マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1433] 第十二話「七転八起」 投稿者:GPS   投稿日:2015/12/04(Fri) 17:27:48   30clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「先日は、ご迷惑をおかけしました」

翌日、クチバシティのマックスアッププロダクション。そこに訪れている悠斗は、港町が一望出来る高層階に設けられた根元の控え室で、深く頭を下げた。
謝罪の理由は、一昨日行われた練習試合での悠斗の失態――表向きには体調不良でも真実は呪術による精神錯乱だが、どちらにしてもせっかく時間を割いてやっていたバトルを中断したことに変わりはない。その分の時間を無駄にした根元にも、バトルコートを空けてくれたマックスアッププロダクションにも申し訳無いことをしたのは事実である。そう考えた悠斗は、根元に挨拶をしに行きたいということを森田に頼んだのだ。

それにしても――と、悠斗の少し後ろで一緒に頭を下げながら森田は思う。こうして、スケジュールの合間を縫ってまで、足を運びたいと彼が言い出したのはどこからくる気持ちなのだろう。悠斗が元々持ち合わせていた、社交的にして世渡り上手、それでいて情に熱いところもあって一度抱いた信念は良くも悪くもなかなか覆せない頑固者、というところが多かれ少なかれそうさせているのは確かだとは思う。
しかしそれ以外にも、と森田は期待せずにいられない。たった数週間のことだけど、その数週間を通して、悠斗が少しでもポケモントレーナーというものの片鱗に触れることが出来たなら。長らく目を背け続けてきた存在がどんなものかを、父親が生きる世界はどんな感情に溢れているのかを、清濁共に垣間見れたなら。決して短いとは言えない間、泰生と悠斗の関係を見ていた森田は、そんなある種のお節介な願いを持たずにはいられなかった。

ところで泰生だったら同じことをするだろうか、とまで考えて、そもそも泰生は謝るべき状況など引き起こさないに違いない、という結論に思い至った。もっとも今回の件だって悠斗だけが悪いのでは無いけれど、もしも同様に呪いをかけられたとしても、泰生はあそこまで……バトルが出来なくなるくらい、取り乱すことも混乱することも無いだろう。だって彼は、そういう人間なのだ。
バトルコートを生き場所とした、そういう類の人間なのだから。

「…………迷惑、ねぇ」

そして、それはおそらく、この男だって同じなのだ。
膝に乗せたニャオニクスの白い毛並みを撫でながら悠斗の言葉を聞いていた、根元は気障ったらしい笑みを浮かべて片頬を掻く。カーペットの敷かれた床めくつろぐようにしていた、ミロカロスの流麗な瞳が悠斗と根元を交互に見た。根元の隣、ソファを一人分陣取っているミミロップが長い足を組み、興味無さげに欠伸をする。
「わざわざ此処までご足労してくれたのは悪いんだけどさ」顎に指を置き、根元は考え込むような顔を作る。

「でも、それってちょっと違うと思んだよね。僕は」

そうでしょ、羽沢君? 問われた悠斗は、根元の返答に言葉を詰まらせる。どういうべきかわからず、黙ってしまった悠斗をどう取ったかは定かで無いけれど、根元は穏やかな手つきでニャオニクスを膝から降ろして立ち上がった。「だからね」渋い声が部屋の空気を揺らす。悠斗の目の前に立った根元が、悠斗の顔をじっと見た。
バトルを生き様にするという、覚悟を決めた者の眼で。


「今度はさ、ちゃんと、ポケモンに報いるだけのバトルをしよう」


お互いに。
そう言った根元に、数秒遅れて悠斗は慌てて頷いた。気取った笑みを浮かべたまま、根元が悠斗の背中を二、三回軽く叩き、楽しそうな息を吐く。仕切り直しとなる練習試合の日取りを決めるためにスケジュール帳を鞄から取り出して、森田は二人には見えないところで苦笑した。
根元にもう一度礼をしながら、悠斗はわかったような気がした。あの時彼が言った『失礼だから』という言葉が、誰に向いていたのか、ということを。





同じ頃――泰生はまだ家で、自分が歌うことになるかもしれない、キドアイラクの曲を色々と聴き込んでいた。

「大学には行かなくていいの?」

声をかけた真琴に、泰生は耳にはめていたイヤホンを外しながら答える。「今日は午後からだと言われたからな」ちなみにこの携帯プレイヤーは以前悠斗が使っていたもので、富田は口頭でのレクチャーに加えてA4のコピー用紙に使い方を懇切丁寧に書いて渡してきた。つくづく細かい、まるでポケモンの能力を分析する『ジャッジ』と呼ばれる職に就いているような男だ、というのが泰生の率直な感想である。「学校なんて何十年も行ってないし大学は行ったことすらなかったから、勝手がよくわからん」読めない楽譜を必死に睨みつけながら、泰生は憮然とした声で言った。
それを聞きながら、真琴は泰生の隣の椅子に腰掛ける。「悠斗とは大丈夫なの?」真琴はそう尋ねこそしたものの、その声と目は泰生の答えをわかっていそうな色をしていた。それを感じ取った泰生は、少々気恥ずかしさを覚えて「まあ、な」と口をモゴモゴさせる。

「本当は、もっと前から、どうにか出来たと思うのだが」

そう付け加えた泰生に、真琴は頷く。「わかってたわよ」穏やかなその声に、泰生は少しムッとしたような顔になって、「じゃあ、教えてくれても良かったじゃないか」と唸るように言った。

「何言ってんの。あなたと悠斗のことなのに、私がどうこう出来るわけがないじゃない」
「………………そりゃあ、」

きっぱりと言い切られ、泰生は返す言葉を無くしたように黙り込む。確かにそれはそうだけど、という思いを口の中だけで転がしていると、真琴が「まあ、私も」と申し訳なさの混じった声を出した。「悠斗の味方にもなりたくて、それにやっぱり悠斗の気持ちもわかるから」久々に聞く穏やかなその声が、羽沢家のリビングに響く。「あなたに、あんな態度を取り続けてたわけだし」
それを聞き、泰生はぽつりと呟く。「お前もやはり、俺の態度じゃわからないか」昨夜、悠斗に言われたことが頭の中に蘇る。自分が度が過ぎた口下手なことも人付き合いがひどく苦手なことも、どうしようもないレベルで不器用なことも、そのつもりはなくても与える威圧感が特性:いかくのポケモン以上であることも少なからず承知の上だけど、それでも不安になってしまったのだ。「俺のことがわからないと、そう、思うこともあるのか」悠斗の言葉を思い出しながら言った自分の声は、少しばかり震えを持っていた。

「一昨日、悠斗に『お前にはどうせわからない』って言われた時……本当に悲しかったんだ。自分でも驚いた。別に何ともない言葉なのに、聞き流すようなものなのに、信じられないくらい辛かったんだ」

トレーナーとしての才が極まるに比例して、散々言われてきたその言葉は、どれだけ言われても構わなかった。どんなに多くの者が自分を妬み、嫉み、憎み、才能だの実力だのを理由にして勝手に嫌って勝手に怒っても、泰生の気に留めるところでは無かった。自分に関係無い有象無象が外野で何を絶望しようとも、そんなのしったことでは無かったのだ。
だけど、例外があった。センパイにはそんなこと言われたくないんだ、という二ノ宮の声が頭をよぎる。自分も彼と同じだ、どれだけ浴びせられてもどうってことないはずの言葉が、全く同じ響きであっても、悠斗に言われるというだけでどうしようもなく重く悲しいものに変わる。
お前には、お前にだけは。そんなこと言ってほしくないのだと、必死に叫びたくなってしまうのだ。

「それは、お前……真琴も、そうだ。お前にも言ってほしくないし、思ってもほしくない。そんなことは……思わないで、ずっと。お前と、悠斗と、そしてミタマとヒノキ、キリサメには、そう思われないでいたいんだ」

全てを失ったと思っていた泰生に、残された数少ない存在。それが真琴であり、シャンデラ達であり、悠斗だった。
もう無くしたくない、せめてこの、自分に残されたものだけはもう失うようなことになってほしくない。それが泰生の、心の奥深くに根付いた願いだった。泰生自身すら気づかないほどの、奥にしっかりと根を張っている望みだったのだ。

「言われなくても」テーブルに乗せた拳を握りしめた泰生に、真琴はゆっくり笑みを浮かべる。「私は、約束を破ったりしないから」底無しの不安を埋める、天井知らずの安堵を与えるような声だった。

「あの子達だって、多分同じことを思ってるわよ」

「うむ…………」

ほんの僅かに顔を赤くして、小さく頷いた泰生は「そりゃあ確かに、もうちょっと、わかりやすくしてくれれば良いとは思うけど」という真琴の言葉に、う、と詰まる。「努力する」と呻くように言った彼は悠斗の見た目もあいまって、しかし悠斗本人よりもずっと幼い子どもにしか見えず、張った意地をどうにか解こうとしている様子に真琴は思わず吹き出した。
そんな真琴に少々不満を抱きつつ、泰生は「それにしても」と未だ不安そうな声で言う。まだ何かあるの、と問うた真琴に、彼は「いや、」とぼそぼそした口調で言った。


「お前も、ミタマ達も……本当は俺みたいな、バトル以外はロクに出来ないような、こんな奴のところにいるのは、勿体無いんじゃないかと思って……」

「当たり前じゃない」


自信なさげに言われたそれに、間髪置かず頷いた真琴に泰生は絶句した。
当たり前。今の流れでそれはないだろ。しかもそんなにハッキリと……。などとツッこむことも出来ず、ショックの大きさに口を震わせる泰生の顔をじっと見て、真琴はごくごく当然のように告げた。


「私は私が愛した人の妻で、あの子達はあの子達が愛したトレーナーのポケモンだもの」


惜しげも無くそう言ってのけた真琴に、泰生は数秒無言になる。「そうだな」ゆっくりと首を縦に振って、泰生は真琴へ笑顔を向けた。「どんなものだって、勝てないな」
真琴は楽譜を持つ泰生の手に、自分の手をそっと重ねた。久しぶりに見たような気がする、そのくせずっとそばにあったのだとも思えるその笑顔は、帰る場所を失った泰生に新しい居場所を作ってくれた、どんなときでも離れないと約束してくれたときの真琴と――――


「これからも、俺のそばにいてくれ。真琴」


同じように、美しかった。






「この前は悪かった、有原」

その頃、タマムシ大学部室棟地下一階第二練習室――お互いに若干なんとも言えない顔をして集まったキドアイラクだったが、ガヤガヤとうるさい廊下と部屋とを隔てる扉を閉めるなり、富田がそう言って頭を下げた。無言で、しかし無条件にセッションの準備をしていた、アンプ脇の有原と、そして泰生と二ノ宮の顔が一斉にそちらに向く。
「言っていいことと、駄目なことがあるってわかってんのに、お前の嫌なこと言ったよな」ベースケースに手をかけたままの姿勢で、面食らったように目を丸くしている有原に、富田は迷いの無い口調で告げた。「本当に、ごめん」

「いや、いいって、別に……大体アレは、仕方ないことだろ? お前だって、好きであの、『シンクロ』だっけ? しちゃったわけじゃないんだし……」
「そうだけど。わかったからって、それを口に出していいわけじゃないから。だから、すまなかった」

きっぱりと言い切った富田に、有原はしばし逡巡するように視線をさまよわせる。数秒の間、彼はそうして言葉を選びあぐねていたらしいが、やがて「それは、俺も」と観念したように息と言葉を同時に吐いた。

「悪かったってのは、俺も同じだ。お前にひどいこと言ったのは俺が先だし、あんなの……言っちゃいけないよな」
「いや、俺もあんなに怒ってごめん、でも……俺は多分、お前の言った通りにしかなれないから。悠斗を理由にしてしか動けないから、これまでもだけど、これからも。それが俺なんだ。だから、」

富田がそこまで言ったところで、「うん」有原が片手を前に出してそれを止めた。「そうだな」そう言って少し笑った、有原の表情は穏やかだった。「わかってるよ」
それに富田が頷くと、有原は富田から視線を外して二ノ宮の方を見た。「お前にも。ごめんな」ドラムセットのネジを調整していた彼は、「えっ」と声を裏がらせて振り返る。「お前にはわかんないとか、……今回に限った話じゃないけど、あんなこと言って、ごめん」

「あ、それは俺も……」

「いや、違うんだ」

二ノ宮の言葉を遮り、有原は首を横に振る。「お前が思ってるようなものじゃないんだよ」ぽかんと口を開けた二ノ宮に、身体ごと向き直った有原が続けた。

「お前が思ってるようなのじゃなくて、勿論それもあるけれど、それより……俺は、お前見てると、焦るんだ」

「………………?」

「ほら、わかんねぇだろ……いや、すまん。俺は、お前のそういうとこがいいと思ってるし、それでいいっても思うけど。でも、さ……俺はお前が思ってるような人間じゃないから。もっと汚くて、馬鹿だし、カッコ悪いから」


「……センパイ?」と言葉尻を上げた二ノ宮に、有原は少し苦笑して、「お前のそういうとこが、お前と一緒にやれてて嬉しいって思うと同時にさ」複雑な感情が混じり合った声で言う。
彼らの会話を聞きながら、泰生は先日の一件で、富田が言ってしまったことを思い出した。『ベースのことも家族のことも勉強もうまくいってないからって』――ファミレスで聞いた二ノ宮の話に感じた違和感というか、どこか足りない感覚がピタリとハマって腑に落ちる。今まで自分に向けられてきた多くの言葉、そこに少なからず含まれていた成分。泰生はそれに覚えがある。
それは簡単なことで、しかし二ノ宮にはおそらくわからない、そして他に別のものを見続けている悠斗や富田、また泰生にも本当の意味での理解は出来ないかもしれない、『劣等感』という感情だったのだ。

「不安になるんだ。あと、嫉妬もする。嫌にもなる。自分にも、あと、ひどいと思うけど、お前にも。俺だって頑張ってるのに、なんでこうも、とかさ。才能とかそういうのでどうこう思うの、勝手に嫌いになったり憎んだりするの、したくないんだけど、でも、どうしても」

馬鹿みたいだろ? けらけらと笑って、しかしそのくせ、有原はつり目がちの瞳を床へと伏せた。「お前のドラムはすごい。俺はそう思う。お前の音楽が好きで、一緒にやれて嬉しいって思う」ジーンズの生地を握る手が震える。「でも、時々、消えたくなるし、消したくもなるんだよ」


「お前と意見が分かれたときとか。俺だけ違うこと言ってるときとか。俺は間違ってるのか、やっぱり俺は駄目なのか、とか、そういうこと考えるわけ。で、行き着く先はいつも一緒。俺なんかいなくなればいいのに、と、俺より上手い奴がみんないなくなればいいのに、って」

「……………………」

「だっさいだろ? でも、俺はその程度なんだよ。そんな器なんだ。だから思っちゃうんだ、お前にはわからない、ってさ。こんな汚くて、馬鹿みたいで、カッコ悪い奴のことなんか、お前には一生わかってほしくないし……わかろうとしたとこで、絶対、わかんないんだろうって思うから。……ごめんな、こんなこと言って」

「そんなこと、……俺だって、すい…………」


すいません、といつもの調子で言いかけて、しかし二ノ宮が口をつぐむ。黙って話を聞いていた富田が、おや、とま首を傾けた。二ノ宮はそれきり黙り込み、第二練習室には静寂が訪れる。時計の秒針が時を刻む音だけが響く中、有原は静かに二ノ宮の次の言葉を待っていた。
「センパイ」長い沈黙の後に、二ノ宮が言った。その目は何も迷っていなかったし、少しの躊躇の色もない。「俺は、それには謝りません」


「謝ったら、それを認めることになっちゃうんで。だから謝らないッス、ごめんなさいもすいませんも言わないッス。俺はセンパイが、どんなことを考えてたって汚いとか馬鹿みたいとかカッコ悪いとか、そんなの無いッスから」


「…………二ノ宮、」


「だから、俺が言えるのはこれだけです。センパイ、頑張りましょう。一緒に、俺らのバンドで。キドアイラク、で」


まっすぐな声で言われた二ノ宮の言葉に、有原は数刻、目を見開いたまま立ち竦んでいた。
その顔が、ふっと緩んで柔らかくなる。「そうかぁ」力の抜けた声で有原は言った。「そうだよ、お前はそういうヤツだもんなぁ」その時の有原が浮かべた笑みは、何かがほどけたような印象だった。「そうだったよ」

「そうスよ。俺はこんなんッス。センパイが何考えたって、俺はこんなままなんスから」
「そうだよな……うん。そうだよな、お前に焦るとか不安になるとか、そんなこと言っても始まらないもんな。それにほら、言っても聞こえないし」
「ちょっと! 特性ぼうおんでアフロのおかげでバツグンの吸音性ッスか!」
「言ってねーよ」

いつものやり取りをして、いつもの調子に戻った二人に、富田が前髪に隠れた両目を安堵に細めた。もう大丈夫だ、そう彼は思って、それも違うかと思い直す。もう、じゃなくて、初めから大丈夫なのだ。あるいは、これからも大丈夫というわけではないのだ。ただ、今よりも前に進んだというだけで、進むことが出来たというだけで。
「それと、羽沢」一通り軽口を叩き合って、有原が最後に泰生を見た。呼ばれた泰生は、悠斗らしいことも気の利いたことも言えないがどうすべきか、などと内心で場違いな、しかし真剣な不安を抱く。そもそも何を言われるか見当もつかないのだ、とりあえずあの時黙りこくるしかなかったのは謝るべきだろうか。泰生の脳内で、そんな考えがグルグルと回る。
が、そんな泰生を気にも留めず――「あのさ、羽沢」有原は、泰生の前に立って、少し微笑んだ。


「ありがとな。俺が、いや……二ノ宮と富田も、……俺たちが、ここで一緒にいるの、お前のおかげだから。本当にありがとう」


彼の言葉に、泰生はたっぷり五秒の間を置いて「ああ」、「ありがとう」と返した。
さっきの発言に対する返事としてはいささかビミョーとも言えるそれに、有原と二ノ宮は少しばかり不思議そうな顔をしたが、富田だけは口許だけでクスリと微笑む。泰生のありがとう、が誰に向けたものなのか――この場にはいないけれど、確かにキドアイラクを支えてくれている彼の息子に――それを、富田は何とはなしにわかったのだ。
「よーし、じゃあ始めますかぁ!」腕の関節を鳴らしながら、二ノ宮が威勢の良い声を出す。慌てて楽器を出しながら、「おう!」「おっけ」有原と富田もそれに応じる。間もなく響き出した三つの楽器と一つの声による四重奏は、音を隔てるはずの重い扉すらも超えて、どこまでも鳴り響けそうだった。





地下の駐車場に車を入れてくる、という森田に事務所があるビルの前で降ろしてもらい、コートへ練習しにいこうと足を踏み出した悠斗はしかし、そこでその歩を止めた。
入り口の自動ドアを塞ぐようにして立っているのは、064事務所きっての美女トレーナー、岬だった。一つに結わえた長髪を冷たい秋風に揺らし、黒のトレーニングウェアに身を包んだ彼女は腕を組み、自分の存在に気がついた悠斗を睨みつける。怒っている、そう判断した悠斗は心当たり――先日でっち上げられたハタ迷惑極まりない熱愛スキャンダル――のことだと思い、内心がっくりしつつも覚悟を決めて岬の前まで進んだ。

「この前は、俺のせいで本当に迷惑を――――」
「何言ってるのよ」

が、誠心誠意で謝罪をしようとした悠斗の意に反し、岬の返事は予想だにしないものだった。きっぱりと言い切られた否定の言葉が何に向けられたのかわからず、悠斗は虚を突かれたように押し黙る。
「私が今更、スキャンダルごときで迷惑被るわけないじゃない」そんな悠斗の様子をどうとったか、呆れたような口調で彼女は言った。ルカリオにも似た、意志の強い瞳が悠斗を見上げる。「自分から散々やってきたの、羽沢さんだって知ってるでしょ?」溜息をつくような口調で話す岬に、「それは、まあ……」と悠斗は歯切れの悪い返事をする。それにまた息を吐いて、岬は「そんなことより」と、悠斗へ人差し指をびし、と突きつける。

「聞いたわよ。根元のヤツとのバトル、ボロボロだったって。具合悪かったらしいけど、もし、私とのアレを気にしてただなんて理由だったら承知しないからね」
「いや、え……それは、……」
「羽沢さん、アンタはいつでもいいバトルをしてくれないと困るわけ。勝ち負けとかじゃなくて、ステキな闘いをしてくれないと。私の初恋なんだから、羽沢さんは」

鼻先スレスレの、真っ赤なマニキュアに彩られた爪は悠斗が少しでも動けば刺さりそうだが、そうでなくとも悠斗は動くことが出来なかった。
耳が痛いお言葉に付け加えられるようにして、サラリと告げられた二つ目のセリフに、悠斗は超弩級の衝撃を受ける。別に自分に言われたことではないのだが、いや、むしろ自分ではなく泰生に対する言葉である分、彼の驚愕レベルはさながら、レックウザが住む天上よりも高いところまで突破した。「…………は?」どうにかそれだけ口にして、悠斗は硬直した身体に冷たい汗を浮かべる。


「だから言ったじゃない。羽沢さんは、私の初恋の人なのよ」


驚きで手先が震えていさえする悠斗とは対照的に、あっけからんとした様子で岬は言う。

「五歳とか、六歳の時に……ヨスガシティの大会で、あ、私はヨスガ生まれなんだけど。羽沢さんのバトルを初めて見て、それで、一目惚れよ?」
「はぁ………………」
「後ろなんか絶対向かない、馬鹿なくらいに前しか見てないようなバトルで、そこで私は決めたの。あなたみたいな強いトレーナーになって、必ずあなたに追いつくって。私は何があっても、アンタに並ぶ存在になるんだ、って」
「………………」
「それでその夢叶って、いざアンタと同じ事務所に入って、さぁやっと! これから! って思ったら……羽沢さん、昔みたいな戦い方しなくなっちゃってたけどね。もちろん強いのは変わりない、っていうかもっと強くなってたけど、あの時みたいな勢いっていうか向こう見ずっぷり? そういうのは、なくなっちゃってて。もう、冷めちゃったわよ。ニンフィアだってグレイシアになるレベル」

結婚したって聞いて、なるほどって思ったけど。冗談めかして口を尖らせ、悠斗の鼻先から指を離して岬は言う。「私が口出すことでもないって、わかってるけどね」

「でもね、もう流石にアンタに恋とか愛とかそんなのは無いけれど……でも、アンタのせいで、私は人生変わっちゃったのよ。ポケモントレーナーになるって決めて。もっといい人生あったかもしれないのに、トレーナーだけになっちゃったの」

「だから、責任取って」一方的に言葉を続け、岬はちょっとイジワルな笑みを浮かべた。「アンタは、いつでも、ずっと『強くてステキなトレーナー』でいてくれないと困るわけ」鮮やかな紅をした唇が綺麗な弧を描き、焼きつくような美しさがそこに現れる。
強くてステキな、トレーナーの笑顔だった。

「私だけじゃなくて、結構たくさんいるのよ、アンタに惚れてトレーナー志望したヤツ。成功してようがしてまいが。どうせアンタは全然気づかないんでしょうけど、アンタは、色んな人の人生を変えて……たくさんの人の、きっかけになってるの。だから、さぁ…………それだけのトレーナーで、いてほしいわけよ」

私はね、と付け足した岬は、少しだけ自嘲したように笑う。「言ってやるつもりはなかったんだけど、最近の羽沢さん見てると、言っとこうかなって思って。なんでかわかんないけど」風に流れて僅かにほどけた髪を耳にかけて、彼女は悠斗から一瞬視線を外し、事務所のあるビルの上方に目を向けた。


「あっ、……もしかして、」

しどろもどろになる中で、悠斗の頭の中の冷静な部分が、一つのことに思い至る。いつか森田が言っていた、『岬さんは自分からスキャンダル起こして相手の評判を下げてる』という情報から考えるに、もしかすると先日の一件も岬が誘発したものなのではないか――。先程の言葉が本気だとすると、彼女が羽沢泰生との熱愛報道をされたところで受けるデメリットも重くない。あの写真を撮ったカメラマンも岬が雇った者で、望ましくない今の羽沢泰生を陥れるためにあんなことをしたのではないだろうか?
そんな、悠斗の抱く疑念を察したらしく、岬は「何よ」と綺麗に走る眉をひそめる。「まさか私が、いつもみたいにスキャンダル仕組んだとか思ってるのかしら」

「あ、いや……そんなことは……」
「流石に、同じ事務所のトレーナーにまでそんなことしないわよ。アレは私じゃないわ、私も知らない別の誰か」

どうせ余所の事務所の差し金でしょ、マックスアップあたりが怪しいんじゃない? と溜息をついた岬があまりにはっきりとした物言いをするものだから、悠斗は肩透かしを食らったように返す言葉を無くした。「ああ、はい……」気の抜けた声が彼の口から漏れる。そう言われてみればそうか、という思いが今更頭に浮かんできて、悠斗は顔が熱くなった。「そう、だな……失礼……」

「あ、でも」

が、悠斗が謝りかけたところで岬が思い出したような声を出す。え、と彼女の顔を見た悠斗に、岬は顎を片手で撫でながら首を傾けた。

「一つ、気になることがあって」
「気になること?」
「いつも私がタレコミしてる編集部からね、連絡があって……私が持ち込んだわけじゃないのに、私のスキャンダルが入ってきたけどいいのか、って」

一瞬、岬の言っている意味がわからず黙った悠斗に、「出版社とコネがあればその辺ごまかしてくれたりもするのよ」とさらりと岬は言う。そこでやっと、彼女の言葉の何たるかが若干わかったような気がしたが、それ以上詮索するのはやめておいた。世の中には知らない方がいいことがたくさんあるのだ。そだてやにあげてしまったタマゴの行方とか、インドぞうとは何たるかとか、真夏の観覧車で何が起きたかとか。
それよりも今は、その先だ。「まあ、だからそこは一応やめておいてもらったんだけど、結局いろんな場所に持ち込まれてたから無駄だったけどね」と肩を竦め、彼女は続ける。「ただ、そのタレ込んできた奴っていうのが」

「ハタチ前後くらいの女の子だったっていうのよね」
「ふぅん……?」
「それも、全然そういうことに疎そうな……スキャンダルとか週刊誌とかそういうのと縁の無さそうな、よく言えば箱入り娘のお嬢さん風、マッスグマ直球に言えば地味めで垢抜けない感じ、らしいわよ」

「そんな子がタレコミしてるなんて不自然だって、その編集部も首ひねってたんだけど……」複雑そうな表情をして、岬は言う。

「もっとヤバいネタならともかく、されどトレーナー、たかがトレーナーの熱愛報道程度に運び屋使う意味も無いし。なんでそんな人がわざわざ……」

「羽沢さんっ!!」

思案するように岬が口ごもったタイミングで、二人の間に飛び込んでくる声があった。「あら、相生君じゃないの」片手を上げて岬が言う。「イッシュに巡業行ってたんだっけ? お疲れ様」

「はい、ありがとうございます……あっ、あの、羽沢さん!」
「え!? あー、うむ……なんだ」
「あの、先日の、その……ニュースのアレのことなんですけど!」

微妙に裏返った声で言われたそれに、悠斗は数秒遅れて思い至る。岬のことに気を取られて忘れていたけれど、そういえば相生とも厄介な報道がされていたのだ。
「あー、それは、本当に……」迷惑をかけた、と言うため、悠斗はかなり気まずくなりながら口を開く。が、


「いえ! いいんです!!」

「…………え?」


勢いよく言葉を発した相生の声に、悠斗のセリフは掻き消された。口を開けたまま呆然と相生を見据える悠斗に、相生はその呆然さに気づかず話し続ける。


「今回は、トレーナーとして大切なことを教えていただき、本当にありがとうございました!! こういうアクシデントが起こっても、平常心を失わずにバトル出来てこそエリートトレーナーですものね……! 何も無くても緊張してすぐ固まっちゃう僕に、羽沢さんが、身を以て伝えてくれたんだって!」

「はい…………?」

「正直、あのニュースが流れて、そのことでいっぱい突っ込まれて……ただでさえイッシュとかいう遠くにいて、僕、もう駄目かと思ったんですけど……でも、羽沢さんがご自分さえ犠牲にしてまで、教えてくれたことですから! なんとか、頑張れたと思います!」


ヨーテリーのような目を輝かせてくる相生に、悠斗は絶句するしかない。そんなつもりはどこにも無かったし、その悠斗だってスキャンダルのせいではないにしろ、根元とのバトルに負けているのだ。
多大な勘違いをしていることを悠斗はどうにか伝えたかったが、顔を上気させた彼を止めるタイミングは掴めそうにない。「羽沢さんが応援してくれてるんだって思ったら、バトルにも勝てました」とても嬉しそうにそんなことを言う相生に、なんでこんなことになってしまったのか、と悠斗は思わずにいられなかった。


「羽沢さんのおかげで強くなれたんです。今回のことで、羽沢さんみたいに強いトレーナーに一歩、近づけたような気がします! もちろん、そんなの僕の思い上がりだと思いますが……でも、少しずつ! 少しずつ、羽沢さんのようになりたいです、僕!!」


一人で突っ走っている上によくわからない方向へこうそくいどうしていく相生に何か言おうとした悠斗の肩に手を置いて、「ほっときましょ」と岬は軽く言った。え、でも、と戸惑う悠斗に彼女は首を横に振り、「本人がいいって言ってるんだし、別に悪いことでもなさそうだし」と肩を竦める。
何と返すべきかわからず、人知れず冷や汗を流した悠斗の顔を、「それに、私もだけど」岬はじっと覗き込んだ。



「なんだかんだ、みんな羽沢さんのこと好きだから。ウソでもアンタと話題になって、嫌がる人は少なくとも、ウチの事務所にはいないと思うわよ」



どうせ気づいてないんでしょうけどね。ちょっとだけバカにするようにそう言って、岬はくるりと背を向ける。「そろそろ戻りましょ」と悠斗に声をかけ、「相生君も」相生に視線だけを向けて彼女は伝えた。
はい! と相変わらず緊張感の拭えない声で答えた相生は、ビルに向かって進み始めた岬を小走りで追いかける。「羽沢さんも、早く」と促した岬の声と、自分を待つような相生の目に悠斗は刹那表情を止めて、

「ああ」

浅く頷き、二人の間を歩き出した。





その夜――公園脇に車を停めて、森田はエンジンを切った。悠斗を送るついでにタマムシ大学に寄って拾ってきた、助手席の泰生に「着きましたよ」と声をかける。後部座席の悠斗と富田にも、シートベルトを外しながら「少し待っててください」と振り返った。
鞄から取り出した三つのボールを手に、森田と泰生は車外に降りる。

「あー、やっぱり天井の無いとこはいいですね。広々してて」

いつものように、半端な時間の公園に人気は無い。ポケモンに関してもそれは同様で、昼間なんやかんやと騒がしいポッポやオニスズメ、むしポケモン達がいなくなるため大分静かだ。植林の根元などを漁ればマダツボミなどが見つかるのだろうけれど、とりあえず今目視出来る範囲で、動く影は見当たらない。
黒く染まった空に、ボールから放たれたシャンデラが浮かび上がっていく。それを追うように飛び立ったボーマンダの、翼を広げたシルエットが薄く地面に落とされた。マリルリはマイペースに、時間帯のせいかどこか哀愁を漂わせていたブランコなどに乗って遊んでいる。

「どうです? ミタマ達の調子は。僕だとわからない部分もありますから、チェックしといてくださいね」

冷えた土の上に立ち、そんな彼らを見ている泰生に森田はそう言った。仏頂面のまま視線を三匹全員に、そして森田にスライドさせた泰生は「……ヒノキの明日の食事に肉を少し増やす。ミタマは良好。キリサメは、……ちょっと痩せてもらいたいかも、しれん」と返す。的確かつ迅速、そして冷たさすら感じるほど客観的なコメントに、森田はいつも通りの泰生を感じて内心で安心感を覚える。了解です、と慣れた調子で答えた彼は、胸ポケットに入っていた手帳に二言三言を書き付けた。

「…………が、」

と、そこで泰生がまだ何か言葉を続けるようだった。なんだ、と思って森田は泰生の方を見る。

「コンディションはかなりいい、と思う。バトルでしたケガのケアもちゃんと出来てるし、それに、皆この前よりも元気だ。だから、……よくやってる、と思う」

オコリザルもびっくりの仏頂面(もっとも今の見た目は悠斗であるため多少緩和されてるようにも見えるが)はそのままだったが、その奥に確かに内在しているものがあった。今までに一度も見たことのない、初めて目にするそれに森田は丸い瞳をさらに丸くする。
しかしその驚きをすぐにどかして、森田は不思議なまでの安堵と喜びを自分が感じていることに気がついた。「それはそれは、ありがとうございます」

「でもですね。泰さん。それは、悠斗くんにも言った方がいいと僕は思いますよ」
「…………む」

唸り声にもならないくらい短く答えた泰生に、森田は思わず吹き出しそうになる。一回りも離れた泰生が(そりゃあ、何度もいうようだけど、見た目は悠斗だが)いじっぱりな子どものような仕草をしたことに、彼は内心こみ上げる笑いを必死に噛み殺した。
それでも、自分は多分、嬉しいのだ。平静を装う森田は思う。泰生の頑なさというものが、今まで何度も目にしたそれが、確実に柔らかさを持っていることが。彼がやっと、何かを手にすることが出来たのが。
「あのですね、泰さん」微妙に視線を外してしまった泰生に、森田が穏やかな声で言った。なんだ、と泰生は不機嫌そうに答えたが、慣れに慣れを重ねた森田は何もためらうことなく声を続ける。

「悠斗くん、バトルやったことないらしいですけど。でも、ちゃんと言ってたんですよ。自然な感じで、ちゃんと」
「…………?」
「ありがとう、って、バトル終わった後のミタマ達に。当たり前のことなんですけど、意外と出来ない人、多いんですよね。本職のトレーナーでも。だけど悠斗くんが普通に出来てたのっていうのは、多分」

多分、泰さんがそうしてるのを、どこかでわかってたからだと思うんです。
そう言って笑った森田に、泰生は一瞬だけ目を大きく開いたがすぐに、ふい、とそれを逸らしてしまう。「俺がいたからじゃない」ぼそぼそと、自嘲を滲ませた声で彼は言う。「真琴の育て方が良かったんだ。それに、富田とかみたいに、悠斗の近くにいてくれた奴らのおかげで」森田から背けられた顔が、薄い雲の浮かぶ夜空を飛んでいるシャンデラを見上げて息を吐く。冷えた空気に溶けるそれは、うっすらと白い色をしていた。「俺じゃない」

「そんなもんですかねぇ」

その息を目で追って、森田は穏やかな声のままで答える。「そうだったとしても、今からでもいいんじゃないですかね」気の抜けた声で、森田は泰生の顔を覗き込んだ。

「それにですね……やっぱり、泰さんは、悠斗くんの中にいますよ。あの無鉄砲さというか直進加減というか。泰さんを嫌いだって思うあまりああなったのかもしれませんけど、それはそれで、泰さんがいてこその、今音楽に打ち込める悠斗くんがいるわけじゃないですかね」

「少なくとも、僕はそう思ってますよ」そう言い、笑みを浮かべた森田に泰生は目を向ける。空を飛んでいるボーマンダの影が、年の割に幼く見える童顔を横切った。
その顔に、泰生は口を開く。「森田、」喉の奥、そのまたもっと奥から、言葉はひとりでに出てくるようだった。

「俺は、な。森田……昔、自分と、ミタマ達さえいれば、他に誰もいなくて良いと思ってたことがあったんだ」

呟くようにして話し出した泰生に、森田が「泰さん……?」と怪訝そうに声をかける。泰生がこんな、自分のことについて話すなど初めてだった。
「今度、お前にも話す」心配そうな顔になった森田を手で制し、彼は森田の目を前から見る。「話したいと思ったんだ」

「誰もいなくていいと思った時があった、が……真琴がいて、悠斗がいて、そう思えなくなったんだ。いなくていいなどと、少しも思えなかった。俺は、ずっと……そうだったんだ」
「はい、…………」
「それは、多分。……お前も、そうなんだと思う」

静かに告げられたそれに、森田は返事をなくした。
「いらないなどと思ったくせに、俺はすごい勝手な奴だ」自責するように泰生は言って、深くて白い息を吐いた。「だけど」

「俺は、お前がマネージャーでいてくれて、……嬉しいと、思う」

言葉を一つ一つ選ぶようにして、それだけ言い終えた泰生に、森田はずっと昔のことを思い出した。

まだ若かった頃、自分はいつかポケモンリーグの頂点に立てるのだと、疑いもせず思ってた頃。そんな甘くて青臭い考えを残さず消し去ったのは、気まぐれで出場したバトルフェスの一回戦で当たった対戦相手の、泰生だった。
瞬く間に技を叩き込まれ、地に倒されたペルシアンを前に立ち尽くしたあの時に、その向こうで勝利宣告を受ける泰生に抱いた思いは、どうしようもないほどの嫉妬と憎悪と、決して自分には越えられないのだという絶望。そして、それを上回るくらいの、希望。
こんな強いトレーナーがいるなんて、こんなすごい人がいるなんて、自分が生きるこの場所は、どれほど素敵なところなのかと思い知ったのだ。そして次に抱いたのは一つの願いで、そんな人の力になれたなら、この輝きを支えられたなら、どんなに――


「当たり前じゃないですか」


震えそうな、しかし堂々とした声で森田は言う。「言われなくても、そうしてますって」いつもの、人懐こい笑顔になった森田に、泰生もつられたように口元を緩めた。
その表情に、森田はつくづく思いふける。この人の近くにいれて、本当に良かった、と。
「任せといてくださいよ」おちゃらけた調子で、ガッツポーズを決めた森田に、泰生が「調子に乗るな」と平素の様子に戻って苦々しげに言った。しかし森田はちっともめげることはなく、嬉しげな顔を少しも曇らせない。力にモノを言わせ、ブランコをめちゃめちゃに揺らしていたマリルリがそんな彼を遠目に見る。
あの日の思いは、何も間違っていなかった。そんなことを頭に浮かべ、森田は一際明るい声を出す。


「僕は、泰さんのマネージャーなんですから!」





「調子どんな感じ」
「まあ、それなり。この調子でいければ」
「俺も早く戻りたいなぁ」
「早く戻ってくれよ、ホント」
「やっぱバレそう? 気づかれてる感じ?」
「気づかれてるってわけじゃないけど、イメチェンってことにしてるから。でも守屋に超不評で、そのイメチェンキモいから元の羽沢の方がいいからやめて、って」
「また意外なとこから……あいつ言うときは言うからな」
「あ、でも有原と二ノ宮には割と。そのルックスで硬派、いや硬派通り越していぶし銀? キッサキ男子って感じでいいんじゃないかって」
「キッサキとか言ったことすらないし、そもそもあいつだって別にシンオウ出身じゃないし意味わかんねぇよ……」

泰生と森田がシャンデラ達を放しに外に出てる間、車内に残された悠斗と富田は取り留めもない会話を交わしていた。微妙にくすんだ色をした、窓ガラスの向こうの視界は暗く、シャンデラが発する青白い炎と、断続的な明滅を繰り返す街灯だけが光源となっていた。
「あいつらはそれでいいのかよ」ぐったりした調子で悠斗は言う。シートに背中をもたれさせ、彼は想像上のバンドメンバーに文句を吐いた。「気づかれないのは助かるけど、流石に傷つくわ」

「完全にアリって流れだけど。二ノ宮なんか、『俺もイメチェンしようかな』ってそわそわしだしちゃってるし」
「あー、それでどうせアレだろ? 『お、フォルムチェンジか? それともメガシンカ?』だろ? わかるよ」
「ま、大体そんな感じ。で、『うっせー、誰がしゅくもうきょうせい使用でストレートフォルムッスか!』」
「『言ってねーよ』な。毎度毎度、よく飽きないよマジ……久しぶりに聞きたいな、アレも。なんだかんだ、無きゃ無いで懐かしい」
「あー、そうだ。有原が今度、バイト先みんなで来てって言ってた」
「あいつのバイトってどくタイプカフェだっけ? 行くか、サークルのみんなも誘って、売り上げに貢献しよう」

ごくごく自然に返ってきたその答えに、富田は前髪の向こうにある目を数度瞬かせる。「そうだけど」低めの、どちらかといえば平坦な声はいつも通りの彼のものであったけれど、僅かな動揺を含んでいることが富田自身にもわかった。「合ってるけど、そこで」
本当に行くって言ったのか、という富田の問いは言葉にならなかったが、悠斗はその沈黙の意味するところを悟ったらしい。「行こうよ」当たり前のようにそう言って、彼は少し照れたみたいに笑う。「みんなでさ」

「うん、…………」
「富田」
「うん」
「ありがとな」

その言葉に、富田は少し俯いて、「俺は何もしてない」と呟いた。自分では悠斗を助けられないことを、前からわかっていたにも関わらず、己のわがままで先延ばしにし続けていただけなのだ。それを、やっと諦められただけの話にすぎない。シートに置いた左手を、悠斗には見えないように握り締める。
「そうじゃないって」が、悠斗はそんな富田の言葉を否定した。


「お前は、俺の力になれないとかあいつやポケモンの代わりにはなれないとか言ってたけど、……確かに、お前はあいつやポケモンの代わりにはならないけど。でも、俺はずっと、お前が助けてくれてたんだけど」

「……………………」

「あいつとか、ポケモンとかから逃げてて、多分俺は、お前がいなきゃ駄目になってたと思う……お前のおかげなんだ、今、俺が何か出来てるの」


だから、ありがとなっつってんだよ、と少しだけ語調を強めた悠斗に、富田はしばらく黙ったままだった。しかし少しの間を置いた後、彼は呼吸の続きのような声で、小さく「うん」とだけ返事をした。

「なあ、悠斗」富田が静かに口を開く。「もし、俺がもっと……半分ぐらいブラッキーだったら、今どうなってたと思う」
問われた悠斗は、数秒言葉と動きを止めて富田の方を見ていたが、やがて苦笑と共に「お前、それはずるいよ」と答えた。すまん、と謝る富田に彼は、何の飾り気もない声で言う。

「そんなのわかるわけないだろ。大体、ハーフだったらタマムシの公立なんかいないだろ、だってカントーだと色々大変だからあまりいないらしいし。そしたら俺ら、そもそも知りもしないんだから」
「そういう正論が聞きたいんじゃねぇよ。マジで返してこないでいいから、たとえ話だから」

機嫌を若干損ねたような口調で富田が言うと、悠斗は「わかってるよ」と口を尖らせた。「んなこと、わかった上でのボケだって」などとぶつくさ呟いている悠斗を、じゃあ真剣に答えてみろよという念を視線に込めて富田はじっと睨みつける。
その視線に怯むことも臆することもぼうぎょを下げることもなく、悠斗はどこかあっけからんとした笑みを形作る。「変わんないんじゃねぇの」狭い車内に響く声は羽沢泰生のものだけれども、富田が初めて話した時の悠斗と同じ、前だけに通るような色をしていた。

「お前があの時みたいに、俺の前に現れてくれたら、たとえ百パーブラッキーだったとしたって今と変わってないと俺は思うよ」
「……………………」
「瑞樹は、俺がお前を見つけたみたいな感じで思ってるんだろうけど。実際逆だから。あの時、ダメになってたかもしんない俺を見つけたのがお前なんだよ」

そう言った悠斗に、富田は何かを反論しようとして口を開きかけ――たが、やめた。
その代わり、彼は前髪に隠れている、夜の暗さで影になった赤い瞳を細く細く、瞼が触れる限界まで細めた。「うん」それだけ答えて、力の抜けていく身体をシートに預ける。「よかった、見つけといて」冗談っぽさが混じった、しかし安らかな口調で、富田は悠斗にそれだけを告げた。

「そうだ悠斗、あの歌うたってくれよ」

富田の申し出に、悠斗は「え、アレ?」と少し戸惑った様子を見せる。「この喉じゃ上手く歌えねーし、ピアノもアコギも無いんだけど。まさかお前がそれ弾くってわけにもいかないし」富田が脇に置いたエレキギターの収まっているケースを横目で見ながら、悠斗は渋るような声で答えた。
「いいじゃん。頼むよ」それでも、富田は淡々とした口調のままで食い下がる。俺がハモるからさ、という、代替案になっているのかいないのかよくわからないコメントを添えた彼は、両眼で悠斗の目を真っ向から見据えた。

「な、悠斗」
「……わかったよ」

鼻を鳴らして了承した悠斗が、すぅ、と息を大きく吸う。続いて車内に響き出したのは、七年前に流行った歌謡曲だ。
出会えたことの奇跡と、その幸福を歌ったそれは富田が悠斗と初めて言葉を交わしたあの日、悠斗が帰り道で歌っていたものだった。あの時と同じように、何の伴奏も効果も無い歌だったけれど。あの時と違って、悠斗の声は低くて通らないし富田の声が重なっているけれど。だけどその歌は、確かにあの日の延長線上にあった。





「ちょっとちょっとちょっと!! 何、なんかいい感じに終わらようとしてるわけ!? その、いつもより長めのエンドロールとスタッフロールとフルバージョンのエンディング流れそうな感じの雰囲気は!!」


突如、車内にやかましい声が響き渡る。
いつかもあったその登場に、正直なところ『そろそろ来るだろう』と頭の片隅で考えていた悠斗と富田は揃って歌をやめ、揃ってうんざりした顔をした。そんな二人の様子に構うことなく、声の発生源である黒い影――森田がいない運転席に勝手に腰掛け(足が無い者に腰掛けるという表現を使うのは正しいのか不明だが)て、赤い一つ目で振り向いているヨノワールは、でかい図体に似合わぬ仕草でぷんぷんと怒ってみせる。魂を霊界に運ぶなどという逸話と、縁起のよろしく無さそうな見た目からは結構な恐怖心を与えるそのポケモンはしかし、決して大型車とは言えないこの車に詰め込まれている今、窮屈な座席にもどかしさを覚えるマヌケ者にしか見えなかった。

「そんなところで、なあなあなハッピーエンド適当に迎えられちゃったら、この僕の存在意義がなくなっちゃうでしょう! この僕、そう! あなたの街の便利屋さん、落とした財布探しから、堕としたい人への呪い代行までなんでもござれ、毎度ご贔屓にありがとうございます〜……の、真夜中屋のいる価値がないじゃん!? ゲームコーナーでわざわざケーシィもらう方がまだ意味あるよ! 厳選しやすいからね!」

もはや説明する気も失せるところだが、このヨノワールは単なるてづかみポケモンではなく、ミツキが何らかのサイコパワーによって一部憑依し、媒介とすることで遠隔的にコミュニケーションをとったり感覚を働かせたりすることが可能になっている、という状態のヨノワールなのだ。悠斗達にはよく、というかまったくわからない話だが、本人が直接行動するというのはサイキッカー界隈ではあまり褒められた行為ではないらしい。自分の気を隠せないだとか、力をわざわざ知らしめてしまうだとか色々と面倒なのだという話だが、とりあえずはサイキッカーも大変なのだということだ。
それは置いておいて、至極ストレートに会話を邪魔されることになった富田は、あからさまに不機嫌な声で問う。「何の用ですか」「えっ痛い痛い!? 目が大きいからって指五本使って目潰しするのやめてくれない!?」それなりの巨体を狭い車内でバタバタさせたミツキの、身体の右四分の一くらいが運転席にのめり込んだ。実体が無いから当然とはいえ、正直気持ち悪い。

「痛い……なんで……? なんで実体無いのに目潰しは効くわけ? おかしくない……? かぎわける? かぎわけるなの? ブラッキーってかぎわける覚えるんだっけ……?」
「つべこべ言ってないでとっとと要件言ってくれませんかポケダンでちょっと優遇されたからって調子乗んないでください輝石で人気下がったくせして」

割と多くの人を敵に回す発言をした富田に、ミツキが「うう」と情けない声を出す。泰生の用が済んだか、それとも話し声を聞きつけたか、車に戻ってきた森田が、シートに身体の三分の二ほどをめり込ませているミツキを見つけて「うわっきもっ」と率直な感想を述べた。受けたショックに比例して、ミツキののめり込み度がさらに上がる。
「もういいですから、何なのか早く教えてくださいよ」丁寧なのか酷いのかわからない頼み方を悠斗がする。三匹を連れた泰生が戻ってきて、あまり状況を把握していない顔で「ヨノワール……」と呟いた。車の室内灯の薄暗さでもわかる、目の奥の密やかな、しかし確かなときめきを帯びた輝きはその場の皆に無視された。

「ったく、サイキッカー遣いが荒いんだから……わかったよ。そもそも悠長にしてる意味も無いし、ね」

諦めたように、口調を真面目なものに変えてミツキは言う。後部座席に並んで腰掛けた悠斗と富田、半分開けた運転席のドアに手をかけている森田、助手席の窓から車内を覗く泰生が、黙ってミツキの言葉を待った。
「要件なんだけど、簡潔にいくね」それはいつものように飄々とした声だったが、夜の公園に響くそれは不思議なことに、どこか奇妙な色を帯びている。「まあ、ここまで待たせて申し訳なかったんだけど」


「この事件の犯人、見つかったよ」


九割の驚きと、一割の想定内に、返事を選びあぐねた四人は一斉に口ごもる。
よかった。やっとか。じゃあ元に戻れるのか。どこのどいつが。どうやってやったんだ。いつ戻るのか。なんでこんなことをした。彼らの頭の中に様々な考えが浮かんでは新たな思いに流されていく。怒涛のような思考に脳裏が一時停止をしたらしく、黙ってしまった四人にミツキはさらなる言葉を投げかけた。

「そう、見つかったんだけどさ――」

あくまで軽く、自然な口調で彼は問う。



「誰だか、知りたいと思う?」


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