滝の音の聞こえる場所2
四つ子を両腕に抱えている所為で廊下を塞いでいるモチヅキを、ウズは片手で追い払う。
そしてモチヅキを先に行かせてウズが食事室に入ると、そこには果物の缶詰が開けられ、四本のスプーンが食卓の上に散らばっていた。
ウズは黙って、缶詰を見下ろす。
その傍で、モチヅキは小さな四つ子を、一人ずつ椅子に座らせていった。小さな四つ子はワンピースのようなものを着せられていた。そして四人とも三、四歳ではあろうに、首もすわっていないかのように、椅子や食卓になだれかかる。
行儀の悪いことこの上ない。
いや、それ以前の問題だった。
モチヅキもまた椅子に腰を下ろし、小さいスプーンの一つを手にとっては、缶詰の中の果物の切れ端を掬って、四つ子の一人の口に運ぼうとしていた。
ウズは重々しく口を開いた。
「……モチヅキ殿、おやめくだされませ」
モチヅキが振り返り、手を止める。口を開きかけていた四つ子の一人が、ぼんやりと宙を眺めていた。
ウズは片手を振る。
「……いかに庶子といえど、四條家の者に、かような物は食わせられませぬ」
「缶詰は、駄目ですか」
「既製品はなりませぬ。米と調味料は運んで参った。暫しその子供には我慢させましょう」
ウズは息を吐きつつ、鞄の中から米の袋や、各種調味料を取り出し、台所の方へと歩いていった。
ウズの予想した通り、炊飯器も、もちろん釜もない。しかし鍋はさすがにある。
鍋さえあれば、米は炊ける。
ウズは馴れきった手つきで、目測で米を鍋の中に流し込んだ。そして、水道の蛇口をひねった。
しかし、水は一滴も出てこなかった。
モチヅキが早足で台所に入ってきた。
「申し訳ありません、ウズ殿。水道も電気もガスも止まっておりまして」
「…………何じゃと」
「四つ子の母親は、料金を滞納していたようでして。先ほど、私の携帯で再契約の申し込みを行ったところです」
モチヅキが頭を下げる。
ウズはますます鼻を鳴らした。
「…………あのアホ息子の甲斐性を疑うわ。……モチヅキ殿、そのようにお手を煩わせてしまい、こちらこそ申し訳ありませぬ」
「いえ」
つまり四條家の当主の息子は、妾を囲っていたにもかかわらず、妾とその子供の面倒を見ていなかったのだ。そして、ウズに何も知らせないまますべてを押し付けた。そういうことなのだ。
「……コケにしおって」
「ウズ殿、いかがいたしましょう。果物が食べられないとなると、四つ子の食事は……」
モチヅキに言われ、ウズは食事室を振り返ると、椅子に座らされた四つ子は無気力に食卓に脱力してもたれかかっていた。
ウズは眉を顰めたまま、四つ子を見下ろす。
「病気かなにかかえ。ものは申しませんのか?」
「私が今朝がた家に入ったとき、四つ子は奥の座敷でぼんやり寝ていました。数日間ものを口にしていなかったようです。言葉は、一言も発しません」
「知恵遅れか。……医者か……いっそ警察を呼んで児童養護施設にでも送るか」
「おそれながら、ウズ殿。……四條さまのご意向で、四つ子はウズ殿と養親子関係になっております。児童養護施設行きにはできないかと存じます」
ウズは胡散臭そうに顔を上げた。長く伸ばした銀髪が肩を滑る。
黒髪のモチヅキは、黒い双眸でウズをまっすぐ見つめていた。
モチヅキは現在、法科大学院生である。しかし学部在籍中に司法書士試験に合格しており、現在は院に通う傍ら司法書士事務所にも勤務するという、いわゆる秀才だった。
その親に連れられる形で、モチヅキはかねてから四條家とも交流があった。現在の四条家当主の息子はそのような若い秀才と懇意にし、そして自分の婚外子に関する諸々の手続きをさせていたのだ。
そのモチヅキが、淡々と語る。
「四つ子の父君によって、養子縁組契約が整えられまして、現在四つ子の保護者はウズ殿でございます」
「…………訳が分からぬ」
「ウズ殿は、こちらへ何をなさりに来られたのですか?」
ウズは鷹揚に頭を振った。
むろん、この家に残された妾の子供の面倒を見るためだ。養子縁組だろうが何だろうが、ウズには関係ない。ただ四條家の子供を、四條家にふさわしい大人に育て上げることが、ウズの使命だ。
ウズは改めて、幼い四つ子を見やった。
四つ子の豊かな黒髪は、肩の下まで伸びている。けれどもう何日間その髪は洗われず梳られていないのか、傍目にも汚らしく乱れていた。
手足は哀れなほどまでに細い。
茫洋と見開かれた灰色の瞳は、母親譲りのものか。クノエの曇り空のように、無為といえば無為で、無垢といえば無垢な瞳だった。
「……まず、体を洗うか」
「水も湯も出ませぬが。早くても、明日までは……」
「出湯に浸からせる。風呂屋は近くに?」
「調べましょう」
「食事処もな」
「承知いたしました」
モチヅキが食卓の上に置いてあった地図を広げ、風呂屋と食べ物屋を探し始めた。ウズは若い者を働かせつつ、四つ子を放置して、自分は家の中をゆっくりと見て回る。
家はさほど広いというわけではないが、母親と子供四人という所帯では不便しないほどの空間が整えられていた。庭には池と、小滝まである。住む家を与えるだけ与えておいて、父親は母子を放置したのか。土地と家を持つだけで金がかかるということを当主の息子は知らなかったのか。なんにせよ、甲斐性なしに違いはない。
ウズは瞑目して、暫し小滝の音に耳を澄ませていた。
モチヅキに家の手入れをさせておいている間に、ウズは幼い四つ子を風呂屋へ連れて行った。
しかし、四つ子は歩くことはおろか、立つことすらできないようだった。
仕方なくウズは風呂屋まで汗をかきながら四つ子を抱えて連れて行き、そして苦労してワンピース然とした服を脱がすと、四つ子は下着を着ておらず、ウズはそのことに酷くぎょっとしつつも、脱衣が楽であることに安堵した。
四つ子は立つことはおろか、座ることすらできないようだった。
風呂屋の床に寝転ぶ四人に湯を浴びせ、石鹸を付ける。泡立たない。まったく泡立たない。
どれほど体が皮脂で汚れているのか、想像するだにウズは怖気が走った。とはいえ、ウズの生まれた島でも石鹸などなかったのだから、考えてみればはるか昔の暮らしも今からすれば相当不潔だったはずだ――。そのようなことをぼんやりと思いながら、一人の体につき三回洗ってゆすいでを繰り返し、そしてまだあと三人、汚れた子供が残っている。
湯船に浸からせるのは、危険すぎてできなかった。
四つ子を一人ずつバスタオルにくるむようにして手早く水気をふき取り、浴衣を着せ、そして再び四つ子を抱えてひいひい言いながらウズは食事屋に行った。
油脂分の多いリゾットを渋々と注文し、これまたテーブルにだらしなく突っ伏している四つ子の口に、スプーンで掬ったリゾットを差し出す。
すると、ウズが息を吹きかけて冷ましたはずのリゾットがまだ熱かったのか、その四つ子の一人が急に泣き出した。
そして、それにつられて、他の三人も泣き出した。
四人で一斉に泣き出した。
それは煩いどころの話ではなかった。道路工事もあわやという騒音である。先ほどまでのぼんやりとしていた子供のどこにそのようなエネルギーがあったのか、四つ子は暴れ、椅子から落ち、床でぎゃんぎゃん泣き喚いた。
さすがのウズも狼狽するしかなかった。
周辺の人に眉を顰められてしまいつつも、近くの席にいた婦人たちが四つ子を宥めに来てくれて、その場は何とか乗り切った。
――と思ったら、それ以来、四つ子はウズに抱き上げられると、ひたすら泣き騒ぐようになった。
立たない、喋らない、座らない。
寝るか食べるかだ。
それも、ウズでは無駄だった。ウズが傍にいると四つ子は眠らないし、食事もとらない。
大学院に通う傍ら事務所でも働いているモチヅキが、暇を見つけてウズの元を訪れ、そしてモチヅキが四つ子をあやすと、ようやく四つ子は落ち着くのである。モチヅキが食べさせると、四つ子はよく食べた。しかしウズが同じことをやっても、四つ子は頑として粥を口にせず、むしろ癇癪を起こしてスプーンや椀を床にはたき落とす。
四つ子は、モチヅキにばかり懐いている。
それはウズに罪悪感を抱かせたし、もちろんウズの矜持を傷つけもした。今まで四條家の子女を何十人何百人と面倒を見てきたウズは、いわば子育てのベテランである。四つ子の食事や着物を用意することにかけては、ウズ以上の適材はなかった。なのに、四つ子はウズの思い通りにはどうしてもならない。
母親の血のせいだ、とウズなどは思う。カロスの女の血が混じったから、四つ子の気性は醜いのだ。
モチヅキは四つ子の世話をする時間をとるために事務所を辞め、院の授業がない時間帯はほとんど四つ子の面倒を見に来た。そうして一方では司法試験にも合格しつつ、果たしてどうやったものか、モチヅキはとうとう幼い四つ子をまっすぐに座らせ、立たせ、歩かせ、言葉を教え込んだのである。
なるほどモチヅキは秀才なのだろう。
けれど、四つ子のねじくれた心根を矯正することはできなかったようだ。
走り回るようになり、様々な言葉を覚えた四つ子は、ウズを嘲る。
「ウズのばーか! しーね! ぶーす! ぎゃーははははは」
最も攻撃性の強いのは、レイアである。ウズは自身への警告の意も込めて、レイアに赤い着物を着せている。
「ウズってさぁ、優しいけど、けっきょく僕らのこと馬鹿にしてるよね? そうだよね?」
いつも笑顔で、時折さらりと毒を吐くのは、キョウキである。しかしウズにとっては作り物のその笑顔だけでも癒しに感じられるので、キョウキに緑の着物を着せている。
「ぎゃー! ウズだーっ! にげっ……ぴぎゃあああっ――おでこ打ったぁぁぁぁ――痛いよぉぉぉぉぉ――っ!!」
ぴゃいぴゃいとひたすら喧しく、物覚えの悪いのは、セッカである。これはとても朗らかで無邪気だが、そのぶん馬鹿なことを素でやらかしがちなので、ウズは自身の注意を引くように、セッカに黄色の着物を着せている。
「モチヅキさま、モチヅキさま、まってください」
そして、モチヅキを特に慕っているのは、サクヤである。モチヅキにばかりくっつき、そしてウズをほとんど無視している。その冷淡さを表し、ウズはサクヤに青の着物を着せている。
四つ子はウズの作った温かい食事と着物と、そしてモチヅキの世話によって、すくすくと育った。
ユディという友達もでき、四つ子はクノエを駆け回って遊ぶ。
しかし、ウズはどうしても四つ子が好きになれなかった。
四つ子は成長しても、ウズに素直な笑顔を見せることはない。四つ子はウズの前では、嘲笑しか見せなかった。ウズを嘲り、殴り、悪戯を仕掛ける。
四つ子は身勝手なのだ。
その四つ子も、間もなく十歳を迎える。
四つ子の将来を問うべく、ウズはエンジュの四條家に手紙を送った。
――しかし、返事はなかった。