マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1432] 第十一話「雷陳膠漆」 投稿者:GPS   投稿日:2015/12/02(Wed) 19:46:27   38clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

『みんなー、今日は来てくれてありがとうー!!』
『はじめましての人もそうじゃない人もー、はじめましてのポケモンもそうじゃないポケモンもー! 楽しんでってねー!!』

『それじゃーいくよー! Music S.T.A.R.T!!』


きゃぴきゃぴのボイスと共に湧き上がる歓声。サイリウムで彩られた満杯の客席の前方に位置するステージには、華やかな衣装に身を包んだ九人のアイドルと、同じモチーフを使ったアクセサリーで飾られたイーブイ族。同じ数、九匹のポケモン達が、流れた曲に合わせてアイドルと一緒にキュートなジャンプを決めると、客達はより一層幸せそうな声をあげる。
人間とポケモンが共に作り上げるライブステージ――そんなコンセプトの元開催された、多くのアーティスト達が集まるこのフェスに、


「あれか、この人たちって最近流行ったアニメだかゲームの……」
「みたいだな、声優とは違うのか……? アイドルが声優務めてるとかそういう感じなのか、俺はよくわかんないけど」
「あのサンダース……身のこなしにキレがあるな。跳躍力も高そうだ」
「泰さんよくそこまで見えますね……僕は九色が忙しく動いてるのしかわかんないですよ……」


どういうわけか、悠斗と富田、泰生と森田は遊びにきていた。





事の発端は今日の朝――この頃習慣化しているように、羽沢家を訪れた富田と森田の言葉だった。

「泰さん、悠斗くん。ライブとか行ってみたりしませんか?」
「最近、色々立て込んでたし。気分転換もかねて、たまには」

昨日の今日で、口論こそしないものの気まずい雰囲気をめっちゃくちゃに溢れさせ、口の一つも聞けない悠斗・泰生は、それぞれ頬張っていた朝食を飲み込んで「はぁ?」と揃って首を傾げた。
「今夜のなんですけど、知人が行けなくなっちゃったみたいでくれたんですよ、チケット。家族分だから、ちょうど四枚」鞄から取り出した封筒の中身を示しつつ森田が言う。「今日は練習室取ってないし有原がバイトだから何もありません。悠斗の方も、夜なら平気だろ? チケット無駄にするのもよくないしな」もはや行くことが決定しているような富田の口ぶりに、悠斗と泰生は自然と顔を見合わせかけたが、すぐ気がついたみたいにパッと視線を背け合う。食べ終わったフーズの皿を台所に返しに来たらしい、長い耳を揺らしながら食堂に入ってきたマリルリが辟易した様子の顔で通り過ぎていった。

「いや、瑞樹……急に言われても、さ」
「そんなものに行ってる暇あったら、もっと他に……」
「いいじゃないの。楽しそうだし、行ってきなさいよ」

いい歳こいてギクシャクといじっぱりをかまし、情けない感じになっている二人に横槍を入れたのは、一口サイズに切ったロメを運んできた真琴だった。「せっかくの機会なんだし、もったいないじゃない」夫と息子を同時に黙り込ませた彼女は、彼らの顔を交互に見遣る。
「羽沢さんも一緒にいかがですか」「私はいいわよ、悠斗たちをよろしくね」富田に笑ってそう返し、真琴の目が悠斗と泰生に再び向いた。

「楽しんでらっしゃい。お土産はケーキでよろしく」

流れるように話を誘導し、もはや嫌とは言えない雰囲気をあっという間に作り上げてしまった真琴に何も言えることはなく、まんまと丸め込まれた羽沢親子はだんまりを決め込むしかない。富田と森田は若干呆れを感じつつも、どうやらうまくいったらしいことを察して机の下でガッツポーズを決めたのだった。





そんなこんなでライブに連れ出された二人と連れ出した二人は、タマムシ某所の野外ステージにやってきている。今日のライブはいわゆるフェス、様々なアーティストが入れ替わり立ち替わりでステージを披露するという形式のもので、現在会場を沸かせているアイドルグループも何組目かの出演者だ。
「それにしてもすごい客入りだな」来るのが遅かったこともあり、ほぼ最後列に立っている悠斗が気の抜けた声で言う。羽沢泰生という有名トレーナーの見かけをしている以上一応は、という森田の至言があったため、今の彼は帽子と伊達眼鏡による簡易的な変装スタイルだ。あまり、というかほとんど全然隠せていない気もするがいいのか、と富田は思ったが、それは口に出さないでおいた。「フェスってこんなデカい規模なのかよ」

「出る人たちの種類が多いからな。ファンの母数がまず違うせいだろ」
「ああ、なるほどな。人気すごいやつばっか出てるもんな、今日の」
「あと、会場内でポケモン出せるってのもあるだろうけど。珍しいよな、いくら今日のコンセプトがそれだからって言っても」

普通はライブだとボール必須だろ。人間と同じくらいにポケモンの客で溢れている客席を見渡す富田の言葉に、森田も感心したように頷いた。「ポケモンバトル見せる大会ですら、大きさやタイプとかで制限ありますからね」そう考えると自由ってのはすごいですよ、と、彼は驚き混じりの口調で呟く。
せっかくここまで自由なのに、羽沢泰生だと特定されると面倒だからという理由でシャンデラ達を出せないことがただただ残念であった。暮れた空を天井にした会場内は人とポケモンが連れ添う様子で溢れている。ジャニーズ系グループのツアーTシャツをお揃いで着ている女性とカメール、物販で売られたタオルを一枚ずつ振り回している合計数二十を超えた人間とミルホッグ・ミネズミの家族連れ、アイドルソングなのに全力でヘドバンをかましている、ヘビメタ風の男とフェイスペイントが目立つクイタラン、飛んだり跳ねたり騒ぎつつも、連れたプラスルとマイナン同様片時も手を離さない制服姿のカップル……。そんな者達から少し離れ、のんびりとライブを楽しんでいるのは、ニドキングとニドクインに並んでビールを飲んでいる中年の夫婦だ。

『それでは次の曲、聴いてください……いつものアレ、よろしく!』
『オッケー、任せて! お願いジョルノ、……こなゆき!!』

響いた歓声に、悠斗達はステージへと視線を戻す。メンバーの一人、水色の衣装を着たアイドルが足元のグレイシアに指示を出したらしく、ステージ一面が白銀の雪で輝いていた。ピアノ音によるイントロが流れ出し、客席のサイリウムが白へと変わる。
雪をモチーフにした曲が始まったステージを、泰生は先程から真剣に見つめていた。それに気がついた森田は彼に声をかける。「まさか泰さんがここまで楽しそうになさるとは思いませんでしたよ」

「さっきの、グラエナの被り物してるバンドもすごい集中して見てましたし。音楽とか結構聴いてるんですか?」
「いや、森田……アレを見てみろ、エーフィの動きだ、回避に優れてそうだと思わないか」

……完全にポケモンしか見ていない泰生に、森田は呆れ半分、通常運転ぶりへの安心半分で「はぁそうですね」と適当な言葉を返した。その横で悠斗と富田が、あの仏頂面で『楽しそう』なのか、などと内心で首を捻る。
そんな彼らのことなど気にも留めないで、泰生の隣にいた客が「うっちー!!」とメンバーの名前を叫ぶ。ニンフィアの缶バッジをいっぱいにつけた上着を羽織った彼が、白のタオルを頭に巻いたユンゲラーの念力で浮いているのを目ざとく見つけた係員が「お客様! ステージ見たいからって浮遊するのはおやめください!」と飛んできた。えらく気の抜ける光景に、悠斗と富田は微妙な笑いをするしかない。


「喉が渇いた。何か買ってくる」

と、数分後、曲が終わったタイミングで泰生が言った。ステージでは、これで出番が終了したらしいアイドル達がそれぞれのカラーリングに応じたイーブイ族を抱き上げ、『ここから先も、楽しんでねー!』などと締めの挨拶をしている。オレンジ色の衣装に身を包んだリーダーと見えるアイドルが、イーブイの前足を掴んで手を振るポーズをとらせて歓声を浴びた。
舞っていた雪が消えると同時に白から九色へと光を変えた、目が痛いほどに鮮やかなサイリウムが輝く中、笑顔を振りまきつつステージから去っていく彼女らから視線を外し、「あ、僕も行きますよ」と森田が泰生に返事をする。

「実はさっきから小腹がすいてて……ちょうど入れ替えですから出やすいでしょう、僕もご一緒します」
「あ、ここで買うと高いし混んでますから、もし焦らないなら外行った方がいいですよ。五分くらいのとこにコンビニありますし、チケット見せれば再入場出来るんで」

幕間にガヤガヤ騒がしくなるアリーナで、富田がそうコメントした。「それもそうか、……泰さんどうします? 僕はどちらでも構いませんが」「空いてる方がいいだろう。森田、俺の分のチケットは」「ちゃんと持ってますよ。じゃあ、僕たちちょっと行ってきます」それを受け、ライブにそこまで執着の無い二人は客達の間を縫って出口へ向かう。見た目の年齢差からすれば奇妙であるやり取りに、泰生と森田の近くにいた客が何人か振り返ったが、そこまで追求する者もいなかった。
残された悠斗、富田は特に意味もなくセット中のステージを眺める。前の客が頭に乗せたヤンチャムと共に食べているポップコーンの匂いが、二人の鼻腔をくすぐった。食べるものもすることもなく、何となく手持ち無沙汰さを感じた富田は隣にいる、彼らと同い年くらいの若者が連れのエビワラーと額を寄せ合って見ているパンフレットを覗き見た。

「次、アレだ。多分あの曲やるだろ、タイトル忘れちゃったけど今やってる映画、『週刊少年とびはねる』でやってた漫画原作の、その主題歌になってる」
「あー、MV話題になってるアレか。『新幻島』ね」
「そうそれそれ、五人の周りにエモンガがばーって出てくるヤツ」
「アレ、なんかいいよな。ちょっとレトロっぽくて俺好きだわ」

見てて楽しいんだよな。そう笑った悠斗に、富田は少し驚いたように言う。「悠斗、あのMV見たのか」

「なんだよ、見ちゃ悪いってか」
「だって、ポケモン出てるから」
「それはさぁ、あんだけ話題になってりゃ、ネットの広告でも出てくるし音楽は好きだし、それに、……」

苦笑いと共にそう言った悠斗の言葉が途切れる。彼の視線の先、入れ替え準備がほとんど終わったステージでは、スタッフの腕章をつけた人達と一緒に数匹のゴーリキーがあくせくと働いていた。その近くに陣取ったカメラマンが、カメラを数台首から下げたフライゴンに上空からの撮影を指示している。広い客席のあちこちで、人とポケモンが隣り合って笑顔を浮かべていた。
ステージのライトと、数箇所の人工灯による半端な明るさの中、悠斗の表情はちょうど影になっていて見えない。準備が済んだように見えたステージだが未だ何か調整中らしく始まる気配が無く、どうやら今は休憩時間のようである。だらだらと交わされる与太話で満ちた客席で、富田は「あのさ」と口を開いた。

「悠斗、お前さ。俺のこと初めて助けてくれた時のこと、覚えてるか?」

唐突な問いに、悠斗は何度か目を瞬かせた。が、すぐ「あー、お前がポケモン使っていじめられてたときね」苦々しさの混じる声で返事をする。「あれは胸糞悪かったな。今思っても腹立つわ、あいつら今頃何してんだろ」
苛立った口調に鼻で笑い、「さーな」と富田は軽く返した。「タマムシにはもういないらしいけど」そう言ってから、「いや、あいつらのことはどうでもいいんだよ」と富田はステージに目を向けたまま言う。

「あの時さ、悠斗が偶然いて、俺はよかったって思ってるわけ」
「なんだよ、恥ずかしいからやめろそういうの。それに、それは俺だってそうだよ、あの日放送委員の仕事無かったらあそこ通ることも無かったんだからさ。そしたら、お前みたいなギタリストずっと捕まえられなかったかも」
「そうか? お前のことだから、いくらでも見つけられんじゃないのかよ」
「違うって。俺の歌にそこまで合わしてくれんのは瑞樹くらい」

そうまで言って、悠斗は「なんでいきなりそんなこと言うんだよ」と笑い混じりに尋ねた。「まさか解散しようとか言わないよな、絶対元に戻るから勘弁してくれ」ふざけ半分、本気の心配半分で言われたそれに思わず吹き出してしまいながら、富田は少しの間だけ、あの日の記憶に意識を向けた。




中学に上がったあたりからのことだ。それまでも富田の、ポケモンの血が混じっていること、不気味な赤をした両眼、歓迎しがたい能力故に彼を遠ざけたがる者は多く、彼が必然的に独りだったのも昔からのことだった。が、彼や周囲が年を重ねるにつれ、そこには次第に暴力や悪意が付与するようになり、富田を苦しませるようになっていた。
特に酷かったのが彼が中学二年生の頃で、四月から同じクラスになった数人の男子生徒がポケモンを使って富田に暴行を加えるようになっていった。別に富田が何か実害を加えたりしたわけでは勿論無いが、彼が持っていた『違う』ということ、その特異性はやり場のない苛立ちや衝動をぶつけてしまうのに、格好の標的だったのである。彼らはバトルもそれなりに強く、どれくらいの加減をすればバレないくらいに抑えられるかをよく心得ていた。富田が一人になる隙を見極めて彼を連れ出し、人気の無い場所でこんなことを言い、酷な仕打ちをするのだった。

「なんでお前みたいなさぁ、ポケモン混じりがここにいるわけ」

侮蔑と嘲笑の混じった声が響く中、ブーピッグの重い足が背中を踏む。逃げられないよう突きつけられたキリキザンの刃が額を掠って血が滲む。シャツを引っ張られ、服の上からでは見えない背筋に突き刺さったニドリーノのツノから、死なない程度に弱くて、数日苦しむ程度に激しい毒が身体中に回っていくのがわかった。

「どく状態になってやんの! はは、口の中に土入ってるし、キモいなマジ」
「つーかお前さ、ポケモンならバトルやれないの? いっつもやられてばっかじゃん、俺たちもつまんないんだけど。なきごえとか、はねるとか、そんくらいできるっしょいくらなんでも」
「あー、無理でしょそんなん! せいぜい、がまんくらいだって、出来るの。発動は無理だけどな」

毎日のように行われる、富田に対するこの仕打ちは一応人目につかぬ場所で起きていたことだけれど、勘付いている者や気づいている者も少なからずいた。が、自分の身を同じ危険に晒してまで富田を庇おうとする人はいなかったし、また、富田の態度がそうさせていた面もある。関わるな。自分に寄るな。そんなオーラを終始出している富田にあえて近づこうとする者なんて、彼をストレスのはけ口にしているこの生徒くらいしかいなかったのだ。
事実、富田自身もまた、余計な煩わしさになるくらいなら誰にも関わってほしくなどなかった。彼にとってはこの、直接痛めつけてくる輩どもも、黙って見ているだけのクラスメイト達も、そしてそれ以外の人間も全部、全員同じようなものだった。『お前は違う』その言葉の通り、みんな、自分とは違う存在だったのだ。自分のことなどわかってくれない、別の世界に生きている、そんな存在しかいなかった。

「ポケモンはポケモンらしく、トキワのもりにでも帰ってくれりゃいいのに」
「お前みたいなキモいヤツが、人間の学校にいていいわけないんだよな!」
「でもさ、コイツみたいに弱くてバカなヤツ、ポケモンに囲まれたらすぐひんしだろ? たった三匹にも何もできねーもん、このバカ」
「言えてるなそれ! ポケモンセンターに相手してもらえるかもわかんねぇし、どこ行ってもすぐダメになるって!」

世界なんて、わかってもらえないものだった。わかってやる意味も感じなかった。
痛みの程度の多少はあれど、人間なんて皆等しく、異端な自分を責め立てる存在でしかないのだと、そう思うほか無かったのだ。

その日までは。



「何やってんだよお前ら」


悠斗が現れたのは、その日、いつものように富田が数人の同級生達に、手酷い暴力を受けていた時だった。
後で聞いた話によると、悠斗は放送委員の仕事(とは本人が言っているだけで実際は機材を触らせてもらっていただけっぽいが)があったようで、帰宅部の彼の日頃の下校時間よりも少し遅い、しかし大抵の生徒達は部活中という、中途半端な時間に学校にいたらしい。校内のほぼ全てから死角になる、中庭の日陰で行われていた暴行に悠斗が気がついたのも、機材がしまわれている放送準備室の窓などという誰も開けないような場所を気紛れにいじったからである。そこから垣間見えた不自然な光景、同じ制服を着たものが数人と数匹のポケモンに何やら取り囲まれている様子を不審に思い、部屋を出て見にきたということだった。

「それ、何? ポケモン使っていじめでもしてるわけ?」

身体のあちこちに傷を作り、地面に倒れている富田を見た悠斗は、ごくごく当たり前のような、かつ不機嫌な口調で尋ねた。当時の悠斗と富田の関係は、名前と顔だけは知っている同学年の男子生徒同士という、ただそれだけのものだった。大のポケモン嫌いと、ブラッキーの混血という、やや目立つプロフィールをお互い持ち合わせていたため知ってはいたが、面識は無いし喋ったことも無い程度である。
だから、悠斗がこの状況に物申すというのはいささか妙なことともいえた。「なんだよ」闖入者に一瞬怯んだものの、数の利に気を持ち直したニドリーノのトレーナーが挑発気味に言い返す。「お前、なんか文句あるわけ?」粘ついた、その不快な声を頭上に聞きながら、富田もそれに関してだけは同感だった。どうせこの羽沢悠斗とやらも、自分と違う存在なのだ。ただ興味本位で引っ掻き回すくらいなら、余計な首を突っ込まないで欲しかった。

「あ、お前も混ざりたい感じ? ポケモン嫌いなんだもんな、こいつもポケモン入ってっからそういうことか? そんなら羽沢も、……」
「いや、無理なんだわ」

ブーピッグのトレーナーのセリフを遮り、きっぱり言い切った悠斗に加害者生徒達も、そのポケモン達も、そして富田も言葉を失った。「お前らがそうやってんの。俺、すげぇ嫌なんだよね」淡々と、だけど確固たる意志を持ったその声は、目には見えない圧力で反論を何一つも許さない強さがあった。

「俺、ポケモン嫌いだからさ。そうやって、ポケモンが人傷つけてんのみると単純に腹立つんだわ。は? 何してんの? って感じなわけ。フツーにムカつくし死んでほしい。ポケモンに」

かなり酷い上に直球すぎる言葉だったが、いっそ清々しいレベルの直球ぶりだったため、その場の誰も言い返すことは出来なかった。
黙り込むしかない皆の中、悠斗だけが何のためらいもない。「だから、こういうのやめろよな」極めて一方的なその言葉の答えを聞かないうちに、悠斗は力の抜けている富田を抱え起こして立ち上がらせ、立ち尽くしているポケモン達に冷たい視線を向けた。「絶対すんなよ」そこまで語調が強いわけでも荒いわけでもないのに不思議と逆らいがたい重さを孕んだその声に、男子生徒達は各々のポケモンをボールに戻し、決まり悪そうな舌打ちを残して立ち去っていったのだった。



「なんでお前、やられっぱなしでいるわけ」

その同級生達と別れた後、なし崩し的に帰り道を共にすることとなった悠斗は富田にそう尋ねた。余談だが、結果的に富田への暴行を咎める形になった悠斗がその後反感を買ったり新たな標的になったり、ということは起こらなかった。もちろん悠斗とて、人並みの正義感は持ち合わせていただろうし、彼が富田の事情をもっと早く知っていれば別の止め方をしたのだろうが、あの場で彼が平然と言った、『俺ポケモン嫌いだから』たとえそれがトレーナーの命令であっても『そうやってポケモンが人間傷つけてんの見ると単純に腹立つんだわ』という、あまりにまっすぐな理由故に加害者生徒達も呆れ返ったらしい。まさか彼らだってそんな、ある種自分勝手極まりない言い分で、自分達の行為に口を出されるとは思いもよらなかっただろう。彼らはそれを機に興が冷めたらしく、それ以来富田に何かをしてくることもなくなった。
そんなことになるとはまだ知らない、富田は無愛想な声で返す。「別にお前には関係無いだろ」いつも通り、全てを拒絶し、突っぱねるように。「どうせ、お前だって俺のことキモいとか意味不明とか、わけのわかんないヤツとか言うんだ」だって、俺は。何度も繰り返した、何度も繰り返された、あの言葉が口をつく。「だって、俺は違うから」


「はぁ? 何言ってんのお前」


しかし、悠斗はぽかん、とした顔で言った。
富田が何を言ってるのか、心底不思議だという顔をして、彼はあっけからんとした調子で言ったのだ。
「違うものは違うんだから、しょうがないじゃん」あまりにも軽く言われたそれは、しかし富田にとっては、初めてのものだった。今まで一度だってそんなことを言われたことなどないし、自分で思うこともなかった。それを、目の前にいる、大して知りもしない親しくもないこの同級生は軽々と言ってのけたのだ。「俺が聞きたいのは、お前がそれをどう思ってんのかだよ」何の迷いも無い、直実な瞳が富田の赤い両眼を射抜く。

「嫌なら、嫌だって言やいいんだ。もしそうなら、お前がちゃんと教えてくれんなら、」


日の暮れかけた、タマムシシティの住宅地。
忘れもしないあの日の光景で、悠斗は富田に笑いかけた。


「俺は、お前のことをわかんないなんて、絶対言わねえよ」



彼がそう言った瞬間に、自分の世界が広がった。それまで閉じていた、閉ざしていた世界が一気に広くなったようだった。忌々しい、赤い両眼から見る何もかもが、その瞬間に変わったと思ったのだ。
彼の言葉がは光となって、道標となって、何より勝る希望となったあの瞬間に。恐らくずっと色褪せない絶対が現れた世界は、そこから遠く遠くに広がっていった。

それと同時に、自分の世界の広さはもう、そこで決まってしまったのも事実である。悠斗の言葉は富田の閉ざされた世界を広げた反面、彼の世界の限界をも決めたのだ。
それは富田自身の選択であった。自分の世界は悠斗を起点として、悠斗を終点とすることを決めたのは富田本人だった。無限の宇宙よりも広くモンスターボールよりも狭いような世界を、その場で、悠斗にそう言われた瞬間に決めたのは。

だから、わかったのだろう。
自分の『世界』である、彼の抱えた確かな歪みに。


「悠斗さ、お前がポケモン嫌いな理由、前に教えてくれたよな。高一ぐらいの時だっけ、俺が聞いたら、思ってたよりあっさり言われてちょっとびびったけど」

自分の質問には答えてくれず、新たな思い出話を始めた富田に悠斗は怪訝な顔をする。が、それについては特に触れず、「高一の夏くらいだな、部活の帰りにアイス食ってた時だと思う」富田の言葉に返事をする。「別に隠す理由もなかったし、まあ流石に付き合い無いヤツにはあまり言いたかないけどお前だしさ」
その返しに富田は少し笑って、さらなる問いを重ねた。その時の理由、今も変わってないんだろ。そう言った彼に、悠斗は「そりゃあな」と頷き返す。こういった話をする時の、いつも通りの悠斗そのままだ。どんな時の彼よりも、落ち着き払った声色と表情。

「ポケモンなんて、何考えてるかわからないし、こっちの気持ちだってわかりゃしないからな。関わるだけ無駄なんだ、だから――――」


「悠斗さ、それ、マジで百パーそうだと思ってる?」


その声色と表情に、富田は問うた。

「え、………………?」
「マジで、ポケモンはみんなそうで、何も通じないヤツだと思ってるわけ?」

唐突にそんなことを尋ねた富田に、悠斗は「瑞樹……?」と呆けたような声を出す。二人の斜め前で携帯をいじっていた若い男の客とその肩に乗ったスピアーが、揉め事だろうか勘弁してくれ、という疑惑を含んだ目で振り返った。
が、それを気にすることもなく富田は続ける。「わからないっていうのは」握った拳の上、袖口の隙間から入り込んだ秋風のせいで、彼の皮膚に冷たさが走った。


「俺もそう思ってた時あるよ。相手はポケモンじゃなくて人間だったけど。ポケモンはどっちでも良かったからな、そこまでかかわることもなかったし。……人間はどいつもこいつも、家族以外は全部、俺のことわかってくれないしその気もないんだなって本気で思ってたよ。目が赤くて、ポケモンの血が入ってる俺なんてさ。…………だけど違ったじゃん。お前がいたんだよ」

「……………………」

「俺のこと、わかってくれるって言ってくれたお前がいたから。人間は全員、俺をわからないなんて嘘だって、お前が証明したんだよ。ただ、俺がそれに気づかなかっただけで、わかってもらおうとしてなかっただけで、……わかろうとしなかっただけで。俺がポケモン混じりだっていう理由だけで、俺のこと好き勝手言ったり好き勝手したりした奴らのことを許す気は微塵も無いけど、…………そうじゃないヤツも、本当は山ほどいたんだ、って」


教えてくれたのは、悠斗なのだ。
富田を取り巻く問題が消えゆくに従って声をかけてくるようになった同級生達、高校に入ってて出来た友人、バンドを組んでいた仲間、有原や二ノ宮……富田に流れる血がどうであれ、そんなことは関係無しに、わかりあえる人間はたくさんいたのだ。ただ、富田が変わるだけで。わかってほしい、と伝えるだけでよかったのだ。

だから、それと同じことではないのだろうか。
富田は、悠斗に、そんなことを思ってしまった。


「そりゃあ勿論、わかれないポケモンだっているだろうよ。わかりあえない奴はわかりあえないんだから、それはどうしようもないから。でも全員がそうだって、お前は本気で思うか? バトルしたんだろ、羽沢さんのポケモンで。お前のこと、あのシャンデラ達が無視したり裏切ったり攻撃したりしたか? いくらお前の見た目がそうだからっていっても、奴らはお前にとっての分からず屋だったわけか?」

「……おい、…………」

「本当に、羽沢さんのポケモン達はお前をわかんない奴だったか? あいつらだけじゃない、森田さんのポケモンはどうだ? ミツキさんのとこにたむろしてる、ミツキさんの手伝いしてるゴーストポケモン達は? 芦田さんのポワルンとか、守屋のマグマラシは? ついさっき踊ったりしてた、イーブイ達はどうなんだよ?」

「だから、………………」

「さっきお前が見てるって言ってた、あのMVに出てるエモンガたちもみんな、話の通じない相手だと、悠斗はそう、本気で思ってるのか?」


畳み掛けるようにしてそう尋ねた富田に、それまで気圧されたように聞いていた悠斗は、「っ、だよ……」と苛立った声を出す。


「なんだよ、……なんでそんな、嫌味なこと言うんだよっ、……」


「嫌味じゃねぇよ!!」


お前はアイツの信者だよなとか、神か何かだと思ってんのかよとか、何度も言われたことがある。
それは否定するつもりも無い、あの日から彼は自分の、ただ一人きりの神様なのだから。
彼は、あの日まではこの世に神なんていないと思っていた自分が、何よりも信じて疑わない存在なのだ。


「そうじゃねぇよ、そんなわけないだろ、俺はお前にそんなこと言えるわけ無いんだから、……」


だって彼は神様なのだ。
そして自分は彼の信者なのだ。
何があっても、どんなときでも、彼という唯一神を信じて生きる、それがあの日からの自分の姿なのだから。


「だってお前は、悠斗は、俺の、……」


だからこそ、彼が神で、自分が彼の信者だからこそ――



――――自分の神様には、幸せであってほしいと思うのだ。


「だから言うんだよ! だから、言ってんだよ! お前には、お前だけには、そんな風な顔してほしくないんだよ!!」



彼に助けられた自分は、それ以来ずっと彼のことを助けたいと思っている。
彼のためになれたら、彼の救いになるようなことが出来たら、自分がそうだったように、彼の世界を少しでも明るくすることが出来たなら……。そう思って、あの日からの自分は生きてきたのだ。
助けてるつもりで縋ってるだなんて重々承知で、彼のために何かをすることを自分の存在意義に置き換えているのも確かなこと。それは構わない。ハナからそのつもりなのだ。自分を導いてくれる彼が幸せでいてほしい、その彼に自分はついていく、その図式は表裏一体なのだから。


「俺は、悠斗に何かを出来ればいいって思ってた。お前が悲しいとか、そういうこと思わないように、助けたいって思ってるんだ、……お前が辛くならないよう、俺に出来ることなら、って」


だから、ずっと彼を助けようとしてきたのだ。
父親に、ポケモンに背を向けて――世界の半分を見ないと決めてしまった彼の、その深い穴を埋めるように。

でも、それは。


「だけどそれは、俺には出来ないんだよ!!」


ずっと感じていたのは歯がゆさともどかしさと無力感、そして僅かな優越感だった。
悠斗が抱く、父親やポケモンとの橋を絶ってしまったことへのどうしようもない虚無感は自分には埋められないとわかってはいる一方で、それほどまでの虚無を抱えた彼がその分だけ自分と過ごしていることを、喜んでいなかったといえば嘘になる。だから自分とて、ずっとわからないフリをして、埋められもしない悠斗の欠落を支えたいという大義名分を掲げて、彼に不足があるのをいいことに隣を確保し続けてきたのだ。
それでも良いと思ってた。別にこのままでも今の状態が続くだけであれば、悠斗と泰生の関係が決定的に崩壊するわけじゃない。ただ険悪かつ冷たい関係性のまま、時間が流れていくだけで、時の経過と共に段々と二人の距離は開いていずれはそのまま終わりが訪れるだけだろう。それでも構わなかったのだ。富田個人の望みとしても、客観的に見て最も合理的かつ平和的な選択であるという意味でも。

それでも。悠斗が時折見せる、父の話題を避けたがる顔に隠れた寂寥や、ポケモンに向ける優しくも冷たい視線、ポケモンとトレーナーが共にいる姿に浮かべる何かを求めるような表情を目にするたびに、それでは駄目なのだと思わずにはいられなかった。
今のままでは、悠斗は結局、辛いだけなのだとわかってしまったのだ。


「俺じゃ無理なんだよ、俺じゃ、お前の、……お前の中の羽沢さんにもポケモンにもなれないんだよ!!」

それは悠斗と泰生が入れ替わってから、彼らの歪みを今まで以上に目の当たりにしてから、より一層感じることだった。
悠斗が何を考えているのかも、それが自分にはどうすることも出来ないのも、今まで漠然と思っていたそれはここ数週間でよりはっきりとした形をとって、自分に訴えてくるのだ。お前には無理だと。お前は何も出来ないと。
助けてるつもりも何も無く、それすらにもなれないのだと。


「こんなの俺の勝手な我儘だって思うかもしれないけど、実際そうだけど、俺はお前にこれ以上苦しんでほしくも悲しんでほしくも自分を責めてほしくもない。お前が羽沢さんのことを本当に嫌いで、ポケモンともポケモントレーナーとも絶対関わりたくないって本気で思ってんなら、それでいい。それならそうで、お前がマジでそうなら、俺は何も言わないし、言うつもりもない」


準備のために点けられていたステージのライトが一斉に落とされる。始まりを告げるその合図に、黄色い悲鳴が会場に走っていく。


「でも、そうじゃないんだろ、本当は」


泰生に対しても。ポケモンに対しても。
「お前は、」メンバー五人に当たった白いスポットライトが五つ。MVの様子を再現するらしい、何十匹ものエモンガに囲まれた五人が即席の階段から一歩、一歩と降りるたび、観客席は怒濤のような声に満ちた。
明るくなったステージの光を浴びて、逆光になってしまったその顔で、富田は言う。溢れる歓声とエモンガ達の羽ばたく音と、流れ出した演奏に乗せるように、その中に溶け込むことがないように、悠斗にやっと、その思いを告げる。「わかってほしいし、わかりたいって、思ってるんだろう」




「なんでお前が、そんな、……」



「わかるっての!!」




奥歯を噛み締めた顔で悠斗が苦々しげに言った言葉はしかし、富田の怒鳴り声に掻き消された。



「なんで俺がこんなこと言えるのかって? なんで俺にこんなことわかるのかって? 当たり前だろ、だって俺は、この六年間ずっと、お前の一番近くにいたんだぞ!?」



親友。ギタリスト。同級生。信者。
関係性を呼び表す言葉がどれであったとして、自分は彼の隣に立ち続けてきたのだ。それくらいのこと、わからないはずもない。当たり前だ。「ふざけんなよ」自分を誰だと思っているのか。自分がどれほど近い場所にいたのか、わからないとでもいうのだろうか。
わからずにはいられない。気づかずにいるなど、無理な話なのだ。それはもしかするときっと、この前髪の奥で彼を見る、この瞳が紅い所以なのかもしれないが……だとしても、もしそうだったとしても。
彼の、一番奥深くにあるものを知ってしまったそのときから、自分はずっと願い続けてきたのだ。


「俺じゃ不満か!? 俺の言うことじゃ、俺が考えてることじゃ、足りないっていうのかよ! 俺じゃあお前のことをわかってないってか!? 俺じゃ、わかれないとでも思ってんのか!?」


言葉をきらした悠斗に、富田は叫ぶ。
観客席は沸き上がり、誰もその声を咎めることは無い。ステージで舞うたくさんのエモンガが発した電気の光が、照明と混じり合ってキラキラと輝いた。


「俺は俺なりに、……違う、誰よりも! どんなヤツよりもお前のことをわかってるし、どんなヤツよりもお前をわかりたいと思ってるし、そうしてきたつもりだよ! それは違うか!? もし違ったら悪い、でも俺は、…………お前を一番知ってると思ってんだよ」


テレビや広告などで散々耳にしてきたフレーズが鳴り響く。静かな海にそれだけが聞こえる、一隻の船が奏でる汽笛のような、そんな声。マイクを通して拡散するそれに、客席の皆がときの声をあげる。


「それとも何だ、俺の中の、十六分の一のポケモンが悪いのか!? そうだったらどうしようもねぇな、でも、俺は俺の全部をかけてお前と一緒にいたつもりだよ! 俺は俺の人間もポケモンも全部使って、お前のこと見てきたんだよ! その俺が言ってるんだよ!!」



――このまま、君を連れていくよ……


白く輝いたステージから、そんな歌声が響き渡る。悠斗はそちらに目を向けて、ただ何を言うわけでもなく、少しの間その輝きを見つめていた。絶え間なく動く光の粒子が彼の顔を照らし、奇妙な斑点を描き出す。
荒くなっていた息を整えながら、富田はそのマダラ模様をじっと眺めた。ステージライトがぐるりと回った瞬間に、赤く染まった口が開く。「お前、それはずるいよ」観念したように言った、富田の方に向き直ったその顔は、羽沢泰生のものではあったけれども――そこにいたのは、紛れもなく、富田にとっての羽沢悠斗だった。
彼は、力が抜けたように笑う。お前にはかなわねぇよ、と呟いた悠斗は、会場中を満たす人とポケモン全てが作る、歌声と演奏とSEと歓声のどれにも消えることのない声で、富田にこの言葉を告げた。


「ありがとう、瑞樹」





「あ、悠斗くん達どうしたんですか? 今戻ろうと思ってたとこなんですよ」

会場を一旦抜け出た悠斗と富田に、ちょうど帰ってきたらしい森田が、近くのコンビニのものと思われるビニール袋を片手に下げてもう片方の手を振った。「ちょっと人波に酔ってしまって」「ぎゅうぎゅうですからね、あの中……僕も正直キツかったです」などと富田は彼と言葉を交わす。「だからですね、実は、ちょっと休んでから戻ろうかなって泰さんと話してたんです」
なら、ちょうどよかったですよ。そんなことを言いながら、富田は森田の少し後ろにいる泰生へと視線を向ける。イベント真っ最中の会場外はひどく閑散としていて、係員も入り口付近にしかいないらしく姿が無い。大通りに面していない裏側だという理由もあるだろうが、人通りは皆無でホーホー一匹、イトマル一匹いやしない。会場の中から見るよりも暗く、重い色をした夜空にヤミカラスの声が響いてはいるものの、その姿はどこにも見えなかった。

「じゃあ、少し休んでいきますか。いや、泰さんが……ミタマ達にも聞かせたいっていうから出してみたんですけど、何分まだあの子たちはわかってないですから。微妙な空気になってたとこなんです」

今は無人であるものの、昼間は何かの補強中の工事現場らしい会場裏で、シャンデラとマリルリ、ボーマンダの近くに泰生は立っている。しかしその姿は悠斗なのだ、まさか中身が入れ替わっているなどと思いもしないであろう三匹は、未だ状況を理解していないため、泰生から少し距離を置いている。
シャンデラは浮遊し、ボーマンダは着地の姿勢で、マリルリは落ち着きなく二本の足でうろつきながら、それぞれ泰生の動向を伺うような視線を向ける。その様子に泰生は流石に慣れたようだったが、やはり自分のポケモンにそんな態度を取られるのはなかなか堪えるらしく、仏頂面に僅かなシワを刻んでいた。「どうにかしてあげたいんですけどねぇ」森田が溜息混じりに言って肩を竦めた。

そうだ、確かに今の泰生と、ポケモン達のことはどうにかしたい。富田だって鬼でも悪魔でもギラティナでもないんだから、そうしたいと思っていないわけじゃない。
でも、今は、シャンデラ達には悪いけれども、それより先に――――


「行ってこいよ、悠斗」


そう言って自分の背中を押してきた富田に、悠斗は何か言いたげな顔をして振り返る。しかし富田の、前髪に隠れた二つの目があまりに強い色をしていたものだから、彼は黙って頷きを返すだけだった。
「おい」言いながら、悠斗は泰生へと一歩を踏み出す。富田が手で合図したのを受けて、森田が泰生から離れて悠斗に道を開けた。主人の姿に喜色を帯びたシャンデラ、ボーマンダ、マリルリも、何かを察したらしく親子から遠ざかる。中途半端に欠けた月の浮かんだ曇り空に、ボーマンダの不思議そうに鳴いた声が消えていった。

「なんだ」

ただ一人、泰生だけがいつも通りで、憮然としたまま問いかけた。「何の用だ」彼は不機嫌そうな声で言う。いつもと同じ、悠斗が彼に背を向けてから何も変わっていない、その声で。
悠斗の腹の底で嫌な感情がぐるぐると回る。やっぱりこんな奴に自分が何を言う必要も意味もないんじゃないか、そんな思いが悠斗の胸に渦巻いた。しかし、さっきの富田の言葉が頭をよぎり、続いて駆け巡ったいくつもの記憶に、彼は拳を握り締める。「おい」もう一度その言葉を繰り返し、悠斗は短く息を吸う。


「俺、は…………」








その、時だった。






「――――――――悠斗ッ!!」



悠斗の頭上、『工事中』『立ち入り禁止』の看板が設置された、組まれた鉄骨。

そこから悠斗目掛けて、積んであった支柱が落ちてきたのは。



富田の叫び声が空気を切り裂く。
瞳孔を極限に開いた森田が言葉を失う。
ミタマが、ヒノキが、キリサメが、揃って身体を凍りつかせる。




「え?」




ほんの僅か遅れて、上を見た悠斗がそう言ったか言わないかの、
刹那、彼の視界いっぱいに広がったのは、
濃紺の空から降ってくる灰色の鉄柱たちと、

自分に猛然と覆い被さる泰生の姿で、




「え?」



まるでスローモーションになったかのような時間の中。
富田の腕が伸ばされるが届かない、森田が悲鳴をあげようと口を開ける、ミタマの炎が広がって、ヒノキが全身を震わせて、キリサメが地面にへたり込んで、

悠斗と泰生の目が合って、



勢いよく降り注いだ鉄骨が、泰生の身体を滅茶苦茶に突き刺――――――――



























「あなたの街の便利屋さん――――」



さなかった。
落下してきた鉄柱が、泰生にぶつかる寸前で、一時停止ボタンを押された動画のように、空中に浮いたままピタリと止まったのだ。

皆が揃って硬直する中、ただ一つだけ動く影。
重なり合った悠斗と泰生の少し後ろで、赤い両眼を輝かせているゲンガーは、大きく裂けた口を歪ませた。



「いつもお世話になっております、真夜中屋ですどうもこんばんは!!」



お決まりのセリフが、空に向かって響き渡る。
「毎度ご贔屓にありがとうございます!」身体を固まらせたままの皆の鼓膜を、いつも通りのハイテンションボイスが震わせた。富田の口がどうにかこうにか、『ミツキさん』の形に動いたが声は出ていない。そんな彼にゲンガーは、ばちん、とウィンクを決めてから「いやぁ、いやぁ」とわざとらしい調子で言う。

「空気読めなくってごめんね? こういうときってさ、身を呈して守って救急車ピーポーピーポーで心電図がゼロになって叫んでお前が大好きなんだー! ってのが筋書きでしょ? 生きても死んでも。邪魔してごめんね? でも一回邪魔したから最後まで邪魔するよ、なんてったって僕は街の便――」

『俺の身体で無駄口叩いてるな。ふざけんなよクソ野郎、あと、そろそろいくぞ』

ミツキの長ゼリフを叩っ斬るように響いた電子音声、ムラクモことゲンガーの操るタブレットが読み上げたその言葉に、ミツキは「クソ野郎って……」と割と本気で哀しそうな声を出してから「ま、オッケー」と返事をする。

『ったく、曇ってるし満月じゃねーし、オマケに相性悪いっぽいし、時間かかっちまったな。そのせいで逃がしちまった、最悪』
「しょうがないよ、おかげでわかったこともあったじゃん?」
『まーな、間に合っただけで上等か』

「そうだよ!」交錯する二つの声が、真面目な色に切り替わる。
「いくよムラクモ――」『任せろミツキ――』先程までのやり取りからは想像出来ないほどの剣呑さを帯びたそれと共に、紫の指先が目映い光を纏い出した。天高く突き上げられたそれは、その真ん中に位置する月の輝きを集めているかのように眩しくなって、場違いな美しさをこれ以上無いくらいに解き放って、


「ムーンフォース!!』


その声と共に光を散らして、鉄骨達を木っ端微塵という言葉でも足りないくらいに、吹き飛ばして消してしまった。






「あ、あの…………どういう、ことなんですか……」

数分後。ミツキの誘導により、とりあえず工事現場から離れて安全な場所に移動した一行は、しばらく呆然と立ち尽くし、今この現実、自分が地面に立っていること(シャンデラは浮いているが)を理解するくらいしか出来ることがなかった。
開いたまま塞がっていなかった口からようやく言葉を発した森田の横では、富田が魂の抜けたような顔をして虚空を見つめている。危機一髪を乗り越えた羽沢父子は、未だにその実感が今ひとつ無いらしく、ふわふわした面持ちで立っていた。シャンデラが心ここに在らずといった風に、両腕の燭台から無意識に炎を吐き出している。地面にぺたりと身を投げ出したボーマンダの隣で、動く気力も湧かないとでもいうようにマリルリが丸腹を仰向けにして転がった。
救出の礼も言えずに呆けている一同の中、真夜中屋両者だけがただ楽しげだ。「ん? あー、そうね」などと軽い調子で森田の声に応えたミツキが、ケラケラと笑い混じりの言葉を発する。

「そうだよねー、ゲンガーはムーンフォースなんて使わないもんね。いや、さ。実はこれ話すと長くなるんだけど、ムラクモには秘密が」
「今はそんなことどうでもいいんですよ! なんで、……なんで真夜中屋さんがここに!? 間に合った、って、知ってた、……アレが降ってくるってこと知ってたみたいじゃないですか!」

混乱を抑えきれない様子の森田に、ミツキはようやくふざけるのをやめて「あーね」と笑った。『ま、俺たちだって依頼人に死なれちゃ困るからなぁ』「そうそう、ある程度の警備をつけとくのは当然だよね」そう言った彼らの言葉に合わせ、何もない暗闇から数匹のヨマワルが浮かび上がる。
確かに警備だろうが、これは言い方を変えれば監視とか盗撮の類ではないだろうか……しかも、今回は違うとしてもそういう使い方も全然出来るのでは……そんな思いが、ミツキ・ムラクモ以外の頭をよぎっていった。が、「でも、今回はさ」と、やや声のトーンを落としたミツキに、そのことを口にはしないことにする。ミツキはヨマワルのうちの一匹を紫色の腕で指し示し、「この子が教えてくれたんだ」と言った。

「君たちを狙ってる、呪術師の気配があるってね。だから心配で僕たち自ら来たんだよ、もっとも僕の『本体』が来ると時間かかるから、飛んでこれるムラクモにくっついてだけど」
「え!? じゃあ、さっきのは事故じゃなくて……わざと、なんですか……!?」
「あんな、良くも悪くもあんなタイミングで事故起きるなんてそうそうないよ。マンガじゃあるまいし、現場の人たちの安全管理だってそんな雑なわけないじゃん。アレは事故じゃなくて、呪術で起こした、れっきとした故意の事件だよ」
『あのレベルのピンポイントなんぞ、サファリゾーンで色違いラッキー捕まえるより無理な話だからな。全く無いとは言えないけど、とりあえず今回は違う』

口々にそう言ってのけたミツキたちに、悠斗は短く身震いした。先程、視界にスローで流れた鉄骨の落下が頭の中で蘇る。あれが自分に向けられた、明確な殺意の顕在したものだと思うと、助かったのに生きている心地がしなかった。
その隣で、それまで黙っていた富田がぽつりと呟くように言う。「それって、……悠斗を殺そうと、ってことだよな」静かでいつも通りの平坦さを持ったその声はしかし、そこに孕んだ怒気が抑えきれずに溢れ出していて、森田と泰生、ポケモン達は微妙に顔を引きつらせた。「いいって、瑞樹……」慌てたように声をかけた悠斗に、「そうだよ。下手にこっちから手を出すと共倒れになるかもしれないからね」『不用意に動くより泳がせとこうぜ』などと、ミツキ達が若干ずれたフォローをする。

「まぁ、思わぬ収獲もあったしね。今日は何も無かっただけでいいってことにしよう」
「収獲?」
『さっきの呪いをやらかした奴、多分本人なんだ。似てるとかそういうんじゃない、お前らにかかってるのと、バッチリ一致』
「悠斗くんたちに変化があって、焦っちゃったんだろうね。馬鹿だよねー、大将自らノコノコ出てくるなんてさ、まぁそれ以外どうしようも無かったんだろうけど、おかげで僕たちは直接、奴さんの質を掴めたわけだし。流石に今は取り逃がしちゃったけど、使ったポケモンも大方予想がついたし、ね」

思わぬ進展に、え、そうなんですか、と森田が期待の混じった声を出す。
「そうそう! ムラクモのムーンフォースの効きが悪かったからさ、それでゴーストポケモンで今回のに合致するようなっていうと、それは、…………」が、ミツキはそこまで言って言葉を切った。赤い瞳が、その場に居合わせた者達をぐるりと見渡す。「ま、それはちょっと、置いとくとしてさ」言いながら歩き出した彼は、森田と富田を自分の方に来るように手の動きで示しながら、まるで小さい子どもを見守るような、温かく優しい溜息をついた。


「アレが降ってくる前にしようとしてたこと。ちゃんと、やっちゃいなよ」





「何の用なんだ」

会場外に取り残される形になり、泰生はイライラした口調でそう尋ねた。フェスの真っ最中であるため相変わらず人の気配はなく、ポケモンすら姿を見せないほどの静けさである。ニャースやコンパンらしき声が、小さく響いてくる歌声や歓声に混じって時折聞こえるからいるにはいるのだろうけれど、動く影は見えなかった。少し離れたところで悠斗達をうかがう、シャンデラ達三匹をおそれて隠れているのかもしれないが。
ともかく、そんな静寂で――泰生は、何も言わずに突っ立っている悠斗に苛立っているようだった。「用があるなら早くしろ」そもそも昨日の今日で、悠斗と二人でいることだって避けたい状況なのだ。「何も無いなら、俺はミタマ達と戻ってるからな」シャンデラらの方をちらりと見て、泰生は不遜な声で言う。

が、悠斗の方はその苛立ちなどかまっていられなかった。
またそれか、そんな思いが腹の底で唸る。泰生は何気無く言っただけなのであろうけれど、その何気無さも自然さも無意識も全て、悠斗は苦しくてならなかったのだ。

そう、今まで、ずっと。


「…………っで、助けたんだよ」


絞り出すような声で言った悠斗に、泰生が視線をそちらへ戻して首をかしげる。「は?」彼が何を言ったのかわからず、聞き返した泰生に、悠斗は今度こそ我慢がならずに叫んでしまった。


「じゃあなんで、どうして俺のこと助けたのかって聞いてるんだよ!!」


抑えられなかった。
今まで長いこと、あの日を境に溜め込んできた感情は、あまりに力任せな言葉となって喉奥と口をこじ開けた。


「俺なんか助けなくていいだろだってお前はポケモンの方が大切なんだから!! ポケモンがいればいいなら俺を助ける必要なんてないだろ!? むしろよかったじゃないか、そりゃ結果的にミツキさん達が来たけど来なかったら、俺が死んだ方がお前はもっと長い間ポケモンといられたんだからそっちの方がいいに決まってんだろ!? だってお前は俺なんて必要無いんだから!!」


違う。言いたいのはそんなことじゃない。そうじゃない、自分はこんなことが言いたくてここに残されたんじゃないんだ、富田に背中を押してもらったんじゃないんだ、今の今まで気持ちを抑えつけてきたんじゃないんだ。そんな焦りだけが頭の奥をぐるぐると駆け巡った。だけど口から溢れ出ていくのは馬鹿みたいにつたなく不格好な言葉ばかりで、蓄積した想いはいつの間にやら不器用に屈折して形を歪ませてしまったのだと思い知らされた。
こんなの。こんなの違う。そう何度も叫びたいのに、自分を止めたいのに、そう出来ないでいる悠斗の吐き続ける言葉を、泰生は黙った聞いていた。



「お前はポケモンといれればいいんだ、わかってるよ!!」



そうなんだよ。わかってるんだよ。

悠斗は、心の中で絶叫する。
俺は全部、わかってたんだ。




「ポケモンだけいれば、それだけでお前が満足だって!!」





自分が本当は、父にどうしてほしかったのかも。
ポケモンとどうありたかったのかも。

どれくらい、彼らに自分を見てもらいたかったのかも。




「俺のことなんか、嫌だけど俺はお前の子どもだけど、それでも俺のことなんかいらないんだよなわかってんだよ!!」




普通の親子みたいに、父に笑ってほしくて、叱ってほしくて、当たり前のような顔で一緒にいたかった。
普通のポケモンとトレーナーのように、力を合わせて、楽しくすごして、色々なところに行ってみたかった。

羽沢さんのおかげで今の僕があるんです、なんて相生がためらいの欠片もなく言ったとき、それがどれほど羨ましかったか。
泰さんの姿を見てこの人についてこうって思ったんですよ、なんて森田が心の底から出ているような声で言ったとき、それがどれほど眩しかったか。
相生や森田だけじゃない、世界中の無数のトレーナー達が、羽沢泰生という人間に希望を見出し、夢を求め、素直に憧れていくそのことが、どれほど羨ましくて眩しくて妬ましくて苦しくて――どれほど、そうなりたいと望んだか。


どれほど、自分だって、泰生から、ポケモンから。
何かをもらいたいと思っていたのか。




「わかってるよ、そんくらい!!」




そんなこと、全部、自分はわかってた。



「違う」



そうだ。
そのことだって、知ってるんだ。





「それは違う、悠斗」





本当は、とっくの昔からわかってた。

父の、自分を見る目のことも。
至る所で見かけるポケモンとトレーナーの並ぶ姿が、どんなものであるのかも。

自分が捨てたと思い込もうとした世界なんて、本当はそんなに悪いものじゃないことくらい、全然、理解出来てたんだ。


「俺は、そんなことを考えたことなど、今まで一度だってない」


泰生がただ、自分の気持ちを伝えるのが人並み外れて下手なだけだということも。
ポケモンは自分と一緒にいることの出来る、一緒にいてくれる存在だということも。

あの日のシャンデラが自分に炎を発したのは単に怪我した部位を触られて驚いただけだということも、駆けつけた泰生は怒っていただけでなくむしろ悠斗が再度危険な目に遭わないよう注意喚起したにすぎないことも、彼らに拒絶などこれっぽっちもされてないことも。


本当は、わかろうとしないのは泰生でもポケモンでもなくて、自分だけだということも。


「もしもお前が、俺がポケモンだけいればいいと思ってるのならば、……それは、悠斗。お前の勘違いだ」





全部、全部、わかってたんだ。

そのくらい。





「…………わからなかった、のか?」


「わからねぇ、よ…………、」


悲痛な色を帯びた、悠斗の張り裂けるような声が口から逃げていく。
だってずっと不安だったのだ。
怖くてならなかったのだ。

もしもそうじゃなかったとしたら、と考えるたび、もしも本当に泰生が自分のことを嫌いだとしたら、ポケモンは皆自分のわからない存在だったとしたら。
そう考えるだけで、世界は本当に半分しかないと思うだけで、深い闇の底に叩き落とされるような気持ちになったのだ。


「わかりたかったけど、無理だったんだよ……! 俺はそれが出来なかったんだ、出来ないまま、そのまま、ここまできちゃったんだよ……俺は、ずっと、お前に、」


周りの人達には恵まれていた。
音楽を始めてからはファンもついて、自分を必要としてくれる人も現れた。
何があっても自分から離れない富田に、不安で空いた穴の分を埋めてもらおうとして、彼が自分を求めてくるのをよいことに自分も彼に求めていた。

だけど、結局、無理だったのだ。
富田の言うように、泰生に拒絶される恐怖もポケモンとわかり合えない絶望も、それ以外で消し去ることは出来なかったのだ。

自他共に見せつけるため、ポケモンから離れても。
トレーナーの泰生へ言外の抗議をするように、旅にも出ず、ポケモンを伴わない音楽を選んでも。

どれだけ他のことに意識を向けて、世界は半分で十分なんだと言い聞かせた、ところで。


「悪かった」


結局のところ、自分はずっと、その言葉か聞きたかっただけなのだ。

ずっとずっと、泰生に、そう言ってもらえればよかったのだ。


「俺は、お前が何よりも大切だ。今の俺はきっと、お前がいなければ何も出来なくなるししたいとも思わなくなる、お前が生まれてからずっとそうだ。お前がいない世界なんて考えられないし、お前に嫌われたくない、お前といられなくなるのはきっと無理なんだ。俺は」


喉の奥から目にかけて、熱が急速に昇ってくるような感覚に悠斗は声を出せなくなる。何も言えない悠斗へと、泰生は言葉をさらに続けた。


「お前や、お前の友人が言うように、俺は真琴に会うまでポケモンとだけ生きてきた人間だし、それを選んだ人間だ。だから人間と生きてきてこなかった。だからお前に何かを伝えたくてもうまく出来ないし、伝えてるつもりで伝えられてないというのもあるに違いない。それに俺はポケモントレーナーだから、ポケモンのことも大切だ。それは譲れないし、プロの選手として生きてく以上そうしなくてはいけないから、ポケモンに対して気を抜いたりぞんざいにしたりというのは出来ない。何よりポケモンは、真琴やお前と会うまでの俺にとっては唯一だったんだ。そこを比べて、お前とどっちが大事とかそういうことは、考えられない」


それでも、と強く言って、泰生は悠斗の眼を見据える。




「俺は、悠斗が大事なんだ」





わかってくれ。熱を持った声でそんなことを言った泰生に、悠斗は「おせぇ、よ……」と震える息で返事をした。「遅えんだよ…………!」その怒りともどかしさと、抑えられないほどの激情が、果たして父と自分のどちらに向けられているのか、悠斗自身にもわからなかった。
「すまなかった」泰生は静かに呟いた。「悪かったな、悠斗」言いながら泰生は悠斗へと歩を進め、悠斗の首にそっと手を回した。自分を抱きしめているのは他でも無い、今の自分よりもいささか小さく細身な悠斗の身体だったけれども、それでも、父の身体をそう出来るくらいに自分が大きくなっていたことに、悠斗はとても驚いた。

いつの間にそれほどの時間が経っていたのかと思ってしまうくらいには、久方ぶりのことだった。
それくらい、自分達は先延ばしにしていたのだ。
こうして言葉をぶつけ合うのも、お互いのことを見るのも自分を見るのも、相手のことを抱きしめるのも。

何もかも。



「遅いんだよ…………」



自分の目よりも若干下にあるつむじを右手で引き寄せ、そこに顔を埋めるようにして悠斗は声を揺らした。「ずっと、こうしたかったのに」背中に回された泰生の手が、温かな動きでそこを撫でる。「ずっと、こうされたかったのに」十何年前に戻ってしまったように、悠斗は途切れ途切れの言葉を吐く。どうしようもない我儘を言っていると頭の片隅で理解はしたけれど、もはや抑えられるものではなくなっていた。「ずっと……、!」
「悠斗、ごめん。悠斗」そんな、小さい子どもみたいな悠斗を、泰生はただただ抱きしめていた。最後にこんなことをしたのが一体どれほど昔のことなのか、わからなくなってしまったのがひどく悲しかった。今自分がこうしていられること、自分の息子が、父である自分を腕に収めることが出来るほど育っていたのだと、今更知ったことが、底無しに不甲斐なかった。


「悠斗、悪かった、すまなかった、本当に……今まで、ずっと」


埋めることも取り戻すことも出来ないくらい長い時間に、泰生はその言葉を繰り返す。肩に預けられた悠斗の頭がふるふると横に振られて、「俺だって」と消え入りそうな声がした。「俺だって、ごめん」


「ずっと何もしなくて、ごめん」


肩を掴み、そんなことを言った悠斗に、泰生は「遅かったな」と少しだけ笑った。自分の肩のところで、悠斗が頷いたのかわかった。
しばらくそのまま顔を埋めていた悠斗が、ゆっくりと泰生から離れて照れ臭そうに視線をさまよわせる。「これでいいなら、」少しだけ高いところにあるその目に向けて、泰生は迷いのない口調で言いきった。


「今までの分も今からやる。いくらでもやる。お前がわかってくれるまで、何度でも言う。何度でもこうする。毎日、何回でも、俺はお前が大事だって言ってやる」


真剣な顔で、小さな子どもみたいなことを言い出した泰生に、悠斗は思わず苦笑した。
「いいよ、もう」笑い混じりの声で悠斗は返す。「もう言わないでも」即答で断られた泰生は、何を、とあからさまにムッとした顔をした。「お前は本当に、こんな時に……」

泰生が呻くように文句を吐く。その、どうしようもないほど不器用で口下手で、しかし何よりまっすぐな姿を見ているのが苦しくて、悠斗は俯いて視線を逸らした。これ以上直視していたら、さらなる何かがもっと溢れ出してきて、きっと立っていられないと思った。
「もう、いいから」目を伏せたまま、悠斗は言う。怪訝そうな顔で首を傾けた泰生にだけ聞こえる声で。「もう言わなくていい」




「もう、わかったから」




だから、もういい。
それだけ言った悠斗のことを、泰生は二、三秒黙って見つめていたが、それから数歩近づいて、今の自分のそれよりも少し高いところにある頭を数度、優しく叩いて頷いた。

と、彼らの様子を遠巻きに見守っていた三匹が、何やら落ち着いたらしい雰囲気を察して遠慮がちに距離を詰めてきた。ボーマンダの羽ばたく音と、マリルリのぴちゃぴちゃという足音が、会場の方からうっすら響いてくるノイズ混じりの歌声と絡み合う。
すう、と空中を滑るようにして、シャンデラが悠斗と泰生の顔の真横まで飛んでくる。やや無機質ともいえる、ぽっかり空いた金色の瞳を丸く開いた彼は、二人のことを交互に見遣った。自身のトレーナーの形をした悠斗と、十二年間自身を疎み続けてきた者の形をした泰生。そのことがシャンデラにわかったかどうかは計り知れない。魂を燃やしているという蒼い炎が宿ったその頭の中で、彼が何を考えたのかは他の誰の知るところでもない。
ただ、彼がそこで、二人の間で何かが進んだということを理解したのは確からしい。


「…………ミタマ?」


しばらく二人を見ていたシャンデラだったが、少ししたところで、すぅと悠斗の方へ身体を寄せた。泰生が若干面白く無さそうな顔になり、悠斗は困ったような笑みを浮かべる。やはりそういう認識なのか、と二人が思ったその時、だった。
シャンデラは悠斗の両目をじっと見つめて、自分の身体の右側、右腕にあたる燭台を悠斗へと差し出した。金色の瞳は穏やかで、あの日から何一つ変わっていない、そもそもあの時だって本当はきっとそうだったのだろう、彼がずっと、悠斗に向けていたものだ。ただ、悠斗が見ていなかっただけで、本当はずっとこの眼をしていたのだ、彼は。

悠斗がその場所に手を伸ばすと、シャンデラは嬉しそうにその瞳を細めた。きゅう、と緩んだ彼の笑顔が、悠斗に向けられたものか泰生に向けているものかはわからない。それでも、彼があの時触らせなかったその場所に、悠斗のことを受け入れたのは紛れもない事実だった。
柔らかに揺れる蒼の炎が燃える、丸い身体を両手で抱き寄せて、悠斗はシャンデラの顔に自分のそれを押し当てた。「そうだよなぁ」そう呟いた悠斗に、シャンデラは軽く身体を揺らす。
二人を包むようにボーマンダが大きな翼を広げて、マリルリがそれぞれの足に一本ずつ腕を伸ばした。顔の見えない悠斗の背中に、泰生は再度手を回す。かける言葉はそれ以上、お互い持ち合わせていなかったけれど、今まで顔を突き合せるたびに陥っていたそれとはまるで違う、居心地の悪くない沈黙だった。




「いやー、生のぬめりんステージは最高だったね! あのバカっぽさというか微妙に出来てないMCとか、ぬめりんにしか出来ないもんね!」
『うるせぇアホミツキ、ぬめりんよりもサナ様だろ! 女子アナ並の知的美人なんだからな、サナ様こそ至高だって』
「ムラクモ脚フェチだもんねー、自分が昔無かったからってさ! 確かにサナ様も綺麗だけどー、それだったらろっぷたんの方がさー」
『ろっぷたん美脚だけどちょっと毛深いからな。俺は女の子は、いや、アイドルだけでいい、アイドルには毛が生えてないで欲しい派なんだよ』
「お二方とも詳しいですね……人間のアイドルもポケモンアイドルも全然わからなくてすみません、っていうかムラクモさん、ろっぷたんさんは毛深いとかそういう次元ではないのでは……?」

賑やかな話し声に二人が振り向くと、フェスをちゃっかり楽しんできたらしい真夜中屋両氏、および若干取り残され気味の森田、「悠斗!」と駆けてくる富田が会場の方から向かってくるところだった。


「悠斗、…………」


富田は悠斗の横まで走ってきて止まり、もう一度名前を呼ぶ。次いで彼は、何か聞こうとしたようだったが、その必要が無いのだと感じ取ったらしかった。
悠斗と視線を合わせ、富田は表情をふにゃりと緩めた。安堵と、喜びと、ほんの僅かな寂寥と、確かな嬉しさが入り混じったその顔は、悠斗が初めて見るものだった。ふわ、と浮かび上がったシャンデラの炎が二人の頭に光を落とす。手のかかる子どもを見守る大人のように笑った森田の横で、ミツキとムラクモが紅い目を細くした。ごほん、と咳払いをした泰生はしかし、その口元を確かに緩ませる。

「あー、……あのさ、真夜中屋さん」

そんな雰囲気が恥ずかしくなったらしく、少し経ってから悠斗が遠慮がちな声を出した。「さっき、アレが落ちてきたのが呪いのせいって言ってて、それはわかったんですけど」

「犯人の気配を直接……みたいなこと言ってたじゃないですか」
「ああ、うん。言ったね?」
「根元さんじゃないんですか? 犯人、って」

そう尋ねた悠斗に、先に発声したのはムラクモだった。ただし、それは『おい、お前言ってなかったのかよ』というミツキへの呆れ声ではあったけれど。
ダメ出しされたミツキは、「あぁー」と情けないような呻き声を上げる。瑞樹くんたちには言ったんだけど、タイミング掴めなくってさ、などと言い訳をしつつ悠斗に説明する。

「実は調べてみた結果さ。あの人じゃなかったんだよね、あの人今まで一度も呪いなんかやったことないっぽくて」
「え、そうだったんですか!? 俺完全に、あの人だってつもりでいたんですけど」
「だよね、悠斗くん! 僕もそう思って……」


「何言ってるんだ、お前達」


驚く悠斗と、それに頷いた森田の声に、突如泰生が口を挟んだ。え、と皆が同時に首を捻る。不思議そうな顔をする面々の中、泰生は当たり前のような声で言った。

「あいつがそんなこと、するはず無いだろう。あの男は本当に馬鹿でどうしようも無いが、そんなやり口で、お互いのバトルが不十分なものになるような真似は絶対にしない」
「え、泰さん、……?」
「そこだけは真剣なんだ、あいつもポケモントレーナーだからな。いくら阿呆でも、戦法がねちねちと汚くても、バトルコートに立つことだけは、……認めがたいが、俺の知ってる中では一番、……真剣な奴だから」

もー羽沢さん、それならそうと早く言ってくださいよ。ミツキはプリプリと怒ったように言い、富田はがっくりと脱力する。悠斗は泰生が珍しく、曲がりなりにも人を褒めているということに内心驚いた。
その脇で、森田は黙って頭の中だけで考えを巡らす。どれだけスキャンダルを重ねても、不思議と落ちない根元の評判。いつだって一定数から減ることの無い、彼が抱えるファンの数々。コートの彼を困り顔になりつつも見守っていた、マックスアッププロダクションのスタッフ達。

「そうだったんですか」

なんとなく答えへの道が見えた気がして、森田は泰生に、どこか独り言のような声でそう言った。


「あっ」

不意に泰生が声をあげる。何事か、と皆の視線が泰生に集まり、そして彼が見ている先に移動した。
そこにいたのは、一匹の小さなコラッタだった。丸い耳をぴくぴくさせ、会場案内の看板に隠れている様子は、泰生達のことを伺っているものと見える。

「珍しいですね、一匹だけなんて」
「街中だと少なくないよ、群れで動くのはどちらかっていうと草とか木とかあるとこだし」

そんな言葉を交わす森田とミツキの横で、泰生がコラッタに一歩を踏み出す。が、そこで彼は足を止めた。数週間前のタマムシ大学構内で、同じように近づこうとして逃げられたのを思い出したのだ。
しばし考えて、泰生はその場にしゃがみ込む。「泰さん?」森田が不思議そうに尋ねた。それには答えず、泰生はコラッタと目を合わす。


「おいで」


コラッタに向けて手を伸ばし、泰生が言った。


「お前と、一緒に遊びたいんだ」


その声を聞き、コラッタがおそるおそる、しかし一歩ずつ泰生の方へ近づいていく。やがて鼻先で手に触れてきたコラッタを泰生が抱き上げると、紫の小鼠は嬉しそうに目を細めた。
「こうすれば、良かったのか」その背中を撫でてやりながら、泰生が独り言のように呟いた。「これだけのことだったのか」顔を埋めるようにして俯き、少しだけ震えた声でそう言った泰生に、森田が言葉を伴わない笑みを向ける。富田がやれやれというように溜息をつき、ミツキとムラクモの両者の総意で裂けた口許がニッと歪んだ。シャンデラが炎を優しく揺らして、ボーマンダが楽しげな咆哮をあげて、マリルリが青い拳を天高く突き上げる。
そして、悠斗が泰生の隣に立ってそっと告げた。「そうだよ」彼は言う。


「そうだったんだよ」


空に浮かぶ月は相変わらず中途半端に欠けていたけど、いつの間にか雲は晴れていた。イベントが終わった余韻と寂しさと、満ち足りた幸せに浸りながら会場から出てきた客達の声が響き出す。
冷たくも穏やかな風が走っていく秋の夜は、ちょうど心地の良い柔らかさを以て、皆を包んでいるようだった。


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