マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1431] きみを巣食うもの(九) 投稿者:   投稿日:2015/12/01(Tue) 20:17:33   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]
タグ:カナワ】 【アデク



 朝。冷涼な空気に浸された台所の中央でシュヒは、数回目になる食事の支度に勤しんでいた。
 右手には小さな泡立て器を握り、傍らに使い終えたまな板とナイフを置き、そして正面には白いホーローのボウルを据え――ボウルの中には様々な種類の、半ば液状化した木の実が混ぜ合わされていた。




「木の実は私が育ててるのを分けてあげるから心配しないでね。何も難しいことは無いわ。木の実をさっと水洗いして細かく切って、少し塊が残るくらいに擦り潰したら、お水をちょっとだけ加えるの」

 数日前、一つのモンスターボールを手に弱り果てていたシュヒの元をナズナが朝一番で訪れた。事情を聞いても特に慌てる素振りも無く、少年が持ったボールの中にいるポケモンの、餌の作り方を教えてくれた。

 目を覚ましてみれば老翁は忽然と姿を消し、自分の元に生まれたばかりのポケモンが残されていた――。思わぬ展開に困窮せざるを得なかった少年だがしかし、嘆いたところで事実は覆らないことを解すや、戸惑いを隠せぬまま、無理矢理に納得したのである。

「他に困ったことがあったらライブキャスターに連絡して! すぐに駆けつけるわ。家に直接来ると、テッちゃんとキューちゃんが大騒ぎしちゃうもん」
「分かった……ナズナさん、ありがとう」

 彼女に手伝ってもらい作り上げた木の実のペーストを、幼虫が黙々と食べるのを横目に見ながら、少年は相槌し。

「シュヒくんは一人じゃないわ。私も精一杯手助けするからね!」
「……うん」

 消沈している少年を勇気づけようと声高に言ったナズナに、シュヒは再度頷いた。




「メラルバ、ごはん、だよ」

 完成した餌を載せた皿をフローリングに置き、シュヒは緊張した面持ちでモンスターボールのボタンを押す。
 昨夜までは、餌の時間には必ずナズナが傍についてくれていた。だから別段怖がることも無かったのだが、彼女は幼虫の聞き分けの良さを見て「もうシュヒくん一人でも大丈夫よ」と、少年にとっては不安でしかない英断を下したのだ。

 ボールの中に入れたまま放置していても、ポケモンが空腹になったり病気になったり、落命することは無いと聞く。告げさえしなければ、世話をしていなかったとしてもそうそう勘づかれることは無いのだろう。
 しかしシュヒはそうしない。そうすることは、出来ない。もうこれ以上、ポケモンとの間に刻まれた溝を深めたくないと願うから。何より、そんなことを一度でもしてしまったら……アデクに、顔向けが出来ないから。
 彼は自分を信じて、この幼い命を残して行ったのだろう。だからそんな卑怯な真似は出来なかった。したく、なかった。

「ルバ〜」
「わっ……こ、来ないで!」

 ボールから登場したメラルバは、目の前にシュヒが一人座っているのを見つけると、一散に彼に近寄って行く。それを少年は言葉と、両手をそちらへ突き出すことで留めた。

「おれのほうに来なくていいから! ごはん、食べて……!!」
「ルバ〜?」

 元より鈍い足取りをぴたっと止めて、幼虫は体ごと頭を傾げる。

「ご……ごめんね。まだ、怖いから……でも、きみが悪いんじゃ、ないからね……」
「……ルバッ」

 不思議そうにシュヒを見上げていたメラルバはその内、彼の言い分に了解したように鳴くと横に置かれている皿へと向かい、盛られた餌を食べ始めた。シュヒは困り顔でふぅ、と息を吐く。

(じーちゃんはどうしてメラルバをおれに……? おれは、メラルバを上手く育てられないのに……)

 ナズナが太鼓判を押した通り、確かにメラルバは聞き分けが良く、指示に忠実に従ってくれる。故にシュヒは、余計に彼女に申し訳無い心持ちになった。自分ではない他の人間と共にいる方が、彼女は幸せに暮らせるのだろうなと、そんな風に考えてしまう。
 アデクから与えられた信頼には答えたいし、その想いを有難いと、嬉しいと思う。と同時に、少年は自ら非力さを浮き彫りにさせる。
 自信が無かった。まだ自分は、ポケモンが怖い。老翁が居ない今、果たして自分はこの深淵を跡形残さず埋めることが出来るのか。
 判らない。解らない。

(じーちゃん……)

 考えるほど頭が重くなる。リビングの窓に寄りかかって両膝を抱え込み、間に顔をうずめる。初めてアデクと会った時と同じように、シュヒは縮こまった。硬い卵の殻の中に閉じ籠もるみたいに丸く、小さく。
 こうしていれば、彼が戻って来てくれると盲信しているかのように。




「ルバ〜ルバ〜」

 何事か訴えるような幼虫の鳴き声に、シュヒは顔を上げた。少し離れた所でメラルバが窓に張り付き、前足で硝子を掻いている。食事はどうしたのかと皿を見ると、綺麗に空になっていた。

「どうしたの……」

 そう溢してシュヒは、彼女の動きに注目した。じっと見ていると、なんとなく自分に伝えようとしている事柄が解った気がして、確かめるべく問うてみる。

「……外? 外に行きたいの?」
「ルバ〜ッ」

 窓に足を掛けたまま、幼虫は顔だけを少年へ向けた。正解と、いうことらしい。しかし答えが当たったことに喜びを感じる暇も無く、シュヒは表情を曇らせる。

「でも外には他にもポケモンが……」

 少しはポケモンが近くにいる環境に慣れたとはいえ、それは多分メラルバが、幼く小さく動作がゆったりとしていて危険性が少ないからだろう。屋外には彼女とは違い、体が大きかったり、動きが素早かったりするポケモンがきっといる。出来れば、そういったポケモンにはシュヒはあまり近づきたくなかった。が。

「………………」

 そのようなことを言っていてはいつまで経っても、溝は無くならないではないか。
 そう思い至って、シュヒは自身を奮い立たせた。






「メラルバちゃんは虫タイプだもんね。葉っぱも食べたいのかも知れないわ」
「そっか……」

 のそのそという擬音がぴったりな足取りで歩むメラルバの後ろを、シュヒとナズナが話をしながら横並びでついて行く。幼虫の声と足運びは常より心なしか軽快で、気分良さげだ。楽しそうな彼女の後ろ姿にナズナはうふふ、と頬笑む。

「今日は沢山散歩させてあげましょ!」

 外出したいと言うメラルバの希望に答えるために、シュヒは迷わずナズナに連絡を入れた。訳を聞いた若きブリーダーはすぐに少年の家へと飛んで来て、一緒に町中を散策しようと誘ってくれた。
 二人と一匹はまずカナワの中心街へ向けて進行し、途中で閑静な住宅街へと分け入った。郊外の方がメラルバは喜ぶだろうが、そうすると野生ポケモンとまみえる確率が高まってしまう。ナズナは幼虫よりもシュヒの気持ちを優先し、町中を選んだ。出会う数は多くなるけれど、町に暮らすポケモンであれば人間の指示を聞く分、安全だと判断したのだった。
 少年宅を出てからここまで、実に十匹以上のポケモンと擦れ違い、その都度シュヒはびくびくと肩を震わせた。しかし決して逃げ出したり、目を逸らしたりはしない。ポケモン、そして怯える自分自身に挑みかかるように、彼らを注意深く観察していたようだった。

「アデクじーちゃん、どうして何も言わないで行っちゃったのかなあ。まだ話したいこと、いっぱいあったのになあ……」

 民家の生垣を左に曲がった辺りでナズナの右隣から、そんな呟きが聞こえて来る。少女が振り向くと、発言者は寂しさを宿す双眼で、前を行くメラルバに見入っていた。
 突如老翁に去られた少年の胸には、裏切られた、などという冥(くら)い気持ちは一切無かった。ただどうして、どうしてと、純粋な疑問が蔓延っていた。彼が居なくなった状況にただただ戸惑い、そして怯んでいた。

 ――わしに出来ることは、もう無い。役目を終えた老兵は去るのみさ。あとはきみと、ポケモンたちに任せるよ。

 その時ナズナの念頭に去来したのは、昨晩、翁が自分に言った言葉だった。






「メラルバを、シュヒくんに譲ろうと思うんだ」

 耳許で囁かれた台詞に少女は驚き、ぱっと翁から距離を取ると彼の顔を凝視した。冗談かと勘繰るがアデクの面差しにそれらしき影はわずかも見当たらない。ナズナはしばらく瞬きを繰り返したのち、訊ねた。

「どうして、そんなことを……?」

 両親の遺したポケモンたちとすら満足に触れ合えぬ少年に、生後間も無いポケモンを譲渡するなんて、正気の沙汰とは思えない。彼が彼という人間でなければ、ナズナはきつく詰ったことだろう。
 しかも、彼は明日朝早くにシュヒに知らせぬまま、この町を発つと抜かすではないか。そんな馬鹿なことがあって良いのだろうか。
 不信感がありありと顔に表われた少女にアデクは、順を追って説き明かしていった。

 シュヒがメラルバのタマゴに興味を示し、しばしばその様子を窺う仕草を見ている内に、とある仮説が翁の中に浮かび上がってきたのだと言う。
 人に飼われているものでも、ましてや野に生きるものでもなく、もっとまっさらで、か弱く小さなもの――これからタマゴから孵るポケモンが相手ならば、シュヒの硬い警戒心も緩むのではないだろうか、と。
 実際、計らずもメイテツとキューコに遭遇して萎縮したはずの少年が、メラルバ誕生の瞬間には間近に居合わせることが出来た。そうして、生まれたばかりの幼く脆い命が周囲に与える力が、彼にも備わったのではないだろうか。
 このか細い命を守り支え、救ってやりたいと切に願う、愛しさという力が。
 メイテツとキューコも、産まれてすぐのシュヒを目にした時、その力を手に入れたのだ。どれだけ彼に嫌われ避けられ傷つけられても、二匹は少年を嫌わない、避けない、傷つけない。それは傍観する第三者がやめてくれと懇願したくなるほどに深く、哀しい愛情だ。
 かと言って、少年がポケモンを警戒していることは変わらないが、関心があるというのは強みだ。自分の存在を抜きにして、シュヒをメラルバに慣れさせようと、アデクは考えたのである。

「それに。わしはこいつの意志も汲み取ってやりたくてな」

 と言って翁が指し示した先には、黙々と餌を食べる幼虫の姿。

「メラルバちゃん?」
「ああ。メラルバ自身が、シュヒくんを選んだのだ」
「シュヒくんを……選んだ?」

 少女は目をぱちくりとさせ、うむと頷くアデクに注視する。

「普通、人間とポケモンは、人間の方がポケモンを好きに選んで仲間とする。しかし、ポケモンの方が人間を好きになって、共生や道連れを求む時もあるのだ」

 新人用ポケモンを博士から貰う場合にせよ、野生ポケモンをモンスターボールで捕える場合にせよ、人間は自分好みのポケモンを自由に選択出来る。トレーナーでもそうでなくても、始まりはいつも、人間が持つモンスターボールによるものだ。
 だが稀に、立場が逆転する場合がある。新人トレーナーが新人用ポケモンの一匹に気に入られ、済し崩し的に相棒にする。野生ポケモンが勝手について来たり、その人間が持っていた空のボールに自ら入ってしまう。そんな奇妙な馴れ初めも発生し得るのだと。
 アデク自身、少々事情は異なるが、初めてのパートナーであったポケモンに選ばれた側だと言う。

 ナズナは先刻自宅から戻ってすぐの幼虫を思い起こした。二階へ去る少年に手を伸ばしていた仕草。今思えば、あれはまるで彼について行きたそうな動作ではなかったか、と。

「メラルバちゃん。シュヒくんと一緒にいたいの?」
「ルバァ!」

 問うと、メラルバは餌の容器からぱっと顔を上げて鳴いた。彼女がシュヒを気に入ったのはどうやら事実らしい。ナズナは驚きと感心の目をアデクに向ける。彼は続けた。
 シュヒには他の多くの人々と同等に、ポケモンと心を通じ合わせ、仲良く生きる権利がある。そうやって、この世界から祝福を受けていることを己の頭で知れば、倖せに生きてゆける方法も見つけられるはずだと。

「人間がポケモンと離れたいと望んでも、ポケモンがそれを望まないこともある。ポケモンが何を求め願うのか。言葉が解らないからこそ、しっかりと見極めなければな」

 長年の経験の賜物だろう。勝負だけでなく、ポケモンの気持ちすら造作無く捉えてしまうイッシュリーグチャンピオンを、少女は憧れの眼差しで見つめた。

「シュヒくんが助けを求めてきたら頼むよ、ナズナさん」

 遥か高みの存在からの直々の頼みを、今更断われるナズナではなかった。

「はいっ」

 きりっと顔つきを改める少女の肩をアデクは、よろしくな、と言いながら優しく叩いた。


「でも……、もう少しくらいカナワに居てもいいんじゃ? シュヒくんも、ちゃんとお別れを言いたいだろうし」

 それからふと口を開き、そう伺いを立てた少女に対し。
 アデクは屈託の無い青藍を向け、くだんの言葉で応じたのであった。






「きっと、他にも行く所があるんだわ。シュヒくんが会いたいって思うなら、絶対また会えるよ!」

 自身が漏らした言葉に明るい台詞が投げ返され、シュヒは左隣を振り返った。発言したナズナの双眸は力強い確信に溢れていて、シュヒの心はなんとなく慰められる。小さく頷き、微笑する。
 そこへ。

「なあなあお前ら聞いた?! なんか最近さ、カナワにチャンピオンが来てたらしいぜ!!」

 唐突にかまびすしい大声を脇から浴びせられ、二人は仲良く肩をびくつかせた。

「な……えええええ?! チャンピオンが?!」
「ねーよ!! チャンピオンがこんなヘンピな所に来るワケねーじゃん!!」

 辺りを見れば、いつの間にか二人と一匹の足は公園前にまで達しており、騒がしく会話している主たちは園内の一角にいた。雲梯の手前にある、半分地中に埋まった三つのタイヤ椅子を占領し腰かけた、シュヒより上、ナズナより下と思しき年齢の少年たちである。

「無くねーよ! マジだっつーの!!」
「こんな所に来てたらそれ既にチャンピオンじゃねーっつーの!」
「チャンピオンはリーグにいるからチャンピオンなんだよ!」
「いやマジでマジだから! 交番のおっちゃんがチャンピオンのトレーナーカード見たって言ってたんだよ!!」
「マジでマジかよ!」

 喧々囂々と言い合う三人の傍らでこちらもギャンギャンと、少年たちの相棒であろう三匹のポケモンが吼え立てている。シュヒもナズナも、彼らの勢いに飲まれてぽかーんと口を開けた。ポケモンはトレーナーに似る、というやつである。

「ナズナさん……チャンピオンって?」
「え? あ、ああ、えっとね、」

 騒ぎたくなるのも解るがあまりに騒々しくないか。思わずこめかみの辺りを押さえ付けていたナズナは、シュヒの質問にすぐに反応出来なかった。そんな誰でも知っているようなことを訊かれるとは、思わなかったからだ。
 これくらいの基礎的知識も持たない少年にポケモンを任せるなんて、やっぱり無謀だったのでは……と一瞬過った不安を笑顔で隠し、ナズナは答えた。

「チャンピオンって言うのは、ポケモンリーグチャンピオンのこと。その土地で一番強いポケモントレーナーなのよ。全トレーナーが憧れる存在ね」
「ふうん、すごいんだね。本当にカナワに来てたのかな」

 そう感想を述べる少年にナズナは空惚け、悪戯っぽく笑いかけた。

「さあ? どうかしらね?」

 あの少年トレーナーたち、ひいてはイッシュ中のトレーナーが、一目見れば夢中になり大騒ぎすること必至の存在が、先日までずっと自分の傍にいてくれたことを知った時、彼は一体何を思うのだろう。ナズナはその時が来る日が、少し楽しみになった。


 まだまだかしましそうな公園の脇を抜け、二人と幼虫は要所要所で小憩を挟みながら町を西へ、カナワ名物転車台を望む高台へと向かって行った。
 途中、ふと路地に目をやったナズナがあっ、と嬉しそうな声を上げる。

「ごめんシュヒくん、ちょっとメラルバちゃんとここで待っていてくれる?」

 彼女が手を振る先を見やると、三軒ほど奥の家屋の前に青年が一人立っており、彼もちょうどナズナに気づいて手を振り返したところだった。青年の隣には青い体に黒の翼を備えた大きな蝙蝠、ココロモリが羽撃いている。
 シュヒが頷くのを見届け、彼に再度謝ってから、ナズナは青年らの方へ足取り軽やかに駆けて行った。

「……メラルバ。待ってよう、ね」
「ルバ?」

 少女を見送り、シュヒは背後で下生えを嗅いでいる幼虫に声をかけた。呼ばれ、メラルバが縦長の水色を少年へ向ける。
 近くの家の低い煉瓦の塀に座り、シュヒは去った少女を伺う。何を話しているのかはさておき、青年と共にココロモリを囲み、少女はとても楽しそうに笑っていた。

(おれもポケモンが怖くなくなったら、友達が出来るのかな……)

 どこへ行っても人間の隣には必ず、ポケモンがいる。世界はきっとポケモンを中心に回っているんだと、シュヒは思う。人間の方が物理的支配力は優れているけれど、その人間の心、精神を、ポケモンが完全支配しているのだ。
 シュヒはポケモンと関わらないがために、両親やナズナ以外の人間とも交流しなかった。同年の子供たちは皆、ポケモンを忌避する彼をつまらない奴と判断し疎外した。大人たちも似たり寄ったりだ。表面上は優しく接してくれるが、一線を越えて関わろうとはしない。自分たちが愛して止まない存在を嫌う少年に、どう接すればいいのか解らないから。
 ポケモン、それは人間から切り離そうとしても決して切り離せない、影のような存在だ。人間の言動にいつでもどこまでも付きまとう。だからポケモンと触れ合えるようになれば、世界は一気に拡がろう。様々な人と巡り会い、孤独も癒やされよう。
 カナワの狭く暗い車庫から転車台に乗せられ、広い広いイッシュの彼方へ駆け出す列車のように、いつか自分も、ここから旅立てるだろう。しかしそれは、いつのことなのか。
 方法が解っていても踏み出せない一歩がある。とても小さいくせに、果てしなく遠い一歩がある。期待と不安が混ざり合い、静かな焦りが、シュヒの中で頭をもたげていく。

「ルバッ!!」

 そんな思案の闇から少年を掬い上げるように、メラルバが鋭く鳴いた。シュヒが驚いて目をやると、間髪入れずに彼女が突然走り出した。

「えっ……メラルバ?」

 六本の小さな足を駆使し、彼女に出来得る限りの全速力で、北に伸びる路地へ駆けて行く。このくらいの速度なら、シュヒほどの年齢であれば引き止めるのは容易だ。けれど、彼にはそれが出来ない。追い駆けるしか、今の少年に可能な術は無かった。

「どこ行くのメラルバ! ナズナさんがここで待っててって、」
「ラルバッ! ラルバッ!」

 呼び声にちっとも気づかぬ風で突っ走るメラルバに追い縋る内、シュヒの抱いていた焦りは元から無かったように雲散していった。


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