【一部過激な描写が含まれます】
言葉と名前
◇
言葉という存在を説明する際には、「言葉」という名詞を使わなければならない。
言葉を理解し、言葉に対する説明をする際には、言葉という言葉の名前が必須になる。
名前がない状態で、それ自身を直接対象として議論するのは、不毛としか言いようがない。
何故ならば、その義論その物が、言葉によって構成されているからだ。
「で、何が言いたいんです」
私は禿げかかった中年の准教授に聞く。
「語りえないものは、沈黙すべきと言うことですね」
そう言って、彼は押し黙り、白衣を揺らしながら薄暗い研究棟の中をゆっくりと進んでいく。
蛍光灯の周りには蛾が集まり、廊下の左右には蛾の模様と区別のつかない汚い手書きのプレートが一定の間隔で張り付いている。プレートには各々研究室の名前が書かれていて、薄汚い木製の扉の中にいる学生の性格を想像させる。
ガラス張りの校舎のずっと奥にある研究棟。
終わりが見えない長く暗い廊下の先に、彼の研究室があるという。
◇
ゲームは終盤に差し掛かっていた。
優勝候補が何人かに絞られ、メディアは生き残ったプレイヤーを探すのに躍起だった。あまりにプレイヤーに近づきすぎたレポーターが殺されることもあったけれど、レポーターの命よりも視聴率の方大事らしい。
もちろん私は候補に入っていない。レポーターに追われることもない。何故か生き残っている弱小トレーナー。最後に負ける、弱小トレーナー。それが、私。
私はミミロルのミミをカバンの奥に隠し、死んでるみたいに、生きていた。
私は学校に通わなくなっていた。
人が多いということは、それだけプレイヤーだとばれる可能性が高まるということだ。人ごみは避けるに越したことがなかった。
それに、万が一、友達のエリに何かあったら、申し訳が立たない。
プレイヤーはプレイヤーとして、傍観者たちに迷惑をかけないよう、ひっそりと身をひそめていようと思った。
だから、狭いワンルームマンションから、なるべく外に出なかった。
食事はAmazonで買った。外出は近くのコンビニだけにした。一時期、誰かに後をつけられているような感覚に襲われたことがある。それ以来、輪をかけて外に出なくなった。
きっと、今、私はひどい顔をしていると思う。
家の中にいてさえも、突然ポケモンがテレポートしてきて、私を殺しに来るように感じた。
そんな時、私はミミを強く抱きしめ、布団をかぶり、ベッドの隅にうずくまる。
この小さな聖域の中では、誰にも殺されないような気がしたからだ。
見るともなくついているテレビから、ゲームのルールが読み上げられる。
3月ルール。
同じ色のプレイヤーが2人以上残っていたら、その色のプレイヤーは、みんな死ぬ。
後2週間。逃げ切ることができたご褒美に、私は死ぬ。
それが、このゲームの、ルール。
憎かった。
私を殺しに来るほかのプレイヤーが憎かった。
このゲームを遂行するゲームマスターが憎かった。
私をここまで追い詰めた、この世界が憎かった。
あまりにも多くのものを憎みすぎて、憎くないものを探すことが難しくなった。友達のエリでさえ、私が引きこもった後、連絡をほとんどよこさなくなり、そのことが憎かった。
連絡を控えるようにと私のほうから言ったのに。
私が自分から離れていったのに。
それでも、私から離れていく人がいるのがつらかった。
◇
ゲーム終了まで、あと1週間と3日残ったある日のことだった。
大きな音がした。
それは、何かが爆発するような音にも聞こえたし、地面が陥没した音のようにも思えた。
メディアはのちに、こう呼ぶようになった。
「世界が壊れる音」と。
世界から断絶された場所に生き、世界を憎み続けている私にとっては、世界が壊れることはむしろ嬉しいことだった。大きなハンマーが地球ごと木端微塵にしてくれたらよいと思った。
しかし、世界が壊れる音がした後も、世界は残った。
私にとっての世界の終りは、1週間後に迫っていたと、いうのにさ。
◇
ノックの音がした。
チャイムではなかった。ベルは押されなかった。その人は、私の家のドアを、コンコンコンと3回丁寧にノックした。
私の家を訪ねてくるのは、彼らしかいない。
私の世界は終わったのだと思った。
世界が壊れる音と比べると、びっくりするほど小さなノックの音で、私の人生はなくなるんだなと、そう思った。
私が反応しないでいると、再度ノックされた。
ミミが布団から飛び出して、臨戦態勢に入ろうとしたけれど、私が引き留めた。そして、ミミのふわふわした体を、力いっぱい抱きしめた。
これが最後だと思った。
終盤まで生き残っているプレイヤーに、ミミロルで勝てるはずがない。
なら、せめて、私が速く死んで、ミミがけがをしなくて済むようにしてあげたかった。
レアコイルに一方的にやられた後から、最後はこうすると決めていた。
「ミミ、ありがとうね」
それから、ごめんね。
私が、弱くて。
ノックの音がした。
それから、声が聞こえた。どこかで聞いたことがあるような、滑舌の悪い話し方だった。
「あのー、山崎さん、いらっしゃいますか。できればドアを開けてもらいたいんですけれど」
誰の声なのか、最初わからなかった。ドアなんて簡単に壊せる相手だと思っていた。
ドアを壊さないのは、私をいたぶるためだと思った。
ドアの向こうにいる声の主は、大きくため息をついてから、続けた。
「山崎さん、お願いです、ここを開けてもらえませんか」
そして気が付く。
この声の主は、大学の先生だ。たしか、生物か何かの先生だったような……。
「私はね、あなたの力になれると思いますよ」
力? なんの。あと1週間で死ぬことが決まっているプレイヤーを助けることなんて……。
「私はね、別にあなたのことが好きなわけじゃあ、ありません。でもね、私は、この世界が好きなんですよ」
私は、布団から顔だけ出して、声に耳を澄ませる。
「私はね、この世界のことをもっと知りたい。この世界の歴史を知りたい。この世界がどう変わっていくか見届けたい。この世界の仕組みを知りたい。世界を動かすルールを知りたい」
ミミが一人歩いてドアへ向かっていく。
私は止めなかった。
「だから、この世界を終わらせたくはないんですよ。あなたの人生も、きっと変えることができると思いますよ」
ミミがジャンプして、ドアのカギを開ける。
ゆっくりとドアが開く。
さえない風貌の、やせた小さな中年男性が、ドアの向こうに立っていた。
「さぁ、外に出てみましょうか。あなたは、この狭い場所にとどまる必要はありません。あなたはどこにだって行けるんですから。あなたが願う場所に、思うやり方で」
先生が部屋に入る。ドアがゆっくりと閉じられる。私は布団から顔を出して、尋ねる。
「……先生は、何をするつもりなんですか?」
先生は答える。
「私はね、このくだらないゲームを終わりにしようと思っているんですよ。傍観者代表としてね。おそらく、この世界は何度か壊れていたはずです。でもね、私は、もう嫌なんですよ。この世界が、また壊れるのが。
「私の古い友人に、警察官をやっている男がいましてね。それがどうしたかって? 死んじゃったんですよ。ゲームマスターに殺されました。でもね、彼はいい仕事を一つした。彼は、このゲームを十分に混乱させた。マナフィもとてもよくやってくれました。計画はすべて順調に進んでいます。
「とても大きな変化を食い止めるためにはね、小さな変化がたくさん必要なんですよ。生物が完全に消滅するという大きな変化を食い止めるためには、何回かの大量絶滅を起こす必要があった。その大量絶滅の後に、生物たちは大きく繁栄する。生物の消滅というとてつもなく大きな変化に比べれば、大量絶滅というのは小さなものです。そして、私は、それをやろうと思っています」
先生は続ける。
「山崎さん、あなたはこの世界がこのままでいいと思いますか」
私は首を横に振る。
「山崎さん、この世界を壊してみましょう。この世界を、守るために」
そして、彼は言う。
「やってみましょうか。心配はいりません。あなたは、このゲームに、勝てますよ」
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