マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1342] 5:透明な本 投稿者:Ryo   投稿日:2015/10/17(Sat) 23:31:21   42clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

7/6 6:00 PM
ユウマが公園からの帰りにその図鑑を見つけたのは、もう落ちかけの夕陽が遠くの山に触れる頃でした。
このところユウマの学校は早くに終わります。給食もありません。午後の時間割は、旅に出るための準備や、捕まえたりもらったりしたばかりのポケモンと触れ合う時間を作るために、丸々無しになるのです。だから、授業が無しになったからといってユウマ達は暇になるわけではありませんでした。ポケモンを捕りに行ったり、バトルしたり、旅のための道具を買いに行ったり手続きに行ったり、それぞれ色々と用事があるのです。
この日のユウマは、友達同士で「旅に出るときまでにポケモンを鍛えよう」ということになって、公園でちょっとしたバトル大会をしていたのでした。といっても、ユウマのチコリータは怖がりだし、ニドランは気まぐれ。うまい具合に言うことを聞かせるのも一苦労で、バトルの成績は全然ダメでした。
(ミナト君のガーディ、凄かったなぁ…僕もあんな風にバトルできればいいのに…)
とぼとぼうつむいて歩くユウマのちょっと前を、鼻高々に歩いて行くのが、今日のバトル大会で一番の成績、全戦全勝だったミナト君です。ガーディの入ったモンスターボールを両隣の友達に見せながら、捕まえた場所やら育て方のコツやらを得意気に話して聞かせています。別に仲が悪いわけではないけれど、今のユウマはその輪に混ざる気にはなれませんでした。
下を向いて歩くユウマの視界に図鑑が飛び込んできたのは、そんな時でした。

「日本の昆虫図鑑」

リンゴの樹の案内板の下に、いつもと同じように、図鑑が置いてあります。ユウマはそれを見た途端、自分が何を落ち込んでいたのかも忘れてしまいました。ユウマが立ち止まっても、ミナト君たちは何も気付かずにおしゃべりに夢中なまま、先へ歩いていきます。それはユウマにはかえってありがたいことでした。ユウマは周りを見回し、誰にも見られなようそっと案内板の前に立ちました。
景色が移り変わります。

ユウマは夕暮れの色に染まった校庭の隅、リンゴの樹の下に立っていました。地面に落ちていたはずの図鑑はやはり、最初からそうであったようにベンチの上に置かれています。そのこと自体も不思議は不思議なのですが、それを言えばリンゴの樹以外の全てが一瞬で全く違う景色になってしまっていることがそもそも不思議なので、ユウマは不思議で頭がパンクしないように、あまり難しいことを一度に沢山は考えないようにしました。
ユウマは図鑑を拾いあげます。表紙の写真に写っているのは、何かの樹の幹につかまっている虫です。その姿はヘラクロスを小さくしたような、いや、そんな言葉では足りません。まるでお菓子のおまけについてくるオモチャのようです。こんなに小さいのにちゃんと生きていけるのかと心配になるくらいです。
ともかく、ユウマが「日本の鳥類図鑑」に手紙を挟んで返したのが昨日の朝方のことでした。そして今「日本の昆虫図鑑」がこうしてここにある理由。それは一つしか考えられませんでした。
1ページ1ページを確かめるようにパラパラと図鑑をめくっていくと、あるページに半分に折られたノートの切れ端が挟まっていました。そっと開くとそこには「始めまして」から始まる長い文章がありました。
それを見たユウマがどんな気持ちだったか。嬉しい、驚き、どうしよう、どれも合っていて、それでいてどれとも違います。一つや二つの単純な言葉では足りません。全身が弾けそうで、まぶた一つも動かせません。ユウマは自分がちゃんと息をしているのかどうかもわかりませんでした。
どれくらいそうしていたか分かりません。随分長かったような気がします。我に返ったユウマが瞬きをすると、右目から涙がつうっと流れだしたので、慌ててそれを腕で乱暴に拭いました。それから手紙が落ちないように手紙を元のページに深く挟み、その図鑑を大事にリュックにしまいました。

案内板の前に戻ってきたユウマが家へ戻ろうと歩き出した途端、
「あ!!ユウマそこにいたんだ!」
ユウマの後ろから大きな声がしたかと思うと、あちこちから
「見つかったの?」
「佐渡君、いたんだ!」
という声と共に、今日のバトル大会で一緒だった友達がバタバタとユウマの周りに集まってきました。ミナト君も一番遅れて走ってきて、ユウマの前でゼイゼイと息をつきました。
友達の一人が
「佐渡君、どこに行ってたの?いきなりいなくなっちゃったから、みんなでずっと探してたんだよ」
と、心配そうに聞きました。ユウマはとっさにうまく答えられずに
「え、ええっと、ちょっとトイレに」
と口ごもりました。すると何故か言葉の代わりに涙が頬を伝い、ユウマはまた慌てて涙を拭って何でもないふりをしようとしました。何しろ友達の前なのです。泣くのは恥ずかしいのに、何故か涙は後から後から溢れてきます。
すると友達はみんな、ユウマがバトルで負けて悔しくて、隠れて泣いていたのだと思ったのか、口々に励ましの言葉をかけてきました。ミナト君などは、今度チコリータとニドランのトレーニングに付き合う、などと申し出をしてくるほどでした。
ユウマは元々は違う理由で泣いていたのですが、みんなの気持ちが嬉しくて、もう勘違いされてもいいような気持ちで、ミナト君に肩を貸してもらって泣きました。
ユウマは夕闇の中、友達に支えられながら、家に続く十字路まで一緒に帰りました。

7/6 8:00 PM
あれほど拭っても拭っても流れっぱなしだった涙は、何故か家に帰ると同時にピタリと止まってしまいました。ユウマは何でもないような声でただいまを言うと、手を洗うついでに顔を水でビシャビシャ洗い、涙を全部洗面所に流してしまいました。
この頃は、遅くなっても家族はあまりとやかく言いません。旅に出るような年になったらもう一人前の大人ですし、その証としてのポケモンだって連れているのです。
代わりにこんなふうに言われます。
「あなたももう大人と同じなんだから、自分のことは自分で面倒見られるようにしときなさいよ。旅に出たら、暗くなっても電気とご飯とお風呂があるお家に帰れるわけじゃないんだからね」
はあい、と生返事をしてユウマは温かいお味噌汁を飲み干します。お母さんの言っていることも大事なことですが、今のユウマにはそれ以上に大事なことがあるのです。

お風呂に入り、歯磨きをして、ユウマは自分の部屋に戻ります。
そしてリュックから「日本の昆虫図鑑」を取り出し、そこから一枚のノートの切れ端を丁寧に抜き出しました。
そしてユウマは手紙の返事を読みました。上から下まで、何度も繰り返して読みました。

ポケモンのいない世界。野生の動物は捕まえてはいけなくて、「ペット」の動物はお店で買ってくる世界。ユウマにはそれがどんなものか想像もつきませんでした。
けれど、今までの図鑑に載っている生き物たちがみんな、人間の方を向いていない、向いていてもキッと睨んだような目つきばかりだった理由は、なんだか分かった気がしました。
大沢君のいるところでは、野生の動物達と人間は、住む世界がはっきり分かれているのです。きっと人間と動物たちの間で、お互いにそれを侵してはいけない、ということになっているのでしょう。
不思議なことがありました。手紙に描かれていた「犬のゴロ」の絵に似た生き物を、ユウマは「日本の動物図鑑」で見た覚えがないのです。半分垂れた耳をした、強いて言えば「ホンドギツネ」を太らせたような感じのその絵につけられた説明は
「雑種犬」「4さいの時に近所の人にもらった」「色は茶色」「『待て』が得意、ずっとできる」「時々だっ走する」
というものでした。「雑種犬」とはまた、初めて聞く名前です。これまで読んできた図鑑には野生の生き物しか出てこなかったことと合わせて考えると、野生の動物を捕まえてはいけない代わりに、それとは別にペットの動物がたくさんいるのかもしれません。そして、その中には、ポケモンに似た生き物もいるのかもしれません。
(もしかしたらこの「待て」っていうのが技なのかもしれない…じゃあタイプは…書いてないからわかんないな…やっぱ無いのかな…)
ユウマはこの「犬のゴロ」の絵と説明から、なんとかポケモンに似たところを探そうとしてみましたが、これだけでは詳しいことは何も分かりません。文章の残りのほとんどは、ユウマがどういう暮らしをしているのか、というような質問ばかりでした。ユウマの方こそ、聞きたいことはたくさんあるのに、これでは何度手紙を送り合ってもきりがありません。それに、きっかり二週間後には、もうユウマは旅に出ることになっているのです。
大沢君の方でもなんとかこちらと連絡を取りたい、会いたいと思ってくれているようで、手紙の末には、エンジュシティへの行き方を教えてほしい、と書かれてありました。でもそんなのは、ユウマの方だって知りたいことなのです。
この間ユウマは、ジョウト地方のガイドブックを買ってもらいました。ポケモンセンターや宿泊施設の場所、どの道路にどんなポケモンがいて、どんな名所があるのか、そういうことが全部詳しく書いてある優れものです。でも「日本の京都」などという地名は確かどこにもなかったし、この書き方からするとおそらく地方からして違っていそうです。そうなると旅もこれからのひよっ子トレーナーが簡単に行き着ける場所ではないように思えました。
いえ、今のところ、確実に「日本の京都」にすぐ行ける方法が、一つだけありました。その方法は手紙を読むと、どうやらお互いに知っているやり方なので、うまくすればユウマと大沢君はきちんと会って話ができるかもしれません。けれどこの方法は、お互いに分かっていないことが多すぎて、うまくいくかも分かりません。
でも、ユウマにはその方法しか考えられませんでした。ユウマは決心すると、机からまたフシギダネの便箋を取り出し、返事を書き始めました。

「こんにちは。返事をくれてありがとうございます。
犬のことや大沢君の住んでいる場所のことを色々教えてくれてありがとうございます。
前にも書いたけど、旅に出なければいけないので、手紙はもうたくさんは書けないのでごめんなさい。
それから、京都からエンジュシティへ来るやり方は、ぼくも分かりません。ごめんなさい。
でもぼくも大沢君と話がしたいので、リンゴの木の下で待ち合わせをしたいと思っています。大沢君は、休みの日に校庭に来ても大丈夫ですか?もし大丈夫なら、今度の日曜日(7月11日)の午後1時に、何でもいいから図鑑を持ってリンゴの木の下に来てください。もしダメなら、いつが大丈夫か手紙を書いてください(長くても返事がかけないので短く書いてください)」

必要なことだけを簡単に書いた手紙です。書き終えてユウマは、そういえば大沢君の住んでいる京都と、エンジュシティのカレンダーは同じなんだろうか、と疑問に思いました。でも、ユウマが早朝に公園へ向かった時は、校庭でも朝日が登る頃だったし、昼も夕方も、ユウマのところと大沢君のところで違いがあるようには思えませんでした。
大沢君のところで雪が降っていたり、木々が紅葉していたり、というのも見たことがないし、昼が一番長いこの時期の格好であの校庭にいても、寒い思いをしたことはありません。ということは、時間や季節は大体同じ、と思っていいでしょう。日にちが一緒かまでは分からないけど、もしダメなら返事をくださいとも書いたことだし、多分これで分かってくれるだろうと思い、ユウマは鉛筆を置きました。

手紙を入れる前に、また一通り「日本の昆虫図鑑」を眺めてみます。今までも大沢君のいるところの生き物の小ささに驚いてきたユウマでしたが、今回の図鑑に載っている昆虫たちといったら、これが本当に生き物なのかと目を疑うほどでした。なんといっても、表紙に映っているオモチャのヘラクロスみたいなのが、昆虫の中では一番に大きい方なのです。ゴマ粒ほどの羽虫、指先ほどのてんとう虫、花に埋もれるくらいのチョウ。虫ポケモンがこんなのだったらモンスターボールにそのままの大きさで入ってしまいそうだし、その前にモンスターボールなんてものをぶつけたら、それだけで弱って死んでしまいそうです。
「小さな虫なら勝手につかまえても大丈夫」と手紙にありましたが、確かにこんなちっぽけな生き物たちまで捕まえるのを禁止していたら、きりがないでしょう。
もしもこんなに小さくて美しいものたちを捕まえてもいいのなら…ユウマはこの小さなチョウたちを両手の中に収めてみたいと思いました。てんとう虫が人差し指の先から飛び立つのを、見てみたいと思いました。スズムシやコオロギが美しい声で鳴くのに耳をすませてみたいと思いました。
ユウマはこんなきれいで神秘的な生き物たちに囲まれて暮らしている大沢君を羨ましく思いながら、一番きれいだと思った「アゲハチョウ」のページに便箋を挟み、またリュックに戻しました。

それにしても―
本当に、こんな面白い不思議な生き物のことをだれも知らないのでしょうか。本当に、こんな精巧な生き物たちはここにはいないのでしょうか。
シマリスやニホンアマガエルのことを聞いた時は、知っている人はいませんでしたが、あの時のユウマはちらりと名前を出しただけでした。
もし、もしも。
この図鑑を見せて人に聞けば、誰か一人くらいは「あ、モンシロチョウだ、知ってるよ!」と言ってくれる人がいるのではないでしょうか。こんなに小さな生き物たちならどこにだって隠れて数を増やせるだろうし、あるいは―
ユウマの心臓がドクンと鳴りました。そもそも、この図鑑はいつもリンゴの樹の案内板の下に堂々と落ちているのに、なぜ誰も気にせず通り過ぎていくのでしょう。なぜユウマだけがいつもいつも気づいて、拾っていくのでしょう。確かに案内板の前でいちいち立ち止まるのはユウマだけです。けれど、それにしたって、これまで本当に誰も気づかなかった、なんてことはないはずです。
ユウマは再びリュックから図鑑を取り出しました。そして便箋を抜き取り、また図鑑だけをリュックに入れました。
手紙はすぐにでも出したい気分ですが、その前にどうしても確かめたいことが会ったのです。
それからいつものようにポケモン達の世話をして、眠り、次の朝を迎え―

7/7 7:35 AM
「ねえお母さん、この間こんな本を借りたんだけど」
朝の支度に忙しく、くるくる台所を動き回るお母さんに、ユウマは「日本の昆虫図鑑」を差し出してみたのです。
しかし、お母さんはフライパンの上でジュウジュウ焼ける卵焼きから目を離さずに
「なあにユウマ?借りた本なら汚すといけないから台所に持ってきたらダメでしょ」
と、相手にしてくれません。
これはダメだ、とユウマは頭の中でため息をつきました。そもそもお母さんはこういう生き物とか、ポケモンとかにはあんまり縁のない生活をしているのです。家のことをしたら近所のスーパーのレジ打ちのパートに出て、帰ったらまた家のことです。お父さんはユウマが起きるころには家を出て会社へ行き、ユウマが寝る頃に帰ってくるような生活です。これでは二人とも、ユウマの疑問には関心を持ってくれそうにないでしょう。ユウマは早々に諦めて、学校で聞いてみることにしました。

学校でのユウマはそれなりに顔が広い方でした。というより、ポケモンをもらった生徒はみんな、お互いに育て方について情報を交換しあったり、放課後にバトルをしたり、一緒にポケモンを捕まえに行ったりするので、友達の輪が広がるのです。休みの日を使ってポケモンを探しに、フスベシティの辺りなど、かなり遠いところまで行った友達もいるとも聞いています。だから、一人くらいはきっと、この昆虫たちについて知っている子がいるだろうと、ユウマは希望を持ちました。

休み時間。ポケモンの話で盛り上がる友達の輪の中で、ユウマは、みんなに見せたいものがあると言って、おもむろに図鑑を広げます。
「ねえ、これ友達から借りた本なんだけど、この『昆虫』っていうの誰か見たことある人いる?」
ユウマは、みんなの視線が開かれた図鑑のページに集まるのを感じると、そこに載っている写真を指さしました。「アシナガバチ」という、オレンジと黒の派手な昆虫が花に止まっている写真です。
一瞬だけ友達の輪がざわつきました。「スピアー…?」という小さな声が聴こえました。どう見てもスピアーとは大きさからして全然違うのに、何を言ってるんだとユウマは思いましたが、はっきり聞こえた言葉はそれきりで、みんな一斉に静まり返ってしまいました。
(あ、あれ?)
明らかに冷えた空気に、ユウマは戸惑います。顔を上げるとみんな、何を言っていいのか分からないような、困ったような顔をしています。冷や汗がユウマの背中を伝いました。まさかこんな空気になるとは思ってもみなかったのです。
(ハチだから怖いのかな…可愛いチョウなら、みんなもっとよく見てくれるかもしれない)
ユウマは慌ててページをペラペラめくり、「モンシロチョウ」のページを改めてみんなの前に広げました。
「ほら、こういうの、誰かどこかで見たことない?」
ユウマの声には焦りがありました。とにかく誰か何か言ってほしい。「知らないよ」でも「バタフリーじゃないの?」でもいいから、僕に何か言ってほしい。
でも、ユウマに向かって何か言う人はいませんでした。輪の中で、小さな声で、友達同士で戸惑いに満ちたささやきが交わされるのをユウマは聞きました。
(知ってる?)
(さあ…)
(何あれ…)
ユウマはだんだんと、いたたまれない気分になってきました。まるで自分が変なことを言っているようです。もう、さっさとこの図鑑を閉じて、おしまいにしてしまいたい、そう思った時でした。

「ねえこれ、作り物でしょ」

それはまるで授業中に先生に当てられた生徒が、正解の答えを言う時のような、ハキハキとした声でした。その声の主はカナちゃん、メガネをかけた読書好きな女の子でした。
みんなの視線が図鑑の上のモンシロチョウからカナちゃんに集まります。カナちゃんは続けました。
「前にね、こういう作り物の生き物を本当みたいに書いた本、読んだことあるの。だからこれもそういうのでしょ」
へぇー、ふぅん、そんな感じの声にならない返事が、カナちゃんの言葉に返されます。そんな中でユウマ一人が、さっきまで友達みんながしていたような顔をしていました。
「カナちゃん、よく知ってるねー」
他の誰かが感心したように言いました。凄いねー、何の本?という質問に、「妖精の飼い方」ってやつ、とカナちゃんの答える声、へー面白そう!と口々に言う女子たち。
ユウマはそんな中で一人、違う、妖精なんかじゃなくてモンシロチョウは本当にいるんだ!と大声で叫びたい気持ちでしたが、誰かが何か言う度にその声は心の中でどんどん小さくなっていきました。
「ところでさー」
ミナト君が出し抜けに話しだしました。ミナト君はこの輪にいながら、さっきから話にいまいち乗れずにつまらなそうな顔をしていたのです。
「こないだオレのガーディが『かえんぐるま』覚えたんだけど」
その言葉に、輪の友達は一斉に目を輝かせてミナト君を見ました。それからみんなミナト君に質問したり、ミナト君の話を聞きたがったりして、すっかりミナト君とそのガーディは大スターのようになってしまいました。妖精の本の話をしていたはずのカナちゃんとその友達も、どうやって?すごいね、おめでとう!と、すっかりミナト君に構いっきりになってしまい、ユウマと「日本の昆虫図鑑」は完全に話の輪から放り出されてしまいました。
やがてチャイムが鳴るとみんな慌てて、バタバタと席につきました。ユウマも図鑑を片手に、トボトボと席につきました。
授業の間もユウマはずっと、顔を伏せたままでした。
(どういうことなんだろう)
(やっぱり、本当にモンシロチョウもアシナガバチもこの世界にはいなくて、きっとシマリスもニホンアマガエルもいなくて)
(でもこれじゃ、本当に僕はおかしな人みたいじゃないか)

ユウマは今日を早送りして、明日へ行ってしまいたい気持ちでいっぱいでした。そしてそれは半分その通りになりました。ユウマはその日ずっとぼんやりしていて、家にもすぐ帰ってそのまま夕方まで寝てしまったからです。変な時間に寝たからか、夕飯にお風呂、ポケモンの世話をこなしたら、もうぐったりしてしまいましたが、ベッドに潜っても頭は変に冴えてしまって、一向に眠れる気配がありませんでした。
眠れなくて良いことがあったとすれば、図鑑に手紙を挟むのを思い出したことです。ユウマはベッドから起き上がり、机の引き出しにしまった手紙を取り出しました。
ユウマは思い出したついでに、手紙を机の上に広げ、鉛筆を取り出しました。頭の中は昼間のことでいっぱいです。ユウマは自分はおかしいことを言っていない、絶対にそうだ、そうだよね、と願うような気持ちで、手紙の最後に一文、書き足しました。
大沢君がこの文を読んで、ユウマの思うとおりにしてくれるかは分かりませんでしたが、それはユウマの切なる願いでもありました。

そして次の日、学校が早く終わるユウマが「日本の昆虫図鑑」をいつもの場所に置いたのは、ちょうど昼休みの、校庭に人が出てくるくらいの時間でした。

***
7月8日 午後0時50分
カイトは、首をひねりながら、校庭に出てきました。
昨日からいろんな人に聞いてみたのですが、「リンゴの樹の下で変なものや変な光景を見なかったか」という質問に、カイトの思うような答えをする人は、誰もいなかったのです。
ハヤタには
「は?お前、今更それ?ちょっと乗るのずれてね?」
と、キョトンとされてしまうし、他のクラスメイトに聞いてみても
「一度行ってみても何もなかったけど…なんか見間違えたんじゃね?」
「ってかニュートンの幽霊が子供なわけないしなー!誰だよ広めたやつ!お前じゃん!」
こんな調子です。そもそもあのリンゴの樹の下で見たものをニュートンの幽霊だなんて言い出したのはカイトではないのですが、なぜかカイトが広めたことになってしまっています。とにかく、リンゴの樹の下でカイトが見たものと同じようなものを見た人は誰もいなかったし、そもそも「ニュートンの幽霊」騒ぎ自体もピークを過ぎてしまったようで、リンゴの樹の下、というワードを出しただけでおかしな顔をされることさえありました。
カイトは今更自分の見たものが全部見間違いだった、全部夢だった、なんてことはもう思いませんが、こうも誰も彼もに否定されると、やっぱり自信が無くなってしまいます。
(やっぱり、僕はおかしいんだろうか)
そう思ってリンゴの樹の方を見た時でした。小さな人影がリンゴの樹の下、ベンチの側で何かをしているのを見たのは。

カイトは最初、見間違いかと思いました。なぜならその人影は、瞬きの間に消えてしまったからです。でも、「消えてしまう」ということがどういうことなのか分かっているカイトは、自分の見たものが見間違いなどではないことがすぐにわかりました。だからカイトは思い切り走りだしました。リンゴの樹の下へ。
果たしてそこには「日本の昆虫図鑑」があったのです。いつものようにベンチの上にきちんと置かれたそれは、カイトが見てきたものが幻でないことの証であり、みんなが知らない世界との唯一の通信手段でもありました。カイトの言葉が正しく伝わっていれば、きっとあの図鑑のページのどこかには、カイトの質問への答えが、不思議な生き物の絵が描かれた便箋に書かれて挟まっているはずです。
(でも―)
この図鑑は、ついさっき置かれたもの。さっき消えた人影が残していったもの。つまりさっきまでここに、佐渡君がいたということです。
(ちょっと、もったいなかったかな…)
もう少し早く校庭に出れば、もしかしたら佐渡君と直接話ができたかもしれません。けれどもし今すぐ会えたとしても、いったん話しだしたら昼休みの20分は、おそらくカイトにとっては短すぎるでしょう。そして多分、佐渡君にとっても。
だから、今はこれでよかったんだ。カイトは自分にそう言い聞かせながら、図鑑を拾いにかかりました。
カイトの周りは一瞬だけ公園になって、またすぐ校庭に戻りました。カイトは自分の周りが元の校庭であることを確認すると「日本の昆虫図鑑」のページが風でめくれないよう大事に両手に抱え、校庭を戻って行きました。

その夜―
カイトは佐渡君の手紙を前に、どうしたものかと頭を抱えていました。
その手紙には、カイトが書いた手紙に詰め込んだありったけの質問に対する答えは、何一つ書かれていませんでした。
「ジョウト地方のエンジュシティ」への行き方も書かれていないどころか、佐渡君も分からないという返事でした。
代わりに書かれていたのは、リンゴの樹の下で待ち合わせをしたい、というカイトがなるべく避けたかった方法と、一番最後になぜか書かれていた「それと、なんでもいいから昆虫をつかまえて持ってきてください」という佐渡君のお願いだけでした。何度読んでも、それだけです。
やっぱりかぁ、とがっくり頭を垂れながら、心の中でカイトは、こうなることも半分くらいは分かっていたような気持ちになっていました。
何せ佐渡君は「旅に出なければならない」ということを何度も繰り返しているのです。きっと準備も忙しいことでしょう。手紙の返事なんかいちいち書いていられないでしょうし、このまま文通が始まったとしてもそれは、20日でおしまいにしなければならないのです。20日までに何回手紙のやり取りができるか、お互いにそればかりに時間を作れるのかを考えると、カイトの方でも、もうこれは直接会ったほうが早いと思うだろうな、というのは分かるのでした。
それに「ジョウト地方のエンジュシティ」への行き方だって、リンゴの樹の下で待ち合わせ、で良かったのかもしれません。そもそも佐渡君もこちらへの行き方を知らないのだから仕方ないのですが、もしちゃんとした行き方が書かれていたとして、飛行機や船で長い時間かかる場所だったら、学校に通っている間のカイトはおそらく行けませんし、夏休みに入ったら今度は佐渡君の方が旅に出てしまうのです。
校庭のリンゴの樹だったら、それこそ毎日通う距離なのだから、問題なく行くことができます。手紙で指定されていた「7月11日の日曜日」は、カイトの町でも日曜日です。カイトの学校の校庭は、日曜日であっても、その学校の生徒なら自由に使ってもいいことになっていたはずでした。もっとも、もやしっ子のカイトは今までそんなことをしたことがないですし、明日1日学校に出て、次の日が休みで、その次の日にもう佐渡君と会う日が来てしまう、ということを考えると、それだけで緊張しすぎて倒れそうな思いでした。

こんな風で、手紙を繰り返し読みながら、良かった探しをいくつしてみても、カイトの気持ちは晴れませんでした。
カイトの疑問がすぐには解決されなかったこと。休みの日に学校に行くのを考えただけで緊張すること。佐渡君に会えるのは嬉しいけど、今度の日曜日、というのがカイトにとって早すぎて、気持ちの整理がつかないこと。
それから、今のところ佐渡君とカイトしか使えないらしい、リンゴの樹からワープするあのやり方が、どうしても「ちゃんとした行き方」に思えないこと。何か遠くに興味のあるものを見つけてもリンゴの樹の下から出られないのでは不便すぎるし、リンゴの樹が気まぐれを起こして変な場所に飛ばされたりすることがないとも限りません。それにもしカイトが佐渡君のいる方へ、佐渡君がカイトの学校へ、そんな風に行き違いになってしまったらどうするのでしょう。
それでもこの方法を佐渡君が選んだのは、佐渡君はもしかしたらリンゴの樹の力をうまく使う秘密を何か知っているから、なのかもしれません。カイトは、あのリンゴの樹は、実はポケモンの一種なのかと思ったことがありましたが、それが当たっているか、近い考えなのだとしたら、佐渡君がその力を恐れていないように見えるのも説明がつきます。そのことについてはもう、佐渡君を信じるしかありませんでした。もう返事は書けないので、霧の中でボールを投げるような気持ちでしたが、カイトは「リンゴの樹の下で」と書いた佐渡君に信頼を置くことにしました。

それにしてもわからないのは、最後に書かれた「なんでもいいから昆虫をつかまえて持ってきてください」という一文です。途中に書かれた「なんでもいいから図鑑を持ってきて」というのは、きっとカイトの周りにいる動物やら何やらについて話したいからなのでしょうが、虫についてもそうなのでしょうか。それにしたって図鑑で充分な気がするのに、なんでこんなことをわざわざ書いて頼むのでしょうか。カイトの質問に答えるよりも、これは大事なことなのでしょうか。
カイトは頬杖をついて机の上の「日本の昆虫図鑑」を眺めました。手紙が挟んであったページが開かれたままのその図鑑の上で、アゲハチョウの色鮮やかな羽が蛍光灯の灯りを受けて光っています。
(確かにアゲハチョウはきれいだけど、でもなぁ)
カイトは何だか納得がいかないまま、しばらくそのアゲハチョウを睨んでいました。

7月10日 午前10時
金曜日は、何事も無く過ぎて行きました。
土曜日、カイトは通学路から少しそれたところにある小さな川の土手へ、虫を探しに行きました。水槽だけを片手にぶら下げて、虫取り網は置いていくことにしました。チョウやトンボのような飛ぶ虫は採れなくなりますが、仕方ありません。そういう虫は虫かごに入れておくと、みるみるうちに弱って死んでしまうのを、カイトは知っていました。死んだ虫なんかを佐渡君に見せられるわけがありません。
けれどダンゴムシやワラジムシのような、地面を這っているようなのは、あんまりきれいなものがいなくて、そういう虫を見せてもつまらないだろうし、カイトは土手に腰掛けて大いに悩みました。
「やっぱり、バッタとかが普通でいいかなあ」
バッタやキリギリスならちょっと探せば見つかるだろうし、適当に草を入れておけば1日くらいは元気で過ごしてくれるでしょう。佐渡君と別れたら、そのまま逃がせばいいのですから。
ところが、探してみるとこれが意外に見つからないのです。いえ、見つかることには見つかるのですが、ぴょんと草むらの奥に飛び込むと、草に紛れてすぐに見えなくなってしまうのです。小川の土手はちょっと急なので、奥まで立ち入ることはできません。だから奥に逃げられるともうダメでした。カイトは土手沿いをゆっくり歩きながら、じっと息を殺し草むらを睨んで虫を探すしかありませんでしたが、ずっとそうしているとカイトの目にしているものが草だかバッタだか、一体全体よくわからなくなってきてしまうのでした。

カイトは疲れてしまって腰を下ろし、目をぎゅーっとつむりました。それから顔を上げると、ちょうどカイトの目線と同じ高さのところで、広い葉っぱの上に乗って、顔だけをきょとんとこっちに向けている虫と目が合いました。若葉のような色に透き通りそうな細い体、でもそのカマのような前足は、しっかりとしたハンターの証です。
(カマキリだ!)
カイトはそろそろと右手を伸ばそうとして、引っ込めました。カマキリは生きた虫を食べるのです。カマキリを採ったら、たとえ明日までであっても、エサの世話が大変です。バッタ一匹も捕まえられないでいるカイトに、カマキリのエサが捕まえられるでしょうか。
でも、ピンとお尻の先をあげてカイトの手を見上げているカマキリの子供は、なんだかとても可愛らしくて、その姿を見ていると、エサの1匹や2匹がなんだという気になってしまうのでした。
決心したカイトは、パッと右手を広げて、3センチほどのカマキリを一息にその手の中に収めました。手の中でもぞもぞと動くカマキリを水槽の中に放り込むと、辺りの草を2,3本、茎の上の方からちぎって、水槽の中に入れました。すると水槽の中で、ぴょんと跳ねるものがあったので、慌てて水槽を持ち上げて見てみると、なんともうまいことに、オンブバッタの小さいのがしきりに中で飛び跳ねているではありませんか。カマキリの子供は反対側で知らん顔をしていますが、うまくいけば明日までの食料になってくれるかもしれません。
カイトはすっかり気を良くして、水槽を持って立ち上がると、家へ戻って行きました。これで佐渡君へのお土産は完璧です。
家に帰ったカイトは、水槽の中のカマキリとバッタを見つめながら、佐渡君が昆虫を見たがった理由を考えてみましたが、「図鑑を見て、小さくて可愛いと思ったから」以上の理由がどうしても見つかりませんでした。実際、カマキリもバッタも小さいのに一生懸命動いていて可愛らしいものです。2匹とも見せたいところだけど、きっとそうもいかないのでしょう。

実際、日曜日に目を覚ましたカイトが水槽を見てみると、そこにいるのはカマキリだけになっていて、水槽の底には食べ残されたバッタの触覚らしきものが寂しく落ちていました。
カイトは気もそぞろに本を読み読み時計の針を眺めながら午前中を過ごし、12時40分に水槽と「日本の昆虫図鑑」を持って学校へ向かいました。


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