マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1339] 2:ここではないところ 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/15(Thu) 19:59:04   53clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

6月28日 午後2時40分
カイトはもうずっと困り果てていました。あの本を落とした次の日、学校に来てからすぐに職員室に行って、担任の先生に図鑑のことを聞いたのですが、先生は知らないというのです。裏にラベルが貼ってあるから、学校のどこかで落としたのならすぐに先生のところに届けられるはずなのに。
帰り道のどこかで落としたのでしょうか?そうするとカイトにとってはとても面倒なことになります。帰り道のどこで落としたにしても、交番に行かないといけないのです。10歳の子供にとって交番に行くのはとても勇気がいることです。家族に言って一緒に行ってもらえばまだ気持ちが楽かもしれませんが、おじいさんにもらった本を失くしたと言えば怒られるに決まっているでしょう。
どうすることもできないまま、カイトは重い気持ちで土日休みを過ごしたのでした。

週が明けても、どうしても気持ちが晴れないカイトは、放課後にもう一度リンゴの樹の下へ行ってみることにしました。この樹の下で過ごしている人を、カイトは自分以外に知りません。もしかしたら、もしかしたら、樹の影とかベンチの下とかに落としたのが、そのままになっているかもしれない、そんな儚い望みを抱いて、カイトはリンゴの樹の下へ走りました。
ところがなんと、その望みは叶えられたのです。しかも、「日本の動物図鑑」はきちんとベンチの上に乗っかっているのです。カイトは最初、走りすぎて疲れて幻を見たのかと思ったくらいです。ちゃんと触れて、裏にはラベルもあります。4年2組、大沢海斗。カイトはその名前を愛おしそうに指でなぞります。学年とクラスまでラベルに入れてくれたおじいさんに初めて感謝しました。
カイトは鼻歌を歌いながら、校庭を戻って行きました。

***
6/28 7:45PM
ユウマは家に帰ってからも、ぼうっとしていました。今日あったことが本当にあったことなのかどうか、ユウマには分かりません。もしかしたらエスパーポケモンがどこか近くにいて、その仕業だったのかもしれません。

学校が早く終わる日だったので、ユウマは学校帰りにまっすぐ自然公園に向かいました。あの本が落ちていたのはこの公園なのだから、公園に行けば持ち主の大沢海斗君に会えるかもしれないと思ったのです。
ところが、本を持って公園のリンゴの樹の下に来た途端、信じられないことが起きたのでした。

ユウマがいたのは自然公園のはずなのに、リンゴの樹の下、案内板の前に立った瞬間から、ユウマの周りは自然公園ではなくなっていました。
フェンスに囲まれた広い砂の地面、古くて錆びた遊具、半分だけ埋められたタイヤ、少し遠くに見える四角い建物。
「…学校…?」
ユウマはつぶやきましたが、でもこれはユウマの通っている学校ではありません。ここはどこなのでしょう。本当に学校だったら、この学校の子供じゃない自分がここにいていいのでしょうか。帰り道はどこなのでしょうか。
とても心細い気持ちになって、ユウマはあたりを見回しました。すぐ側にリンゴの樹があります。このリンゴの樹だけは自然公園にあったのとそっくり同じ形です。側に白いベンチがあるところは違うけれど、ユウマはそれを見て物凄く安心しました。そしてこの場所から離れることがとても恐ろしく感じられました。ここから離れたら、二度と自然公園にも、自分の家にも帰れない気がしたのです。
ユウマはひとまずベンチに座り、側に本を置きました。ユウマの他に、動く生き物の姿が何も見えません。人間も、ポケモンも。チチチ、ピピピとどこからか鳥ポケモンのような声がしますが、ポッポの声でもオニスズメの声でもありません。ユウマの学校にポケモンは連れていけないので、ポケモンは家に置いてきています。ユウマは世界で自分一人だけになってしまったような気がしました。
ユウマは途方に暮れて頬杖をつき、学校のような建物の方を見やりました。と、小さな人影がこちらへ向かってすごい勢いで走ってくるのが見えました。ユウマは驚いて立ち上がり、とっさにリンゴの樹の影に隠れようとしました。知らない子供が紛れ込んだと思われて、騒ぎになったら大変です。でもこの小さなリンゴの樹の向こう側にはフェンスしかありません。その先にはユウマの全然知らない町が広がっています。どこへ逃げよう、どうしよう、とあちこち目を泳がせているうちに、その人影はいつの間にかベンチの側まできて、それからユウマに気づかないまま遠ざかっていきました。
そっと覗いたリンゴの樹の影から、歩いて戻っていく後ろ姿が見えました。ユウマはホッとして、それからベンチに戻ろうとして、そこに置いていたはずのものが無くなっていることに気づきました。あの不思議な本が!
あの人影が持っていったに違いありません。ユウマはここが自分の知らない場所なのも忘れて人影を追いかけようと走りだしました。その途端。
ユウマは元の自然公園に戻っていたのでした。いつもと全然変わらず、大人や子供や色んな人が楽しげに行き来して、レディバが花壇の上を眠そうな顔で飛び回っています。空を見上げるとヤンヤンマが一匹ユウマの真上まで飛んできて、不思議そうにユウマをちらっと見てから180度旋回してどこかへ行ってしまいました。そんな風景の中でユウマは一人、ぽかんとした顔で立っていました。

そんなことがあったので、ユウマは何にも手がつきません。大好きなカレーだったはずの夕飯も何を食べたのやらだし、ポケモンの世話もどこか上の空です。怖かったはずのニドランの角に軽くつつかれても全然なんとも思いません。
あれは何だったんだろう。
考えても考えても、答えはすぐには出そうにありませんでした。

***
6月28日 午後7時45分
大事に図鑑を両手に抱えて帰ったカイトは、家で図鑑を広げてみて、おかしなことに気が付きました。図鑑のあるページだけが、変に開きやすくなっているのです。それはシマリスのページでした。左のページに簡単な説明があって、右は大きな写真が載っています。頬を膨らませて何かの種を両手に抱えている、いかにもシマリスといった写真です。
(シマリスを飼ってる人にでも読まれたのかな…)
カイトは首を傾げました。でも、もっとおかしなことがあったのです。そのシマリスのページの奥には、何かの毛のようなものが挟まっていました。一塊の毛玉と、バラバラの一本ずつのものが十数本。それは、とてもきれいな紫色をしていました。
カイトはそれを最初、絨毯や服、毛布、とにかくそんな感じのものの毛玉がこのページに落ちたのだと思いました。でも、もうすぐ夏になるというのに、こんな柔らかな毛玉の出るような服を着る人や、毛布にくるまって寝る人がいるのでしょうか。絨毯の毛だとしても、こんな塊の形で本に挟まるというのもおかしな話です。
カイトはしばらく指先で毛玉をいじくっていましたが、カイトの記憶にある中でその感触に一番似ていたのは、去年死んでしまった雑種犬の「ゴロ」の抜け毛でした。ゴロは夏と冬が来る度に毛がごっそり抜けて、あちこちに毛玉が落っこちて掃除が大変だとお母さんがよくこぼしていたものです。小さい頃のカイトはその毛玉を集めて丸め、雪玉のように大きくして遊ぶのが好きでした。
カイトは毛の塊をじっと近づけてみてみました。そもそもこれは作り物、なのでしょうか?
「でも紫の動物…ってなんだ?」
「日本の動物図鑑」をペラペラめくっても、紫の毛をした生き物なんか載っていません。みんな黒っぽいか、茶色っぽい地味な毛色ばかりです。野生の生き物の毛ではないのかもしれませんが、紫色の犬なんて聞いたこともありません。ネコにはロシアンブルーという種類のきれいな毛色をしたものがいますが、あれはもっともっと灰色っぽかったはずです。
カイトが知らないだけで、世界のどこかに、こんなきれいな色の生き物がいるのでしょうか。それとも新種の生き物?もう絶滅した生き物?
想像が未知の世界へ広がった瞬間、カイトは急にワクワクしてきました。その紫の毛玉がとても貴重なものに思われました。指でこねるなんて乱暴なことはもうできません。カイトは毛玉をそっと本の上に戻し、部屋中を引っくり返して、やがてタンスの奥から小さなチャック付きの空のビニール袋を取り出しました。元々何が入っていたのかは分かりませんが、今この毛玉がどこにも行かないよう閉じ込めておくにはぴったりです。
カイトは右手でそうっと毛玉をつまみ上げて、左手に開けたビニール袋の中へ降ろしました。残ったバラバラの毛も、本を机の上でトントン立てて全部落とし、これもビニール袋に入れました。それから袋の中の空気を追い出すようにしっかりとチャックをして、机の使っていない小さな引き出しにしまいました。
一仕事終えたカイトは大層満足していました。もしかしたら世紀の大発見になるかもしれない秘密を手に入れたのです。この謎の紫色の動物は、一体どこにいるのでしょうか。どんな美しい姿をしているのでしょうか。
しばらく想像に浸っていたカイトは、やがて素晴らしいことに気が付きました。この動物の毛が見つかったのは、図鑑が置かれていた場所―学校のリンゴの樹の下なのです。ということはこの動物はすぐ近くにいるのかもしれません。カイトは思わず立ち上がり、小さくこぶしを握りしめました。なんとしてもその未知の動物のことをもっと知りたくなりました。
そしてカイトは、ある計画を考えついたのです。それには木曜日まで待たなければなりませんでした。

7月1日 午後0時52分
計画の日がやってきました。この日の朝読書用にカイトは「日本の鳥類図鑑」を持ってきていましたが、この本の真の目的は、読むことではありませんでした。
昼休みがやって来るとカイトは、「日本の鳥類図鑑」を持ってリンゴの樹の下へ向かいました。そして、ベンチの上にその本をそっと置きました。言わばこの本は紫の動物をおびき寄せるための「罠」のつもりだったのです。何を食べるのか、どんな姿なのかもわからない紫の生き物についてカイトが知っているのは「図鑑の上に乗っかっていたらしい」ということだけですから、罠として使えるのはこれだけでした。動物図鑑を忘れた時、ページは開いていたか閉じていたか覚えていなかったので、汚れないように閉じたまま置きました。
そしてカイトはそっとその場を離れようとしました。
その途端。
カイトの周りは学校ではなくなっていました。

カイトは全然知らない場所に、一人で突っ立っていました。木々が立ち並び、きれいで大きな花壇があるところで、あちこちに大人や子供がいて、みんな楽しげに行き来しています。
でも、それよりも何よりもカイトの目を引いたのは、あちこちにカイトの知らない生き物がいたことでした。
人間の肩や頭の上に、ニワトリよりも少し大きいくらいの様々な色の鳥が乗っかっていたり、小さな子供がピンク色の人形みたいな生き物?と手をつないで歩いていたり。よく見れば花畑の側では物凄く大きなてんとう虫がのんびり飛び回っていて、カイトはぎょっとしましたが、歩いている人は誰も驚いていません。そこら中変な生き物だらけなのに、みんな当たり前のような顔をして通りすぎたり、肩に乗せたり、一緒に歩いたりしているのです。
カイトは自分がおかしな夢を見ているのかと思いました。そしてリンゴの樹に助けを求めるように後ずさり、体を幹に寄せました。するとカイトの足元で、けたたましい声が聞こえて、カイトは飛び上がるほど驚きました。
見れば茶色い鳥が2羽、リンゴの樹から少し離れた地面から、カイトのことを怪しげな目でじろじろ見上げています。そんなに大きくはありませんが、飛びかかられたら痛いに違いありません。カイトは鳥達の視線を受けて、リンゴの樹に張り付けられたように動けなくなりました。すると不意にその鳥のうちの一羽が、羽をバサリと広げて
「ぽっぽぅ!ぽっぽう!」
と大きな声で鳴きました。まるで、ここに怪しい奴がいるぞ!とみんなに知らせているようです。カイトは恐ろしくなって
「うわーっ!!」
と叫びながらそこから逃げ出しました。
すると、カイトは学校に戻っていました。おかしな遊園地のような場所に行ったのと同じくらい突然に。
カイトはしばらく呆然とそこに立ち尽くしていました。スズメの声がやけに大きく聞こえます。そこへ突然肩を叩かれたので、カイトはさっきの茶色い鳥を思い出して本当に飛び上がってしまいましたが、それは鳥ではなくて人間の友達で、
「お前、何でこんなとこでぼーっとしてたんだ?」
と、変な顔をされてしまいました。
「う、うん、ちょっと考え事」
と適当な返事をしながらチラリとベンチを見ると「日本の鳥類図鑑」はまだそこにありましたが、カイトはもうそこに近づく勇気はありませんでした。

***
7/1 2:25PM
ユウマはリンゴの樹の前で、どうしたものかとじっと立ち尽くしていました。
月曜日、あの不思議な場所で、誰かにあの本を持って行かれてから、ユウマは毎日学校帰りに自然公園に寄っていたのです。あの「日本の動物図鑑」がまたリンゴの樹の下に落ちていないか。もしくは「大沢海斗」君がやって来るんじゃないか。そう思って毎日リンゴの樹の側で、少しだけ待ってみたりもしたのです。
それが、どうでしょう。今ユウマの目の前にあるのは、「日本の鳥類図鑑」です。「日本の動物図鑑」とそっくり同じ形で同じ厚さですが、表紙に映っているのは、宝石のように輝く緑色をした、大きなくちばしの鳥ポケモン、ではないらしい生き物。

拾おうと一歩足を進めようとして、ユウマはふと歩みを止めました。頭の中にあの、どこまでも続く乾いた砂と、がらんどうのコンクリートの建物の光景が浮かんだからです。あの事件があってからリンゴの樹の案内板の側までは、ユウマはなるべく行かないようにしていました。あの光景を怖いと思う気持ちがずっとあったからです。
一度だけ、たったの一度だけ勇気を出して案内板の前に立ってみたことがありますが、なぜかその時は周りの景色も変わらず、まるでなんともなかったのです。と、なると、リンゴの樹の力も絶対ではないのかもしれませんが、もし今この図鑑を拾ってしまえば、またあの場所に行ってしまう。そんなほぼ直感めいた確信が、ユウマの足を地面に貼り付けていたのです。
けれど、「シマリスって知ってる?」とお母さんや友達に聞いた時の怪訝そうな反応や、ポケモン図鑑のどこにも姿を見せない奇妙な動物たちの写真、あの本を持って走り去った人影、そして今このリンゴの樹の案内板の下にユウマを誘うように落ちている「日本の鳥類図鑑」が、ジグソーパズルのように合わさってユウマの中である一つの答えを導き出していました。
つまりこの「図鑑」に載っているのはあの学校のような建物のある世界に住んでいる生き物。そしてあの図鑑を持って走り去ったのが「大沢海斗」君である、ということです。大沢海斗君のいる世界の生き物が、ポケモンとどう関係があるのかはわからないままですが、少なくともこの考えは確かな形をもって、ユウマの中で固まりつつありました。
あの事件から時間が経つうちに、心のどこかでもうあの図鑑は見つからないかもしれない、全部夢や幻だったのかもしれない、と思いたくなる気持ちも少しずつ生まれていました。しかし、「日本の鳥類図鑑」が目の前に現れた今、もうそんな事は言っていられなくなりました。この図鑑の謎を解くにも、大沢海斗君に会うにも、案内板の側まで行って、図鑑を拾ってこなければなりません。例えまたあの、寂しくて恐ろしい場所に飛ばされるとしても。
ユウマは大きく深呼吸をして、心を落ち着けました。そして、重要な事を思い出しました。自分は今、一人ではないということです。
もしもまたあの場所へ飛ばされても、心細い気持ちにならないように、あれからユウマはこっそりと、学校の決まりを破って、モンスターボールをリュックの底に入れて持ち歩いていたのです。
いざとなったら、ニドランとチコリータがいる。そう思うと怖いものがなくなりました。
ユウマは決心して案内板の前に歩いて行きました。そして周りの景色が、ふっと変わりました。

ユウマはまたあの学校のような場所に立っていました。リンゴの樹だけがやっぱり、自然公園にあったのと変わらずに側にあります。
「日本の鳥類図鑑」はベンチの上に置かれていました。ユウマはそれを拾い上げます。初めて来た時と違い、気持ちは不思議に落ち着いていました。
(やっぱりだ…)
たったの一度、何にも持たずに案内板の前に立った時のことをユウマは思い出していました。案内板の下から見る景色は全く普段と変わらない、平和な自然公園でした。ということはやはり、この図鑑こそがこの場所とあの場所を繋ぐ、パスポートのような役割をしているのかもしれません。
ユウマはゆっくりと周りを見回しました。自分以外に誰もいないような場所だと思っていたけれど、フェンスの向こう側を見ると、背の高い木が立ち並んでいて、その先には道路があるのか、沢山の車が行き来しています。そしてその手前側の歩道をユウマと同じくらいの年の子が何人か歩いているのも見えます。でも、ポケモンは誰も連れていません。
ユウマはそれを見ると急に寂しくなって、思わず背負ったリュックを開けて、モンスターボールを一つ、取り出してしまいました。そしてあたりを見回して、誰も見ていないのを確認すると、カチリとボタンを押しました。飛び出した赤い光が砂の上で、ユウマの知っている姿になりました。
「チコ?」
呼び出されたチコリータは、知らない場所でとても不安そうにしています。まるで初めてここに来た時のユウマのようです。ユウマは図鑑を自分の横に置き、代わりにそっとチコリータを抱き上げて膝の上に乗せました。爽やかな香りと暖かさがユウマを包みます。チコリータも少し安心したようで、膝の上で力を抜いて、ユウマの体にもたれかかりました。
それにしても、ユウマのいたところでは、生徒は学校にポケモンを連れてきてはいけないことにはなっているけれど、ポッポやオニスズメみたいな野生のポケモンはしょっちゅう校庭にやってくるし、そういうポケモンが危ないことをした時に追い払うために、先生がポケモンを連れてきたりもしているのです。でも今いるこの学校のような場所は、何にもいなくてまるで砂漠のようです。
いえ、ユウマは思い出しました。「日本の動物図鑑」のことを。あの図鑑に載っていた動物たちはどんな大きさだったか。その辺りの草花よりも小さな生き物が、沢山いたはずです。
きっと見えないだけで、人間以外の生き物もちゃんといるんじゃないのか。そう思った時、
「チコ!チコ!」
膝の上のチコリータが突然、落ち着きなくそわそわしだしました。チチチ、チチチと頭の上で鳴き声がしました。見ると、ユウマの手のひらほどもなさそうな小さな鳥が、ふるるる、と高く細かな羽音を響かせて、フェンスの上に舞い降りてきました。油断なく周りを見回して、ちゅん、ちゅん、とよく響く声で鳴いています。
ユウマはそれがどんな鳥なのかよく見たかったのですが、あまりに小さく、それに太陽の光が眩しいので、何となく茶色っぽい、ということくらいしか分かりません。草タイプのチコリータはこんな小さな鳥でも怖いようで、ぎゅっと伏せて身を固くしています。困ったユウマはそこで、自分の傍らにあるものの事を思い出しました。
今こそ、この図鑑が役に立つ時なのではないでしょうか。そう思って早速ユウマは図鑑を手に取りました。伏せたチコリータの葉っぱがうまい具合に本の支えになってくれます。が、表紙をめくったところに書かれていたのはこのような文章でした。

「野外で鳥を見た時、その鳥のおおよその大きさがわかると、その鳥の名前を知る良い手がかりになります。大きさの基準になる、身近にいる鳥を「ものさし鳥」といいます。本書では、スズメ、ムクドリ、カラス、ハト、トンビを基準に設定しました。例えばスズメくらいの大きさの野鳥を見つけた時には、右の検索欄の「スズメくらい」の横の四角が灰色になっているページをたどって探してみてください」

なるほどページの右には「スズメより小さい」「スズメくらい」「ムクドリくらい」「ハトくらい」…という見分け方の例と、灰色の四角いマークがずらりと縦に並んでいます。ページをパラパラめくってみると、右端にある四角いマークの色の場所で、鳥の種類が大きさから検索できる仕組みでした。
確かにこれはわかりやすいかもしれません。この世界で暮らしてきた人たちにとっては。でもユウマにとってはスズメもムクドリもカラスも、未知の鳥です。
いえ、スズメだったらオニスズメ、カラスだったらヤミカラスが、ユウマのいる世界には住んでいます。でも…
「オニスズメとヤミカラスって、そんなに大きさは違わないような…」
考えこんでいるユウマは、気が付きませんでした。ベンチの側に、背の小さな男の子が立っているのを。

***
7月1日 午後2時45分
放課後になってから、やっぱり昼間のことが気になってリンゴの樹の下へ戻って来たカイトは、呆然とその男の子を見ていました。
同い年、なのでしょうか。でも全然知らない子です。それに、あまりこの辺りでは見たことのない格好をしています。第一にランドセルではなくリュックを背負っているし、服も靴も、何となくユウマや友達のものよりしっかりした頑丈そうな感じのものに見えます。
そんな子が、ベンチに座ってとても熱心にカイトの図鑑を読んでいます。時々フェンスに止まっているスズメを真剣に睨んでいます。どうしてそんなにスズメが気になるのでしょうか。
それになんといっても、その膝の上に乗っている、へんてこな生き物は一体何なのでしょうか。全身黄緑色で、頭には大きな葉っぱが生えています。カイトは最初、その子が大きな野菜を抱えているのかと思ったほどです。大きな二つの赤い目があって、それがちゃんとまばたきするのを見て、やっと生き物だとわかったのでした。一体カイトの持っている、どの図鑑を読んだらこんな生き物が載っているのでしょうか。
変な夢の次は、見たことのない子。そしてあの変な夢から飛び出してきたような生き物。「日本の鳥類図鑑」をリンゴの樹の下に持ってきてから、おかしなことばかりが起きています。紫色の小さな毛玉一つで大発見だと喜んでいたのが、ずっと昔のようです。
とにかくこの子は、自分の図鑑を勝手に読んでいるのだから、声をかけないといけない、とカイトは思いました。
ところが声をかける前に、その子の膝の上の変な生き物が、鋭い声をあげてこちらを見たのです。

その生き物に睨みつけられたカイトも、カイトに気づいたその子も、凍りついたように動けませんでした。
おかしな黄緑の生き物は、子犬の遠吠えみたいな高い声で一声鳴いて、その子の膝の上から飛び降りると、頭から生えた葉っぱをぶんぶんと振りました。まるで、近寄るな!と言っているようです。でもカイトはその様子が恐ろしいとか怖いと思うよりも、へんてこすぎてどうしたらいいのかわからない、というのが正直なところでした。
だって、そんな変なことをする生き物なんて動物園でも見たことがないし、その生き物が必死に振り回している大きくて柔らかそうな葉っぱがカイトの体に当たったところで、全然痛そうには思えなかったからです。それどころか辺りに爽やかないい香りがしてきて、なんだかそのよく分からない生き物の様子が可愛らしいとさえ思えてきてしまいました。
が、その生き物はあまりにも突然に、カイトの目の前から消えました。その姿は一瞬で小さな赤い光になって、いつの間にか立ち上がっていた男の子の手元に吸い込まれていきました。
(ええっ?!どういうこと!?)
何が起きたのか全く分からず戸惑うカイトを、その男の子は怯えた目で見つめています。二人の間に風が一つ吹きました。先ほどまでのどこかほんわかした空気はいっぺんにどこかへ行ってしまい、恐れと緊張感に満ちた空気が二人の間をさえぎりました。

「ねぇ、」
先に声をかけたのはカイトでした。やっと出せたその声は震えています。変なことを言ったら自分も赤い光に消されそうで、とても怖かったのです。でもその子はカイトの呼びかけにびくりとして、真っ青な顔でカイトを見返しました。
「その図鑑、」
カイトは言葉を続けます。見ればその子もカイトの声と同じに、小さく震えています。けれどカイトの方だっていつ消されるかと気が気ではありません。だから次の言葉は勇気を振り絞って言わなければいけませんでした。
「僕の…」
だけどその子はカイトの言葉を聞かずに一目散にフェンスの方へ走りだしたかと思うと、不意にカイトの目の前から消えました。
「…?!」
カイトは目をこすりました。誰もいません。何もいません。目の前の光景が信じられないカイトは何度も瞬きをしました。ベンチの上には何もありません。あの子が穴が空くほど見ていたスズメも、いつの間にか逃げてしまったようです。自分が消されるかと思っていたカイトは、自分の体がそこにあることと、ベンチの上に何もいないことを、何度も確かめました。
「…オバケ?」
カイトは自分の独り言に、思わず震え上がりました。こんな真っ昼間にオバケなんておかしいような気もしますが、現に図鑑はそのオバケに持って行かれてしまったのです。あの黄緑色の変な生き物が突然消されたように見えたのも、あの生き物もオバケだからなのかもしれません。
あるいは、もう全部夢だったのかもしれません。リンゴの樹の下で見た悪い夢が、まだ続いているのかもしれません。カイトは今まで自分だけの場所を作ってくれた、頼もしいリンゴの樹が、急に、学校から打ち捨てられた幽霊のような、とても不気味なものに見えてきました。白く寂れたベンチも、字の薄れた看板も、もう何もかも怖くて仕方ありません。
カイトはぎゅっと目をつむって方向転換して、そこから一目散に逃げ出してしまいました。

***

7/1 2:50PM
ユウマは「日本の鳥類図鑑」を持っていつもの自然公園の、いつものリンゴの樹の側に立っていましたが、まるで、自分が自分でないような、世界が世界でないような気持ちになっていました。
頭の中ではサイレンのように、ユウマを責める声が響いています。
(ばか、ユウマ!これじゃあ、まるでドロボウじゃないか!人のものを持って逃げるなんて!)
今すぐにリンゴの樹の案内板の前に戻れば、あの場所に戻れるんじゃないか。この図鑑を返せるんじゃないか。そう思っても、足が地面に張り付けられたように一歩も動きません。
耳の奥にはまだあの震えてかすれた小さな声が残っています。
(ねぇ、その図鑑、僕の…)
その言葉を振りきって逃げ出してしまったユウマを、あの男の子―今では大沢海斗君だとはっきりわかったあの子はどう思ったでしょう。きっと怒っているに違いありません。
でも、それ以上に、戻れない理由がありました。それはユウマがあの場所から逃げ出した理由でもありました。
チコリータを見た大沢君が、どんな様子だったか。撫でようとも、話しかけようとも、ましてや自分のポケモンを出そうともせず、ただ困ったような顔でチコリータを見下ろしていた、あの、全身で「なんだ、こいつは?」と言っているような姿。チコリータをモンスターボールに戻した時の、あの真ん丸な目と真っ青な顔。もし4年生の大沢君がユウマと同じ10歳だとすれば、普通ポケモンやモンスターボールを見てあんな顔は絶対にしません。するとやはり、あちらの世界に、ポケモンはいないのです。
ポケモンのいないはずの世界でポケモンを出し、それを人に見られたこと自体も大変なのかもしれませんが、今はそれ以上に、あのチコリータを拒絶するような大沢君の様子がショックで、それだけでユウマの足はすくんでしまうのでした。
でも、手の中にある図鑑は、いつか返さなければならないものなのです。そしてそれができるのは「いつか」ではなく、「今」「すぐ」なのだと分かってはいるのです。なのに体はマヒにかかったように頭のいうことを聞いてくれません。そんなユウマを、通り過ぎる人たちは不思議そうな顔で見ていきます。
「ぽっぽぅ?」
いつの間にかポッポが数羽、ユウマの近くに寄ってきて、首を伸ばしてユウマの顔を覗きこんでいます。
(ポッポにまで心配されるなんて…)
ユウマは自分が情けなくなりました。そして決心しました。今から「あっち」に戻って図鑑を返し、用が済んだらすぐ戻ってくる。それでもうこのことはおしまいにしよう。
でも、もう遅かったのです。周りに人がいなくなったのを見計らって、案内板の前から大沢君の学校へ行った時には、もうそこには誰もいなくなっていました。ユウマはがっくりと肩を落とし、また図鑑を持って自然公園へ戻るしかありませんでした。


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