が終わる頃には、目撃証言をもとに、美術部の佐渡原くんが座敷童の絵を描いた。
「噂自体にはあんまり興味ないけど、みんな盛り上がってるからさ。でも描いてみると、なかなか風情のある光景だよね。もろの木さまと座敷童」
 佐渡原くんがキャンバスに描いた、タイトル「静かな秋の、御神木のある風景」は、素人目から見ても完成度が高く、素敵な絵だった。青空と紅葉のコントラスト、座敷童(赤い着物を着た、おかっぱ頭の女の子だ)のせつなげな表情、繊細なタッチ。見事な作品だ。佐渡原くんは、天原町の生んだミケランジェロだ(と、美術部の顧問の堂阪先生は言っていた)。
 天原町は、小さな小さな田舎町だ。だから、八百屋のカズくんの誕生日から、町内会長のタケじいちゃんの好物まで、みんなが知っていた。そういう町なのだ。噂なんて、あっという間に広まっていく。お寺の鐘の音が町中に響き渡るみたいに、隅から隅まで知れ渡ってしまう。何にもない町だから、新しい話題には、みんなすぐに夢中になるのだ。

「その座敷童さんは、もろの木さまに何か用事があったのかな?」
 学校の昼休み、いつものように机を向い合せにして、私はユズちゃんとお弁当を食べていた。
 十月ももう半ばを過ぎて、町はすっかり秋色に模様替えしてしまった。濃い緑色をした葉っぱの匂いも消えたし、ニイニイゼミで始まってツクツクボウシで終わった蝉たちの声ももうしない。夏服の期間が終わり、久しぶりに引っ張り出したブレザーを見ると、なんだが物悲しい気分になった。アイスを食べながら「あついあつい」と文句ばかり言っていたけど、私、夏は結構好きだった。
「茉里(まつり)は何をしてたんだと思う? その座敷童」
 ユズちゃんが、お弁当の卵焼きをもぐもぐさせながら箸を私に向けた。お行儀が悪い。
「なんだろう? なにかお願い事かな?」
「座敷童ってさ、災いをもたらしたりとかはしないけど、結構悪戯好きなんだって」
 ユズちゃんは、にやりとして言った。彼女の言うことはいつもテキトーだけど、そのかわり、いかにも本当のことのように話すのが上手だった。
 本人は「茉里がぼーっとしてるだけだよ」って言う。けど前に朝の職員室で、もっともらしい「宿題を忘れた理由」を語り、国語の山内先生を言いくるめていたのを見かけたことがある。そういう才能があるから、ユズちゃんはきっと、将来は人前で話すような仕事に着くんだろうなあと、漠然と思ったことがあった。
「悪戯なの? それ、困るなあ。うちのキャベツとか大根があんまり虫に喰い荒らされないで済んでるのはもろの木さまのおかげだって、お父さん言ってたし」
 駅前広場に立っているもろの木さまは、天原町の守り神だ。この町にあるどの木よりも長生きしていて、おばあちゃんやおじいちゃんたちからは、敬意を込めて「御神木」と呼ばれていた。
「うちの銭湯だって、なんとか閑古鳥が鳴かない程度にやっていけてるのはもろの木さまのおかげなんだって。もしそんな座敷童がこの町に住みついてたら、うちのばあちゃん黙っちゃいないわね。竹ぼうき持って飛んでいくと思う」
 町の人たちにとっては、もろの木さまは特別な木だった。私たちが生まれて、ずっと住み続けて、育ってきたこの町を、もろの木さまは守ってくれている。どんなふうに守ってくれているのかは知らないけど、でも、小さいときからずっとそう教えられてきた。
 だから、私もユズちゃんも、町の人たちはみんなもろの木さまに感謝してる。見た目はちょっと大きいだけの、古ぼけたスギの木だ。でも、それがもろの木さまなのだ。もしもろの木さまが、厳かで、立派な佇まいで、嘘みたいに背が高くて、この町をしかめっ面で見下ろすような木だったら、私はちょっと嫌だ。
「もし、もろの木さまに悪戯しようとしてるなら、相手が座敷童だって関係ないわ。今日部活終わったら駅に寄りましょう? 噂が本当かどうかも、確かめなきゃね」
 ユズちゃんが真面目な顔をしてそう言った。私はぎくりとした。こういうときのユズちゃんはとっても分かりやすい。今までも、ユズちゃんと一緒にツチノコとか河童とか木霊とか、いろんな生き物を探しに行った。噂好きな天原町だけど、どういうわけかこの町には「胡散臭い噂」が立ちやすくて、ユズちゃんはそれをいつも見に行きたがる。もちろん、ツチノコも河童も木霊もいやしなかった。
 今回もたぶん、ユズちゃんは座敷童を見てみたいだけだ。
「えー、でももしホントにいたらちょっと怖いな。お化けなんでしょ? 座敷童って」
「お化けでもなんでも、会ってみなきゃどんなやつなのか分からないじゃない。それに、座敷童サンのためにも、行って止めさせた方が良いわ。うちのばあちゃんがシバきに行く前にね」
 放課後、ユズちゃんとは校門で十七時半に待ち合わせをして(私はちょっと溜息をついて)、いつものように音楽室へ向かった。
 ごく普通の田舎の農家に生まれて、一人っ子だからか少々甘く育てられて、勉強は悪くもなければ良くもなく、身長が低めで(「ちび」って言われるのには慣れたけど、「ガキ」って言われるのはちょっと傷つく)、運動神経は絶望的。そんな私が唯一「特技」と呼べるものがあるとしたら、今、吹奏楽部で担当しているフルートだった。
 小学校の頃からリコーダーを使う音楽の授業が好きだった。通信簿では、音楽は六年間ずっと「よくできた」だった。いつも「がんばろう」と励まされていた体育とは対照的だ。下校のときや家にいるときだって、私はいつもリコーダーを吹き鳴らしていた。
 そして小学五年生の時の誕生日。お父さんとお母さんからのプレゼントを開けると、箱に入っていたのは銀色の横笛だった。とっても嬉しかった。私は、遊び盛りの子犬みたいに、家中を転がりまわって飛び跳ねて喜んだ。
 最初は全然音が出なくて、一日中その強情な横笛と格闘した。リコーダーとは勝手が違う。ほんの少し吹きこむ息の角度が違うだけで、それは全く反応してくれない。すかすかと空気が通り抜けていくだけだ。
 やっと鳴らすことができたフルートの音は、リコーダーよりも透き通っていた。それは、時々うちの畑を吹き抜ける風の声にも似ていた。
 それから私は「横笛吹き」になった。この町にはあまりいない「横笛吹き」になれたのは、私のちょっとした自慢だ。

 吹奏楽部では、週末の演奏会に向けて全体練習を繰り返していた。ただ、曲の後半の転調するところが全然合わなくて、顧問の富岡先生がその小節ばかりを何度も調整していたから、前半のソロだけの私はすごく暇だった。シンバルの田口くんにはもうちょっと落ち着いて叩いてもらって、ホルンの堤さんが音量を抑えてくれるだけで、上手くまとまるのに。
 なんて、ちょっとした不満を頭の中に巡らせていたら、だんだん眠くなってきた。なにせ、暖房を効かせた音楽室はぽかぽかで、寝るのには申し分のない環境なのだ。シンバルの音もホルンの響きも、少しずつ遠退いていった。壁にかかっていたモーツァルトやベートーヴェンも、私から目を逸らした。そしてとうとう舟を漕ぎ始めた私を、隣に座っていたのんちゃんが小突いた。
「富岡にバレたら殺されるよ、茉里」
 はっとして、私は目を擦り、椅子に座り直した。
「――うん、ごめん。ありがと」
「私だって暇なんだから。一人だけ譜面台に隠れて寝るなんてずるいからね」
 そういえばのんちゃんのクラリネットも、転調のところは全く出番がなかった。
「分かってるー。でも、眠くもなるよ」
「分かってない。横笛吹きは、もっとしゃきっとしなきゃ。少なくとも、縦笛吹きよりはね」
「――そうなの?」
「そうなの。ほら、頭から通すって」
 富岡先生が指揮棒を振り上げ、私は一時間ぶりにフルートを構えた。
 吹奏楽部の練習が終わったあと、私はユズちゃんより先に校門に着いた。辺りはもうとっぷりと夕闇に包まれていた。グラウンドではサッカー部が最後のシュート練習を切り上げ、ダウンのストレッチをしている。野球部はもう練習を終え、残りの数人がげらげらと大きな声で笑いながら、駐輪場の奥にある更衣室へと向かっていた。
 体育館の方から掛け声が聞こえる。校門側からはちょうど校舎の裏にあり、体育館の錆付いた屋根だけが辛うじて見えた。掛け声は女子たちのものだったけど、バスケ部かどうかは分からなかった。
 学校の裏側にあるなだらかな丘は、夏はあんなに原色の緑だったのに、今はもうすっかりくすんだ茶色だった。そこから吹き下ろしてくる風は枯れ葉と土の匂いがして、おまけにすごく冷たかった。私はお母さんに編んでもらった紺色のマフラーをきつめに縛り直した。
 少しして、ユズちゃんとバスケ部の二年生たちが、おしゃべりしながら現れた。私に気付いたユズちゃんは、遠くから手を振ってくれた。少しはにかんで、私も小さく手を振り返す。
 バスケ部の女子たちは、互いに押し合ったり、体を触り合ったりして、何度も大笑いしていた。その中には、ユズちゃんも含めて、小学校も一緒だった子が何人かいる。
 中学に入ってから、一気にみんなが大人になったように見えた。特に、バスケ部はみんな「早い」子たちだった。制服の着崩し方も、可愛い髪型も、化粧を覚えるのも、それに、男の子の話も。彼女たちは前に進む速さが全然違うんだという気がした。私なんかよりもどんどん前に進んでいって、そのうち全然知らない街に出て行って、後姿さえも見えなくなってしまうような気がした。
 ユズちゃんもやっぱり、そのうちこんな小さな町から、さっさと出て行ってしまうのだろうか。
 ときどき、本当にときどき、そんなことを考える。将来、この町での生活にはあっさり背を向けて、立ち去ってしまうのかな。私のところからは全然見えないところまで、遠く離れていってしまうのかな。
 そんな日が来ても、私たちって、友達でいられるのかな。
「ごめんごめん、結構待ってた?」
 それは、誰にも分からない。たぶん、もろの木さまだって分からない。それはきっと、私たち次第なんだと思う。
「もう、すっごく寒かったんだよー。早く行こう、ユズちゃん」

 学校から天原駅まではそう遠くはなく、校門からすぐの橋を渡って、河川敷に沿って歩いて、商店街のあるところで曲がると五分ほどで着く場所にある。でも、家のある方向とは真逆にあるせいで、普段はあまり行くことはなかった。もろの木さまに会うのも、夏のコンクールで吹奏楽部のみんなと電車に乗った時以来だった。
 久しぶりに歩いた河川敷は、校門よりもさらに風が強くて、その冷たさで頬がひりひりした。ユズちゃんの赤いマフラーが、大きくはためいている。闇の中で流れる川はどぽどぽと音を立て、少し不気味だった。
「会えるかな? 座敷童さん」
 商店街に入って風が弱まり、私はやっとしかめっ面を元に戻した。
「目撃情報は、大体このくらいの時間帯よ。ちょっと寒いけど、条件は整ってるわ」
 商店街は早くも眠りに就いているようで、もうほとんどのお店がシャッターを下ろしていた。薄暗い通りは人影も少ない。精肉店のおじさんと、呉服屋さんの若い店長さん。あとは駅から流れて家路を急ぐ人たちと数人、すれ違っただけだった。
「――会ったら、なんて言うの?」
「そうね、いきなり問い詰めるのも失礼だし」ユズちゃんは、にやりとして言った。「『よかったら、友達になって下さい』って、シタテに出てみようか」
 座敷童と友達かあ。もしなれたら、それはちょっと面白そうだけど。でも、どうなんだろう。
「思ったんだけど、座敷童って、誰が最初に言い出したんだろう。ホントに座敷童なのかな」
「あたしは最初、野球部の古川から聞いたけど。まあ、ホントかどうかを確かめに行くんだから、その問いは無用よ」
 古川くん――同じクラスの野球部で、ショートを守っていて、休み時間も授業中も、とにかく人を笑わせることに命をかけている、あの古川くんかあ。なんだか噂の信憑性に翳りが見えた。
 商店街を抜け、私たちはとうとう駅前の広場に到着した。もともと小さな駅で、止まる電車の本数も少ない。それでも、町の中では人の集まる方だ。ただもう辺りは真っ暗で、人影はほとんどなかった。そして、真ん中にぽつんと佇むもろの木さまに目をやっても、そばには誰もいない。もろの木さまは一人で夜の空を見上げていた。
「いないみたい」
 広場をぐるりと見渡してみても、座敷童らしい人影は見当たらなかった。駅から出てくるところの老夫婦と、ちょうど店仕舞いをしていたお弁当屋のおばさん。そして私たち二人だけだ。やっぱり、そう簡単に噂の大元と遭遇することはできない。会うことができなかったのはちょっぴり残念だけど、正直、ほっとした。
「しょうがない、張り込むわよ」
「――え、本気?」
 耳を疑って、私は聞き返したけど、振り向いたユズちゃんの目は紛れもなく本気だった。
 冷静になってみると、ツチノコのときも、河童のときも、木霊のときも、ユズちゃんは諦めが悪かった。そういえばユズちゃんはバスケ部で、ディフェンスとリバウンドの粘り強さに相当な定評があるらしい。悪さをする輩は竹ぼうきを持ってどこまでも追いかけるおばあちゃんと言い、このしつこさは「血」なのかもしれない。
 私たちは、駅の改札口のそばにあるベンチに座り、もろの木さまを監視することにした。ぶるぶる震えながら、まるで雪山で遭難した登山者みたいに身を寄せ合って、座敷童が姿を現すのを待った。
 佐渡原くんの描いたあの絵と同じ場所だとは、とても思えない景色だった。秋晴れの青空も、鮮やかに染まった紅葉もない。もちろん、あの不気味なほど表情豊かな着物姿の女の子もいない。どんよりとして、どこまでも暗い空。申し訳程度に等間隔で光る水銀灯。人気のない広場。一応石畳で舗装されているものの、それもずいぶん昔のもののようで、隙間からところどころ雑草が覗いているのだった。
 もろの木さまは、時々吹きつける冷たい風に葉を揺らすだけで、じっと動かない。寒空の下、静かに、本当に静かに、佇んでいた。お年寄りには「御神木」と呼ばれるほどの由緒正しい木のはずなのに、見れば見るほど、やっぱりどこかみすぼらしい。幹はところどころ禿げているし、くねって伸びた枝も、全体的にちょっと傾いている。緑色の葉は、そのうち山の木々たちのように茶色に染まり、冬になれば落葉し、もろの木さまは素っ裸だ。真冬のもろの木さまは本当に寒そうで、見ているととても不憫になる。
 第一「御神木」って、神社の境内とか、もっと相応しい場所に立っているもののような気がするけど。どうして、お世辞にも「神聖な場所」とも言えない殺風景な駅前の広場なんかに、ひとりぼっちで立っているんだろう。
 張り込みを始めてから、三十分が経ち、一時間が経ち、まもなく時計は十九時を指そうとしていた。冷たい空気が頬を刺し、マフラーは意味をなさなくなり、足先の感覚がなくなってきた。
 さすがのユズちゃんも「今日はもう……限界ね」と呟き、女子中学生二人の刑事ごっこはあえなく終了した。座敷童らしき人影は、とうとう現れなかった。気配さえも、なかった。
「なによもう! 噂なんてもう信じないんだから!」
 広場を猛ダッシュで駆け抜けながら、ユズちゃんは後悔をぶちまけていた。
「ユズちゃん、それ毎回言ってるよ」
「だってー! 古川がかなり詳しくしゃべってたから、今度こそと思ってー!」
「古川くんの話だよー。三分の一も真に受けちゃダメだよ」
 走ると顔にぶつかる風が冷たくて涙が出た。駅前広場を横切り、真っ暗闇の商店街に入る。
 まさにそのときだった。
 背中に、熱を持った何かを感じたのだ。
「えっ?」
 びっくりして、振り返った時には、それはもう消えていた。背後には、さっきまでと全く変わらない、駅前広場と、もろの木さま。
「何、どうしたの? 座敷童?」
 急に立ち止まった私に気付いて、ユズちゃんが言った。
「――いや、なんか」
 それは、光だ。確かに、光だった。突然太陽が背後から照り付けたかのような、温かい、光の玉だ。
 紛れもなくそれは、もろの木さまの辺りから向けられていた。方向的に、そうに違いなかった。それは、ぱっと輝いて、一瞬で消えてしまった。今はもう真っ暗闇に戻っている。
 けど、私の身体にはその温かさが残っていた。それは、ほんのり緑色の、命の脈動のような、生き生きとした光だった。驚いたことに、さっきまであんなに寒くて凍えていたにも関わらず、背中にじんわりと汗をかいていた。百メートル走でゴールした直後みたいに、息が苦しかった。
「茉里? どうしたってのよ?」
「ユズちゃん、今の――今の、感じなかった?」
「今のって、何のことよ?」
「今のは、今のだよ!」
 たとえ一瞬だとしても、あんなに煌々とした輝きだったのに、ユズちゃんは気付いていないようだった。そんなはずはない。私はたった今起きた出来事を、ユズちゃんに説明した。出来るだけ詳しく、分かりやすく説明しようとした。
 なのに、なぜか話そうとすればするほど、説明が曖昧になって、やがて本当にそんなことが起きたのか、自分でも疑わしくなってきた。記憶には、きちんと残っている。残っているのに、それは事実のはずなのに、ところが振り返ると、冷え切った暗闇と孤独な御神木があるだけなのだ。
 心臓が、どくどくと鳴っている。
「私、もしかしたら座敷童よりすごいもの見ちゃったのかも」
「えー! ズルい茉里だけっ! 一体何見たの!?」
 考えた挙句、私のおつむでは、なんとも幼稚な言葉しか思いつくことができなかった。
「――妖精さん?」


         ◆ ◆ ◆


 もしかしたら駅前広場での出来事は、一晩寝てしまうと全て忘れてしまうのではないか。そんな考えが頭を巡り、ちょっぴり床に着くのが怖くなったけど、翌朝目が覚めても「妖精さん事件」は、きちんと私の頭の中に残っていた。
 むしろ、息を切らして家に帰って来た昨日の夜よりも、あの光の記憶は鮮明になったような気がした。人は寝ている間に脳の情報を整理するのだと、何かの本で見たことがあるけど、おおよそそんな感じで、朝食の席に着いた私の頭はとてもすっきりしていた。
「そりゃあ、茉里、あんた『八百万の獣』を見たんだぁ」
 おばあちゃんがしわがれた声で発した言葉は、途中まで聞き覚えがあった。
 お父さんとお母さんには、昨晩のことを話していない。私はちゃっかり、帰りが遅くなったときのために(突然、ユズちゃんに連れ出されてもいいように)、吹奏楽部の練習が長引くことがあると言っていた。昨日も家に帰ってきた時は、駅前で張り込んでいたことなんて、一言も口にしなかった。嘘をついていることはちょっと後ろめたいけど、でも、部活をサボって悪いことをしているわけじゃないもの。このくらいの「方便」は、女子中学生にも許可して欲しい。
 ただそれに対しておばあちゃんには、なんでも話してしまうのだった。おばあちゃんは、門限に厳格だったり、規則や慣習に口うるさかったりするわけではない。むしろ、いつも穏やかで優しくて、時々私から見ても甘すぎるんじゃないかと思うくらいで、それ故に、何を考えているのか分からないこともあるような、そんなおばあちゃんだ。
 学校の通信簿で下がってしまった教科のこととか、ユズちゃんとくだらないことで喧嘩し、口を利かなくなった一週間のこととか、横笛が上手に吹けなくなってしまったときのこととか、人に話したくないようなことも、おばあちゃんに「どおしたの?」と訊かれてしまうと、全部しゃべってしまいたくなる。溜めこんでいたものが、まるで砂時計の砂が落ちるみたいに、するすると口からこぼれていく。そして、そのことをゆっくりゆっくり話す私は、不思議と優しい気持ちになる。それはたぶん、ゆっくりゆっくり話を聞いてくれるおばあちゃんが、優しい気持ちの持ち主だからだ。
 すっかり話してしまった私に、おばあちゃんは頷くだけか、時にはなんにも反応がない時さえある。でも、なんだか私は「もう大丈夫かな」って気持ちになるのだから、本当に不思議だ。
 実は昨日のことも、おばあちゃんにだけはすぐ言おうと決めていた。なんだか今回のことは、そうしなきゃいけないような気がした。
 だからこうして、朝ごはんにきちんと起きて、お父さんとお母さんの目を盗んで、私はおばあちゃんにこっそりと話したのだ。
「やおよろず? 神様なの?」
「いんや、神様とはちと違うんだけんどね。一人の神様に必ず一匹、お手伝いのもののけがいんだぁ。神様なんて全然見るこたぁねえけど、八百万の獣たちは、ばあちゃんも昔は時々見たもんだぁ」
 やおよろずの、けもの。
「でも、全然獣っぽくなかったよ。ぴかって光ったと思ったら、すぐ消えちゃったし」
「そりゃあ、茉里、いろーんな獣がいるんだよ。なんせ、神様の数だけいっからねぇ」
 じゃあ、私が昨日見た「八百万の獣」さんは、たぶん、もろの木さまのお付きの「八百万の獣」さんなんだろう。でも、どうして昨日の「八百万の獣」さんは、ユズちゃんには見えなかったんだろう。逆に、私には見えなくて、ユズちゃんには見える「八百万の獣」さんはいるのだろうか? いや、そもそも私だってちゃんと「八百万の獣」さんを肉眼ではっきりと見たわけではないわけで――
 これは、私に何か特別な力があるのだろうか。でもその前に、どうしても気になってしまうことがある。
「おばあちゃん、やおよろずのけものって長いよ。『もののけ』さんでいいかな? そういう言い方って、失礼じゃない?」
 おばあちゃんは、とたんに目を丸くした。それから大きな声で、まるで神社の鈴を思いっきり鳴らしたみたいに、がらがらと笑った。
「そーんなことで八百万の獣は怒ったりしねぇよ。大事なのは気持ちだかんねぇ」
 そう言って、おばあちゃんは茶碗から白いごはんを多めに取り、ぱくりと食べた。いつもにこにこしているおばあちゃんだけど、何だか今日は余計に嬉しそうだった。

 その日の朝、教室で会ったユズちゃんは、おはようの代わりに大きなくしゃみをした。
「もう踏んだり蹴ったり。昨日張り込んだおかげで風邪拗らせるし、帰り遅くなってばあちゃんに竹ぼうきで叩かれるし、茉里ばっかり何か見えたとか言って興奮してるし」
「なんかごめん――でも、きっとそのうちユズちゃんにも見えるよ。もののけさんは、神様の数だけいるんだって」
 私は今朝おばあちゃんから聞いたことをユズちゃんに話した。
「そう言えば、うちのばあちゃんも似たような話前にしてた。『湯の神さま』がいて、その『八百万の獣』っていうのと一緒に、うちの銭湯を守ってくれてるんだって。まあでも、神様とか、茉里のいう“もののけ”とか、ホントにいるかどうか正直微妙だよね」
 噂はすぐ信じるくせに、根は結構リアリストなのだ。
 ユズちゃんは銭湯の娘だ。この天原町には全部で四つ銭湯があるけど、ユズちゃんちの「銭湯ゆずりは」は、私の家から一番近いところにある銭湯だった。ユズちゃんは大きくて古い木造家屋に三世帯で住んでいて、同じ敷地に銭湯もある。その建物から長い長い煙突が生えているのが、私のうちからも見えた。
 杠(ゆずりは)家のおじいちゃんが亡くなってからは、ユズちゃんのおばあちゃんがほとんど一人でお店を切り盛りしていた。杠家のお父さんは小さな問屋さんを営んでおり、仕事であまり見かけない。お母さんは専業主婦だけど、その問屋さんの方の手伝いに出ていることが多くて、あんまり銭湯の経営の方まで手が回っていないらしい。
 でも銭湯の経営くらい、ユズちゃんのおばあちゃんなら、あのおばあちゃんだったら、当分一人で元気にやっていけそうな気がした。あと二十年くらいは大丈夫なんじゃないかと思う。そのくらいユズちゃんのおばあちゃんはパワフルで、若々しさに満ちていた。
「今日、久しぶりにユズちゃんちのお風呂行こうかな。明日演奏会だから、あんまり遅くまではいられないけど」
「いいよ。ばあちゃんに言っとく。六時でいい?」
「うん」
 小さい頃から、私はずっと「銭湯ゆずりは」の常連客だった。洗面器とタオルを抱えて、よくうちのおばあちゃんに手を引かれて出掛けていた。お風呂から上がるとおばあちゃんは決まって、ユズちゃんのおばあちゃんと井戸端会議を始める。番台のところで立ち話程度のときなら十五分くらいで済むけど、お客さんの入りが少ない時なんかは、休憩所になっている畳の小上がりに座って、小一時間以上も話しこんでしまう。
 それを退屈そうに見ながら牛乳を飲んでいる幼い私の横で「ああいうのって、『湯端会議』とでも言うのかな」と、呆れた様子で私に話しかけてくれた少女がいた。私と同じくらいの歳の子だ。頭一つ分私より背が高くて、いたずらっぽい二重をしていた。ちょうど浴場から上がったところなのか、濡れた細い髪が頬にはりついている。そして、ずいぶんとつまらなそうな表情だ。
 ユズちゃんだった。
 中学生になって、さすがにおばあちゃんと手を繋いで行くことはなくなったけど、ときどきユズちゃんと時間を約束してお風呂に入りに行く。年季の入った浴槽と、曇りの取れなくなった鏡。観光客向けの旅館の温泉と比べれば、確かに劣るところは多いけれど、私は「銭湯ゆずりは」が大好きだ。ユズちゃんのおばあちゃんが毎日丁寧に手入れしている大きなお風呂で、ユズちゃんとおしゃべりをする。勉強のこととか、町に広まっているの噂のこととか、まだほんの少ししかしたことはないけど、好きな人の話とか。
 学校の教室や帰り道では話せないこともある。でも不思議なことに、銭湯の湯船の中だとそれができる。ひょっとしたら「湯の神さま」が湯けむりで、余計な心の壁を隠して、見えなくしてくれているのかもしれない。
「演奏会って、どこで?」
 ユズちゃんが、教室の時計をちらりと見て言った。
「香田市だよ。電車でここから四駅だったと思う。去年も香田の市民ホールでやったの」
「見に行こっか?」ユズちゃんが提案した。「ばあちゃんに演奏会のこと言ったら、きっと連れてってくれる。茉里のこと、お気に入りだから」
 自分で言うのはちょっとおかしいけど、私もユズちゃんと同じ意見だった。ユズちゃんのおばあちゃんは、私のことを実の孫のように可愛がってくれていた。
 たぶんユズちゃんのおばあちゃんは、演奏会でやるクラシックの曲なんて聴いたことないだろうし、有名な西洋の作曲家も、クレッシェンドもピアニッシモも、何ひとつ知らないだろう。
 それでも、「茉里ちゃんが出るんだったらねぇ」と、香田まで足を運んでくれるのが想像できた。
 市民ホールの観客席に、彼女はちょっぴり居ずらそうな顔をして座っている。でも舞台上に私を見つけると、大きく手を振る。隣りでユズちゃんが恥ずかしそうにその手を下ろさせようとしている。私はちょっとだけ笑って、富岡先生の指揮棒に集中し、横笛を構える。
「どっちでも。お店で忙しいと思うし」
「何言ってんの。あのボロ銭湯が忙しい時なんて、ほとんどないんだから」
 そうかもしれないけど……と言いかけて、慌てて止めた。ちょうど良いタイミングで、朝の学活を知らせるチャイムが鳴った。

 その日の夜、「銭湯ゆずりは」の暖簾をくぐった私を、ユズちゃんのおばあちゃんは顔をくしゃくしゃにして迎えてくれた。
「やあやあ茉里ちゃん、いらっしゃい! 待ってたんよぉ」
 いつもの年季の入った番台の上で、いつもの年季の入った笑顔を見ると、とっても落ち着く。彼女の声はしわがれていて、ときどき早口で聞き取りづらい。けど、太くて、柔らかくて、丈夫そうな声だった。口からと言うより、身体全体から発せられているみたいだった。
「こんばんは。おばあちゃん久しぶり。お邪魔します」
「はいどうぞ。もうすっかり寒くなってきたからね。風邪ひいちゃわないように、ゆっくり温まっていきなさいね」
「うん。ユズちゃんもう来てる?」
「ああ奈都子と待ち合わせだったよねぇ? 全くあの子ったらねぇ。もうすぐ来ると思うから、待っててくれるかい?」
「私もちょっと早く来たから大丈夫」
 女湯の脱衣所には先客が一人、畳の小上がりで休んでいた。甘味屋のおばちゃんだ。
「あら、津々楽さんところの。こんばんは」
 私も「こんばんは」と会釈を返した。こじんまりとした脱衣所には、壁際の棚に脱衣籠がたくさん並べてある。竹で編んだ、こげ茶色の丸い籠だ。ほとんどが空っぽなところを見ると、今日も浴場はかなり空いているみたいだった。浴場の入り口には、曇りガラスの上から入浴マナーの黄色いポスターが貼られていた。その脇の冷蔵庫の中で、三色の牛乳がきんきんに冷えている。
 部屋の隅っこのブラウン管テレビを見上げると、ちょうど六時のニュースが始まったところだった。
 東京で五店舗目となる大型の商業施設の売り上げが、前年比の一・七倍を記録した。地域住民の反対を受けて見送られていたダムの建設は、来年四月の着工で押し切られた。一週間前の男子中学生の自殺は、級友によるいじめが原因だったことを、学校側が認めた。自殺した男の子の両親は、学校を相手取り起訴するのだという。
 目のつり上がった、無機質な顔の女性キャスターが、坦々と原稿を読み上げていった。彼女の読む言葉たちには、全然現実味がない。テレビのニュースには、いつもそう感じていた。読み上げられた出来事が、悪いことなのか良いことなのか、私には判断できないときがある。極端に言うと、本当にあったことなのかどうかも、疑ってしまう。お母さんはよく居間でニュースを見ながら「世の中物騒ねぇ」なんて言っているけど、私はいつも思う。
 お母さん、安心して。それは、テレビの中だけで起こっていることなんだよ。お母さんの言う「世の中」と私たちがいる「世の中」は、違うんだよ。「物騒」は、まだこの天原町には侵入していないんだから。
「ごめんごめん! お待たせーっ!」
 ユズちゃんがお風呂道具を抱えて、更衣室に転がり込んできた。おばあちゃんの「奈都子! あんた約束も守れんのかい!」という怒鳴り声も、同時に響き渡った。
「あーやば! 茉里ごめんホント! ばあちゃんが竹ぼうき装備する前に、お風呂逃げ込もう!」
 ユズちゃんはすごい速さで上着のフリースを籠に放り込み、もうティーシャツも脱ごうとしている。番台の上ではおばあちゃんが湯気を立てている。甘味屋のおばちゃんは、口を抑えて笑っていた。
「私は別に逃げ込む理由ないんだけど」
 向こう側の「世の中」も色々賑やかだけど、こっち側の「世の中」だって、十分すぎるほど賑やかだ。意味合いは大分違ってくるんだろうけど、私はやっぱりこっち側の賑やかさの方が好きだ。


         ◆ ◆ ◆


 ある一つの仮説が私の頭をよぎった。
 よぎった瞬間は、それがほとんど確信に近いくらいに感じていたけど、前にお父さんが「人間、自分で思いついたものをすっかり“名案”だと思い込みがちなんだ。だから、いつも自分の考えを疑っていなきゃだめなんだよ」と言っていたことを思い出した。
 そう言えば、その言葉と一緒に「お父さんも、お母さんが本当に最愛の人なのか、何度も疑ったもんだよ」という台詞もくっついていたことを思い出したけど、それにはすぐに蓋をした。お父さんの性格だと、本当に時間をかけて吟味をしたような気がして、娘の私としてはちょっと複雑なのだ。まあ、お母さんの性格だと、そんなことは笑って許してしまうんだろうなと思うけど。
 とにかく、お父さんのアフォリズムの影響によって、私は自分の“名推理”を言いふらさずに思いとどまった。よくよく吟味をして、これはもう確実であろうとなったとき、初めて口にしよう。
 その“名推理”とは、噂になっていた「座敷童」は、「もののけさん(もとい八百万の獣)」のうちの一人なのでは、ということだ。
 恐らく第一目撃者が、もののけさんを見ることのできる力を持っていて、本人がそれに気付かずに、その風貌からてっきり座敷童だと思ってしまった。しかし実際には、もろの木さまのお付きのもののけさんで、おばあちゃんは昔はよく見たという「八百万の獣」の類だった。
 そして、私があのとき見た、もとい感じた「光の玉」が「八百万の獣」だとすると、やっぱりあの場所には「座敷童」がいたのだ。どういった理由なのか、私の前では光の玉となって現出していたけど。

 演奏会の日の朝。フルートの入ったキャリーケースを背負い、私は吹奏楽部の友達と一緒に天原駅のホームで電車を待っていた。
 からりと晴れた秋の空は、とても高い位置に千切れた雲が残っているだけで、綺麗な水色がずっと遠くまで続いていた。この季節になると、晴れの日ほど放射冷却で朝が冷える。吐く息も白い。こんな時期からコートを着て、マフラーを巻いて、膝小僧を真っ赤にしている私は、果たしてこの冬を乗り切れるのだろうか。
 吹奏楽部のみんなにはあの日のことを全く話していないけど、噂の「熱」自体はまだまだ残っているようだった。駅の構内に入るとき、みんな揃ってもろの木さまの根元を凝視していたし、「朝の六時から夕方までは姿を隠してるから、現れないんだって」とか「ジャシンのない、清らかな心の持ち主じゃないと見えないらしいよ」とか、まだ私が聞いたことのなかった追加情報を、みんな口々に話していた。ここまでくると、なんだか勝手に脚色されている座敷童がひどく不憫になる。必要の無いところにもたくさん尾ひれが付いてしまって、当の座敷童本体はすっかり見えなくなってしまっているような気がした。ところ構わずにょきにょき生えた、不格好な尾ひれを見ると、正直喉元まで来ていた「光の玉」も「座敷童もののけ説」も、全然言いふらしたりするような気分ではなくなってしまった。
「そう言えばさ茉里、今日見に来るの? 杠さんとこのおばあちゃん」
 クラリネットののんちゃんが眠そうな声でそう言った。
「うん。昨日演奏会のこと話したら、そう言ってた」
 演奏会の前日だというのに、結局昨日はうんと長風呂を楽しんだ。お風呂上がりにフルーツ牛乳を飲みながら、まだ眉間にしわのよっているユズちゃんのおばあちゃんに演奏会のことを話すと、あっという間にしわが口元に移動した。
「あのおばあちゃん、今も一人で銭湯やってるんでしょ? 元気だよねホント」
 天原中の生徒達の中でも、ユズちゃんのおばあちゃんは有名だ。小学校の「体験入浴」で、みんな一度は「銭湯ゆずりは」に入ることになるからだ。
 うちのお母さんがよくテレビを見ながら「物騒ねえ」と言っている事件は、本当に色んなものがある。けど、前に家族でニュースを見ていたとき、お父さんがお母さんに言っていた。昔に比べ、犯罪は加速度的に「個人主義」化していると。
 強盗や強姦、殺人などの重犯罪が低年齢化している、なんて書き立てて、今や若い世代は「腫れ物」扱いだけど、実際に青少年の犯罪の件数が突出しているわけではないらしい。マスメディアがこぞってそういう事件を報道するのは、四十代の無職の男が「ついにやってしまった事件」よりも、毎日学校に通い、成績も悪くはなく、友達付き合いも多い、ごくごく普通の少年が「突然変貌した事件」の方が、目を引くからだ。まるで時代を象徴しているようなセンセーショナルさがあるからだ。
「人は自由で平等で、個人として尊重される。そういう教育をずっとずっとこの国はやって来たんだから、若い人も、四十五十のおっさんも、根っこの考え方は大して変わらないんだ」
 お父さんは言っていた。事件は今、「個」の問題になってきている。本当は、人は自由でもなければ平等でもなく、個人として尊重される保障はどこにもない。それは、ちょっと考えれば当り前のことなのに、憲法はそれを否定しているのだ。それを勘違いしたまま、「個」を「公」に押し広げてしまったとき、事件は起こる。
 昔は、例えば学生運動みたいに、ある考え方の集合体が勝負を仕掛けることで紙面を賑わせた。そこには、何か強い意志が働いていた。新聞やテレビは、それを伝達する役目を果たしていた。でも、今は様相を異にしている。
「最近のニュースなんかではさ、『どうしてこんなこと起こっちゃったんだろう』って思う事件が多いよね。そういう事件を起こしてしまう人は、大抵独りぼっちなんだよ。そして、当人にどうしてそんなことをしたのか訊いてみても、自分でも分からないって言うんだ」
 お父さんは農家になる前、裁判所の職員として働いていたらしい。
「その人たちには、家族とかもいなかったのかな?」私は不思議になって訊いてみた。
「家族がいて、恋人がいて、友達がたくさんいても、独りぼっちの人は山ほどいるんだよ」
 ふーんと、そのときの私は曖昧に返事をした。
 お父さんの言葉の意味が全然分からなかったわけではない。ただ、全部分かったわけでもなかった。とりあえず私は独りぼっちだなんて感じたことはないわけだし、今のところはセーフだろう。私の想像力では、せいぜいそうやって安心することぐらいしか出来なかった。
 話がかなり逸れたけど、「体験入浴」はつまり、大人になっても独りぼっちにならないようにするための練習なのだ。公共マナーをきちんと守って、みんなで裸になって、全員で同じことをするのは、「俺はこうだから」とか「私はそうじゃないから」とかいう「個人」が肥大してしまっては成り立たない。そういう「個」が最小化した場が、本来あるべき「銭湯」なのだ。
 ユズちゃんのおばあちゃんは入浴マナーには厳しかった。かけ湯をしなかったりとか、男湯と女湯にひとつずつしかない五右衛門風呂を長時間独占したりとか、浴場内を走り回ったりとか、そんな不届きな輩は、一回目はイエローカード、二回目は永久追放となる。私が小学生のときに行われた体験入浴では、湯船でクロールした男の子が、まるでしゃぶしゃぶのゆで上がった肉みたいにお湯から引っ張り出されて、脱衣所に放り投げられていた。昨日あんなにバタバタと騒いでいたユズちゃんも、服はきちんと籠の中に入れていたし、浴場内ではいつもスロー再生されているみたいにおとなしかった。
 ユズちゃん曰く、「もろの木さまと湯の神さまが監視してるから」なのだそうだ。 浴場の奥の壁面には、一枚の大きなペンキ絵が描かれていた。男湯と女湯で一枚の絵になっているらしいから、私は女湯側、ペンキ絵の右側しか見たことがない。
 ペンキ絵と言うと、普通は富士山が描かれるものだと思うけど、「銭湯ゆずりは」の場合は違った。
 女湯側には、薄い紫色の浴衣を着た女性が描かれている。それを着て歩くにはとても不便そうなほど丈が長い浴衣だ。古い家屋の縁側のようなところに彼女は立ち、少し上の方を見上げていた。男湯の方にはもろの木さまが描かれているというから、位置関係的に、きっと彼女はもろの木さまを見上げているのだろう。口元に少し笑みを浮かべ、とても上機嫌そうだった。右手には木製の柄杓を持っている。
 彼女が湯の神さまだ。
 そして、昨日ユズちゃんとお風呂に浸かりながら、なんとなくそのペンキ絵を眺めているとき、私がずっと不思議に思っていた謎がひとつ解けた。
 湯の神さまの傍らに、一匹の大きな亀がいるのだ。縁側でひなたぼっこを楽しんでいるかのように、前足を畳んで寝そべっている。たぶんこいつは、前に動物番組で「ガラパゴス諸島特集」をやっていたときに見た、ガラパゴスゾウガメだ――そう思っていたけど、あんな地球の裏側の、閉じ込められた生態系からペンキ絵の題材をチョイスするなんて、甚だおかしかった。
 それにペンキ絵の方の亀は、目は土偶みたいな横線で描かれているし、灰色の甲羅の隙間からは湯気(銭湯のペンキ絵だから、たぶんそうだと思う)が立ち昇っている。その湯気が湯の神さまの姿を四割ほど隠しているので、彼女の妖艶さを一層引き立たせる役目を果たしていた。この亀は、見れば見るほど似ていない。ガラパゴスゾウガメとは全然、似ていない。
 きっとこの亀は、湯の神さまの「八百万の獣」に違いない。
 大発見だと思ってユズちゃんにそう話したら、彼女の反応は随分とあっさりとしたものだった。
「まあ、湯の神さまと一緒にいるんだから、そうだろうね。ばあちゃんに訊いて確かめてみたら?」
「ユズちゃんは、この亀のこと気にならないの?」
「うーん。なんで亀なんだろうとは思うけどさ。これがその“八百万の獣”っていうのだとしても、へーそうなんだって感じ?」
 銭湯の娘は、いるかもしれない噂の生き物には夢中になっても、実在しないとなれば、興味のかけらも沸かないらしい。
「ユズちゃん、バチあたるよ」
「バチよりも、ばあちゃんの竹ぼうきの方がずっと恐ろしい」
 それも、一種のバチなんじゃないかなあと思った。

 香田市の市民ホールで行われる演奏会には、付近の中学校の吹奏楽部が招かれ、毎年それなりの賑わいを見せる。天原中も六年前から招待されていた。一応プロの演奏家や音大の学生などが審査員となり、参加中学校の中で順位も付くので、長年吹奏楽部の顧問をしている富岡先生はこの十月に入り、少しずつ、しかし確実に笑顔が消えていった。
 富岡先生は白髪頭もかなり後退してきた年配の先生だけど、音楽の授業ではとても優しいから生徒にも人気がある。だが、吹奏楽部の「顧問」としての富岡先生は、ときどき別人かと思うほど、生徒に罵声を浴びせる。グラウンドの隅にはナナカマドの木が植えてあるけど、演奏がボロボロだったときの富岡先生の顔は、ほとんどナナカマドの実の赤色に匹敵するだろう。ホルンの堤さんは、もうほとんど毎日泣いていた気がする。
 ホルンって肺活量いるし、ボリュームを調整するのが難しいんだよね。「女子中学生に吹かせる楽器じゃない」ってのんちゃんが言ってたけど、一理あるかもしれない。
 でも今日の演奏会、そんなホルン担当の堤さんにとって素敵なエンディングが待っていた。
 我が天原中吹奏楽部の演奏は、富岡先生に檄を飛ばされ飛ばされ練習してきた甲斐あって、見事銀賞を受賞することができた。私のフルートのソロも、のんちゃんのクラリネットも華麗に決まり、繰り返し合わせた転調も上手く整い、拍手喝采で緞帳が下りた。富岡先生が解散時のミーティングで「堤、お前良かったぞ」なんて言うものだから、堤さんは最後の最後でまた泣いた。
 みんなで肩を叩きあって、本当に感動的な場面だった。けど、私は別のことに気が取られていて、半分上の空だった。
 ユズちゃんも、ユズちゃんのおばあちゃんも、結局会場には現れなかったのだ。
 演奏の直前、舞台の上から客席を見渡した。うちのお母さんとおばあちゃんが中段の右端に並んで座っているのが見えた。お母さんは最近買って異様にハマっているポラロイドカメラを構えていた。部員の父兄や先生方など、知っている顔がいくつかあったけど、ユズちゃんたちを見つけることはできなかった。 
 昨日は「前の方の席、早めに行って取っとかなくちゃねえ」とまで言ってくれていたのに、どうしたんだろう。何か、急な用事が入ってしまったんだろうか。
 帰り際のロビーで、お母さんが走り寄ってきて、ポラロイド写真三枚と千円札をくれた。
「お友達と寄り道してくるなら、あんまり遅くならないようにね」
 銀賞おめでとう。お母さんは言ってくれた。おばあちゃんも隣りに来て、大したもんだねぇと、大きな声で笑った。
「うん、ありがとう」
 写真三枚のうち、二枚はブレてしまっていて、残りの一枚も、ソロを吹き終わってほっとしている私の、隙だらけな表情の写真だった。私が目を細めて写真を見ていると、「お母さん、まだ修行中だから」と、撮影者は言い訳しながら笑った。
「ねえユズちゃん来てない? 昨日見に来るって言ってたんだけど」
 お母さんにも訊いてみる。そのときちょうど、入口の方からのんちゃんたちの催促の声が聞こえた。みなっちとマコもいる。同じ吹奏楽部二年の、仲の良い三人だ。
「あら、そうなの? 私は見てないけど。月曜日に学校で訊いてみたら?」
 杠さんのところは忙しいからねぇと、隣りでおばあちゃんが言った。
 やっぱり、来ていないのだ。
「ほら、お友達呼んでるわよ」
「うん。じゃあね」
 のんちゃんたちと合流して、私は市民ホールを出た。
 今朝の冷え込みが嘘のように、ぽかぽかの陽気が町を温めていた。空気は冷たくても、陽のあたるところはコートなんていらないくらいだった。
 散々迷った挙句、結局香田駅の前にあるチェーンのドーナツ屋さんでティータイムすることに落ち着いた。去年の演奏会の後も、同じメンバーで来た記憶がある。
 とりあえずの話題は、九月にあった実力テストの結果に向けられた。私は思いのほか国語の点数が良かったけど、一年生の頃の単純な数学の公式がいくつか頭から抜けてしまっていたことが発覚した。塾にも通っているのんちゃんは五教科安定して八割をキープしていたらしいけど、みなっちもマコも結果は散々だったと聞いて、私は少し安心した。
 十一月に入ると、すぐに二学期の中間試験が待ち構えている。その次は間もなく期末試験で、ぼーっとしてるとすぐに学年末。そして、あっという間に受験生だ。受験生になってしまったら、きっとこんなところでのんびりチョコレート・チュロスをかじったりする暇もないんだろうなと思うと、ちょっと気分が暗くなった。
 勉強の話から、今日の演奏の話になり、最近聞いている音楽の話になり、芸能人やアイドルの話になった。四人ともすっかりしゃべり疲れて、帰りの電車では、天原駅までの四駅だけでも寝過ごしてしまいそうになった。
 天原駅前の広場は、夕焼けでオレンジ色に染まっていた。
 少しずつ暖色に衣替えしているもろの木さまも、夕日に温められて心地よさそうに葉を広げている。やっぱり今も一人だ。
 土曜日の夕方というだけあって、広場には人が多かった。家族連れやカップルも意外に多く、商店街の方も、こじんまりとはしているけど、それなりに活気があった。あの張り込みをした夜と比べると、広場全体に命が吹き込まれたみたいだ。
 楽器を背負った四人の中学生は、疲れ切ってふらふらしながら広場を横切り、途中各々の家路に分かれ、じゃあまた学校でと、私は三人に手を振った。
 のんちゃんは頭が良いから、たぶんこの町でも一番レベルの高い天原高校に行くんだろう。彼女が通っている塾は、ほとんど天高に合格するために開業されているような個人塾だ。毎年教室の窓ガラスに、昨年度の合格率が張り出されている。
 みなっちとマコも、三年の夏からは塾に行くと言っていた。
「天高まではいかなくとも、柏高や緑が丘高あたりには、この身を繋ぎとめとかないとね。うちのお父さんやたら学歴主義でさ、それ未満は認めないって言われてる。成績によってはこの冬からもう塾行かされるかも」
 マコはさっきのお店で、そんなふうに愚痴りながら、ため息をついていた。
 受験。私はどうなるんだろう。もちろん全く何も考えていないわけではないけど、きっとちゃんと考えている人からすれば「考えてない」に等しいんだと思う。自分の進路を自分で決めるという実感は、まだ全然ない。
 フルートの奏者になって、人のたくさんいるホールで、プロの楽団の人と一緒にコンサートを開く。拍手喝采の中、私は満面の笑みで礼をする。会場を見渡すと、見に来てくれた知り合いがたくさんいて、私はますます笑顔になる。
 そんな妄想をしたことがあったけど、一方で、私は思っている。そんな出来過ぎた夢は、九十九パーセント夢で終わるんだろうなと。そして私は知っている。その夢が挫かれたとき、きちんとした仕事に就いて、それなりにまっとうな人生を歩んでいくためには、やっぱり勉強しなきゃいけないことも。
 広場を見渡してみた。大人も子供も、男の人も女の人も、たくさんいる。この人たちの中で、一体何人くらいが残りの一パーセントを掴み取ったのだろう。もしくは、これからその一パーセントを掴み取る気のある人は、どのくらいなんだろう。
 そんなことを考えながら、夕焼けの駅前広場に佇んでいる私の目に、あるものが映り込んだ。心臓がどくりと一回鳴いて、私は息を呑み込んだ。
 もろの木さまの傍らに、忽然と少女が現れたのだ。
 ほんの少し前まで、もろの木さまの近くには誰もいなかったはずだった。道行く人は多く、雑踏の中に見え隠れして確認しにくいけど、私たちと同じくらいの年齢の女の子で、短く切り揃えた黒髪をしていて、まるで何か語りかけているかのようにもろの木さまを見上げている、あの少女を見逃すはずはない。
 噂は嘘じゃなかった。座敷童は本当にいた。
 もろの木さまから十五メートルほど離れたところに突っ立って、私はその少女を見ていた。その姿から、目が離せなかった。雑踏が消えて、視界が狭くなる。
 彼女は真剣な眼差しでもろの木さまを見つめていた。祈りを捧げているようにも見えたし、孤独な御神木を憐れんでいるようにも見えた。西の空から照りつける夕日を浴びて、その白い肌と、黒い瞳が輝いていた。
 でも、座敷童がこんな時間帯に出現するという話は聞いたことがない。目撃情報では陽が落ちてから現れるということだったし、今はとても人通りが多い。白昼堂々と「噂」の当事者がこんな目立った行動に出ていいのだろうか。
 そう言えば、噂では座敷童の服装については言及されていなかった。見たところ、真紅の着物を着て、綺麗な鼻緒の下駄を履いている――わけではなく、ベージュのダッフルコートに紺のスカートという出で立ちだった。
 私の視線を感じたのだろう(なにせ、まるまる一分間くらい、じっと彼女を見つめていたのだ)、座敷童もこちらを見た。まともに目が合ってしまい、私はたじろぎ、一歩後ずさりしてしまった。彼女は着ているダッフルコートのボタンをちょっと触り、またもろの木さまを見上げたかと思うと、私に向かってつかつかと歩いてきた。
 大丈夫だ。座敷童は悪戯好きだけど、災いをもたらしたいはしないって、ユズちゃんが言ってた。大丈夫だ。「もののけさん」って呼んでも、そんなことじゃあ八百万の獣たちは怒ったりしないって、おばあちゃんが言ってた。大丈夫だ。私はなにも失礼なことをしていない。何か被害を受ける謂われはない。何も――
「あなたは木行(もくぎょう)が一段階開いてるんですね」
 座敷童は言った。私はぽかんと口を開けたまま、息もしていない。
「だからあなたには見えるんです。コノの端境(はざかい)で、普通の人に今の私は見えないのに」
 学校の教室で、ゲームやアニメ好きの男子が全く意味不明な言語で会話しているのをよく見る。彼らの間でしか通じない異世界の言葉なので、随分真剣だけど、何がそんなに重要なのか分からない。大爆笑していても、何がそんなに面白いのか、皆目見当が付かない。
 今、まさにあの感覚だった。この少女は一体何を言っているんだろう。
 そんな状態の私を察したのか、分かりました、しょうがないですねえというふうに、彼女は口元で笑った。最初から投げ捨てるような感じのしゃべり方だったけど、笑い方もちょっと冷たい。幼げな顔とこじんまりとした背丈に不釣り合いな、大人びた微笑だった。
 私は、そのときちょっと期待したのだ。きっとこの座敷童は、私にも納得できるように「専門用語」を説明してくれるんだ。見えるとか見えないとか、モクギョウがどうとか、ちゃんと分かる言葉に置き換えてくれるんだ。最近では実はこういう意味で使われているんですよ。ご存じなかったですか。高校で習いますよ。
「コノ。隠れてないで姿を見せてください。この人は、きっと力になります」
 その期待は、次の瞬間、きれいに消し飛んでしまった。
 彼女の頭の上の、何も無い空間。何かがまるでカーテンをめくるように、ひらりと姿を現した。
 唐突に、しかしあまりに自然で、何も珍しいことじゃない出来事みたいに、その物体は登場した。
 声が出ない。叫び声って、どうやって上げるんだっけ。私は息を呑みっぱなしだった。一体いつから呼吸をしていないだろう。
 現れたそれは、生き物だった。背中に羽の生えた獣だ。うっすら緑色がかった体毛に覆われいる。胴とは不釣り合いなほど大きな頭は、球根……嘘ではない。本当に、球根のような形をしていた。
 そして、その生き物は“言った”のだ。
「どうして最近の神子(みこ)って、こんな子供ばっかりなのさ?」
 あら、これはこれはとっても流暢な日本語で。
 私はもう、卒倒しそうだった。


  [No.1162] 2.町の御神木と、銭湯の娘 投稿者:リナ   《URL》   投稿日:2014/03/03(Mon) 14:36:45   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


2.町の御神木と、銭湯の娘


 まず間違っていたことは、もろの木さまを見つめていた少女は、座敷童でもなければ「八百万の獣」でもない、ということだ。
「社(やしろ)です。社、美景(みかげ)」
 彼女は人間だった。しかも、中学二年生。タメだ。
 駅前広場のベンチ。私はフルートを脇に置いて、彼女と一緒に座った。道行く人々ともろの木さまがよく見える。
 しゃべろうとしてもなかなか声が出て来ない私に、彼女は淡々と自己紹介をしてくれた。もろの木さまを見ていたときの彼女の瞳は、どこか温かくて、まるで子供を愛でる母親のようだったけど、今はなんだか表情が冷え切っている。しゃべっていても、顔のパーツがほとんど動かない。小さな鼻と、小さな耳をしている。真っ黒な瞳は深く澄んでいて、とても綺麗だけど、たぶん癖なのだろう、常にじと目だ。睨まれているとまで感じないけど、心証としては、軽蔑が三分の一程度含有されている。なんとなく、こっちが普段の社美景なんだろうと思った。
 彼女のコートの下は、制服だった。天原町からは電車で八駅先の御堂鹿(みどうろく)まで、片道四十分。彼女の通う麗徳学園は、御堂鹿駅からさらに二十分バスに乗って、やっと辿り着くところにある。中高一貫の私立中学だ。
 それを聞いて、私は目を丸くした。偏差値を考えると、麗徳は冗談抜きでスーパーエリート校だった。雲の上にあるような大学に毎年卒業生を送り出し、そのまま彼らは国家公務員とか医者とか弁護士とか、とにかくハイスペックな人間でないとなれない職業に就いていく。私からすると、異次元で生活しているような人々だ。
 麗徳なんかに通う子たちは、小さい頃から英才教育を受けているような、都会の子供をイメージしていた。小学生のうちから毎日塾に通って、色んな教材に囲まれて、二カ月に一回模擬試験がある。試験の結果で親の機嫌とその日の晩ごはんのメニューが変わる――ちょっと穿った見方かな。
 とにかく、まさか天原町から麗徳に通っている子がいるなんて、思ってもみなかった。
 彼女の綺麗に切り揃えられた黒髪は、着物を羽織ると確かに座敷童の風貌そのものだ。美術部の佐渡原くんが描いた絵画みたいな風景も、彼女がモデルならば、実際に再現できそうだと思った。
 この夏から秋にかけて天原中の三面記事となっていた「座敷童、現る」の発信源は、間違いなく彼女なのだろう。社美景にそのことを伝えようかと一瞬思ったけど、結局口にしなかった。そんなことをしたら、今度こそこの黒曜石のような鋭い目で睨まれてしまうかもしれない。いや、きっと睨まれる。
 そして、私は実際それどころではなかったのだ。
 社美景の頭の上。ときどき宙返りをしながらふわふわと漂う“こいつ”は何だ?
「美景、ちゃんと説明してやってよ。この子、まるで突然家に見知らぬ請求書が届いたみたいな顔してるよ」
 その生き物が言った。社美景は苛立ちを隠そうともせず目を瞑り、「だから今ひとつひとつ順序立ててるんじゃないですか」と、早口で呟いた。
「あ、あの」やっと思いで、私は声を絞り出す。
「何ですか?」
「あ、えっと。もしかしてこの」私は失礼かなと思いながら、この生き物をなんと呼称していいか分からず、指をさした。「八百万の、獣。ですか?」
 彼らは顔を見合わせた。緑色の生き物は「ふーん。一応、義務教育程度の知識はあるんだ」と言った。ほんのちょっとみたいだけど、彼は感心してくれたようだった。
「その通りです」相変わらずの無表情で、社美景は言う。「彼はコノ。もろの木さまのお付きの獣(しし)です。あなたが呼んだように、『八百万の獣』とも言います。ええと、彼の正式な神名は、そう、確か――」
 彼女に「コノ」と紹介されたその生き物は、頬を膨らませた。
「コノハナノトキツミノミコト! 何回言ったら覚えんのさ!」
「あんまり興味の無いことは、すぐに頭から抜けるので」
 コノは手足をばたばたさせた。おもちゃを買って貰えなくて駄々をこねる五歳児みたいだ。
「あの、コノさん。たぶん私、この前あなたを見ました。えっと、正確には見たというよりは、感じたというか――あの、とっても強い光だったので」
 ユズちゃんと張り込みをした、あの夜の出来事だ。あの光の玉から感じた熱は、ほんのり緑色だった。熱に色があるのは変だけど、でも、確かに緑だった。
「ああ、やっぱりあのときの女の子だったんだ!」コノは嬉しそうに笑って、上空に円を描いた。「そりゃそうだよね。ひとつの町にそんなに木行の気質を持ってる人間がいるわけないし」
 社美景が、その「木行」についても説明してくれた。どうやら、コノのような「八百万の獣」の声を聞くことのできる、一種の特殊な能力らしい。
「五行思想では、この世界のすべてのものが、木、火、土、金、水の五つの元素からなる、という考え方をします。“この世のすべて”ですので、人間も、神様も、この五つから出来ていると考えます。あなたのように『木行』に一段階開いていれば、同じ『木気』のコノみたいな獣(しし)の言葉を聞くことができます」
 そんなことを、麗徳学園では習うのだろうか。いや、そんなはずはないか。
「じゃあ、社さんもその『木行』っていうのが開いてるの?」
「いえ。私は土行(どぎょう)です。幸いにも二段階開くことができたので、他の五気に属する獣(しし)とも対話ができます。どれか一つの五行を二段階開くと、その人は『神子』と呼ばれる存在になり、あらゆる獣(しし)の声を聞くことができるのです。ですから、さっきコノがあなたのことを『神子』と言ったのは、厳密には間違いです」
「なんだよ、実際その辺の定義なんて曖昧だろ?」コノが口を尖らせた。
「まあつまりは」彼女はコノをきれいに無視する。「あなたも私も、今、神的なものを『口寄せ』している、ということになります」
「くち、よせ?」
 聞いたことのない言葉が次々出てくる中で、「口寄せ」は、一応聞いたことがあった。死んだ人の言葉を聞くことのできる、いわゆる「降霊術」だと思ったけど、口寄せって自分自身に霊が乗り移るんじゃなかったっけ? 前にテレビで霊媒師の特集をやっていたのを見たが、イタコのおばあちゃんが「キェー」とか叫んでて、ずいぶんと胡散臭かったような記憶がある。そのことを言ったら、社美景は鼻で笑った。
「マスメディアで取り上げられている霊媒師の類は、概ねヤラセです。本当の霊媒師は、『繋ぐ者』なのですから、功利主義者の経済人に加担することはしません」
「繋ぐ者?」
「ええ。細かいことは、話すと長くなるので。それに、身体に憑依させるのが通常なのでは、ということですが、その役目はコノが担ってくれています。コノの言葉は、そのままもろの木さまの御言葉となります。それが神と獣(しし)の本来の関係ですので」
 霊媒師とは、つまり自分自身が「八百万の獣」になる術を使う者なのだという。今はコノがいるから、実際に「もろの木さま」を自分に憑依させる必要がない、ということらしい。なんだかややこしい。
「大体分かった? お譲さん?」コノがひらりと宙返りして、私の目の前まで降りてきた。
「うん。一応」
「よしよし。物分かりの良い子は好きだよ。名前はなんて言うのさ?」
「茉里(まつり)です。津々楽(つづら)茉里」
「茉里だね。良い名前じゃん。美景より素直そうだし、美景より優しそうだし。期待の新人ってとこだね」
 素早く伸びてきた社美景の手を、コノはひょいっとかわして、一気に五メートルほど上空まで羽ばたいた。
「――とにかく、本題です」彼女は真っ黒な瞳を私に向けた。「私たちは今、あなたのその木行の気を必要としています」
 そういえばさっきも彼女、言っていた。私を指して「この人は、きっと力になります」と。
「えっ、でも……」
 私は苦笑いで返した。いくら私が人にはない特殊な力を持っていたとしても、こうやってコノみたいなもののけさんたちとお話できるとしても、何かその道で役に立てるとは、到底思えない。だって私は、ちょっと横笛が吹けるだけの、ごくごく平凡な中学二年生だ。
「その、社さん。申し訳ないけど、私にはなんにも……」
 言いかけたそのとき、妙なことが起こった。突然頭の中に、声が響いたのだ。
(すまない)
 ぎくりとして、私は目を見開き、辺りを見渡した。近くには、こちらを見向きもせず通り過ぎていく人々と、私を見て不思議そうにしている社美景意外に、人はいない。
 そして、コノの姿が消えていた。
(すまない。巻き込むつもりはなかった。でも、君しかいなかった)
 声は、回線不良のトランシーバーみたいにところどころ途切れて、聞こえづらかった。
 そして唐突に、大きなエネルギーを感じた。
 それは光だった。ユズちゃんと張り込みをしたあの夜に感じたものと同じだ。緑色の、まるで生まれたての命が呼吸しているみたいな光。それでいて、すぐそこまで太陽が降りてきたかのような、眩い光。
 いつの間にか、何も見えなくなって、何も聞こえなくなった。社美景も駅前広場の道行く人々も、そしてもろの木さまも、何も見えない。声も出ない。
 だけどなぜか、全然不安を感じたりはしなかった。むしろ心地が良い。このまま気持ちよく眠ってしまえそうだった。柔らかな熱を感じる。ほのかに、草の香りがする。青々と茂った芝生に、仰向けに寝そべっている気分だ。
(ここ天原は、神域なのだ。この町にいる限り、私は君を守ることができる)
 また声。今度はさっきより、よく聴きとれた。男の人の声だ。チェロみたいな低い声だけど、老人のような声にも、二十歳くらいの若い男の声にも聞こえる。
 次第に光が弱くなっていった。ゆっくりゆっくり、目の前の景色が晴れていく。感じていた熱も冷め、草の香りもいつの間にかしなくなった。
 夕日を浴びた、駅前広場がまた現れる。そしてすぐに、違和感に気付く。
 セピア色の駅前広場が、止まっている。
(目を凝らして、広場にいる人たちを見てごらん)声が私に促す。
 一時停止して微動だにしない人々は、なんと白黒だった。
 まるでそこだけまだ着色していない、未完成の風景画みたいだ。ただ白黒というだけでなく、彼らに当たっているはずの太陽の光も、彼らから長く伸びているはずの影もない。
 そこだけ、人型に切り抜かれてしまっている。
 すぐそばを通り過ぎようとしている老夫婦は、ほとんど白に近い灰色をしていた。母親に手を引かれている小さな男の子は真っ白で、その母親は白と黒の中間くらいのグレー。駅の改札を見ると、サイズの合わない上着を羽織った、無精髭の男がいた。ほとんど黒に近いグレーだ。
(切り離されてゆくごとに、人は黒くなってゆく。私の力ではもう人々を守ってゆくことができない。大きな力が、もうすでにこの天原に入り込み、人と人を切り離し、また彼ら自身にそうさせるよう、働きかけている。私がふがいないばっかりに、この有様だ)
 切り離された人。不思議なことに、私はその声の言うことを、その意味を、すんなりと理解した。切り離す。その言い方が、すとんと腑に落ちた感じがした。
 この光景は、気分が悪い。あまり見ていたくなかった。相手の陣地を攻め倒すことでしか存在意義のないチェス盤の上のコマたちのように、大小様々、モノクロのグラデーションを纏った人々が、駅前広場に転がっている。
 ふと、私は自分の掌を見た。白い。けど、純白ではなかった。その色にはわずかに濁りを感じた。私も幾分か切り離されたのだろうか。それとも、自分で切り離したのか。いつ? 一体何本? 分からない。覚えがない。
 それが、怖かった。一度切れたら、元通りにはならないのだろうか。
 家族がいて、恋人がいて、友達がたくさんいても、独りぼっちの人は山ほどいるんだよ――お父さんがそう言っていた。私は、自分が独りぼっちだなんて感じたことはない。けど、決して一度も「切れた」ことがないわけではなかったのだ。頭がくらくらして、目の前の白黒の人たちがぐるぐると回った。そして私は、隣りに一緒に座っている物体に気が付く。
 私は思わず口を抑えた。
(私は、彼女を助けたいと思っている。彼女は、より多くの声を聞こうとし、より多くの人を、繋げようとしている。それなのに、今の私は、彼女に何ひとつ出来ないでいるのだ。なんと、もどかしいことか)
 社美景は真っ黒だった。まるで原子爆弾の放射能で焼かれたように、光を失った黒だった。
 動悸がする。息が苦しい。汗がどっと噴き出すのを感じた。少しだけど、吐き気もした。社美景から、少しでも離れたいと思った。でも、体は動かない。
 その人型の物体は、絶望の象徴でしかなかった。黒々と染めらてしまった彼女の顔を見る。常に軽蔑を含んだ目つきだと思っていたその瞳は、今は何も映していない。
 さっき彼女と話しているときは、何にも思わなかったのに。どうしてだろう。彼女は、今にも泣きそうなくらい悲しい表情をしていた。
(人々を切り離す、大きな力。その力を持っているのも、また人なのだ。しかし、もう一度繋ぎ直すことができるのもやはり人であると、私は信じている)
 停止しているその世界で、もろの木さまがざわりと葉を揺らした。


         ◆ ◆ ◆
 

「ちょっと津々楽さん。どうかしたんですか?」
 いつの間にか目の前の景色に、色が戻り、雑踏が戻ってきた。私は駅前広場のベンチに座っていることを思い出した。社美景は怪訝な目で、私の顔を覗き込んでいた。黒くはない。近くで見ると、白い頬が寒さで少し赤らんでいた。
「私、今何してた?」
「魂が抜けてました。ほんの十秒くらいですけど」
 さっきの声は、もうしない。コノが社美景の上で、穏やかな頬笑みを浮かべていた。
 ほんの十秒くらい――そんなことはなかったはずだ。あの白黒の人々がいる、静止した世界を、彼女は経験していない。あの声を聴いたのは私だけで、白黒の人々も、私しか見ていない。
 座敷童がタメの女の子で、一緒にもののけさんがいて、しかも彼は日本語をしゃべって、彼女は「神子」だという。私にとってそれだけでも摩訶不思議な出来事の連続なのに、さっきの声や、あの異常な世界は、その彼女すら知らない世界なのだろうか。
 そうだとしたら、私、ちょっと巻き込まれ過ぎじゃないか。
 方程式の解き方をやっと完璧にしたと思ったら、実は二次方程式もあるんですと言われた。それは、私にはまだ早い。それは二年生で習うんです。まだ私は一年生。方程式までをきちんと解ければ、誰にも文句は言われないはずです。
「津々楽さんは、吹奏楽部ですか?」
 彼女は脇に置かれたキャリーケースを見て言った。
「うん」
 担当楽器も訊かれた。フルートだよ。木管の――そう、横笛。
「今日は練習ですか?」
「ううん。香田で演奏会があって。その帰り」
「そうでしたか」彼女はベンチに座り直し、正面を見た。「あまり音楽には詳しくありませんけど、機会があれば、聴いてみたいです。津々楽さんの演奏」
 口ぶりは、やっぱりどこか冷たい。本当に聴きたいと思ってくれているのか怪しいものだ。
 でも彼女にしては、丁寧な言い方だった。ぎこちなくて、無理をしているのが分かる。気を使ってくれているのだ。きっとそういうのは苦手なんだろうなと、私は思った。たぶんそういう場面が、日常にないのだ。
 私はこの子とやっと普通の話題で話すことができたのが、ちょっぴり嬉しかった。
「もろの木さまの力が、弱まっています」話が戻る。とても強い口調だった。「目に見えない、色んな種類の“毒”が、少しずつ、この天原町に入り込んでいます」
 彼女は「毒」と表現した。さっきの声も言っていた。「大きな力」が入り込んでいる。それは、人と人とを切り離す。
「今日も、コノを介してもろの木さまの声を聞こうとしました。でも、『カミクチ』は、やっぱり五気が同じ気質でないとだめなようです。コノも全く役に立ちません」
 僕のせいじゃないやい――コノが憤慨した。
 神様に直接お伺いをたてる口寄せを「カミクチ」というらしい。「カミクチ」によって、初めて神様の「御言葉」を聞くことができる。「御言葉」は、コノのような八百万の獣を介した口寄せでは、聞くことができない。土行の社美景では、木行の気質であるもろの木さま本人とは“直接”話すことができないのだ。
 対する私は木行。もろの木さまの声を、直接聞くことができるのだ。
 いや、“できた”のだ。私はさっきまであの、時間の流れない、白黒の人々の世界で、「カミクチ」をしていた。
 あの声は、もろの木さまの、御言葉だったんだ。
「何とかしてもろの木さまにお伺いをたてて、力が弱まっている原因を探って、天原を“元通り”にしなければなりません。それは、津々楽さんにしかできません」
 私はすっかり怖気づいてしまった。私は既に、彼女の希望通り、もろの木さまの声を聞いた。お伺いを、たててしまった。彼女の知らないうちに、あっさりと。
 そして私は、そのことを彼女に言えない。切り離されていく人々のことを、言えない。少しずつ黒くなっていく人々のことを、言えない。
 あなたがひどく切り離されて、真っ黒になってしまっているだなんて、言えない。
 私は守られていると、もろの木さまは言った。でも同時に、社美景に何もしてやれないとも言った。私が木行で、彼女が土行だからなのか。それとも、あまりに切り離されてしまっている人は、神様にはどうにもできないのだろうか。
 神様にどうにもできないのに、私にどうにかできるのだろうか。
「――私には、たぶん無理だよ」
「それはやってみないと分かりません」
 社美景は、真っ黒な瞳でこちらを見た。
「そうかも知れないけど……」
 この天原町は、毎日同じことの繰り返しで、退屈で仕方なくて、そしてとっても平和だ。テレビ画面で繰り広げられている「物騒なこと」は、まだこの町には辿り着いていない。みんなそう思っている。私も、そう思っていた。何か「大きな力」がこの町の平和を脅かしているだなんて言ったところで、町の人たちは誰も信じない。実際に何か大きな事件が起こったわけでもない。今日も駅前広場は夕日で照らされているし、きっと明日も照らされる。何も変わったりしない。
「コノだって、しっかりサポートしますから」
 社美景は、どうしてここまで必死なのだろう。私は不思議に思った。天原町に入り込んでいるという「大きな力」のことも、どういう経緯で知ることになったのだろう。そして、なぜ彼女は真っ黒になるほどに「切り離されて」しまっているのだろう。
 彼女のことをもっと知りたい。そう思った。力になれるかどうかは分からない。力になりたいと、私自身思っているのかどうかも、正直ふらついている。
 だから、それらの判断も、彼女を知ってから。それからでは駄目だろうか。
「美景ちゃん」
 私は立ち上がって、キャリーケースを肩に掛けた。突然名前で呼ばれた“美景ちゃん”は、口をぽかんとさせていた。
「また、会おうよ。今度は友達も連れてくる。あと、フルートも聴かせてあげる」
「なんですかそれ。出来るのはあなたしかいないって、言ってるじゃないですか」
 美景ちゃんも立ち上がった。コノは何も言わずにぷかぷかと上下に動いている。何だかとても嬉しそうだ。
「私ね、一人じゃ何も出来ない自信があるよ」
 なんですかそれ。美景ちゃんは同じ台詞を繰り返した。
 そう言えばと、私は思い出した。「私ね、ユズちゃんと話してたの。あなたに、友達になってくれるように頼んでみようかって。来週も同じ時間、ここにいる?」
 訳が分からないという顔をしている美景ちゃんを見ているのは、ちょっと楽しい。
「そりゃいいや!」コノが両手を広げて言った。「もちろんいるともさ。その子も連れて、茉里もまたおいでよ。僕らは大歓迎だよ」
「ありがとう、コノさん」
「どういたしまして、それから僕のことはコノでいいよ」
 そんな会話を交わす隣りで、美景ちゃんは何か言いたそうにしていたけど、最後には「午後四時です。時間通りに、必ず来て下さい」と言った。ユズちゃんを連れてくることに関しては、好きにしてください、だそうだ。
 もろの木さまも言っていた。「もう一度繋ぎ直すことができるのもやはり人であると、私は信じている」って。
 私も、そう信じたい。

 天原町は、へんてこな町だと思う。何が変かって、変なことが起きても、もう次の日には、それも案外普通のことかもしれないと思えてしまうところだ。
 私はただの横笛吹きではなく、木行の気質を持ち合わせた横笛吹きだった。座敷童――もとい社美景、美景ちゃんと出会い、もののけさんと名前を呼び合う仲になり、神様の声も聞いた。そして、頼まれごともされてしまった。巻き込んでしまってすまない、とまで言われた。
 これほどおかしな案件を持ち帰ってきたというのに、次の日にはもうどこから手をつけようかと、冷静に考えている自分がいた。この天原に忍び寄っている「大きな力」とは何なのか、静かに推測していた。
 なんだか忙しくなりそうだ。私は思った。
 このときはまだ、知らないでいた。今年一番の出来事が起こっていたのを、私は知らない。
 それは唐突に、そして全然違う方向からやってくる。
 振り返ってみると、私は神様にお願い事をしたことなんてなかった。初詣のとき、お賽銭を入れて手を合わせたりはするけど、あれはお願いではない。どうにもならないほど切迫して、本気で手を合わせることなんて、今まで一度もなかった。私はそれだけ、恵まれた生活をしてきたのかもしれない。
 神様、どうにかしてください――十月ももう終わろうとしていた頃、私は生まれて初めて、神様にお願い事をした。

 月曜の朝、チャイムが鳴り終わってもユズちゃんの席が空いていた。
 担任の三橋先生が入ってきて、日直が号令をかける。先生はちらりとその空席を見た。眼鏡越しに見える目は、いつもの優しい目だったけど、すこし強張っていた。礼が済むのを待って、先生は口を開いた。
 杠さんは、ご家庭の都合により、今週はお休みされます。授業のノートは、皆さん交代で取ってあげて下さい。それから――
「ノートとプリントを持っていく係は、津々楽さん、お願いできますか?」
 三橋先生は、まるで最初から決めていたように、私を見た。
「――はい」
「ありがとう。では、出席を取りますね」
 いつもの穏やかな声で、淡々とクラスメイトの名前が呼ばれていく。さしたる連絡事項もなく、先生は出席簿を教卓にとん、と立てた。
 朝のホームルームが終わった後、私は職員室に呼ばれた。
「すぐですよ。もちろん、説教なんかじゃありませんから」
 先生はにっこりと笑顔で言ってくれたけど、やっぱりちょっと目が強張っている。 教室から職員室までの廊下は、いつもより長く感じられた。三歩前を歩く三橋先生の背中が軽く左右に揺れている。
「先生。ユズちゃんに何かあったんですか?」
 耐え切れなくなり、職員室のドアの前で、私は訊いた。
「杠さんからは、何も?」
「聞いてません」
 演奏会に来てくれると言っていたことも、先生に話した。おばあちゃんと一緒に来てくれると、ユズちゃんは言ってたんです。でも、結局来なかったんです。
「大丈夫。心配しないで下さい」
 職員室は、いつものコーヒーの匂いと、給湯室から来るたばこの臭いが入り混じっていた。一応分煙するために、吸い殻入れが給湯室にだけ置いてあるのだ。職員用の机のうち七割以上の席が空いていたけど、その机の大半はずいぶんと散らかっていた。
 添削中の理科の小テストとか、付箋やプリントが挟まって分厚くなった教科書、コンビニ袋に入った菓子パンもあった。英語の筒井先生の机には、ワークが三クラス分、うず高く積み上がっていた。
 三橋先生は自分の席へ歩いていき、椅子に座った。他の机と違って、三橋先生の机はとてもよく整理されていた。
 先生は、私を振り返った。
「先週土曜日の朝、杠さんのおばあ様が病院に運ばれたそうです」
 私は先生の言葉を頭の中で反復した。無言で十回くらい、「病院」と「運ばれた」を反復した。
「昨日の夜、お母さんから電話がありまして、今はもう落ち着いているようですが、しばらく目が離せないそうです。そういう状態なので、杠さんも、学校には来れません。分かりますね?」
 ほとんど息を吐いただけのようなかすかすの声で、私は「はい」と言った。
 あの演奏会の日の朝、ユズちゃんのあばあちゃんは倒れた。他でもないユズちゃんがそれに気が付いて、すぐに救急車を呼んだらしい。今は柿倉市の総合病院に入院しているという。先生が状況をそんなふうに話してくれたけど、それ以上のことには言及しなかった。
 土日の二日間、杠家は大変なことになっていたのだ。変な噂ばっかり早く広まるくせに、こういうことには「天原町の噂好き」も、てんで役に立たない。
 そして、先生は私に訊いた。
「津々楽さんは、杠さんの、一番のお友達ですね」
 無意識に、私は頷いた。そのつもりです。
「会いに行ってあげてください。ノートやプリントを渡すだけでなく、話を聞いてあげてください。今の杠さんには、それが大切ですよ」
 穏やかな声だったけど、三橋先生はとても真剣だった。
「はい、分かりました。でも、会いに行くなら私だけじゃなくて、バスケ部の友達とか、他の子からも元気づけたりしてあげた方が」
 先生は、かぶりを振った。それではいけません、と。
「“みんな”が相手では、恐らく杠さんはみんなに心配されないように、作り笑いをしてやり過ごしてしまうでしょう。それでは、杠さんへの“お見舞い”の意味がないのです。今回のことで、杠さんが一人で抱え込んでしまっていることがあります。それについて、私が詰め寄っても逆効果ですし、大人がただ事実を言い当てようとしたところで、やはり意味がないのです。それを吐き出せるように、津々楽さんだけで、行ってあげてください」
 私は黙って頷いた。どこか、含みのある言い方だった。そもそもユズちゃんと仲が良いというだけで、わざわざ職員室で状況を話してくれるのも、よく考えたらちょっと変だ。
 ユズちゃんは強い。強いけど、今はすごく心配だった。そう思う私の気持ちを、三橋先生は察してくれたのだろうか。
 放課後、私は部活を休んでユズちゃんのおばあちゃんが入院している病院へ向かった。家には、学校の電話を借りて連絡を入れた。お母さんの耳にも入ってなかったようで、三橋先生がかけてくれた電話口から、びっくりするほど大きな声が聞こえた。
 お母さんと先生との会話の中で、「脳梗塞」という病名が聞こえた。それを聴いたとき、背中がざわりとした。先生は声を小さくして、出来るだけ私に聞こえないようにしていたみたいだけど、残酷にもそれが、一番はっきりと聞こえた。

 柿倉市立総合病院のある柿倉駅は、天原駅から上り電車で三駅だった。演奏会のあった香田市とは逆方向になる。正面の改札口から出て、道路を挟んだすぐ目の前に、その病院はそびえ立っている。小さい頃、水疱瘡にかかったときにこの病院に通っていた。ただっ広い駐車場と、くすんだクリーム色の外壁を、うっすら覚えている。
 あんなに大きな声で笑い、あんなに元気に竹ぼうきを振り回し、あんなに柔らかい笑顔だったユズちゃんのおばあちゃんは、小さく縮んて病室のベッドに横たわっていた。
 言葉を失うほど、小さく見えた。色も、黒ずんで見えた。老いた身体の臭いと、消毒薬の臭いが混ざり合っていた。
「ちょっと、茉里ちゃんじゃない!」
 ベッドの脇には、ユズちゃんのお母さんが座っていた。おばあちゃんほどではないけど、どこか小さく見える。病室を訪れた私を見るとすぐに立ち上がって、駆け寄ってきてくれた。
 おばさんの明るい二重の瞳や、笑うといたずらっぽくなる口元は、ユズちゃんとそっくりだ。すらりと背が高くて、綺麗な人だった。会ったときはいつも、優しくて魅力的な笑顔を分けてくれる人だった。でも、今近くで見るおばさんは、白髪と皺がすごく目立った。笑っているけど、悲しげな笑顔だった。
「部活があるんでしょ? 休んで平気なの?」
「はい。顧問の先生には言ってあります」
「そうなの――ごめんなさい、津々楽さんのところには、すぐにきちんとお知らせしなきゃと思っていたんだけど、ばたばたしちゃってて。本当に、びっくりさせちゃったわね」
 ありがとう、来てくれて。おばさんは言った。
 私はベッドの僅かな膨らみと、静かに呼吸する皺だらけの顔を見た。ユズちゃんのおばあちゃんに取り付けられた人工呼吸器のチューブが、本当におばあちゃんは倒れてしまったんだと、私に実感させる。息が詰まりそうになり、鼻の奥がつんとした。
 おばさんは病室の隅に重ねてあったスツールをひとつ出し、私に勧めてくれた。お礼を言って、私が座ったのを見届けてから、彼女も自分の椅子に座り直した。
 おばさん訊いて下さい。
 金曜日、お風呂に入れてもらいに行った時は、全然こんなんじゃなかったんです。
 いつも通りすごく元気で、ユズちゃん――奈都子さんを怒鳴りつけるくらいだったんです。
 本当にこんなふうになるなんて、私信じられません。
 どうしてこんなことになっちゃったんですか?
 おばあちゃんは、どこが悪かったんですか?
 大丈夫ですよね?
 助かるんですよね?
 まさか、死んじゃったりしないですよね?
「私、また元気になるって信じてます」
 言いたかった言葉を全部飲み込んで、気付いたら私は、そう口にしていた。
 私は津々楽茉里だ。杠家の親戚や、まして家族ではない。余計にうろたえたり、余計に悲しんだり、してはいけない。
 そうしても許されるのは、孫のユズちゃんだけだ。
「――そうね。茉里ちゃんが来てくれて、お母さんも喜んでるわ」
 おばさんは、弱々しく微笑んだ。
 これは後から知ったことだけど、ユズちゃんのおばあちゃんは脳卒中だった。
 かかりつけののお医者さんに、以前から血圧が高いことを心配されていた。高血圧と加齢からくる動脈硬化もあり、乳製品やマグネシウムを含む食品を勧められていた。おばあちゃんはお医者さんの言うことを守って、ごまを使った料理を多くしたり、苦手だった乳製品も、出来るだけ食べるようにしていた。きちんと予防していたのだ。
 それなのに、おばあちゃんの動脈は硬くなり、弾力を失っていった。
 土曜の早朝、おばあちゃんの心臓でできた血栓は血液中を流れていき、脳に到達した。血管が詰まり、脳卒中を引き起こした。
 急性期の心原性脳梗塞だ。元気だと思っていたユズちゃんのおばあちゃんは、導火線付きだった。
「すみません、奈都子さんは?」
 私はおばさんに尋ねた。ユズちゃんの姿がなかった。
「ああ、そうよね。奈都子は先に帰ったわ。やらなきゃいけないことがあるって。一人で帰すのも心配だったんだけど、お母さんのことも一人にしておけなくて」
 おばさんが迷っていると、ユズちゃんは言ったそうだ。私は一人で大丈夫、と。
 大丈夫なもんか。つよがり。
「今日の授業のノートとプリント、持ってきたんです」
 そう言えば、家族以外の大人と話すときはいつからか敬語になっていた。でも、ユズちゃんのおばあちゃんと話すときだけは違った。小さい頃からの言葉づかいが、今でもそのままになっていた。
「茉里ちゃんは優しい子ね。何だか申し訳ないわ。どうもありがとう」
 おばさんは大袈裟すぎるほどのありがとうを、たくさん私に浴びせた。
「ノート、私が預かっておくわね」
「いえ。私、直接渡します。奈都子さんに用事もあるので」
「あらそう? いやだわ、何から何まで本当に迷惑ばっかり――そう言えば土曜日も奈都子たち、茉里ちゃんの演奏会に行く予定だったのよね? ごめんなさい。すっぽかしちゃったわね――」
 おばさんは目を伏せる。私はかぶりを振った。
「また年明けにあります。演奏会。その、すごく楽しみにしてくれてたんで、次は来てほしいなって、思います」
 今日は音楽室に置きっぱなしにしてきたフルート。彼はケースに入って、部屋の奥の棚で、静かに眠っている。私程度のレベルの演奏者なんてたくさんいるし、耳の肥えた人からすれば、中学生の吹く横笛なんて、聴くに堪えないのだろう。
 でも、私のフルートを聴きたいって、言ってくれる人がいるのだ。孫の友達だというだけで、応援してくれる人がいるのだ。
 明日は部活に行こう。きちんと、練習しよう。そう思った。

 病院を後にした頃には、もう十七時を回っていた。
 陽が落ちるのがどんどん早くなる。柿倉の駅の周りは新興住宅地で、天原と比べれば二世代くらい若い街だ。真新しいマンションがドミノ見たいに並んでいる。
 背の低い建物がごちゃごちゃしている天原とは違い、計画的に区分けされ、優れた外観にデザインされ、ゴミ捨て場さえも清潔で、自分と他人とは、セキュリティという壁できちんと仕切られていた。
 マンションとマンションの隙間から、ぎりぎりの太陽が最後の力を振り絞って、街に光を浴びせていた。横断歩道を渡る私の東側に、長い長い影が伸びている。
 柿倉駅のホームで電車を待ちながら、私は考えた。
 どこか違和感がある。今朝、職員室で三橋先生と話した時から、うっすら感じていた。ユズちゃんのお母さんに久しぶりに会って、話して、その違和感はますます膨れ上がった。大人たちの話す言葉のその行間から、妙なぎこちなさを感じる。
 ただの杞憂に終わってくれればいいのだけど。


         ◆ ◆ ◆


 夕闇の中、「銭湯ゆずりは」の明かりが灯っていた。
 暖簾の隙間から漏れ出す光が、アスファルトを照らしている。入口のすぐ前に突っ立って、私はしばらくその光を見つめていた。
 通い慣れた銭湯が、急に年老いてしまった気がした。主を失くした今の彼は、悲しいほど無表情だった。
 今まで気付かなかったけど、えんじ色の暖簾は擦り切れてほつれが目立つし、黒くくすんでしまっているところも多かった。時折強いがぜが吹くと、曇りガラスの引き戸はかたかたと乾いた音を立てる。煙突のてっぺんからは、何も吐き出されていない。灰色の身体を木枯らしに晒して、震えていた。
 今分かった。私にとって、ここはすごく大切な場所だったんだ。
 ここは、私の一部だった。銭湯ゆずりはがなくなってしまう。それは、自分の手や足がもぎ取られるようなことだ。ユズちゃんのおばあちゃんがいなければ、この銭湯はやっていかれなくなる。今、私の身体は部分的に凍傷にかかってしまっていて、腐食が始まっているのだ。
 放っておいたら、切断しなければ生きていけなくなってしまう。
 急に生暖かいものが、頬に流れた。外気で冷たくなった顔を伝って、それは次々溢れ出て、紺色のマフラーに染み込んでいった。
 私は銭湯ゆずりはの前で、ひとしきり泣いた。
 鞄からポケットティッシュを取り出して、三回洟をかんだ。幸い通りに人影はなく、私は入口横の小さな植込みのところで、誰にも気づかれずに涙を拭き取った。
 ユズちゃんのこと、何にも言えない。
 私は静かに手を合わせた。もろの木さまを思い浮かべて、湯の神さまを思い浮かべて、それからコノのことも思い浮かべた。
 どうかまた、ユズちゃんのおばあちゃんが元気になりますように。
 真っ赤になった顔を冷ましてから、私は入口の引き戸を開けた。がらがらと、けたたましい音を立てる。
「あ、すみませーん! 今準備中なんです!」
 少女の声が、番台の陰から聞こえた。ユズちゃんの声。私が聞きたかった、ユズちゃんの声だ。その声は、拍子抜けするほど明るく響いた。
 番台の上に、ユズちゃんがひょこっと顔を出す。私を見て、彼女はとたんに目を丸くし、口を大きく開いた。
「茉里!」木製の天板に手を突っ張って、ユズちゃんは番台から飛び降りてきた。
「ごめんね! 土曜の演奏会行けなくって! うちのばあちゃんがさ、朝なかなか起きだしてこないと思ったら、ふすまのところにぶっ倒れてて」
 ユズちゃんはあっさりと言った。彼女の頬には黒い煤が付いていた。頭にはいくつか綿埃が乗っかっている。
「急いで救急車呼んだんだけど、これがまたうちまで来るのに馬鹿みたいに時間かかってさ。やっと病院に着いたと思ったらあれよあれよと個室に入れられて。なんだっけ、集中治療室? とにかくずっと隔離されてて、そっからほとんど一日中手術。一応今はなんとか落ち着いてる。茉里にはすぐ連絡しなきゃと思ったんだけど、もうそれどころじゃなくなっちゃって、それで――」
 そこまで一気に言ってから、ユズちゃんは急につっかえた。
「――ユズちゃん?」
 自分が子供すぎて嫌になる。友達がこういう状態のとき、どうしたらいいのか見当もつかない。
「ご、ごめん。とにかく、今はお風呂無理なんだ」
 弱々しい笑顔で、彼女はまた謝った。みるみる顔が赤くなって、眉間にきゅっと皺が寄った。目を伏せ、両手で口を抑える。手には、軍手がはめられていた。
 少しのあいだ、沈黙が訪れた。風の神様はお構いなしに、入り口の引き戸をかたかたと鳴らしていた。脱衣所の灯りが一定の間隔でちかちか点滅している。三色の牛乳が入った冷蔵庫が、ぶーんと鈍い音を発している。
 ユズちゃんは泣かなかった。代わりに小さな声で、「ごめん、大丈夫だから」と言った。
「ほんと?」
「うん、本当。大丈夫ったら大丈夫――全くなんで茉里なんかに心配されなきゃなんないのよ」
 ユズちゃんは軍手を外して、番台の上に放った。
 そりゃあ心配する。あなた、気丈に振る舞うのは十八番なんですから。
「ノートとプリント、持ってきた。今日の数学、図形のところに入ったよ。いる? いらないか」
「あ、いるいる! ごめんって茉里!」
「――あとね、病院に行ってきたよ。ユズちゃんのお母さんが、ユズちゃんならもう帰ったって教えてくれた。やらなきゃいけないことがあるって――銭湯のお湯、沸かそうとしてたの?」
 ユズちゃんの風貌は、まるで建設現場の棟梁みたいだった。首にタオルを巻いている。履いているぶかぶかのジーンズも、羽織っている紺のダウンも、よく見ると煤でかなり汚れていた。綿ぼこりも、そこかしこに付いている。
「だってほったらかしにしておけないし。釜場にまだ雑燃が残ってたから、なんとか火をつけようと思っていじってたんだけど、ボイラーの使い方なんて全然分かんなくて。説明書みたいのがないか探してたとこなんだけど、どこにもそんなものないんだよね」
 もうこんなことならばあちゃんに訊いておくんだった――ユズちゃんは番台に座り直し、だらりと両手を投げ出した。
「勝手にボイラーなんていじったら、それこそおばあちゃんに叱られるよ」
「それでも」ユズちゃんは天板に突っ伏したまま、静かに言った。「それでも、この銭湯はちゃんと経営してかないと、あの人に潰されちゃう」
 潰される。ユズちゃんは力を込めた。
「何? あの人って?」
 ユズちゃんの「あの人」の言い方には、はっきりと敵意が現れていた。
 潰される? そんなの、初めて聞いた。
「いいの。茉里には関係ない話」
 ちくりとくる言い方だった。子供はもう寝なさいと、子供にそう言われた気分だ。
「関係なくなんかないよ。私だってこの銭湯が潰れちゃったら嫌だもん」
「潰れるとか簡単に言わないで!」
 彼女は突然、がばっと起きだした。空っぽの脱衣所に、大きな声が響いた。私は面食らってしまい、その場に固まってしまった。
 荒れてる。めちゃくちゃだ。先に言ったの、ユズちゃんじゃないか。
「ばあちゃんが回復するまで、あたしはなんとかこの銭湯を守らなきゃいけないの。じいちゃんが建てた、夢なんだから。それをばあちゃんが、一人で守ってきたんだから。なんとかしなきゃなの。なんとか――」
 勢いよく話し始めたのに、どんどん声がしぼんで、最後の方は、くぐもった息づかいしか聞こえなくなってしまった。
 相当滅入ってる。
「――茉里、ごめん」
 また謝られた。幽霊みたいな声だ。やっぱり、大丈夫じゃない。
 ユズちゃんのおじいちゃん。確か、六年前だと思う。小学校の低学年。うっすらだけど、覚えている。当時、着慣れない礼服を着て、よく状況が分からないまま斎場に連れて行かれた杠家の葬儀で、写真を見た。
 でも、写真だけだ。私が「銭湯ゆずりは」を初めて訪れた頃には、すでにおばあちゃんしか番台に立っていなかった。生前のユズちゃんのおじいちゃんには、会った記憶がない。
 その頃には、すでにどこか悪かったのだろうか。当時からユズちゃんも、ほとんどおじいちゃんの話題は出さなかった気がする。口を突いて出てくるのは、いつも「ばあちゃん」の方だった。
 そうなのだ。ユズちゃんは生粋のおばあちゃん子だった。おばあちゃん想いの、優しい女の子だ。その彼女は今、番台の上に顔を乗せて、うーうー唸っている。
 ユズちゃんが抱え込んでいることを吐き出せるように。三橋先生はそう言っていた。私一人で会わなきゃ、それができないのだと。一番の友達の、私じゃなきゃ、できないこと。バスケ部の同級生や、クラスの他の女子ではいけない。私だからこそ、できること。
 津々楽茉里として、杠奈都子にしてあげられること。
「ユズちゃん、今日さ、うちのお風呂に入りにおいでよ」
 私は提案した。
「お風呂? 茉里んちの?」
「うん。もちろん銭湯と比べるとうちのは狭いし、二人入ったらもうぎゅうぎゅうになっちゃう。でも、ほら――」私はユズちゃんの頭に付いた埃をつまんだ。「ユズちゃん汚い」
 また怒られるかなと思って、ちょっと構えた。けどユズちゃんは、じっと私のことを見ていた。真剣な顔で、ちょっと照れ臭そうに。
「――ごめん」
 この子、またごめんって言った。
「今日はもう謝るの禁止」

 ユズちゃんちに書き置きを残して、私たちは杠家を後にし、津々楽家の方へ足を向けた。歩いて十分とかからない。ほとんど目と鼻の先の距離だった。
「久しぶりだなあ、茉里んち」ユズちゃんが白い息を吐いた。
 点々と灯る水銀灯の小道。私たちは冷たい風に顔をしかめて、身を縮め、足早に歩いていく。立ち並ぶ民家が途切れて、アスファルトが砂利道になり、そしてすぐに畦道に変わる。既に作物の収穫時期が終わり、辺りには裸ん坊の田んぼが広がっていた。土と草の匂いがほのかに風に混ざり込んでいる。街灯もなくなり、隣を歩いているユズちゃんの顔も、ぼんやりとしか見えなくなった。
 お母さんは、私が連れてきた煤だらけの女の子を見て、弾かれたピンボールのようにてきぱきと動き始めた。
「あらいらっしゃい! ちょっと寒かったでしょ! 早く上がって、ストーブの前で温まりなさい。やだちょっと二人で何してたの? 奈都子ちゃん埃だらけじゃない。さあ、いいから早く」
 私とユズちゃんが居間のストーブで指先をほぐしているあいだ、上着を脱がされ、バスタオルを渡され、おばあちゃんが「大変だったねぇ」とユズちゃんの頭をわしゃわしゃやり、熱いお茶が出され、お母さんが病院とユズちゃんちに電話をかけ(ユズちゃんちはまだ留守だったらしく、伝言を残していた)、夕飯は一人分多く支度され、お風呂のお湯が沸き、早く入りなさいと急かされ、お父さんは一度ビールを冷蔵庫から出したけど、ちょっと迷ってすぐに戻し、ユズちゃんの分の布団とパジャマが準備され、ユズちゃんはうちに泊まることになった。
「奈都子ちゃんのお母さんには電話でお話したから大丈夫よ。服はお洗濯しておくから、明日はうちからゆっくり病院に向かえばいいわ。ただ茉里は明日も学校なんだから、夜更かしはだめよ。さあ早くお風呂に入っちゃいなさい」
 ばたばたと浴室に追い立てられて、気付けば私とユズちゃんは裸になり、湯気の立つ浴槽の前に立っていた。
「ユズちゃん」
「なに?」
「うちね、テレビのチャンネル権はお父さんにあるの。だから今日の『探偵☆森ガール』は、見れないかもしれない。お父さんいっつも『世界遺産大絶景』見るから」
 月曜夜九時と言えば「探偵☆森ガール」だ。今学校でも大流行りのドラマだった。主役の女優さんのヘアスタイルやファッションがとっても可愛くて、うちのクラスにもぽつぽつとレプリカが現れ始めている。
「大丈夫。あたし先週見逃してから、もういいやって思ってたから。茉里先に入りなよ」
 あたしは身体洗うからと、ユズちゃんは一番風呂を私に勧めた。涌いたばかりのお湯は入るには熱すぎたので、私は蛇口をひねって水を足しながら、浴槽を洗面器で掻き混ぜた。
「森ガール。一応、録画してるけど。先週分のも」
 リアルタイムではなく、録っておいたものを次の日の夜に見る。お父さんのせいで、毎週そうする羽目になっていた。本編を見る前に、ストーリーの大事なところをうっかり聞いてしまってはいけないから、学校ではドラマの話題を避けるのに一苦労だ。
「ほんと? それ、見たいかも」
 お湯はちょうど良い温度になり、肩から身体にざぶりとお湯を被ってから、私はゆっくり湯船に沈み込んだ。はーっ、と息が自然と漏れる。
「じゃあ、またうちにおいでよ。今日の分も録っとくよ」
「うん、ありがと」
 熱いお風呂を目一杯楽しみながら、石鹸を泡立てるユズちゃんを見つめていた。「腕も脚も細くていいなあ」なんて、ぼんやり思う。
 そのとき私の耳に、突然別の声が飛び込んできた。
「こりゃ驚いた。茉里が連れてくるつもりだった子って、湯の神の姉さんとこの子だったんだね」
 聞き覚えのある、無邪気な男の子みたいな声だ。私の頭上に、いつの間にかコノがプカプカ浮いていた。
「やあ茉里」
「コノ!」
 彼はひょろりと長い腕を組んで、小さな羽根をぱたぱたさせている。対してユズちゃんは、私をじっと見て、不思議そうな顔をしていた。
「え? なに茉里、どうかした?」
 こんなへんてこな生き物が突然民家の浴室に現れたというのに、平然と身体を洗い続けている。
 私ははっとした。彼女には、コノが見えていない。
「えっと、あのねユズちゃん、今ここに」私は人差し指を天井に向ける。「来てるの。コノっていうもろの木さまのもののけさんが」
「もののけ、さん?」
 ユズちゃんは天井を見上げる。目を凝らし、そこにあるものを見つけようとしているが、やはり何も見えないようで、すぐに苦笑いを浮かべた。けど、無意識に両手で胸のところを隠していた。
「ちょっと、冗談やめてよ茉里」呆れたように言う。
「うーんと――」
 確かに、冗談みたいな状況だ。彼の存在を、どうやって伝えればいいだろう。
「しょうがない。今日は特別に『端境(はざかい)』を解いちゃおう。茉里、僕に触ってみてごらん」
 コノが促した。駅前広場のときと違い、彼はは今手を伸ばせばすぐに届くところに浮かんでいる。私は恐る恐る、コノの左足の先っぽに触れてみた。犬や猫と全然変わらない触感だった。緑色の体毛はふわふわとしていて、ほのかに温かい。
「きゃあっ!」ユズちゃんが叫び声を上げた。「やだ! なに? なんなのそいつ?」
 彼女は顔を引きつらせて、泡だらけの身体をぎゅっと小さく丸めた。その目は、今度はしっかりとコノを捉えていた。
「同じ木行だからね。茉里は僕に触ることができる。そして人間が僕に触れば、他の人たちにもしばらくのあいだだけ、僕の存在を共有してもらえる」
 その後、パニック状態のユズちゃんを落ち着かせるまでに、しばらく時間がかかった。
 私はなんとか、あの駅前広場の出来事を話そうとした。けど、途中ふざけて急接近するコノに、ユズちゃんは悲鳴を上げながら石鹸を投げつけた。外れた石鹸は後ろの窓ガラスに当たって跳ね返り、私の後頭部を殴打した。
 その二十秒後、ユズちゃんは再びいたずらしようとするコノに対し、今度はシャワーのお湯で応戦した。コノがひらりと身をかわす。私は頭からお湯を被った。「いい加減にして!」と私が叫ぶと「なに先から遊んでるの!」と、浴室の外からお母さんに叱られた。踏んだり蹴ったりだ。
 もろの木さまとコノの関係。五行、口寄せ、神子。そして天原に忍び寄るという「大きな力」のこと。私はコノの言葉を借り、途中行ったり来たりしながら、ゆっくり説明した。ただ、あのモノクロ人々の世界のことだけは話さなかった。私には、あの光景を言葉にすることができなかった。
 座敷童の正体が中学二年生の子供だと知ったら、ユズちゃんはがっかりするだろうなと思っていた。でもそんなことは、人語を介する緑色の獣の前ではもうどうでもよくなったらしい。美景ちゃんについて話したときは、一言だけ「麗徳とか、すごい」と呟いただけだった。
「大丈夫、もう驚かない。なんでだろう。確かに信じがたいけど、有り得ないことだとは思わない」
 やっと落ち着きを取り戻し、ざぶりと湯船に浸かった彼女は、どこか神妙な顔つきをしていた。
「あたし、ちょっと思ったことがあるの」
 ユズちゃんは、じっと自分の膝を見つめている。
「うちのばあちゃんともろの木さまって、似てるなって」
 コノが「ほう」とフクロウみたいな声を出した。ユズちゃんと入れ替えで身体を洗っていた私も、思わず手を止めた。
「もろの木さまは天原を守ってくれてる。でもそれだけじゃなくてね、この町の人たちを、きちんと繋いでくれてる気がするんだ。いつもはみんなもろの木さまのことなんて全然見向きもしないで、あの広場を通り過ぎていくかもしれないけど、もしもろの木さまが突然なくなっちゃったら、町中大騒ぎでしょ? それと同じで、ばあちゃんはあの銭湯をずっと守ってきたの。あの銭湯に来たお客さんは、お風呂の中で顔を覚えて、脱衣所で名前を覚えて、一緒に牛乳を飲んで、知り合いになるの。そんなにたくさんはいないけど、来た人たちは、みんな繋がっていった。だから、もろの木さまとばあちゃんは似てるなって。そっくりだなって思うの」
 ユズちゃんは照れ臭そうな笑顔を、私に向けた。
「わかるよ。ユズちゃんのおばあちゃんも、もろの木さまも、『そこにいる』って思うだけで、ほっとするもん」
 大きなふところで、大きな安心感を与えてくれる。そんな彼らの見てくれは、ちょっと大きい古ぼけたスギの木だったり、竹ぼうきを振りまわす年老いた番頭だったりする。
「そして、今の状況もそっくりだね。もろの木さまも、銭湯の主も、弱ってしまっている。残念だけど」
 コノが言う。私とユズちゃんは同時に彼を仰いだ。
「そんな、『そういえばお前何しに来たんだ?』っていう目で見ないでくれよ。僕だって、用もないのにこんなところ来ないさ」
 こんなところだんなんて、失礼な。
「まあ僕らとしてもね、あの銭湯がなくなっちゃうのはちょっと痛いんだ。天原でも特に大切な場所のひとつだからね。それに――」
 コノは腕を組んだまま、湯船の縁に着地した。
「あそこ潰れちゃうと、湯の神の姉さんがホームレスになっちゃう」


  [No.1179] 3.出雲の国の女神と、風を纏った鼓草 投稿者:リナ   投稿日:2014/06/30(Mon) 05:15:15   37clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


◆出雲の国の女神と、風を纏った鼓草◆

 天原町は、神域。神様のおわします、とても神聖な場所だ。出雲や伊勢に並んで、昔から特に大切にされてきた土地のひとつだった。
 どうして、先人たちに尊ばれてきたのか。それは例えば、大袈裟な姿かたちをした崇拝対象があったとか、神ありきの理由では全くなかった。
 天原は昔から、冷害に悩まされてきた。毎年冬になると、遠い北の大陸で生まれた冷たい空気が日本海を渡り、奥羽山脈を乗り越えてやってくる。その乾燥した冷気は鋭い刃となって天原に吹きつけ、作物を枯らした。
 天原の人々は、その風が氷のように冷たい風だったので、「氷の神様」の怒りなのだと考えた。氷の神様は、長い尾を持った巨大な霊鳥の姿をしていると考えられた。天原の農家の人々は収穫の時期になると、氷の神様のために祭壇を作って祀り、豊作を祈願した。
 しかし、冷たい風はその後も治まることなく続いた。
 これでは食っていかれない。まともに作物も獲れないこんな土地で、どうしてここにとどまり、飢えに耐え続けなければならないのだろうか。そう考える農民たちが現れ、一軒、また一軒と天原を捨て、もっと暖かい土地を求めて出ていってしまった。農地を耕す者が減っていくと、土は荒れて、冷たく硬く強張っていった。
 打ち捨てられた土地。飛鳥時代は慶雲期、天原はそう呼ばれていた。
 頭を悩ませたもろの木さまは、出雲の国に住んでいた湯の神さまを呼び寄せて、この土地と人々を温めてくれまいかと願い出た。
 天原の土地を眺め、湯の神さまは言った。
「長きに渡り凍てつく風に晒された天原を温めるには、うんとたくさんの湯を沸かすことのできる桶をこしらえなければなりません。鎮守の森の木々を切るわけにはいきませんから、本殿を取り壊して、その廃材を使うことになりますよ」
 当時はまだ存在していたとされる「天原神社」。もろの木さまはその本殿に祀られていた。しかし、氷の神様を鎮めるためには、湯の神さまの言いつけどおり、本殿を取り壊さなければならなかった。
「本殿を取り壊せば、代わりにあなたが毎年、凍てつく風に晒されることになります。それでもよろしいのですか」
 湯の神さまの提案には、天原に住む皆が反対した。八百万の神々も、獣(しし)たちも、もちろん農民たちも。
 天原を守ってきたもろの木さまがどうしてそんな目に遭わなければならないのか。そもそも本殿を取り壊すなど、正気の沙汰ではない。ある神がそう言った。その他の大多数の神様たちや人々が、同じ意見だった。
 ただ一人、もろの木さまだけが、本殿を取り壊し、桶を作ると言った。
「この老木が雨風に吹き晒されることは、なんら気に止めるようなことではない。朝日が昇り、また沈むのと同じ様に、些事である。今大事は、天原に人々が住まなくなることだ。作物が獲れなくなり、土地が痩せ、国として死んでしまうことだ。この社の木材が必要ならば、気兼ねなく使うがよい」
 天原の全ての者たちはその言葉に感嘆した。
 そして、神さまたちも人々も獣たちも、総出で桶作りに携わった。本殿は涙のうちに取り壊され、もろの木さまは剥き出しになった。
 出来上がった大きな桶で、湯の神さまは湯を沸かし、天原を温めた。毎年冷たい風の吹く季節がきても、「天原の大桶」のおかげで、作物が枯れることもなくなった。凍える冬の夜は、皆大桶の湯に浸かり、身体を温めて寒さを凌いだ。
 以来、もろの木さまに加えて、天原神社の祭神として湯の神さまも祀られることとなった。
 しかし社の類は全て取り壊され、手水舎や鳥居も全て大桶の材料となってしまっていた。そこで、大桶の湯を皆に配る役目をしていた各所の「湯屋」で、二人の神様は祀られることになったのだ――

「自分の住んでいる場所の歴史くらい、ちゃんと勉強してください」
 美景ちゃんが長い溜め息をついた。
「――津々楽さんも杠さんも、本当に聞いたことないんですか?」
 私とユズちゃんは曖昧な笑みを浮かべて目を合わせた。
 美景ちゃんと約束をした土曜日は、先週と同じくらい良く晴れていた。ユズちゃんを連れて、待ち合わせの午後四時の五分前に駅前広場へ行くと、美景ちゃんはもうベンチに座って文庫本を読みながら待っていた。土曜日なのに、やっぱり前と同じ制服姿だ。美景ちゃんを初めて見たユズちゃんは、「ほんと座敷童みたいな髪してる」と小さく呟いた。
「その『天原の大桶』っていうのは聞いたことあるよ。でもそれが何なのかは今知った」
 私がそう言うと、ユズちゃんもうんうんと頷いた。
「そうですか。あなた方に今の天原の状況を話す前に、成り立ちだけで日が暮れてしまいそうです」
 そもそもどうして美景ちゃんに「天原歴史講座」を開いてもらうことになったかというと、早い話“浅学”が露呈してしまったからだった。麗徳のエリート少女は、我々のような一般的な中学生に容赦がなかった。
 私がユズちゃんと美景ちゃんをお互いに紹介し、コノと挨拶をし、ひとまず三人並んでベンチに腰を下ろし、何気なくもろの木さまの話になったときに、ユズちゃんがぽろっと言った。
「天原の守り神ってくらいなのに、どうしてちゃんと祀られてないんだろうね? 普通大きな神社とか、そういうところにあるんじゃないの?」
 私も不思議に思っていたことだった。駅前広場の真ん中でぽつんと佇むもろの木さまは、見ているとどうも不憫に感じてしまう。これからの寒い季節は特にそうだった。
 しかし、ユズちゃんのその台詞を吐いた直後、美景ちゃんの表情がぴたっと固まったのだ。私はすぐに察して、ユズちゃんの台詞の後に「うん、そうだよね」なんて相槌を打たなくてよかったと思った。
 そして美景ちゃんより――すでに綴ったように――天原神社が取り壊された理由が語られたのだった。
 美景ちゃんの語ってくれた天原の神話は、「天原手記」という書物に収められているらしい。古事記や日本書紀に記載のある神話との関係も深く、歴史学的にも重要な神話なのだそうだ。
「湯の神さまは出雲の国から来たという記載から、出雲大社の祭神『大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)』の妻、『多紀理比売(タキリヒメ)』と同一神と考えられています。天原の神たちにとっては他所者でも、名のある神の言葉だったからこそ、言いつけ通りに桶を作ったのだという話です。そもそももろの木さまが迎え入れるほどの神ですから、きっと出雲の国でも広い範囲で信仰を集めていたのでしょう」
 神話の詳細を語る美景ちゃんは、他の話題のときよりほんのちょっぴり生き生きしていた。
「とにかく、天原に神社がない理由は分かった。もともとこの駅前広場には、その『本殿』があったのね。なんか、全然イメージできないけど」
 ユズちゃんが人差し指と親指で四角形を作り、もろの木さまにかざして覗いた。創建された時代も、「大桶」を作るために取り壊された時代も不明。「天原手記」が完成したのが奈良時代初期らしいから、今から千五百年くらいも昔の出来事ということになる。
 そんなに気が遠くなるほど昔から、もろの木さまはここに立って、天原を守り続けてきたのだ。
「イメージはできないけど、大切にしなきゃいけないことは分かる。もろの木さまも、湯の神さまも」
 そうさ、とコノが頷いた。
「それが、君たちの生活をきちんと続けていくこと、後世へと繋いでいくこととイコールなんだ。前に話したように、湯の神の姉さんをホームレスにさせてる場合じゃないよ」
 コノがうちの浴室に現れたその日から、実は二つ、出来事があった。どちらもあまりよくないことだった。

 ユズちゃんのおばあちゃんは、目を覚まして間もなく、認知症と診断された。脳血管性のものとアルツハイマー型が合併したものだろうと、担当医師は判断した。
 木曜日に再度お見舞いに行ったときのおばあちゃんは、やっぱりとても小さく映ったし、言葉数が少なかったけれど、何もおかしなところはなかったように感じた。とにかくそのときは、目を覚ましてくれたことが嬉しかった。リハビリ次第で早期に退院できるだろうと、ユズちゃんのお母さんも言っていた。
 しかし帰り際、病室の外でお母さんは「後々びっくりさせないよう、耳に入れておいてほしい」と、事実を伝えてくれた。
 実際には症状が表れていたという。目を覚ましたその日から、おばあちゃんは一度食べた朝食を何度も催促した。夜に一人で病室から出ようしたところを看護師さんに見つかり、理由を訊くと「自分の枕を探していた」と答えたらしい。家ではお気に入りの蕎麦殻の枕を使っていたのだ。
 事実、銭湯の運営再開が遠退いた。ユズちゃんにはもちろんそんなこと言っていないけど、うちでは――津々楽家では、そういう方向の話になっていた。
「うちも、喜美子さんのお母さんがそうだった」
 お父さんが食卓でビールを片手に言った。木曜の夜のことだ。
「兄貴の嫁さんの母親だよ。杠さんのところも、むしろ早く銭湯の番台に戻してあげた方がいいんじゃないかな。病院は病気を治すところだけど、やっぱり息が詰まるんだよ。あなたは病人ですって言われ続けてるようなもんなんだ。特に認知症には、それがすこぶるよくないらしい。喜美子さんのお母さんもね、無理矢理病院から引っ張り出して趣味だった麻雀やらせたら、もうあっという間に回復しちゃって」
 私はそれを聞いて、すぐにでも実行したくなった。
「でもねえ」お母さんが食卓の真ん中に鍋を置く。葱のたっぷり入った水炊きだ。「一度倒れちゃったら、もうあんまり無理は出来ないんじゃないかしら。銭湯を一人でやっていくのなんて、若くて健康な人でも大変なのに」
「私手伝う。ユズちゃんと一緒に」
 どのくらいできるか分からないけど、結構本気の提案だった。
「あなたたちは学校の授業と部活があるでしょう」
「みんなにも事情を話して、交代で休むようにすれば? 三橋先生ならきっと賛成してくれるよ」
 お母さんは取り皿を並べながら、困った顔をした。
「三橋先生は、茉里のクラスの担任だね」
 お父さんが質問を入れる。
「うん」
「あの先生は分かってる人だから、茉里の意見には反対すると思う」
「なんで?」
 私はわざと不機嫌に聞こえるように言った。
「いいかい? 残念なことに、生徒たちの親御さんの中には大勢反対する人が出てくるだろう。『うちの子に何させてるんだ!』ってね。そうなっちゃうと、杠さんのところが非難を浴びることになるし、奈都子ちゃんも学校に行きづらくなる。そうなるのは、茉里はどう思う?」
「それは、嫌だけど。でも――」
「先生は、茉里のことだけ見ているわけじゃない。奈都子ちゃんのことだけ、見ているわけでもない。クラスの子供たちみんなを見ている。だから、反対すると思うよ」
 溜め息が出るほど正論。分かっている。でも、私がやろうとしていることはそんなに非難を浴びるようなことなんだろうかとも思う。
「それに、杠さんのところはあのお父さんが、ね?」
 お母さんが困った顔のまま言う。
「――まあそれを話し始めるときりがない。さあ、熱いうちに食べよう。父さんの育てた葱は美味いぞ」
 お父さんがそう言って、その話は終わりとなった。
 思えばあのときお母さんは「口を滑らせた」のだ。
 問屋さんを営んでいるユズちゃんのお父さんは、年がら年中仕事が忙しいらしく、私もほとんど会ったことがなかった。記憶では、たぶん中学校の入学式で見かけたのが最後だと思う。背がすらっと高くて、かっちりとしたビジネススーツを着こなしていた気がする。「町の問屋さん」というより、「ばりばりのビジネスマン」という感じだった。聞いていたイメージとあんまり違ったので、とても印象に残っている。
 二つ目のよくない出来事は、そのユズちゃんのお父さんのことだった。出来事というよりは、浮き彫りになってきた事実、と言った方が近いかもしれない。
 ユズちゃんのおばあちゃんが倒れたこと知ったあの日、大人たちの言葉の行間からなんとなく“違和感”を感じていた。なんか変だ。とても大事なことで、みんなそれを何とかしなきゃいけないと思っているのに、誰もが気付かないふりをしている。
 触れてはいけない。自分達には関係ない、その“家”のことなんだからと。
 気が付いた。違和感の理由は、家族が一人倒れたというのに、誰もお父さんのことを口にしなかったからではないか。まるで関係のない他人かのように、全く一言も、言及されなかったからではないか。あの日の一連の会話には、「父親」がすっぽり抜けてしまっていたのだ。
 しかし、ただ一人だけ。ユズちゃんだけは、お父さんのことを口にしていた。
 ――この銭湯はちゃんと経営してかないと、あの人に潰されちゃう――

「コノからもお二人に話したようですが、まずは杠さんのところの銭湯を“社(やしろ)”として機能させ続けることが急務です。そうしないと湯の神さまの力が弱まり、ますます多くの“毒”を天原に呼びこんでしまいます」
 美景ちゃんは強い口調で言った。
 湯の神さまのことは大事だ。でもそれ以前に、私は確かめなきゃいけない。
「ねえユズちゃん、よかったら話して」
「ん? 何を?」
 ユズちゃんは指で作っていた四角形を下ろした。
「ユズちゃんのお父さん。一体何しようとしてるの?」
 彼女の顔からさっと表情が消えた。目をまん丸にして、私を見る。
「――えっと。それ、誰から聞いたの? うちのお母さん?」
「ううん、誰からも聞いてない。勝手な予想」
 ユズちゃんは目元にしわを寄せて、もろの木さまの方を見た。美景ちゃんとコノは、私たちのやり取りを黙って見守っている。
「――別に、うちの父さんはなんも関係ないよ」
「そしたら、前に言ってた“あの人”って誰のこと? “潰されちゃう”って?」
「あれ、そんなこと言ったっけ?」
 不自然な笑い方で、ユズちゃんはごまかす。
「うん、言ってた。私、普段こういうこと遠慮してなかなか突っ込んで訊けないけど、今回はお節介を焼かせてほしいの。私でもできることがあったら、小さいことでも、何かさせてほしい。本気でそう思う」
 しばらく彼女は足元を見つめ、それからもろの木さまに視線を戻し、それを二回繰り返した。そして、「やっぱり茉里だよなあ、そういうところ」と、笑って空を仰いだ。
「――やっぱりって?」
「お節介。今までだって散々焼かれてきたよ。悪いけど」
「そう、かな」
「そう」
 ユズちゃんは一回洟をすすってから、真面目な顔で言った。
「あの人は、お金儲けにしか興味がないの」


         ◆ ◆ ◆


 ユズちゃんの父、啓次(けいじ)は養子として杠家に婿入りした。今から十七年も前のことになる。杠という姓はユズちゃんの母、美波子(みなこ)のものである。「銭湯ゆずりは」も、すぐそばにある母屋も、母方の実家が所有しているものだった。
 彼が婿養子として杠家に来たのは、ある理由があった。
「お母さんとお父さんは昔職場が同じで、お互いに新入社員のときに知り合ったらしいの。二人とも、まだ二十代のとき」
 ベンチの真ん中に座っているユズちゃんの話に、私と美景ちゃんは耳を傾けた。コノは、私たちの頭の上を、いつもと変わらぬ様子で浮遊していた。
 大手の総合化学メーカーの農業関連事業部で、ユズちゃんのお父さんとお母さんは出会った。若かりし頃の二人は、互いに惹かれ合い、ほどなく交際をスタートする。
「普通に恋愛結婚で、何事もなく入籍ってなるはずだったんだけど、お父さんの家の方に少し問題があって、お母さん側の家族が結婚に反対したの」
「――問題?」私が左側で、首を傾げる。
「うん。あの人の家系がね、新世(しんせい)学会だった」
 言葉の並びが、すぐに頭に浮かんでこなかった。
「――シンセイ?」
 ユズちゃんに“あたらしい”に世界の“せ”だよと説明されたけど、全然ピンとこない。
「それだと、何かまずいの?」
「新世学会は、日本の宗教法人の中でも最大規模の組織です」美景ちゃんが代わりに質問を受けてくれた。「もともとは仏教の古い一宗派の使徒団体でしたが、今では信仰の内容も変わってきています。ひとつの政党の支持母体になるほど巨大化してますから、学会員自体はそれほど珍しくありません。しかし、教祖である人物への神格化が過度なのに加え、非常に排他的な性質を帯びてきているため、新世学会には嫌悪感を抱く人が多いです」
 ユズちゃんのお母さん側の家族、つまり「杠家」の人々も、あまり良いイメージを持っていなかった。というより、ほとんど毛嫌いしていたのだという。気味の悪い宗教団体の男のところへ、うちの娘を嫁に出すだなんて考えられない、というわけだ。
「あの人はそれほど狂信的な人ではなかったから、お母さんと結婚するために新世学会を抜けたの。それってすごく勇気のいる行動みたいで、当時はずいぶん面倒なことになったらしいけど」
 学会を抜けた啓次は、事実上、家族との縁を切ることになった。「脱会」とは、そういうことなのだ。
「うちの母方の実家にあの人が婿入りしたのは、そういう理由があったんだって。前に、お母さんが教えてくれた。最初はうちのおばあちゃんもおじいちゃんもしぶしぶっていう感じだったみたいだけど、家族と縁を切ってまでお母さんと結婚したお父さんに、最終的には根負けしちゃったんだって」
 啓次と美波子の結婚生活は、式を挙げることもなく、東京の小さな一室で、静かに静かに始まった。まもなく美波子は妊娠したのを機に退職し、同棲していた東京から一人実家の天原に戻った。妊娠中は不便なことも多いだろうから、お父さんたちのいる実家で暮らしていた方がいい。そう言ったのは啓次だったのだという。
 そして一年後、ユズちゃんが生まれる。
「あの人さ、もうずっと単身赴任なんだよね。一時期転勤で天原から近くの支社になったことがあるけど、そのときも週末に帰ってくるだけだった」
「え、ずっと?」不思議に思って、私は目を細めた。
「うん、今もずっと単身赴任」
「そうだったの? ユズちゃんのお父さん、町内の問屋さんだって聞いたけど。今もずっとその会社なの?」
「問屋さん? そんなことあたし茉里に言ったことあったっけ? ずっと最初の会社だよ」
 おかしい。杠さんのところのお父さんは、町で問屋さんを営んでいる。お母さんも、お店の手伝いで忙しい。そう聞いた。記憶違いではないはずだ。
 一体、誰から聞いたんだっけ?
「あ、まあでも――」左側で首を傾げる私の横で、ユズちゃんは腕を組む。「問屋さんみたいなことしてるって言っていいのかなあ。お店に商品を卸しているわけじゃないけど」
「と、言うと?」美景ちゃんが右側から訊いた。
「あの人は、農薬を売ってるの」ユズちゃんはちょっと沈んだ声を出した。「自分の会社で作った農薬を、農家相手に営業してるってわけ。数年前から天原もあの人の担当エリアだから、もしかしたら『問屋さん』とか呼んでる人もいるのかもね」
 天原の農業従事者ということなら、まさにうちのことだ。
 天原町農協は、約三十世帯分の組合員で構成されている。全国的にも小規模の農業協同組合だ。我が「津々楽農場」は、その面積こそあまり大きい方ではないけれども、お父さんは農協で専務をしている。組合員の農家の人々の中でも、かなり顔が広いらしい。
 お父さんから聞いた話だったのかもしれない。杠さんのところは「問屋さん」なんだよ。ときどき新製品の農薬を紹介しに来るんだ――という具合で。
「うちは確か無農薬で野菜育ててたと思うけど、ユズちゃんのお父さんが農薬売りに来たこともあったのかな?」
「あったと思うよ。でも、買わなくて正解。あの人はとにかく、農薬がたくさん売れて、自分の会社が儲けさえすればいいの。たまにうちに帰って来たと思ったら、『利益率』とか『自然淘汰』とか『市場シェア』とか、仕事の話ばっか」
 私が天原中学校の入学式で見かけた、スーツ姿のユズちゃんのお父さん。あの時は「問屋さん」のイメージとあんまりかけ離れていて、とても不思議に感じていた。でも、ユズちゃんの話す「営業マン」のお父さんなら、あのスーツ姿がぴたりと当てはまる。
「杠さんのお父様は、銭湯についてどう思っているんでしょう?」
 美景ちゃんが尋ねた。彼女はユズちゃんの話を聞きながら、唇に手を当てたり腕を組んだりしていた。その仕草が、いちいち大人びて見える。
「――私も、あの人が考えていることを全部知っているわけじゃない。でも、うちの銭湯のことを煙たがっているのは、事実だと思う。理由ははっきり分からない。けど、たぶんあの人の“性”に合わないの。お客さんをもっと呼び込もうとするわけでもなく、小さな町の銭湯のままで、細々とやっていくことがね。だからあの人は、今の銭湯を乗っ取ろうとしてる。乗っ取った後も銭湯なのか、そうでない何かなのかは知らないけど、とにかく今の『銭湯ゆずりは』ではなくなっちゃう」
 もうずっと前から、ユズちゃんのお父さんは銭湯の経営に口を出したがっていたらしい。こんな常連客に頼るような経営では、これからの時代やっていけない。古い経営方針はできるだけ早く改めて、新規に顧客を開拓していけるよう、きちんとマーケティングしていかなければならない。今のままだと、自然淘汰されるのを待つだけだ。
 ユズちゃんのお父さんは、おおよそそんな台詞を並べて、昔一度生前のおじいちゃんに――杠家の主に――噛みついたことがあるという。
 おじいちゃんは眉間にしわを寄せ、一言だけ言い放った。
「オレぁ銭んために風呂沸かしてんじゃねえ」
 ユズちゃんのお父さんはそれに対して、何も言い返せず、ただただ目を泳がせた。
 おじいちゃんが生きていた頃は、啓次も大きな声で口出しできなかった。昭和初期に天原に生まれたおじいちゃんは、脚が悪くて徴兵からは漏れたものの、悲惨な戦中の日本を肌で経験した人だった。耳をかすめるほどの距離で爆音が轟き、爛れた死体が目に焼きつき、真っ暗な防空壕の中で眠る日々を経験をした人だった。
 戦後に生まれた者たちとは、隔絶した価値観を持った人種だった。
 六年前、桜の花も散る晩春の季節に、ユズちゃんのおじいちゃんは亡くなった。「銭湯ゆずりは」は、その頃はもうほとんどおばあちゃんが一人で切り盛りしていたけど、「やっぱり、銭湯を守っていたのはおじいちゃんだった」と、ユズちゃんは語った。実際、ユズちゃんのお父さんが「銭湯の経営」について、積極的におばあちゃんに打診をし始めたのは、おじいちゃんが亡くなったその年の夏頃からだったという。
「杠さんのお父様の真意を確かめなければなりません」美景ちゃんが言う。「単純に『経営者気質』から、本当に銭湯経営によって利潤追求をしたいのか。もしくは、全く別の理由がある上での、詭弁なのか。それが分からなければ、こちらも具体的に動けません。今の私たちが強引にお父様を止めることは、難しいと思います」
 友達の父親といえども、中学生が一人の大人相手に説得を試みるには、まだまだ心許ない情報量だった。
 もし仮に、ユズちゃんのお父さんが本当に銭湯の経営にテコ入れをして、結果的に今までよりもっとたくさん人が集まるようになれば、それはむしろ、私の望んでいたことではないだろうか。きっと賑やかな浴場を見て、湯の神さまも喜ぶんじゃないだろうか。
 でもそうではなく、口先では「流行らない銭湯の立て直し」謳いながら、本当は何か気に喰わない理由があって、「銭湯ゆずりは」をどうにかしてしまおうとしているのだとしたら? もしそうだとしたら、やはりコノの言う通り、湯の神さまは“ホームレス”になってしまうのだろう。
 ただどちらにせよ、やはり「経営を乗っ取られる」かたちになる。その事実だけで、私はあまり良い予感はしなかった。身内で経営権が移るだけと言われればその通りだ。でもやっぱり引っ掛かるのは、権利を得てしまう人が、実の娘から「あの人」呼ばわりされるような人だということだ。
 ありふれた想像をした。誰もいなくなったあの銭湯に、資材を積んだトラックが横付けされる。背広姿のユズちゃんのお父さんがてきぱきと指示を出し、業者の人間がぞろぞろと土足で中へ入っていく。
 脱衣籠は鍵付きのロッカーになるかもしれないし、三色の牛乳の入った冷蔵庫はコカ・コーラの自動販売機になるかもしれないし、もろの木さまと湯の神さまが描かれたペンキ絵はあっけなく剥がされて、替わりに海の向こうの神様が置かれるかもしれない。
 そんなふうに変えられてしまったとしたら、ユズちゃんの言う通り、そこはもうあの「銭湯ゆずりは」ではないんだと思う。
「杠さん。ちなみに、お訊ねしたいのですが」
 美景ちゃんは、いつの間にか膝を抱えて、ベンチに体育座りをしていた。目は、真っ直ぐ前のもろの木さまに向けられている。
「うん、何?」
「お父様の勤めている総合化学メーカーって、有知化学(ありともかがく)ですか?」
 美景ちゃんの口にした社名には、うっすらだけど聞き覚えがあった。
「うん、そうだったと思うよ。知ってるの?」
「大手で考えれば、ある程度絞られますから。コマーシャルでもよくやってるじゃないですか、アリやハエ用の殺虫剤の。あれも有知化学です」
 夕方の情報番組の合間によく流れているのをよく見る。あの白い髭の博士が出てくるCMだ。害虫に困っている家庭に突然胡散臭い博士が現れて、アリの巣に薬を吹き入れる。すると画面はCGに切り替わって、次々とアリたちがひっくり返る。そんな感じのCMだった。
「そういえばそうだ。あのCMよく見るよね。あれうちでも使ってる。『アリ退治スプレー』」
 ユズちゃんが霧吹きのトリガーを引く仕草をした。
「その有知化学が、どうかしたの?」
 美景ちゃんは銅像になったみたいに、相変わらずじっともろの木さまを見ていた。ただ、さっきより眉間にしわが増えている。
「憶測では私も語れませんが、有知化学にはいくつかよくない繋がりがありますし、あまり褒められたものではない噂もあります。まあ、陰謀論を盲信するのも良いことではありませんけど――」
 私もユズちゃんも、じっと彼女の黒い瞳を見ていた。
「ただ、もし私の想像していることが本当に起こっているのであれば、天原は思っていたよりもずっと深刻な事態に陥っていることになります」
 彼女の言うことは、私にはさっぱりだった。ユズちゃんとちらりと目を見合わせたけど、私と同じ「意味不明」の顔だった。
「ちょっとそこまでほのめかしておいて何も言わないつもり? あたしたちにも分かるように説明してよ」
 詰め寄るユズちゃんに、美景ちゃんは首を振る。
「すみません、確証が持てたらお話します。私だって正直あまり信じたくない。まずは、状況を正しく把握しなければなりません。それに、どちらにせよ『銭湯ゆずりは』が大きく変えられてしまう状況は、防がなければなりません」
 美景ちゃんは、抱えていた脚をほどいて立ち上がった。黒いショートヘアがふわりと揺れるのを、私は見つめていた。ダッフルコートのポケットに手を突っ込み、彼女はこちらを振り返る。
「たぶん、にわかに信じられるようなことではないですよね。神域である天原が侵されようとしているだとか、もろの木さまの力が弱まってきているだとか。正直、こんな話は怪しまれて当然なんだと思います」
 日が傾いて、道行く人々の東側には長い影が伸びている。ちょうど電車が来たところらしく、二つしかない駅の改札口から、ぱらぱらと人が吐き出されてくる。
「でも“毒”は、この天原に、少しずつ、でも確実に入り込んでいるんです。色んな姿かたちをして、一見害のない、良いものを装っていたりします。今までもずっと、私たちの気付かないうちにそれは勢力を増して、より多くの“毒”を生み出し、そしてさらに肥大化してきました。例えば、ですが――」
 美景ちゃんは広場を見渡した。そして、駅の改札のそばのベンチに目を止めた。私とユズちゃんがあの夜張り込みをしたベンチだ。そこには今、黒いダウンジャケットを着た中年の男性が座っている。眠っているのか、腕をぎゅっと組んで、顔を伏せてしまっていた。
「時間帯的にも、そろそろ集まっていると思います。見えるようにできますか? コノ」
 呼ばれたコノは、くるりと一回転してから「あのおっさん? 結構えげつないと思うよ」と言った。
「でも、あいつらを見てもらうのが一番分かりやすいでしょう?」
「そうだけどさあ――じゃあちょっと失礼するよ」
 コノはその長い腕で、私とユズちゃんの頭に軽く触れた。隣りに座っているユズちゃんから「ひゅっ」っと息を飲む音が聞こえた。
 目に飛び込んできた光景に、背筋が凍った。背中に冷水を流し込まれたかと思うほどだった。反射的に、ユズちゃんに身体をすり寄せた。
「何? あれ何なの?」ユズちゃんが目を細めて、乾いた声を出した。
 それは、ベンチで寝ている男性の周りに、十匹ほど群がっていた。
 ちょうど大振りのてるてる坊主のような姿をしているが、深い紫色の身体をしていた。その頭には一本の角が生えている。そして、ぎょろりと大きなその目は、遠くからでも分かるほど嬉々としていた。
「恨霊(こんれい)と呼ばれる、八百万の獣の一種です。彼らは少し特殊な獣(しし)で、神に仕えるのを辞めた異端――怨嗟の気を喰い漁る、言わば悪霊です」
「ねえ美景ちゃん、あの人大丈夫なの?」
 私は口を抑えながら震える声を絞り出した。でも、美景ちゃんは落ち着き払って「害はありません」と言い切った。コノはと言えば、すーっとその群れの近くまで行き、戻ってきたかと思うと「思ったほどではなかったかな」と呟いた。大きな当たりに竿を上げてみて、期待はずれの外道にがっかりする釣り人みたいだ。
「ほんの少しですが、人に付く“毒”を食べてくれるという意味では、彼らはむしろ貢献してくれています」
 恨霊たちは、まるで「かごめかごめ」にでも興じているかのように、きれいに輪になってダウンジャケットの男を囲んでいた。彼は相変わらず、眠り続けている。「あの男性の境遇は分かりません。ただ恨霊が群がっているのを見ると、彼は比較的“空ろ”のようです。恨みや妬みといった負の感情は、おしなべて“空ろ”に巣食います。空っぽとは同時に『満たそう』という欲求。がらんどうを埋めたいという、利己的な気持ちだからです」
 コノが、もう一度私たちの頭に触れる。恨霊たちが見えなくなる。あの男性は、何事もなかったかのように眠り続けている。
「私が言っている“毒”とは、人間を“空ろ”にしてしまう。私は、それを何とかしたい。いえ、何とかしなくてはならないんです」
 彼女の目を、私は見た。
 先週、最初に会った社美景の目は、どこか軽蔑を含んでいて、得体の知れないところがあった。もろの木さまが見せてくれたあの世界では、ひどく蝕まれた彼女が露わになった。天原の歴史を語る、生き生きとした瞳も見た。
 そして、今の彼女の目は、使命感を湛えていた。深く、はっきりと刻まれていた。
「――すみません、威勢の良いことを言ってますけど、策はまだありません。ただ前に茉里さんにはお話しましたが、木行の気を持つあなたの力は絶対に必要になります。それに、恐らく杠さん。あなたは潜在的には、火行をお持ちです」
「えっ、私も?」
 目をまんまるにして、ユズちゃんは自分の鼻を指差した。
「湯の神さまに所縁のある家系のようですので、影響を受けているのではないかと。火行もまた、天原の土地にとって大切な要素でした。大桶で湯を沸かした湯の神さまの力は、火ですから」
 もちろん潜在的にですので、自覚はないと思います――自分の両手を交互に見つめるユズちゃんに、美景ちゃんは少し笑って言う。そしてすぐに色を正した。
「でも、それを“開いて”力を使うかどうかは、当人が決断することです。そのためには私もコノもお手伝いすることはできますが、ほとんどの人は持っていても気付かずに一生を終えるわけですし、強制することはできません。だから」
 美景ちゃんは頭の上に浮いているコノをちらっと仰いだ。
「私からは、お願いするしかありません。お二人には、力を貸して欲しい」


         ◆ ◆ ◆


 私たちはこれから受験生になって、各々それなりに勉強して、滑り止めをどこにするだとか散々悩んだりして、進路を決めていかなきゃならない。落ち着いて、慎重に次の一歩を選び、踏み外さないようにしなければならない。
 奇妙な錯覚だけど、私たちにとって天原を守ることよりも、落ちこぼれないように高校へ進むことの方が、何倍も大事なことになってしまっているのだ。
 でも、美景ちゃんに「力を貸して欲しい」と言われたとき、思った。
 私はここまでずっと守られてきたし、生まれた時から、特別不自由を感じることもなく、ただ守られて暮らしてきたのだ。お父さんとお母さんに、今まで関わってきた大人たちに、守られてきた。この町に、そしてもろの木さまに、守られて育ってきた。
 もし本当に、天原町がとてつもない危機に直面しているのなら、私はもちろん守りたいと思う。もし「銭湯ゆずりは」が「銭湯ゆずりは」でなくなってしまうなら、私は何とかして防ぎたいと思う。
 決心の付かなかった気持ちも、冷やされて凝固していく蝋みたいに、硬くなった。そう、熱くなったというよりも、冷やされたという表現がしっくりくる。ゆっくりゆっくり、そして静かに静かに「守る」ということを考えている自分が、ちゃんといる。
 それはたぶん、柿倉の病院で、小さくなってしまったユズちゃんのおばあちゃんを見たからだと思う。
 美景ちゃんとは、また次の土曜日に合う約束をした。ユズちゃんが持っている可能性のあるという「火行」の気の引き出し方については、コノに心当たりがあるという。美景ちゃんはこれからの策について、神子の名のもとに、獣(しし)たちに根回しを行うらしい。職権乱用にも近いと、コノはぼやいた。ユズちゃんは来週までに父親を「ツメてやる」のだそうだ。
 私は結局、前にもろの木さまの「御言葉」を聞いたことも、黒く染まってしまっていた美景ちゃんのことも、言うことができなかった。あの世界のことは、ユズちゃんにも話していない。
 そして、もろの木さまが、美景ちゃんを「助けたい」と言っていたことも、私はまだ一人心の中に留めてある。
 少し時間がかかりそう。私はその日の夜、布団に潜って天井を見上げながら思う。
 でも、その方法は必ず見つける。それを私の宿題にした。

 木枯らしは、もう冬の匂いだった。
 十一月に入り、天原の空気も一層冷え込んできた。もともと朝起きるのはすごく苦手だったけど、日を追うごとに私の身体は布団から引き剥がされるのを嫌がっていった。
 そして月曜の朝、私はついに寝坊をしてしまった。
 朝ごはんも食べずに、寝癖を爆発させたまま、朝もやのかかる畑の畔道を全力疾走する羽目になった。収穫の終わった畑には、ところどころ霜が降りている。呼吸するたび、凍りそうなほど冷たい空気が肺に入り込んできて、胸の辺りがひりひりと痛む。それを我慢して、風で飛ばされそうになるマフラーを押さえながら、私は畦道から舗装された道路に出ようとした。
 そのとき、誰かに名前を呼ばれた。私は急ブレーキをかけて立ち止まった。
 何か忘れものをして、お母さんに呼びとめられたのかと思ったけど、振り返っても誰もいない。周りには裸になった津々楽農場と、葉を落として冬に備え始めている木々だけ。
(もののけさん?)
 一瞬そう思った。天原にはコノ意外のもののけさんも住んでいるはずだ。もうどんな生き物が出てきても、私は驚かないつもりだった。むしろこっちは急いでいるわけで、何か用があるならさっさと出てきてほしい。
「――ごめん! 誰かは知らないけど、後にして!」
 うん、今は困る。一刻の猶予を争う状況だ。テストで内申点を稼げない私にとって「遅刻1」は痛い。しかも厄介なことに、三橋先生はときどき時間より少し早く教室に来るのだ。
 私は地面を蹴って、学校へ急いだ。

「あ、茉里おはよー。今日ぎりぎりだったね。珍しいじゃん」
 チャイムの鳴る二分前に教室に滑り込んだ私の机には、ユズちゃんが座っていた。まだ先生は来ていない。間に合った。
 ユズちゃんは後ろの席の千夏(ちなつ)とおしゃべりしてたみたいだった。後ろ向きに座っている――ユズちゃん脚、開きすぎ。
「おはよー。はぁやらかした。布団からなかなか出れなくて。もうなんで冬って来るの?」
「それはね、まず地球の地軸が二十三・四三度傾いていることから」
 千夏がかけている眼鏡を直して、説明をし始める。
「あ、千夏センセイ。大丈夫ですので」ユズちゃんが千夏のおでこ目がけて、軽くチョップした。千夏は舌を出して笑っている。
 川崎千夏。二年一組の学級委員長だ。時々あだ名で“センセイ”とか“キョウジュ”なんて呼ばれている。あだ名が表している通り、とっても物知りな女の子だ。定期テストではいつも学年トップを争っているし、先日結果が返ってきた実力テストでも軒並みA判定を叩きだしたらしく、その力が揺るぎないものだということが証明された。最初の頃は彼女自身「優等生」として扱われるのが苦手だったみたいだけど、二年生に上がってからは、ちょうど今みたいに自分のキャラクターをネタにして本人が遊んでいた。「センセイネタ」は、本当にどんな話題でも返ってくるし、ハマるとめちゃくちゃ面白くてクラスでも人気を博している。最近では、古川くんがライバル視しているとか、していないとか。
「センセイ! 朝起きれるようになるには、どうすればいいんですか?」
「気合い」
 私の質問はユズちゃんによって雑に跳ね返され、センセイに届かなかった。
 チャイムの音が、朝のホームルームの時間を知らせる。お行儀悪く椅子にまたがっているユズちゃんを追っ払って、私は自分の席に座った。ユズちゃんはあくびをしながら、ぺたぺたと自分の席へ戻っていった。
「ねえ茉里?」千夏が後ろから私の背中を突っつく。
「ん?」
「ユズちゃんち、もう落ち着いたの? 銭湯のおばあちゃん倒れたって、うちのお母さんが言ってて」
 振り返った千夏の表情は、彼女が唯一苦手にしている国語(苦手といっても、私よりは断然良い)のテストが返されるときみたいだった。
「ユズちゃんには聞いてない?」
「聞けないよ。さすがに」
 千夏は、自分の席で頬杖をついているユズちゃんをちらりと見た。
「大丈夫、心配しないで」私は口元で笑顔を作る。「ユズちゃんには普段通り接してくれていいから」
 先週ずっとユズちゃんは学校を休んでいたから、今クラスの関心は彼女に向けられていた。窓側の一番前に座っているユズちゃんの背中に、ちらちらと視線が浴びせられている。
「うん。なんかごめんね。たぶん、もうクラスにも結構広まっちゃってると思うんだ」
「噂好きだからね、うちの中学」
「ほんと、困るよね。でももしユズちゃんにちょっかいかけるやつとかいたら、私、委員長権限発動するから」
 千夏は両手を握りしめ、ファイティングポーズをとった。
「ありがと。千夏にそう言ってもらえると心強い――あれ?」
 ペンケースをだそうてして鞄を漁っていた私は、内容物の妙な物足りなさに気が付く。そして、改めて寝坊したことを後悔した。
「どうしたの茉里?」
「――最悪。お弁当忘れた」

 天原中の二年生は全四クラス。一クラス三十五人前後でまとめられている。ランダムに振り分けられた三十五人のはずなのに、四つのクラスそれぞれ、ある程度の色があるのが面白い。スポーツに強い子が集まっていたり、可愛い女子がかたまっていたり。
 我が二年一組については、才能が多彩な子たちが集まったと言われている。博識な千夏、運動神経の良いユズちゃん、絵が上手な佐渡原くんに、ギャグセンスのある古川くん。吹奏楽部で一緒のみなっちも一組だけど、彼女はトランペットの傍ら、ダンススクールにも通っているのだ。
 横笛が吹けて良かった。そんなふうに、こっそりと思うときがあった。
 朝のホームルームに来た三橋先生は、いつも通りだった。いつも通り日直の号令で挨拶をし、いつも通り出席を取り、いつも通り短めに、あっさりとホームルームを終えた。こういうところが、お父さんの言う「分かってる人」なところなんだと思った。ユズちゃんはホームルーム中、ずっとぼんやり窓の外を見ていた。
 一時間目から体育だ。どうせならお弁当じゃなくてジャージを忘れればよかったのに。ダサい青色のバッグのファスナーを開けると、ティーシャツと一緒にちゃんと上下セットで入っていた。
「あたしのミートボールあげるって。だからそんな不細工な顔するんじゃない」
 更衣室に向かう途中、お弁当のことをユズちゃんに話すと、そう言われてつむじにチョップをもらった。
 体育館へと続く渡り廊下は、冷たい風に吹き曝されていた。トタンでできた雨よけの屋根が付けられているだけなので、冬場はみんな駆け足でその廊下を通り過ぎていく。その度に、太い釘で打ち付けられた木製の板がばたんばたんと大きな音を立てた。
 天原中学校は、大正時代の初期に建築された木造和風校舎だったが、改装を何度か繰り返して今の姿に至る。改装といっても、立派なエントランスがあったりとか、快適な空調設備が整ったりしている訳ではない。最低限必要なところを修繕してきただけといった感じで、年季の入った木材が、今でもところどころむき出しになっていた。
 廊下に使われている木材は黒くくすんでいて、特にてかてかと光を反射しているところは滑りやすくなっている。柱という柱には、大先輩たちの下品な落書きがこっそりと生き残っていて、ときどき面白いのを見つけてはユズちゃんと大笑いしていた。掃除用具もかなり年代物だ。箒の穂先がまっすぐに保たれているものを、私はこの中学校で見たことがない。用具入れの中は軒並みひどいカビの臭いがした。
 教室に冷房はもちろんない。でも、今年の夏は特に真夏日が続いたので、授業中には取り出さないという条件付きで、うちわの持参が許可された。冬は灯油ストーブがクラスに一台置かれ、休み時間にはみんなの人気者になる。
 建設された当時は子供の数も多かったのか、空き教室が目立つ。そこには使っていない椅子や机だったり、昔の文化祭で作ったらしい看板や木の骨組みだったり、その余りのベニヤ板だったり、赤と白のストライプのコーンだったりが整然と置かれていた。誰かと秘密の話をするにはぴったりの場所だ。
 二時間続きの体育は「マット運動」という死ぬほど退屈な内容だった。開脚前転で既にギブアップの私には、体育の小西先生から出来るだけ死角になるように行動するだけの二時間になる。躍起になってバク転を成功させようとしている運動部の男子を横目に、私はユズちゃんを盾にして身を隠していた。
「茉里、中間の勉強してる?」
 ユズちゃんがジャージのファスナーをいじりながら訊いてきた。
「ううん、手付かず」
 来週の火曜に迫った中間テストのことなんて、正直ほとんど頭から抜けていた。範囲表は先週配られたと思ったけど、全然目を通していない。
「ヤバいよね。今回全然やる気起きないし、歴史とかもう爆発しそう。なんとか大名って多すぎ」
「私英語。全然単語が頭に入ってこない。不定詞もよくわかんないし」
「勉強会開いてさ、千夏に教えてもらおうよ」
「賛成」
 ふと器械運動用のマットを見ると、ちょうど千夏が伸膝後転を成功させたところだった。千夏はあんなに勉強ができるのに、運動だってそつなくこなせてしまう。歌も上手だし、笑ったときのえくぼも可愛いし、学級委員でみんなから頼られる。広い知識を生かして、面白いことも言える。
 みんなが羨ましがるようなものを、彼女は大抵持っているのだ。そう千夏に言うと、いつも穏やかな笑顔で返される。「私は茉里みたいにフルート上手に吹けないし、目も大きくないし、色白でもないから。茉里は私の羨ましいって思うもの、たくさん持ってるよ」という具合に。
 そういうオトナなコメントができるところも、やっぱり羨ましい。そして、羨ましいと思ってばかりいる自分に気がつく。そういう自分はすごく子供っぽいということに、気がつく。
「センセイ! ちょっと折り入ってご相談が!」
 ユズちゃんは列から抜けて、乱れた髪を直している千夏に駆け寄っていった。
 ほとんど体を動かしていないくせに、体育の授業を終えた頃には、なんだかひどく疲れた感じがした。ユズちゃんと千夏とは放課後に図書室に寄る約束をした。部活はテスト期間で、今週から休みになっている。
「完全下校までねばるからね。あなたたち、それなりの覚悟はあるのかしら?」と、ユズちゃんは台詞を読み上げるように言った。けど、大抵勉強会でいち早く音を上げるのはユズちゃんだ。
 教室に戻ると、私の机の上にあるものが置かれていた。
 見慣れた赤色の包みに、猫のイラストが描かれた箸入れが添えてある。
「嘘。私のお弁当だ」
 寝坊したせいで忘れてきたお弁当箱が、まるで当たり前みたいに、そこにあった。
「お母さん、届けてくれたんじゃない?」と千夏。
「よかったじゃん。今日飯抜きにならなくて」とユズちゃん。
「うん」
 ひっくり返したり、包みを開いたりしてみたけど、ちゃんと私のだ。
「お礼、言わなくちゃ」

 さて、あれは確か、ちょうど九月の始まる頃だった。
 この学校を賑わせた「座敷童」の噂は、もうほとんど過ぎ去りつつあった。一番盛り上がっていた時期には、各クラスに「デスク」がいて、廊下を走り回る「リポーター」が情報を流して、みんなその「即席マスメディア」にかじり付いていた。今ではまた新しく、十一月にある合唱コンクールのこととか、間髪いれず無慈悲にそびえる「二学期期末試験」のこととか、気の早い子たちはもうクリスマスまで話題が及び、「座敷童」のことなんてもう随分昔のことのように扱われていた。
 だから、昼休みに古川くんに声をかけられたとき、どきりとした。
「なあお前らさ――」
 机を向い合せにして、いつものようにお昼ご飯を食べていた私とユズちゃんに、古川君はちょっと遠慮がちに言った。
「この前、座敷童と話してなかった?」
 私はちょうど口に入れようとしていたウインナーを、ぽとりと落とした。ユズちゃんと目が合い、丸々五秒、ぱちくりさせた。


         ◆ ◆ ◆


 確かな設計力と、きめ細かいアフターケアが売りの「古川工務店」は、商店街の一角に事務所を構えている。繁忙期は職人さんが絶えず出入りしていて、棟梁が下っ端の若い職人さんにやたらめったら檄を飛ばしているのをよく見かける。小さい頃はそれが怖くて、そばを通らなければならないときは両耳を塞いで一気に走り抜けていた。ただ、休憩中にはみんな缶コーヒーを片手に笑い合っているから、きっと大工さんって、怒鳴るのも仕事なんだなと思っていた。
 さて、そこの長男坊が、今私たちの目の前にいる男の子。
 古川颯太郎(ふるかわそうたろう)。実際彼が真顔で話しかけてくることは、群れを率いる雄ライオンがわざわざ狩りに参戦するときくらい珍しいことだった。だっていつもの彼は、この教室が落語の寄席か何かだと思い込んでいて、勝手に人だかりを作って、休み時間をめいいっぱい使って、よく回る口でたくさん笑いを取って、そして授業中は死んだように寝ている。古川くんは、そういう星に生まれた人間なのだ。
 私とユズちゃんはお互いの目だけで、大量の情報をやり取りした。どこから話す? 最初から? 途中から? いや、話さない? 隠しておく? 嘘ついとく? しらばっくれる? それとも……モールス信号みたいにユズちゃんのまぶたが瞬く。
「おいシカトかよー。話してたろ? 駅前のベンチで」
「いや、その」
 作り笑いで古川くんを見上げたら、まともに目が合ってしまった。何か取り繕おうとしても、言葉は喉のところで渋滞していた。お盆にテレビでよく見る、帰省ラッシュの高速道路みたいになっている。
「友達だよ。私立の中学校に行ってるの」
 ユズちゃんが渋滞してる車の隙間を走り抜けた。小回りの効くバイクで、颯爽と。
「友達? お前ら座敷童と友達なのかよ!」
 本当に古川くんは、無駄に声が大きい。
「だから! 座敷童からは離れてよ! 人間だから! ホモサピエンス! オーケー?」
「紹介してくんない? おれ一回話したかったんだよな、座敷童と」
 ユズちゃんは頭をがりがりと掻きむしった。ショートを守っている古川くんは、野球部でも随一の守備範囲を誇るくせに、人の言葉を捕球する気はさらさらないらしい。
「……ってことはさ、あいつのことも?」
 古川くんが声を潜めた。彼がこうやって真面目な顔をするのは、やっぱり慣れない。
「あいつ?」ユズちゃんが首を傾げる。
 この後彼が言い放った言葉で、私たちは思い出す。古川くんは、噂を広めるのに一役も二役も買っていて、色んな尾ひれはひれをくっ付けた張本人で、目撃者の一人でもあった。
 そして実際に“見た”と言っているのは、私は今のところ古川くんしか知らない。
「いっつももろの木さまの近くにいる、緑の獣。あれのことも、なんか知ってんのか?」
 瞬間、私はほとんど無意識に立ち上がった。勢いよく床を擦った椅子が、大きな音で呻いた。
「コノが……古川くんもコノが見えるの?」
「それって、あの生き物の名前?」
「本当はもっと長い、神様みたいな名前だけど」
 コノハナノトキツミノミコト。ちゃんと覚えている。普段は端境(はざかい)というバリアのようなものを張っていて、普通の人には見えない。見えるのは、コノと同じ「木行」が開いているか、他の五行のうちどれか一つを二段階開いている人だけ。それは「神子」と呼ばれる存在で、神子は八百万の獣たちの話す言葉も聞くことが出来る。
「古川くんは、“気質”の持ち主なの?」
「キシツ? まあそんなに荒っぽい方ではないけどなあ。どちらかというと人に優しく自分に厳しく、一途に人を想うタイプで」
「違くて、五行のこと」
「ん? 何のこと?」
 話が通じない。
「ちょっとここじゃあさ」ユズちゃんが箸を置いて、辺りを見回しながら言った。「古川、野球部も今週から休みでしょ? 放課後、ちょっといい?」
「ああいいよ。場所は? 体育館裏とか? 告白だったらおれいつでも受け付けてっからさ」
 親指を立てる古川くんを、ユズちゃんは睨みつけた。
「うるさいっ。とりあえず、『サンノゴ』に来てくれる? 愛の告白よりも真剣な話」
「なあ杠、愛の告白だって、一般的には誰しも真剣だぞ」
「ああもう、面倒くさいからいちいち拾うな!」
 素早く放たれたユズちゃんの脚を、古川くんはぎりぎりで避けた。
「わ、悪いって! 一応、おれもマジだよ――夏くらいからさ、よく分かんないものが見え始めて、ちょっとどうしようかと思ってたんだ」
 古川くんのその口ぶりは、実際それほど不安そうなものではなかった。テスト前日の古川くんの方が、この何倍も狼狽していた気がする。
「あ! ユズちゃん今日はだめだよ。放課後は千夏と勉強会するって」
 体育の時間にした約束を思い出して、私は言った。図書館でセンセイにご指南いただくという予定を、危なくすっぽかすところだった。
「そっか、でも……」
 ちょっとだけユズちゃんは口に手を当てて考えた。教室の前の方で友達とお弁当を広げている千夏を見る。
「ねえ茉里」
「ん?」
 ユズちゃんの顔は、あの十月の半ば頃の「座敷童に会いに行こう」と言い出したときと同じだった。
「千夏も巻き込んじゃおうか?」
 何も知らずに笑っている千夏が、気の毒になった。ごめん、センセイ。

 誰にも聞かれたくない秘密の話をするのには、スペースの半分以上が物置になっているこの空き教室が最適である。特に、私たちが今忍び込んだ三階の三の四横の空き教室、通称「サンノゴ」は、校舎の隅っこで廊下は人通りが少ない。めいいっぱい備品が詰め込まれているので、隙間から奥の方に入れば完全に外から死角になる。しかもサンノゴの奥には畳二つ分ほどの空間があり、都合良くパイプ椅子まで置いてあるのだ。
「良かった。今日は“空席有”みたいね。まあテスト前だし」
 誰が決めた訳でもなく、この部屋にはルールが出来ていた。サンノゴを使うときは、でかでかと立てかけてある「第十三回天原中学校祭」の古い看板を裏返しておく。使いおわったら、元通り表にしておく。そうすることで「偶発性社会的不快感」を未然に防いでいる。
「中間テストの勉強には、あんまり向かない場所だよね――それに、なんで古川くんがいるの?」
 千夏は連れてこられたサンノゴの埃をかぶった机を見て、目を細めた。
「いやー参っちゃうよね! 人生がモテ期のおれもさ、さすがに一度に三人の女の子から攻め寄られると――痛っ!」
「古川うるさい! でかい声出さないで!」
 古川くんの脇腹を、ユズちゃんが肘でえぐった。
「出そう、昼食った生姜焼き、出そう」
 体を大きくくの字に曲げている古川くんを後目に、ユズちゃんは学校祭の看板を裏返した。
  奥のスペースにあるパイプ椅子に、埃は被っていなかった。三年生中心に、頻繁に利用されているのだろう。
「どっから話せばいいのかね。ホントかウソかも分かんないくらい、突拍子もないな内容だし」
 腕を組んで、ユズちゃんが窓の外を仰いだ。秋らしい、高い青空が広がっている。
 私とユズちゃんで、行ったり来たりしながらも、これまで起こったことを二人に話した。座敷童の正体は、麗徳学園に通うエリート女子中学生だったこと。この天原が、何らかの危機的な状況にあるらしいということ。それを美景ちゃんは「毒が入り込んでいる」と表現したこと。今それを辛くも食い止めているのが、他でもないもろの木さまだということ。もろの木さまにはお付きのもののけさんがいて、名前を「コノ」ということ。美景ちゃんは、直接もろの木さまの「御言葉」を聞いて、天原を救う手だてを知ろうとしていること。そして、私とユズちゃんもそれに協力しようとしていること。
 ユズちゃんは、自分の家のことも、二人に伝えた。人に話したりしたくなるような出来事は何一つないのに、まるで最近見た映画のストーリーを話すみたいに、ユズちゃんは朗々と語った。おばあちゃんの容態のことや、お父さんとの関係のことを話すユズちゃんは、時々ひどい悪態までついた。千夏が困った笑顔で、私のことをちらりと見る。
 ユズちゃんのおばあちゃんは、私のことはもちろん、実の孫の記憶もなくしてしまっていた。それを目の当たりにしたユズちゃんは、一体どんな顔をしたのだろう? 
 想像したくなかった。
「つまりだ。このちんけな田舎町で、なにやらごちゃごちゃ色んなことが起こっている。そういうことだな」
 古川くんが、ふんぞり返って腕を組む。
「格好付けて言ってるけど、全くまとまってないよ」
 私がそう突っ込んでも、古川くんはまるで決断を迫られている大企業の重役みたいな言動を続けた。
「この危機的状況を打開する。まずはこの会議室に対策本部を設置だ」
「はいはい。もういいから黙って」ユズちゃんが突き刺すように言う。
「でもさ、その美景って子が言うには、杠んとこの銭湯が守られるってのが最優先なわけだろ? その銭湯の神様がそこにいられるようにさ」
「そうね。でもそのためにはうちのお父さんが何を企んでるのか掴む必要がある。ただあの人全然うちに帰ってこないもんだからさ。何も追求出来てないんだけど」
 職場に電話してみるとか、単身赴任先の住所に乗り込んでみるとか、いくつか案が出たけど、実際どれも憚られた。もしそこまで行動を起こすとなっても、平日は難しい。少年少女たちが大活躍する探偵ものの漫画やアニメがあるけど、あの世界はどうしてあんなに自由に使える時間が多いのだろう。
「――ちょっと思ったんだけど」
 千夏が口を開いた。古川くんが「対策本部」を設置してから、初めてのことだ。
「銭湯が守られるって、どういう状態を言うのかな? 例えばちゃんと営業してなきゃ駄目とか、営業してなくても湯船にお湯が張ってあれば大丈夫とか、建物が残っていればいい、とか。『守られている』って、何を基準に決まるのかなって」
 他の三人の「あー」が、きれいにハモった。
「まあ、そう言われると、よく分かんないよなそこんとこ。よし川崎クン、君は今日から対策本部長だ。上には私から推薦しておく」
 古川くんが千夏のおでこ目がけて指を指す。
「うーん、『守られている』かぁ」ユズちゃんが天井を仰ぐ。「なんだか哲学っぽくて、図書館なんか調べたって分からなそうね。美景さんは“社”としての機能がなきゃって言ってたけど、そこ突っ込んで訊いてなかった。失敗」
 ユズちゃんの言う通り、早速情報収集で後手を踏んだ。あのときちゃんと説明をお願いすれば、美景ちゃんは生き生きと語ってくれたことだろう。こういう凡ミスで調査が滞るなんて、これだから素人は。
「いや、その美景さんも、その定義については疎いんじゃないかな」千夏センセイが手を膝の上に置いたまま、ゆっくりと話す。「その人が天原を守りたいと思っている。守るためにはユズちゃんの銭湯が“社”として機能しなきゃいけない。なら、一番大事なところを説明しないのは、ちょっと考えにくい。協力してほしいって二人に持ちかけた本人が、その“社”について詳しく話さないなんて。何か儀式みたいなのが必要だったり、こういう状態にしておくっていうのが分かっているなら、真っ先にそうしようとするはずだし」
「お前、シャーロック・ホームズか」古川くんが素に戻って感嘆した。
「私はモリアーティの方が好きかな」千夏が返答する。「――まあだから、まずはその“社”っていうのが一体何なのかを調べる。それが第一歩な気がする」
「やっぱり千夏を巻き込んで正解だった。ね? 茉里」
 ユズちゃんに振られて、私は口元だけで曖昧に笑った。
「――でも千夏、ホントにごめんね。テストあるのに付き合ってもらっちゃって」
「ううん。私のことは別にいいけど、中間テストはみんなに平等に訪れるよ?」
 ユズちゃんと古川くんが同じタイミングで頭を抱えた。

 とにかく、“社”とは何なのか? どんな意味を持って、どんな効力があるのか? おのおの宿題として持ち帰ることになって、私たち四人は解散した。中間テストが近づいてる中、なんだか課題だけが増えていく気がする。
 以前コノが言っていた。「銭湯ゆずりは」が潰れると、湯の神さまは「ホームレス」になってしまう。「ホームレス」っていう言葉が的確なのかは分からないけど、神様の居場所を奪ってしまうというのは、たぶんそれだけですごく罰当たりなことなのだろう。
 帰り道、ユズちゃんと途中まで一緒に歩いて、私はいつもの畑の畦道まで辿り着いた。すっかり辺りは暗くなり、遠くの山の稜線だけがほんのりと白んでいる。等間隔に並ぶ防風林がときどきざわりと揺れる。私のこもったような足音が、のろのろとリズムをとる。
 足を止めて、夜空を見上げた。秋は明るい星が少なくて、夏の空に比べて控えめな印象だけど、私はこの畑から見上げる秋の夜空が好きだった。分かる星座と言ったらペガスス座くらいだけど、あの四つの二等星を見つけると、なぜか私はほっとするのだ。ちゃんと今日も、あそこにある。なくなってしまったりしていない。それを確認するのが、この季節のちょっとした日課だった。
 防風林がさっきより大きく揺れた。二等星が作る四辺形がいつもの場所にちゃんとあることを見届けて、私はそっと声に出した。
「朝、私を呼んだよね? 出てきてくれませんか?」
 また、防風林が大きく揺れる。風だけのせいではない。何かが木々の間を、まるでムササビのようにすり抜けているのだ。
 分かる。あれは「木行」だ。
「あなたが『端境』意外の何かで身を隠しているなら、解いてもらえませんか? 私にはそれだけで、あなたを見ることができます。あなたと話すことが出来ます」
 その気配は、こちらを見た。注意を向けているだけでなく、ちゃんとその目で私を見たのが分かった。ひときわ大きく、防風林がざわめく。
 その時だ。
「しょ、しょ、小生は……」
 ひゅるひゅると鳴る風のような声が、かすかに聞こえた。
「い、いえ! その……本当、本当なのですか? 茉里様。小生のこの声が、き、き、聞こえるのですか?」
「――うん。ちゃんと聞こえる。でも、どうして私の名前――」
 私がその声に答えると、今度は本物の風の音がびゅうびゅう唸った。大きく捻るように、かと思ったら小刻みに震えるように。まるで過呼吸でも起こしているみたいだ。
「コノハナノトキツミノミコト殿がおっしゃっていたことは、誠だったのですね! 小生は、もう幾年もこの日を、この瞬間を夢に見ておりました! 正直に申しまして、半ば諦めておりました故に、茉里様。ああ茉里様。本当に、本当に小生は嬉しゅうございます!」
 四方八方に風が渦巻いて、気づけばそれは小さな竜巻ほどの大きさになった。風で吹き飛ばされそうになったマフラーをぎゅっと巻き直す。状況は全く掴めないけど、とにかくその声の主は、ひどく感激しているようだった。
「あの――あなたは、『八百万の獣』ですか?」
「左様でございます。茉里様」
「その、どうして私の名前を?」
「ああ茉里様。小生は、ずっとずっと茉里様のそばにおりました。さらに申し上げれば、茉里様のおばあ様のひいおばあ様が幼少の頃から、小生は津々楽家に身を寄せ、仕えておりました。茉里様のおばあ様は小生の姿を見ることが出来ましたが、こうして言葉を交わすほどのお力は、残念ながら持ち合わせておりませんでした。故に、今小生はもう言葉にすることが叶わないくらい、嬉しいのでございます!」
 その声は弾むような音程で、畑の闇に鳴り響いた。声はとても不思議な聴こえ方で、辺り一面に響いているようでもあるし、耳の奥だけで小さく振動しているようにも聴こえる。
 この声の主であるもののけさんは、どうやらうちの家にすごく縁があるらしい。コノのように、神様に仕えるのが「八百万の獣」だと思っていたけど。
「私のおばあちゃんは、確かに子供の頃『八百万の獣』を見たって言ってた。あなたのことだったんですか?」
「恐らく、そうでございましょう。おばあ様は小生と同じ、木行でした」
「私にはまだ、あなたのことが見えていない。姿を、現してくれませんか?」
 そう言った途端に、渦巻いていた風がぴたりと止んだ。
「しょ、しょ、小生の――す、姿、ですか?」
「――駄目なの?」
「いえ! そんなことはございません! そんなことは、ご、ございませんけれども、なんと申しましょうか、小生なにぶん獣でございまして、茉里様のお気に召す容姿とは恐らく相当かけ離れています故――」
 この声、本当によくしゃべる。
「おばあちゃんに見せて、私には見せられない?」
 また防風林がばさばさと揺れた。さっきから様子を窺うと、恐らく感情の起伏がそのまま風に現れるのだろう。
「そ、そのようなことは――」
「あなた、いつもそんなに恥ずかしがり屋さんなの?」
「いえ、そうではございません。確かに小生の『端境』は、他のどんな獣共にも負けることはないと自負しています。ただ本当に、なんと申しますか――」
 私の立っている畦道から、ほんの五メートルほどのところまで、その声の気配が近づくのを感じだ。でもそれ以上は距離を縮めようとしない。
「茉里様は、特別です。特別な存在なのでございます。小生は、恥ずかしながら臆してしまっているのでございます」
「特別? それって、どういう意味なんですか? 木行だから、ですか?」
「先ほど申し上げました通り、茉里様のおばあ様がまず木行でございました。『気質』を持って生まれたこと自体、非常に稀なことでございましたが、残念ながらそれは極めて微細でございました。しかし茉里様の『気質』は、おばあ様のものを遥かに上回る。最大で五段階まで、その木行の力を発現することができると、小生は推測します」
 とても恐ろしいものを語るかのような声色で、彼は言った。
 美景ちゃんは以前、私は木行が一段階開いていると言っていた。それが最終的に五段階目まで開くことが出来る、ということなのか。それは、才能があるということで素直に喜ぶべきことなのだろうか? 全然ピンとこない。
「そんな風に言われても、私には正直そこまでできるとは思えないし、全然特別なんかじゃないです。その――まだ中学生で、何の取り柄もないし」
 その声の主は、しばらくの間押し黙った。彼が感情を動かさない限り、風はとても穏やかだった。丸裸になった畑の上の空気は、気難しそうに張りつめている。
「ご、ごめんなさい。あなたはコノとも知り合いなんですよね? もし、私の能力とかそういうものを期待しているとしたら、当の本人にはまだまだ自信がないんです。社美景という人から、今の天原のことを聞いて、なんとかしなきゃって思ってるけど、何か私に出来ることはないかなって思ってるけど、まだ何にも力になれそうにないんです」
「――茉里様が気に病むようなことではございません」か細く、夜の闇に消えてしまいそうな声だ。「美景様とは、お会いしたのでしたね。小生から茉里様にお伝えしたいことが、山ほどございます。まずは、それだけなのです。そして全てお伝えした後、一つだけお頼み申し上げたいことがございます。そのために、小生は参ったのです」
 五メートル先の景色が揺らめいた。コノが隠れていたものと同じような、周りの景色と同じ絵の描かれたカーテンのようなものがめくれたのだ。
 そこに姿を現した「八百万の獣」は、最初見た瞬間、雲かと思った。一メートルに満たないくらいの大きさの、白い綿雲だ。てっぺんにオクラみたいなへたがついていて、顔も身体も見当たらない。数秒して、やっと彼は後ろを向いているのだと分かった。
「――やっぱり恥ずかしがり屋なんですか?」
「ま、待ってください茉里様! 今、今そちらを向きますから!」
 学芸会で、ステージに立つのを渋っている小学生みたいだ。
 恐る恐るこちらに身体を向けた彼は、動物で言うと「羊」だ。子羊をぎゅっと丸めたみたいな姿だった。頭から背中にかけて綿雲が生えていて、茶色い身体をほとんど覆い隠す勢いだった。
「わあ――」
「す、すみません! 茉里様! こんな、こんな威厳も欠片もない姿で――」
 彼の言う通り、確かに威厳とか神々しさとか、そういう種類のものとはかけ離れていた。手足と言えばいいのか、前足と後足と言えばいいのかすごく微妙だけど、とにかくその四足はほとんど使い物にならないんじゃないかと思うくらい小さい。申し訳なさ程度に、こぢんまりとくっついている。頭には左右に二本の緑色の角が生えているけど、くるりと内側に丸まっていて全然攻撃性がない。
 そう。彼の容姿を一言で形容するなら――
「可愛いもののけさんですね」
 私がそう言った瞬間、彼は相当ショックを受けたような顔をした。
「しょ、小生は男でございます! そんな、可愛いなどと――」
「だって――」
「小生は以前――もうかれこれ百年も前のことではございますが――今の姿よりもさらに貧相で、手も足も生えていなかったのでございます。あの頃は、きっと年月を経て力を得れば、名のある神の伴獣のように、威厳に満ちた姿になれると信じていたのです。それが、未だに小生はこのような――」
 彼はそこまで一息に言うと、途端にわんわん泣き始めた。同時に彼の周りにはまたもや風が渦巻き、唸り声を上げる。
「ご、ごめん! あなたはすごく男らしいと思う! その、角も大きくてかっこいいし。ほら、こうやって風を起こすことが出来るのもすごいと思うよ! だからさ、落ち着いて。ね?」
 巻き起こる風に飛ばされそうになりながら、やっとの思いで近づいて彼の頭に手を乗せる。およそ期待した通りの、もふりとした感触だった。
 こうやってたかが人間の女の子になだめられている時点で、彼はもう「威厳」なんてものは諦めるべきだと思った。


         ◆ ◆ ◆


「“社”とは、もちろん『神を祭る場所』という意味でございますが、この『祭る』というのが、非常に大事な意味を持つのでございます」
 綿毛のもののけさんは得意気にそう語った。
 私のベッドの上に二本足で立ち、腕を組んで――ついさっきまで、彼はまるで、風船を空に飛ばしてしまった子供みたいに泣きじゃくっていた。それをやっとの思いでなだめすかし、うちまで連れてきたのである。

「ちょっと随分遅かったわね! 急に風強くなってきたから心配したのよ」
 そう言って玄関口まで出迎えてくれたお母さんは、私の傍らに寄り添う綿雲には全く見向きもしなかった。やっぱり、普通の人には見えていないのだ。
「ごめん、ちょっと友達と勉強してて――」
 お母さんの顔を見て、私は思い出した。
「あ、そう言えばお母さん、お弁当ありがとう」
 今日の朝忘れていったはずのお弁当を、お母さんはわざわざ天原中の二年一組の私の机まで届けてくれた。
 ところが、お母さんはぽかんとして、エプロンを外しながら首を傾げたのだ。
「お弁当? 何どうしたの急に? いつも作ってるじゃない」
「え? だって私、今日の朝お弁当忘れて――」
 そこまで言いかけて、私はハッとした。
「ううん! 何でもない! い、いつも作ってくれてるからさ、ありがとうってことだよ! うん、そう――あ、すぐお弁当箱出すから!」
 きょとんとしているお母さんを出来るだけ見ないようにして、私は自分の部屋がある二階へ駆け上がった。顔から火が出そうだ。
 部屋に入って両手でドア閉めてから、私は綿雲を見た。
「ねえ、もしかして今日――」
「――ご迷惑でしたでしょうか?」
「ううん、そんなことはないの。そしたら、朝私を呼び止めようとしたのも?」
「はい、茉里様。ただ、今朝はとてもお急ぎのようでしたので。あの後少しばかり迷ったのですが、ご昼食がないと大変お困りになると思いまして、学校までお届けした次第でございます」
「そうだったんだ。ありがとう――あーもう! 超恥ずかしい!」
 綿毛のもののけさんは怯えた顔で後ずさった。
「茉里様?」
「やだもう!」
「そ、そんなことを言っては。経過はどうであれ、お母様に感謝の言葉を伝えられたのは、とても素敵なことかと――」
「かもしれないけど! でも、すっごくむずむずするのこういうの!」
 そのとき、私の名前が隣の部屋から壁伝いに呼ばれた。
「茉里ー。なーに帰ってきて早々一人で騒いでるんかぁ?」
 おばあちゃんだ。そうだ。周りからしたら、私は一人で帰ってきたのだった。帰宅直後に自室で絶叫なんて、すっごく痛い子だ。
「ご、ごめんおばあちゃん! なんでもない!」
 私はドアに寄りかかったまま、しなしなと座り込んだ。
「――疲れる」

 お弁当箱を流しに戻すとき、お母さんは珍しく鼻歌を歌っていた。顔を合わせないようにして、私はまた二階に駆け上がったのだった。
「その地に住む人々の『信仰心』で、『祭る』という行為は成り立っていると言えるのです。ただですね、茉里様。『信仰心』と聞いて、茉里様はどんな心を思い浮かべますか?」
 今日学校で話した「社」のことを訊いてみたら、綿毛の彼は待ってましたと言わんばかりに、饒舌に語り始めた。
「信仰心? うーん、何だろう?」学習机の椅子に座り直し、私は教会やらお寺やらを想像した。「なんか、神様の言うことを聞いて、それを守ってさえいれば幸せになれるんだーみたいな感じかな」
 彼は大層満足そうに頷いた。
「一般的な感覚では、おおよそそうでしょう。しかし、『信仰心』の根本は、先ほど茉里様がお母様に示したのと同じ、『感謝』なのです」
 神様の存在は、人から人へ代々伝えられる。それによって「神」という言葉に、特別な意味や感情が宿るという。言葉が単なる「記号」から、「言霊」になるということだ。そうした細やかな伝達が日々の暮らしで行われることで、神様に限らず、大切にしなければならないものがだんだんと分かってくる。その理解が、その人の人格を形作る。
「しかし、いくら大切に伝えられても『言霊』が『記号』に逆戻りしてしまうことがあるのです」
 例えば、科学。科学の力では、神を証明出来ない。いや、現代の社会に即した言い方をすると「科学の力をもってしても」という言い方になる。科学は絶対的に「正しい」のだ。
 その科学が神の存在を証明出来ず、神を否定することになれば、「神を信じる」という行為は非科学的というレッテルを貼られる。神への信仰などというものは「間違っている」ということになってしまう。「神」という言葉に宿っていた言霊は色褪せて、単なる記号と化してしまう。
「“社”は、人々が神様に感謝する場所、ということ?」
「その通りでございます」綿毛のもののけさんは、再び大きく頷いた。「その機能が働いてこそ、“社”は成り立つのです。ただ、元々それは当たり前のことだったのです。作物がたくさん穫れたり、商売がうまくいったり、子宝に恵まれたり。人々は、良いことがあったときは必ず神様に感謝をしてきました。近しい人が病で亡くなった時でさえ、天国へ行くことが出来たのだと、人々は神様に感謝を表すのです」
「うん」
「――恐らくですが、美景様はそんな当たり前のことを説明するのは野暮だと思われたのかもしれません」
 それはあり得るかもと、私は思った。
 考えた。湯の神さまに感謝している人は、この天原に、どのくらいいるんだろう?
 そして、「銭湯ゆずりは」に感謝している人は、どのくらいいるんだろう?
 いつでも熱いお湯に浸かって、疲れを癒せることに感謝している人は、どのくらいいるんだろう?
 ユズちゃんのおばあちゃんに「ありがとう。また来るね」って言っていた人は、どのくらいいるんだろう?
 そんな人たちが大勢いたら、嬉しい。そしたらきっと――
「――なんとかできるかもしれない」
「茉里様?」
「湯の神さまは、きっと優しい神様だよね?」
 彼はこくこくと頷く。
「小生、直接言葉を交わしたことはございませんが、大昔に天原を温め、冷害から救ったお方です」
「うん、そうだよね。今度はさ、天原に住む私たちが、湯の神さまを助けないとね」
「――と、言いますと?」
「考えがあるの。成功するかまだ分からないけど、私もユズちゃんのおばあちゃんに、感謝の気持ちを伝えなきゃって思うから」
 綿毛の彼は、とても優しい目で私を見つめ返した。いつもは幼稚園児くらいの、小さな男の子みたいな表情なのに、その瞬間の瞳だけは、何年も時を経てきた深みというべきものを感じさせた。
「茉里様。茉里様なら、必ず成功します。小生、ずっと津々楽家にお仕えしてきましたが、先祖代々――そしてもちろん茉里様も、『ありがとう』を言える方々でした」
「えへへ、ありがとう。あっ」
 褒められたそばから口に出てきて、なんだかこそばゆくなった。
 ちょっと、視界が開けてきたような気がする。大事なことが、分かってきた気がする。天原を守る、というのは、言い換えればこの天原に住んでいる人々を、その一人一人を信じるということなんだと思う。
 もろの木さまも湯の神さまも「信仰心」を集めているわけだけど、それは一側面にすぎない。むしろ神様たちが、私たちを信じてくれているのだ。強く強く信じてくれていて、それによって、天原を堅く堅く守ってくれているのだ。
「――そういえば、まだ訊いてなかったね。あなた、名前は何て言うの?」
 ずっと「綿毛のもののけさん」と呼ぶわけにはいかない。私は尋ねてみた。コノのときみたいに、きっと彼も神様みたいな長い名前を持っているのだろう。私はそう覚悟していた。
 しかし、その予想は百八十度はずれてしまった。
「小生、名はありません」
 きっぱりと、彼は答えた。
「――えっ?」
「八百万の獣や八百万の神々には、名前を持つものと、持たないものがおります。人間は一人に必ずひとつ名前を与えられるかと思いますが、獣たちや神々は、人に名付けてもらわなければ名を得ることが出来ません。小生のように無名の者もいれば、例えば天照大神(あまてらすおおみかみ)様のように、複数の名を持つ方も、いらっしゃいます」
 名前がない。まるで当たり前のことのように彼は説明してくれたけど、私は正直、納得出来なかった。
「あなたが生まれたときに、誰も名付けてくれなかったの?」
 綿毛のもののけさんは、寂しそうに笑って頷いた。
「小生が生まれた瞬間など、誰一人知るところではありません。正確に言うと、ある日、ある時から小生が存在していたわけではなく、人々から存在を信じられるようになって、“少しずつ”存在が固まっていったのです。そして顕現を確かなものにして下さったのが、津々楽家だったというわけでございます」
「でも、私のご先祖様は、あなたに名前を付けなかったんだね」
「それが通例です。むしろ、ご自分の家系に仕える獣などに名を付けようと言う方が、珍しいことなのです」
 誰からも名前を呼ばれず、彼はずっと生きてきた。それが彼にとって当たり前だった。
「うーん、なんだかなぁ」
「ですので、小生のことは『綿毛』とか『羊』とか、好きに呼んでいただければ――」
「ねえねえ、私が名前を付けるって言ったら、やっぱりちょっと問題あったりするの?」
 何気なく、私は訊いてみた。訊いてみてから、「間違った」と思った。
 綿毛のもののけさんは、突然ゴムボールのように天井まで弾んだ。同時にまたもや風が巻き起こる。ライトが揺れ、壁にかけてあったカレンダーが画鋲ごと剥がれた。
「ちょ、ちょっとストップ! 部屋では止めて!」
 私は椅子から立ち上がり、弾むゴムボールを取り押さようとして、そのままベッドに突っ込んだ。もつれ合ったまま何とか彼を抱え込む。
「さっきからどうしたってんだぁ?」
 隣の部屋から、おばあちゃんの怪訝そうな声が聞こえる。
「ご、ごめん! 本当に何でもないから!」
 私は平静を装って返答した。お願い、覗きにこないでよおばあちゃん――
 数秒後、何とか風は治まり、私の部屋の被害はカレンダーのみにとどめることが出来た。
「はあ――はあ、す、すみません茉里様! 小生、あまりのことに気が動転してしまいまして――」
 今にも泣きそうな声で、彼は弁明した。勢いでベッド突っ込んだにせいで、ちょうど私が仰向けになり、この綿雲を「高い高い」しているような格好になった――この綿毛、めちゃくちゃ軽い。
「名を頂くということは、八百万の獣にとって大変な名誉でございます。小生は、もう自らの名など、ほとんど諦めておりました故――」
「分かった。でもね、家の中では風を起こすの禁止。これは守って」
「――承知、致しました」
 そっとベッドに彼を着地させて、乱れてしまった髪を撫で付けながら身を起こす。
「決めた。あなたの名前、私が付ける」
 困惑している彼をよそに、私は既に考えを巡らせていた。
 後から考えても、このときは本当に不思議な感覚だった。
 記憶の奥底から、ふっと頭に浮かんだ。私がまだ幼稚園に通っていた頃、おばあちゃんから聞かせてもらったほんの数分の話を思い出したのだ。
 それは、ずっとずっと忘れていた記憶だった。それがまるで、水面に浮き上がってくる泡のように、蘇ってきたのだ。
 タンポポ。どこにでも咲いている、小さな黄色の花。おばあちゃんは、タンポポのことを「つづみぐさ」って呼んでいた。
 ――タンポポはねぇ、おばあちゃんが生まれるよりもぉっと前の江戸時代にはねぇ、鼓草(つづみぐさ)って呼ばれてたんよぉ。おばあちゃんが子供んときはねぇ、鼓草の綿毛みたいな獣がよーく家に来てて、一緒に遊んだもんさぁ。
 そうだ。私はおばあちゃんからちゃんと伝えられていたじゃないか。八百万の獣のことを。鼓草の綿毛によく似た、彼のことを。
 もしかしたら、おばあちゃんは彼のことをそう呼んでいたのかもしれない。名付けた気は全くなくとも、遊びながら何度も何度も、親しみを込めて、そう呼んだのかもしれない。
「ツヅミ」
 私はその三文字をそっと呟いてみた。
「タンポポの別名、『鼓草』から取ったんだけど、どうかな?」
 ベッドの上に突っ立ったまま、彼は震えていた。
「小生は――小生は、本当に名前を頂いてもよろしいのでしょうか?」
「良いに決まってるじゃない。気に入らなかったら、また考え直すけど」
 彼は顔を真っ赤にして、ぶんぶん顔を横に振る。綿毛が千切れてしまいそうなほどの勢いで。
「素敵な、本当に素敵な名でございます。小生には勿体ないくらいです――ツヅミ。風に乗ってどこまでも種子を運ぶ、タンポポの別称」
「そう。おばあちゃんがね、私が子供の頃に教えてくれたの」
「おばあ様――恒子様が。左様で、左様でございましたか。恒子、様――」
 とうとう彼は、本格的に泣き始めてしまった。「恒子様」という彼の声は、とても暖かく響いていた。
「もう、ホントに忙しいもののけさんだね」
「申し訳ございません――茉里様! 茉里様に頂いたこの名前、小生は身が滅ぶまで、大切に致します!」
「そんな、大袈裟な」
 綿毛のもののけさん――改め、ツヅミ。
「よろしくね、ツヅミ」
 初めて名を呼ばれた彼はぎくりとしていたけど、すぐに涙を拭いて、笑顔を作った。
「はい、茉里様」
 津々楽家の「守護霊」と言ったところだろうか。私はこのとき、妙な充実感を感じていた。
 ツヅミに出会い、彼がずっと津々楽家を見守ってくれてたと知り、私が彼に「ツヅミ」と名付けて――彼との距離をひとつひとつ縮める過程で、何かたくさんの、ぱらぱらと散らばったものが繋がった―――そんな気がしたのだ。
 ふと、私はあの白黒の世界を思い出した。もろの木さまが私に見せてくれた、色のない人々の世界。あの世界では、人々は純白に近い白から暗闇のような黒まで、「切り離された」量によって、染められていた。
 社美景――彼女の「黒」を見たとき、私は動悸がして、少し吐き気まで催して、もうあの「黒」は見たくないと思った。
 そして私の両手も、わずかに濁っていた。完全な白ではないことは、肉眼で分かった。ほんの少しの「黒」なのに、それがすごくショックで、あの世界の自分の身体を見るのはもう嫌だと思った。私が少しでも「切り離された」ことがあると、認めたくなかった。
 しかし驚いたことに、今私は、あの世界でもう一度自分を見たいと思ったのだ。
「茉里! お父さんお風呂から上がったから、先に入っちゃいなさい!」
 お母さんの呼ぶ声が聞こえる。
「ええっ! ちょっとお父さん先入ったの? 私の後にしてって言ってるじゃん!」
 ホント、子供っぽい台詞だよなと思いながらも、私は少しほっとする。