マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1426] 第九話「前虎後狼」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/28(Sat) 18:35:33   33clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

根元不在の申込みから数日後。悠斗は、根元との練習試合のため森田と共にマックスアッププロダクションビルへ訪れていた。

「またこれですよ、呼びつけておいて人を待たせやがって」

バトルコートが設けられたビルの地下、そこにしつらえられた控え室の一つで、森田はイライラした様子で文句を吐いている。その理由は単純なもので、バトルを約束した定刻になったにも関わらず根元が未だ姿を見せていないということだ。控え室に通されてはや数十分、「根元はもうすぐ戻りますので」マックスアップの職員達は口を揃えて悠斗と森田にそんなことを言った。
今日もヤマブキまで車を飛ばし、高速道路を走らされた森田は、ビルに入る時点ですでに疲労を滲ませていた。そしてただでさえ気が立っていたところに加えてこれである。「絶対、どっか女のとこにいるんですよ」ソファ(控え室だというのに064事務所の来客用のそれより質がいい)に深く沈み込み、森田があまり長くはない足を組んでぶつくさと不平を漏らす。

「……森田さんって、いつもそんな感じなんですか、その……他所の人がいないと」

待たされるだけの空気に耐えられなくなってきたのと、時間の経過に比例して口と態度が悪くなっていく森田のどこを見て良いのかわからなくなり、悠斗は遠慮がちにそんなことを尋ねる。
問われた森田は「そんなはずないでしょう」と、崩していた足を元に戻し、姿勢も少しばかり正しながら否定した。数秒前より背筋が伸びているのは、悠斗の悪気ない指摘に恥ずかしくなったからだろう。

「いくらなんでも、泰さんの前でこんなこと出来ませんよ。いや、泰さんは怒ったりとかはしないと思いますけど、僕が気まずいんで」
「そうですよね、なんか……今まで知ってた森田さんとは違いすぎるのを、最近よく見てる気がするんで……」
「やだなぁ悠斗くん、そりゃあ僕だって今は丸くなりましたけど、旅やってた頃はですね、ロケット団のしたっぱとかやってたりしたときもあったんですから」

単なるバイトでしたけど、あの頃はやんちゃなせいかくでしたから、と、少なくとも顔と身体は丸くなった森田が言う。割と衝撃的な告白に言葉を失った悠斗を見て、彼は楽しそうにけらけら笑った。多少なりとも、ささくれだっていた気は収まったらしい。
「ま、悠斗くんに一つ言っておきますけど」無防備にソファにもたれ、森田は大人ぶった口調で悠斗に話す。「トレーナーは見た目で判断しちゃダメですよ。どんな旅をしてきたのかとか、どんなバトルをしてきたかとか、過去のトレーナー種がなんだったのか、とか。そういうの何も、わからないものですから」

「それはさ、トレーナーに限った話でもないんじゃないの?」

と、そんな声が会話に割り込んできた。「何か言いましたか、悠斗くん」「いえ……」「じゃあひょっとして」うんざりした口調で言い合う二人の傍ら、ソファの前に置かれたテーブルに乗せた森田の携帯が、突如着信音を響かせる。と思いきやアラーム音、緊急速報音、デフォルトで入っているチルットの鳴き声のSEなど、様々な音声がめちゃくちゃに流れ出した。
「え、何?」音だけではなく、画面の調子もおかしくなる。「もしかして壊れた!? こんなときに」慌てる森田が携帯を掴み、ホームボタンを押してみるが不調の直る兆しはない。不規則な明滅が繰り返され、色調が気持ちの悪いものになり、上半分だけになったり下半分だけになったり、カメラ画面が勝手に起動したりして、森田と悠斗を散々君悪がらせたところで、最後に、画面いっぱいにマヌケな顔が大写しになる。
無機質なようでイタズラっぽい、真ん中に線が一本走った大きな眼。 シンプルな白をしていた携帯が瞬く間に朱色に染まり、仕上げとばかりに実体のない紫電に全体が覆われる。

「ロト、ム…………」


「その通り、御慧眼恐れ入りますどうも――」


力の抜けた声でそのポケモンの名を口にした森田の手の中で、携帯が高らかに正解を宣言する。聞き覚えのあるその声は、電話口を通しているようにくぐもっていて、芸の細かい聞きとりにくさを演出していた。


「毎度お世話になっております、あなたの町の便利屋さん、真夜中屋ただいま参・上! 本日は携帯越しに出張サービスに伺っておりますどうも」


「リカバリーサービスとかに連絡したら、これって消えてくれたりするんですかね、どう思いますか悠斗くん?」
「あまりそういうこと言わない方がいいよ、今の僕なら少なくとも、この携帯に入ってるペルシアンの画像全フォーマットするくらい簡単なんだから」

ミツキのノリに付き合うのがいい加減面倒になってきたらしく、森田が恐ろしく爽やかな口調で酷いことを言った。が、「サイキッカーなめないでよ」ミツキによる脅迫であっさり黙り込む。これはサイキッカーではなく、どちらかとぼうそうぞくやこわいおじさんの役割なのではないか、と森田は心中だけで考えた。
「せっかく来ていただいて申し訳ないんですけど」半ば置いてきぼりを食らっていた悠斗が遠慮がちに言う。「いい加減、そろそろ根元さんも戻ってくると思うんで……僕たち、もうすぐ行かなきゃいけないんですよ」

「ああ、それなら問題無い……っていうより、そのために来たんだよ。僕は」
「え?」
「あの、根元っていう奴。ちょっと調べてみたんだけど。今回の件で使われた呪術の性質が、あの人の気質と同じだった」
「………………」
「つまり、あいつが犯人だって可能性が高い……というか、よほど気質の似た人間がいない限り、でもそんなのほぼいないようなものだから、九十九パーセントは」

根元がクロ、ってことですか。険しい顔をして森田が言う。
「そういうこと」まるで電話越しにいるような声でミツキが返し、「呪術っていうのは、その人ごとに気質による違いがどうしても生まれちゃうんだ」捕捉するように言い添える。「もちろん誰にでも見えるわけじゃないけど、僕みたいにわかる人もいる。でも、一人ずつ片っ端から調べてくのはあまりにも非効率だから、普通やらないんだよ」

「それで、たまたま調べた根元がってことか……あー、くっそ、根元の野郎……」

ミツキの話を聞き、森田が顔を怒りに歪める。落ち着いて、とそれをたしなめて、ミツキはさらに説明を加えた。「まだ確定したわけじゃない。証拠があるわけでもないから、どこかに突き出すことも出来ない。だから今はまだ、何かが進展したって言える状況でもないんだ」
ただ、一つだけ言えるのは。そこまで言ったところでミツキの声が途切れた。次の瞬間、控え室の扉がノックされ、「お待たせいたしました! 根元が参りましたので、コートの方に」マックスアッププロダクションのスタッフが顔を覗かせる。突然の催促に森田と悠斗はしばし固まったが、慌ててバトルの準備を整えた。

「相手は、この事件の犯人かもしれない奴なんだ。何をしてくるかわからないから、くれぐれも気をつけて」

部屋と廊下を隔てる敷居を超える瞬間、携帯のスピーカーからそんな警告が小さく鳴り響く。先程から黙って聞いていた悠斗は、ベルトにつけた三つのボールの重みを妙に感じながら、緊張に片手を握りしめた。





「そんじゃ、今日も頑張ってきますかー」

同時刻――タマムシ大学部室棟地下、第三練習室。刻一刻と迫るオーディションに向けて、キドアイラクは合わせのために集まっていた。
「本番まであまり悠長なこと言ってられなくなってきたからさ、」ケースの中を漁り、スティックを選んでいる二ノ宮がどちらかといえば緩めの表情をきゅっと引き締める。「とりあえずはみんな健康管理、風邪はもちろんインフルとか気をつけなきゃだよな。まだ秋だけど、もう出てるらしいし」

「だな。巷ではひこうインフルエンザに続いて、バッフロンインフルエンザが流行ってるらしいからしっかり予防しておかないと」
「うるせー、誰がタミフル摂取副作用でもないのに大暴れして大変ですか」
「言ってねーよ」

おなじみのやり取りを繰り広げる両者に、よくもまあこいつらは飽きもせず、と呆れながら富田はギターの調子を確かめる。弦を一つずつはじき、音程を合わせていると、その横では泰生が歌詞の読み込みに励んでいた。
普通ならば、ここで悠斗が二ノ宮と有原をたしなめるなり、いさめるなり、それか混ぜっ返すなりするのだろうが、泰生にそこまでは求められまい。明らかに口数の減った羽沢悠斗に関し、富田は二人に「俺もよく知らないけど、親父さんのポケモンの何かの影響であまり喋れなくなってしまったらしい、でも歌は気合でなんとかするって言ってたから俺たちでサポートしよう」などと伝えてある。どう考えても穴だらけどころか、イベルタルも真っ青レベルの崩壊まっしぐらの言い訳だが、どういうわけか有原も、二ノ宮も素直に信じたのだから驚きである。「オーディションまでには治さないとな」「それまでは、俺らが頑張るからさ」そう頷いた彼らを前にして、富田は二人の行く末が少し心配になった。

ミミロルにもサイホーンにも――今のところ、どうにかなっているのだからこれ以上を望むのは贅沢だろう。オーディションまでに元に戻らなければならないという一番の大問題は残っているが、それ以外はなんとかいっている。泰生が歌い続けておけば、羽沢悠斗の声帯もなまらないだろう。
富田はそう結論付け、膝のギターに手を置いて人知れず気を引き締める。

「今日、根元とのバトルだったよな」

と、益体の無い言い合いを続けている二ノ宮と有原には聞こえないような小声で、泰生が富田に耳打ちする。「ああ」そういえば悠斗がそんなことを言っていた、確かちょうど今頃向こうにいるのではないだろうか。
そう考えながら、富田は同じくトーンを落とした声で返す。「そうでしたね」 少しばかり神妙に見える悠斗の顔に、彼はギターをはじく手を止めて尋ねた。

「心配でもしてるんですか」
「そりゃあ、な。なんだかんだ言っても、根元は強いから……」
「大丈夫でしょう。悠斗もトレーニング積んだっぽいですし、森田さんの話ですと」

あなたのポケモンもいるんですから。富田がそう言い添えると、泰生は表情を僅かに緩めて「そうだな」と頷いた。その横顔、無二の親友のものであるそれを――富田は無性に――が、それよりも先に二ノ宮が再び「じゃー始めようぜ!」と明るく宣言する。どうやら、有原との言い争いはいつの間にか終わっていたらしい。
「りょーかい」富田はそっけなく(彼にとってはデフォルトだが)返すにとどめ、いつも通りの面々に目を向ける。ベースストラップを調整している有原が「ん? どうした、富田」と声をかけてきたが、彼は黙って首を横に振るだけにした。





「やぁ、羽沢くん。久方ぶりだね」

コートに向かった悠斗達を待っていたのは、堂々と遅刻をかましてきた根元と、バトルの準備をしているマックスアップのスタッフ達、そして練習試合と聞いて集まってきた根元のファンだった。十代と思しき少女から、老齢の婦人までが十人弱、目を輝かせて根元を見ているその全員が女性である。今日のバトルは原則非公開のものだったが、マックスアップが展開している根元のファンクラブ、その会員から抽選で選ばれた者は特別に入れるというわけだ。各トレーナーごとに同じシステムを作って集客性を高める、資本力のある大手プロダクションならではのやり方である。
それはさておき、そんなファン達に囲まれた根元はあまり悪びれる様子も無く「待たせたみたいで申し訳ない、道が混んでいて」などと軽く頭を下げて詫びてみせる。ちなみにここ数時間、ヤマブキ周辺の道路には渋滞のかけらもなく、それを知っている森田は内心で根元に中指を五百本ほど立てた。

「いえ、こちらこそ今日は、バトルをお受けいただきありがとうございます」

その森田を後ろに従え、悠斗は根元以上に深く礼をした。「お互い良い時間になればと思います、よろしくお願いします」という挨拶は当たり前のものではあったが、『羽沢泰生』らしからぬものであるのも確かである。案の定、根元はピジョンがタネマシンガンを喰ったような顔になり、「どうしたんだ羽沢くん、君と僕の仲だろう、そんな今更かしこまる必要はないよ」と戸惑い混じりの笑みを浮かべた。「それに最近、羽沢くんも色々と楽しそうじゃないか」件の報道のことを示し、意地の悪い笑顔になる根元から言葉以上の意思は見出せない。ふん、と鼻を鳴らして不都合な話題を受け流した悠斗は、彼が特別何かを隠しているようには思えなかった。
だが――先程のミツキの話を聞いた以上、それを馬鹿正直に受け取ることは出来かねる。もしも彼が黒幕なのだと仮定すれば、羽沢泰生に似つかわしくない態度に驚く様子も演技であると考えられるのだ。今もこうして悠斗を、珍しく弱みを持っている羽沢泰生をただからかっているように見せかけて、腹の内にもっと邪悪な魂胆がないとも限らない。あえてらしくない態度をとってみた悠斗は、目の前の根元をじっと睨みつける。
実際に対峙した根元は、写真や映像で見るよりもずっと男前であり、年嵩の色気とでも言うべき洒落た雰囲気を纏っていた。いつまでも遊んでいられるのも、それでいて人を引き付けるのもむべなるかな、といった様子である。ラフでありながらも垢抜けたトレーニングウェアやツルの細い眼鏡、キザったらしい立ち居振る舞いはどこか嫌味を感じさせはするものの、反面確かな魅力があった。泰生の肩を持ちたくはない悠斗からすればより一層、素直に認めたくなるところである。

「じゃあ、始めようか。二対二のダブルバトル、どうぐの使用は禁止だったよね」

しかし、この男が全てを仕組んだ張本人かもしれないのだ。もしそうだとしたら、今彼は何を考えているのだろうか。品の良い紳士と呼べる笑みを浮かべた根元の、細い腰の中に渦巻いているやもしれぬ思いに、悠斗はごくりと唾を飲み込む。自分も根元もただ立っているだけのはずなのに、ひどく追い詰められた心地にならずにはいられなかった。

「ああ」

その恐怖を飲み込んで、今度は泰生のような返事をした悠斗とそれに頷いた根元は、それぞれの持ち場へ向かっていく。それに合わせてコート外に移動したファン達に、笑顔のサインを送ることを根元はもちろん忘れない。
今まで散々彼に苦い思いをさせられてきた森田は、それを見てあからさまに不機嫌な顔になる。それに関しては特に触れず、森田の手に収められた朱色の携帯から様子を伺うミツキは、「気をつけてよ……」と悠斗に向けて呟いた。






「やっぱり『夕立雲』だなぁ。俺は」

先日同様、何曲かの演奏を終えて二ノ宮が唸るように言う。「確かに、ストレートで物足りないっていうのはあるかもしれないけれど、それは演奏面でカバー出来ればさ」

「ずいぶん言うな、そんな簡単に言ってくれんなよ」

割と大きな口を叩いた二ノ宮に、ギターを一度スタンドに戻しながら富田が笑った。もっとも、二ノ宮が口だけでないのは承知の上ではあるから、今のはどちらかというと自戒の意味を込めたようなものではあったが。笑いついでに彼は椅子から立ち上がり、「暑いな」壁に設置された冷房のスイッチを入れた。送風音が狭い部屋に鳴り響き、冷たい風が流れて一気に室内を満たす。演奏中はつけられないから困ったものだ、と思いつつ、富田はTシャツの襟元から風を送り込んだ。
「そうだな、ごめん」二ノ宮も苦笑いを浮かべ、スティックを軽く振って照れたように目を伏せる。「でもまぁ、何にしても演奏ありきだよ」そう言ってみせた二ノ宮のまっすぐな目に、富田は、ああこれが二ノ宮守という人間なのかと内心で思った。音楽の才能に恵まれたからこそ、迷うことなくどこまでも高みを目指せるのだろう。きっと二ノ宮自身は何てことのない、当たり前の話なのだろうが――それでも、時々、彼の天性の才をこうして感じさせられる。

「富田的にはどうよ? 『夕立雲』か、他のか……俺は『始発電車を待ちながら』もいいと思うんだけど」
「…………ああ、そうだな。……始発電車も確かに……俺としては『ハンドメイドハート』も推したい、かも……」
「あー、ハンドメイドね。うん、確かに。俺らの見た目的にはアレが一番かも」

二ノ宮の問いに、意識を現実へ引き戻された富田がそう答えると、彼はアフロ頭を揺らして頷いた。「でも、始発電車は『ポケモン使わないで電車を待つ』ってとこがキドアイラクならではかもしれない」選曲に集中しだした富田は考え込む。『始発電車を待ちながら』は、終電を逃した男女が、始発の電車が動き出すまで駅のベンチでしゃべり明かすという歌詞だ。普通だったらタクシーを使うなりポケモンに乗って帰るなり、そういったポケモンの出張サービスを利用するなりするだろうが、あえてそうしない、あえて電車を使うというところが、ポケモンの力を借りないバンドならではの曲だということである。

「ハンドメイドは、ちょっと抽象的な部分もあるし。俺ららしさを追求するなら、そこかなと思う」
「それはあるなー。でも、俺たちのさ、この微妙にチグハグで微妙に人畜無害で微妙に弱っちな見た目が似合うのは、やっぱハンドメイドかなって思うんだよなー」

典型的な男子大学生ビジュアルの悠人、茶色に染めた前髪がやたらと長い富田、金のメッシュが目立つ若干ゴツめの顔立ちである有原、大きく広がったアフロとこころもちふくよかな体型が特徴の二ノ宮。『ハンドメイドハート』の、誰にも勝てない弱さだけど一生懸命心を作っていく、という少し頼りなげでもどかしげな歌詞は、確かに二ノ宮の言う通り、キドアイラクのなんとも言えない見た目に似合っていると言えた。
うーん、と二ノ宮が腕を組む。どうにも行き詰まってきたこの議論に、「羽沢はどうよ、作った身としては」彼が泰生に意見を求めた。問われた泰生は正直に「俺はこの、『あさっての天気予報』っていうのが……」とりあえず自分が一番良いと思った曲を答える。っていうのが、の部分を都合良く聞き流してくれた二ノ宮が、第三勢力かー、とドラムに突っ伏すポーズをとった。

「まとまんないよなぁ……やっぱ、初心に帰って『夕立雲』にすべきか……」
「……いや、あのさ」

眉間をきゅうとさせて悩む二ノ宮に、それまで黙っていた有原が声をかけた。「うお、センパイ」二ノ宮は大袈裟に驚いてみせて、身体を起こして有原の方へ顔を向ける。「どうしたんスか」
が、対する有原は真面目な表情を崩さない。「やっぱり、俺はさ……」遠慮するような沈黙がややあって、しかし彼はもそもそと口を動かす。

「この前も言ったけど、……この路線じゃなくて、変えてみてもいいと思うんだ」

彼の話を聞きながらペットボトルの中身を口に含んでいた富田が、前髪に隠れた眼を訝しむように細くした。





「それでは只今より、マックスアッププロダクション所属根元信明と、064事務所所属の羽沢泰生のダブルバトル練習試合を始めます!」

審判を務める、マックスアップのスタッフによる試合開始の宣言が、コート全体に響き渡る。その余韻が消えるよりも先に、悠斗は二つのボールを天井に向かって放り投げた。

「ミタマ! キリサメ! よろしく頼む!」

悠斗の声に合わせ、赤い閃光が空中と床上、それぞれに彼らのシルエットを描く。次の瞬間には二匹のポケモンがコートに現れていて、シャンデラは蒼い炎を大きく広げて旋回し、マリルリは丸い腹をどんと見せつけるように背中を反らせて得意げな顔をした。
「ふむ、その組み合わせで来るか」二匹の姿を見た根元は、口元に挑戦的な笑みを浮かべる。「最近の君はどうもおかしいと聞いてはいたけれど、どうぐも使えないこのバトルでそうするなんて、ちょうはつされてるとしか思えないが……」

「遠慮容赦はお互い抜きにしていこうか、さあ、ショータイムだ! アケミ! キャシー!」

相変わらず気取った調子で言った根元は、長い指に収めたボールを振り投げる。流れるような手つきの中から現れたのは、この世で最も美しいと言われることでおなじみのミロカロスと、大きな耳をたたんだ姿が特徴的なニャオニクスだった。ミロカロスが優美に尾びれを振りながら、長い肢体を床へと降ろす。純白の毛並みをコートの空気にさらりと揺らし、ニャオニクスが軽い足取りで何回かのステップを踏んだ。
「流石、ポケモンのチョイスもエレガントなんだね」壁にもたれて見学している森田の掌で、携帯の中のミツキがコメントする。「あの子たちの名前は、ゲット当時に付き合ってた女の名前らしいですけどね」他の者に聞こえないような小声で、かつ軽蔑しきった口調で森田が返した。ホントどうなのそれ、とミツキが呆れ混じりに溜息を吐く。

「ミタマ、ミロカロスにエナジーボール! キリサメはニャオニクスにじゃれつくんだ!」

そんな二人の会話など知る由もない、悠斗が先手必勝とばかりに二匹へ指示を出す。間髪置かずに彼らは反応し、シャンデラの腕先からは緑色の弾幕が発せられ、マリルリは丸っこい身体をゴムまりの如く跳ねさせニャオニクスへと肉薄する。

「受け流してやりなさい!」

が、対する根元のポケモン達も負けてはいない。シャンデラ達のわざが発動すると同時に発された根元の声がしたときにはもう、ミロカロスとニャオニクスはすでに動き出していた。流麗な弧を描いたミロカロスの身体の間をエナジーボールが通り抜け、あえなく壁へと吸い込まれていく。細い両脚で跳躍したニャオニクスの下方で、飛びかかろうとしたもののその到着点を失ったマリルリが床に衝突した。
「もう一度だ!」「よけろ!」休む間もなく悠斗と根元の声が交差する。両眼を光らせ再びエナジーボールをシャンデラが放ち、ぶつかった痛みも何のそのとマリルリが再度ニャオニクスへ突進した。しかしミロカロスもニャオニクスもこなれた動作でそれを避け、無駄に力を使った二匹を安全地帯で嘲笑するようにそれぞれの尻尾を振ってみせる。天井付近を浮遊するシャンデラと床に転がったマリルリが、各々顔を悔しげに歪めた。

「くさってるな! 今度こそ当ててやれ、エナジーボールとじゃれつくだ、」
「二度あることは何度あるか知らないのかい、アケミ、キャシー! 教えてやれ、次もまた――」

「ただし今度のターゲットは逆だ!」


根元の声に被せるようにして、悠斗は二匹へ向かって叫んだ。それに素早く反応し、シャンデラとマリルリは身体の向きを転換させる。一方、根元の指示にはいち早く応じたものの、先程と同じように動こうとした二匹はそれぞれ、つい先ぞ自分を狙っていた相手のことしかマークしていなかった。自分の長い首筋目掛けて進撃してくる丸々とした肉体に、上空から睨みつけてくる自分と同じ色をした黄金色の瞳に、ミロカロスとニャオニクスは動揺のため動きを止めてしまう。

「アケミ! キャシー!」

戯れる、というにはあまりにも強烈な腕力に首をあらぬ方向に曲げられたミロカロスと、緑の弾に全身を撃ち抜かれたニャオニクスが甲高い悲鳴をあげる。コートに響くその声は可憐だとも呼べるものであったけれど、悠斗は容赦することなく次の一手をすかさず叩き込んだ。根元のファン達が、ブーイングのような叫び声を響かせる。
「そのままシャドーボールとたきのぼり!」彼の声に応じて、シャンデラとマリルリも間を空けることなく攻撃を続ける。シャンデラの身体を纏った影と同じ紫の弾幕が、ニャオニクスの白毛を抉って黒く染め上げる。マリルリの皮膚から噴き出た冷水を伴う至近距離からの突進に、ミロカロスは下顎から殴りつけられる。こうかはいまひとつ、などということを感じさせない威力を持ったその衝撃に姿勢を崩したミロカロスの、優雅な緋色をしたヒレが大きく床を叩いて跳ねた。

「なるほどね……してやられたよ」

ふらつきながらも、すぐに体勢を立て直す二匹の後ろで、根元はそんなことを呟く。腕を組むその顔の笑顔はまだ失われてはいないものの、確かな悔しさが滲み出ているのを鋭く見破った森田は内心でガッツポーズを作った。「まだまだこれからー!」「がんばってノブさん!」ファンの何人かが言い立てる。
そんな声に笑みを返しつつ、根元の目が少し細まる。「今度はこちらからいかせてもらおうか」渋い低音がコートの空気を震わせ、悠斗の肌を危機感がぴりりと走った。ミロカロスと、ニャオニクスの瞳が攻撃的な戦意を帯びる。

「アケミ、れいとうビーム! ニャオニクス、サイコキネシスだ!」





「え、それってやっぱり、こないだみたいなバラードがいいってこと?」

有原の言葉に、二ノ宮が戸惑ったように言う。「そりゃあ俺だって、あの感じのをオーディションでやれればそれは最強かなとは思うスけど」
だからといって、無理だろう。富田も二ノ宮を援護した。「アレは特別で、あの場だから出来たことだし」それは勿論、泰生と悠斗が元に戻ったときに困らないよう仕向けているのもあったが、この時ばかりはそれ以上に、キドアイラクのためにもその選択は良くないと思ってのことだった。

「それに、あの曲……『追憶』は確かに良かったよ。でも、それって『追憶』が良いからってのもでかいだろ、あの曲自体が何年経っても人気なくらい、いい曲だからあそこまで出来たわけだし。でも、俺たちの持ち曲ってあそこまでのバラードないから」
「そうッスよ。芦田さんのピアノ一本で独唱だったのもあるし、俺らの曲だとどれにしたって『追憶』ほどにバラードバラードしてないスからね」
「元々俺たちバラード指向じゃ無いんだから、急にやるってのは難しいだろ。この前からどうしたんだよ、個性をもっと出した方がいいとかバラードにしようとか、いきなりそんなこと言い出して……」
「そりゃあ、日も近くなってきたし色々考えるのはわかるスけど。でも、センパイだって『夕立雲』に乗り気だったじゃないスか、それがどうして突然、確かにあの日の羽沢はすごかったけど」

頷く二ノ宮と首を捻る富田に、「でも…………」と有原は食い下がる。彼はしばらく、言葉を選んでいるかのように黙り込んでいたが、「あのさ」重い調子で口を開いた。
「オーディションに出る、他のバンドって俺たちに知らされないじゃん」有原の言葉に二ノ宮は首肯する。「そうスけど……事務所にも知らされないんスよね、同じ事務所内にいればそこだけわかるらしいけど、俺らはいないから、俺ら以外に誰が出るのかサッパリで」

「そうだ。当日全バンドの選考が終わるまで、……いや、結果が出て初めてわかるんだ。公平性とか不正防止とかなんだか知らんが……とにかく、わからないんだよな。基本的には」

最後の言葉をやけに強調した有原は、「でも」と言い添える。「実際は、知ろうと思えば知れるんだよ。ネットがあるから、いくらでも知る手立てはあるんだ」
有原の発言に、二ノ宮は「そうなんスか!?」と驚いてみせる。彼は本気でびっくりしているらしいが、富田は内心で、まぁそうだろうなと思っていた。キドアイラクも他人事では無い、練習の都合で伝える必要があったサークル員達には一応、他言無用を敷いておいてはいるものの、そういう情報は必ずどこからか漏れるものなのだ。応援メッセージはすでに複数のファンから届いているらしく、リーダーの悠人は事務所から注意を受けたようである。
「SNSとか通して、ファンとか、出場しない他のバンドとか。あと、身内がうっかり流してることもある」ある種防ぎようの無い問題に、有原も難しい顔をする。「とにかく」膝の上のベースに視線を落とし、彼は苦々しい口調で言った。「それで、出るって噂になってる、他のバンドを一通り調べてみたんだ」

「客観的に見て、俺たちは劣ってないと思う。思う、けど……勝ってるか、って言われたら微妙。少なくともナマじゃない、映像の演奏じゃそれくらいしか言えない。早い話が……同じ感じ、なんだ」
「……………………」
「正直なとこ、似てるんだ。他のバンドも、俺たちも……そりゃ当然、それぞれ違うとこはある。けど、知らない人が聴いたら、あるいは、続けて聴かされたら、多分」

あまり変わらないって、思われる。狭苦しい防音室の、壁に開いた無数の穴に、有原の声が吸い込まれる。すぐには肯定出来るわけでもないが、否定しろと言われても困る話に、富田と二ノ宮は次の言葉を選びかねた。
「だから『夕立雲』だと弱いって話スか」重い沈黙の後、二ノ宮が絞り出したような声で言う。深く頷き、有原は「多分、今のままだと厳しいかなとも思う」伏せていた顔を上げ、壁の穴を見つめた。

「でも、弱いたって……それを言ったら、他の曲にしても同じだよな。仮にバラードやるにしたって、俺たちの曲じゃ一番それっぽくてあまり……」
「だからさ、」

富田の言葉を遮るようにして、有原が声を出す。僅かに焦りの滲んだ声で、有原は言った。

「だから、新しく曲を作ったほうがいいと思うんだよ」





ミロカロスが、触れれば血液まで凍りつくであろうほどに冷たい氷の息吹を放つ。ニャオニクスの全身が光り輝き、二つの眼球がより一層怪しい光源として浮かび上がる。
その様子に、マリルリとシャンデラは二匹から慌てて距離を置こうとしたがもう間に合わない。マリルリの下腹部を凍った光線が貫通し、彼は痛みすらも超越した鋭い感覚に断末魔の叫びをあげた。「キリサメ!」その声にシャンデラが狼狽える、その一瞬を見逃さず、早くもニャオニクスは可愛らしい片手を動かしていた。サイコパワーを操るそれが一振りされて、シャンデラの身体が不自然な動きでがくんと揺れる。ニャオニクスの意のままに空中をあちらこちらへ振り回された彼は、最後に壁に向かって叩きつけられた。

「ミタマ! 大丈夫か!?」

悠斗が叫ぶ。が、根元の言葉は止まらず次なるものが発される。「アケミ」ミロカロスの名前を呼んだ彼の口角が、不敵な感じに吊り上がった。

「シャンデラに向けて……メロメロだ!」

主の声を聞き、ミロカロスの瞳がキュッと細くなる。その時ちょうど、壁に埋まってしまった身体を引き抜き、炎を不安定に揺らしながらも戦いを再開しようとしたシャンデラがそちらを向いた。
長い睫毛を湛えたミロカロスの目と、ぽっかり空いたシャンデラの目が合って視線が交差する。たっぷり二秒間、その状態が続き、二匹はお互い見つめ合っていた。
まるでそこだけ時間が止まってしまったかのような光景に、悠斗が「何やってるんだミタマ!」と叫ぶ。「休んでる場合じゃない、エナジーボールだ!」

しかし――その声は、シャンデラには届いていない。
ミロカロスのことを見つめていたシャンデラは、悠斗の言葉をまったく無視してふらりふらりと床へ近づく。ミロカロスの前まで下降した彼は、それでも何か攻撃を仕掛けることもなく、ただ惚けたように敵のことを眺めてはばからない。はたから見れば無様なその顔面を、ミロカロスが馬鹿にしたような動作で尾びれを使ってばちんと叩く、しかしシャンデラは怒る様子も微塵も見せず、懲りずにミロカロスの周りを浮遊するのだった。

「メロメロかぁ……普通だったらもう少し、ウィンクするなりスキンシップとるなりしてアピールしないと成功しないだろうけど。たったアレだけで落としちゃうなんて、流石はミロカロスってことかな」

しっかりしろミタマ! と叫ぶ悠斗の後ろで、ミツキがそんなコメントをする。「それとも、あのミロカロスが特別なのか」感心したように言った彼に、だからヒノキを出せば良かったんですよ、と森田が苦々しい顔をした。「メロメロを使った戦術は、アイツの得意技なんです」
すっかり我を忘れたらしく、ミロカロスに熱い視線を送るだけになってしまったシャンデラに、根元はさらなる追い討ちをかける。「れいとうビームだ、何発でも撃ち込んでやれ!」そして発動される氷点下の暴力に、シャンデラの身体があちこちへ跳ねた。根元に傾きかけた軍配に、ファン達が嬉しそうな声を出す。

「キリサメ、ミタマを止め――」
「キャシーも! マリルリにメロメロだ!」

ミロカロスに弄ばれているシャンデラを助けるべく、悠斗はマリルリに声をかける。が、その言葉が終わるよりも前に根元がニャオニクスに叫んでいた。
シャンデラの元へ駆けつけようとしたマリルリの片腕を、ニャオニクスの柔い手が掴んで引き留める。思わず足を止めてしまったマリルリに、ニャオニクスは妖艶な笑みを浮かべたかと思うと、純白の四肢をマリルリの身体に絡ませた。小さな口が、青色の長耳に近づけられる。

「ちょ、キリサメ――」

湿った肌に吸い寄せられる唇。それが触れた瞬間、大きく見開かれたマリルリの目に、悠斗が今後の悪展開を悟って息を飲む。
しかし、もうどうすることも出来ない。すっかり骨抜きにされたマリルリは、ニャオニクスの前にぺたりと座り込んでしまった。細っこい脚が、彼のぷよぷよした腹を蹴り上げる。床に転がったマリルリに、ニャオニクスはさらなる蹴りを入れ続けた。
「さすがのポケモン達も、色仕掛けにはかたなしかな」根元は笑い、眼の中に光を走らせる。「れいとうビームとサイコキネシス」

「ミタマ! キリサメ! 戻ってきてくれ!」

悠斗の悲痛な叫びがコートに響く。だが、シャンデラもマリルリもその声に応えない。シャンデラは度重なるれいとうビームに何度も凍傷を負い続け、マリルリは超能力により浮遊させられた身体をコートのあちこちに飛ばされる。それでも反撃することなく、しようという意思すら見せず、彼らは幾度傷ついても、虚ろな目をして敵の姿を追い求めていた。
一方的に打ちこまれる猛攻に、悠斗は必死に打開策を考える。「ミタマ、キリサメ――」どんなに呼びかけても無為になってしまうこの状況、どうにかしなくては、と思うものの何の解決案も見出せない。それどころか、考えれば考えるほど、奇妙な圧迫感が足から胸へと昇ってくるようで、ますます頭が真っ白になっていくとさえ思える。

「ミタマ、」何を言っても通じない。
「キリサメ、」自分の気持ちが届かない。
その状況は真っ黒な影となり、悠斗の足元から上へ上へと這い上がってくる。


「森田さん! 今、悠斗くんに、呪いが――――」


言葉を失い、青い顔でバトルを見ていた森田の手の中でミツキが叫ぶ。「え!?」信じられない、という面持ちで返した森田に、ミツキは焦燥した声で言った。

「記憶を操って、悠斗くんにとって嫌なものを思い出させるような――わかんない、今追い払ってくる、追い払えるかわからないけど、――くそ、アイツ!」

混乱したようにまくし立てたミツキはそう言い残し、それきり黙り込んでしまう。弱い光を一度放ち、朱色から白に変わった携帯から考えるに、そこから一旦いなくなったらしい。何を考えれば良いのかわからず、森田は酷い寒気を覚えながら悠斗と根元の方を見る。
その悠斗は、ミツキの言葉を借りるならば『嫌なものを思い出させ』られて動きを止めてしまっていた。泰生と入れ替わり、初めてのバトルで何も出来なかったこと。路上でふっかけられた戦いで、醜態を晒してしまったこと。今思い出すべきではない、不快な記憶が蘇っては次々と悠斗の心を指していく。

しかし、問題はそれだけではなかった。それ以上に、悠斗にとって嫌な過去――ずっと見ないようにしまい込んできた記憶が、強引な力で引き揚げられる。


「ミタマ、キリサメ……」


力の無いその声が、彼らの耳へ入ることはない。
その事実を認識した悠斗の、両の目から光が消えていく。一方的な暴力に抵抗もせず、シャンデラとマリルリはされるがままに痛めつけられているだけだ。彼らを嘲笑うかのように攻撃を続けるミロカロスとニャオニクスの後方、根元が微笑を湛えて立っている。

その微笑みを捉えたのを最後に、悠斗は心の奥から湧き上がってくるいつかの記憶に絡み取られ、バトルに向けるべき意識を奪われたのだった。





「今から曲を!? 新しくってことッスか!?」

二ノ宮が無意識にあげた大きな声が、防音室に木霊する。しかしそれに驚く様子も無く、有原は「ああ」と頷いた。吊り上がった形をした目が、薄汚れた床へと向けられている。

「今ある曲じゃ、他のバンドに差をつけられない。キドアイラクっていうものを、頭に残してもらえないと思う。俺たちがどんなバンドなのかとか、なんでポケモンと音楽をやらないのかとか、俺たちはどんな音楽をやるのかとかそういうことを、覚えてもらわないと」
「それは確かに……そうしてもらわないと危ないのは確かッスけど……でも、今から新しい曲っていうのは難しくないスかね? だってそれだと、今から曲作って、手直しして編曲して、練習して……それって、すごい時間がかかるスよね。出来なくはないかもしれないけど……でも、厳しくないスか」
「そうだけど、でも、出来るんならやったほうがいいと俺は思う。出来なくはないんなら、出来るなら、少しでもよく見てもらうためにやったほうがいい」
「センパイの言ってることはよくわかるッスよ。俺だって、多分他のバンドの聞いたら同じこと思うと思うし……」
「だろ? 『夕立雲』とか他の曲を頑張って出来るだけよくするのも、新しい曲をやるのも、どっちも難しいなら、少しでもメリットの大きい方に、」

「ちょっと待てよ、そうは言っても今から新しい曲なんて無理だろ」

二ノ宮と有原の会話に富田が口を挟む。「オーディションまで二十日も無いんだ」ペットボトルを床に置き、彼はきっぱりと言い切った。「そんな短期間で、納得いくだけの曲を作ることだって出来るかわからないだろ」
が、対する有原も譲れないようで、富田の言葉に被せるようにして主張する。「納得なら、俺は今ある曲にだっていってない」有原は膝の上の拳を握り締めて、うつむいたままの声で言った。床に向かう彼の声が、ややくぐもって練習室に響く。「出来るかどうかは、羽沢に聞かないとわからないじゃないか。曲を作るのは羽沢なんだし」そう言いながら顔を上げ、泰生に視線を移した有原に富田は慌てて首を横に振った。「無茶を言うな」いくら悠斗を演じさせているとはいえ泰生に曲作りは頼めないし、かといって泰生の代わりをするのに精一杯の悠斗にこれ以上の重荷を背負わせるわけにもいかない。「悠斗一人の負担がでかすぎる」ミックスオレの缶を持ったままの泰生を庇うように富田は言う。

「『マーメイド』は二日で完成したって言ってたじゃないか。なあ、羽沢、駄目かな。今からもっと、個性を出せるような曲を作ってもらえないか」
「あの曲は短いし、全部が全部そうやって出来るわけじゃない。俺たちが手伝うったって、結局のところいつも悠斗に頼ってるし、編曲にかかる時間だってあるんだ。『マーメイド』だって編曲入れたらもっとかかっただろ」
「俺は羽沢に聞いてるんだよ。どうだろう、羽沢。お前に頼って悪いっていうのはわかってるけど、この前みたいな曲をさ。お前ピアノ弾けるって言ってたし、入れたりして」

聞かれた泰生は、少し考えた後「わからない」と答えた。曲を作るなんて想像したこともないから、どれだけ大変なのかとか、どの程度の時間がかかるのかなどわかるはずもなかった。だから、泰生にはそう答えるしかなかったのである。
「わからないが、出来たとしても、変えない方がいいと思う」続けて言ったこれは、泰生自身の考えだ。「慣れないことを短時間でというのは、いくらやり込んだところで、自分がしたいようには出来ないものだからな」過去に何度かやらかした失敗や、周囲のトレーナーのことを思い出しながら泰生は有原を見てそう伝える。下を向いた有原の表情は影になっていて見えないが、拳に込められた力が強くなったように見えた。

「ほら、悠斗もこう言ってるし――曲を変えるのはやめるべきだ。大体、いくらなんでも現実的じゃないだろう。変に気張りすぎるよりもいつもの曲でいったほうが、俺たちらしさなら出せるんじゃないか」
「そうッスよ。それに、この前のステージは、羽沢のための……羽沢と芦田さんのためのステージだったから。俺ら、キドアイラクのステージじゃなくて。あのステージがすごかったのって、羽沢っぽいって思えたのは『羽沢と芦田さん』らしさなんじゃないスか。俺ららしさが、ああいう曲で出せるとは限らないッス」
「あと、今度のオーディションの趣旨は若者らしさを求めてるっぽいからな。この前みたいな、積み重ねてきた時間みたいなのを感じさせる歌は確かに圧巻されるけど、そこからはちょっとズレてると思う。あれに若さは無いし……」
「やっぱり、いつも通りがベストじゃないッスかね。いつもやってるものこそ俺ららしいって言えるし、実際そうだと思うし……そんな、無理に個性を出そうとしなくても、」
「………………無理に、じゃないけど」

頷き合う富田と二ノ宮に、有原が呻くような声を出す。

「あ、いや、センパイが間違ってるってワケじゃなくて」二ノ宮は焦ったようにそう言い添えた。「そういうワケじゃないんスけど」

「でも、俺以外は、富田も、羽沢も、みんな変えないほうがいいって思ってるんだよな? バラードはやめたほうがいい、とも」
「それはそうだけど……でも、お前が言ってることも正しいし、そう思わないわけじゃない、ただ、どちらか選ばなきゃいけない以上選んでるだけで」
「そうッス。センパイの気持ちはわかるし、時間があったり、もっと考えられる余裕があればそうしたいスよ、でもそれが無理っていうだけなんス。言ってることは、十分わかります」

富田と二ノ宮が口々に返す。が、有原は「…………そうか」と掻き消えそうな声量で言ったきり黙り込んでしまい、その次の言葉を発してくれない。彼がどんな顔をしているのかもわからず、練習室に気まずい雰囲気が漂っていく。泰生はただ無言を貫き通す以外の手立ては無く、有原の伏せられた頭を見るほかにすることが見当たらなかった。
息苦しい沈黙が数刻続き、しかし富田が「いったん、やめにしないか」と口にする。「大体こんな話してたら、悠斗に悪いだろ」
その言葉は、単に彼が沈黙に耐えかねたという理由の元に発されたものであり、深い意味などそこには無かった。それにこの場に悠斗はいないのだから、諫める必要だってそれほどはなく、ただ場の空気を変えたかった故の発言にすぎない。

しかし、それが有原に伝わるはずもないというのもまた事実だった。
伏せていた顔を上げた有原は、富田のことをじっと見る。


「――――また、それか」





今からもう十年以上も前――自分が八歳だった頃のことを、悠斗は思い出していた。

その頃はまだ、悠斗は泰生のことを憎んでもいなかったし、ポケモンを嫌いだと考えてはいなかった。泰生は多忙で家にいる時間も少なく、一緒に遊んだこともほとんど無かったが、それでも彼が帰ってくると嬉しいと感じたし、彼のポケモン達のこともカッコいいなどと思っていた。
ただ、泰生は『危険だから』という理由で、悠斗にポケモンを触らせたり、近づけたりということをしなかった。だからこそ、その事件が起こったのかもしれない。

その日、泰生は珍しく家にいて、ポケモン達の世話をしていた。悠斗はその様子を見ていたのだが、泰生が忙しそうにしていたため、声をかけるのを迷っていたのである。
そうしている間に、泰生が何かを取りにいったらしく部屋を出た。その隙に悠斗は泰生の部屋に忍び込み、そこにいたシャンデラ、ミタマと顔を合わせていたのだ。
その時のミタマは、数時間前のバトルで右腕部分(彼の見た目から考えるなら右の燭台)に怪我を負い、そのケアを受けていた。だが、その事実を悠斗は知らない。悠斗はただ、いつも泰生の声に合わせて俊敏に動き強烈な技を駆使する、魅力的なポケモンに今まで無いほど接近出来て興奮していただけなのだ。
あの素敵なポケモンに、少し触ってみたかっただけなのだ。

悠斗の叫び声を聞き、泰生が部屋に駆けつけたとき、悠斗は片手に火傷を負って泣いていた。怪我した部分を触られたために驚き、炎を放ってしまったシャンデラがその隣で困ったように漂っていた。幸いにも火傷は軽く、眼など粘膜部分でも無かったため、すぐに冷やせば治りそうなものだった。
しかし、問題なのはその後だった。自分のところに駆け寄ってきた泰生に悠斗は安心し、涙ながらに状況を説明しようとした――のだが。

その時、泰生がどうしたか。
彼の放った言葉は今でも消えることなく、悠斗の奥底で響き続けている。


『どうして余計なことをするんだ、コイツの気持ちもわからないのに!』


悠斗は、その言葉を、自分よりも先にポケモンのことを心配した父の言葉を聞いて、確信してしまったのだ。
ただ遊ぼうと言っただけなのにそれを突っぱねる、ポケモンには自分の気持ちが通じないと。
それと同じように、父親であるはずの泰生も、自分の言葉を聞いてくれないのだと。

ポケモンも父も、何を言っても無駄である、自分を理解してくれない存在なのだということを。





『悠斗くん!』


――――と、蘇った記憶に割り込むようにして、悠斗の頭の中に響く声があった。
過去の記憶に取り憑かれたように、意識を失っていた悠斗はその声によって引っ張りあげられる。『落ち着いて、バトルに集中して!』悠斗の回想を破壊したその声、ミツキの声は早口でそれだけ言うと、悠斗の中から消えていった。

「ミタマ……キリサメ……」

虚ろな口調で、どうにかそれだけ言った悠斗に、シャンデラとマリルリが振り返る。悠斗が我を失っていた間に、メロメロの効果は切れていたらしい。シャンデラの焔は美しい蒼を失い弱くなり、マリルリの腹や肩からは赤い血が流れていたが、二匹とも先程とは違って悠斗の声に反応した。
しかし、肝心の悠斗がまだ戦意喪失の状態にある。表情が引きつり、膝を不安定に曲げた彼は、胸の中で酷く脈打つ心臓を服の上から抑えつけた。荒い呼吸を繰り返す彼の姿に、根元のファン達が何事かと視線を交わし合う。
「悠斗くん、は」白から再び朱へと変わった携帯に、ミツキが戻ってきたことを察した森田は霞んだ声でそう尋ねる。「悠斗くんは大丈夫なんですか」

「一応、仕掛けられてた呪いは解けたけど――でも、思い出しちゃったこと自体が消えるってわけじゃないんだ。悠斗くんが、思い出したことは、今もまだ……」

重い声でミツキが返して、「きっと狙いはそこなんだ」と言い添える。森田は絶句し、携帯を握り締めて根元を睨みつけた。あいつの仕業か、そこまでして羽沢泰生を貶めたいのか、お前はそんな奴だったのか。そんな思いが森田の胸中に渦巻く。
悠斗は自分の体が、指先まで冷たくなっていくのを他人事のように感じていた。記憶の中から溢れた恐怖がつい先程の不安と重なって、彼の意識を侵食していく。何を言っても駄目だという無力感、虚無感、諦め、辛さ、怒り、哀しみ、――そんなものがない交ぜになった感情が、枷か鎖のように悠斗を縛って逃さなかった。

「アケミ、ハイドロポンプ! キャシー、十万ボルト!!」

ミロカロスが放った怒濤のような水流と、ニャオニクスによる電撃が、悠斗の視界を満たしていく。しかしそれでも、彼は自らを覆う暗い影を振り払い、言葉を発することが出来なかった。





ずっと伏せられていた、有原の顔は普段と別段大きな違いは無かった。が、そこにある表情に富田は、そして二ノ宮も見覚えがあった。
最後に彼がこうなったのはいつだっただろうか、と富田は場違いなことをぼんやり考える。あれも確か、今キドアイラクの在籍している事務所への入所を賭けた面接兼オーディションを目前とした時だった。曲こそ決まっていたものの、ギターソロとベースの見せ場をどうするかで意見が分かれ、悠斗含め皆で揉めていたのである。その時も同じだった。最終的に有原と他三人、一対三のような構図になってしまい、そのことに全員が気づいたときにはどうしようもなく気まずい空気になっていた。

その時に、彼が言っていたことを富田は思い出した。
俺が間違っているのか、と。そして、俺が駄目なのだろうか、とも。

その言葉は、今の有原の中にもあるのだろう、と富田はどこか他人事のように思った。
「センパイ」オロオロと二ノ宮が立ち上がる。彼も何かを察したらしく、ドラムセットを越えて有原を止めようか止めまいか迷うように片手をさまよわせた。「あの、ちょっと」

「富田、お前はいつもそうなんだ。羽沢がどうしたとか、羽沢がどうだからとか。いつも、羽沢を理由にしてばかりで、お前が何を思ってんのか全然言わないもんな。羽沢以外に、お前が動く理由がわかんないし」
「センパイ、あの……」
「さっきだって、羽沢に聞いてるのにお前が答えるし。いつものことだけど、お前がそうなのは」

二ノ宮が遠慮がちに口を挟むのも無視して、有原は富田に言葉を投げ続ける。そんなこと言われても仕方ないだろ、今は悠斗じゃないから答えられないんだから、そう答えたくなるのを抑えつけて、富田は口内の唾を一度飲み込む。ひとたびこうなった有原はなかなかおさまらないことも、その矛先が自分に向けられていることも、それを面倒だと思ってしまった自分も、何もかもが富田を苛立たせていた。
「悪いかよ」単刀直入に返したその声が、意図せず刺々しかったことも富田の嫌悪の材料となる。落ち着け、という、頭の中に浮かんだ言葉が、自分に対するものか有原に対するものか、もうわからなかった。

「別に、悪いとは言ってない……」
「じゃあなんだよ。ならいいだろ、これ以上続けんのも悠斗に悪いから、もう……」

言ってから、富田は自分のことを思いきり殴ってやりたい衝動に駆られた。しかし既にしてしまった発言はもう、取り消すことが出来ない。
前髪の間から見える、有原がこんなことを言う。「やっぱり、それだ」練習室に反響したその声は、乾ききっているようで湿っているようで、淡々としているようで震えているようで、今の有原の目とよく似ていた。

「いつもお前は、羽沢のことばっか考えてるっぽいけど。それこそ宗教みたいだよ、どんなときでも、お前の判断基準は羽沢じゃん」

「…………悪いかよ」

「悪くはない。でも、いいわけじゃない」


今度は、有原ははっきりとそう言った。「良くない。だって、お前羽沢のことしか考えてないだろ」有原の眼が、富田の眼を睨みつける。「お前が何をするのも、羽沢がどうかって理由でしかないんだから」


「俺が何を考えようと別にいいだろ。普通のことだし、それでお前が困るってわけでもないし」

「良くないから言ってるんだよ。羽沢のことばっかで、お前、本当にこのバンドのこと考えてるのかって聞いてるんだ」

「考えてるに決まってるだろ、大体、悠斗だってメンバーなんだから、そのことは」

「…………あー、だからさ、」

「何なんだよ……」


片手で頭を抱え、舌打ちする有原に、富田はイライラと言い返す。無意識のうちに動かしていた靴の底がリノリウム張りの床を打ち、耳障りな音を立てた。会話を止めるタイミングを見失った二ノ宮が、途方に暮れたような顔をして自分と有原を見ていることは富田にもわかったが、だからといってどうすれば良いのかもわからない。
「じゃあ、聞くけど」膝に乗せたベースに指を這わせ、有原がくぐもった声で聞く。「お前、なんでこのバンドやってるわけ」


「それは、……」

「お前がギター始めた理由は? 音楽やってんのはなんで? ポケモン使わないバンドで、そこにこだわる理由は何なわけ?」

「……………………」


黙り込んだ、というよりも、答えることが出来なかった富田に、有原が畳み掛けるように質問する。尚も言葉に詰まる富田は奥歯を噛み締め俯いた。一緒に噛まれた内頬から血が滲み、不快な味が口の中に広がる。
「だから、そうなんだよ」聞こえる声が、それと同じくらいに不快に思えるのを、富田はどこか冷静に感じ取った。「お前は全部そうなんだ」ネックに添えた指を、とん、と動かして富田は言葉を続ける。「キドアイラクやってんのは羽沢がいるからで、ギターも羽沢に言われて始めて、音楽もそう。ポケモン使わないのも、羽沢が、嫌いだからってだけなんだ」
お前は、いつも。富田の、低く呻くような声が、富田の鼓膜を震わせた。お前はいつも、羽沢を理由にしてばかりで。


「そうやって、羽沢のために、羽沢を助けてるみたいなことをして――――実際、お前は羽沢を助けてるつもりで、羽沢に縋りついてるんだよ」


「………………っ、」

途端、富田の頭に、一気に血が昇った。
どうしてお前にそんなことを言われなきゃいけないんだ、とか、なんの資格があってお前がそんなことを言うんだ、とか、俺のことを分析したみたいなことを言って何様なんだ、とか。言いたいことと叫びたいことと吼えたいことが怒涛のように押し寄せてくる。自分の目の前で、自分のことを睨んでいるこの男のことを、殴りつけてやりたい衝動が指先まで走り抜けた。
しかし富田がとった行動は、有原を殴ることなどではなかった。「じゃあ、」ある意味では、殴るよりもずっと、有原にとっての残酷なことかもしれなかった。「じゃあ、お前は」一周回ってむしろ冷え切ったような身体は、無意識のうちに口を動かしていた。


「じゃあお前は、何なんだよ。 何のためにやってるって言うんだ」


よりにもよって、こんな時に現れなくてもいいだろう。富田の思考の端っこで、ひどく冷静な自分がそんなことを呟いた。
しかしその思いに反して、富田の紅い瞳が前髪の奥で鋭く輝く。極度の興奮状態によって引き起こされた、富田に流れる、ブラッキーとしての血――そのとくせいによって、相手の心の奥底を感じ取る力が、富田の意に背いて行使された。そういえば今頃、ちょうど月が昇る頃だったんじゃないか、などと精神の冷静な部分は考える。
富田は、自分の頭の中に情報の波が流れ込んでくるのを感じた。そしてそれが何たるかを理解した。その時にはもう、すでに、彼は乾いた口を開けて最初の音を発していた。



「家でも旅でも部活でも受験でも思うようにいかなくて、またそうなるのが怖いからって――――ムキになるなんて、馬鹿らしい」



そう富田が言い切った瞬間、有原の表情から一切が掻き消えた。
「……自分だってポケモンのくせに」有原の口の端からそんな言葉が漏れる。「なのに羽沢といて、人間になったつもりかよ」それを聞いた富田の片頬が、痙攣したように鋭く動く。しかしそれも気に留めず有原は無表情のまま、顔を上気させて肩で息をしている富田を殴り飛ばそうとしたようだった――が、それは果たして実現しなかった。
その理由の一つは、膝に置いたベースが、彼が立ち上がりかけたことによって落ちそうになったこと。
もう一つは、少し戻った意識でそれを有原が慌てて押さえた途端、練習室に響いた声だった。


「今、それは関係無いだろう」


その声は泰生のものだった。それまで黙っていた彼は、硬直している有原を睨み返して言う。「歌を選ぶことに、そのことは関係無い。歌を決める話をしないなら、練習した方がいいんじゃないか」
泰生の言葉、つまり悠斗の口から告げられたそれを聞き、有原はしばらく動かなかった。視線が床に落ち、僅かに開いた口から息が漏れている。その状態が数秒か、数分か、あるいはそれ以上か続いて、彼は「そう、だな」と独り言のような声で言った。
悪い、少し頭冷やしてくる。言うが早いか、有原はベースをスタンドに置いて立ち上がった。「センパイ、ッ……」ようやく声が出せたらしい、二ノ宮が舌をもつれさせながら慌てて呼び止める。彼が手を震わせたせいで、その掌から二本のスティックが滑り落ちた。高速で床が打ち叩かれる、乾燥した音がうるさく響く。


「待ってください、もう少し話して、そしたら……」

「やめてくれ、二ノ宮」


顔はドアの方に向けたまま、二ノ宮に背を見せたまま、有原はそう牽制する。なんで、と二ノ宮が食い下がった。「ちゃんと話さないと、変なまま終わるの嫌ッスよ」
それに答えず、有原がドアを開ける。一気に練習室へと流れ込んできた、廊下を歩く学生達の騒ぎ声、学内でポケモンを放しているバカ共のポケモンが鳴いたのが反響したもの、無数の足音、何かが落ちたりぶつかる音。防音壁により、それまで外界から遮断されていたかのような練習室に、時間と世界が戻ってくる。
その喧騒の向こうに行こうと足を踏み出した有原を、「センパイ」と二ノ宮がもう一度引きとめる。ややあって、足を止めた有原は、振り向かないで「二ノ宮」と短く言った。


「お前には、わからねぇよ」


そのまま廊下へと出てしまった有原に、二ノ宮は息を飲み込んだ。数秒、彼は両手を握り締めてドアの方を見ていたが、すぐにしゃがみ込んで、床に落ちたスティックを拾い集めて椅子に置いた。頭部にハイハットの縁が引っかかり、気の抜けた音が空気を揺らす。
「ごめん、ちょっと言ってくる」そう言い残して部屋を出ていった二ノ宮が、それ以外の何かに言及することは無かった。誰のことも責めなかったし、誰のこともフォローしなかった。ただ二人置いてきぼりとなった、富田と泰生だけが練習室の床にそれぞれ立っている。



「……俺は、何か間違ったことを言ったか」

二ノ宮が閉めたドアにより、再び外界から隔絶された第三練習室に泰生の声が響く。学生の声もポケモン達の足音も、何も聞こえなくなって、時計の秒針が動く音だけがやたらと激しく主張していた。
「いえ、」まるでこの場所だけが世界から取り残されたかのような錯覚に陥りそうな静寂に、富田の声が満ちては消える。お見苦しいところをお見せして申し訳ございません、と答えた彼の声は、彼自身も驚くほどに落ち着いていた。「誰も、多分……間違ったことなんて、言ってません」有原が去った扉の方を見つめたまま、無二の親友の姿をした泰生から視線を外したまま、富田は冷静な声のままで言う。


「有原は、俺たちの中で一番、このバンドのことを考えてくれてるんです。どうすれば良くなるか、少しでもいい演奏が出来るのか、誰よりも真剣に、シビアに、細かく。…………ただ、」

「………………」

「ただ、言わなくてもいいことを、言ってしまっただけです」


その言葉において、誰が、ということを富田は限定しなかった。
主語をどう受け取ったか、泰生は「だから俺は、人間が苦手なんだ」と呟いた。富田はその発言に、腹を立てるよりも悲しくなるよりも息苦しくなるよりも早く、悠斗がもしあの場にいたらどうしただろうか、ということを考えた。その次には、そんな自分に驚いて、どうしようもなく嫌気がさした。

それでも、思わずにはいられなかった。悠斗だったらあの状況を乗り越えて、自分達を前へ前へと引っ張ってくれるのに、と。以前のように、また、富田を狭く暗い世界から連れ出してくれたときのように、彼は必ず助けてくれるのだ。
有原に言われたこと自体を否定したり、怒ったり拒絶したりする気は毛頭無い。ただ、彼にそんなことを言われる筋合いはないと感じただけである。助けているつもりで縋りついてる、何も間違ってはいない。強いて言うならば、そんなつもりもなく、ハナから彼にしがみついているのが自分ということくらいだ。

お前がその眼なのはしょうがない。
でも、大事なのは、お前が何が嫌なのかってことと、嫌なら嫌だって言うことだ。
好きなことも、嫌なことも、伝えなきゃわかんねぇよ。

あの日、閉ざされていた富田の世界をどこまでも広げてくれたその言葉。それを悠斗から受け取った瞬間、富田はこの先自分がずっと、彼を見続けるのだろうと確信した。そのことを後悔したことは一度も無い。これまで少しも変わっていないそれが今後変わることも多分に無く、富田は今でも羽沢悠斗に生かされている。
縋っているなんて当たり前だ。彼に手を伸ばさない日など来るはずが無いし、彼の背中を追い続けるのは当然のことだ。むしろそうでない方が不自然だとさえ思ってしまう。


富田にとっての羽沢悠斗は、それくらいの存在なのだ。
言う必要の無いことを言葉にしてしまうこと、言わなくていいことを口にしてしまうこと。言ったって、どうせ伝わりはしないということ。それをおそれずに、彼は自分の気持ちを伝えることが出来る。
だからこそ、相手の心を動かせる。
そんな彼に、自分は、縋らずにはいられないのだろう。


泰生は険しい顔のまま無言を貫き、練習室には再度沈黙が訪れた。富田は立ち上がり、ギターを片付けるためケースのジッパーを降ろして開ける。
「帰るのか」「ええ。もう今日は、何にもならないでしょうから」そんな会話が交わされた後、泰生は数秒富田を見ていたが、それもやめてミックスオレの残りをあおるように飲み干した。彼の喉が鳴る音が、富田の鼓膜を僅かに振動させる。ギターをしまいながら、有原に何と言うべきかを富田は考えてみたけれど、明確な答えは何一つ出なかった。ただ、悠斗に相談する気にもならなかったし、二ノ宮に何か言うことも出来そうになかった。

ケースに収まったギターを眺め、富田はそこに映った自分の姿を見て思う。助けているつもりで縋りついてる、そんな有原の言葉が頭の中にこびりついていた。
自分はどこが気にかかっているのだろう、ということを富田はわからずにいる。縋りついてる、の部分をどうこう言う気は無いのだから、だとすれば、どこが。
ちらりと視線をやった先では、泰生が黙って腕を組み、何するでもなく壁を睨みつけていた。視線の行き先を戻し、再びギターの中の自分を見る。赤いボディに映った富田自身は、髪も肌も服も何もかもが真っ赤に染まっていて、今も昔も悪目立ちする紅い瞳のことなどは少しもわかりはしない。
何度も誰かを傷つけて、それ故に自分は疎外されてきて、見たくないのにわかってしまう。つい先ほどにも富田を襲ったそんな『特別』の不幸、その象徴がこの紅い両眼だ。それが『特別』じゃなくなっている。ギターに映し出される、何度も望んでやまない自分の姿に、富田は頭の奥が重く鋭い痛みを訴えるのを感じた。





どうにかしなければ。落ち着け。冷静になれ。あの時のことは関係無い、今はただ単にメロメロのせいでそうなっていただけ、大丈夫、本当に自分の言うことが通じないわけじゃない、そうではない、そうじゃない――――


悠斗は必死に、自分にそう言い聞かせる。しかし胸の鼓動は少しも収まらず、全身からは嫌な汗が噴き出し続けていた。「よけろ、」そう言った声ががくがくと震えているのに気がついた、悠斗の視界が不規則な明滅を繰り返す。
シャンデラとマリルリは、その攻撃こそかわしたものの、明らかに弱った様子で身体をぐらつかせた。ミロカロスの放った水流が壁を叩き、耳を壊すほどの轟音が鳴り響く。次にアレがまた来て、もしも当たってしまえばもうおしまいだ、その確信が悠斗をさらに焦らせた。

「ミタマ、シャドーボール、キリサメはばかぢから……」
「ミラーコートだアケミ! キャシーはリフレクター!」

その焦りは悠斗に、根元の声を聞くという行為を失わせた。ミロカロスとニャオニクスがそれぞれ目の前に作った、透明に光り輝く壁すらも悠斗の目には入らない。
シャンデラが紫色の弾幕を放ち、マリルリが両腕を振り上げ殴りかかる。シャドーボールはミロカロスの次なる攻撃の糧となり、ばかぢからは当たっているように見えてその威力を軽減させられているのに、そのことに思い当たる余裕は悠斗に残されていなかった。ただ、シャンデラとマリルリが自分の言葉を聞いてくれている、そのことが奇妙な安堵を生み出し、同時に彼を崖っぷちへと追い詰めているのである。

「シャドーボール、エナジーボール! オーバーヒート! とにかく打ち込め、キリサメもばかぢからを繰り返すんだ!」

叫ぶような彼の声に、シャンデラとマリルリも滅茶苦茶に攻撃を重ねていく。彼らも先程の負い目があるのだろう、少しでも自分のトレーナーの意に添えようとするあまり、相手の様子に気づいていない。シャンデラの技を受けるたびにミロカロスの眼光は強くなり、マリルリの激しい暴力をニャオニクスは半ば受け流すように喰らい尽くす。一見痛みを涙ながらに耐えているかのような彼女達の口元が、確かに笑みを形作っていることを、彼らは見つけられないのだ。
大丈夫だ、あの時のことは今は忘れろ、今は関係無いんだから――悠斗は心の中でそう叫ぶ。忘れろ、忘れろ、それで良いと決めたはずなのだから、今更悲しむ必要も恐れる必要も無いのだから、もう気にすることなんか、と。どうにか震えの落ち着いてきた両足で、悠斗は次の一手を考える。

「アケミ、キャシー……」

根元の声がコートに響いた。途端、それまで黙って攻撃を受けていた、ミロカロスとニャオニクスの姿勢が変わる。反撃しない、いたいけな弱さを装っていた姿は一変し、ミロカロスは長い尾でシャンデラの顔を叩き打ち、ニャオニクスは自分を殴っていたマリルリを一蹴する。ちっとも堪えていない彼女達の姿に、床に転がされたシャンデラとマリルリはハッとしたように顔を上げた。
「ミラーコートとサイコキネシス」根元の声に、悠斗はそこで初めて自分が窮地に立っていることに気がついた。それは二匹のポケモン達も同じだったが、どちらにしてももう遅い。拳を白くなるほど強く握り締めていた、森田が声にならない叫びをあげる。

ミロカロスの身体が強く輝き、その身に受けたダメージを膨らませていく。ニャオニクスの耳がぶわりと広がり、抑えられていた力が溢れ出していく。圧倒的なそのパワーを感じ取り、悠斗はやっと意識を取り戻したものの手遅れだ。

ミロカロスの巨躯の影となり、床スレスレを浮かんだシャンデラが凍りつく。
ニャオニクスから流れる殺気と戦意に、逃げようとしたマリルリが足をもつれさせてへたり込む。
抜け出ることの出来ない、確約された敗北と苦痛が今まさに振り下ろされようとして、恐ろしい静寂がコートの全てを包み込んだ。



しかし――――


「アケミ、キャシー。やめ」

根元の声がコートに響いた。
刹那、白線の中に渦巻いていた激動の全てが一瞬にして霧散する。ミロカロスは尾びれを振り上げたままの姿勢で、ニャオニクスは耳を広げて飛び上がったままの体勢で、それぞれピタリと動きを止めた。

「なん、っ……」

悠斗の口から、そんな叫びが漏れる。目を瞑り、これから来るはずだったであろう猛攻に耐えようとしていたマリルリと、弱々しくなった炎を揺らして低空飛行するシャンデラも、急な停止に呆然と根元を見た。マリルリが、気の抜けた声で短く鳴く。周りで見ていたギャラリー達が、何事かと口々に囁き合った。森田とミツキは言葉も交わせず、状況を見守る以外に出来ることが無い。
ミロカロスが、優雅な所作で長い尾をゆったりと頭の後ろへ戻して常時のポーズをとる。ニャオニクスの耳が収束し、冷たい床へと音も無く降り立った。そんな彼女達の後方から、根元がコートを突っ切って歩いてくる。至極落ち着いた、余裕を失わない、というより当たり前かのような足取りに、マリルリとシャンデラは止めることも出来ずにただ眺めるだけだった。

「羽沢くん」

悠斗の前まで来た根元が、足取り同様落ち着いた声で言う。渋みのある顔は穏やかで、たった今バトルを中断した者のそれとは思えない。

「今日はもう、これで終わりにしよう」

そう言われて、悠斗は一瞬、その言葉の意味がわからなかった。
次の瞬間に襲ってきたのは、激しい疑問と混乱だった。終わりにする? 何を。いや、それは決まっている、バトルだ、なぜ? 無様な戦いをしたからか? でもそれなら、根元にとっては喜ばしいことのはずだ。それなのにどうして、そもそも自分が仕向けたことなのに、なんでそんなことを言いだすんだ?
押し寄せる思いに言葉を失った悠斗を見て、根元がどう考えたのかはわからない。しかし少なくとも表面上は、同情するような笑みを浮かべて、「羽沢くん」と根元は悠斗の肩を軽く叩いた。


「残念だけどね。これ以上続けたら、失礼、だから」


その手つきは、不得手なバトルをした者を馬鹿にしているようでもなく、せっかくの機会を無駄にしたトレーナーに憤っているようでもなく、また、あえてそう仕掛けたなどという裏が感じられるようなものでもない。ただ、本当に『残念』だと思っているかのようなものだった。
動くことの出来ない悠斗の肩から手を放し、根元は悠斗に背を向ける。疲れきったらしく、床にへたり込んでいたマリルリと力無く漂っていたシャンデラが、それでも、自分のそばを通ろうとする彼に戦意を向けた。
が、根元はそんな二匹に「お疲れ様」とだけ言い添えて、微笑と共に通り過ぎてしまう。肩透かしを食らったように、次の行動を図りかねたマリルリとシャンデラは、その背中を見送るしか無かった。「ありがとうね、今日も強くて美しかったよ、アケミ」「やっぱり君ほど賢い女は他にいないよ、キャシー」ミロカロスの首を抱き寄せ、ニャオニクスの頭に手を添え、根元は自分のポケモン達にそう囁く。はたから見れば奇妙かつ陳腐に思えなくもないその光景は、しかし、二匹のポケモンは心から嬉しそうに根元に身体を擦り寄せた。お疲れ、最後に片腕ずつで抱き締めてから、根元は二匹をボールに戻す。

「皆さん、申し訳ありません。羽沢くんの体調が優れないようですから、今日は一旦、これでおしまいにさせていただけませんか」

そう、コートにいる者達へと言った根元に、最初こそみんな戸惑ったように視線を交わし合っていたものの、すぐに各々頷き出す。「それならしょうがない」「マスコミが入ってない日で良かった、もしそうだったら面倒だからな」「リーグ前だからな、今後こういうのも増えてくよなぁ」トレーナーの体調不良によるバトル中断は、練習試合ならば別段珍しくも無いらしく、皆慣れた調子で片付けを開始した。マックスアッププロダクションの方はこの後も予定が詰まっているらしく、スタッフ達は忙しなく動き出す。
「ノブさんが勝つところ楽しみにしてたのにー」「アケミちゃんの決め技見たかったー」根元のファンが口々に不満を漏らす。そのひとりひとりに笑顔を返しながら、根元は「ゴメンね、せっかく来てくれたのに」「次は絶対ちゃんと勝つからね」「そういえば髪型変えた? 似合ってるよ、ドレディアみたい」などとそれぞれに言葉をかけていった。年齢問わず集まったファン達が揃って頬を赤らめ、幸せそうにしているのを見て、マックスアッププロダクションの者は苦笑いを浮かべつつもどこか喜ぶような顔をする。根元に向けられた視線は全て、この場では熱く優しいものであった。

「じゃあ、羽沢くん。またの機会を楽しみにしてるよ」

気をつけて帰ってね、と、一足先にコートを去ろうとする根元が片手を上げて悠斗に言った。ぱちん、と指を鳴らす仕草は年甲斐も無くキザだったが、不思議と嫌味にならないそれにファン達が黄色い声をあげた。
その中の一人、悠斗とそう歳の変わらないだろう、高校生か大学生くらいの少女が、根元と親しげに言葉を交わして歩いていく。黒い長髪が翻り、僅かに振り向いた彼女が悠斗をちらりと見遣っていった。突き刺すようなその視線に、悠斗は自分の足が、瞬く間に冷え切っていったように思えてならなかった。
「僕らも帰りましょう」森田が悠斗に声をかける。近くの病院に連絡しましょうか、というマックスアップ側の気遣いを丁重に断った彼は、慌てて二匹をボールに戻した悠斗を促してコートを出る。すでに根元達は上に戻ってしまったらしく、地下のエレベーターホールはしんとしていた。





「わかってるかもしれないけれど……」

地上に戻り、車に乗り込んだところで、それまで黙っていたミツキが言った。運転席と助手席の間に置かれた森田の携帯が、不整脈のような明滅を繰り返して言葉を吐く。

「バトル中に羽沢くんが嫌な気分になったり、何か悪いことを考えてしまったときがあったりしたら、それは呪術のせいだよ」
「根元の、ってことですか」
「そこは確証無いから、はっきりとは言えない。思ったより手強くて、深入り出来ないようガードまで張りやがってたから詳しくはこれから調べてくしかない。……けど、呪いの質に関してはさっきも言った通り、あの男が使ってるってことで道理が通るね」
「人それぞれで、その……呪いの質? というものが異なるのなら、どうしてそこまでわかっているのに確定出来ないんですか? 今それがわかっているのなら、根元で決まりということにはならないんですか?」
「親子とか、兄弟姉妹とか。あと、いるかどうかは別としてクローンとか? 遺伝子が近い人っていうのは、呪いも同じか近い質になりやすいんだよ」

とはいえ、あの人ご両親亡くなってるみたいだし、遊んでるだけあってずっと独身、家族もいないってことだから。ほぼ本人なんだけど。でも一応ね。
携帯から流れてくる、考え込むような調子の音声は、悠斗の耳にほとんど入ってこなかった。先ほどのバトルで、二匹が自分の言うことを聞いてくれなくなったときの衝撃と、困惑が、今も尚激しく胸中で渦を巻いている。
割り切ることは出来る。別に、泰生のポケモンと意思疎通を図れないことに対して悠斗が被る損害など無いし、そもそも本来、見てくれこそは羽沢泰生とはいえ悠斗の言葉に彼らが従う必要など存在しないのだ。当たり前のこと、何らおかしくないことだと、そう納得することも出来るはずだ。
それでも、と、悠斗はあのとき蘇った記憶に押し潰されそうになる。ずっと目を背けてきた、あのことを思い出してしまったのは何も呪いのせいだけではなく、きっと、あのとき自分が感じた想いがバトル中に抱いた恐怖と似通っていたからでは、ないだろうか。


何を言っても、通じやしない。
言うだけ無駄だから、もう何も言いたくない。

それは、ポケモンに対して思ったことだったのか、それとも――――


「とにかく、根元の野郎が怪しいのは間違いないんですね。さっさとシッポ掴んで影踏んで、黒い目で見てやってくださいよ」
「わかってるけど……森田さん荒れてない? 安全運転で頼むよ、ホント……」

赤信号が青になるなり、アクセルを強く踏んだ森田にミツキが若干震えた声で言う。
猛スピードで動き出した車窓の向こう側、ヒトモシを抱き締めてとても楽しそうに駆けていく小さな少年の姿が流れていくのがちらりと見えて、悠斗は別段重くもない瞼を閉じた。





やや危ない運転を繰り広げた森田に送られて帰宅した後、悠斗は自分の部屋で一人、何をするでもなく座り込んでいた。腰掛けたベッドの上には手直ししたい曲の楽譜が散らばっているし、パソコンに表示されたテキストソフトはやるべきレポートの未完成ファイルを表示している。机に置かれた数冊の本は森田に借りたポケモンバトル専門書で、読み込んでおかなくてはならないとわかっているのに読む気になれなかった。何をやる気持ちにもなれず、それでいて寝てしまえるようなわけでもなく、ただ無意味に天井を見たりして時間だけが過ぎていく。
あまり気にしないで、今日はゆっくり休んでおいて。そう言った森田と、彼の携帯から抜け出てロトムの姿を表したミツキは気づいただろうか。もしも自分が浮かない顔をしていたのならそれは、根元に実質負けたからでも、駄目なバトルをしてしまったからでも、彼が犯人だろうとわかったからでもないことを。勿論、根元に勝てなかったことに悔しさはある。羽沢泰生として活動する手前、もっとまともなバトルをしなければと自分を責めてもいる。黒幕の可能性が大きい根元に、恐怖と憤怒と憎悪を感じざるを得ないのも本当だ。

だけど、今はそれよりも、別のことが悠斗の頭を占めていた。
バトルの最中、蘇ったあの記憶。忘れるはずはない、いつだって自分の行動指針に根差すものとして、常に自分を突き動かしている一因であるのは間違い無い。でも、見たくないから目を逸らし続けて、見えないふりをしていたのも確かである。見ないように感じないように、地雷を避けて通るかのごとく、悠斗はあの日の記憶をしまい込んでいたのだ。
それなのに、無理矢理引き上げられるようにして、(ミツキ曰く『呪い』によって)あの記憶が意識の外側へと戻ってきてしまった。これが事実なんだと叩きつけるように、抗えない過去なのだと断言するように、悠斗の意識に張り付いて離れない。考えたいわけでもないのに頭が勝手にそのことを思い、悠斗の行動を奪っていた。

ポケモンが嫌い。
泰生が憎い。
そう思い続けてきた自分と、あの日を境に立ち止まったままの自分と、向き合いそうになってしまう。


「おい、悠斗」


間が悪いことに、ドアを開けて部屋に入ってきたのは泰生だった。「ノックくらいしろよ」親に言うにはごく当たり前のそのセリフを口にしてから、悠斗は自分がそれを初めて泰生に言ったということに気がつく。何しろ今の今まで、泰生が自室を訪ねてくることなど一度も無かったのだ。それを認識したことで、悠斗の苛立ちはますます募る。
そんなことは露知らず、泰生は一人で喋りだす。「ミタマ達のことだが、あんなケアでは駄目だ、もっと丁寧に……」それは先程、悠斗が帰宅後にシャンデラ達に施したケアのことを言っているらしい。バトルで負った怪我は、応急処置くらいならポケモンセンターでやってくれるものの、軽度なものや長期的なものはトレーナー自身が担うか、センターではない個別の病院や診療所に頼むのが一般的である。羽沢家では地下の一室をポケモンの部屋として割り振っており、泰生は今しがたそこに行ってシャンデラらの様子を見てきたようだ。
「お前が怪我したとき、あんな雑にされたら嫌だろう。薬や湿布も使い分けて、もっと細かく見て……」泰生の言葉に、悠斗は適当な頷きを返す。見た目が悠斗である今の泰生がケアをするわけにはいかない以上、それは悠斗の役目だとは悠斗自身も自覚している。泰生と話すのは気乗りしないが、言っていることはもっともだからと悠斗は嫌々ながらも聞くことにした。黙って聞いておけばいずれ終わる、今の自分のすべきことはそれだけなのだから、と思ったのである。

そのはずだった、のだが。


「……だから心配なんだ、ポケモンに慣れてないお前に世話をさせるのは、ポケモンのことをわかってないような素人に……」



本気で、頭にきた。

泰生の発言に、悠斗の瞳孔が大きくなる。頭の中が急速に冷え切ったように感じられた。自分の心臓が脈打つ速度を上げているのに、同じ胸の中はどんどん冷静になっていくようだった。喉の奥から口の中へ、不味い何かがせり上がってくる。
「…………お前は、」そう言った声が驚くほどにはっきりしていた。


「じゃあ、お前は! お前は、何がわかってるっていうんだよ!?」


それは悠斗が今まで、ずっと抑えつけてきた気持ちだった。

いや、抑えつけていたわけではないかもしれない。暗に示してはいた。あの日を境にポケモンに近づかず、泰生と口を聞くことすらやめた。十歳の誕生日を迎えても旅になんか行かなかったし、ポケモンだってもらわなかった。それどころか、学校で取得させられたトレーナー免許を自力で役所に返還したくらいだ。少しでもポケモンと関わらないような生活を選び、ポケモンの要素が無い音楽に浸かり、ポケモンからもトレーナーからも自分を遠ざけるようにし続けた。これがお前の息子なんだ、お前が引き起こした結果がこの有様なんだと、そう、見せつけるように。

しかし、直接言ったことは一度も無かった。言う気がしなかった? 言っても無駄だと思った? 口を聞くのも嫌だった? それとも、別の理由?わからない。いずれにしても、悠斗は今まで一度だって、泰生本人にこんな気持ちを打ち明けたことは無かったのだ。


「お前がポケモンのことをわかってるってのはわかる! 嫌なくらいわかってるよ! でも、お前はポケモンばっかりなんだ、ポケモンのことわかっても、お前は人間のこと何もわかってないんだよ!」


悠斗の声が、廊下を伝って家の中に響き渡る。二階にいる彼らの声を聞き、階下のドアから真琴が姿を現した。険悪な雰囲気をいち早く感じ取った彼女は階段に足をかけたが、悠斗の叫びによってその歩を止める。
「いつもそうだ、昔からそうなんだ……」拳を握り締め、悠斗は呼吸を荒くする。「ポケモン、ポケモンってそれだけで……他のことは何一つ、なんにも考えてねぇんだもんな!」


「ポケモンの気持ちがわかるってなら、その十分の一でも百分の一でもいいから、人の気持ちも考えてみろよ! 人間のことも! まあ、無理だろうけどな、お前には一生、出来るわけないんだ!!」


違う。そんなことはない。悠斗の心の中で、そんな声が響き渡る。

森田に聞いた、八年前の泰生。彼は何のために前の事務所をやめたって? 相生がどうして今もポケモンバトルを続けてるんだって? 森田が泰生のことを、どう思ってるんだって?
考えろ。思いとどまれ。それ以上言うな。声は必死に叫び声をあげ、悠斗を止めようと啼き続ける。しかし、いったん蓋を開けてしまった瓶の中身を戻すことは出来ないのと同じで、いちど口をついて出てしまった言葉の波は、もはや絶ちようの無いものなのだ。

「そうやって、ポケモンのことしか考えられないなら、」血の昇った頭で、自分が何を言ってるのかもわからず悠斗は言う。「いつまでも変わんないで、ポケモンと生きてくって言うんなら、」何を言うでもなく、ただただ黙って聞いている、無表情の泰生に向かって。「俺は、お前を、」


「一生理解なんか出来やしない! お前のことなんかわかんねぇし、どうせお前だって俺のこと何もわかれないんだよ! ずっと思ってた、お前見てると気持ち悪いんだ! ポケモンもそうだ、全部全部、キモいし怖いし嫌なんだよ! わけわかんない、意味不明すぎ、絶対理解出来ないししたくないって、ずっと思ってたんだよ!」

「……………………」

「お前がポケモンといたいってのはどうでもいい、俺には関係無い。でも、俺に関わるな! 理解出来ない伝わらないわからない話聞かないそんな奴らなんか一緒にいたくねぇんだよ!」


滅茶苦茶だ。何もかも。
心の中の自分が、真っ暗な闇の中でそう、へたり込んだ。

あの日の俺が言いたかったのは、そんなことでは無いだろうに。



それでも、言葉は少しも止まってくれなかった。
「お前なんか、」黙ったままの泰生の瞳を睨みつけ、悠斗は唸る。そこに映った自分の姿が泰生の形をしていることがあまりにも呪わしくてあまりにも腹立たしくて、そして、あまりにも悲しかった。「お前なんか」



「ポケモンのことしかわからないお前なんか、旅でもなんでもどこにでも行って、ポケモンとだけ生きていればいいんだよ!!」




「悠斗」


そこで、割り込んできた声があった。
真琴だった。

「悠斗、もうやめなさい」

一段ずつ階段を上りながら、静かにそう言った真琴は泰生から悠斗を引き離し、二人の間に距離を作る。「これ以上はやめて」
泰生は黙りこくったまま突っ立っているし、真琴はそれ以上何も言わない。悠斗はどうして良いかわからず、二人の親の顔を交互に見遣り、成り行きを見守る他無かった。悠斗にとって、息苦しいほど気まずい沈黙が三人を包み込む。
そんな時、泰生のポケットの中で携帯の着信音が鳴り響いた。出かけた時のまま持っていたものだから、実際は悠斗の携帯である。こんなタイミングで、その場にいた三人全員がそう思ったが、「はい」泰生が応答のアイコンをタップして電話に出る。

「ああ、……そうだが……ん、そうか……ああ、わかった」

「今そっちに向かう」そう言って電話を切った泰生は、先程と変わらぬ仏頂面のまま「少し出かけてくる」と悠斗達に告げた。

「お前のバンドの、二ノ宮……って奴に呼ばれた。何か話があるらしい、すぐそこのファミレスにいるから、と」
「は!? この流れで、しかもお前がそんな、……何あったんだよ今日学校で!」
「呼ばれたものは行くべきだろう、お前なら行ってるに違いないんだから、今の俺は行かなきゃいけない。真琴、十二時までには戻る」

狼狽と怒りが入り混じった声で騒ぐ悠斗を他所に、一人で話を進める泰生は壁にかかっていた上着を羽織り、階段を降りていってしまう。身勝手な足早さで玄関に向かった彼は、じゃあ行ってくる、と言い残して外に出た。
家の中に取り残された悠斗と真琴は、泰生が閉めた扉を眺めて呆然と立ち尽くす。奇妙な沈黙がしばらく二人を取り囲んでいたが、「なんだよ、本当」悠斗がやがてそれを破った。「どんだけ自分勝手なんだよ」語気が荒いくせに、どうしようもないほど掠れた声で、悠斗はいなくなってしまった泰生に悪態を吐く。「マジで、意味、わかんねぇ……」


「…………ごめんね」


それに言葉を返したのは、悠斗の言葉を黙って聞いていた真琴だった。予想外かつ望まない謝罪に、「母さんのせいじゃないよ」悠斗は慌てて否定する。母さんが悪いってわけじゃないから、と取り繕ったように笑った悠斗に、真琴は静かに首を横に振った。

「そうじゃなくて、悠斗と……いうも悠斗の味方みたいなことを言っときながら、悠斗と、あの人の……どっちの味方でもいたいって思うこと。悠斗も、泰生も」

どっちも選べなくて、ごめんね。
そう言った真琴に、悠斗は苦笑したまま手を振ってみせる。「そんなの、選ぶとかさ」軽い調子で悠斗が言う。「比べるもんじゃないでしょ、そういうのって」
しかし真琴は「ううん」尚も首を振り、丸い形をした目を伏せた。「そうじゃなくて」


「さっきみたいに、もしも悠斗と泰生、どっちかにつかないといけないってなったら……私はきっと、泰生を選んでしまうから」


それでも悠斗の母親を名乗る、私はずるくて、ごめん。きっぱりと言い切った真琴に、悠斗は返す言葉を無くす。
二人が立っている階段の下、地下室の扉の隙間からはシャンデラ達三匹がいつの間にか顔を覗かせていた。階上の騒ぎを聞きつけたのか、何事かと心配するような表情をそれぞれ浮かべて悠斗達を見上げている。それに「大丈夫よ」と手を振ってから、真琴は悠斗の目へと視線を戻した。


「ずっと昔、約束したの」

「え?」

「私は、何があってもあんたのことを離さないって」


真琴が実年齢よりも若く見えるのは元々のことであるが、そう言って少し、切なげな微笑みを浮かべた彼女はいつも以上に歳若い風に思えてならなかった。それこそ、『ずっと昔』、今の悠斗の姿たる羽沢泰生と出会った頃の彼女のように。
「絶対に破らないから、いつもあんたの味方だから、って」懐かしむような、慈しむような、それでいて哀しむような声で真琴が言う。「そう、約束したのよ」


「旅をするしか道のない、帰る場所がなかった頃の、あの人に」


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