マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1427] 第十話「恍然大悟」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/30(Mon) 18:57:52   25clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「私は昔、カイナのポケモンセンターで働いてて……あの人とは、そこで出会ったの」


悠斗が生まれるよりもずっと前のこと。
ポケモンセンターのジョーイさんの一人として働いていた真琴は、旅の途中でカイナを訪れた泰生と出会った。当時の泰生はまだ若かったが、すでにポケモントレーナーの才覚を十分に発揮しており、バトルに通じている者達の間でちらほら名前が挙がるようにもなっていたほどである。そんな彼がカイナにしばらく滞在することになったのも、その腕に目をつけたカイナ民達が、来月開催されるバトルフェスに是非とも参加してくれないかと頼み込んだからだった。
真琴が泰生を初めて見たとき、彼女は彼にどうしようもないほどの鋭さを感じ取った。それは真琴が職務上の会話を泰生と交わすようになり、少しずつ世間話や他の話題を持ちかけるようになり、フェスが終わった後も泰生を説き伏せてその隣を歩くことを決意し――やがて結婚に至ったときにまで変わらなかった。泰生は強く、頑固で、決して曲がることのない信念を持ち合わせていたが、しかしその剥き出しの信念は、時にとても脆いものであるかのように思えてならなかった。

『抜き身の刀』。真琴は、それが泰生にぴったりの言葉だと思った。鋭くて、強いけれど、それを納めるところが無い。だからいつでも、刃を他者に向け続け、自分を守っていく他無いのだと。


「でもね、その理由はわからなかったの……実力があるせいで、金目当ての人に利用されたり、妬まれたり、疎まれたりしてひどいことをされたり言われたりして、そうなったトレーナーなら沢山いるけれど」

勿論、泰生にもそういった一因はあった。
旅の途中、彼が強くなればなるほどに、彼の力を賞賛する者の数と反比例するようにして彼を呪う者も増えていたし、彼を自分の都合の良いように使ってやろうとする輩もいた。心無い言葉を投げる者も際限なく存在したし、嫌がらせや誹謗中傷の類も数え切れないほどあっただろう。それらが、泰生の厭世や人間不信に繋がったのは確かだ。
しかしそれだけではない。というよりも、泰生にはそういった、怒涛のような負の感情に対して少しも屈することが無かったのだが、それほどまでに彼が強くなってしまったのは果たして喜ばしいことなのだろうか、と真琴は常々思うようになっていた。精神力の強さというものはトレーナーとして、ある意味バトルの腕前以上に必要だと言えるけれど、泰生のそれは年齢の割に激しすぎていたのだ。何を言われても、どんなことをされてもビクともしない、自分を疎む者のことなど歯牙にもかけずにただひたすら前だけに進む泰生は、一見すれば最高のヒーローであるように思える反面、ひどく切ない姿をしていた。

真琴はずっと、そのことが気になっていたが聞くにも聞けず、タイミングを見計らうばかりの日々が続いていた。が、あるとき、それはとうとう真琴の知るところとなる。

「結婚することになったときに……あの人が、自分から、話してもいいか、って言ってきたの」





『俺は、どこにも帰れない人間だ』
そう切り出された、泰生の口から語られるその話は、彼の強さの所以となった、絶対に果てることのない深い闇のような話だった。


泰生の父親は、冒険家だった。
バトルはかなりの腕前で、各地を回っては多くの勝利を収めて栄光を受けていたトレーナーだった。それ故家にいることは少なかったが、たまに帰ってきては旅の話をしてくれて、強くてかっこいいポケモン達も一緒に遊んでくれる父のことが、泰生は大好きだった。
彼はいつも、泰生にバトルを教えてくれて、そしてその時には必ずこう言うのだ。

『ポケモンリーグっていう、一番バトルが強くて、一番素敵なトレーナーを決めるお祭りがあるんだ』

『リーグに出るといつだって、すごい楽しくて、ドキドキして、このために生きてる、って思うんだよ』


『なぁ、泰生。お前が大きくなったら、あのコートで、俺と闘ってくれよな』


しかし、それが実現するよりもずっと前、泰生のトレーナー免許取得すら待たずして、彼は命を落とすことになる。
旅先での事故だった。急な天候の変化により山の中で迷う羽目になり、重い疲労の蓄積で判断能力が鈍ったところで崖から転落したということだった。
不幸中の幸いと呼ぶべきか、彼のポケモンが入ったボールだけは無事であり、救助隊によって後日ポケモン共々彼の家に帰された。遺された泰生と、母親にとって唯一父親の影を感じられるのがそのポケモン達で、泰生はもういない父に代わって、彼らの世話を懸命に見ていた。母子二人は際限の無い哀しみに暮れていたが、父の愛情を受けて育ったポケモンと共に過ごすことによって、少しずつそれは薄れていったように思えた。
そしてやがて訪れた、泰生の十回目の誕生日。コガネシティにある近くの池で出会ったルリリを連れて旅に発った泰生を、今は亡き父のポケモン達と、彼のただ一人の母親は、笑顔で見送っていた。

泰生には父親譲りの、バトルの才能があった。それは旅を初めてすぐに顕著になり、彼は順調に腕を磨き、力を増し、その証であるバッジを集めていった。
ジョウト地方を歩き続け、その数が六に達した時のこと。十五になった泰生は、一度家に帰ることにした。特別な意味は無かった。ただ、タンバに行くためにコガネの近くを通るからということと、数年前に母から再婚したという報せがあったがその相手に挨拶をまだ出来ていなかったこと、というそれだけの理由だった。
久しぶりに足を踏み入れた、うるさいほどの騒がしさと眩しすぎるほどの賑わしさを通って家への道を行く泰生は、他の町にはない喧噪に懐かしさを感じてもいた。暮れかけた空の下、夜に向かう街並みが派手派手しいネオンに満ちていく中、ゲームコーナーの窓ガラスから外を覗いている商品のケーシィやミニリュウに視線を向けながら、彼は家がある住宅地へと急ぐ。

「泰ちゃんやないの! もう、ずっと帰って来へんから、母ちゃん心配しよっとったで!」

自宅のすぐ近くまで来たところで、泰生に大きな声をかける者がいた。「よーこちゃん」泰生は笑顔で振り向き、近所に住んでいる三つほど上の少女に返す。「しゃーないわ、俺やてずぅっと忙しかったんやもん。バトルも、旅も、みんな楽しゅうて」ジョウトの言葉で、泰生は朗らかに笑って言った。「せやから、遅くなってもうた。やっと父ちゃんに挨拶出来るわ」
送ってったる、という少女と久々の会話を交わしつつ、泰生は家を眼前にする。「ああ、ひっさしぶりや……」が、そこで泰生の、明るく喋っていた声が消えていった。なした? 少女が不思議そうに首を捻る。

「なぁ、よーこちゃん」

五年ぶりに見た家は、何も変わっていないように思えた。外見も庭の様子もそこに生えたキーの木もそのままだ。
だけど、泰生にとっては大きな違いがあった。旅立つ前、いつも庭にいた父のポケモン達。「ルイはどないしたん」自分を軽々抱き上げる、頼もしいカイリューの名前を呼ぶ。「ハヤブサはどこ行きおったんや」大人になったら背中に乗せてくれると約束した、ウォーグルの名前を呼ぶ。「ミライは、キースケは、マリマリは、チュータは」いるはずなのにそこにいない、影も形も見せない父のポケモン、彼にとっての大切な存在の名前を。「みんな、どこにいるん?」


「はぁ? 泰ちゃん何言っとるん、母ちゃんから聞いてないんか? 赤ちゃん生まれるっちゅーて、みんな施設に引き取ってもろたねん」


「あ?」


「へ…………? あ、なんや……? …………聞いてたん、違う……?」


全く予想だにしていなかった、少女の言葉に泰生は耳を疑った。
自分がまずいことを言ったのだと気づいたらしい少女が、「いやな、違くて」と顔を青くする。「施設ちゅーても保健所とかやなくて、もっと別な、そう聞いとるし」彼女は慌てて言葉を取り繕ったが、泰生には届いていないようだった。彼はただ、自分の家をじっと見つめて、本格的に暗くなってきた道に立ち竦んでいた。

「よーこちゃん。俺、行くわ」

「え!? ちょ、泰ちゃ……」

少しの沈黙の後、泰生の口から発されたその言葉に少女は狼狽える。日焼け気味の、健康的な色をした手が反射で泰生に伸ばされる。
しかしもう、泰生は家に背を向けて歩き出していた。その背中を追いかけることも足を動かすことも出来ず、ただ漠然と何かを感じ取った少女は「泰ちゃん」ともう一度名前を呼ぶ。
そんな少女をくるりと振り返り、泰生は少しだけ笑顔を浮かべ、「母ちゃんに、……」言い淀んで、こう告げた。


「母さんには、言わないでおいてください」




ポケモン達がいなくなった庭。窓の向こう側に見えるベビーベッド。遊び場だった車庫に停まるのは、家族用のワンボックスカー。漏れる光に浮かび上がる、二人の男女が小さな赤ん坊を抱き上げているシルエット。
うっすらと聞こえてくる楽しげな話し声には、ポケモンのそれなど混ざらない。



ああ、母は今度は、いなくならない人を選んだのだ。



泰生が一番に思ったのは、そんなことだった。


そして母の世界に、父はもはやいないのだ。


次に思ったのは、そんなことだった。
だから父の面影が残るポケモン達はいなくなって、今の彼女はきっと幸せで、あの家の中はきっとと終わることの無い幸福に満ちていて、あの時自分がいたような空気はもう流れていなくて、素敵な時間がそこにはあって…………。
色んな考えがめまぐるしく頭を駆け巡った末、彼は最後にこう思った。

もう、あそこには帰れない。
父の面影を残した自分は、あの家に帰ることが出来ないんだ。


少女はもう、それ以上追いかけてはこなかった。出来なかったのだろう、言葉だけでなく、あの瞬間に顔つきまでもが変わったような泰生のことを追いかけるのは。
そして泰生はコガネシティを後にし、ジョウトから外へと出ていった。他の地方でさらに多くの勝ち星を挙げて、その実力をより確かなものにして、たくさんの人の羨望を浴びてそれと同じだけの憎悪を向けられて、それでも尚――――彼は、一度も振り返らなかった。一度たりとも、足を止めてうつむくことなどしなかった。
それは彼がどれだけ名声を手にするようになっても変わらなくて、真琴と出会ってからもずっと、同じだった。泰生は何があっても前を向くことをやめなかったし、誰かの手を借りて自分を支えるということもしなかった。世界の全てに背を向けたように、彼は人間の言葉に耳を傾けるのをやめて、まるでその分を埋めるようにしてポケモン達との絆を深め、ポケモンと信じ合うことでさらに強さを増していった。


それが、羽沢泰生という人間だった。
自分の帰るべき場所がその姿を変えてしまってから、彼はいつも、そうやって生きてきたのだ。




「そんな、泰生の家に行こうって言い出したのは私なの。悠斗も生まれるから、報告くらいはしなきゃいけないから、って言って……本当は、それよりも、泰生が帰れなくなった家に『この人の居場所はもう私が作るから!』って、見せつけたかったって方が大きかったけど……」


どちらにせよ、真琴はその選択をしてしまったことを、ずっと悔やみ続けることになる。
帰郷を渋りながらも、お前がそういうんならと根負けしたように言った泰生を連れ、二人はよく晴れた冬空の下、ジョウト地方を訪れた。真琴にとっては初めてのジョウトで、電車の窓から見える景色などに歓声をあげる彼女と、それを「うるさい」などと言い捨てつつも止めない泰生は、確かに穏やかな幸福に包まれていたといえよう。泰生がその時何を考えていたのかは定かではないが、あれ以来彼がずっと足を踏み入れていなかったジョウトの地を、少なくともごく当たり前のように歩いていたのだから。
そうして寒風の吹きすさぶ中を抜け、ようやくコガネシティの一角、彼の実家がある場所に二人は辿り着く。泰生の家族に何と言ってやろうか、などと意気込んでいた真琴は、そこで――――自分の目を疑った。

いや、……『あった』場所、と言った方が正しいのかもしれない。
そこには家など、家どころか物と呼べるものは何も無くて、雑に均された土が地面を覆うだけの土地と化していた。気の抜けた緑をした雑草に埋もれるようにして立っている『売地』の看板は所々が煤けて汚れていて、此処がこうなってから結構な時間が経過していることを如実に表している。

「ああ、その家なぁ」

近所の住民と思しき老人が、無言で立ち尽くす二人を見かねたのか声をかけてきた。散歩帰りだろうか、クルマユを両手で抱きかかえるようにしているその男は、「気の毒になぁ」と声と顔を翳らせた。


「私も越してきた身分だから深くは知らないんだが、五年くらい前かな、ポケモン連れた強盗に遭ったって……ご家族みんな家にいたらしくて、みんな…………、」


「…………………………」


「家も、もうまともに住める有様じゃ無いからって、旦那さんのご家族のご意向で、……ただ、やっぱりなぁ、こういうことがあるとなかなか買い手も……犯人もまだ捕まってないみたいだし、本当にやりきれないだろうなぁ」


「もしかしてお知り合いか、そうだったら……」口を噤んだ老人の言葉に返事をする余裕は真琴に無い。頭の中が真っ白になったようで、胸の鼓動が他人の物のようにやたらめったらに早まっていた。どういうことなんだ、何が起きたんだ。理解能力がキャパシティの限界を訴える。
その中で唯一はっきりと思ったのが、隣にいる、泰生のことだった。彼は今、何を考えているんだ? これを前にして、何を思ってるんだ? 出来ることならば彼を、今すぐに、この場から引き剥がしてしまいたい。その目を抉ってこれ以上、こんな世界を見ないでいいようにしたい。強く殴れば全て忘れられるのか? 馬鹿げた、しかし真剣に、そんな考えが頭をよぎっては流れていく。

「一瞬だった、と聞いたよ」老人がまた喋る。泰生の顔はうかがい知れない。やめて。それ以上もう、何も言わないでください。彼の耳にそれ以上、くだらぬことを吹き込まないでください。そんな思いが喉の奥だけで渦巻く真琴が何も言えないままでいて、「本当に、なぁ」老人は最後の言葉を口にした。



「せめて、ポケモンがいれば助かったかもしれないのに……」



真琴はそこで、ようやく事態を理解した。

泰生はまた、自分の帰る場所を失ったのだ。
一度目は、精神的な意味合いで。
そして今度は、言葉通りの意味合いで。

泰生自身が真琴にそう語った通り、彼はもう、どこにも帰ることが出来ないのだ。


それもこれ以上無いほどに、皮肉な経緯によって。
真琴が何一つも言えないでいる間、泰生はただただ冷静で、老人と二言三言を交わして彼を見送っていた。その彼が、真琴の頭のあたりにあるその胸で、何を感じているのか真琴には計り知れようもなかった。
足を震わせることすら出来ず、突っ立ったままの真琴の肩を泰生が叩く。「おい」無愛想な声は普段の泰生と少しも変わらない、まるで何事も無かったかのようなものだった。




「行くぞ。いつまでも外にいたら風邪をひく」


泰生はそれだけ言って、荒地としか呼べないそこに背を向けた。
「昔よく行った飯屋がある。コガネ焼きが美味いんだ」飾らない言葉も素っ気ない態度も無表情も広い背中もいつも通りで、いつも通りの泰生だったが、真琴は、確かに、


「早く行こう、真琴」


彼の心臓のどこか一部分が、握り潰される音を聞いたのだ。








「その後も何度か、旅に行きたいなら行った方がいいって私は言ったの。家のことなら大丈夫だし、悠斗は私が育てるから心配しないで、って。そりゃあ寂しいけど、それならたまに帰ってきてくれれば、私はいつでも待ってるから、それでいいから、って……すでに大きなものを失ってた泰生に、これ以上、何かを我慢したり耐えたりしてもらいたくなかったから。これから先、あの人にはもう、何も無くしてほしくなかったから」

「………………」

「でも、一度も。泰生は一回も、そうしなかった。そうしたいとも、言わなかった。だから私は、泰生を絶対に、……」


真琴は、そこで我に返ったように言葉を切った。上気した頬を片手で押さえ、彼女は「ごめん」と小さな声で呟くように言う。「こんなこと、言って」
お風呂沸かしてくるわね、と階段を降りていった真琴に、悠斗は何も答えなかった。
ただ、先程自分が泰生に言ってしまったことと――――彼がどうして家にいるのか、本当であればしたいであろうはずの、ポケモンとずっと一緒にいられてポケモンのことをより考えていられる旅に、なんで行かないのかということを考える他、無かった。





「あ、羽沢! こっちこっち」

同時刻――電話で言われた通りのファミレスに到着した泰生が、ガラス戸を開けて入店してきたのを見つけた二ノ宮が手を振って示す。夜の十時過ぎ、居酒屋に行くまでの金が無い学生や仕事帰りの会社員などでそこそこ賑わう店内でも、アフロの二ノ宮は見つけやすい。先に店にいたらしい彼に片手を上げ返し、「いらっしゃいませ一名様ですかー?」「いえ、あのテーブルに」出迎えた店員にそういった泰生は、二ノ宮の元へと歩き出した。かしこまりましたー、と明るい営業ボイスで一礼した店員は、オレンジのミニスカートの裾を翻してバックヤードへ引っ込んでいく。

「…………いや、俺さ。考え事とかすると腹減っちゃう体質なんだ」

泰生がテーブルに着くなり、二ノ宮が言い訳がましい声を出す。「いや、まだ何も言ってない」大真面目にそう返しつつ、泰生は彼の前に並べられた皿の数々を一瞥した。人気ナンバーワンメニューのハンバーグカレー、山盛りフライドポテト、期間限定シャラ風ピラフ……。「まあ俺がめっちゃ食うのはいつものことだけどさ」別に言わなくても良いことを言いながら、顔を少し赤くした二ノ宮は、テーブルに据えられたメニューを取る。
「呼びつけたの俺だし、好きなの頼んでよ」サラダを頬張りながら二ノ宮が言う。メニューを受け取った泰生はぱらぱらと一通りめくってはみたが、「ドリンクバー」とだけ希望を述べた。夕飯は食べていたため腹は減ってない。最後のページ、デザートコーナーのメインを飾っている『秋季限定マスターランクホズサンデー』とかいうメニューが気にならなかったといえば嘘になるが、今の腹の空き具合で完食出来る自信はなかったし、何よりそんな気分じゃなかった。

「それだけ? 悪いな、……こんな時間だもんな。マジごめん、こんな遅く」
「そういうわけじゃない。気にするな」

スプーンを握ったまま、しょげたような顔になる二ノ宮にそう言って、泰生は脱いだ上着を空いた座席に置く。注文を取りにきた店員と「ドリンクバー」「ただいまカロスフェア開催中でしてオススメが」「ドリンクバー」「かしこまりましたー! コーナーはあちらになりますー!」会話をした後、泰生は二ノ宮へと向き直った。「で、どうしたっていうんだ」
問われた二ノ宮は、動かしていたフォークを皿へと戻す。ごくん、とハンバーグを飲み込んだ彼は一度水を口に含み、泰生に目線を合わせてはっきり答えた。

「わかってると思うけど。センパイのこと」

『センパイ』、つまり有原についての用件だということは、流石の泰生も予想がついていた。「そうか」軽く頷き、泰生は先を促す。「で、有原がどうかしたのか」

「いや、どうかしたっていうか、まぁ今日のことなんだけどさ。あの、今日のセンパイのこと。もし、羽沢がなんか、嫌な思いしてたら悪いんだけど。俺が謝るのも変な話だけど」

ぽつぽつと喋り出した二ノ宮の前置きを、泰生は「いや、そんなことはない」と否定する。仕方ないとはいえ黙っていた自分にも責任があるし、嫌な思いならば恐らく自分もさせていただろう。「俺の方こそ、悪かったと思う」素直にそう言うと、二ノ宮はほっとした顔になった。
ううん、俺も何も出来なくてごめん、と彼は申し訳無さそうに笑う。

「でも、そりゃあ俺なんかが言わなくたって羽沢は、それに富田も、わかってるだろうけど……あのさ、センパイは、センパイも本当は、あんなこと言いたいわけじゃないんだ」
「ああ。それはわかる」

そのことは何となく、富田と揉めたときの有原の様子から察していた泰生は頷いた。富田の言葉もあったし、彼がただ悪意や衝動、苛立ちだけであのセリフを吐いていたとは思いがたかった。
泰生の返事を聞き、二ノ宮は僅かに表情の緊張を解く。「よかった」口角を少しだけ緩め、彼は「羽沢に話すことにしてよかった」と繰り返した。

「いつかは羽沢たちに、このこと話さないといけないのかなって思ってたんだけど、なかなかタイミング掴めなくて。……でも、富田も、わざとじゃないんだろうけど、知っちゃったっぽいし。俺たち、これからも長くやってく気がしてるし、そうなりたいって思うし」

話すって何を、目でそう尋ねた泰生の疑問に応えるように「センパイなんだけどさ」と二ノ宮が切り出す。
が、切り出すだけ切り出しておいて、そこから先がどうにも出てこないらしい。最初にそれだけ言って押し黙ってしまった彼は、しばらく考え込むようにうつむいた。二ノ宮と泰生の間にある、カロス風ピラフが香ばしい薫りを漂わせる。
「いや、どの順番で話せばいいかわかんなくて」困ったように指先で頬などを掻く二ノ宮が、視線をテーブルの上にさまよわせた。「俺が実際あったこととか、センパイ本人に聞いたこととか、他の人から聞いたこととか混ざってて、悪いんだけど」


「俺さ。センパイは高校で俺と知り合ったって言ってるんだけど、ホントはもっと前にセンパイと会ってるんだよ」


センパイは忘れてるみたいだけどな。
そう前置きして、二ノ宮はようやく話し出す。

「小学校に入ってすぐの頃だったかな、トレーナーズスクールみたいなとこ。ソノオのちっちゃい教室だから全員顔見知りみたいなものでさ、年齢とかレベルとか一応分かれてるんだけど、普通にみんな知ってるっていうか」

当時、八歳だった二ノ宮は生まれつき身体があまり丈夫な方ではなかった。今でこそ毎日元気に過ごしてはいるものの、幼少期はことあるごとに熱を出したり炎症を起こしたり体調を崩したりと、色々と大変な日々を送ってきたのである。
そんな彼に十分な体力があるはずもなく、健康促進のためにと両親が入れたトレーナーズスクールでもしょっちゅう具合を悪くしていたし、満足なバトルが出来ない状況だった。なにせ、ナエトルに触れれば植物アレルギーを起こしてくしゃみを連発し、ヒコザルをだっこすれば人一倍弱い皮膚を火傷させ、ポッチャマと遊べば濡れて風邪をひくという有様である。バトルどころか、ポケモンとロクに接することの出来ない子どもだったのだ。
通っていた他の子に比べ、ずいぶん遅れをとっていた二ノ宮はいまいち溶け込むことが出来なかった。それを理由に排斥されたりということは無かったが、事あるごとに欠席し、一緒に遊ぶということも無い彼と他の子どもの間には常に一定の壁があったように思われる。そのことは二ノ宮の負い目、なぜ自分は他の子のように元気にポケモンと遊んだりバトルをしたり出来ないのか、というものに繋がっていた。

「そんなとき、助けてくれてたのがセンパイだったんだよ。一個上で、センパイはスクールで一番強くて優しくて、みんなに人気で、俺のこともいつも助けてくれたんだ。ポケモンと一緒にいるの手伝ってくれたり、バトル教えてくれたり。結局俺は旅に行けなかったし、自分だけのポケモン持つってことも未だにないんだけど、でも、それでもいいって教えてくれたのはセンパイなんだ」
「ふうん」
「ほら、トレーナーズスクールって『強い奴が正義!』ってとこあるじゃん? だから、俺、ちっちゃいながらも形見狭かったんだよね。バトルどころか俺が弱いじゃん、ってさ。でも、センパイはいつもそれを違うって言ってくれてさ、『二ノ宮はポケモンに優しいじゃん、二ノ宮といるとポケモン安心してるもん、こいつらリラックスすんの二ノ宮だけだよ』って。だからさ、別に、バトルが全部じゃないんだって思えたんだよね」

それはやがて、有原がスクールを出て旅に出た後の二ノ宮が『ポケモンバトル以外のこともやってみたい』と、自分に出来ることを探すきっかけとなり、音楽教室に通い、ドラムの才を芽生えさせることにも繋がった。
「だからさぁ」それはこうして、今、彼がキドアイラクのメンバーとして泰生と顔を合わせている要因でもある。「センパイが旅に行っちゃった時はすっげぇ悲しかったし」懐かしむような口調で、二ノ宮は言った。「高校でまた会えたときは、めっちゃ嬉しかったんだよな」

「部活で、コンバスとベース兼任してたセンパイは俺のこと覚えてないっぽかったけど。でも俺のドラム褒めてくれたんだ。嬉しかったな。今ドラムやってんの昔、センパイがああ言ってくれたからなんですとか、恥ずくて言えなかったけど。でも嬉しかった」

ところどころで相槌を打ちながら、泰生は二ノ宮の話を聞いていたが「待ってくれ」とそこで声を発した。「お前が、有原を昔から知ってたってのはわかった。が、それがどうして今日のことに繋がるんだ」
「それは……」問われた二ノ宮は一瞬、明らかに口ごもった。が、すこしの逡巡の後、彼は覚悟を決めた風に話を再開する。


「センパイの家って、センパイが中学生の頃、バラバラになってるんだ」


俺もこれは後から別の人に聞いたんだけど、と言い添えてから二ノ宮は話し出す。

「センパイの家、父親が元アクア団で母親が元マグマ団っていう家なんだけど。あ、これはセンパイ本人に聞いたことで、結婚当初も駆け落ち同然だったらしくて、あとああいう組織ってあんま印象悪いこと多いから、前から色々大変だったらしいんだよ。それでもセンパイが小さい頃は、大変ながらもみんなで楽しくやってたみたいだし、多分そうだと俺も思うんだけど」

「でもさ、」二ノ宮は顔を曇らせる。

「何があったのかまでは詳しく知らないけど、なんかお父さんの仕事のこととか色々あって、センパイが旅に出てる間にご両親がすごい揉めたらしいんだ。センパイは弟がいて、その弟は家に居たんだけど、弟からそのこと聞いて、旅をやめて帰ってきてどうにかしようとしたらしいんだけど、結局、出来なかったみたいで……」

今はセンパイとお父さんが一緒に、弟とお母さんが一緒に住んでるらしいんだ。センパイはそのこと、すごい後悔してるらしくて。
二ノ宮はそう続けて、「だからさ」と呟いた。


「センパイは、怖いんだと思う……いや、俺が思うんじゃなくて、実際言ってたんだ。酔ったとき、怖い、って」

「怖い? 何が」

「また、自分の場所が無くなるのが、だって。だから、今の居場所、キドアイラクとかをものすごく大事にしようとしてるんだ。だから時々ああやって、だからああいうこと言っちゃったりカッとなっちゃったりするんだけど、それはキドアイラクをすごい大切に、壊れないようにしてるから、っていうか……」


そこまで言って一度言葉を切り、二ノ宮は「だから」と泰生の瞳をまっすぐに見据える。「だから、センパイに言ってほしいんだ。そんな心配する必要無いって、大丈夫だから、って」両手を膝の上で握り締め、彼ははっきりとそう言った。

「……あいつのことは、わかった。お前の話を聞いて。でも、なんで俺なんだ?」

話を聞き終えて、泰生は表情を変えないままゆっくりと頷き、そして疑問を口にした。
え、と二ノ宮の表情が止まる。「もちろん、同じバンドのメンバーとして、俺だって出来る限りは努力するが」その二ノ宮に容赦することなく、泰生は続けた。「それは、羽沢がこういうこと向いてるっていうか羽沢が人のこと元気づけるの上手だからっていうか」「それだけで、そんな理由だけか」しどろもどろになり、言葉を並べる二ノ宮は目を伏せようとしたが、それを逃すことなく泰生は二ノ宮の目を見て問いを重ねる。「もしも、俺がそうだったとしても」


「お前じゃ、駄目なのか。有原のことをよく知ってるのは、俺よりもお前の方だろう? なんでそこで、お前じゃいけないんだ」


泰生の言葉に、二ノ宮は数秒、ぽかんと口を開けて固まっていた。
そのまま少しの沈黙があり、二人の間の空気が止まったようになる。それはしばらく続いていたが、やがて「そ、れは」二ノ宮の声によって遮られた。「だってさ、それは、」


「俺じゃだめなんだよ、センパイは」


「何故だ? 俺は、お前の方がずっといいと思うが」


「だって! だって、センパイは、俺にはわからないって言うから!!」


思わず大声を出した二ノ宮は、そう言ってからハッとしたように言葉を切った。慌てて周りをキョロキョロと見回してから、二ノ宮は「そうなんだよ」と声を落として再び喋り出す。


「センパイの言う通りなんだ。俺はわからないよ、センパイがどれだけ苦しいとか、辛いとか、嫌だと思ってるとか、俺にはなんもわかんねぇもん」

「………………」

「俺はさ、羽沢。自分で言うのもどうかと思うけど、超恵まれてるヤツだと思うよ。家族みんな元気で仲いいし、バトルとかコンテストとかやるわけじゃないけど家のポケモンもかわいいし、ドラムも勉強も学校も全部今のとこうまくいってるし。なにかすっごい苦労したってこともないし、特に困ってることもないし。身体が弱かったって、そう言っても別にそんな大げさなものじゃないし、髪型だけはどうにかならないかって思うけど、まあ、それは抜きにしてさ。センパイみたいに、挫折したわけじゃない。羽沢みたいに、家族と何かあったりポケモンに思うとこあるわけじゃない。富田みたいに、どうしようもない自分の問題と向き合わなきゃいけないわけじゃない。ただ、毎日楽しくて、ドラムやって、みんなと音楽やってるのが好きなだけの人間が、俺なんだ」


俺、何も辛いことないんだよ。苦しいことも、嫌なことも。そんな思い、今までしたことないんだよ。俺は幸せなんだよ。幸せでしか、ないんだよ。
泣き声にも似た口調でそんなことを言う二ノ宮は、本当に辛い思いをしてる人、あるいは彼のような才能などに恵まれなかった人にとっては、確かに嫌味に聞こえるものかもしれない。そうでなくとも、拭いきれない妬ましさや疎ましさに囚われてしまうものかもしれない。しかし、泰生は彼の声の奥にある、彼にとっての辛さや苦しさを見出したような気がした。

「そんな俺が、センパイに『大丈夫ッスよ』とか言ったって、無責任なバカでしかないじゃん。ぺらっぺらじゃん。俺みたいなヤツに言われても、多分むかつくだけなんだよ。実際そうだよ、さっきも言われたけど、こういうこと言うたびに、センパイ言うんだ、お前にはわからないよって」

「そしたら、意味無いじゃん。俺が言っても無意味じゃん」諦めた風な声で二ノ宮が言う。「だから羽沢がぴったりなんだ。そうでなくても、富田とか」泰生を見る彼の目は、幸福な人生を送ってきた証拠の輝きを宿しているのに、そのくせ、深い寂しさを持っていた。「とにかく、俺じゃない、誰かにさ」
そんな二ノ宮に、泰生は冷静なままの口調で返す。「そんなの、言わせておけばいいだろう。言う方がわからないだけだ、そんなことを言ってくる相手に、わかってもらう必要なんか無いのだから」それは泰生の経験則上言ったことで、彼のポケモントレーナーとしての才を敬遠したり嫉妬したりあるいは憎悪したりした者から、同じことを山ほど言われてきた泰生が身につけた考えだった。お前にはどうせわからない、など、今も昔も常に言われることだったが、その逐一を気にする意味も道理もないのだと、泰生はよくわかっていた。言いたければ言えばいいし、自分がそいつのことをわかる努力をする義務も一切無いのだと、それは泰生だけでなく多くの者に共通する考え方である。

しかし、二ノ宮は、泰生が予想していなかった答えを返した。
「そうじゃない」揺るぎのない、しかし震えた声で、二ノ宮は言う。「そうじゃ、ないんだよ」


「お前にはわからない、って、他の人にも言われた。何人にも言われたことある。無神経だからさ、俺……でも、それは別にいいんだ。ああそうか、わからないよ俺は、だってお前じゃないもん。それで終わりなんだよ、終わりに出来るんだよ、普通は。他の奴らなら」

「でも」テーブルの縁を握る、二ノ宮の手が力を入れたせいで白くなる。「そう、出来ないヤツもいるんだ。父ちゃんとか母ちゃんとか、ドラムの先生とか。羽沢も、富田もそう。終わりに出来ない、割り切れないヤツらもいるの」彼の声が響くのに合わせて、彼の手元に置かれたコップの中の、氷が溶けきってしまったコーラが揺れた。


「センパイだってそうなんだ。お前にはわからない、なんて言われたくない。言われたら悲しいし、言ってほしくない。わかれないってわかってるけど、わかりたいって思う。俺はセンパイのことわかって、そんで、センパイに、大丈夫だって言いたいんだ。センパイにこれ以上苦しんでほしくも悲しんでほしくも辛くなってほしくも無いから、俺、は」


どう言えばよいのかわからない、というように、彼の手がもどかしげな動きで自分の頭をかきむしる。


「こんなこと言ったってしょうがないんだろうけど。でも、センパイは、俺はセンパイに『お前にはわからない』なんて言ってほしくないんだ。本当にわからないのに何言ってんだって感じだよな、でも嫌なんだ、センパイには。だって、センパイがいたから今の俺がいるんだ、そりゃあ、センパイ一人だけのおかげじゃないけど、でも」


有原が褒めたドラムを続けてるのも、自分にも出来るからと音楽を始めたのも、ポケモンの強さだけが全てじゃないと思えたのも。全部、有原のおかげなのだ。二ノ宮はそう信じていて、だからこそ、有原に『お前にはわからない』などという言葉で、立ち止まってほしくないと思っているのだ。
「センパイが、そういうのが嫌だっていうのは俺なりにわかってる」二ノ宮の声が、絞り出すようなものに変わる。「俺のそういうところが、『わからない』って言われる理由だってのも」


「それでも、俺は嫌なんだ。センパイがそこで終わりにしちゃうのも、それに……俺のワガママだってわかってるけど、そうやって、突き放すっていうか、線引かれるっていうか、離れられるっていうか。俺は本当にセンパイにそうされるのが悲しいし、センパイがいないと多分ダメだし、センパイと一緒にバンドやれないと嫌だし」

「……………………」

「それだけなんだ、俺が言いたいことなんてそれだけなんだよ。でも、センパイに言うとダメなんだ、俺がセンパイにそういうこと言うとセンパイは嫌な思いするから、だから、」


「なら、伝わるまで言えばいいじゃないか」


そこで、泰生が二ノ宮の言葉を遮った。
二ノ宮は一瞬驚いた顔をしたが、「そう出来ればいいけど」すぐにそれを曇らせ、無理に作ったような笑顔を浮かべる。「でも、出来なかったから。センパイに嫌な思いさせただけだし」


「出来なかったなら、出来るまでやるんだ。あいつがわかるまで、嫌だと思わなくなるまで、本当にお前があいつに言いたいことが全部伝わるまで、どんなだって」


怒濤のような言葉の濁流に、二ノ宮は気圧されたように黙り込む。それは羽沢悠斗らしからぬその様子に呆気にとられたものであり、降りかかる声の勢いに圧倒されたからでもあり、また反論の余地など何も無いと感じていたからでもあったが――彼は、もっと別の理由で、泰生に言葉を返せないでいた。


「いくらでも言ってやればいいだろう! 本当にお前のことが必要なんだと、お前に嫌われるのは悲しいんだと、お前がいなければ駄目なんだと! 本当にそうなのならば、伝わるまで、いくらでも!」


「羽沢、…………」


「わかるまで伝えればいいんだ! 遠くに行く前に! 離れられる前に! 失って困るなら、それを悲しいって思うなら、ちゃんと言えばいいだろう、わかってくれるまで、何度だって、何度だって!」


それは間違いなく、泰生が二ノ宮に向けた言葉だった。
しかし、二ノ宮は言ったのだ。机を挟み、泰生と向かい合った彼が見開いた丸い瞳、その中に映し出された泰生へと。


「…………なあ、羽沢」





「なんで、お前が、泣いてるんだよ?」





「あ、いや……これは、…………」

二ノ宮の言葉に、泰生は虚を突かれたような顔をする。反射で頬に触れた指先が確かに水気を感じ取ったことで、泰生はようやく自分の目から涙が溢れていたことに気がついた。
「何だよぉ」一人焦っている二ノ宮が、どうしたら良いかわからないといった調子で狼狽える。ただならぬ雰囲気を感じ取り、店内にいた客達が何事かと彼らを振り返った。「俺、なんかダメなこと言っちゃった? 羽沢の嫌なこと言った?」アフロ頭をユサユサさせ、テーブル脇の紙ナプキンを何枚も抜き取っている彼ははたから見ると面白いくらいの慌てぶりだったが、泰生の目にその姿は入っていない。ただ、自分の頬を濡らす水滴の正体が、理由が、意味が。一つだってわからなかったのだ。
いや、それかあるいは――目から流れた涙が頬を伝い、テーブルに落ちていく。微弱に震えているその水溜りを見て、泰生はひどく熱くなった頭で考えた。あるいは、ずっとわかっていたのに、なのに――――


「どうしちゃったんだよ、羽沢ぁ……」


強く握りすぎて、くしゃくしゃになってしまったナプキンを泰生に差し出しかけた姿勢のまま、行動を図りかねた二ノ宮が、困り果てたような声を出す。違う、とか、お前のせいではない、とか、気遣う必要はない、とか言いたいのに、泰生は何一つ言葉を発することが出来なかった。
涙を流すことなんていつ以来だろうか、などという有りがちなフレーズと、きっと悠斗の身体の涙腺が緩いせいだろう、などという場違いな言い訳が頭の中を交差する。そのどちらもどうでもいいはずで、今は二ノ宮に何かを言ってやらないといけないとわかっているのに、泰生はただ、抑えることの出来ない熱に両頬を濡らすしかない。「どうしよう」あたふたと二ノ宮が両手を無為に動かすが何にもならず、その様子がさらに、他の客や店員の胡乱げな視線を集める原因となる。それに混乱をより一層重ねた彼は結局、逃げるようにして店を出る段階になっても、泰生の涙を止めることもその訳を聞くことも叶わなかった。





「森田さん」

「何ですか?」


また、同時刻――羽沢家の近隣、タマムシの住宅地で、富田と森田は冷たい風に吹かれながら歩いていた。
富田は自分の考え事、森田は溜まった事務仕事の処理で両者とも親子を早く家に帰したものの、それぞれ泰生と悠斗の様子が気がかりで、家まで訪ねてきたというわけだ。奇遇にも同じタイミングで現れたお互いの姿を見つけた時にはおかしさと情けなさに思わず笑いが漏れそうになったが、その感情もすぐに消え失せた。
家の中から聞こえてきた怒鳴り声と、何かを言い合うような気配。少し遅れて、足早に家を出ていく泰生の姿。自分達には気がつかなかったその背中を追うことも、灯りがついたままの家に入ることも出来ず、二人は暗い路地に落ちた電信柱の影にしばらく立っていた。数分くらいだろうか、時間が経過して、「富田くん、送ってきますよ。一応僕はポケモンもいますから、夜は色々危ないですからね」と森田がよくやく口を開いたのである。

「車はいいんですか」
「近くの駐車場停めてるから。あとで取りに行きますよ」
「夕飯は召し上がりました?」
「事務所で弁当食べました。海苔弁。安いんで」
「森田さんのポケモンって何ですか」
「ペルシアンの、タマノスケ。かっこいいんだよ、今度見せてあげます」
「……今日、寒いですね」
「…………うん」

段々とペースが落ちていく会話に、先に根負けしたのはやはり森田だった。「富田くん、他に聞きたいことあるんでしょう」困ったように笑って彼は言う。「そんなことじゃなくて」

「ええ、…………悠斗、大丈夫ですか」

申し訳無さそうにそう言った富田に、森田は数回瞬きをしてから「聞きたいことって、それ」と失笑気味の声を出した。「やだなぁ。同じじゃないですか、そんなの」
森田の言葉に、富田は「ああ」頷いて、「羽沢さんですか」と合点がいったように森田のことを見た。同じことを尋ねようとしてたのか、しかも同じように言い淀んで。「まあ、それなりに」「じゃあ、こっちもそういうことで」ならば、本当に聞きたいこともきっと同じであろう。森田と二人で歩くことを了承した理由を、富田は何気無い風に口にする。

「森田さんは、悠斗たちがあのままでいいと思ってます?」
「………………」

富田の問いに、森田は言葉を返さない。当たり前だ、彼だって全く同じ内容を、名前だけを変えて言おうとしたのだから。
しかし先に聞いたものの特権と、責任として、富田はさらに言葉を重ねた。

「今みたいに、ああやって、お互いああしてるだけでも、……別に害は無いし特にはっきり問題があるわけじゃないからいいのかもしれませんが、ものすごく困ってる人がいるわけでもないし本人たちがそれでいいってんならまぁ、俺が何か言う意味なんてないです、けど」
「……………………」
「でも、もしも、……本人たちがいい、って思ってなかったとしたら、それは……悠斗と、羽沢さんが何か思ってるんだとしたら、そのときはどうしたらいいんでしょう、か」

「……僕さ、シオンタウンの出身なんだ」


富田の言葉に何かを答えることなく、森田は唐突にそんなことを言い出す。
急な自己紹介に、富田は片眉をぴくりとさせたが黙って先を聞くことにした。冷たい風が吹いて、彼の長い前髪を揺らしていく。夜の冷えた空気に晒された赤い眼球がどうにも痛い気がして、富田は思わず目を細めた。
そんな風に臆することもなく、森田の話は続く。「ポケモンタワーって、富田くんくらいの子はまだ知ってる年代かな」懐かしむような、それでいて特段なんの感傷も無いような声だ。「僕が中学生くらいの頃に取り壊されちゃってさ、なんか、よくわからないうちにラジオ局になってたんですけど」

「ポケモンタワーって、お墓じゃないですか。ポケモンのが、タワー中にびっしりあるわけ。だから、幽霊が出るとかおばけが出るとか呪われるとか、好き勝手言われてたわけですよ。大人にとっても好都合だったんだろね、墓場で子どもが遊ばないようにするためには、体のいい口実ですし。遺してきちゃった子どもが心配で成仏出来ないガラガラの霊とか、旅の途中で殺されて未だにトレーナーを探してるラッタの霊とか、身体が弱くてポケモンが持てなくて、そのまま死んじゃった女の子の霊が、一緒に旅をしてくれる子を探してるとか。そんな噂。その辺、富田くん的にはどう思います?」
「……まぁ、墓地なんですから全然あり得る話ですね。ポケモンの墓地なのに人間の女の子の霊がいるのはちょっとよくわかりませんが、引き寄せられたりとかの可能性もあるのであながち否定も出来ません」

冷静な分析を淡々と言ってのけた富田に、「富田くんらしいよ」と苦笑して、森田は一つ息を吐く。

「でも、僕も人のことは言えないかもしれませんね。子どもの頃、幽霊の話を聞くたびに……お墓が多いせいで、ポケモンタワー絡み以外の噂も多かったんだけど。そういう、怖い話を聞くたびにみんな怖がってたんだけど、僕は怖くなかったんです。それよりも、ただ、不思議でした」
「不思議……」
「なんで、幽霊になんのか、って。よくあるじゃないですか、自殺した人がこの世に未練残してたせいで地縛霊になるとか、恨みを抱えたまま死んで怨霊になって復讐するとか、逆にさっきのガラガラじゃないけど、愛情とかそういうのが強すぎて成仏出来なかったとか。そういうの、僕は全然わからなかったんです。だって生きてたんだよ? なんで生きてるうちにちゃんと伝えておかなかったの? って。恨みだろうが未練だろうが愛情だろうがなんでもいいよ、何にしても、生きてる間にやっときゃよかったじゃん、なんで死んでから後悔してるんだ、って、思ってましたから」

「だから、幽霊は怖い、っていうよりも『わからない』でした」そこまで言って、森田は富田を振り返る。同時に足を止めた彼に、富田も歩くのを中断した。

「でもさぁ」鈍い白をした街灯の光を背にして森田が言う。モルフォンもヤミカラスもいないその電柱は、寒空の下でひどく寂しげに思えた。そこで一度言葉を切って、「ちょっとすみません」森田はスーツの胸ポケットから小さな箱とライターを取り出し、箱の中の一本に火を点ける。「タバコ吸われるんですか」「禁煙してんですよ、泰さんが嫌いなんで」白い煙を吐きながら、森田は苦笑いを浮かべた。「悠斗くんにも悪いからさ、煙吸わせるの申し訳ないし」

「でも、ちょっと限界。ごめん、富田くん、風上にいてくれると助かります」
「いいですよ別に。俺ギターなんで。親父も吸うし、あと少しだけどベースの奴も」

それにちょっと、わかりますから。平坦な声のままそう言った富田に、森田は「はは」と短く笑う。「やっぱり似てるかもしれないですね、僕たち」そんな言葉と共に、煙が空へ消えていく。薄い靄のようなそれを見上げ、富田は無言を返事に代えた。
それで、なんの話だっけ、そうか幽霊ね。おどけたように一人で言いながら、森田はゆるゆるとした口調で話す。「タワーが取り壊されたあたりで、わかるようになってきたんです」

「幽霊のことがわかる、っていうのも変な話だけど。でも……多分、その頃に、僕は『幽霊になる』人間になってしまったんです。生きてる間にやっとけない、生きてるうちに伝えられない、この世に、未練を残して死んでくしかない人間に。好きな人に好きって言えなくなったし、嫌なことを嫌だとも言えなくなった。自分が言いたいことを全部、伝えることが出来なくなった。そんな人間になった瞬間、僕も、死ねば幽霊になるような存在になっちゃったんでしょうね」

咄嗟に言葉を返しかねた富田が黙り込む。そんな富田から視線を外し、森田は、何もいない街灯を見上げて言った。「でも、僕は思うんだけど」白の光を放つそこからは、ぶおんぶおんという、低い唸り声のようなノイズが響いてくる。煙草の先から昇っていく、細い煙が風になびく。そこで燃える小さな炎は、えんとつやまの天辺よりも強い明るさを持っているのかもしれない。

「死んだところで、幽霊になったところで。生きてるうちに言えなかったことを、死んでから言えるわけは無いんでしょうね。死んだら、結局そこで終わりなんですよ。だから結局、僕たちはみんな、生きてる間にじゃんじゃん気持ちを溜め込んで、その重さに負けて死んじゃうんだと、僕は、そう思うんですよね」



「そうだよ。だから、ちゃんと言いたいことは言わないといけないんだよ!」


森田の話を粉々にぶち砕くような感じで割り込んできたその声に、富田は至極落ち着いたまま、素早く辺りを見回した。数秒して彼の視線が捉えたその先、近くの民家の小さな窓(曇りガラス越しに瓶がたくさん並んでいるのが見えるため台所だと思われる)の軒下に宙ぶらりんになっている、てるてる坊主のような物が「いつもご贔屓ありがとうございます!!」と鬱陶しいレベルでハイテンションな声を出す。


「毎度お世話になっております、あなたの街の便利屋さん、ニャース探しから呪い代行まで何でもござれ、真夜中屋、見、ざギャーーーーーッ!?」


「だからいつもいつもうるさいんですよあんたは」


しかし本職のてるてる坊主とは違い、秋の夜空に騒ぎ声を響かせているその物体は、空と同じような深い紺色をしていた。両腕に収まるくらいのサイズの体躯は布のような質感で、浮遊に合わせてぴらぴらと揺れる裾(?)は切りっぱなしの生地によく似ている。
ちまっこさとそれに反する大きな瞳はなかなかかわいさ高めだが、その正体は恨みの感情を食らうため、よなよな人家の軒先に集まるという恐ろしいアヤカシである――人はこれを、カゲボウズと呼んでいるのだ。

「やめてやめて! 裂けちゃう! 痛い! 無理! 死んじゃうよ!!」
「大丈夫でしょう。元はぬいぐるみなんだし、ゴーストポケモンなんだから死ぬわけないですよ……中身なんてどうせ綿でしょうから」
「勘弁してよ!! 仮に綿だったとしても嫌だよそんなの出してんの! 人で言うとこのハラワタだよ、どんなロッカー精神だよ!?」

…………別に言うまでも無いだろうが、富田の両手によって力任せに引っ張られて意味不明なことを叫んでいるそのカゲボウズは、今日も懲りずに不思議パワーでゴーストポケモンに憑依的なことをしているミツキである。「ぎゃー!! 無理無理無理!! もうひんしだよ!!」と断末魔をあげるミツキの姿に憐れみを覚え(本物なら放っておいただろうが一応見た目はカゲボウズであるため)、森田は「富田くん、やめたげなよ……」と半分どうでもよさそうに言った。
「やべぇ、何か魂とかそういうのが抜けるかと思った……」ゲホゲホとえずきながら呻いているミツキに、「で、何しに来たんですか。空気も読まずに」どこか爽やかさすら醸し出している富田が尋ねる。完全にストレス解消サンドバッグS扱いされていることに、ミツキは内心で冷や汗をかいた。「まさか昼間と違うお姿を見せにきてくれたわけでもないでしょうに」

「あー、……えっと、ね。違ったんだ」
「何が?」
「だから、……その、犯人。根本さんじゃないんだよ」

言い淀むような間を空けてからそう答えたミツキに、富田と森田が口を揃えて「え?」と呆然とした声を出す。

「いや、だってあいつだって言ってたじゃないですか。その、なんでしたっけ? ナントカの性質、とかが……」
「完全にそうだとは言ってないよ。強いゴーストポケモン達に協力してもらって、アイツのことを洗ってみたんだけどシロ。真っ白。今回どころか、アイツは生まれてこのかた呪いを使ったことなんかないよ。呪われたことは何度かあるっぽいけどね、惚れ薬的な呪いが、何度か」

「最後の情報は要りませんでした」そう言い含めておいて、森田はがっくりと肩を落とす。彼の中では完全に、犯人は根本ということになっていたのだ。それなのにこの展開、これは森田にとって振り出しに戻らされたようなものであった。
「でも、質はほぼ一致してるんですよね?」「だからもう一つの可能性。アカの他人だけど、そっくりさん、っていうのをこれから探すよ。ドッペルゲンガーみたいなモノかな」「はぁ……」力無い声で、富田とミツキが会話を交わす。そしてミツキが付け加えるように、「それに、さ」とため息まじりに言う。

「やっぱり、これは……犯人見つけるだけじゃ解けないよ。そういう呪いなんだ、あの二人にかかってるのは。泰生さんも悠斗くんも、呪いに対する耐性はかなりのものだけど、そんな二人がああなっちゃったのは『呪いにかかる』条件を満たしちゃったからなんだ」
「条件、…………」
「それを二人が、自力でどうにかしない限り多分、無理。僕が犯人を探し当ててとっちめることが出来たとしても、完全に解けるかどうかわからない。もしかしたら逆に、犯人が見つからなくてもそれさえ解決すればどうにかなるかもだけど……」

ミツキはそこで押し黙った。恐らく彼は、「それは出来そう?」と尋ねたかったのだろう。しかしその答えは、少なくとも今の段階では、どうであるかということは富田も、森田も、そしてミツキにも見当がついた。
三者は揃って無言を続ける。先ほどミツキがぶら下がってた軒下がある家の中から、親子が楽しそうに話している声が聞こえてくる。学校で教えてもらったのだと、つりざおの使い方をたどたどしいながらも懸命に説明する少年の声と、それに応える父親の声。中途半端な時間のせいだろうか、ヤミカラスもホーホーも鳴かない夜に、その二つの声は本当以上に響いているようだ。


「……で、何の話してたの? 困りごとならこの真夜中屋さんに任せんしゃい! 落し物探しから夜のお悩みまで、何でもござれ!」


わざとらしい明るい声で話を切り上げたミツキに、森田は苦笑混じりに煙草をくわえた。「大したことは話してないですよ」だいぶ短くなったそれを無為に見遣って富田も言う。「それにミツキさん、ずっと聞いてたんでしょうが」
ミツキは朗らかな笑い声をあげる。「まーね」底無しに無邪気で、それでいて終わりの見えない夜のようなその声で、彼は「もう一回言うけどさ」と言い添えた。

「言わない方がいいことも、言っちゃいけないこともあるけど。でもとりあえず、言った方がいいことだけは、言っといた方がいいよ」

「……………そうですね」

「そうだよ。死んだからって何が変わるわけじゃないから、生きてるうちに、さ」

そうですね。今度は森田が、富田と同じ言葉を繰り返した。
一際強く、冷たい風が夜の道を走っていく。ミツキの濃厚に染まった裾を揺らし、富田の前髪を捲ったそれは、最後に森田の指に挟まれた煙草の火を掻き消して、暗闇の向こう側へといってしまった。
赤い炎が無くなって、路地に残されたのは街灯の光だけ。背後から聞こえる、バサバサという音に振り返るといつの間に飛んできたのか、モルフォンが紫の羽をばたつかせて街灯へ体当たりを繰り返していた。モルフォンは月を目指しているつもりらしいが、実際は遥か低空の人工灯。そんなつもりは毛頭無いであろうに、まるで行き場を見失ってしまったかのようなその動きは、ひどく滑稽でひどく哀しげで、そしてひどく、近しさを感じるものだった。
「帰りましょう」携帯灰皿に吸い殻を押し込んで、森田がそれだけ言う。富田は黙ってそれに続く。ミツキの影がゆれて揺れて、彼らの歩を追うようにして消えていった。


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