マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1406] 第七話「全身全霊」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/24(Tue) 21:54:29   36clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

バトルコートの片側、白線の外に立った悠斗は奥歯を強く噛み締めた。
右手に握ったボールに、無機質な電子音を立てて戦闘不能となったマリルリが吸い込まれていく。対峙するトレーナー、064事務所所属の中年男性もまた、倒れたポケモンを同じようにボールへ戻した。
これでお互い残されたポケモンは一匹だけ。悠斗の繰り出したマリルリは相手トレーナーのエレザードの十万ボルトにあえなく沈み、次に突撃したシャンデラの猛攻はエレザードを制し、次鋒のオーロットをも破ったかに思えたが、その直前にオーロットが発動していたみちづれで共倒れした。三対三で両者共々二匹を失うという、観客側からすれば最高に盛り上がる展開に、二人のマネージャーや、すでにバトルを終えた他のトレーナーたちは固唾を飲んで見守っている。

「行ってこい、メカブ!」

その、緊張感を少なからず含んだ空気の中、相手トレーナーが野太い掛け声と共に残り一つのボールを振り投げた。
球体の放つ赤い閃光が描いたのは、ガタイの良いそのトレーナーよりも少し大きい、丸みを帯びた竜の姿だった。可憐とも言えるパステルカラーの紫に彩られた体躯と、くりくりと愛嬌の溢れる緑の瞳。コートに降り立ったその竜は、主人に呼ばれたのが嬉しくてたまらないという風に、短い前足を天井へと向けて喜んだ。

「ヌメルゴン……」

人好きのする笑顔を、トレーナーにも悠斗にも周りの者達にも、惜しみなく振りまいている紫の竜を見て、悠斗はその名を呟いた。ヌメルゴンについては、森田のレクチャーを受けた覚えがある。見ての通り人間が好きな種族で、全体的に穏やかであるため他のポケモンに対しても優しく接するという傾向にはあるものの、その気性とは相反するかなりのレベルの強さを持っている、という内容だ。手懐けるのも他のドラゴンタイプに比べて難しくは無いために、多くのトレーナーが使ってくるだろうから気をつけろ、と森田は言い含めた。
種族の性質故にトレーナーへの忠誠心も厚く、もし繰り出されたら厳しい相手。せめてマリルリが残っていれば良かったのだろうけれど、あいにくそれは無理な話だ。
険しい顔で腕組みする相手トレーナーと、にこにこ笑顔で尻尾を振っているヌメルゴンを前にして、悠斗はボールを握る手に力を込める。タイプ相性からして、決して有利とは言えない状況。しかしそれは相手も同じことで、つまりは不利というわけではない。

「頑張ろう、ヒノキ!」

どうなるかはここから次第だ。そう自分に言い聞かせ、悠斗はモンスターボールを天へと投げる。それを突き破るかのような勢いで現れたボーマンダは、威勢の良い咆哮をあげながら、広いコートをぐるりと旋回してみせた。まだバトルをやっている、他のトレーナーやポケモン達が何事かと顔を引きつらせて視線を上に向ける。
ようやく悠斗の前に戻り、紅の翼で風を生み出しているボーマンダに、相手トレーナーは苦々しい顔を作った。恐らくそれは、悠斗と同じ心境ゆえのものだ。ドラゴンタイプとドラゴンタイプ、お互いに効果抜群となるタイプ同士で、勝負の行方は今ひとつ予想しづらい。悠斗達を取り囲む観客も、難しい顔でコートの中を見る。

「メカブ、りゅうのはどう!」

先手必勝、とばかりに火蓋を切ったのはヌメルゴンのトレーナーだった。
主の指示に瞬時に応え、ヌメルゴンは柔らかそうな口を大きく開けた。鋭い呼吸音がして、次の刹那にそこから現れたのは炎とも水ともつかない光の塊である。質量を帯びたその波動は、瞬く間に広がってボーマンダへと迫っていった。

「避けろ、ヒノキ!」

が、ボーマンダも負けていない。持ち前の素早さと瞬発力で、放たれた攻撃を見事に回避してみせたおお、とギャラリーの一人が感心したような声を出す。
「次は当てろ、もう一回だ!」「何度でもかわせ! 右! 次は上!」各々のトレーナーの指示に合わせ、二匹の竜は絶えず動く。一時の間も置かずに繰り広げられる戦いに、コート外の森田は隣の者に気づかれない程度に口許を緩めた。この数日間、泰生さながらの真剣さでトレーニングに取り組んだ成果は確実に、今の悠斗に現れている。前二匹のバトルの時にも感じられたが、戦闘の流れを感覚で掴めるようになっているのだ。
心からバトルが好きで、強くなりたいと願う者でもなかなか身につかないその技術を、まともにポケモンと関わったことも無い悠斗がこうも短時間で会得してしまったのは、やはり泰生の子だからと言うべきか。世間一般では『才能』と呼ばれるのだろうものの現れに、森田は少々複雑な気持ちにならざるを得なかったが、トレーニング中の彼の態度を思い出して心中で苦笑する。本気で、真摯に、まっすぐに向かったからという理由がたぶん一番大きいのだ。彼のうたう歌や作る曲が素晴らしいのと、きっと同じことなのだろう。

「うろちょろしやがって……メカブ! もっと広範囲狙え!」
「飛んでかわして、じしん!」

そんな森田の思考を現実へと戻すように、悠斗は鋭くそう告げた。何発目かのりゅうのはどうを避けたボーマンダが、空中で方向を変えたかと思うと床に向かって急降下する。ハッとして構えの体勢をとったヌメルゴンだが、その予想に反してボーマンダは、全く別の場所へと突き刺さるようにぶつかった。

「ッ……メカブッ!」

その震動がヌメルゴンの全身を襲う。足をもつれさせ、よろめくヌメルゴンが思わず目を瞑るのを上空から眺め、ボーマンダは得意気に羽を動かした。
ダメージを先に与えられたことで、悠斗は僅かに笑みを浮かべる。ふらふらとバランスを立て直すヌメルゴンと「メカブ、しっかりしろ!」と声をかけるトレーナーは対照的に悔しげな表情になりそうだったがしかし、揃って口許をにっと歪ませた。それに気づいた悠斗が、怪訝に思って眉根に皺を寄せる。

「よし、メカブ……上に向かってヘドロウェーブだ!」
「ヒノキ、かわしてもう一発じしん!」

体勢を立て直したヌメルゴンが、今度は毒々しい紫色をした液体を噴射する。ボーマンダは先程と同じように翼を広げてそれを避け――――られなかった。

「ヒノキ!?」

思わず声をあげた悠斗の頭上で、ボーマンダに紫の毒液が激突する。悲痛な叫び声をあげて床に墜落した彼女は、長い牙の覗く口許から呻きを漏らした。どく状態。みるみるうちに悪くなっていく顔色が、そのことを如実に表していた。
どうして、と悠斗が呆然と呟く。どうして、さっきと同じように避けられなかったのだ、と。

「あ、『ぬめぬめ』……」

思わぬ形勢逆転に、呆気にとられていた森田がそんな言葉を口にする。歯噛みする彼の隣で、相手トレーナーのマネージャーが森田を横目に薄く笑った。
ぬめぬめ、ヌメルゴンの特性とされるそれは、全身を覆う粘液を、接触してきた敵に付着させるというものだ。粘液が付いてしまうと身体が滑って動きづらくなり、本来のスピードを出せなくなってしまう他、不快感によって集中力を失うこともある。
その手法に、まさにボーマンダが今ひっかかった。加えて毒を負ったことで、旋風のような鋭い動きに鈍りが生まれていく。「慌てるな、そらをとぶ!」焦りを抑えた悠斗の声に、ボーマンダはどうにか体勢を整え高く飛ぶ。その勢いで衝突されたヌメルゴンは、確かに顔を痛みに歪めこそしたけれど、さしたるダメージは負っていないように見えた。むしろ、衝突時のぬめりによって受け流されたことでボーマンダの方が遠くへぶっ飛ぶ羽目になり、低く唸って床を舐めている。「今のうちだメカブ、十万ボルト!」相手トレーナーの声と共にヌメルゴンが放った強力な電流が、ボーマンダの翼の先まで痛めつけた。

「ヒノキ!」
「とどめさしてやれ! メカブ! りゅうせいぐん!!」

全身に走る痺れに、ボーマンダは四肢を投げ出してのたうち回る。それでも悠斗の声を聞き、残った力を振り絞って彼女はどうにか翼を操った。青い巨躯が床を離れ、まだ戦えるというようにヌメルゴンを睨みつける。が、相手トレーナーの言葉は無慈悲な宣告となってコートを震わせた。
床につくかつかないかという低さに浮かび、両翼を重そうに動かすボーマンダを、ヌメルゴンが丸い瞳で見下ろす。にっこりというその笑顔からは、愛嬌と、同じくらいの殺意が滲み出されていた。
紫色の両手と緑色の両眼が天を仰ぐ。低重音を響かせながら、天井付近の空中に隕石が生み出される。紅や蒼の閃光を纏ったその岩達は、険しい肌を露わにして空気を割る音を立てる。
「やっちまえ、メカブ――」主の声を合図にして、ヌメルゴンが目を鋭く光らせた。二本の角が力を誇示するように長く伸び、天へ向かって聳え立つ。高らかな鳴き声が空間をつんざいて、その全身から粘り気のある汗が飛んだ。

「…………ヒノキッ!」

ぐらりと揺れて、自身の方へと落下を始めた隕石に、ボーマンダが目を閉じる。当たればひとたまりも無いだろうその一撃がしかし、始まるか始まらないかのところで、悠斗の声が彼女の鼓膜を貫いた。

「大丈夫だ! ……りゅうのまい!!」

ヌメルゴンのそれより何倍もよく響いたその声が聞こえるなり、ボーマンダの目に力が再度宿る。

「舞って避けろ!!」

悠斗が叫ぶ。ボーマンダが慟哭する。その気迫に押されたのはヌメルゴンとトレーナーだけじゃない、宙から落ちる隕石達も同じに見えた。
ボーマンダの翼が大きくしなり、ここに無いはずの風を切って動き出す。確かに彼女を押し潰すはずだったのだろう隕石を、奇跡的なタイミングで次々と避けてはそのたびに、彼女の纏う闘気や熱気は増しているようだった。失われていた勢いが取り戻され、床を撃つだけに終わった岩々の落下音をボーマンダの雄叫びがかき消していく。
悔しさに顔を歪めたヌメルゴンが、負けてられないとばかりに新たな隕石を呼び出しては落とす。しかし「何度でも避けろ!」繰り返されるりゅうのまいは、その全てを華麗に避けては無駄撃ちと化していき、ボーマンダの闘志とヌメルゴンの苛立ちだけがひたすらに積もるだけだった。

「っそ……! びびるなメカブ、りゅうのはどうだ!」
「空を飛べ!」

焦燥感の滲む声で、相手トレーナーが指示を出す。間髪置かず、熱量のある波動がヌメルゴンから放たれる。
しかしそれをものともせずに発された悠斗の声に、ボーマンダは天井高く飛翔した。繰り返しのりゅうせいぐんによって精度を失ったヌメルゴンの攻撃は、いとも容易くかわされる。不甲斐なさと怒りからであろうか、可愛らしい顔がサザンドラのそれよりも恐ろしいものに変わる。

「げきりん!!」

そしてその顔は、一気に恐怖に彩られた。
頭上から突進してくるボーマンダは、戦闘当初よりもその速さを増していた。あまりの気迫にヌメルゴンの全身が引きつり、次の行動をとれなくなる。皮膚から、翼から、腕から、瞳から。身体中から立ち昇る、『お前に勝つ』という意志は凄まじいくらいの強さを持って、ヌメルゴンの闘志など呆気なく凌駕する。愛くるしい丸顔を、縮こまってしまった角を、大きく膨らんだ腹部を長く弾力のある尻尾を短い足を、その全てをボーマンダは、全体重をかけた打撃で襲った。

「メカブっ…………」
「畳み掛けろ! いける! 俺たちなら勝てる! 一気にいけ、そうだ、大丈夫だ!!」

取り乱され、指示を出しそびれた相手の声を遮って悠斗は言う。ヌメルゴンへ猛攻を連発するボーマンダと、悠斗の呼吸が重なった。

「…………勝つんだ、」

最も大きな叫び声をあげたボーマンダが、最大限の力で以て両翼を動かす。それと同時に丸太のような両腕がヌメルゴンを抱え上げ、彼女はそのまま高く飛び上がった。
床から引き離されたヌメルゴンが、顔を青くして抵抗する。その動きが一段と大きくなった瞬間、彼の纏う粘り気がボーマンダの鱗に滑ったその時に、ボーマンダはあっさりと、紫の巨体を手放した。
慌ててしがみつこうにも、互いを隔てるぬめりが働いて何もできない。支えを失ったヌメルゴンは、突然の解放に対応しきれず落下する。受身も何も取れていない姿勢のまま、彼の姿は床へと叩きつけられる。


「ヒノキ!!」


その衝撃と同時に、ボーマンダが最後の攻撃を叩き込んだ。逆鱗。竜族の怒りが物理的な力を帯びて、同じ竜へと打ち込まれる。耳を殴り殺すような轟音と、視界を覆う粉塵に、バトルを見ていた誰もが息を呑んだ。
空気の揺れが無くなって、そこに現れたのは二本の足で立つヌメルゴンと、宙に浮かんでいるボーマンダだった。その、ヌメルゴンがゆっくりと時間をかけて、糸が切れたような動きで倒れ伏す。床にぴったりとくっついた彼は、もう指一本も動かさないようだった。ヌメルゴンのトレーナーが、額を抑えて溜息をつく。

「あ、……勝て、た…………」

その正面、どこか信じられないというように、悠斗は気の抜けた声で呟いた。肩から、越しから、脚から、全身の力が抜けていく。それと入れ替わるようにして込み上げてきたのは言いようの無い達成感と興奮と、そして嬉しさだった。
森田がガッツポーズを作って飛び跳ねて、隣にいた別のマネージャーが驚いたようにビクリと震える。相手トレーナーが肩を竦めながら苦笑して、床に転がって目を回しているヌメルゴンをボールに戻した。「今なら泰さんに勝てると思ったんだけどなぁ」彼はそう口を尖らせながらも、「楽しかったよ」と笑顔を見せる。緊張の糸が解け、拍手などをしているトレーナー達の傍で、一連の様子を見ていたらしい岬がふん、と鼻を鳴らした。
そんな光景をぐるりと見渡して、息を整えていた悠斗に、大きな影が近づいてくる。

「あ、…………」

勝ち星を挙げ、満足そうな顔で悠斗のところへボーマンダが戻ってくる。身体中に傷を作りながらも悠々とした雰囲気を失わず、凱旋を決めた彼女に、悠斗は大きく息を吸ってこう言った。


「ありがとう、ヒノキ……!」


その一言に、ボーマンダは一瞬、ぽかんとしたまま強面を固まらせた。翼の動きが止まり、悠斗の目の前にストンと降り立つ。
と、同時に、彼女はこれ以上無いほど嬉しいのだというような勢いで、全身を使って悠斗に飛びついた。「!?」という感嘆符を頭上に浮かべた悠斗は慌てて受け止めようとするが、あまりの重量と大きさと、そして勢いづいているせいでとても敵わない。

「ちょっ、……ヒノキ! なんだよ、降りてくれ!」

結局、あえなく下敷きになった彼が森田などに救出されるまでボーマンダはずっと、溢れんばかりの笑顔で悠斗にひっついて離れなかったのである。「泰さんがあんな風にされてるのも珍しいなぁ」「ですねぇ」青い腹の下から引っ張り出され、息を切らす悠斗を横目に、相手トレーナーは彼のマネージャーとそんな会話を交わした。





「もうすぐかぁ」

学内ライブ当日――タマムシ大学中庭にセットされた、簡易ステージの裏から客席の様子に視線をやって、芦田がそわそわした調子で呟いた。
今現在、ステージ上で演奏しているのはベース二本というなかなか珍しいスタイルを取り入れた、五人組のサークル員達だ。ギターとドラムとシンセサイザーを担当する学生がむしろ裏方となり、メインに据えられたダブルベースが見事なスラッピングを交互に披露する。まるでバトルにも思える奏法の応酬に、集まった学生達は盛り上がりを見せていた。
「いつもと違う組み合わせだから、みんなはっちゃけてるなぁ」苦笑し、芦田が背後の泰生を振り向く。その横で、彼のポワルンが同意するように頷いた。あいも変わらず、どういうことだか常時あめバージョンの姿をした彼だったが、芦田を応援しているらしいその顔は晴れやかである。「僕たちもあのくらいの勢いでいこうね」熱意を表すように両手を握りしめた彼は、気合い十分という風に泰生へと笑いかけた。

「……そんな曲でも、無いでしょう」

一方、冷静沈着を絵に描いたような図になっている泰生は、芦田の言葉にそう返した。「そりゃあそうだけどさぁ」あっさり流された芦田はむくれ、拗ねたようなことを言い出す。「そりゃあ、まぁ、そういう曲だけどさ」
選んだのはあんただろ、口を尖らせる芦田にそう言いたくなったところで、泰生は一つの疑問を頭に浮かべた。自分と彼の会話、また彼について富田から聞いた話などを振り返り、泰生はその問いを口にする。

「俺以外にも、色んな人の曲選んだりしてるらしいけど」
「え? うん、そうだけど。羽沢君もそれは知ってるでしょ」

いや知らない、と返しかけた泰生はギリギリのところでその言葉を飲み込んだ。「そうでしたね」誤魔化すように、ぎこちなく笑った彼に芦田は怪訝そうな顔をして首を傾ける。芦田がこれ以上何かを不審がらないよう、泰生はさっさと本題に入ってしまうことにした。
「どうやって、そういうの選んでるんですか」思ったことをそのまま彼は聞く。「その人に何が合うか、とか」羽沢君はこれが似合ってるよ、などというようにして、芦田はそれぞれの個性を見極めコメントしていた。その姿を見ていた泰生からすると、どんな基準を以て選んでいるのかよくわからなかったのだ。他人にあまり興味を持たず、そんなことの出来そうにない泰生だから、尚更。

「うーん……? そうだなぁ、改めて言われると。なんだかんだ、直感かな」

その人のこと、いつも見てればなんとなくわかってくるもんだよ。だから俺だって初対面の相手に同じことやれって言われたら無理だし。
そう続いた芦田の答えは、なんとも具体性に欠ける、はっきりしないものだった。「いつもの感じとか、好きなこととか、喋り方とか雰囲気とか。そんなのを見てれば、大体」そういったことをずっとやってきた芦田は、特に困難を感じることもなくそんなことを言う。
が、それに泰生が不満を抱くことは無かった。「そうですか」芦田の方を見て、泰生は少しだけ笑みを浮かべる。伴奏者を見上げる、僅かに細くなったその瞳は、どこか懐かしむような色をしていた。

「昔……旅に出た先で、あんたみたいな奴に会ったことがある」
「旅!? は!? えっ!? 羽沢君って旅に出てたの!?」

その色にも、安定しない言葉遣いにも突っ込むよりも先に、芦田は聞き捨てならない情報に目を剥いた。
言うまでも無いことではあるが、羽沢悠斗は大のポケモン嫌いで通っている。その上、それは彼を知る者や本人の証言により、昔からのことだということも広まっているのだ。その羽沢悠斗が、なんと旅に出ていた過去があるとは。「っていうか羽沢君、ポケモン持ってたんだ……」「当たり前だろう」「び、びっくり……ここ数ヶ月で一番驚いてる……」明らかにおかしい発言を真に受けた芦田と、自分の失言に全く気づいていない泰生は、中途半端な意思疎通のまま会話を続ける。

「とにかく……旅先で、よく似た人がいた。トレーナーに会うと、そのポケモンを見ると、すぐに……どうしたら良いか、っていうのがわかるらしいんだ」

泰生がまだ若い頃、トレーナー修行の旅の最中に出会ったその男には、不思議な力が備わっていた。
彼は仕事を引退した老人で、小さな村で妻と娘夫婦と、その子供である孫と共に暮らしていた。彼の生きがいは、そこに訪れる数々のトレーナーとポケモンと会い、話し、心ばかりの助言をするということだった。
その男は少し話を聞くだけで、トレーナーとポケモンの様子を眺めるだけで、彼らの通ってきた道が見えるようだった。それは泰生もまた例外ではなく、老人は当時の彼が抱えていた悩みを言い当ててみせたのだ。
どうしてそんなことが出来るのか、と問うた泰生に、男は穏やかな笑みと共にこう答えた。「わかろうとすれば、自然にわかる」掴み所のないその答えに、泰生は何一つ理解を得ることは出来なかったが、男がそれ以上何かを教えてくれることは無く、ただ、そんな泰生とまだ第二進化系だった三匹を見ているだけだったのだ。

「よくわからないが……その男の答えが、さっきの答えと、似てるような気がした」

「そっかぁ、そんな人もいるんだ」ようやく驚愕(誤解である)が収まってきたらしい芦田は、泰生の話に感心したようにそう言った。「いいよね。旅に行けば、色んなところの色んな人と、色んなポケモンが見れるからね」眼鏡越しの目で、ステージ上のベーシストコンビを見守りながら彼はそう続ける。すぐに、っていうのは無理かもしれないけど。苦く笑い、芦田が泰生へと視線を戻す。「俺も、旅に出たらそんな人になりたいな」

「…………旅は、行かなかったのか?」

芦田の発言に、泰生はそう尋ねる。問われた芦田は「うーん」頬を軽く掻きながら、「そうだね。一回も行ったことないや」今更気づいたかのような物言いをした。

「なんでかと言われると……なんでも、無いんだけどさ。僕、父が転勤族でしょっちゅう転校してたから、あえてどこかに行かなくても色んなところを見れてたし。バトルとかもそこまで興味があったわけじゃないし、あと、子供心に……せっかく旅に出るならお金貯めて、好きなところにいっぱい行く方が楽しいかなって思ってたから」
「…………そんなことを……」
「行きたいとはずっと思ってたけどね。今も。さっき言ったみたいに、色んな人に会って、色んなポケモンにも会って、あとその場所のおいしいもの食べたりさ。色んなものも見たいし。まだまだだけど、バトルももうちょっと強くなりたいし」

でもさ。芦田はそこで、頭上のポワルンに一瞬だけ視線を向けて言った。

「旅に出るよりも、やりたいこととか、したいことがあったんだよ。ちょうどパソコンやり始めたくらいだったし、観たいテレビも聞きたいラジオもあったし、家族といるのも学校に行くのもまぁ楽しかったし。……その頃は嫌だったけど、ピアノ教室に行き続けてたのも、今は良かったな、とも思えるし」

ステージの方から、ギターがラスサビ後の見せ場をバリバリに弾き鳴らす音が響いてくる。「今も同じかな」秋の高い空はあいにくの曇天だったが、ギターソロはまるでそこに轟く急な雷鳴のようだった。「旅にも行きたいけど、大学があるし、サークルは楽しいし、タマムシだけでも知らないことは山ほどあるし」そこに被せるようにして、一年のドラマーがスティックをめちゃくちゃに操っては軽重様々な打撃を繰り返す。「巡君は、旅なんか嫌だって言うだろうしさ」シンセを駆使する学生の指が高速でキーを行き来して、二本のベースが最後の決め技を披露して、ギターの高音がステージ中をつんざいた。「だから、今はいいかなって思うんだ」


「でも、……こうやって、『ここにいよう』って思えるような……そういうのがあるのって、もしかしたら、ものすごいいいことなのかもしれないよね」


あ、終わったみたい。そろそろ行こうか。
拍手と歓声、口笛などの音に振り向いて、芦田が声のトーンを変える。楽しもうね、と言った彼の笑顔に、泰生は僅かな間を置いた後、首肯とともに一歩足を踏み出した。



有原達が下手側へとはけていき、泰生と芦田はそれと入れ替わりで上手から中央へ進む。ステージに現れた羽沢悠斗の姿に彼を知る者達が、観客席(と言っても、数十脚のパイプ椅子以外は立ち見だが)の方で歓声をあげた。手を叩いたり、「悠斗ー!」と名前を叫んでいるのは大学の友人だが、その他にも、どうやらメンバーが演奏する機会らしいとどこからか聞きつけてきたキドアイラクの熱心なファンも数人、目を輝かせながら出迎える。
それなりの盛況を見せる中庭を一望し、泰生はマイクスタンドの前に立つ。芦田は既にキーボードの準備を始めており、あれこれとボタンを押したり音を確かめたりと忙しい。そちらを一瞥し、泰生もマイクを手に持ちスイッチを入れる。その辺りの度胸は泰生個人の元々の人格と、ニュース番組やらトレーナーイベントやらへの出演を重ねたことでなんら問題無いようだ。

「こんにちは、今日は来てくださってありがとうございます」

少しも緊張した様子を見せず、泰生は客席に向かって喋りだす。マイクを通してもノイズに負けず、よく響くその声に何人かがどよめき立った。
それにも動じず、泰生が続ける。

「今日はいつもと違って、ピアノに合わせて歌います。短い時間ですが、楽しんでいってください」

それだけ言い、泰生はマイクをスタンドへ戻してしまった。客席にいる者達が視線を交わして囁き合う。普段の羽沢悠斗はMCもウリの一つであり、その場その場に合った挨拶を日毎にこなすのが当たり前なのだ。こんなにもシンプルで、お世辞にも気が利いているとは言えないコメントは今までに無かったかもしれない。まだ続きがあるのではないか、そう感じた客達はその意を込めてステージを見たが、やはりそれ以上、彼が何かを言う様子は無かった。
ざわめきを他所に、泰生は軽く呼吸を繰り返す。準備を終えた芦田が泰生へと目配せし、人差し指で白鍵をそっと押さえた。音程を確かめるその一音に、数秒の間を置いて泰生は頷く。
「もう始めるの?」「今日の羽沢なんか静かだな」「いつもあんなもんじゃない?」「いつも何見てるん……」完全にMCが終わったことを示すその行動に、客席でそんな言葉が交わされた。


が、それは、次の瞬間には少しも残らず掻き消えていた。


ステージを超え、中庭に響いた歌声。
キーボードの音を伴わない、男声のアカペラは高く、伸びやかに、それでいて重く確かな芯を持ち、泰生を中心に広がっていく。客席の誰かが、声にはならなかった悲鳴をあげたらしく、短く息を吐いた音がした。
少し遅れて入ってきた芦田の伴奏が、零れ落ちる水滴のように鳴り響き始める。それと絡み合い、冷たい風さえも自らの音楽に取り込んで、泰生は歌っていた。
ステージ上から響く歌は、何十年前かに流行った歌謡曲のカバーである。自分の人生を振り返り、深い後悔に沈んでいく、そんな歌詞。およそそこらの若者になど、二十年そこそこ生きただけの者になど歌いこなせるはずの無いだろうその歌を、羽沢悠斗は恐ろしいくらいに自分のものにしてみせた。羽沢悠斗のはずなのに、羽沢悠斗ではないみたい。ある種、曲に入り込んでいるどころではないほどの彼の気迫に、ステージ脇から見ていたサークル員は、何かが取り憑いているようだという感想を抱いた。
切なく、哀しく、どうしようもなく愛おしい歌声。伸びる高音が僅かに掠れたその刹那、彼があまりに儚い存在に思えてしまって、客の一人は無意識のうちに自分の胸を掴んでいた。
そんな泰生の背中へ視線を向けて、芦田は数日前のことを思い出す。鍵盤をなぞる指の動きは止めないまま、彼はあの時の羽沢悠斗を脳裏に呼び戻した。自分が間違っていたのだと頭を下げた後、一つお願いがあるのだと言ってきた彼の『お願い』を。



『曲を選び直してほしい』

羽沢悠斗が芦田に頼んだのは、ライブで歌う曲の再選だった。
初め、ただでさえ残された日数が少ないのに曲を変えるなど、これ以上負担を増やしてどうするのかと芦田は戸惑わざるを得なかった。が、そう言った羽沢悠斗の真剣な目と揺るぎない態度、いつになく強さを帯びている彼の声に、芦田の内心は大きく傾いた。本来羽沢悠斗が歌う予定である曲が、彼の心中で鳴り始める。

『今の俺が、一番、期待を超えられるような曲を選んでほしい』

凛とした彼の声がそう告げた瞬間、芦田の心中に流れていた本来の曲は既にストップしてしまい、代わりに流れ出したのは今の羽沢悠斗に見合いそうな新たな候補曲達だった。


あの時、彼がああ言ってくれて良かった。
芦田は心からそう感じると同時に、自分の選曲にも満足感を抱く。急な申し出だから慌てたけれども、この曲を選んで、羽沢悠斗に歌わせることに決めた数日前の自分に彼は深く感謝した。元々歌うつもりだったアップテンポの明るい曲でも、羽沢悠斗は難なく歌いこなしたであろうが、今の彼には間違いなくこっちの方が向いている。雰囲気、歌い方、纏うオーラ、その全てがものすごく急激な変化を遂げて芦田は焦らずにいられなかったが、それが逆に功を奏して、他の若者にはそうそう歌えないであろうこの歌をここまで魅力的に歌い上げているのだから。
ちなみに、この古い歌謡曲は母の影響で芦田が好んでよく聴くものであったが……今の羽沢悠斗にある人格を完全に見極めた選曲であるのに加え、泰生がちょうど悠斗の年齢だった頃に流行った曲だということを考えると、それを選び抜いた芦田の『直感』はいよいよ恐ろしい。が、そのことに思い当たる者は芦田本人を含め誰もおらず、ただただ羽沢悠斗の歌声に皆は魅了されるのみだった。

悔恨に打ちひしがれ、嘆くような歌声が観客達を包み込む。まるで慟哭の如きその響きは、言い表せないほどの哀愁と狂おしいほどの愛慕を伴って、今この場にいる誰もの心臓を強く掴んで離さなかった。
三回目のサビが過ぎ去って、曲の終わりを飾る長い長い高音が曇り空の果てまで昇っていく。その裏で白鍵と黒鍵をとめどなく連打する芦田が泰生を見遣り、こめかみに冷たい汗を伝わせた。怒涛のような打鍵の音が、皆の鼓膜を揺さぶっていく。
キーボードの音と共に、空の向こうに溶けるようにして、泰生の声が甘く消えた。無音になった中庭は世界の全てに取り残されたように静まり返り――そして、溢れるほどの拍手に満ちた。

食い入るように自分を見つめ、手を叩いている者でいっぱいになった客席を、泰生はまっすぐに見返した。空いた口を塞がない者、何度も繰り返し頷いている者。圧倒され、自分の頬が濡れていることにも気づいていない者。その全てに、深く深く頭を下げて、泰生はもう一度彼らを見渡した。



「楽しかったよ」


ステージの裏に引っ込むなり、芦田が悠斗にそう言った。「本当に、楽しかった」

「いえ……こちらこそ、」

言葉を返した泰生に、芦田は微笑んで片手を差し出した。未だ鳴り止まない拍手が、鉄骨で組まれたステージの向こうから聞こえてくる。
「君の伴奏を出来たことを、本当に幸せに思う」伸ばされた手をとった泰生に、芦田は深く礼をした。泰生の手を握る大きな右手に力がこもる。眼鏡越しの二つの瞳が、少なからず潤んでいた。

「あんな素敵な歌の、あのステージに君といれて良かった。羽沢くん。とても楽しかった、本当に、ありがとう……」

と、芦田がそこまで言ったところで、「芦田ぁー」と機材の置いてある方から彼を呼ぶ声がした。泰生達を包んでいた、得体の知れない余韻が一挙に霧散する。「わりー、ちょっと来てくれ」とヘルプを求めるその声に今行くよ、と答えてから「ごめん、ちょっと行ってくるよ」と申し訳無さそうな顔をして、芦田は小走りで去っていく。頷いた泰生は彼を見送り、富田のところに行くべきかと考え客席へと歩き出した。

「あの、悠斗くん」

と、そこで、泰生を一人の女子が呼び止めた。
泰生の知るところでは無いが、彼女は悠斗と同じ学部学科の学生であり、ゼミも一緒のところに所属している友人である。サークルは異なるものの音楽好きだということで、キドアイラクの出番があると頻繁に足を運んでくれる子だ。パーマをかけたふわふわの茶髪、白のポンチョに合わせた焦げ茶色のフレアスカートと、優しげな印象同様おだやかなせいかくである。
そんな彼女は、泰生を前にして何やらもじもじとした態度をとっている。なんかエルフーンに似てるな、と、なんでわざわざ舞台裏まで来たんだろう、などという思いを頭に浮かべた泰生は、女子学生が何を言い出すのか黙って待った。言いたいことがあるならさっさと言えばいいのに、などと色々ぶち壊しなことも思っていた。

「あ、あの、悠斗くん」

何やら今までに無く偉そうなオーラを放っている羽沢悠斗に若干気後れしていたものの、とうとう彼女は口を開く。ステージを作る鉄骨を背にした彼女は、頬を紅潮させて「あのね、もしも今度のオーディションで悠斗くんたちが優勝したら」熱を帯びた声で、泰生をじっと見つめて言った。「私と、デートしてくれない、かな」

「いや、それは無理だ」
「…………!!」

泰生は『妻子がいるし悠斗の身体で勝手なこと出来ないしそもそも今はそんなことしてる場合じゃないし』という意味合いで言ったのだが、当然そんなことが彼女に伝わるはずもなく(伝わったらそれはそれで大問題だが)、単に振られた形になってしまった彼女はいたくショックを受けて表情を固まらせた。無理もない。結構な覚悟を決めて告げた想いを、即答かつきっぱりと退けられたのだから、絶望の一つや二つしてしかるべきだろう。
「そ、そうか……無理なんだ……」女子学生は、明らかに涙混じりになった声で言う。「そうだよね……私なんか……私なんか、悠斗くんは……」柔らかそうなスカートの裾をぎゅっと握りしめ、彼女は声を震わせた。

「やっぱり、悠斗くんは富田くんが一番だよね……みんな言ってるもん、悠斗くんと富田くんはそういう……」
「は? 何言ってるんだ?」
「いつも一緒にいるもんね、悠斗くんが大切なのは富…………え?」

ショックのあまりか、一人突っ走ったことを言い出した彼女が言葉を止めた。濡れた頬を押さえた彼女に、泰生は「あんな奴が一番大切だと!?」と、こちらも一人突っ走って声を荒げる。誤解とはいえ至極ばっさり斬られた上に『あんな奴』呼ばわりされた富田がもしもこの場にいたのならば良かったのだが、あいにく彼は何も知らない。ツッコミを入れられることも止めてもらうことも叶わずに、泰生は今の自分が誰であるのかを忘れているままだった。

「あんな奴じゃなくて、俺が大切なのは……」
「え……? もしかして、彼女がいるとか」


「ポケモンだ!!」


…………泰生は、自分自身のまっすぐな想いを伝えたかったにすぎない。が、女子学生にとってはそうだと受け取れず、また失恋によるショックの混乱もあって、彼女は渦巻いた思考の果てにとんでもない解釈をしてしまった。
「そ、そんな……」女子学生が、ガタガタと震えながら言う。ハブネークに睨まれたミネズミだって、ここまで激しく震えはしないだろう。「そんな、悠斗くんが……」



「悠斗くんが、ポケフィリアだったなんてーーーーーー!!」



そう叫んで、疾走してしまった彼女の背中を眺めながら、泰生は「ぽけふぃりあ、とは何のことだ……?」と純粋な疑問に首を傾げた。ポケモンバトル一筋四十年、どちらかと言わなくても俗世間に疎い彼は、一人ぽつんと取り残されて腕を組む。後で森田に聞いてみようか、などと考えながら。
その後、ポケモン嫌いで有名な羽沢悠斗は実際のところ携帯獣性愛者であるという噂が各所で広まることとなったが、もちろんのこと、泰生が気づくはずもなく、次の演奏者であるサークル員のかき鳴らすギターの音をぼんやり聞くだけの彼がそこにいたのだった。





「富田くん」

一方――自分のあずかり知らぬところで勝手に振られた挙句、親友に特殊性癖疑惑が立っていることなど露知らず、次の演奏を見ていた富田に声をかける者がいた。一年生のギターボーカルが歌う、地下バンドのカバーにリズムを刻んでいる二ノ宮の、ドラムを叩くたびに揺れるアフロから視線を外して後ろを振り向く。

「森田さん」

大きな学者を背にして立っていたのは森田だった。にこにこと片手を上げたその童顔は、ライブを見にきた他の学生達と並んでも何ら不自然ではなく、見事なまでに溶け込んでいると富田は思う。丁寧に着たスーツが少々浮いてはいるものの、就活中だと言えば十人中十人が納得するだろう。
「来てたんですか」学生の群れから少し距離をとり、富田は森田の横まで近づく。「うん」頷いた森田は、間奏のギターソロに苦戦しているボーカルを横目で見遣り、答えた。「聞いてたよ。泰さんの」

「いやあ、さすが悠斗くんの身体はすごいね。歌が好きっていうのは知ってたけど、うん、僕が思ってたよりもずっと」
「………………」
「二人が元に戻ったら、また聴きたいよ。本物の悠斗くんの歌、今度は富田くんもいるバンドで」

そう言った森田に、富田は少し間を置いて「本当に、悠斗だからってだけだと思ってますか」とゆっくり尋ねる。「うん?」その問いに首を傾げた森田は何かを答える代わりに、細めた両目を富田の方から僅かに逸らした。それに富田も微笑で返し、瞳を隠す前髪を風に揺らす。
「この前、ミツキさんに言われたんですけど」沈黙を破り、先に切り出したのは富田だった。

「これは、悠斗と……羽沢さん、二人がどうにかしないと解決しない問題だって」

森田の視線が、無意識的な動きで富田へと移る。数回瞬き、彼は「そうか」また視線を富田から外してしまった。ちょうど晴れてきた雲間から刺し込んだ光で影になり、黒く染まった森田の顔にどんな表情が浮かんでいるか、読み取ることは不可能だ。茶に染めた髪の先を輝かせ、富田は森田の言葉を待つ。

「そうかぁ」

だけど、森田は富田が求めていたような、何か明確な答えを返してくれたわけではなかった。そうかもね。二ノ宮によるキックの音が足元から響いてきて、森田のそんな言葉を掻き消した。そうなんじゃないかな、穏やかな声が富田の鼓膜へ僅かに届く。
期待していた言葉を返してくれなかった森田に、しかし富田は怒る気にはなれなかった。自分も、同じ答えを返すのだろうと思ったのだ。森田の立場で、同じ質問をされたのならば。多分同じことを考えて、昔から同じことを思っていたのだから。あの一歩後ろから常に見ていて、自分も、森田も。
「悠斗くんなんだけどさ」声の調子は変えないまま、森田がそんなことを言う。

「来ないかって誘ったんだけど。行かないって言われちゃったんだ、行きたいけど行けない、って」

なんでだと思う? 逆光になった顔のうち、森田の口元だけが動くのが見えた。

「バトルの練習でしょう」
「うおう、さすがだね。やっぱりわかるもんなんだなぁ、そういうのってあるんだろうなぁ」

森田はけらけらと笑い、「そうだよ」と首を縦に振る。「今、自分は羽沢泰生だから。羽沢泰生のすべきことをしないといけない、ってさ」そう言った森田に、富田は泰生の言葉を思い出す。
彼が芦田に謝った後、どうしていきなりそう決めたのかと尋ねた富田に、泰生は迷わず答えたのだ。悠斗に合う曲を選んだ芦田や、ステージを用意してくれた人たちに報うだけの歌をうたうことは、悠斗のしなくてはならないことだと。そして、今の悠斗は自分だから、それは自分の使命だと。
「森田さん」きっと、悠斗も泰生の顔をして、同じように言ったのだろう。そう思いながら富田は言う。「悠斗が、歌が好きな理由は」


何か言うのに、一番いいじゃん。


どうして歌が好きなのか、と尋ねた富田に、まだ中学生だった頃の悠斗はそう答えた。
『言葉だけでも、別に出来るけど。曲だけでも、インストとか、出来ると思うけど。でも、その両方があればさぁ』少しも飾った様子の無い、まっすぐな声だった。心の奥からそのまま出てきたようなその声は、きっと今まで一度も変わっていないのであろう、彼の信じるもの、そのものなのだろうと富田は思った。


「自分の言葉で、自分の曲で……、自分の、歌で。誰かに何かを伝えられて、誰かの何かを変えられたら、そうなったらいいじゃん。っていうのが、悠斗です」

あの時、泰生に言わなかった、言いたくないと思ったこの記憶が、当たり前のように口をついて出てくることを、富田は自分のことだというのにまったく理解出来なかった。何故だろうか、今なら泰生にも言っても良いと、いや、言う必要など無いとすら感じるほどだった。泰生の歌う姿に感服したから? 真剣さを認めても良いと思ったから? きっと違う。違うのだろうということはわかったが、だというのならばどうしてか、ということは考えつかなかった。
「悠斗は」言いながら、富田は自分の声が、僅かに掠れているのに気がついた。ステージの方から響いてくるベースの重低音と、マイクのハウリングに掻き消されてしまいそうなほどの声だった。

「でも、悠斗は…………本当は、悠斗は、悠斗が伝えたいって思ってるのは、変えたいと思ってるのは」

そこで、富田は言葉を切る。何を言えば良いのかわからなくなり、黙り込んでしまったらしい彼へと森田は視線を動かした。それでも、富田は何も言わないまま俯いてしまう。
「うん」数秒の沈黙の後、森田は小さな声でそう応えた。「そうだね」マイクに口を近づけすぎているのだろう、ボーカルの割れ気味な高音が二人の鼓膜を刺激する。そちらを少しだけ見遣ってから、再度富田の方へと目を戻した。
冷たい空気を吸って、森田は言う。

「僕も、それは――――」


「あなたの町の便利屋さん! どうもお世話になっております、真夜中屋でございます!!」


その言葉を上から残らず塗り潰すような声と共に、森田と富田の周辺に白い粉が舞い飛んだ。刹那、一瞬にして全身に走った悪寒と冷気に、二人は揃って身体を震わせる。

「っひ……!? な、何!?」

自分の肩を両手で抱いて、森田が上擦った声で言う。完全にパニックになっている彼は、背筋の凍りそうな寒さを振り払おうと無意識に頭を動かして、「うわっ!?」背後に見つけた影にまた、素っ頓狂な声をあげた。
「ミツキさんですよね」一足先に状況を把握したらしい富田が、白い粉、もといごくごく局地的な吹雪に負けずとも劣らぬ冷たい物言いをする。その視線は彼の下方、腹部あたりにある頭部へと向いていた。氷で出来たその頭部の下に続くのは、ガラス細工のように細い首と浴衣姿によく似た身体。赤い金魚帯にも見える腹部をひらひらさせて、二人のことを見上げている影――ユキメノコを睨みつけ、富田は低い声で言う。「何やってるんですか、今度は」

「いや、こないだと同じで途中経過報告だけど。せっかく大学に潜入することだし、この子に頼んでみた」
「どうなってるんですかそれは。っていうか、大学とユキメノコにどんな関係があるっていうんですか」
「あやしいひかりベースの幻覚だよ、雪山で遭難すると幻覚見るじゃん? あれはユキメノコの仕業でもあってね、そのメカニズム。ま、ほとんどの場合が単なる疲労と体力消耗、神経衰弱による見間違いだけど……このビジュアル、なんか女子大生っぽいじゃん。JDだよJD」

元も子もないことを言いながら、袂のような腕を振ってみせたユキメノコ、あらためミツキを「どこの大学に、そんな和の心に目覚めた仮面女子大生がいるんですか」富田はあっさり切り捨てた。「えー、なかなか溶け込めてると思うんだけど」「ユキメノコが大学にいるって時点で全然目立ちますよ」「そうかな。まぁかわいいからなこの子」「問題はそこじゃないです」他の学生に気づかれないよう、気の抜ける会話が小声で交わされる。
「え……何……? ユキメノコ、が? ……あの、え?」突如現れ、表面上は人語を話しているようにしか思えないユキメノコに、事情を呑み込めていない森田が目を白黒させた。「深く考えちゃダメです。とりあえず、これがあの便利屋の代わりってことです」雑な説明をし、富田は学生達からユキメノコを隠すようにしゃがみ込む。が、そんな気遣いなどまったくわかっていないらしいミツキは、氷に空いた穴から覗く鋭い目で、辺りの様子を見渡した。

「それにしても、大学って楽しそうなとこだよね。いいなぁロゼリアの右手色のキャンパスライフ。僕も行きたいなぁ」

「それはどうでもいいですから、早く本題に入ってください」服に付着した雪を払いのけつつ、ミツキがイライラとした調子で先を促した。わかったよ、とつまらなそうに言い、ミツキが渋々といった調子で話始める。

「そんな進んだわけじゃないけど……あ、でも結構な手がかり。今回のコレに使われた呪いはね、純粋な魔力じゃなくて感情によるもの。つまり、僕みたいに霊力あって何に対しても呪術が使えるんじゃなくって、強い気持ちを向けてる対象にだけ有効ってことね。それで、……手口は海の向こうのモノだよ」
「海の向こう?」
「あ、って言ってもシンオウとかホウエンじゃなくてね。カロスやイッシュの方……あっち側のやり方だと思う。こっちじゃ無いよ。あんなの」

ミツキは確信したように言ったが、その辺りの話は富田にはよくわからない領域であるため「はぁ」と適当に受け流す。その態度にムッとしたらしく、ミツキは片手に冷気を纏ったが、それを放つよりも話の続きを優先した。
「でもさぁ」白い両腕がお手上げのポーズをとる。「今のところ、そこまでしかわからなくてさ。そもそも呪術の種類が確定したところで、絶対そっちに住んでる人っていうわけでもないし」嘆息したミツキの口許が白くなり、空気が一瞬凍りつく。

「誰か心当たり無いの? どっちでもいいからさ」
「それは……俺たちだって、まあ、他のバンドに恨まれたりはあるかもしんないけど……羽沢さんクラスならもっとだろうし」
「うーん、それはわかるけど。もっとピンポイントで、そういうんじゃなくてもっと個人的なやつ。ない?」
「あ、個人的かどうかわからないけど……」

と、そこまで黙っていた森田がハッとしたように声を発する。ミツキが嬉しそうに「誰?」と食いつきの良さを見せた。

「根元信明っていう、泰さんと同じ歳くらいのエリートトレーナーです。リーグの優勝候補筆頭で、名実ともに泰さんのライバルですから、もしかしたら……」

「あぁー、ライバルか……」しかし森田の説明を聞いたミツキは一転した落胆ぶりを露わにする。
ライバルとかじゃなくってさ、もっと別に、なんかドロドロしてるさぁ。そういうの。魔力とか持ってない人間がそういうことするって、強い気持ちに頼るしかないんだよ。入れ替わりだなんて『奇跡』起こせるレベルの、そういう、ドロドロ。それだよ。
そんな要望を語るミツキに、森田は「そんなの、無い方がいいですよ」と溜息を吐いた。富田も黙って頷いたが、ミツキは納得がいかないらしくむくれた声を出す。だって呪いってそういうものだからさ、そういった類のことを本業にしている便利屋は、物騒なことをのたまった。

「呪いの代行依頼とかも時々あるけど、やっぱりそういうのって本人の気持ちがドロドロしてるほど上手くいくんだよ。恨みとか憎しみとか怒りとか悲しみとか、強い愛情ってこともあるけど。とにかく、単なるライバルとか、そんな爽やかなものじゃ……ただでさえあの親子は呪いにくそうなのに、よっぽど強い何かがないと」
「そう言われても……もう一回考えてみますけど。でも、もしそうだとしたらかなりの身内ってことですよね? 行きすぎたファンとかでは無い限り」
「なるほど、過激派ね。その線は思いつかなかったよ、そっちも当たってみることにする。……でも悔しいなぁ、海の向こうの呪術で、強い感情を元にやったってことしかわからないなんて」

あとちょっとでいけそうな気もするんだけど。歯がゆそうにミツキが呻いた。あともう少しのところなんだけどさ、と、鋭利な瞳が殊更に細くなる。
「なんとなくイメージは掴めてるんだよ、呪いに使ったポケモンの……シュッてしてて、キュリュキュリュしてて、シュキュルーンってなってるんだけどシュバッとも出来て……」全く的を射ない発言に、富田は「えらくふわふわしてますけど」と呆れに満ちた率直な感想を告げた。森田も沈黙によって同意を示す。が、ミツキには全く響いた様子が見られず、「ふわふわっていうよりがしゃがしゃだ」などと不毛な説明が続けられた。

「あ、そういえば……瑞樹くんに一つ、聞きたいことがあるんだけど」

そこで、思い出したようにミツキが言った。唐突な指名に、富田は首を傾ける。

「何ですか?」

「客観的に見て、瑞樹くんたちが今度出るオーディション。客観的に、君らのバンド、正直言って勝ち残れそう?」

歯に衣着せない、あまりにストレートなその質問に、富田は言葉を失った。ある種残酷だともとれる問いかけには森田も驚いたらしく、口をぽっかり開けた状態で固まった。
「ええと、それは……」なんとか気を取り直した富田が、冷静を装いつつ考え込む。しばらく思案した彼は、ネット掲示板の前評判や他の出演者の演奏、風の噂などを頭の中で整理し、答えを出した。「下馬評ですけど」平坦な声で、富田は言う。「大穴の、優勝候補です」

「ふうん」

対するミツキの返事はあっけないものだった。そっかぁ、と、さしたる興味も無さそうに言った彼は、赤の腹部を冷たい秋風にはためかせる。
そんな反応に、肩透かしを食らった富田と森田は今度こそ無言で硬直した。そんな二人を放り出し、ミツキの意識はすでにステージの方へと向かっている。「ねえ見てみなよ、あの人やばいって」

「すごいね。手がいっぱいあるんじゃないの、エテボースみたいにさ」

よくわからない感想を述べたミツキが視線を向ける先、未だ続行中の学内ライブステージでは、至極楽しそうな笑顔の守屋がバンドをバックにピアノの鍵盤を猛スピードで叩きまくっていた。





その頃。事務所ビルの地下、今は人の少ない体育館で悠斗は一人トレーニングに打ち込んでいた。
事務所の運営やビルの維持費のため、このコートは時間次第で一般にも解放している。現に何人かのトレーナー達が、各々練習に励んでいるが、その実全員が羽沢泰生の姿に意識を持っていかれてしまうという間抜けな状況だ。が、そんなことに気づく様子も無い悠斗は次のバトルのため、三匹と共に特訓を続ける。
シャンデラの火力の強さを、寸分違わず見抜けるように。マリルリの持つ力を全部、外側へと引き出せるように。ボーマンダの飛距離と相手の技の攻撃範囲を、瞬時に判断出来るように。

自分がポケモンバトルに対し、こんなにも熱心に向き合うことになるだなんて、数週間前までには考えられなかっただろう。それでも、悠斗はそうせずにはいられなかった。
いつか、前に、それまでの人生のどこよりも本気で歌が上手くなりたいと望んだ時と同じ気持ちであった。一緒に進む者達に、彼らに見合うだけの力を手に入れなくてはと思ったあの時と。並んで前へと向かっていけるくらいに、自分も強くなりたいと願ったあの時と、同じなのだ。

「じゃあ、少し休憩にしよう」

キリの良いところで切り上げ、悠斗は三匹に声をかける。それぞれ頷いたポケモン達は、自分でボールに触れて戻っていく。マリルリが丸い尾の先をボールとくっつけ、球体へと収まったのを見届けて、悠斗はボールを拾い上げる。自力でこうするというのは、どうやら泰生が身につかせた風習らしい。
他のトレーナー達の視線を知らず知らずに受けながら、悠斗はコートの外へ出る。秋も深いというのに地下は奇妙な蒸し暑さと湿気で満ちており、彼は額の汗を拭った。外の空気を吸おう、悠斗はそう考えて、エレベーターの前に立ち、上向き三角のボタンを押した。

「あ、相生さ……」

「羽沢さん!」

と、上ったエレベーターから降りた悠斗は、ビルのエントランスに見つけた人影に呟いた。それと同時に、悠斗に気づいたその人影が名前を呼んでくる。
「コートで練習中だって、森田さんから聞いたんです」ぺこりと頭を下げた相生によると、偶然ではなく泰生に会おうとしていたらしい。嫌でも目につく、綺麗な顔が柔らかな笑みを形作る。「今、ちょうどコートまで行こうと思ってたところなんです」
そう言う相生に、外に行こうとしていたのだと告げると、少し時間をもらえるかという問いが返ってきた。構わない、と頷きながら悠斗は考える。この前話したときよりも、相生の態度は随分和らいでいた。いきすぎた緊張は見られないし、羽沢泰生を前にしても以前ほどの怯えは無くなっている。彼の変化した理由をしばし考え、もしや、と悠斗は一つの心当たりを思い出した。

「この前は、ありがとうございました!」

自動ドアを潜り抜け、ビルの庭へ出るなり、相生は悠斗に深く頭を下げた。次に上がってきた顔は晴れ晴れとしていて、数日前に彼が悠斗へ見せていたようなオドオドしっぷりはもう抜けている。

「いや、……そんな、大袈裟にすることでは無いだろう。何か良いことがあったなら、それは君自身の……」
「そんな……いえ、羽沢さんのおかげです。羽沢さんのおかげで、僕は、初めて、バトルを楽しむことが出来たんです」

森田とバトルをした日、悠斗は相生に相談を受けた。何か思い詰めたような顔をしている相生に、先に声をかけたのは悠斗は、どうにも泰生を苦手にしているのであろう態度から断られるかと思ったのだが、予想に反して相生が話を切り出してきたのである。
相生の話とは、バトルになると緊張してしまい、思うように戦えないというものだった。正直なところ相生に言われなくともそれは誰の目にも明らかだし、悠斗を始め恐らく皆が感じていることだろうが(泰生は例外で気づいていないと思われる)、あえてそこには触れず悠斗は彼の話を聞いたのだ。相生は、野生ポケモンと戦うのは難無く出来るけれども、いざ相手トレーナーと顔を合わせると、一気に萎縮してしまうのだと言った。
ポケモンの向こうにいるトレーナーの、明確な勝負心。本能のままである野生ポケモンの闘志とは異なった、『こいつを負かしてやろう』という感情を目前にすると、相生はどうしようもなく怖くなってしまうのだという。自分を倒そうと、押し潰そうとするその気持ちに圧倒されて、何も出来なくなってしまうのだと。
「そんなのは、バトルなんだから当たり前だって。それはわかってるんですよ。わかってるんです、けど」反響の激しい地下の廊下で、相生は泰生にそう漏らした。どちらかといえば中性的な見た目も相まって、そのときの彼はとても弱々しく――バトル中に見せる、何かに怯える顔をしていた。


「ずっと、怖くて仕方なかったんです。……でも! 羽沢さんが、それを、助けてくれたんですよ!」


その相生に、悠斗は言ったのだ。
コートに立ったら、自分がこの世で一番強いと信じ込め、と。
一緒に戦うポケモン達は、誰より頼れる仲間だと考えろ、と。
怖いものなんか何もない、全てが自分を待っているのだ、と。

「羽沢さんにそう教えてもらって……それを考えたら、ふっ、て、身体が軽くなったんです。いつもは震えて立てないくらいの足がちゃんとしてて、泣きそうにもならないで、相手の方の顔も見れて。ボールを投げて、中からクラリスが出てきてくれるのが、今までで一番嬉しかったんです」

それは悠斗がいつも、ステージに立つ前に自分に言い聞かせていたこと――この世で一番自分が上手くて、バンドメンバーは最強の奴らなんだと――ではあったが、相生に効果はてきめんであったらしい。今まで(と言っても、悠斗が彼と知り合ってから十日も経っていないが)に見せたことの無いような笑顔を向けてくる相生に、悠斗は内心で若干驚きながらも「だから、それは俺の力じゃなくて」とあくまで憮然とした口調で返した。
が、相生は珍しく引き下がる様子を見せず「いえ、羽沢さんのおかげなんです」とはっきりと告げた。形の良い、大きな瞳が真っすぐ自分を見つめてきて、悠斗は思わず言葉に詰まる。「ちゃんとバトルに向き合おう、って、思えましたし。バトルが楽しいってわかりました。それに」涼しげな風に乗せ、相生が凛とした声で言う。

「僕、羽沢さんのバトル見て、ポケモンバトルするようになったんですよ」

相生の言葉に悠斗は、え、と眉を上げる。「いや、始めたって言うのもおかしいんですけど」そう言いながら苦笑した相生は、片頬を掻きながら目を細めた。

「実は僕、一回ポケモントレーナー挫折してるんです。十歳で旅に出て、それで、十五歳の時に」
「………………それは、」

無意識に言葉を失った悠斗に、相生は申し訳無さそうな笑みを見せる。次のセリフを選ぶような間を置いて、彼は「僕って、この見た目ですから」少し話題を変えるような調子で言う。

「女の子っぽいとか、弱っちいとか。キルリアってあだ名つけられたり。小さい頃よく言われて……いや、今もですけど。なんか、弱く見られることばっかりで」

それは悪いことじゃないと思うけれど。悠斗は心の中でそんな感想を抱く。線が細く、色白で、どこぞの王子様かと思うような美貌。黙って立っていればモデルか何かとしか思えない相生のルックスは、確かに中性的で女性らしさはあるが、間違いなくかなりのレベルに分類されるものだ。バンドマンは見た目じゃないとはわかってはいるものの、しかし見た目が良ければそれだけ興味もひきやすいということを否応無く理解している、割合平均的容姿の悠斗としては、相生を羨まずにはいられなかった。こんな男がボーカルを務めていれば、いやギターだろうが何だろうがメンバーにいるバンドは確実に注目を集めるだろう。
そんな不服は勿論表出せず、悠斗は黙って相生の話を聞く。目を伏せた彼は物憂げで美しく、次に出すシングルのジャケットを飾ってくれやしないか、という邪念は必死で頭から振り払った。

「昔からそうやっていじめられてて、でも僕は、それが怖くて何も出来なかったから……だからせめて、ポケモンバトルで強くなりたいって思ったんです。強いポケモンと、かっこいいポケモンと一緒にいれば、僕だってもう弱虫だなんて言われないよな、って思って」

だから旅に出たのか、と悠斗はぼんやりと考える。トレーナー修行の旅など悠斗はしようとも思わなかったから、友達がどれだけ旅立とうと、そして戻ってこようと関係の無い話だった。思えば、初めてまともにこんな話を聞いた気さえした。
「旅に出る時に、お前なんかにポケモンバトルは無理だって何度も言われましたけど……絶対誰にも勝てないって言われましたけど……」苦々しい顔をしつつも相生は言う。「でも、僕なりに頑張って、自分で言うのもなんですけど、結構強くなったんですよ! バッジもちゃんと、あ、僕はホウエン出身なんですけど、八個集めましたし」

「ポケモン達も進化して、気づいたらたくさんの人に勝ってて……少しは、自分に自信も持てました。僕は少しは強いのかなって、弱いって言われなくていいのかなって、……」

バッジの価値もトレーナーの強さも今ひとつ理解していない悠斗だが、相生がその旅とやらで、かなりの努力を積んだことは何となく感じ取る。自分には想像もつかないほどの苦しさと辛さがあったのだろうと、そう思うだけの険しい道を通ってきたのだろうと、そんな想いを抱いて悠斗は、

「でも!」

しかし、そこでいきなり声を(彼なりに)荒げた相生にびくりと肩を震わせた。唐突な逆接接続詞を口にした彼は、驚きのあまり少し引いてる悠斗には気づかず、整った形の眉をぎゅっと寄せる。

「やっぱり、なんか弱く見られるんですよ! 僕達はかっこよくて、強くて、たくましい感じになりたかったのに!」
「はぁ…………」
「ブラッキーに進化させたかったクラリスは突然ニンフィアになるし、エルレイドに進化させたかったダニエル、あ、キルリアはレベルが上がりすぎちゃったのかサーナイトになるし、ジャッキー、家の庭にいたから連れてきたウソッキーはなんかオーロットに進化するかなって思ってたらならないし! 僕も旅をしてればムキムキになれるかなって思ってたのにならなかったし、女の子に間違われるのは直らないし! 全然強っぽくならなかったんですよ!」

ここで、たとえば森田などが聞いていたのなら「どうして夜の進化を狙わない?」「なんでめざめいしを早く使わない?」「何をどう間違えばウソッキーの進化系がオーロットとか思うわけ?」と、ごもっともなツッコミを入れただろう。が、あいにくここにいるのはポケモン知識が先週まで皆無だった悠斗一人である。唯一最後の件についてのみ「旅してるだけでムキムキとは限らないのでは」と疑問を感じただけで、相生の謎の天然っぷりを指摘するには至らなかった。
そういうこともあるのか、と素直に頷いている悠斗に、相生は「でも」と、先程と同じ言葉を繰り返した。それは同じ言葉ではあったけれど、口調はまったく違っていて、静かに、自分に言い聞かせるような声だった。

「でも、本当は――そうじゃ、ないんですよね。そりゃあ見た目もあるんでしょうけど、そんなの本当はどうとでもなって、僕が弱虫だって言われるのは、弱く見られちゃうのは……そう言われて、何も言い返せないくらいに、僕が本当に弱いからだったからで」
「……………………」
「それを、ポケモン達にまで責任転嫁してたから。だから、僕は負けちゃったんです。あいつに、バトルに、自分に……バトルの時の、恐怖に」

確かな力を身につけながらも、抜けきらない弱さに悩んでいた相生は、八つ目のバッジを手に入れたところでとある男と再会した。その男は、かつて相生と同じ町に住んでいた者で、相生を取り囲む子供たちの中でもより激しく相生を傷つけた者でもあった。
有無を言わせず持ち込まれたバトルで、相生は何度も言われてきた言葉を思い出し、手に入れたはずの力の全てを失ってしまった。お前は弱い。誰にも勝てない。真正面に立つ、闘志と敵意を露わにしたトレーナーがとても恐ろしいものに見えて、相生は何も出来なくなった。何も出来ない、弱虫の子供に戻ってしまった。それはその男が相生を完膚無きまでに叩きのめし、「やっぱり、お前は弱っちいんだよ」と吐き捨てながら去っていってからも同じだった。

「旅をやめて、町に帰って……それからしばらく、ポケモンバトルは一度もしませんでした。いえ……出来なかったんです。怖くて。負けたくなくて。負けるのが怖くて。僕は弱いから、そんなものは出来なくて」

「ですけど」相生は、少しだけ滲んだ声で言う。「羽沢さんの、バトルを見たんです」
大学受験のためにカントー地方を訪れた相生は、そこで偶然、羽沢泰生のバトルを見た。そして、もう一度ボールを投げたい、と思った。

「まるで自分と、自分のポケモンだけしか味方じゃないような――いえ、実際そうで、その中で、前に進んでいくバトルを。そんなバトルでした。長かった夜とか嵐とかが、ふって終わったみたいでした。僕も、また、ポケモンバトルをしたいと思ったんです。羽沢さんみたいに、戦いたいって」

大学進学をやめ、家族を説得し、ポケモンバトルの道に復帰した相生は必死にブランクを取り戻し、さらなる高みを目指して猛特訓を積んだ。その成果は確かに現れて、二十歳を迎えると同時にエリートトレーナーの称号を得、期待の若手と注目されて、憧れのトレーナーたる羽沢泰生と同じ事務所に所属した。いくつもの勝利を収め、彼を弱いなどという者は圧倒的少数意見として扱われる。今の彼は、ポケモンリーグ優勝候補のダークホースとすら言われるほどの存在だ。

「でも、いつだって、僕は弱かった。勝った分の何倍も負けた。僕のせいです。相手の方が、僕を倒そうとしてるのが怖くって。それが本当に怖くて。いつでも、僕は子どもの頃と何も変わらない、弱虫のままだったんです」

何度も挫けそうになり、何回となく泣きじゃくり。「そうするといつも、羽沢さんのバトルを見て、どうしようもなく、辛くなりました」いつになっても強くなれない自分が死ぬほど嫌いで、それでも恐怖は微塵もなくならなかった。「だけど、それ以上にすごいなって思って、がんばろうって思えるんです」この人のように、素敵なバトルを。「そのたびに、僕はまた、モンスターボールを握れるんですよ」
「だから、羽沢さん」相生は、まっすぐに羽沢泰生を見つめて言った。

「僕は何度でも羽沢さんに助けられて、何度でも羽沢さんに引き上げてもらって、何度でも、羽沢さんに、ポケモントレーナーにしてもらったんです」

悠斗は、何も言わずに相生を見返した。そうするのが、一番良いと思ったのだ。

「この前、羽沢さんにアドバイスをいただいた後のバトルは、怖くなかったんです。クラリスと、ジャッキーと、ダニエルと、初めて全部、力を出せたと思います。あなたのおかげです。羽沢さんがいたから、僕は怖さを抑えられていたんだし、怖さに勝つことが出来たんです」

「…………ん」

「実は、リーグに『あいつ』が出るって知ってから、怖いのがよけいに酷かったんです。……でも、もう大丈夫です」

むしろ、倒してやろう、って思えるくらいですからね。そう言って、少しばかりイタズラっぽく笑った相生に、悠斗も僅かな微笑を浮かべる。それを見た相生はあからさまに驚いた顔を見せたが、それすらもすぐに笑顔へ戻った。
そうしてしばし笑った後、「でも、僕も駄目ですね」と相生が詫びるような言い方をした。「何がだ」悠斗がそっけない問いを返す。


「この前教えていただいたこと、羽沢さん、昔もおっしゃっていたのに。僕は初めて、ちゃんと聞いたんだな、って」

「………………え?」


思わず聞き返した悠斗に、相生が首を傾げながら「あれ、ずっと前ですけど、僕がここに入ったときに……」と呟いた。慌てた様子で「ああ、うむ」と悠斗はごまかす。相生はそれ以上不思議がることもなく、「あのとき」と、悠斗に向かって笑いかけた。

「同じこと、言っていましたよね。あれは僕にではなく、森田さんに大してですけど」
「………………」
「どんなときでも、ポケモン達は裏切らないし、自分もそうすることは無いって。それはどんなことよりも強いから、バトルに勝てない理由なんて無い、そう信じるんだって……」

喉の奥に、何かが詰まったような感覚。それを不意に抱いた悠斗の、一時静止した思考は次に返すべき言葉を見失っていた。
「羽沢さん?」押し黙った悠斗の両目を、相生が不思議そうに覗き込む。それではっと我に返った悠斗は、「あ、いや――――」と慌てて取り繕う。「とにかく、また何かあったら。俺で良ければ」泰生らしさを悠斗なりに醸し出しながら言葉を続けると、相生は「はい!」と目を輝かせて頷き、悠斗の両手を握りしめた。
流石にそれには彼も気恥ずかしくなったらしく、「あ、すみま、……つい……」焦った様子で、いつものようなどこか頼りない姿に戻って手を離す。気にするなと言いつつ、何だか妙に懐かれてしまったなぁと悠斗は心中で肩を竦めた。本来自分よりも年上の相手だが、小さなヨーテリーのように思えてしまうのはどうなのだろうか。


「あれ、今…………」


その時、何か乾いた音が聞こえたような気がして、悠斗は反射で辺りを見回した。が、「どうかしましたか?」何も無かったような顔をしている相生と、結局何も見つからなかった周囲の様子に、気のせいかと思い直す。ビルの周りに植えられた木にはオニスズメやバタフリーが行き来したりしているし、きっとその羽音か何かだろう。そう、悠斗は結論づけた。
戻るか。タイミングがちょうど良いと思って、彼は相生に声をかけた。色素の薄い、滑らかな髪を揺らして頷いた相生の笑顔と横に並び、悠斗はビルの入り口へ向かって歩き出す。
二人分の影を飲み込み、よく磨かれた自動ドアが音を立てて閉じていく。ガラス製のそれにうっすらと映り込んでいる、黒いカメラをそれぞれ構えた男とカクレオンの姿に、彼らが気づくことは無かった。


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