マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1379] 第三話「前途多難」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/07(Sat) 20:53:04   31clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「今日のスケジュールは……とりあえず午前いっぱいは事務所内でシングルバトルのトレーニング。午後から自主トレですが、これは外のコートに行く予定です。で、十七時から事務所のミーティング……わかりましたか?」

「あ、ええ。なんとか」

どこかぎこちない動きで064事務所の廊下を歩きつつ、悠斗は森田の説明に頷いた。
悪夢のような、いや悪夢の方がまだマシであろう出来事に見舞われた翌日。もしやするとアレは何かの間違いだったのではないか、と淡い期待を抱いていた悠斗だが、顔を洗いにいった際に鏡に映った父親の姿、および起床した自分に気がついた母親の反応でその思いは粉々に打ち砕かれた。

羽沢家の一人息子である悠斗は、泰生が家をほとんど顧みないこともあって、母である真琴と割合仲の良い母子であったのだが、今朝の彼女が悠斗に向けた反応の冷たさといったらない。いつもであれば「おはよう」の言葉に続いて二言三言の会話くらいは交わすのだが、朝に悠斗に投げかけられたのは「ああ、早いのね」という冷たい声と「朝食はそこにあるから」とのすげない台詞だった。その、いつも自分が接している相手と同一人物とは思い難い素っ気なさに悠斗は心が折れそうだったが、今の自分は真琴にとって『最愛の息子』ではなく『冷戦状態の夫』であることをどうにか思い出してその場を凌いだのである。人のことは言えないものの、両親の夫婦関係のあまりの悪さに頭が痛くなったのもまた事実だが、今はそれどころではないため考えないことにした。

「でも、良かったですよ。この前みたいに取材あったり、マルチの練習だったらたくさんの人と話すから危うかったですけど……シングルと個人トレーニングならなんとかなるでしょう」

刺々しいオーラを放つ真琴と一緒にいるのが気まずくて、悠斗は泰生、自分の身体を使っている父親が起きてくるよりも前に家を出てしまった。この一大事は母親にも伝えるべきだと彼は思ったのだが、それを止めたのは今汗を拭いながら話している森田と、今頃大学で泰生といるはずの友人、富田である。親子それぞれと付き合いの深い彼らは、羽沢家がどうにもギクシャクしているのも知っているから、話が余計にこじれるのを避けたかったのだろう。
ともかく、今は泰生として振舞わなくてはならない。悠斗は気持ちを切り替えて前方を見据える。これは自分のためでもあるのだ、しっかり『羽沢悠斗』を泰生にやってもらうには、自分も自分の役目を全うしなくてはいけないのである。

「でも不安ですよ。バトルで戦う相手の人に気づかれませんかね」
「ああ、それは大丈夫! 戦うのは相生……昨日泰さんと悠斗くんが入れ替わった時、マルチのトレーニングで組んでた奴ですが、自分のことでいっぱいいっぱいになるタイプなんでそうそう気づきませんよ。実力はあるんですけどメンタルが弱くて、あと泰さんを個人的に怖がってますんで」
「はぁ……」
「むしろ心配なのが相生のマネージャーやってる加藤さんですよ。ベテランだし肝も座ってるから、今の状態では『羽沢の様子がおかしい』ことを察しかねません」
「え、じゃあどうするんですか! ヤバくないですか」

強面を引きつらせて焦る悠斗に、森田は「ご心配なく」と指を振った。

「ですから、あまりいて欲しくないなと思いまして。先程、彼奴のコーヒーにねむけざましを三つほどぶち込んでおきました。きっと今頃……」

「あ! あ、あの、羽沢さん……と森田さん! おはようございます!!」

森田が最後まで言い終わらないうちに、廊下の角から出てきた青年が、裏返り気味の声で頭を下げた。「ああ、相生くんおはよう! 今日はよろしく」森田の言葉に、悠斗も泰生らしさを意識しつつぶっきらぼうに会釈する。
相生と呼ばれた、件の対戦相手は悠斗とそう歳の変わらない、爽やかな好青年だった。清潔感のある風貌と整った目鼻立に悠斗は素直に羨望の混じる憧れを覚えたものの、しかし悠斗(つまり相生からしてみたら泰生である)に対し明らかに怯えきっているその様子で、せっかくのイケメンも形無しであると思わざるを得なかった。そうしょく系だとかフェアリー系男子だとかの需要はあるにしても、これではもはや、それすら通り越して単なる情けない奴である。泰生のことを考えると気持ちはわかるとはいえ、流石に肉親をここまで恐れられては悠斗も複雑な心境であった。

そんな悠斗の気持ちなどわかるはずもなく、相生は怯えたままの口調で続ける。

「あの、申し訳ないんですけど……加藤さん、なんか急に動悸が止まらないとかで医務室行っちゃって、今からのトレーニング来れないみたいなんです……」

……ねむり状態のポケモンを即時覚醒させる『ねむけざまし』。そんなものを三つも四つも、しかも人間が摂取したら血圧上昇もするだろう。

人畜無害そうなツラをしておいて恐ろしい男である。「ええ! 大丈夫かな、加藤さん。あとで僕も様子見にいってみますね」何食わぬ顔で、相生を心配するようなことをのたまっている森田を横目で見て、悠斗は内心で戦慄した。





「ここが大学か……」

一方、タマムシ大学構内。昨夜「ジャージで大学行くな、これとこれとこれを着てこれ被ってけ」と悠斗にコーディネートされた今時風の服に身を包み、今や男子大学生である泰生は大きな学舎を見上げて呟いた。

あの信じがたい出来事から夜が明け、洗面所で現実を再認識した後、泰生が一番に驚いたのは妻の態度である。妻の真琴が一人息子の悠斗を可愛がっていたのは承知の上だし、その悠斗の姿を今の泰生はしているのだから当然と言えば当然だが、いつも真琴が泰生に向けるぜったいれいどのそれとは大違いだったのだ。「おはよう、悠斗」という言葉と共に浮かべられた柔らかな笑顔など、一体いつから泰生の知らぬものとなっていただろうか。どうやら先に家を出てしまったらしい悠斗のいないテーブルで、朝食を一緒に食べながら和やかに会話を交わしていると(もっとも泰生のぎこちなさは否めないが)、在りし日、彼女と恋人であった時のことを思い出さずにはいられなかった。

「侵略しにきた異世界人みたいなこと言ってないで、早く歩いてください。なにぼんやりしてるんですか」

そんな、うっかり感傷に浸っていた泰生に冷たい声が投げかけられる。その主は悠斗の友人、富田であり、この衝撃的事実を共有する数少ない一人として泰生のサポートについているのだ。長い前髪で隠れた目元や淡々とした喋り口は、泰生とはまた違う意味で無表情、無感動な印象を与えるが、しかし今の彼からは明確な苛立ちと不躾さが読み取れる。険悪な両目と視線がぶつかった泰生は自分のことを棚に上げ、「なんだ」と不機嫌な声で返した。

「初めて見るんだから仕方ないだろう。何故、そんな失礼な口を聞くんだ」
「失礼にもなりますよ。いいですか、羽沢さん、あなたには悠斗のフリをしてもらうんです。悠斗は大学見上げて『ここが大学か』なんて言いませんし、そんな凶悪犯みたいな表情もしませんからね。悠斗のイメージが損なわれるようなことがあったら困りますし、もしそうなったら」

富田はそこで言葉を切る。泰生――見た目は悠斗だが――よりもやや上にある二つの瞳が、得も言われぬ光を放って泰生を見下ろした。その眼力に思わずひるみ状態に陥った泰生は、ふん、と面白くなさそうな顔をしてそっぽを向く。
泰生が黙ってしまったのを見やり、富田は「まあ、俺もですね」と相変わらずの冷たさを保ちつつ口を開く。

「出来る限りの協力はしますよ。悠斗が困るようなことにはならないよう……元に戻れたときに、悠斗が苦しむ羽目になんてならないために。そのためには何だってするつもりでいますから」
「はっ……その心意気だけは立派だな。森田にも見習ってほしいところだ」
「悠斗は俺の親友ですからね。あ、その笑い方はやめてください。悠斗は男女先輩後輩教授事務員その他誰とでも仲良くなれる、明るい人気者として通ってるんですから」

早速指摘を入れてきた富田に、泰生はげんなりした顔をする。が、これも自分のリーグ出場のため、『羽沢泰生』を悠斗にしっかりやってもらうためだと言い聞かせ、表情筋をリラックスさせるという慣れないことをどうにかやってのけた。
と、そんな二人の横を数人の学生達が通っていく。取り留めのない会話をしながら走っていく彼らと共に、彼らのポケモンだろう、ガーディやニャルマーも楽しそうに駆け抜けた。その微笑ましいポケモン達の様子に泰生はつい心と口許が緩んだが、「でも大のポケモン嫌いとしても通ってるんですよ」とすかさず横槍が入ったのは言うまでもない。





「では、羽沢泰生と相生翼の対戦を始めます!」

064事務所のトレーナー達が集まってそれぞれバトルを繰り広げるコートで、ジャッジ役の森田が号令をかけた。何本かの白線を挟んだ向かい側にいる、緊張のせいで顔が面白いくらいに白くなってしまった相生を見据え、悠斗は心の中で重い溜息をついた。ポケモンバトルなんて、中学の授業の一環でちょろっとやったきり一度たりともしていない。どうにも情けないとはいえ相手はプロのトレーナーなのだ、いくら泰生のポケモンだからといって、まともに戦えるのだろうか。そんな不安が悠斗の胸を渦巻く。
しかし一番大変なのは自分ではなくポケモン達なのだ。せめて何が起きているかだけはわかっている自分がしっかりしなくてどうする――そんな風に言い聞かせ、気を引き締めた悠斗はキッと前方を睨んだ。

「では……両者、始め!」

掛け声と同時にボールへと手をかける。そのまま天井へ向けて大きく振り投げる、真向かいの相生が血の気の無い顔をしつつもスマートに投球したのは流石というべきか。対峙するトレーナー二人の間に、紅白の球体から放たれた閃光が舞う。

「えー……いけ、ヒノキ」

悠斗が投げたボールから飛翔し、堂々たる登場をかましたのは真紅の両翼が自慢のボーマンダだった。ヒノキと名付けられたこのメスの龍は、タツベイだった頃から泰生が手塩にかけて育てた懐刀である。勇ましい咆哮をコートに響かせ、天井付近を舞う彼女はまさしく、今から始まるバトルに血湧き肉躍るといった感じだ。

とはいえ。悠斗は内心冷や汗を流す。昨夜、今朝とボーマンダとコミュニケーションを図ったのだが、やはりイマイチ困惑しているという様子だったのだ。シャンデラと同じで、一応見た目で判断しているものの『何かおかしい』というのはわかっているようで、悠斗が呼んでも、泰生が声をかけても、そのどちらにも戸惑っているらしかった。
こんな状態で乗り切れるのだろうか。悠斗はまたしても不安に陥ったが、悠然と飛ぶボーマンダの姿にその気持ちを振り払う。とれる方法は他に無いのだ、やってやれ、ええいままよ。と、割合思い切りの良い彼は拳を固める。

「よろしく頼むよ、クラリス!」

一方、対する相生が繰り出したのは、昨日のマルチバトルでも戦っていたニンフィアだ。上空から睨みつけるボーマンダの眼光に、可憐な容姿の彼は一瞬気圧されたかのようだったが、すぐに姿勢を正して真っ向から見返した。

ふふん、運が悪かったようだね、相生くん。ハッキリ分かれたタイプ相性に若干安心したのか、僅かに表情を弛緩させた相生に森田は密かな笑みを浮かべる。確かにボーマンダとニンフィアは最悪とはいかずとも相性が悪い、タイプから考えればこの勝負、相生が一歩リードしているように思えるだろう。
――でも、そうはさせないのが泰さんなんだよね!
心の中で大きく胸を張りつつ、森田はそう思う。ドラゴンタイプを使っていればフェアリーで攻められるのは当たり前、対策を練っておくのは基本中の基本。先制して火力で押し切るのも不可能ではないが、抜かれることも少なからずあるため今ひとつ不安が残る。ハンパなフェアリーであればそらをとぶやじしんでどうにかなるにしても、その慢心を許さないのが羽沢泰生である。だからこそ仕込まれたあの技、最悪こおりにも撃てるウェポンなのだ。

(さあ、悠斗くん! アイアンテールでやってしまえ!)

先ほど、悠斗には泰生のポケモン三匹が使う技をしっかり教えてある。複雑な戦法などはまだわからないにしても、とりあえずタイプ相性で考えてこの技しかないだろう。どのみちヒノキのメインウェポンであるドラゴン技は使えないのだ、残る選択肢はこれしかない。

「よし、ヒノキ――」

早速指示を飛ばす悠斗に、飛翔するボーマンダが闘志にみなぎるように身体を震わせた。その後に続く技の名前をボーマンダも、森田も、そして一瞬遅れた相生たちも待ち構え、



「げきりんだ!!」



「ハアアァァァァァァ!?」



そして、一様に耳を疑った。





「あー、悠斗くんおはよー!」
「うーっす、羽沢!」
「おはようザワユー!」

富田に連れられて教室へと辿り着いた泰生は、次々に声をかけてくる学生達に辟易していた。何故若者というのはこんなに騒がしいのか、それも相生など事務所にいるようなトレーナーよりずっとうるさい。この、大学生という種族は、どうしてこれ程までにさわぐのかと、泰生は甚だ疑問だった。
「よー、ゆうくん。元気ー?」そんな泰生に声をかけてきたのは一人の男子学生である。ワックスで固められたヘアセットの逆毛だった様子に、泰生はサンドパンのことを考えた。サンドパンは、あの棘もさることながら真っ黒の吊り目がまたいいものだ。懐くと棘を寝かせてそっと擦り寄ってくるのも可愛らしくてよい。

「ん」

しかしこの男にそうされても何一つ嬉しくないだろう。そう思いながら、泰生は短い撥音――『ん』は肯定の意――をして「問題無い」と短く言った。

「やだ羽沢、何それ! 超笑えるんだけど」

ふてぶてしいというよりは、本物の悠斗との乖離のせいでどうにも演技がかったように感じられるその言葉に、近くにいた女子生徒が大きな笑い声をあげた。声をかけた男も、悠斗らしからぬその様子に「何だよキャラチェンかぁ?」と笑いながらバシバシと泰生の肩を叩く。その隣では終始無言の富田が苛ついたように舌打ちをしたが、そのどれも気に留めず泰生は憮然とするだけだった。不機嫌なその表情は元の身体だったらさぞかし敬遠されたであろう迫力だが、その理由は単純なもので、授業開始が近づくにつれて学生達がポケモンをしまったことが残念だったというだけである。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、「はいはいみんなおはよう〜」と言いながら講師が教室に入ってきた。気の抜けた感じの喋り方をするその男は森田よりも少し若いくらいだろうか、大学で教鞭をとる人といえば皆年季の入った老人である、という固定観念があった泰生は「おい、富田」と横に耳打ちする。

「随分と若いヤツだが、あれも教授なのか? タマムシ大学とはあんな軽薄な男を教壇に立たせる場所だとは思っていなかったのだが」
「滅多なこと言わないでください。別に教授だからってみんな歳いってるわけじゃないですよ、若かろうがチャラかろうが教授になれる人はなれますから。まあ、あの人は教授じゃなくて外部から来てる講師の方ですけど」
「講師? なんだ、大学ってのは研究をするわけじゃないのか?」
「そういう時間もありますけど、この授業は一般教養の授業なんです」

「テキストはこれで、悠斗は確か……ああ、これです、青いファイルにノート入れてます」と、富田の小声に言われるままにして鞄を漁る。指示通り取り出したテキストには、『数学の世界へようこそ』という面白みゼロのタイトルと、ハイセンスな感じの幾何学模様が描かれていた。

「単位の関係で、こういう授業も取らなきゃいけないんです。まあ、理系の専攻じゃないですし、内容は中学……いっても高校一年レベルですから。ES対策も兼ねてて、その程度ですよ」

ふうん、と、富田の説明をほぼほぼ聞き流した泰生は曖昧に頷く。あれほど騒いでいた学生も結構な静けさとなっており、パラパラとめくったテキストが立てる微かな音もしっかり聞こえた。
「はい、じゃあ五十二ページからね〜」相変わらずふわふわした声で講師が授業を始め、「じゃあ、ええと……羽沢君、解いてみて」と泰生を指名した。よりにもよって、と一度は頭を抱えかけた富田だが、問題を見て思いとどまる。『Aさんは毎分60mの速さで歩いて家を出た。その15分後にAさんの弟が自転車に乗り毎分180mの速さでAさんを追いかけたとき、Aさんの弟は家を出て何分後にAさんに追いつくか。』……速さの基礎が出来てれば簡単に解けるだろう。講師が適当に悠斗を指したのも、それほど時間のかからない問題だと踏んでのことだ。
まあ、考え方などを問う厄介なところであてられるよりもマシである。富田はそう考え、小さく溜息をついて自分のテキストに視線を落とした。別に答えるだけだし、こんな心配取り越し苦労に――


「わからん」


「………………え」



が、取り越されなかったようである。
はっきりと言ってのけた泰生に、講師も他の学生も、そして富田も目をぱちくりさせて彼の方を見た。


「自転車など使うより、ひこうポケモンに乗って追いかけた方が速いのではないか?」


そして視線を一点に集めた泰生は何も臆することなく、自分の信じるままを堂々と答えたのであった。





予想だにしない発言により、コートの全員が時間を止めた中、最初に動いたのはボーマンダだった。
普通に考えてありえない指示だったが、しかし彼女にとっては唯一無二の主人の命令でもある。一瞬迷いはしたもののすぐにその身体を翻し、ボーマンダはニンフィア目がけて急降下していく。咆哮と共に全身から放たれた、熱量を持った殺気を纏って突進するその様子は逆鱗というよりもむしろ困惑極まれりといった感じであったが、どちらにしろかなりの勢いに満ちているのには変わらない。飛ぶ鳥も蹴散らすかのようなそれにニンフィアと相生、森田、それに悠斗も言葉を忘れて固まった。ボーマンダがより一層強く嘶く。恐ろしいまでの激情を溢れさせる竜が喰らい尽くさんばかりの力で、小さな精霊との距離をゼロにした。

「でも効かないものは効かないですよね!!」

「え!? なんで!? なんであのポケモン全然平気なの!?」

……しかし、やはりというか何というか、ニンフィアはどこか困りきったような顔をして、痛くも痒くもない状態でコートに立ったままだった。
その横では、流星の如き勢いでニンフィア、というか床に突っ込んだボーマンダが頭の上に星を浮かべて目をチカチカさせている。彼女のげきりんがまさに放たれんとしたその瞬間、ニンフィアの全身を目映い桃色の光が覆いつくし、ボーマンダの軌道を無理矢理に逸らしたのだ。

「ちょっとー!? なんで駄目だったんだ、アレか! 聞いたことがある、『外した』ってヤツか!!」
「違いますよ何言ってんですか!? フツーに相性の問題です、ドラゴンはフェアリーに無効なんですよ!!」
「はぁ!? 何それ!?」
「え……えと……よくわからないけど、いいのかな……これは」

何が起こったのか理解出来ないらしい悠斗と、あまりの衝撃に血の気を失っている森田が叫び合っている脇で、蚊帳の外となった相生が次の行動を図りかねる。勝手に突っ込んでこられて勝手に自滅されたニンフィアもまた、目を回すボーマンダを横にしてオドオドするしかないという有様だ。その、何とも馬鹿らしいコートの様相に相生は数秒の間戸惑いを露わにしていたが、やがて覚悟を決めたように呟いた。

「ク、クラリス……ムーンフォース」

ものすごく遠慮がちに告げられた指示に、ニンフィアもまた控えめな動きで技を発動する。室内だというのに月光のような美しい輝きが彼の周りに収束し、神聖な雰囲気を醸し出した。
長い耳、細い四つ脚、そして可愛らしい触覚の先端までその光が満ちる。そして一気にニンフィアの頭上に纏め上げられたそれは、明らかな質量を伴って、横で転がるボーマンダへと衝突した。ああ! と悠斗が声を上げる。

「どうなってんだよ……さっきのは何も起きなかったのに、どうしてアイツのはこんなに、一発で倒れちゃうんだ!?」
「どうもこうもありませんよ!! フツーにタイプ相性の問題だっつってるでしょーが!! 流石に確一だったのはキツいですけど、それはさっき床に頭ぶつけて無駄な体力使ったせいです!!」
「な、なんだよそれ……わけわかんねぇ……」
「わからないのは悠斗くんの頭ですけどね!? とりあえずここはポケモン交換して! 次いきましょう!」

ムーンフォースによって、二度目の転がりを呈したボーマンダをボールに戻して悠斗は頭を軽く振る。何がどうなっているのかさっぱりわからないが、過ぎたことを気にしても仕方ないだろう。気持ちを切り替えてやるべきだ、と、恐らくこの場で一番混乱しているだろう相生を見据えて悠斗は一人頷いた。
悠斗は割と思い切りがよく、見切り発車をかます男である。高校時代にはマッスグマと暗喩されていたことを知らない彼は、二つ目のボールを天へ向かって高く投げた。

「ミタマ! 頼む!」

赤い閃光と共にボールから現れたのは、火炎の熱と霊力による冷気のどちらをも持ち合わせるゴーストポケモン、シャンデラだ。昨日の一件から、自分のトレーナーの様子がどうにもおかしいことを一晩気に揉み続けている彼は納得のいかない表情をしていたが、蒼い炎に包まれたそれを気に留めてくれるほど余裕のある者は、今この場にはいない。眼下に見える、いつもと比べてやけに声が大きい泰生にシャンデラは嫌な予感しか覚えなかった。
「シャンデラかぁ……」その正面で、相生が苦々しい顔で呻くように言った。一瞬迷ったような時間を置いた彼は、「クラリス!」と声をかけながらボールに手をかける。

「一回戻って! 交代だ、ジャッキー!」

ニンフィアがボールに吸い込まれると同時に投げられた、新たなボールに入っていたポケモンがコートに降り立つ。木の幹のような体躯と、果実に似ている両腕の先。とぼけた顔は愛嬌があり、観賞用としても人気のポケモンだ。

(ふむ、エースのニンフィアは温存しておこうってわけですか)

どうにか落ち着いてきた森田はそんな予測をする。シャンデラと相性が良いとは言いがたいから、もっと戦える相手と交換してきたのだろう。タイプ一致もこうかばつぐんになるし、確かあくタイプの技も使えたはずだ。楽に倒せはしないまでも、出来るだけ削ってやれという魂胆に違いない。
しかし、泰生のシャンデラはエナジーボールを習得済みだ。それをくさタイプの技だと悠斗が認識しているかどうかが一抹の不安だが、オーバーヒートという明らかなほのおわざは流石に選ぶまい。まあ、エナジーボールを使わないまでもシャドーボール辺りを決めてくれればそれはそれで……



「よし、どう見ても木っぽいし、あのポケモンはくさタイプだな! くさにほのおが強いことくらいは知ってる……よし! ほのおっぽい名前してるからこれだな、ミタマ! オーバーヒートだ!!」



「金銀発売当初にしか通用しない間違いしてるんじゃねーーーーーよ!!」





森田は混乱のあまり、よくわからないことを言った。





「ええと、羽沢くん……?」

静まり返った教室で、講師が困り笑いを浮かべて問い返す。しかし泰生に悪びれた様子は欠片ほども見られない、本人だけが大真面目であった。

「だから言ってるだろう。分速百メートルだか二百メートルだか知らんが……自転車よりもポケモンの力を借りた方がずっと速く追いつけるし、安全だ。街中で乗るならばピジョットやトゲキッス、それかメブキジカなどがいいかもしれない。ただしフワライドは……」

「ハハ、ええと……面白いよ! は、羽沢くん」

口調も思考回路も言っていることも何もかもがおかしい泰生に、ついついポカンとしていた講師は無理に引きつった笑いを浮かべてその答えを遮った。その言葉につられ、ワンテンポ遅れて教室の学生達も作った笑い声を上げる。どう考えても笑っている場合などではなかったが、明らかにおかしい『羽沢悠斗』に皆戦慄し、この現実を直視するのを本能が避けたがったのだ。人間、最も恐れるものはわけのわからないものなのかもしれない。
「俺は真剣に――」そんな皆の様子に気づかない泰生は尚も食い下がろうとしたが、静かに、しかし非常に強い力で腕を引いた富田によって止められる。その衝撃で泰生が黙った一瞬を見逃さず、講師は「じゃ、じゃあ、この問題は先生がやっちゃおうかな〜」などと言いながら、話の流れを授業へと強引に戻したのだった。



「おい、何が悪かったんだ」

「全部ですよ」

話を遮られ、席に座らされた不満を小声でぶつけた泰生に、富田はシンプルな返事をした。

「これは数学なんです。そういう、こっちを使えば速いとかこんなことする必要無いとかそもそも動く点Pってなんぞやとか、そういうことは考えないで、数式で答えを導けばいいんです。分速120メートルの自転車で行くって言うんなら、それで行くものなんですよ」
「なんでそんな妙なことを……大体、なんだ数式って? アレは出来るだけ早く追いつく方法を見つける問題ではないのか?」
「そんなわけないでしょう。方程式を作って、それで解きゃいいんです」
「方程式って研究者以外も使うのか?」

まるで予測不可能なことを言い出した泰生に富田は目を剥いたが、「使うんですよ」とおざなりな返答をして話を断ち切った。世代も育ちも違うだろうから仕方ない、そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせる。
それからしばらく、平穏に授業を受けていたのだが、十数分経ったところで「おい」と泰生が富田に声をかけた。どうやらテキストをパラパラと見ていたらしい彼は、とあるページの一部分を指して富田に尋ねた。


「これ、何て読むんだ」


泰生の指が指し示していたのは『円錐』の二文字。

富田は、悠斗の顔を殴りたくなるという、生まれて初めての衝動に駆られていた。





「も〜、どういうことなんですか!! フェアリータイプにドラゴンの技は効かないなんて、当たり前のことでしょうが!!」
「だって、ドラゴンって強そうだし……なんにでも勝てるんじゃないかなって……」
「小学生ですか!? というか、よくそれで『げきりん』がドラゴンわざだとわかりましたね……」

色々と散々なバトルを終え、事務所が貸し切っている体育館のロビーで森田はぷんぷんしていた。ぶーん、という低い音を立てる自販機に雑な感じで硬貨を突っ込んだ彼は、「はいどうぞっ」苛立った動きで取り出したブラックコーヒーを悠斗に押し付け、続いて購入した緑茶のプルタブを乱暴に開ける。
言うまでもなく、先程のバトルは悠斗の負けだった。結局オーバーヒートがこうかいまひとつとなり――その直後にふいうちを撃たれ――最後の一匹もそんな風に嘘みたいな負け方をしたというわけである。相生に至っては三匹目を出さず、ウソッキーとニンフィアだけで潜り抜けていたため、それまでの羽沢泰生を考えればあり得ないくらいの敗北のしようだ。

「相生の奴は都合いい勘違いしてくれましたから助かりましたけど! 勘弁してくださいよ、泰さんの評判だだ下がりですよ、もぅ〜」
「すみませんでした…………」

あの後、相生はせっかくの勝利に喜ぶ様子を全く見せなかった。それどころか「この前マルチバトルのトレーニングで僕足を引っ張ったから、羽沢さん怒ってるんだ……それで手を抜かれたんだ……」などと勝手に打ちひしがれ、勝手にめそめそと泣きながらトイレに籠っているらしい。悠斗達からすれば好都合だが、お前はそんなんで大丈夫なのかという気持ちは拭いきれないところである。
ともかく、あまりに馬鹿らしい理由で惨敗した悠斗に、森田は怒りを隠しきれずこうして不満をぶつけているのである。バトルの間はずっと肝を冷やし続けていたのだから、それも仕方ないことだろうと、説教されている悠斗はその文句を甘んじて受け入れていた。普段はユニランのような顔の森田だが、今はどちらかというとダルマッカみたいである。怒りで赤くなった丸顔に、悠斗は内心で焼いた餅を思い出した。
そんなことを彷彿させられているとは露知らず、森田は「大体!!」視線を自販機から悠斗へと移す。

「タイプ相性くらい忘れないでくださいよ! 一番意識しなきゃいけないことなんですよ、そこ間違えたらどうしようもないでしょう!」

ぷりぷりと怒る森田に、しかし悠斗は「でも、森田さん」と遠慮がちに口を開いた。

「……俺、忘れるもなにも、ポケモンのタイプ……何? アイショー? そんなの知らないんですけど……」

「はぁぁぁぁぁぁ!?」

小さな声で告げられたその言葉に、森田は驚きのあまりお茶のペットボトルを手から滑らせた。危うく落ちかけたそれをすんでのところでもう片手で支え、彼は「いやいやいやいやいや」と目を白黒させて首を横に振る。

「タイプ相性を知らないだなんてそんなそんなそんな!! あんなの基本中の基本ですよ!? あれ知らないとバトルなんか出来ないに決まってるでしょうが!!」
「いえ……というか、その前に俺……どのポケモンが何タイプかもわからないし、何タイプがあるのかさえも知らないんですが……」
「はい!?」

「いや、でもわかるものはわかりますよ! あの、相生さんの木みたいなポケモン! アレとか、植物っぽいのはくさタイプなんでしょ…………」

「いわタイプだって言ってるでしょうが!!」

衝撃的すぎる発言に、森田の顔が赤から青になる。まるでダルマモードだ。

「ちょっと待ってくださいよ……そんなことって……こんな人がいるだなんて…………」
「え、森田さん……なんですかその目は」
「あり得ない……全ポケモンのタイプととくせい、全技のタイプくらい知ってて当然でしょう、ねえ…………?」
「はぁ!? 知るわけないでしょそんなの!! どんな認識なんですか、そんな、何百匹何百種類のことなんて覚えられるわけありませんって!!」
「覚えるとかそういう話じゃないですよ! 難しいこと何も言ってないんですよ、個体値だとか物理特殊だとか命中率だとか、そういう話は何もしてないんです。ただ、ポケモンの種類と技の種類だけじゃないですか!!」
「知らないものは知らないし、そもそも……そもそも俺、名前すら知らないポケモンも……います……」

相生さんが最初に出してきた可愛い感じのアレとか、何ていうんですか? 視線を逸らしながら尋ねてきた悠斗に、森田はがっくりとうなだれる。尚悪いことに見た目は泰生である、何もかもが悪夢のようだ。半ば無意識下で答えた「ニンフィアです」という自分の声は、魂が抜けかかったように掠れていた。
だけど、と、森田は朦朧とした意識を引き戻して考え直す。今ここで、悠斗(自分が知らないだけでバトルをやらない人というのは概してこうなのかもしれないが)の知識の無さを問い詰めても仕方ない。泰生のフリをしてもらうために、彼にはタイプやとくせいはおろか戦術を徹底的に覚えてもらわなければ困るのだ。時間は少しも無駄に出来ない。
「悠斗くん」呼吸を整え、森田は可能な限りの冷静な声を出す。「とりあえず今日のミーティングは体調不良ということでお休みします。今から悠斗くんにはポケモンについて一から教えますからね、本当頼み――」


「あら、羽沢さんじゃない」


そう森田が言いかけたところで、彼らに声をかける者がいた。
コートから出てきたその女性は悠斗と同じ、Tシャツとジャージというラフな姿ではあるが、スレンダーかつメリハリのあるボディラインがむしろ強調されてもおり、勝気な美貌も相まってゴージャスな印象すらも与えている。長い髪をまっすぐに下ろしたこの女性は、確か昨日入れ替わった際に自分を心配していた、カビゴンのトレーナーだったはずだと悠斗は思った。余談だがカビゴンのことは知っていたらしい。学年に一人は、その名称がニックネームとされる者がいるからだろう。
「ちょっと待ってて」と、二回りは年上であろう泰生(彼女からすれば)にフランクな口調で言った彼女がコートに一時戻った隙に、悠斗が森田へ耳打ちする。

「森田さん、あの人誰ですか」
「うちの事務所のトレーナーの一人、岬涼子。若めの美人さんだからマスコミに人気だよ、ノーマル使いの女王って」
「その二つ名、あまり強そうに思えませんけど……それにそんな若いですか? 森田さんと同じくらいじゃないんですか」
「悠斗くんからしたらそうかもしれないけどね、それ絶対本人に言わないでね。……岬さん、泰さんのことライバル視してるから。戦い方も似てるし、あと、猪突猛進同士何かあるのかも」

「お待たせ。お疲れ様、羽沢さん。それに森田さんも」

スニーカーの足音を鳴らし、コートから再び出てきた岬に森田が慌てて口をつぐむ。その隣、缶コーヒーを飲み終えた悠斗は反射神経で「お疲れ様です」と返した。

「え?」

泰生ならば何も言わないか、「ん」で終わらせるであろうそこで、自分よりも丁寧な言葉が返ってきたことに岬は怪訝な顔をした。彼女の死角で、森田が口の中の緑茶を盛大に噴き出す。
「あ、いや、その」泰生らしからぬ行動を取ってしまった自分の失言に気がつき、悠斗はしどろもどろになって視線をさまよわせる。どうにか言葉を取り繕おうとしているらしいがしかし、「羽沢さん」岬は心配するように悠斗を覗き込んだ。

「やっぱり、この前倒れたとき……大丈夫なの? なんか、後遺症とか残ってるとか……」
「あ、そういうんじゃないです、ホント……いや、はい」

悠斗は必死にごまかそうとするが、岬は尚も「でも様子が変だし」と食い下がってくる。困惑のせいか無防備に距離を詰めてくる彼女に、悠斗は内心めちゃくちゃ焦っていた。確かに一回りも上の相手ではあるが、それを含めても高レベルな美しさ、軽装によって表出しているナイスバディ、汗ばんだ肌から立ち昇る色気――普段接することのないような相手を至近距離で前にして、悠斗は落ち着かない気持ちをどんどん高めていた。
端的に言えばメロメロ状態に陥りかけているのである。が、完全に戦闘不能になる前に悠斗は跳ね飛ぶようにして岬と距離を取った。「本当、大丈夫ですから」裏返り気味の声で言い、彼は無理に作った笑顔で岬に笑いかける。

「気にかけてくれて、ありがとうございます。もう大丈夫ですから、一緒に頑張りましょう――行きましょう! 森田さん!!」
「え!? 急にどうしたの悠――じゃなくて泰さん!!」

足早に出口から外へ行ってしまった悠斗と、それを追うため走っていった森田を眺め、取り残された岬は呆然と立ち竦んだ。やはり泰生の様子がおかしいとは思ったが、それ以上何かを確かめる前に彼らの姿は消えていた。

しかし、今の彼女は正直なところ、その違和感を問い詰めるどころではない。バトルで惨敗したといういけ好かないライバルに嫌味の一つでも言ってやるつもりだったのに、普段であればあり得ない、今までされたことの無いような気遣い、配慮、……そして、どうにも可愛らしい反応。
決して見せるはずも無い行動の数々を脳内で反芻し、岬は自分の頬が熱くなるのを信じられない気持ちで感じる。確かにバトルは強くトレーナーとしては大変魅力的であることは重々承知だし、トレーナーに年齢は関係無いというし、今まで何かと噛みついていたのも思えばある種裏返しであったのもあながち間違っては――


「そんなはず!! この私に限ってそんなわけはないっ!!」


今後のポケモンバトルをどうするかということばかりに意識を取られている悠斗と、森田。彼らの知らぬところで、うっかり蒔いたいらない種が早くも芽を出してしまったことなど、知る由も無いのだった。





時計の針は五時を回り、大学構内にはサークル活動を始める学生達の姿が増えてくる。クレッフィやガブリアスを引き連れ、育成論を語り合いながら歩いていくバトルサークル。ラケット片手に飲み会の話などを交わし、ハトーボーやピジョンと共に中庭へ出ていくテニスサークル。仰々しいカメラを持ち、レフ板代わりと思しきツンベアーと歩いているのは写真サークルだろう。
人とポケモンが入り乱れ、タマムシ大学は今日も騒がしい。

「しかし、あれほどまでに知らないとは思いませんでした」

そんな中、淡々とした声のくせに殺気を孕んだオーラを放っている学生が廊下を歩いていた。彼、今日の分の授業を終えた富田はよく見ると疲れ切ったことのわかる顔で、嫌味っぽく話し続ける。

「数学は出来ないわ感じは読めないわ……最近のニュースもポケモン絡むの以外全然把握してないし、本当ポケモンのことしか頭に無いんですね」

「当たり前だろう。俺はトレーナーなんだから」

が、その嫌味にも全く動じず、隣を歩く学生は平然と答えた。富田が本日何回目かになる舌打ちをかます。
あの、教室中を困惑に満たした数学の講義の後も、あちらこちらで泰生は富田の頭を痛めるようなことをした。歴史の講義では基礎中の基礎である戦の名前を「こんなの初耳だ」とのたまい、文学の授業ではテキストの目次にあった『枕草子』を見て「おい富田、この『……くさ、こ』って何だ」と大真面目に尋ね、パソコンを使う時間には「あずかりシステム以外のことはわからん」と早々に断言したため逐一富田が教える羽目になった。悠斗の所属する社会学部の専攻の授業に至っては、「ポケモントレーナーの修学率の低さが産業の崩壊を招く」と論じた教師に食ってかかろうとしたため、富田は泰生の腕をひっつかんで講堂を出なければならなかったほどである。
この人みたいなのがいるから、あの教授みたいな考え方が出てくるんだ。自分の分と、そして悠斗の分、出席点を一回失ってしまった富田はもう一度舌打ちした。「大体ですね」彼はイライラしたままの口調でさらに言う。「小学校から学校行ってないと言っても、もう少しどうにかなるでしょう」

「知ったことか。俺は俺の知るべきことを知っていればいいんだ。余分な知識はいらん」
「そうは言っても、限度ってものがあるんですよ」
「あんな、逆さにしたディグダみたいな落書きの計算? だかなんだか、そんな豆知識なくても生きていける」
「それは二次関数だ!! 豆知識じゃなくて常識ですよ、常識!!」

キレる富田に、ふん、と一睨みを返した泰生はそっぽを向く。その、あくまでも聞く耳を貸さない姿勢に富田は額に青筋を浮かべたが、長い前髪のせいで泰生は全く気づいていないようだ。まあ、仮に富田がスキンヘッドやぼうずだったところで泰生は気づかないだろうが。
「ともかく」必死に気を落ち着かせているらしく、深い溜息を吐きながら富田が言葉を発する。鞄の中から取り出した何枚かの紙を泰生に渡した彼は、「これ、明日までに覚えてくださいよ」と強い口調で言い含めた。

「何だ、これは」
「二週間後にある、学内ライブであなたが歌う曲の歌詞です。芦田さん……三年生の先輩のピアノソロに合わせて、独唱ですから。頼みますよ」
「俺が? 歌うっていうのか?」
「文句言わないでください。今日のサークルは体調不良ってことで休みます。羽沢さんには、これから僕とカラオケ行って特訓してもらうんで」

冷たく言い切られたその台詞に、泰生は眉間の皺を深めたが、渡された歌詞の漢字全てに振られたルビから滲み出す嫌味っぽさにはこれまた気がついていないようである。「仕方ないな」彼は悠斗との約束、お互いのフリをしっかりするということを思い出して、諦めたように頷いた。歌うのは好かないが、諸々のためには渋るわけにいかないだろう。
「しっかり、してくださいよね」ギターケースを抱え直しながら言った富田が、そこで「げ」と口の中だけで小さく呟いた。

「おー、羽沢、富田」

「羽沢風邪だって? 大丈夫なの?」

そんなことを口々に言いながら、向かいからやってきたのは悠斗や富田と同じバンドのメンバー、有原と二ノ宮だ。遠目からでもわかる、二ノ宮の特徴的なバッフロン頭を視線が捉え、知り合いにはなるべく会いたくないと考えていた富田は、「うん、まあ」などと言葉を濁す。

「悪いな。練習、行けなくて。俺も悠斗送ってくから」
「んー、いや。別にいいんだけど。今日は俺もバイトだし」
「センパイ、まだあのバイトやってんスか? どくタイプカフェの店員だっけ、なんでまたそんなキワいのを……」
「いいだろ別に。ウチの父ちゃんと母ちゃん、元マグマ団と元アクア団でハブネークとかドガースとか使ってたから俺免疫あるんだよ、毒に。時給いいし、それになれるとなかなか可愛いもんだぞ? 特にペンドラーなんかの分かれてる腹が……」
「あー、やめてやめて! 俺、足がいっぱいあるポケモンダメなんッスよ。気持ち悪い!」
「そんなこと言ってやるなよ。ノーマルとどくはそれほど相性悪いわけじゃないぞ」
「うるせぇ、誰がノーマルタイプカフェ(大型)のポケモンサイドッスか」
「言ってねえよ」

繰り広げられる二人のやり取りに、いつもだったら笑いの一つでも浮かべていたかもしれないが、あいにく富田はそれどころではなかった。泰生の飲んでいたモモンオレ、悠斗であれば絶対飲まないそれをこっそり奪い取り、後手に隠すので精一杯である。いつ何時、泰生が危うい行動を取らないか気が気ではない。

「ところでさぁ」そして、そんな富田の不安は早速現実のものとなる。「羽沢って、いつからポケモン好きになったの?」


「ごめん。俺達これで失礼するまた明日」


いつの間にやら中庭へ出て、野生と思われるコラッタに手を伸ばしている泰生(つまりは公の悠斗)を指差した有原の言葉が終わるよりも先に、ものすごい早口で別れの挨拶を告げた富田は二人の元から走り去る。自分のバンドのギタリストによる一陣の風のようなその勢いに、取り残されたベーシスト及びドラマーはポカンとしてたちつくすしかなかった。

「何度も言わせないでください! 悠斗っぽくないことすんのやめろつってるでしょうが!!」
「しかしコラッタがいたんだぞ」
「だからなんだよ!? コラッタがいたからなんだっていうんだ!!」
「静かに近づいたのだが、逃げてしまった。何が悪かったのか……」

今後の行く末に眩暈を覚える富田と、そんな彼など気にもしない泰生の会話は、廊下にいる有原達には聞こえない。ただ、二人で何かを言い合うその様子に、彼らはぼんやりと口を開いた。

「あいつら仲良いッスよねぇ」
「特に富田が羽沢大好きだからな」
「大好きすぎるッスね」
「あれってそういうことなの?」
「そうだったら話はもっと簡単ッスよ――あれは『like』じゃなくて」
「かといって『love』でもなくて」
「『faith』」
「それな」

羽沢悠斗教。有原と二ノ宮が内心そう感じている富田のそれすらあまり気に留めていない泰生は、今度は中庭にある木に止まっているポッポに目を向ける。そのまま、ひみつもちからを使えるわけでもないのに、木登りを始めようとした彼を怒りのあまり目から光の消えた富田が強引に引っ張っていったのは言うまでもない。


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