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  [No.1179] 3.出雲の国の女神と、風を纏った鼓草 投稿者:リナ   投稿日:2014/06/30(Mon) 05:15:15   37clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


◆出雲の国の女神と、風を纏った鼓草◆

 天原町は、神域。神様のおわします、とても神聖な場所だ。出雲や伊勢に並んで、昔から特に大切にされてきた土地のひとつだった。
 どうして、先人たちに尊ばれてきたのか。それは例えば、大袈裟な姿かたちをした崇拝対象があったとか、神ありきの理由では全くなかった。
 天原は昔から、冷害に悩まされてきた。毎年冬になると、遠い北の大陸で生まれた冷たい空気が日本海を渡り、奥羽山脈を乗り越えてやってくる。その乾燥した冷気は鋭い刃となって天原に吹きつけ、作物を枯らした。
 天原の人々は、その風が氷のように冷たい風だったので、「氷の神様」の怒りなのだと考えた。氷の神様は、長い尾を持った巨大な霊鳥の姿をしていると考えられた。天原の農家の人々は収穫の時期になると、氷の神様のために祭壇を作って祀り、豊作を祈願した。
 しかし、冷たい風はその後も治まることなく続いた。
 これでは食っていかれない。まともに作物も獲れないこんな土地で、どうしてここにとどまり、飢えに耐え続けなければならないのだろうか。そう考える農民たちが現れ、一軒、また一軒と天原を捨て、もっと暖かい土地を求めて出ていってしまった。農地を耕す者が減っていくと、土は荒れて、冷たく硬く強張っていった。
 打ち捨てられた土地。飛鳥時代は慶雲期、天原はそう呼ばれていた。
 頭を悩ませたもろの木さまは、出雲の国に住んでいた湯の神さまを呼び寄せて、この土地と人々を温めてくれまいかと願い出た。
 天原の土地を眺め、湯の神さまは言った。
「長きに渡り凍てつく風に晒された天原を温めるには、うんとたくさんの湯を沸かすことのできる桶をこしらえなければなりません。鎮守の森の木々を切るわけにはいきませんから、本殿を取り壊して、その廃材を使うことになりますよ」
 当時はまだ存在していたとされる「天原神社」。もろの木さまはその本殿に祀られていた。しかし、氷の神様を鎮めるためには、湯の神さまの言いつけどおり、本殿を取り壊さなければならなかった。
「本殿を取り壊せば、代わりにあなたが毎年、凍てつく風に晒されることになります。それでもよろしいのですか」
 湯の神さまの提案には、天原に住む皆が反対した。八百万の神々も、獣(しし)たちも、もちろん農民たちも。
 天原を守ってきたもろの木さまがどうしてそんな目に遭わなければならないのか。そもそも本殿を取り壊すなど、正気の沙汰ではない。ある神がそう言った。その他の大多数の神様たちや人々が、同じ意見だった。
 ただ一人、もろの木さまだけが、本殿を取り壊し、桶を作ると言った。
「この老木が雨風に吹き晒されることは、なんら気に止めるようなことではない。朝日が昇り、また沈むのと同じ様に、些事である。今大事は、天原に人々が住まなくなることだ。作物が獲れなくなり、土地が痩せ、国として死んでしまうことだ。この社の木材が必要ならば、気兼ねなく使うがよい」
 天原の全ての者たちはその言葉に感嘆した。
 そして、神さまたちも人々も獣たちも、総出で桶作りに携わった。本殿は涙のうちに取り壊され、もろの木さまは剥き出しになった。
 出来上がった大きな桶で、湯の神さまは湯を沸かし、天原を温めた。毎年冷たい風の吹く季節がきても、「天原の大桶」のおかげで、作物が枯れることもなくなった。凍える冬の夜は、皆大桶の湯に浸かり、身体を温めて寒さを凌いだ。
 以来、もろの木さまに加えて、天原神社の祭神として湯の神さまも祀られることとなった。
 しかし社の類は全て取り壊され、手水舎や鳥居も全て大桶の材料となってしまっていた。そこで、大桶の湯を皆に配る役目をしていた各所の「湯屋」で、二人の神様は祀られることになったのだ――

「自分の住んでいる場所の歴史くらい、ちゃんと勉強してください」
 美景ちゃんが長い溜め息をついた。
「――津々楽さんも杠さんも、本当に聞いたことないんですか?」
 私とユズちゃんは曖昧な笑みを浮かべて目を合わせた。
 美景ちゃんと約束をした土曜日は、先週と同じくらい良く晴れていた。ユズちゃんを連れて、待ち合わせの午後四時の五分前に駅前広場へ行くと、美景ちゃんはもうベンチに座って文庫本を読みながら待っていた。土曜日なのに、やっぱり前と同じ制服姿だ。美景ちゃんを初めて見たユズちゃんは、「ほんと座敷童みたいな髪してる」と小さく呟いた。
「その『天原の大桶』っていうのは聞いたことあるよ。でもそれが何なのかは今知った」
 私がそう言うと、ユズちゃんもうんうんと頷いた。
「そうですか。あなた方に今の天原の状況を話す前に、成り立ちだけで日が暮れてしまいそうです」
 そもそもどうして美景ちゃんに「天原歴史講座」を開いてもらうことになったかというと、早い話“浅学”が露呈してしまったからだった。麗徳のエリート少女は、我々のような一般的な中学生に容赦がなかった。
 私がユズちゃんと美景ちゃんをお互いに紹介し、コノと挨拶をし、ひとまず三人並んでベンチに腰を下ろし、何気なくもろの木さまの話になったときに、ユズちゃんがぽろっと言った。
「天原の守り神ってくらいなのに、どうしてちゃんと祀られてないんだろうね? 普通大きな神社とか、そういうところにあるんじゃないの?」
 私も不思議に思っていたことだった。駅前広場の真ん中でぽつんと佇むもろの木さまは、見ているとどうも不憫に感じてしまう。これからの寒い季節は特にそうだった。
 しかし、ユズちゃんのその台詞を吐いた直後、美景ちゃんの表情がぴたっと固まったのだ。私はすぐに察して、ユズちゃんの台詞の後に「うん、そうだよね」なんて相槌を打たなくてよかったと思った。
 そして美景ちゃんより――すでに綴ったように――天原神社が取り壊された理由が語られたのだった。
 美景ちゃんの語ってくれた天原の神話は、「天原手記」という書物に収められているらしい。古事記や日本書紀に記載のある神話との関係も深く、歴史学的にも重要な神話なのだそうだ。
「湯の神さまは出雲の国から来たという記載から、出雲大社の祭神『大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)』の妻、『多紀理比売(タキリヒメ)』と同一神と考えられています。天原の神たちにとっては他所者でも、名のある神の言葉だったからこそ、言いつけ通りに桶を作ったのだという話です。そもそももろの木さまが迎え入れるほどの神ですから、きっと出雲の国でも広い範囲で信仰を集めていたのでしょう」
 神話の詳細を語る美景ちゃんは、他の話題のときよりほんのちょっぴり生き生きしていた。
「とにかく、天原に神社がない理由は分かった。もともとこの駅前広場には、その『本殿』があったのね。なんか、全然イメージできないけど」
 ユズちゃんが人差し指と親指で四角形を作り、もろの木さまにかざして覗いた。創建された時代も、「大桶」を作るために取り壊された時代も不明。「天原手記」が完成したのが奈良時代初期らしいから、今から千五百年くらいも昔の出来事ということになる。
 そんなに気が遠くなるほど昔から、もろの木さまはここに立って、天原を守り続けてきたのだ。
「イメージはできないけど、大切にしなきゃいけないことは分かる。もろの木さまも、湯の神さまも」
 そうさ、とコノが頷いた。
「それが、君たちの生活をきちんと続けていくこと、後世へと繋いでいくこととイコールなんだ。前に話したように、湯の神の姉さんをホームレスにさせてる場合じゃないよ」
 コノがうちの浴室に現れたその日から、実は二つ、出来事があった。どちらもあまりよくないことだった。

 ユズちゃんのおばあちゃんは、目を覚まして間もなく、認知症と診断された。脳血管性のものとアルツハイマー型が合併したものだろうと、担当医師は判断した。
 木曜日に再度お見舞いに行ったときのおばあちゃんは、やっぱりとても小さく映ったし、言葉数が少なかったけれど、何もおかしなところはなかったように感じた。とにかくそのときは、目を覚ましてくれたことが嬉しかった。リハビリ次第で早期に退院できるだろうと、ユズちゃんのお母さんも言っていた。
 しかし帰り際、病室の外でお母さんは「後々びっくりさせないよう、耳に入れておいてほしい」と、事実を伝えてくれた。
 実際には症状が表れていたという。目を覚ましたその日から、おばあちゃんは一度食べた朝食を何度も催促した。夜に一人で病室から出ようしたところを看護師さんに見つかり、理由を訊くと「自分の枕を探していた」と答えたらしい。家ではお気に入りの蕎麦殻の枕を使っていたのだ。
 事実、銭湯の運営再開が遠退いた。ユズちゃんにはもちろんそんなこと言っていないけど、うちでは――津々楽家では、そういう方向の話になっていた。
「うちも、喜美子さんのお母さんがそうだった」
 お父さんが食卓でビールを片手に言った。木曜の夜のことだ。
「兄貴の嫁さんの母親だよ。杠さんのところも、むしろ早く銭湯の番台に戻してあげた方がいいんじゃないかな。病院は病気を治すところだけど、やっぱり息が詰まるんだよ。あなたは病人ですって言われ続けてるようなもんなんだ。特に認知症には、それがすこぶるよくないらしい。喜美子さんのお母さんもね、無理矢理病院から引っ張り出して趣味だった麻雀やらせたら、もうあっという間に回復しちゃって」
 私はそれを聞いて、すぐにでも実行したくなった。
「でもねえ」お母さんが食卓の真ん中に鍋を置く。葱のたっぷり入った水炊きだ。「一度倒れちゃったら、もうあんまり無理は出来ないんじゃないかしら。銭湯を一人でやっていくのなんて、若くて健康な人でも大変なのに」
「私手伝う。ユズちゃんと一緒に」
 どのくらいできるか分からないけど、結構本気の提案だった。
「あなたたちは学校の授業と部活があるでしょう」
「みんなにも事情を話して、交代で休むようにすれば? 三橋先生ならきっと賛成してくれるよ」
 お母さんは取り皿を並べながら、困った顔をした。
「三橋先生は、茉里のクラスの担任だね」
 お父さんが質問を入れる。
「うん」
「あの先生は分かってる人だから、茉里の意見には反対すると思う」
「なんで?」
 私はわざと不機嫌に聞こえるように言った。
「いいかい? 残念なことに、生徒たちの親御さんの中には大勢反対する人が出てくるだろう。『うちの子に何させてるんだ!』ってね。そうなっちゃうと、杠さんのところが非難を浴びることになるし、奈都子ちゃんも学校に行きづらくなる。そうなるのは、茉里はどう思う?」
「それは、嫌だけど。でも――」
「先生は、茉里のことだけ見ているわけじゃない。奈都子ちゃんのことだけ、見ているわけでもない。クラスの子供たちみんなを見ている。だから、反対すると思うよ」
 溜め息が出るほど正論。分かっている。でも、私がやろうとしていることはそんなに非難を浴びるようなことなんだろうかとも思う。
「それに、杠さんのところはあのお父さんが、ね?」
 お母さんが困った顔のまま言う。
「――まあそれを話し始めるときりがない。さあ、熱いうちに食べよう。父さんの育てた葱は美味いぞ」
 お父さんがそう言って、その話は終わりとなった。
 思えばあのときお母さんは「口を滑らせた」のだ。
 問屋さんを営んでいるユズちゃんのお父さんは、年がら年中仕事が忙しいらしく、私もほとんど会ったことがなかった。記憶では、たぶん中学校の入学式で見かけたのが最後だと思う。背がすらっと高くて、かっちりとしたビジネススーツを着こなしていた気がする。「町の問屋さん」というより、「ばりばりのビジネスマン」という感じだった。聞いていたイメージとあんまり違ったので、とても印象に残っている。
 二つ目のよくない出来事は、そのユズちゃんのお父さんのことだった。出来事というよりは、浮き彫りになってきた事実、と言った方が近いかもしれない。
 ユズちゃんのおばあちゃんが倒れたこと知ったあの日、大人たちの言葉の行間からなんとなく“違和感”を感じていた。なんか変だ。とても大事なことで、みんなそれを何とかしなきゃいけないと思っているのに、誰もが気付かないふりをしている。
 触れてはいけない。自分達には関係ない、その“家”のことなんだからと。
 気が付いた。違和感の理由は、家族が一人倒れたというのに、誰もお父さんのことを口にしなかったからではないか。まるで関係のない他人かのように、全く一言も、言及されなかったからではないか。あの日の一連の会話には、「父親」がすっぽり抜けてしまっていたのだ。
 しかし、ただ一人だけ。ユズちゃんだけは、お父さんのことを口にしていた。
 ――この銭湯はちゃんと経営してかないと、あの人に潰されちゃう――

「コノからもお二人に話したようですが、まずは杠さんのところの銭湯を“社(やしろ)”として機能させ続けることが急務です。そうしないと湯の神さまの力が弱まり、ますます多くの“毒”を天原に呼びこんでしまいます」
 美景ちゃんは強い口調で言った。
 湯の神さまのことは大事だ。でもそれ以前に、私は確かめなきゃいけない。
「ねえユズちゃん、よかったら話して」
「ん? 何を?」
 ユズちゃんは指で作っていた四角形を下ろした。
「ユズちゃんのお父さん。一体何しようとしてるの?」
 彼女の顔からさっと表情が消えた。目をまん丸にして、私を見る。
「――えっと。それ、誰から聞いたの? うちのお母さん?」
「ううん、誰からも聞いてない。勝手な予想」
 ユズちゃんは目元にしわを寄せて、もろの木さまの方を見た。美景ちゃんとコノは、私たちのやり取りを黙って見守っている。
「――別に、うちの父さんはなんも関係ないよ」
「そしたら、前に言ってた“あの人”って誰のこと? “潰されちゃう”って?」
「あれ、そんなこと言ったっけ?」
 不自然な笑い方で、ユズちゃんはごまかす。
「うん、言ってた。私、普段こういうこと遠慮してなかなか突っ込んで訊けないけど、今回はお節介を焼かせてほしいの。私でもできることがあったら、小さいことでも、何かさせてほしい。本気でそう思う」
 しばらく彼女は足元を見つめ、それからもろの木さまに視線を戻し、それを二回繰り返した。そして、「やっぱり茉里だよなあ、そういうところ」と、笑って空を仰いだ。
「――やっぱりって?」
「お節介。今までだって散々焼かれてきたよ。悪いけど」
「そう、かな」
「そう」
 ユズちゃんは一回洟をすすってから、真面目な顔で言った。
「あの人は、お金儲けにしか興味がないの」


         ◆ ◆ ◆


 ユズちゃんの父、啓次(けいじ)は養子として杠家に婿入りした。今から十七年も前のことになる。杠という姓はユズちゃんの母、美波子(みなこ)のものである。「銭湯ゆずりは」も、すぐそばにある母屋も、母方の実家が所有しているものだった。
 彼が婿養子として杠家に来たのは、ある理由があった。
「お母さんとお父さんは昔職場が同じで、お互いに新入社員のときに知り合ったらしいの。二人とも、まだ二十代のとき」
 ベンチの真ん中に座っているユズちゃんの話に、私と美景ちゃんは耳を傾けた。コノは、私たちの頭の上を、いつもと変わらぬ様子で浮遊していた。
 大手の総合化学メーカーの農業関連事業部で、ユズちゃんのお父さんとお母さんは出会った。若かりし頃の二人は、互いに惹かれ合い、ほどなく交際をスタートする。
「普通に恋愛結婚で、何事もなく入籍ってなるはずだったんだけど、お父さんの家の方に少し問題があって、お母さん側の家族が結婚に反対したの」
「――問題?」私が左側で、首を傾げる。
「うん。あの人の家系がね、新世(しんせい)学会だった」
 言葉の並びが、すぐに頭に浮かんでこなかった。
「――シンセイ?」
 ユズちゃんに“あたらしい”に世界の“せ”だよと説明されたけど、全然ピンとこない。
「それだと、何かまずいの?」
「新世学会は、日本の宗教法人の中でも最大規模の組織です」美景ちゃんが代わりに質問を受けてくれた。「もともとは仏教の古い一宗派の使徒団体でしたが、今では信仰の内容も変わってきています。ひとつの政党の支持母体になるほど巨大化してますから、学会員自体はそれほど珍しくありません。しかし、教祖である人物への神格化が過度なのに加え、非常に排他的な性質を帯びてきているため、新世学会には嫌悪感を抱く人が多いです」
 ユズちゃんのお母さん側の家族、つまり「杠家」の人々も、あまり良いイメージを持っていなかった。というより、ほとんど毛嫌いしていたのだという。気味の悪い宗教団体の男のところへ、うちの娘を嫁に出すだなんて考えられない、というわけだ。
「あの人はそれほど狂信的な人ではなかったから、お母さんと結婚するために新世学会を抜けたの。それってすごく勇気のいる行動みたいで、当時はずいぶん面倒なことになったらしいけど」
 学会を抜けた啓次は、事実上、家族との縁を切ることになった。「脱会」とは、そういうことなのだ。
「うちの母方の実家にあの人が婿入りしたのは、そういう理由があったんだって。前に、お母さんが教えてくれた。最初はうちのおばあちゃんもおじいちゃんもしぶしぶっていう感じだったみたいだけど、家族と縁を切ってまでお母さんと結婚したお父さんに、最終的には根負けしちゃったんだって」
 啓次と美波子の結婚生活は、式を挙げることもなく、東京の小さな一室で、静かに静かに始まった。まもなく美波子は妊娠したのを機に退職し、同棲していた東京から一人実家の天原に戻った。妊娠中は不便なことも多いだろうから、お父さんたちのいる実家で暮らしていた方がいい。そう言ったのは啓次だったのだという。
 そして一年後、ユズちゃんが生まれる。
「あの人さ、もうずっと単身赴任なんだよね。一時期転勤で天原から近くの支社になったことがあるけど、そのときも週末に帰ってくるだけだった」
「え、ずっと?」不思議に思って、私は目を細めた。
「うん、今もずっと単身赴任」
「そうだったの? ユズちゃんのお父さん、町内の問屋さんだって聞いたけど。今もずっとその会社なの?」
「問屋さん? そんなことあたし茉里に言ったことあったっけ? ずっと最初の会社だよ」
 おかしい。杠さんのところのお父さんは、町で問屋さんを営んでいる。お母さんも、お店の手伝いで忙しい。そう聞いた。記憶違いではないはずだ。
 一体、誰から聞いたんだっけ?
「あ、まあでも――」左側で首を傾げる私の横で、ユズちゃんは腕を組む。「問屋さんみたいなことしてるって言っていいのかなあ。お店に商品を卸しているわけじゃないけど」
「と、言うと?」美景ちゃんが右側から訊いた。
「あの人は、農薬を売ってるの」ユズちゃんはちょっと沈んだ声を出した。「自分の会社で作った農薬を、農家相手に営業してるってわけ。数年前から天原もあの人の担当エリアだから、もしかしたら『問屋さん』とか呼んでる人もいるのかもね」
 天原の農業従事者ということなら、まさにうちのことだ。
 天原町農協は、約三十世帯分の組合員で構成されている。全国的にも小規模の農業協同組合だ。我が「津々楽農場」は、その面積こそあまり大きい方ではないけれども、お父さんは農協で専務をしている。組合員の農家の人々の中でも、かなり顔が広いらしい。
 お父さんから聞いた話だったのかもしれない。杠さんのところは「問屋さん」なんだよ。ときどき新製品の農薬を紹介しに来るんだ――という具合で。
「うちは確か無農薬で野菜育ててたと思うけど、ユズちゃんのお父さんが農薬売りに来たこともあったのかな?」
「あったと思うよ。でも、買わなくて正解。あの人はとにかく、農薬がたくさん売れて、自分の会社が儲けさえすればいいの。たまにうちに帰って来たと思ったら、『利益率』とか『自然淘汰』とか『市場シェア』とか、仕事の話ばっか」
 私が天原中学校の入学式で見かけた、スーツ姿のユズちゃんのお父さん。あの時は「問屋さん」のイメージとあんまりかけ離れていて、とても不思議に感じていた。でも、ユズちゃんの話す「営業マン」のお父さんなら、あのスーツ姿がぴたりと当てはまる。
「杠さんのお父様は、銭湯についてどう思っているんでしょう?」
 美景ちゃんが尋ねた。彼女はユズちゃんの話を聞きながら、唇に手を当てたり腕を組んだりしていた。その仕草が、いちいち大人びて見える。
「――私も、あの人が考えていることを全部知っているわけじゃない。でも、うちの銭湯のことを煙たがっているのは、事実だと思う。理由ははっきり分からない。けど、たぶんあの人の“性”に合わないの。お客さんをもっと呼び込もうとするわけでもなく、小さな町の銭湯のままで、細々とやっていくことがね。だからあの人は、今の銭湯を乗っ取ろうとしてる。乗っ取った後も銭湯なのか、そうでない何かなのかは知らないけど、とにかく今の『銭湯ゆずりは』ではなくなっちゃう」
 もうずっと前から、ユズちゃんのお父さんは銭湯の経営に口を出したがっていたらしい。こんな常連客に頼るような経営では、これからの時代やっていけない。古い経営方針はできるだけ早く改めて、新規に顧客を開拓していけるよう、きちんとマーケティングしていかなければならない。今のままだと、自然淘汰されるのを待つだけだ。
 ユズちゃんのお父さんは、おおよそそんな台詞を並べて、昔一度生前のおじいちゃんに――杠家の主に――噛みついたことがあるという。
 おじいちゃんは眉間にしわを寄せ、一言だけ言い放った。
「オレぁ銭んために風呂沸かしてんじゃねえ」
 ユズちゃんのお父さんはそれに対して、何も言い返せず、ただただ目を泳がせた。
 おじいちゃんが生きていた頃は、啓次も大きな声で口出しできなかった。昭和初期に天原に生まれたおじいちゃんは、脚が悪くて徴兵からは漏れたものの、悲惨な戦中の日本を肌で経験した人だった。耳をかすめるほどの距離で爆音が轟き、爛れた死体が目に焼きつき、真っ暗な防空壕の中で眠る日々を経験をした人だった。
 戦後に生まれた者たちとは、隔絶した価値観を持った人種だった。
 六年前、桜の花も散る晩春の季節に、ユズちゃんのおじいちゃんは亡くなった。「銭湯ゆずりは」は、その頃はもうほとんどおばあちゃんが一人で切り盛りしていたけど、「やっぱり、銭湯を守っていたのはおじいちゃんだった」と、ユズちゃんは語った。実際、ユズちゃんのお父さんが「銭湯の経営」について、積極的におばあちゃんに打診をし始めたのは、おじいちゃんが亡くなったその年の夏頃からだったという。
「杠さんのお父様の真意を確かめなければなりません」美景ちゃんが言う。「単純に『経営者気質』から、本当に銭湯経営によって利潤追求をしたいのか。もしくは、全く別の理由がある上での、詭弁なのか。それが分からなければ、こちらも具体的に動けません。今の私たちが強引にお父様を止めることは、難しいと思います」
 友達の父親といえども、中学生が一人の大人相手に説得を試みるには、まだまだ心許ない情報量だった。
 もし仮に、ユズちゃんのお父さんが本当に銭湯の経営にテコ入れをして、結果的に今までよりもっとたくさん人が集まるようになれば、それはむしろ、私の望んでいたことではないだろうか。きっと賑やかな浴場を見て、湯の神さまも喜ぶんじゃないだろうか。
 でもそうではなく、口先では「流行らない銭湯の立て直し」謳いながら、本当は何か気に喰わない理由があって、「銭湯ゆずりは」をどうにかしてしまおうとしているのだとしたら? もしそうだとしたら、やはりコノの言う通り、湯の神さまは“ホームレス”になってしまうのだろう。
 ただどちらにせよ、やはり「経営を乗っ取られる」かたちになる。その事実だけで、私はあまり良い予感はしなかった。身内で経営権が移るだけと言われればその通りだ。でもやっぱり引っ掛かるのは、権利を得てしまう人が、実の娘から「あの人」呼ばわりされるような人だということだ。
 ありふれた想像をした。誰もいなくなったあの銭湯に、資材を積んだトラックが横付けされる。背広姿のユズちゃんのお父さんがてきぱきと指示を出し、業者の人間がぞろぞろと土足で中へ入っていく。
 脱衣籠は鍵付きのロッカーになるかもしれないし、三色の牛乳の入った冷蔵庫はコカ・コーラの自動販売機になるかもしれないし、もろの木さまと湯の神さまが描かれたペンキ絵はあっけなく剥がされて、替わりに海の向こうの神様が置かれるかもしれない。
 そんなふうに変えられてしまったとしたら、ユズちゃんの言う通り、そこはもうあの「銭湯ゆずりは」ではないんだと思う。
「杠さん。ちなみに、お訊ねしたいのですが」
 美景ちゃんは、いつの間にか膝を抱えて、ベンチに体育座りをしていた。目は、真っ直ぐ前のもろの木さまに向けられている。
「うん、何?」
「お父様の勤めている総合化学メーカーって、有知化学(ありともかがく)ですか?」
 美景ちゃんの口にした社名には、うっすらだけど聞き覚えがあった。
「うん、そうだったと思うよ。知ってるの?」
「大手で考えれば、ある程度絞られますから。コマーシャルでもよくやってるじゃないですか、アリやハエ用の殺虫剤の。あれも有知化学です」
 夕方の情報番組の合間によく流れているのをよく見る。あの白い髭の博士が出てくるCMだ。害虫に困っている家庭に突然胡散臭い博士が現れて、アリの巣に薬を吹き入れる。すると画面はCGに切り替わって、次々とアリたちがひっくり返る。そんな感じのCMだった。
「そういえばそうだ。あのCMよく見るよね。あれうちでも使ってる。『アリ退治スプレー』」
 ユズちゃんが霧吹きのトリガーを引く仕草をした。
「その有知化学が、どうかしたの?」
 美景ちゃんは銅像になったみたいに、相変わらずじっともろの木さまを見ていた。ただ、さっきより眉間にしわが増えている。
「憶測では私も語れませんが、有知化学にはいくつかよくない繋がりがありますし、あまり褒められたものではない噂もあります。まあ、陰謀論を盲信するのも良いことではありませんけど――」
 私もユズちゃんも、じっと彼女の黒い瞳を見ていた。
「ただ、もし私の想像していることが本当に起こっているのであれば、天原は思っていたよりもずっと深刻な事態に陥っていることになります」
 彼女の言うことは、私にはさっぱりだった。ユズちゃんとちらりと目を見合わせたけど、私と同じ「意味不明」の顔だった。
「ちょっとそこまでほのめかしておいて何も言わないつもり? あたしたちにも分かるように説明してよ」
 詰め寄るユズちゃんに、美景ちゃんは首を振る。
「すみません、確証が持てたらお話します。私だって正直あまり信じたくない。まずは、状況を正しく把握しなければなりません。それに、どちらにせよ『銭湯ゆずりは』が大きく変えられてしまう状況は、防がなければなりません」
 美景ちゃんは、抱えていた脚をほどいて立ち上がった。黒いショートヘアがふわりと揺れるのを、私は見つめていた。ダッフルコートのポケットに手を突っ込み、彼女はこちらを振り返る。
「たぶん、にわかに信じられるようなことではないですよね。神域である天原が侵されようとしているだとか、もろの木さまの力が弱まってきているだとか。正直、こんな話は怪しまれて当然なんだと思います」
 日が傾いて、道行く人々の東側には長い影が伸びている。ちょうど電車が来たところらしく、二つしかない駅の改札口から、ぱらぱらと人が吐き出されてくる。
「でも“毒”は、この天原に、少しずつ、でも確実に入り込んでいるんです。色んな姿かたちをして、一見害のない、良いものを装っていたりします。今までもずっと、私たちの気付かないうちにそれは勢力を増して、より多くの“毒”を生み出し、そしてさらに肥大化してきました。例えば、ですが――」
 美景ちゃんは広場を見渡した。そして、駅の改札のそばのベンチに目を止めた。私とユズちゃんがあの夜張り込みをしたベンチだ。そこには今、黒いダウンジャケットを着た中年の男性が座っている。眠っているのか、腕をぎゅっと組んで、顔を伏せてしまっていた。
「時間帯的にも、そろそろ集まっていると思います。見えるようにできますか? コノ」
 呼ばれたコノは、くるりと一回転してから「あのおっさん? 結構えげつないと思うよ」と言った。
「でも、あいつらを見てもらうのが一番分かりやすいでしょう?」
「そうだけどさあ――じゃあちょっと失礼するよ」
 コノはその長い腕で、私とユズちゃんの頭に軽く触れた。隣りに座っているユズちゃんから「ひゅっ」っと息を飲む音が聞こえた。
 目に飛び込んできた光景に、背筋が凍った。背中に冷水を流し込まれたかと思うほどだった。反射的に、ユズちゃんに身体をすり寄せた。
「何? あれ何なの?」ユズちゃんが目を細めて、乾いた声を出した。
 それは、ベンチで寝ている男性の周りに、十匹ほど群がっていた。
 ちょうど大振りのてるてる坊主のような姿をしているが、深い紫色の身体をしていた。その頭には一本の角が生えている。そして、ぎょろりと大きなその目は、遠くからでも分かるほど嬉々としていた。
「恨霊(こんれい)と呼ばれる、八百万の獣の一種です。彼らは少し特殊な獣(しし)で、神に仕えるのを辞めた異端――怨嗟の気を喰い漁る、言わば悪霊です」
「ねえ美景ちゃん、あの人大丈夫なの?」
 私は口を抑えながら震える声を絞り出した。でも、美景ちゃんは落ち着き払って「害はありません」と言い切った。コノはと言えば、すーっとその群れの近くまで行き、戻ってきたかと思うと「思ったほどではなかったかな」と呟いた。大きな当たりに竿を上げてみて、期待はずれの外道にがっかりする釣り人みたいだ。
「ほんの少しですが、人に付く“毒”を食べてくれるという意味では、彼らはむしろ貢献してくれています」
 恨霊たちは、まるで「かごめかごめ」にでも興じているかのように、きれいに輪になってダウンジャケットの男を囲んでいた。彼は相変わらず、眠り続けている。「あの男性の境遇は分かりません。ただ恨霊が群がっているのを見ると、彼は比較的“空ろ”のようです。恨みや妬みといった負の感情は、おしなべて“空ろ”に巣食います。空っぽとは同時に『満たそう』という欲求。がらんどうを埋めたいという、利己的な気持ちだからです」
 コノが、もう一度私たちの頭に触れる。恨霊たちが見えなくなる。あの男性は、何事もなかったかのように眠り続けている。
「私が言っている“毒”とは、人間を“空ろ”にしてしまう。私は、それを何とかしたい。いえ、何とかしなくてはならないんです」
 彼女の目を、私は見た。
 先週、最初に会った社美景の目は、どこか軽蔑を含んでいて、得体の知れないところがあった。もろの木さまが見せてくれたあの世界では、ひどく蝕まれた彼女が露わになった。天原の歴史を語る、生き生きとした瞳も見た。
 そして、今の彼女の目は、使命感を湛えていた。深く、はっきりと刻まれていた。
「――すみません、威勢の良いことを言ってますけど、策はまだありません。ただ前に茉里さんにはお話しましたが、木行の気を持つあなたの力は絶対に必要になります。それに、恐らく杠さん。あなたは潜在的には、火行をお持ちです」
「えっ、私も?」
 目をまんまるにして、ユズちゃんは自分の鼻を指差した。
「湯の神さまに所縁のある家系のようですので、影響を受けているのではないかと。火行もまた、天原の土地にとって大切な要素でした。大桶で湯を沸かした湯の神さまの力は、火ですから」
 もちろん潜在的にですので、自覚はないと思います――自分の両手を交互に見つめるユズちゃんに、美景ちゃんは少し笑って言う。そしてすぐに色を正した。
「でも、それを“開いて”力を使うかどうかは、当人が決断することです。そのためには私もコノもお手伝いすることはできますが、ほとんどの人は持っていても気付かずに一生を終えるわけですし、強制することはできません。だから」
 美景ちゃんは頭の上に浮いているコノをちらっと仰いだ。
「私からは、お願いするしかありません。お二人には、力を貸して欲しい」


         ◆ ◆ ◆


 私たちはこれから受験生になって、各々それなりに勉強して、滑り止めをどこにするだとか散々悩んだりして、進路を決めていかなきゃならない。落ち着いて、慎重に次の一歩を選び、踏み外さないようにしなければならない。
 奇妙な錯覚だけど、私たちにとって天原を守ることよりも、落ちこぼれないように高校へ進むことの方が、何倍も大事なことになってしまっているのだ。
 でも、美景ちゃんに「力を貸して欲しい」と言われたとき、思った。
 私はここまでずっと守られてきたし、生まれた時から、特別不自由を感じることもなく、ただ守られて暮らしてきたのだ。お父さんとお母さんに、今まで関わってきた大人たちに、守られてきた。この町に、そしてもろの木さまに、守られて育ってきた。
 もし本当に、天原町がとてつもない危機に直面しているのなら、私はもちろん守りたいと思う。もし「銭湯ゆずりは」が「銭湯ゆずりは」でなくなってしまうなら、私は何とかして防ぎたいと思う。
 決心の付かなかった気持ちも、冷やされて凝固していく蝋みたいに、硬くなった。そう、熱くなったというよりも、冷やされたという表現がしっくりくる。ゆっくりゆっくり、そして静かに静かに「守る」ということを考えている自分が、ちゃんといる。
 それはたぶん、柿倉の病院で、小さくなってしまったユズちゃんのおばあちゃんを見たからだと思う。
 美景ちゃんとは、また次の土曜日に合う約束をした。ユズちゃんが持っている可能性のあるという「火行」の気の引き出し方については、コノに心当たりがあるという。美景ちゃんはこれからの策について、神子の名のもとに、獣(しし)たちに根回しを行うらしい。職権乱用にも近いと、コノはぼやいた。ユズちゃんは来週までに父親を「ツメてやる」のだそうだ。
 私は結局、前にもろの木さまの「御言葉」を聞いたことも、黒く染まってしまっていた美景ちゃんのことも、言うことができなかった。あの世界のことは、ユズちゃんにも話していない。
 そして、もろの木さまが、美景ちゃんを「助けたい」と言っていたことも、私はまだ一人心の中に留めてある。
 少し時間がかかりそう。私はその日の夜、布団に潜って天井を見上げながら思う。
 でも、その方法は必ず見つける。それを私の宿題にした。

 木枯らしは、もう冬の匂いだった。
 十一月に入り、天原の空気も一層冷え込んできた。もともと朝起きるのはすごく苦手だったけど、日を追うごとに私の身体は布団から引き剥がされるのを嫌がっていった。
 そして月曜の朝、私はついに寝坊をしてしまった。
 朝ごはんも食べずに、寝癖を爆発させたまま、朝もやのかかる畑の畔道を全力疾走する羽目になった。収穫の終わった畑には、ところどころ霜が降りている。呼吸するたび、凍りそうなほど冷たい空気が肺に入り込んできて、胸の辺りがひりひりと痛む。それを我慢して、風で飛ばされそうになるマフラーを押さえながら、私は畦道から舗装された道路に出ようとした。
 そのとき、誰かに名前を呼ばれた。私は急ブレーキをかけて立ち止まった。
 何か忘れものをして、お母さんに呼びとめられたのかと思ったけど、振り返っても誰もいない。周りには裸になった津々楽農場と、葉を落として冬に備え始めている木々だけ。
(もののけさん?)
 一瞬そう思った。天原にはコノ意外のもののけさんも住んでいるはずだ。もうどんな生き物が出てきても、私は驚かないつもりだった。むしろこっちは急いでいるわけで、何か用があるならさっさと出てきてほしい。
「――ごめん! 誰かは知らないけど、後にして!」
 うん、今は困る。一刻の猶予を争う状況だ。テストで内申点を稼げない私にとって「遅刻1」は痛い。しかも厄介なことに、三橋先生はときどき時間より少し早く教室に来るのだ。
 私は地面を蹴って、学校へ急いだ。

「あ、茉里おはよー。今日ぎりぎりだったね。珍しいじゃん」
 チャイムの鳴る二分前に教室に滑り込んだ私の机には、ユズちゃんが座っていた。まだ先生は来ていない。間に合った。
 ユズちゃんは後ろの席の千夏(ちなつ)とおしゃべりしてたみたいだった。後ろ向きに座っている――ユズちゃん脚、開きすぎ。
「おはよー。はぁやらかした。布団からなかなか出れなくて。もうなんで冬って来るの?」
「それはね、まず地球の地軸が二十三・四三度傾いていることから」
 千夏がかけている眼鏡を直して、説明をし始める。
「あ、千夏センセイ。大丈夫ですので」ユズちゃんが千夏のおでこ目がけて、軽くチョップした。千夏は舌を出して笑っている。
 川崎千夏。二年一組の学級委員長だ。時々あだ名で“センセイ”とか“キョウジュ”なんて呼ばれている。あだ名が表している通り、とっても物知りな女の子だ。定期テストではいつも学年トップを争っているし、先日結果が返ってきた実力テストでも軒並みA判定を叩きだしたらしく、その力が揺るぎないものだということが証明された。最初の頃は彼女自身「優等生」として扱われるのが苦手だったみたいだけど、二年生に上がってからは、ちょうど今みたいに自分のキャラクターをネタにして本人が遊んでいた。「センセイネタ」は、本当にどんな話題でも返ってくるし、ハマるとめちゃくちゃ面白くてクラスでも人気を博している。最近では、古川くんがライバル視しているとか、していないとか。
「センセイ! 朝起きれるようになるには、どうすればいいんですか?」
「気合い」
 私の質問はユズちゃんによって雑に跳ね返され、センセイに届かなかった。
 チャイムの音が、朝のホームルームの時間を知らせる。お行儀悪く椅子にまたがっているユズちゃんを追っ払って、私は自分の席に座った。ユズちゃんはあくびをしながら、ぺたぺたと自分の席へ戻っていった。
「ねえ茉里?」千夏が後ろから私の背中を突っつく。
「ん?」
「ユズちゃんち、もう落ち着いたの? 銭湯のおばあちゃん倒れたって、うちのお母さんが言ってて」
 振り返った千夏の表情は、彼女が唯一苦手にしている国語(苦手といっても、私よりは断然良い)のテストが返されるときみたいだった。
「ユズちゃんには聞いてない?」
「聞けないよ。さすがに」
 千夏は、自分の席で頬杖をついているユズちゃんをちらりと見た。
「大丈夫、心配しないで」私は口元で笑顔を作る。「ユズちゃんには普段通り接してくれていいから」
 先週ずっとユズちゃんは学校を休んでいたから、今クラスの関心は彼女に向けられていた。窓側の一番前に座っているユズちゃんの背中に、ちらちらと視線が浴びせられている。
「うん。なんかごめんね。たぶん、もうクラスにも結構広まっちゃってると思うんだ」
「噂好きだからね、うちの中学」
「ほんと、困るよね。でももしユズちゃんにちょっかいかけるやつとかいたら、私、委員長権限発動するから」
 千夏は両手を握りしめ、ファイティングポーズをとった。
「ありがと。千夏にそう言ってもらえると心強い――あれ?」
 ペンケースをだそうてして鞄を漁っていた私は、内容物の妙な物足りなさに気が付く。そして、改めて寝坊したことを後悔した。
「どうしたの茉里?」
「――最悪。お弁当忘れた」

 天原中の二年生は全四クラス。一クラス三十五人前後でまとめられている。ランダムに振り分けられた三十五人のはずなのに、四つのクラスそれぞれ、ある程度の色があるのが面白い。スポーツに強い子が集まっていたり、可愛い女子がかたまっていたり。
 我が二年一組については、才能が多彩な子たちが集まったと言われている。博識な千夏、運動神経の良いユズちゃん、絵が上手な佐渡原くんに、ギャグセンスのある古川くん。吹奏楽部で一緒のみなっちも一組だけど、彼女はトランペットの傍ら、ダンススクールにも通っているのだ。
 横笛が吹けて良かった。そんなふうに、こっそりと思うときがあった。
 朝のホームルームに来た三橋先生は、いつも通りだった。いつも通り日直の号令で挨拶をし、いつも通り出席を取り、いつも通り短めに、あっさりとホームルームを終えた。こういうところが、お父さんの言う「分かってる人」なところなんだと思った。ユズちゃんはホームルーム中、ずっとぼんやり窓の外を見ていた。
 一時間目から体育だ。どうせならお弁当じゃなくてジャージを忘れればよかったのに。ダサい青色のバッグのファスナーを開けると、ティーシャツと一緒にちゃんと上下セットで入っていた。
「あたしのミートボールあげるって。だからそんな不細工な顔するんじゃない」
 更衣室に向かう途中、お弁当のことをユズちゃんに話すと、そう言われてつむじにチョップをもらった。
 体育館へと続く渡り廊下は、冷たい風に吹き曝されていた。トタンでできた雨よけの屋根が付けられているだけなので、冬場はみんな駆け足でその廊下を通り過ぎていく。その度に、太い釘で打ち付けられた木製の板がばたんばたんと大きな音を立てた。
 天原中学校は、大正時代の初期に建築された木造和風校舎だったが、改装を何度か繰り返して今の姿に至る。改装といっても、立派なエントランスがあったりとか、快適な空調設備が整ったりしている訳ではない。最低限必要なところを修繕してきただけといった感じで、年季の入った木材が、今でもところどころむき出しになっていた。
 廊下に使われている木材は黒くくすんでいて、特にてかてかと光を反射しているところは滑りやすくなっている。柱という柱には、大先輩たちの下品な落書きがこっそりと生き残っていて、ときどき面白いのを見つけてはユズちゃんと大笑いしていた。掃除用具もかなり年代物だ。箒の穂先がまっすぐに保たれているものを、私はこの中学校で見たことがない。用具入れの中は軒並みひどいカビの臭いがした。
 教室に冷房はもちろんない。でも、今年の夏は特に真夏日が続いたので、授業中には取り出さないという条件付きで、うちわの持参が許可された。冬は灯油ストーブがクラスに一台置かれ、休み時間にはみんなの人気者になる。
 建設された当時は子供の数も多かったのか、空き教室が目立つ。そこには使っていない椅子や机だったり、昔の文化祭で作ったらしい看板や木の骨組みだったり、その余りのベニヤ板だったり、赤と白のストライプのコーンだったりが整然と置かれていた。誰かと秘密の話をするにはぴったりの場所だ。
 二時間続きの体育は「マット運動」という死ぬほど退屈な内容だった。開脚前転で既にギブアップの私には、体育の小西先生から出来るだけ死角になるように行動するだけの二時間になる。躍起になってバク転を成功させようとしている運動部の男子を横目に、私はユズちゃんを盾にして身を隠していた。
「茉里、中間の勉強してる?」
 ユズちゃんがジャージのファスナーをいじりながら訊いてきた。
「ううん、手付かず」
 来週の火曜に迫った中間テストのことなんて、正直ほとんど頭から抜けていた。範囲表は先週配られたと思ったけど、全然目を通していない。
「ヤバいよね。今回全然やる気起きないし、歴史とかもう爆発しそう。なんとか大名って多すぎ」
「私英語。全然単語が頭に入ってこない。不定詞もよくわかんないし」
「勉強会開いてさ、千夏に教えてもらおうよ」
「賛成」
 ふと器械運動用のマットを見ると、ちょうど千夏が伸膝後転を成功させたところだった。千夏はあんなに勉強ができるのに、運動だってそつなくこなせてしまう。歌も上手だし、笑ったときのえくぼも可愛いし、学級委員でみんなから頼られる。広い知識を生かして、面白いことも言える。
 みんなが羨ましがるようなものを、彼女は大抵持っているのだ。そう千夏に言うと、いつも穏やかな笑顔で返される。「私は茉里みたいにフルート上手に吹けないし、目も大きくないし、色白でもないから。茉里は私の羨ましいって思うもの、たくさん持ってるよ」という具合に。
 そういうオトナなコメントができるところも、やっぱり羨ましい。そして、羨ましいと思ってばかりいる自分に気がつく。そういう自分はすごく子供っぽいということに、気がつく。
「センセイ! ちょっと折り入ってご相談が!」
 ユズちゃんは列から抜けて、乱れた髪を直している千夏に駆け寄っていった。
 ほとんど体を動かしていないくせに、体育の授業を終えた頃には、なんだかひどく疲れた感じがした。ユズちゃんと千夏とは放課後に図書室に寄る約束をした。部活はテスト期間で、今週から休みになっている。
「完全下校までねばるからね。あなたたち、それなりの覚悟はあるのかしら?」と、ユズちゃんは台詞を読み上げるように言った。けど、大抵勉強会でいち早く音を上げるのはユズちゃんだ。
 教室に戻ると、私の机の上にあるものが置かれていた。
 見慣れた赤色の包みに、猫のイラストが描かれた箸入れが添えてある。
「嘘。私のお弁当だ」
 寝坊したせいで忘れてきたお弁当箱が、まるで当たり前みたいに、そこにあった。
「お母さん、届けてくれたんじゃない?」と千夏。
「よかったじゃん。今日飯抜きにならなくて」とユズちゃん。
「うん」
 ひっくり返したり、包みを開いたりしてみたけど、ちゃんと私のだ。
「お礼、言わなくちゃ」

 さて、あれは確か、ちょうど九月の始まる頃だった。
 この学校を賑わせた「座敷童」の噂は、もうほとんど過ぎ去りつつあった。一番盛り上がっていた時期には、各クラスに「デスク」がいて、廊下を走り回る「リポーター」が情報を流して、みんなその「即席マスメディア」にかじり付いていた。今ではまた新しく、十一月にある合唱コンクールのこととか、間髪いれず無慈悲にそびえる「二学期期末試験」のこととか、気の早い子たちはもうクリスマスまで話題が及び、「座敷童」のことなんてもう随分昔のことのように扱われていた。
 だから、昼休みに古川くんに声をかけられたとき、どきりとした。
「なあお前らさ――」
 机を向い合せにして、いつものようにお昼ご飯を食べていた私とユズちゃんに、古川君はちょっと遠慮がちに言った。
「この前、座敷童と話してなかった?」
 私はちょうど口に入れようとしていたウインナーを、ぽとりと落とした。ユズちゃんと目が合い、丸々五秒、ぱちくりさせた。


         ◆ ◆ ◆


 確かな設計力と、きめ細かいアフターケアが売りの「古川工務店」は、商店街の一角に事務所を構えている。繁忙期は職人さんが絶えず出入りしていて、棟梁が下っ端の若い職人さんにやたらめったら檄を飛ばしているのをよく見かける。小さい頃はそれが怖くて、そばを通らなければならないときは両耳を塞いで一気に走り抜けていた。ただ、休憩中にはみんな缶コーヒーを片手に笑い合っているから、きっと大工さんって、怒鳴るのも仕事なんだなと思っていた。
 さて、そこの長男坊が、今私たちの目の前にいる男の子。
 古川颯太郎(ふるかわそうたろう)。実際彼が真顔で話しかけてくることは、群れを率いる雄ライオンがわざわざ狩りに参戦するときくらい珍しいことだった。だっていつもの彼は、この教室が落語の寄席か何かだと思い込んでいて、勝手に人だかりを作って、休み時間をめいいっぱい使って、よく回る口でたくさん笑いを取って、そして授業中は死んだように寝ている。古川くんは、そういう星に生まれた人間なのだ。
 私とユズちゃんはお互いの目だけで、大量の情報をやり取りした。どこから話す? 最初から? 途中から? いや、話さない? 隠しておく? 嘘ついとく? しらばっくれる? それとも……モールス信号みたいにユズちゃんのまぶたが瞬く。
「おいシカトかよー。話してたろ? 駅前のベンチで」
「いや、その」
 作り笑いで古川くんを見上げたら、まともに目が合ってしまった。何か取り繕おうとしても、言葉は喉のところで渋滞していた。お盆にテレビでよく見る、帰省ラッシュの高速道路みたいになっている。
「友達だよ。私立の中学校に行ってるの」
 ユズちゃんが渋滞してる車の隙間を走り抜けた。小回りの効くバイクで、颯爽と。
「友達? お前ら座敷童と友達なのかよ!」
 本当に古川くんは、無駄に声が大きい。
「だから! 座敷童からは離れてよ! 人間だから! ホモサピエンス! オーケー?」
「紹介してくんない? おれ一回話したかったんだよな、座敷童と」
 ユズちゃんは頭をがりがりと掻きむしった。ショートを守っている古川くんは、野球部でも随一の守備範囲を誇るくせに、人の言葉を捕球する気はさらさらないらしい。
「……ってことはさ、あいつのことも?」
 古川くんが声を潜めた。彼がこうやって真面目な顔をするのは、やっぱり慣れない。
「あいつ?」ユズちゃんが首を傾げる。
 この後彼が言い放った言葉で、私たちは思い出す。古川くんは、噂を広めるのに一役も二役も買っていて、色んな尾ひれはひれをくっ付けた張本人で、目撃者の一人でもあった。
 そして実際に“見た”と言っているのは、私は今のところ古川くんしか知らない。
「いっつももろの木さまの近くにいる、緑の獣。あれのことも、なんか知ってんのか?」
 瞬間、私はほとんど無意識に立ち上がった。勢いよく床を擦った椅子が、大きな音で呻いた。
「コノが……古川くんもコノが見えるの?」
「それって、あの生き物の名前?」
「本当はもっと長い、神様みたいな名前だけど」
 コノハナノトキツミノミコト。ちゃんと覚えている。普段は端境(はざかい)というバリアのようなものを張っていて、普通の人には見えない。見えるのは、コノと同じ「木行」が開いているか、他の五行のうちどれか一つを二段階開いている人だけ。それは「神子」と呼ばれる存在で、神子は八百万の獣たちの話す言葉も聞くことが出来る。
「古川くんは、“気質”の持ち主なの?」
「キシツ? まあそんなに荒っぽい方ではないけどなあ。どちらかというと人に優しく自分に厳しく、一途に人を想うタイプで」
「違くて、五行のこと」
「ん? 何のこと?」
 話が通じない。
「ちょっとここじゃあさ」ユズちゃんが箸を置いて、辺りを見回しながら言った。「古川、野球部も今週から休みでしょ? 放課後、ちょっといい?」
「ああいいよ。場所は? 体育館裏とか? 告白だったらおれいつでも受け付けてっからさ」
 親指を立てる古川くんを、ユズちゃんは睨みつけた。
「うるさいっ。とりあえず、『サンノゴ』に来てくれる? 愛の告白よりも真剣な話」
「なあ杠、愛の告白だって、一般的には誰しも真剣だぞ」
「ああもう、面倒くさいからいちいち拾うな!」
 素早く放たれたユズちゃんの脚を、古川くんはぎりぎりで避けた。
「わ、悪いって! 一応、おれもマジだよ――夏くらいからさ、よく分かんないものが見え始めて、ちょっとどうしようかと思ってたんだ」
 古川くんのその口ぶりは、実際それほど不安そうなものではなかった。テスト前日の古川くんの方が、この何倍も狼狽していた気がする。
「あ! ユズちゃん今日はだめだよ。放課後は千夏と勉強会するって」
 体育の時間にした約束を思い出して、私は言った。図書館でセンセイにご指南いただくという予定を、危なくすっぽかすところだった。
「そっか、でも……」
 ちょっとだけユズちゃんは口に手を当てて考えた。教室の前の方で友達とお弁当を広げている千夏を見る。
「ねえ茉里」
「ん?」
 ユズちゃんの顔は、あの十月の半ば頃の「座敷童に会いに行こう」と言い出したときと同じだった。
「千夏も巻き込んじゃおうか?」
 何も知らずに笑っている千夏が、気の毒になった。ごめん、センセイ。

 誰にも聞かれたくない秘密の話をするのには、スペースの半分以上が物置になっているこの空き教室が最適である。特に、私たちが今忍び込んだ三階の三の四横の空き教室、通称「サンノゴ」は、校舎の隅っこで廊下は人通りが少ない。めいいっぱい備品が詰め込まれているので、隙間から奥の方に入れば完全に外から死角になる。しかもサンノゴの奥には畳二つ分ほどの空間があり、都合良くパイプ椅子まで置いてあるのだ。
「良かった。今日は“空席有”みたいね。まあテスト前だし」
 誰が決めた訳でもなく、この部屋にはルールが出来ていた。サンノゴを使うときは、でかでかと立てかけてある「第十三回天原中学校祭」の古い看板を裏返しておく。使いおわったら、元通り表にしておく。そうすることで「偶発性社会的不快感」を未然に防いでいる。
「中間テストの勉強には、あんまり向かない場所だよね――それに、なんで古川くんがいるの?」
 千夏は連れてこられたサンノゴの埃をかぶった机を見て、目を細めた。
「いやー参っちゃうよね! 人生がモテ期のおれもさ、さすがに一度に三人の女の子から攻め寄られると――痛っ!」
「古川うるさい! でかい声出さないで!」
 古川くんの脇腹を、ユズちゃんが肘でえぐった。
「出そう、昼食った生姜焼き、出そう」
 体を大きくくの字に曲げている古川くんを後目に、ユズちゃんは学校祭の看板を裏返した。
  奥のスペースにあるパイプ椅子に、埃は被っていなかった。三年生中心に、頻繁に利用されているのだろう。
「どっから話せばいいのかね。ホントかウソかも分かんないくらい、突拍子もないな内容だし」
 腕を組んで、ユズちゃんが窓の外を仰いだ。秋らしい、高い青空が広がっている。
 私とユズちゃんで、行ったり来たりしながらも、これまで起こったことを二人に話した。座敷童の正体は、麗徳学園に通うエリート女子中学生だったこと。この天原が、何らかの危機的な状況にあるらしいということ。それを美景ちゃんは「毒が入り込んでいる」と表現したこと。今それを辛くも食い止めているのが、他でもないもろの木さまだということ。もろの木さまにはお付きのもののけさんがいて、名前を「コノ」ということ。美景ちゃんは、直接もろの木さまの「御言葉」を聞いて、天原を救う手だてを知ろうとしていること。そして、私とユズちゃんもそれに協力しようとしていること。
 ユズちゃんは、自分の家のことも、二人に伝えた。人に話したりしたくなるような出来事は何一つないのに、まるで最近見た映画のストーリーを話すみたいに、ユズちゃんは朗々と語った。おばあちゃんの容態のことや、お父さんとの関係のことを話すユズちゃんは、時々ひどい悪態までついた。千夏が困った笑顔で、私のことをちらりと見る。
 ユズちゃんのおばあちゃんは、私のことはもちろん、実の孫の記憶もなくしてしまっていた。それを目の当たりにしたユズちゃんは、一体どんな顔をしたのだろう? 
 想像したくなかった。
「つまりだ。このちんけな田舎町で、なにやらごちゃごちゃ色んなことが起こっている。そういうことだな」
 古川くんが、ふんぞり返って腕を組む。
「格好付けて言ってるけど、全くまとまってないよ」
 私がそう突っ込んでも、古川くんはまるで決断を迫られている大企業の重役みたいな言動を続けた。
「この危機的状況を打開する。まずはこの会議室に対策本部を設置だ」
「はいはい。もういいから黙って」ユズちゃんが突き刺すように言う。
「でもさ、その美景って子が言うには、杠んとこの銭湯が守られるってのが最優先なわけだろ? その銭湯の神様がそこにいられるようにさ」
「そうね。でもそのためにはうちのお父さんが何を企んでるのか掴む必要がある。ただあの人全然うちに帰ってこないもんだからさ。何も追求出来てないんだけど」
 職場に電話してみるとか、単身赴任先の住所に乗り込んでみるとか、いくつか案が出たけど、実際どれも憚られた。もしそこまで行動を起こすとなっても、平日は難しい。少年少女たちが大活躍する探偵ものの漫画やアニメがあるけど、あの世界はどうしてあんなに自由に使える時間が多いのだろう。
「――ちょっと思ったんだけど」
 千夏が口を開いた。古川くんが「対策本部」を設置してから、初めてのことだ。
「銭湯が守られるって、どういう状態を言うのかな? 例えばちゃんと営業してなきゃ駄目とか、営業してなくても湯船にお湯が張ってあれば大丈夫とか、建物が残っていればいい、とか。『守られている』って、何を基準に決まるのかなって」
 他の三人の「あー」が、きれいにハモった。
「まあ、そう言われると、よく分かんないよなそこんとこ。よし川崎クン、君は今日から対策本部長だ。上には私から推薦しておく」
 古川くんが千夏のおでこ目がけて指を指す。
「うーん、『守られている』かぁ」ユズちゃんが天井を仰ぐ。「なんだか哲学っぽくて、図書館なんか調べたって分からなそうね。美景さんは“社”としての機能がなきゃって言ってたけど、そこ突っ込んで訊いてなかった。失敗」
 ユズちゃんの言う通り、早速情報収集で後手を踏んだ。あのときちゃんと説明をお願いすれば、美景ちゃんは生き生きと語ってくれたことだろう。こういう凡ミスで調査が滞るなんて、これだから素人は。
「いや、その美景さんも、その定義については疎いんじゃないかな」千夏センセイが手を膝の上に置いたまま、ゆっくりと話す。「その人が天原を守りたいと思っている。守るためにはユズちゃんの銭湯が“社”として機能しなきゃいけない。なら、一番大事なところを説明しないのは、ちょっと考えにくい。協力してほしいって二人に持ちかけた本人が、その“社”について詳しく話さないなんて。何か儀式みたいなのが必要だったり、こういう状態にしておくっていうのが分かっているなら、真っ先にそうしようとするはずだし」
「お前、シャーロック・ホームズか」古川くんが素に戻って感嘆した。
「私はモリアーティの方が好きかな」千夏が返答する。「――まあだから、まずはその“社”っていうのが一体何なのかを調べる。それが第一歩な気がする」
「やっぱり千夏を巻き込んで正解だった。ね? 茉里」
 ユズちゃんに振られて、私は口元だけで曖昧に笑った。
「――でも千夏、ホントにごめんね。テストあるのに付き合ってもらっちゃって」
「ううん。私のことは別にいいけど、中間テストはみんなに平等に訪れるよ?」
 ユズちゃんと古川くんが同じタイミングで頭を抱えた。

 とにかく、“社”とは何なのか? どんな意味を持って、どんな効力があるのか? おのおの宿題として持ち帰ることになって、私たち四人は解散した。中間テストが近づいてる中、なんだか課題だけが増えていく気がする。
 以前コノが言っていた。「銭湯ゆずりは」が潰れると、湯の神さまは「ホームレス」になってしまう。「ホームレス」っていう言葉が的確なのかは分からないけど、神様の居場所を奪ってしまうというのは、たぶんそれだけですごく罰当たりなことなのだろう。
 帰り道、ユズちゃんと途中まで一緒に歩いて、私はいつもの畑の畦道まで辿り着いた。すっかり辺りは暗くなり、遠くの山の稜線だけがほんのりと白んでいる。等間隔に並ぶ防風林がときどきざわりと揺れる。私のこもったような足音が、のろのろとリズムをとる。
 足を止めて、夜空を見上げた。秋は明るい星が少なくて、夏の空に比べて控えめな印象だけど、私はこの畑から見上げる秋の夜空が好きだった。分かる星座と言ったらペガスス座くらいだけど、あの四つの二等星を見つけると、なぜか私はほっとするのだ。ちゃんと今日も、あそこにある。なくなってしまったりしていない。それを確認するのが、この季節のちょっとした日課だった。
 防風林がさっきより大きく揺れた。二等星が作る四辺形がいつもの場所にちゃんとあることを見届けて、私はそっと声に出した。
「朝、私を呼んだよね? 出てきてくれませんか?」
 また、防風林が大きく揺れる。風だけのせいではない。何かが木々の間を、まるでムササビのようにすり抜けているのだ。
 分かる。あれは「木行」だ。
「あなたが『端境』意外の何かで身を隠しているなら、解いてもらえませんか? 私にはそれだけで、あなたを見ることができます。あなたと話すことが出来ます」
 その気配は、こちらを見た。注意を向けているだけでなく、ちゃんとその目で私を見たのが分かった。ひときわ大きく、防風林がざわめく。
 その時だ。
「しょ、しょ、小生は……」
 ひゅるひゅると鳴る風のような声が、かすかに聞こえた。
「い、いえ! その……本当、本当なのですか? 茉里様。小生のこの声が、き、き、聞こえるのですか?」
「――うん。ちゃんと聞こえる。でも、どうして私の名前――」
 私がその声に答えると、今度は本物の風の音がびゅうびゅう唸った。大きく捻るように、かと思ったら小刻みに震えるように。まるで過呼吸でも起こしているみたいだ。
「コノハナノトキツミノミコト殿がおっしゃっていたことは、誠だったのですね! 小生は、もう幾年もこの日を、この瞬間を夢に見ておりました! 正直に申しまして、半ば諦めておりました故に、茉里様。ああ茉里様。本当に、本当に小生は嬉しゅうございます!」
 四方八方に風が渦巻いて、気づけばそれは小さな竜巻ほどの大きさになった。風で吹き飛ばされそうになったマフラーをぎゅっと巻き直す。状況は全く掴めないけど、とにかくその声の主は、ひどく感激しているようだった。
「あの――あなたは、『八百万の獣』ですか?」
「左様でございます。茉里様」
「その、どうして私の名前を?」
「ああ茉里様。小生は、ずっとずっと茉里様のそばにおりました。さらに申し上げれば、茉里様のおばあ様のひいおばあ様が幼少の頃から、小生は津々楽家に身を寄せ、仕えておりました。茉里様のおばあ様は小生の姿を見ることが出来ましたが、こうして言葉を交わすほどのお力は、残念ながら持ち合わせておりませんでした。故に、今小生はもう言葉にすることが叶わないくらい、嬉しいのでございます!」
 その声は弾むような音程で、畑の闇に鳴り響いた。声はとても不思議な聴こえ方で、辺り一面に響いているようでもあるし、耳の奥だけで小さく振動しているようにも聴こえる。
 この声の主であるもののけさんは、どうやらうちの家にすごく縁があるらしい。コノのように、神様に仕えるのが「八百万の獣」だと思っていたけど。
「私のおばあちゃんは、確かに子供の頃『八百万の獣』を見たって言ってた。あなたのことだったんですか?」
「恐らく、そうでございましょう。おばあ様は小生と同じ、木行でした」
「私にはまだ、あなたのことが見えていない。姿を、現してくれませんか?」
 そう言った途端に、渦巻いていた風がぴたりと止んだ。
「しょ、しょ、小生の――す、姿、ですか?」
「――駄目なの?」
「いえ! そんなことはございません! そんなことは、ご、ございませんけれども、なんと申しましょうか、小生なにぶん獣でございまして、茉里様のお気に召す容姿とは恐らく相当かけ離れています故――」
 この声、本当によくしゃべる。
「おばあちゃんに見せて、私には見せられない?」
 また防風林がばさばさと揺れた。さっきから様子を窺うと、恐らく感情の起伏がそのまま風に現れるのだろう。
「そ、そのようなことは――」
「あなた、いつもそんなに恥ずかしがり屋さんなの?」
「いえ、そうではございません。確かに小生の『端境』は、他のどんな獣共にも負けることはないと自負しています。ただ本当に、なんと申しますか――」
 私の立っている畦道から、ほんの五メートルほどのところまで、その声の気配が近づくのを感じだ。でもそれ以上は距離を縮めようとしない。
「茉里様は、特別です。特別な存在なのでございます。小生は、恥ずかしながら臆してしまっているのでございます」
「特別? それって、どういう意味なんですか? 木行だから、ですか?」
「先ほど申し上げました通り、茉里様のおばあ様がまず木行でございました。『気質』を持って生まれたこと自体、非常に稀なことでございましたが、残念ながらそれは極めて微細でございました。しかし茉里様の『気質』は、おばあ様のものを遥かに上回る。最大で五段階まで、その木行の力を発現することができると、小生は推測します」
 とても恐ろしいものを語るかのような声色で、彼は言った。
 美景ちゃんは以前、私は木行が一段階開いていると言っていた。それが最終的に五段階目まで開くことが出来る、ということなのか。それは、才能があるということで素直に喜ぶべきことなのだろうか? 全然ピンとこない。
「そんな風に言われても、私には正直そこまでできるとは思えないし、全然特別なんかじゃないです。その――まだ中学生で、何の取り柄もないし」
 その声の主は、しばらくの間押し黙った。彼が感情を動かさない限り、風はとても穏やかだった。丸裸になった畑の上の空気は、気難しそうに張りつめている。
「ご、ごめんなさい。あなたはコノとも知り合いなんですよね? もし、私の能力とかそういうものを期待しているとしたら、当の本人にはまだまだ自信がないんです。社美景という人から、今の天原のことを聞いて、なんとかしなきゃって思ってるけど、何か私に出来ることはないかなって思ってるけど、まだ何にも力になれそうにないんです」
「――茉里様が気に病むようなことではございません」か細く、夜の闇に消えてしまいそうな声だ。「美景様とは、お会いしたのでしたね。小生から茉里様にお伝えしたいことが、山ほどございます。まずは、それだけなのです。そして全てお伝えした後、一つだけお頼み申し上げたいことがございます。そのために、小生は参ったのです」
 五メートル先の景色が揺らめいた。コノが隠れていたものと同じような、周りの景色と同じ絵の描かれたカーテンのようなものがめくれたのだ。
 そこに姿を現した「八百万の獣」は、最初見た瞬間、雲かと思った。一メートルに満たないくらいの大きさの、白い綿雲だ。てっぺんにオクラみたいなへたがついていて、顔も身体も見当たらない。数秒して、やっと彼は後ろを向いているのだと分かった。
「――やっぱり恥ずかしがり屋なんですか?」
「ま、待ってください茉里様! 今、今そちらを向きますから!」
 学芸会で、ステージに立つのを渋っている小学生みたいだ。
 恐る恐るこちらに身体を向けた彼は、動物で言うと「羊」だ。子羊をぎゅっと丸めたみたいな姿だった。頭から背中にかけて綿雲が生えていて、茶色い身体をほとんど覆い隠す勢いだった。
「わあ――」
「す、すみません! 茉里様! こんな、こんな威厳も欠片もない姿で――」
 彼の言う通り、確かに威厳とか神々しさとか、そういう種類のものとはかけ離れていた。手足と言えばいいのか、前足と後足と言えばいいのかすごく微妙だけど、とにかくその四足はほとんど使い物にならないんじゃないかと思うくらい小さい。申し訳なさ程度に、こぢんまりとくっついている。頭には左右に二本の緑色の角が生えているけど、くるりと内側に丸まっていて全然攻撃性がない。
 そう。彼の容姿を一言で形容するなら――
「可愛いもののけさんですね」
 私がそう言った瞬間、彼は相当ショックを受けたような顔をした。
「しょ、小生は男でございます! そんな、可愛いなどと――」
「だって――」
「小生は以前――もうかれこれ百年も前のことではございますが――今の姿よりもさらに貧相で、手も足も生えていなかったのでございます。あの頃は、きっと年月を経て力を得れば、名のある神の伴獣のように、威厳に満ちた姿になれると信じていたのです。それが、未だに小生はこのような――」
 彼はそこまで一息に言うと、途端にわんわん泣き始めた。同時に彼の周りにはまたもや風が渦巻き、唸り声を上げる。
「ご、ごめん! あなたはすごく男らしいと思う! その、角も大きくてかっこいいし。ほら、こうやって風を起こすことが出来るのもすごいと思うよ! だからさ、落ち着いて。ね?」
 巻き起こる風に飛ばされそうになりながら、やっとの思いで近づいて彼の頭に手を乗せる。およそ期待した通りの、もふりとした感触だった。
 こうやってたかが人間の女の子になだめられている時点で、彼はもう「威厳」なんてものは諦めるべきだと思った。


         ◆ ◆ ◆


「“社”とは、もちろん『神を祭る場所』という意味でございますが、この『祭る』というのが、非常に大事な意味を持つのでございます」
 綿毛のもののけさんは得意気にそう語った。
 私のベッドの上に二本足で立ち、腕を組んで――ついさっきまで、彼はまるで、風船を空に飛ばしてしまった子供みたいに泣きじゃくっていた。それをやっとの思いでなだめすかし、うちまで連れてきたのである。

「ちょっと随分遅かったわね! 急に風強くなってきたから心配したのよ」
 そう言って玄関口まで出迎えてくれたお母さんは、私の傍らに寄り添う綿雲には全く見向きもしなかった。やっぱり、普通の人には見えていないのだ。
「ごめん、ちょっと友達と勉強してて――」
 お母さんの顔を見て、私は思い出した。
「あ、そう言えばお母さん、お弁当ありがとう」
 今日の朝忘れていったはずのお弁当を、お母さんはわざわざ天原中の二年一組の私の机まで届けてくれた。
 ところが、お母さんはぽかんとして、エプロンを外しながら首を傾げたのだ。
「お弁当? 何どうしたの急に? いつも作ってるじゃない」
「え? だって私、今日の朝お弁当忘れて――」
 そこまで言いかけて、私はハッとした。
「ううん! 何でもない! い、いつも作ってくれてるからさ、ありがとうってことだよ! うん、そう――あ、すぐお弁当箱出すから!」
 きょとんとしているお母さんを出来るだけ見ないようにして、私は自分の部屋がある二階へ駆け上がった。顔から火が出そうだ。
 部屋に入って両手でドア閉めてから、私は綿雲を見た。
「ねえ、もしかして今日――」
「――ご迷惑でしたでしょうか?」
「ううん、そんなことはないの。そしたら、朝私を呼び止めようとしたのも?」
「はい、茉里様。ただ、今朝はとてもお急ぎのようでしたので。あの後少しばかり迷ったのですが、ご昼食がないと大変お困りになると思いまして、学校までお届けした次第でございます」
「そうだったんだ。ありがとう――あーもう! 超恥ずかしい!」
 綿毛のもののけさんは怯えた顔で後ずさった。
「茉里様?」
「やだもう!」
「そ、そんなことを言っては。経過はどうであれ、お母様に感謝の言葉を伝えられたのは、とても素敵なことかと――」
「かもしれないけど! でも、すっごくむずむずするのこういうの!」
 そのとき、私の名前が隣の部屋から壁伝いに呼ばれた。
「茉里ー。なーに帰ってきて早々一人で騒いでるんかぁ?」
 おばあちゃんだ。そうだ。周りからしたら、私は一人で帰ってきたのだった。帰宅直後に自室で絶叫なんて、すっごく痛い子だ。
「ご、ごめんおばあちゃん! なんでもない!」
 私はドアに寄りかかったまま、しなしなと座り込んだ。
「――疲れる」

 お弁当箱を流しに戻すとき、お母さんは珍しく鼻歌を歌っていた。顔を合わせないようにして、私はまた二階に駆け上がったのだった。
「その地に住む人々の『信仰心』で、『祭る』という行為は成り立っていると言えるのです。ただですね、茉里様。『信仰心』と聞いて、茉里様はどんな心を思い浮かべますか?」
 今日学校で話した「社」のことを訊いてみたら、綿毛の彼は待ってましたと言わんばかりに、饒舌に語り始めた。
「信仰心? うーん、何だろう?」学習机の椅子に座り直し、私は教会やらお寺やらを想像した。「なんか、神様の言うことを聞いて、それを守ってさえいれば幸せになれるんだーみたいな感じかな」
 彼は大層満足そうに頷いた。
「一般的な感覚では、おおよそそうでしょう。しかし、『信仰心』の根本は、先ほど茉里様がお母様に示したのと同じ、『感謝』なのです」
 神様の存在は、人から人へ代々伝えられる。それによって「神」という言葉に、特別な意味や感情が宿るという。言葉が単なる「記号」から、「言霊」になるということだ。そうした細やかな伝達が日々の暮らしで行われることで、神様に限らず、大切にしなければならないものがだんだんと分かってくる。その理解が、その人の人格を形作る。
「しかし、いくら大切に伝えられても『言霊』が『記号』に逆戻りしてしまうことがあるのです」
 例えば、科学。科学の力では、神を証明出来ない。いや、現代の社会に即した言い方をすると「科学の力をもってしても」という言い方になる。科学は絶対的に「正しい」のだ。
 その科学が神の存在を証明出来ず、神を否定することになれば、「神を信じる」という行為は非科学的というレッテルを貼られる。神への信仰などというものは「間違っている」ということになってしまう。「神」という言葉に宿っていた言霊は色褪せて、単なる記号と化してしまう。
「“社”は、人々が神様に感謝する場所、ということ?」
「その通りでございます」綿毛のもののけさんは、再び大きく頷いた。「その機能が働いてこそ、“社”は成り立つのです。ただ、元々それは当たり前のことだったのです。作物がたくさん穫れたり、商売がうまくいったり、子宝に恵まれたり。人々は、良いことがあったときは必ず神様に感謝をしてきました。近しい人が病で亡くなった時でさえ、天国へ行くことが出来たのだと、人々は神様に感謝を表すのです」
「うん」
「――恐らくですが、美景様はそんな当たり前のことを説明するのは野暮だと思われたのかもしれません」
 それはあり得るかもと、私は思った。
 考えた。湯の神さまに感謝している人は、この天原に、どのくらいいるんだろう?
 そして、「銭湯ゆずりは」に感謝している人は、どのくらいいるんだろう?
 いつでも熱いお湯に浸かって、疲れを癒せることに感謝している人は、どのくらいいるんだろう?
 ユズちゃんのおばあちゃんに「ありがとう。また来るね」って言っていた人は、どのくらいいるんだろう?
 そんな人たちが大勢いたら、嬉しい。そしたらきっと――
「――なんとかできるかもしれない」
「茉里様?」
「湯の神さまは、きっと優しい神様だよね?」
 彼はこくこくと頷く。
「小生、直接言葉を交わしたことはございませんが、大昔に天原を温め、冷害から救ったお方です」
「うん、そうだよね。今度はさ、天原に住む私たちが、湯の神さまを助けないとね」
「――と、言いますと?」
「考えがあるの。成功するかまだ分からないけど、私もユズちゃんのおばあちゃんに、感謝の気持ちを伝えなきゃって思うから」
 綿毛の彼は、とても優しい目で私を見つめ返した。いつもは幼稚園児くらいの、小さな男の子みたいな表情なのに、その瞬間の瞳だけは、何年も時を経てきた深みというべきものを感じさせた。
「茉里様。茉里様なら、必ず成功します。小生、ずっと津々楽家にお仕えしてきましたが、先祖代々――そしてもちろん茉里様も、『ありがとう』を言える方々でした」
「えへへ、ありがとう。あっ」
 褒められたそばから口に出てきて、なんだかこそばゆくなった。
 ちょっと、視界が開けてきたような気がする。大事なことが、分かってきた気がする。天原を守る、というのは、言い換えればこの天原に住んでいる人々を、その一人一人を信じるということなんだと思う。
 もろの木さまも湯の神さまも「信仰心」を集めているわけだけど、それは一側面にすぎない。むしろ神様たちが、私たちを信じてくれているのだ。強く強く信じてくれていて、それによって、天原を堅く堅く守ってくれているのだ。
「――そういえば、まだ訊いてなかったね。あなた、名前は何て言うの?」
 ずっと「綿毛のもののけさん」と呼ぶわけにはいかない。私は尋ねてみた。コノのときみたいに、きっと彼も神様みたいな長い名前を持っているのだろう。私はそう覚悟していた。
 しかし、その予想は百八十度はずれてしまった。
「小生、名はありません」
 きっぱりと、彼は答えた。
「――えっ?」
「八百万の獣や八百万の神々には、名前を持つものと、持たないものがおります。人間は一人に必ずひとつ名前を与えられるかと思いますが、獣たちや神々は、人に名付けてもらわなければ名を得ることが出来ません。小生のように無名の者もいれば、例えば天照大神(あまてらすおおみかみ)様のように、複数の名を持つ方も、いらっしゃいます」
 名前がない。まるで当たり前のことのように彼は説明してくれたけど、私は正直、納得出来なかった。
「あなたが生まれたときに、誰も名付けてくれなかったの?」
 綿毛のもののけさんは、寂しそうに笑って頷いた。
「小生が生まれた瞬間など、誰一人知るところではありません。正確に言うと、ある日、ある時から小生が存在していたわけではなく、人々から存在を信じられるようになって、“少しずつ”存在が固まっていったのです。そして顕現を確かなものにして下さったのが、津々楽家だったというわけでございます」
「でも、私のご先祖様は、あなたに名前を付けなかったんだね」
「それが通例です。むしろ、ご自分の家系に仕える獣などに名を付けようと言う方が、珍しいことなのです」
 誰からも名前を呼ばれず、彼はずっと生きてきた。それが彼にとって当たり前だった。
「うーん、なんだかなぁ」
「ですので、小生のことは『綿毛』とか『羊』とか、好きに呼んでいただければ――」
「ねえねえ、私が名前を付けるって言ったら、やっぱりちょっと問題あったりするの?」
 何気なく、私は訊いてみた。訊いてみてから、「間違った」と思った。
 綿毛のもののけさんは、突然ゴムボールのように天井まで弾んだ。同時にまたもや風が巻き起こる。ライトが揺れ、壁にかけてあったカレンダーが画鋲ごと剥がれた。
「ちょ、ちょっとストップ! 部屋では止めて!」
 私は椅子から立ち上がり、弾むゴムボールを取り押さようとして、そのままベッドに突っ込んだ。もつれ合ったまま何とか彼を抱え込む。
「さっきからどうしたってんだぁ?」
 隣の部屋から、おばあちゃんの怪訝そうな声が聞こえる。
「ご、ごめん! 本当に何でもないから!」
 私は平静を装って返答した。お願い、覗きにこないでよおばあちゃん――
 数秒後、何とか風は治まり、私の部屋の被害はカレンダーのみにとどめることが出来た。
「はあ――はあ、す、すみません茉里様! 小生、あまりのことに気が動転してしまいまして――」
 今にも泣きそうな声で、彼は弁明した。勢いでベッド突っ込んだにせいで、ちょうど私が仰向けになり、この綿雲を「高い高い」しているような格好になった――この綿毛、めちゃくちゃ軽い。
「名を頂くということは、八百万の獣にとって大変な名誉でございます。小生は、もう自らの名など、ほとんど諦めておりました故――」
「分かった。でもね、家の中では風を起こすの禁止。これは守って」
「――承知、致しました」
 そっとベッドに彼を着地させて、乱れてしまった髪を撫で付けながら身を起こす。
「決めた。あなたの名前、私が付ける」
 困惑している彼をよそに、私は既に考えを巡らせていた。
 後から考えても、このときは本当に不思議な感覚だった。
 記憶の奥底から、ふっと頭に浮かんだ。私がまだ幼稚園に通っていた頃、おばあちゃんから聞かせてもらったほんの数分の話を思い出したのだ。
 それは、ずっとずっと忘れていた記憶だった。それがまるで、水面に浮き上がってくる泡のように、蘇ってきたのだ。
 タンポポ。どこにでも咲いている、小さな黄色の花。おばあちゃんは、タンポポのことを「つづみぐさ」って呼んでいた。
 ――タンポポはねぇ、おばあちゃんが生まれるよりもぉっと前の江戸時代にはねぇ、鼓草(つづみぐさ)って呼ばれてたんよぉ。おばあちゃんが子供んときはねぇ、鼓草の綿毛みたいな獣がよーく家に来てて、一緒に遊んだもんさぁ。
 そうだ。私はおばあちゃんからちゃんと伝えられていたじゃないか。八百万の獣のことを。鼓草の綿毛によく似た、彼のことを。
 もしかしたら、おばあちゃんは彼のことをそう呼んでいたのかもしれない。名付けた気は全くなくとも、遊びながら何度も何度も、親しみを込めて、そう呼んだのかもしれない。
「ツヅミ」
 私はその三文字をそっと呟いてみた。
「タンポポの別名、『鼓草』から取ったんだけど、どうかな?」
 ベッドの上に突っ立ったまま、彼は震えていた。
「小生は――小生は、本当に名前を頂いてもよろしいのでしょうか?」
「良いに決まってるじゃない。気に入らなかったら、また考え直すけど」
 彼は顔を真っ赤にして、ぶんぶん顔を横に振る。綿毛が千切れてしまいそうなほどの勢いで。
「素敵な、本当に素敵な名でございます。小生には勿体ないくらいです――ツヅミ。風に乗ってどこまでも種子を運ぶ、タンポポの別称」
「そう。おばあちゃんがね、私が子供の頃に教えてくれたの」
「おばあ様――恒子様が。左様で、左様でございましたか。恒子、様――」
 とうとう彼は、本格的に泣き始めてしまった。「恒子様」という彼の声は、とても暖かく響いていた。
「もう、ホントに忙しいもののけさんだね」
「申し訳ございません――茉里様! 茉里様に頂いたこの名前、小生は身が滅ぶまで、大切に致します!」
「そんな、大袈裟な」
 綿毛のもののけさん――改め、ツヅミ。
「よろしくね、ツヅミ」
 初めて名を呼ばれた彼はぎくりとしていたけど、すぐに涙を拭いて、笑顔を作った。
「はい、茉里様」
 津々楽家の「守護霊」と言ったところだろうか。私はこのとき、妙な充実感を感じていた。
 ツヅミに出会い、彼がずっと津々楽家を見守ってくれてたと知り、私が彼に「ツヅミ」と名付けて――彼との距離をひとつひとつ縮める過程で、何かたくさんの、ぱらぱらと散らばったものが繋がった―――そんな気がしたのだ。
 ふと、私はあの白黒の世界を思い出した。もろの木さまが私に見せてくれた、色のない人々の世界。あの世界では、人々は純白に近い白から暗闇のような黒まで、「切り離された」量によって、染められていた。
 社美景――彼女の「黒」を見たとき、私は動悸がして、少し吐き気まで催して、もうあの「黒」は見たくないと思った。
 そして私の両手も、わずかに濁っていた。完全な白ではないことは、肉眼で分かった。ほんの少しの「黒」なのに、それがすごくショックで、あの世界の自分の身体を見るのはもう嫌だと思った。私が少しでも「切り離された」ことがあると、認めたくなかった。
 しかし驚いたことに、今私は、あの世界でもう一度自分を見たいと思ったのだ。
「茉里! お父さんお風呂から上がったから、先に入っちゃいなさい!」
 お母さんの呼ぶ声が聞こえる。
「ええっ! ちょっとお父さん先入ったの? 私の後にしてって言ってるじゃん!」
 ホント、子供っぽい台詞だよなと思いながらも、私は少しほっとする。


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