マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.1442] 第十三話「捲土重来」 投稿者:GPS   投稿日:2015/12/07(Mon) 21:45:15   38clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「あれ、森田さんどこ行っちゃったんだ」

064事務所のロッカールームを出た悠斗は、今着替えたばかりのトレーニングウェアの裾を直しながら辺りを見回して呟いた。
貴重品を入れたロッカーの鍵を首から下げてTシャツの中に隠し、同じく首に下げたパスケースに収まったトレーナーカードを確認する……ここ最近ですっかり身についた、『羽沢泰生』としての生活に悠斗は無意識で苦笑する。「おはようございます、羽沢さん!」女性用のロッカールームから出てきた064所属トレーナーが声をかけてきた。特注のゴム手袋を嵌めたその手に、どくどくだまとかえんだまが握られているのに内心少しビビりつつ、「おはよう」と返事をする。慣れてしまったのは悠斗だけでは無いらしい、以前よりも随分と態度の柔らかくなった『彼』の様子に別段驚くこともなく、もう一度会釈をした彼女は早足で事務室へと戻っていった。

「トイレでも行ってんのか」

意味の無いことをまた呟いて、悠斗はそこまで広くもない廊下に立ち尽くす。先に階下のコートへ行っても良いのだけれど、ロッカールームに入る前に「ここで待ってますから」と言われたことを考えると、勝手に行動するのは気が引けた。
どうしたものか、と思いながら手持ち無沙汰に窓の外へと視線を向ける。タマムシの街並みを一望出来る……とはとても言えない六階からの視界は、昨日の深夜から降り続いている雨のせいで一様に灰色をしていた。雨がビルのひさしに打ち付けられる、硬く濡れた音が耳にうるさく鳴り響いている。いつもはピジョンやオニドリル、運が良ければ遠目にハクリュウなどが見える空は、重苦しい雲に覆われていてどうにも圧迫感と寂しさを覚えざるを得ない。

外に出れば、たとえばビルの庭などに行けばニョロモやニョロゾくらいいるのだろうか。ごく自然にそんなことを考えている自分がいて、悠斗はちょっと驚いた。以前は、少したりとも見たくないなどとばかり考えていたその存在を、知らず知らずに受け入れているなど昔の自分は思いもしないに決まっている。この一件によって、確実に自分は変わったのだと悠斗は思った。
そうであるならば、きっとこれには何かしらの意味があったに違いないだろう。

「あ、いたいた! 悠斗く……えー、泰さーん! すいません、パソコンの電源切り忘れてたんでちょっと向こう行ってました!」

事務室から出てきた森田が声を張り上げ、騒がしく自分に向かって走ってくる。それに片手を上げて応えた悠斗は、その手を下ろしたところで腰につけたボール三つにそっと指で触れた。
金属特有の冷たさと無機質さ、そして僅かに感じられる存在感。そこにいる彼らのことを確認する。

「じゃあ行きますか! 今日はマルチの練習でしたよねー、誰と当たることやら、また相生くんですかね、タイプ相性的にはまずまずなんでそうなるといいですけど」
「いやー、……それは…………」

いいのか悪いのか、変わってしまった相生のことを考えながら言葉を濁らせて、森田と共にエレベーターに乗り込む。重いドアがゆるゆると閉まって、廊下に響いていた雨音はすっかり聞こえなくなった。





「ひどい雨ですね。どなたさんのせいなのかはわかりませんけど、ひどい雨ですね」
「二回言わなくてよくない? あと俺を見る必要もなくない?」
「流石はタマ大のカイオーガと名高い樂さんですよね……自分が仕切るイベントとか飲み会とか合同練の日には必ず雨を降らすだなんて、本当真似出来ないですよ! 恐れ多くてかみなり撃って差し上げたい気分です」
「まあね。巡君なんて所詮、よくてニョロトノレベルだもんね。自分がコンビニ行く時に限って雨が降るとかその程度だから、スケールが小さい人の言うことは一味違うね」

水滴に濡れた窓ガラスに映るお互いに向かって、パイプ椅子の背もたれに肘をついた守屋と芦田がテッシードみたいな声で悪態をつく。「お前らジメジメした日にジメジメすること言わないでくれよ」その様子に呆れたらしいサークル員が延長コードを解きながら言ったが、二人の放つ傍迷惑な険悪さは拭えないままだった。

「……カイオーガがどうかしたのか?」

そんな会話を聞いていたらしい泰生が、歌詞をプリントした紙から顔を上げて言う。聞かれた富田はギターの弦をはじきつつ、「どうもしません」などとおざなりな返事をした。芦田と守屋のコレは特段珍しいことでも何も無いため、部室にいるサークル員達は富田を含め完全に無視を決め込んでいる。二人のポケモンであるポワルンとマグマラシすら我関せずという顔でそれぞれの膝の上で寝ており、唯一言及したのは、さっき諫めようとした三年生くらいのものだ。
「ほっといていいんですよアレは。二人とも暇つぶししてるだけですから」まだ何か言い合っている芦田らに聞こえないよう、富田は一応声を落として言う。

「別に羽沢さんが気にすることないです、先に笑った方が負けとか先に言い返せなくなった方が負けとかそんな感じですから、特に意味は無いんですアレに」
「そうか……あの学生が本当はカイオーガだということではないのか……」

真顔でそんなことをのたまい、心なしかしゅんとしている泰生に、富田は『ピュアか?』と突っ込みたくなった。が、言っても無駄だとわかっているため彼は口を開けないでおく。タマゴから孵ったばかりのピィか何かかお前は、などと言いたくなる気持ちを抑えつつ、泰生相手にツッコミを放棄するのも何度目かと彼は内心で溜息をついた。

「また人前で歌うのか」

富田をよそに、勝手に話を終わらせそう尋ねてきた泰生に、富田は「はい」と首を縦に振る。ギターの音程を合わせながら、「嫌ですか」という質問も付け加えた。
泰生は少し考えるような間を置いて、「いいや」とゆっくり返事をした。「嫌ではないな」半分ほど独り言のようなその言葉に、富田は前髪の下の瞳を丸くしてギターから顔を上げて泰生を見る。が、その驚きもすぐに消えて、彼は変化に乏しい顔を僅かに緩めて短い息を吐いた。「そうですか」という富田の相槌は、未だに無為な言い争いを続けている芦田達の声と、音量調節を間違えた一年サークル員のマイクテストの爆音と、学校の中庭を叩く雨の音にかき消された。





「……うん。今のとこ何も無いね。あ、店見えてきた……うん、うん……特に異常無しってヤツ? うん、大丈夫大丈夫」

骨が数本曲がったビニール傘を片手に、ミツキは雨のタマムシを歩いていた。
空いたもう片手に持った携帯に向かって話す彼はゴーストポケモンの姿を借りた状態ではない、ミツキ本人の、人間の姿のままだ。一応外出ということで気を遣っているのか、ヨレヨレとはいえジャケットを羽織ってはいるものの、その下に着たTシャツが、無駄にリアルなニャスパーのイラストと『SHARP EYE』の文字列(創英角ポップ)などという、壊滅的なダサさを誇っているせいで色々台無しである。ダメージ加工なのか本当にボロいのか見分けのつかないズボンも哀愁を誘っているのに加え、ただでさえくしゃくしゃの癖っ毛は湿気でますます酷い有様となり、そこらで雨宿りしているズバットの方が百倍身なりがいいという感じだ。行き交うタマムシボーイ・タマムシガールはそんな彼をチラーミィみたいに見遣り、揃って不審そうな顔をした。

「だからさー、そんな心配しなくていいって、こういうのは直々に行くのが礼儀ってものだし……そうだけどさ、大体アレだよ? 僕が来るかそりゃわかんないけど、うん、何も用意してないようなヤツなんだから……そんなのさ、大したことないって」

が、ミツキ本人はそれを全く気にすることもなく、のんきに喋り続けている。「わかったって、油断はしてないよ、ホントホント」軽い調子で話す彼はそこで、雨のせいで水の溜まった側溝に流れていくベトベターに気づいたらしい。視線を下げると共に携帯をポケットにしまい、ぼけっとしている生きたヘドロにミツキはヒラヒラと手を振った。

「うん、だからいいって。……店着いた。マジで何も無かったなぁ、うん、それね。むしろこんなシャレオッティな店に入る方が普通に不安だよね。ま、引き続き頼むよ……はいじゃーねー、また後で」

携帯をしまったにも関わらず話し続けるミツキは、ふう、と息をついて一軒の店の前で立ち止まる。それもそのはず、電話しているかのような様子は単なるポーズで、別の場所で待機しているムラクモとの念動力による会話、つまりはテレパシーをするにあたり、何も無いところにブツブツ話しかけている怪しい人扱いされないようにするための対策だったのだ。実際は彼の外見が絶妙に微妙だったせいで、結局不審がられてはいたけれど。
それはさておき、傘を閉じたミツキは店の看板を見て名前を確認し、若干気合の入った表情をする。店先にヒメリの花などを飾ってある、その小洒落たカフェの屋根を――彼の仲間であり、見張りをしているゴーストポケモン達が姿を隠している場所に視線を送り、彼は任務開始の合図を送った。

くっちゃりした前髪に隠れた、細い両眼が雨の薄暗さの中で一瞬だけ怪しい光を放つ。

『そういうのいいから早く行けそして真面目にやれ』

そんな自分にかっこよさを感じて、ガラス戸の前で無駄に立ち止まっていたミツキの頭にムラクモの声が響き渡る。死ぬほどどうでもいい思考をいち早く察知してツッコミを入れてきたその声に、ミツキは「はいはーい」などと答えてから、カランコロン、というチャイムを鳴らして扉を開けた。





「みんな揃ってるの? 出る奴でまだきてないのいる? いない?」
「おい! やばい蒸し暑いんだけど、人多いんだから換気しろ換気! 窓開けろよ!」
「これから演奏すんのになんでわざわざうるさい外の音流れ込ませんだよ! 開けられるわけないだろ、こおりタイプじゃないんだから少し我慢しろ!」
「なー、赤井さん!? 一軽の奴らが見たいって言ってんだけど入れていい!? 二十人くらいなんだけど!」
「え? あー、大丈夫っちゃあ大丈夫! でもマジで狭いから覚悟してって言って!」

その言葉が聞こえるなり、一軽――第一軽音サークルの部員達が、「失礼しまーす」「あっつ! 暖房入ってんの!?」「めっちゃ楽しみだわ」ぞろぞろと部室に入ってくる。彼らと並んで、当然のような顔をして入室してきたバンギラスだのバシャーモだのシビルドンだの、一軽部員のポケモン達に、赤井と呼ばれたキーボードの三年生が「おい! 二十人じゃなくてプラス十人分のスペース必要じゃねぇか!」と誰かを怒鳴りつけた。

「いいだろ、別に。こいつらはただのポケモンじゃなくて大切なバンドメンバーでもあんだよ」
「ダメだとは言ってねぇよ、ただ狭いって……おい! 流石にハガネールは入らないからそれは無理!」

パンクなアクセサリーや血飛沫のボディペイントで全身を飾ったファンキーなハガネールが廊下から入り込もうとするのを見て、赤井が叫び声をあげた。
今日はタマ大第二軽音サークル主催で、急遽部室でライブをすることになっている。希望したチームも何組か出演するが、メインはキドアイラクの演奏だ。オーディションも目前ということで、リハーサルも兼ねてとサークル員達が企画したのである。いつもよりも片付けられている部室には二軽のメンバーは元より、一軽の部員およびそのポケモン達、話を聞きつけた騒ぎ好きの学生、そしてどこから入り込んだのかわからないが、大学に住み着いているコラッタだのパラスだのが隅っこに集まっていた。

「あー! もう始まっちゃうじゃん、めっちゃ緊張するんだけど!」

即興で取り付けられた暗幕によって隔てられたスペースに、二ノ宮の小声が響く。「こういう本番前の雰囲気、好きって奴もいるけど俺苦手だわ」アフロ頭を抱えて呻く二ノ宮は、自分を囲むように置かれたドラムセットに額をくっつけた。
キドアイラクは今日のメインにしてトップバッターであり、あと数分が経てば出番となる。本番直前になるといつもこうして騒ぎ出す二ノ宮に、有原がアンプの最終確認をしつつ「お前なぁ」と振り返った。

「いい加減慣れろって。大体これで緊張してたら次どうすんだよ」
「そうは言ってもセンパイ、緊張するもんは緊張するんスよ。あー、もう! ヤバいッスよマジで!!」
「いいから落ち着けって。いいじゃないか、そのおかげでとりあえずねむり状態にはならなくて済むぞ」
「うるせー、大丈夫ッスよラムのみ食べるから!!」
「ツッコめてねぇよ……ホントに落ち着け二ノ宮、あとカゴのみじゃないんだなそこ」

いつも通りなんだかそうじゃないんだかわからない会話を交わす二人のことは放っておくことにして、富田は隣に立つ、歌詞を小さく口ずさんでいる泰生へと視線を向けた。

「どうですか、調子は」

その問いに声を止め、泰生は「ん」と僅かに頷く。歌詞も声の出し方も、リズムの取り方も本物の悠斗に劣らないくらいまでになってきたし、体調も問題無い。ただ一つ、ノリだけはどうしても埋めようのないことだったが、そこには富田は目を瞑ることに決めていた。変に強制して違和感が生じるのもコトであるし、あまり多くを望む意義も見出せなかったためだ。
「今頃、ミツキさんが話をつけに行ってるはずです」肩に掛けたギターに指を添え、富田は目を伏せた。「悠斗と羽沢さんの件、この状態を引き起こした奴と」そこまで言って一度言葉を切り、彼は短く息を吸う。

「なんであの時、犯人のことわからないままでいい、って言ったんですか?」

そんな質問も全く聞こえていないのであろう、有原達はまだくだらない会話をしている。しかしそれで二ノ宮の緊張も大分ほぐれただろう、などと考えながら、富田は尋ねた。
「誰だか、気にならなかったんですか」あの日の夜、犯人がわかったのだと伝えにきたミツキに、泰生と悠斗は、犯人のことは知らないままで構わないと答えたのだ。富田にはそれが理解出来なかった。これほど大変な目に遭わされておいて、どうしてそんなことが出来るのか、まるで許してしまったような顔になれるのか。「直接怒ったりとか、しないんですか」なんで、それで済ませてしまえるのか。

「あえて知る必要も無いだろう」

泰生は、何も迷うことなくそう答えた。「元に戻れるようには、あのサイキッカーが話をつけてくれると聞いてる」強い意志を持った瞳が富田を見る。「なら、それで十分だ」
「俺と悠斗がそれ以上、そいつをどうこう言う意味は無い」
「………………」
「いつか、どうにかしなきゃならんことだったんだ。それをこのタイミングでしただけで、だから、呪いとやらをかけた奴は関係無い」

そうだろう、と富田のことを覗き込んだ泰生に、富田は少し時間を置いてから微かな笑みを浮かべる。「そうなんでしょうね」あんたと悠斗がそう言うなら、という言葉は喉の奥底へしまっておくことにした。
「えー、じゃあそろそろ始めにしましょうか!」暗幕の向こうから、司会進行を務める芦田の声が聞こえてきた。開始を告げるそれに、二ノ宮がぴくりと身体を震わせて会話を途切れさせた。「そろそろか」富田もギターを構え直し、両手を閉じたり開いたりして最後の準備にかかる。「今日も最高なの決めような」本番には強い有原がニッと笑って、三人に向けてガッツポーズした。

「では、早速登場していただきましょう! キドアイラクの皆さんです!」

マイクを通した雑音の混ざった口上が響き、暗幕が雑な感じで下ろされる。
黒の布が落ちて目の前が客席に変わるほんの刹那、富田と有原と二ノ宮は同時に、彼らがボーカルの方を見て頷いた。





「いやぁ、申し訳ございません。遅くなりました」

身体についた水を払い落としながらミツキが入ったそのカフェは、外から抱くイメージ同様小洒落た印象に満ちていた。バケッチャやコータスを象った関節照明が輝く店内はちょうどよい薄暗さで、流れている音楽もシンオウの夜を思わせる感じでいい雰囲気である。「いらっしゃいませ」という店員の声も落ち着いていて品があり、思い思いに食事やお茶を楽しんでいる客の声もうるさすぎず静かすぎず、なかなかに素敵な空間だ。
そんな店で若めの男女が二人向き合ってコーヒーなどを飲む――そこだけ取り出してみれば、十人中九人はデートだと思うに違いない。(残りの一人はポケモン売買の現場だと捉える、考えすぎのジュンサーさんだ)。しかしミツキと、彼が迷わず歩いていったテーブルにいた女性を見てみても全くそんなことは思えず、むしろその対局、デートなどという浮かれた現場からは最もかけ離れた光景にしか考えられないだろう。それはミツキの服装が残念であることにも起因するが、それ以上に、彼の姿を見つけるなり険悪さを一気に醸し出した女性のオーラにあると言える。

「あ、先に頼んでらしたんですね。それはなんですか、オリジナルブレンドコーヒー? いいですねー、僕もそれにしようかな、ああでも、せっかくだし……すみませーん! キャラメルマキアートナナのみスペシャルチョコシロップがけLサイズでお願いします!」

テーブルに置かれた、湯気の立つコーヒーを見てミツキはペラペラと一人喋りまくる。かしこまりました、と店員が丁寧な礼を残してカウンターへ去っていくのを見送って、「せっかくだからすごいの飲みたいじゃないですか?」と、彼は無意味なことを底無しに明るい笑顔で言った。

「そんなこわいかおしないでくださいよ、何か下がるわけでもないんですから」

からかうような口調で言うミツキの視線の先、向かいに座る女性の表情が、ミツキの笑顔と同じくらいの底無しさで険しいのは、きっとミツキが前髪からテーブルに雨粒を落としまくっていることへの不快さからだけではあるまい。清楚系と揶揄されそうな服装に、ストレートの黒髪ロング、伸びた背筋からは育ちの良さが窺い知れるけれど、せっかくの『おじょうさま』然とした様子も憎悪の滲む顔のせいで台無しだ。ナチュラルメイクに彩られた目元はミツキを睨みつけ、グラエナよりも鋭い気迫で威嚇しているように見える。
「やっぱり、もうちょっとオシャレしてくるべきでしたか?」そんな彼女に向かって、何も気にしていないかのような明るさでミツキが続ける。「申し訳ないです、こういうの慣れてないんですよ、まあ見りゃわかるって感じでしょーけど」センスゼロのTシャツをわざと見せつけるようにジャケットの前をはだけ、彼はへらりとだらしなく笑った。「これでも頑張った方なんですよ、靴だってちゃんと洗いましたし」

「こんな可愛いお嬢さんと茶ーしばけるなんて、もう楽しみで楽しみで、三日前からなんと――」
「いい加減にしてください!!」

ダンッ、と机を叩いた彼女が、ミツキに向かって怒鳴りつける。机の上のコーヒーが波打って、他の客達が一斉に彼女の方を見た。
「あんなわけわかんないメール送ってきて、バラされたくなければここに来いとか……」が、それに気づかない様子で、彼女は声を震わせる。「本当わけわからないんですけど、何の用で、私を、こんな――」

「え? 本当にわかんないわけ?」

が、ミツキは彼女の苛立ちをぶつけられても全く動じることはなく、むしろ声と表情の明るさを増してさえいるようだった。
恐ろしいほどに楽しげに、愉快そうに、嬉しそうに、彼はキラキラした声で言う。

「まさか僕が、本気で君をデートに誘っただなんて思ってるの? 違うでしょ? それに『バラされたくなければここに来い』なんて、無視してもいいっていうか無視するべきメールだよ? だって危ないじゃん。そういうの学校で習わない? 僕は学校行ったことないから知らないけど。それなのに来るってことは、そこまで考えられないレベルで 、バレたくないことがあるんじゃないの? 君には、何としてでも隠し通さないといけないことがあるんでしょ?」

流れるように投げつけられる問いの連続に、彼女は言葉を失って黙り込んだ。俯いた目からは険しさが消え、怯えたみたいに視線をあちこちへさまよわせている。先ほどまで赤かった顔はみるみるうちに青に変わり、白い頬は小刻みに震えていた。
「まぁ、カマかけるようなこと言って悪かったよ」そんな彼女をなだめるようにして、ミツキはやや穏やかな声を出す。ただ、前髪の奥の目はちっとも優しさなど持っておらず、「君が何と言おうとしたとこで、もう全部調べ終わってるからさ。だから君を呼んだわけだけど」店内に響く音楽の如き落ち着いた声色で、彼女にとっての死刑宣告を言い渡した。

「そこにいるんでしょ? 『王者』にふさわしくない奴に、呪いをかけることが出来るコが」

言いながら、ミツキは何気ない仕草で彼女の鞄を指差した。それに彼女は一層強く震え上がって、声にならない叫びを飲み込むように呼吸を止めた。青を通り越して白くなってしまった顔の彼女に、ミツキは苦笑を浮かべて「落ち着いて」と優しく言った。
「時間はたっぷり……とまではちょっと言えないけど、ま、お互いゆるく話そうよ」テーブルの端に置いてある、オムナイトとカブトの形をした塩胡椒の入れ物を指先で弄びつつ、彼は言い聞かせるように続ける。あくまで穏やかで、静かで、しかし明るいその声に、客や店員達の注目はすっかり失われて各々の会話や仕事に戻っていた。当たり前の日常そのものの店内で、ミツキの正面の彼女一人だけが、この世の終わりのような顔をしている。「申し遅れたね。僕はサイキッカーのミツキ。普段は便利屋稼業とか、拝み屋とか言われるようなことやってる感じかな」

「じゃあ、今日はよろしく。お会い出来て光栄だよ」

湿った頭を片手で掻いて、彼は前髪越しに彼女をじっと見据える。


「羽沢泰生・悠斗の両人を呪った真犯人さん――――松崎春奈さん」


ごめんね、名前調べちゃって。
ちっとも悪びれていない声でそう言って、ミツキは絶句したままの彼女、松崎に向かってにっこりと笑いかけた。







「また相生くんとペアらしいですよ。クジ引きってわかりませんよね、確率論的にどんな数値だろうと明らかに偏ったり、何度も同じ結果になったり」

まあそんなこと言ったらバトル学における二分の一なんてあてにならないの極みですが。などと森田は苦笑して、悠斗にボールを手渡した。

「対戦相手は……とりあえず初回は、岬さんと山内さんですね。岬さんはノーマルのプロなんで誰を出してもタイプは安定してます、山内さんは……シュバルゴかジャローダか、それかコジョンドでくると思います。リーグはそれで出るって話ですから」
「岬さんがノーマルタイプって決まってるなら、ミタマはやめた方がいい感じでしょうか?」
「うーん、シャドーボール以外の技もありますし、山内の出すのがシュバルゴとジャローダかもしれませんし……一概によくないとも言えませんよ、先発はある種の賭けですからね」

064事務所のコートでは、至る所でトレーナー達がバトルの準備に勤しんでいる。自分が直接戦うわけでなくともポケモンバトルは体力を使うのだ、ストレッチをしたり水分補給をしたり体調を整えている者が多い。もちろんポケモンの最終チェックに余念の無いトレーナーもあちこちにいて、練習前特有の、小さなざわめきが響いていた。
リーグまでの日も刻一刻と迫り、064事務所でもほぼ全ての時間をバトルトレーニングに割いている。そんな様子を報道したがるマスコミも多く、マックスアッププロダクションのような大手ほどでは無いにしろ、テレビや雑誌など数社のマスコミがコートの各所で撮影の支度に忙しい。撮られ慣れているトレーナー達は良いものの、悠斗はその非日常に若干そわそわせずにはいられなかった。

「今頃、ミツキさんがお話しに行ってる頃でしょうかね」

その悠斗を見かねてか、森田が何気ない調子で声をかける。「気になります?」冷えたスポーツドリンクのペットボトルにタオルを巻きながら、彼は悠斗の方を向く。

「僕は正直気になってるんですよね。いえ、気になってるというか気に障るというか気を確かに持てないくらいイライラするというか? どこのどいつがこんな馬鹿なことしやがったんだって感じで、まったく、泰さんと悠斗くんが『知らなくていい』とか言わなかったらそのアホンダラをぶっ飛ばせたかもしれないのに」

他のトレーナーには聞こえないように声を落としつつ、森田が早口で暴言を吐く。体中から毒素を分泌するベトベトンもドン引きであろう舌の悪さに、悠斗は「すみません」とつい謝った。
あの夜、ミツキに『犯人を知りたいか』と問われて断った自分を思い出す。どうしてそうしたのか、自分でもよくわからない。知りたいに決まっているだろう、そんなこと聞くまでもないのに、直接殴ってでもやらないと気が済まないと思う自分だって、頭の中にはいたはずなのだ。それなのに、ああ答えた自分は何を思っていたのだろうか。

「正直、よくわからないんですよね」

悠斗は気の抜けた声で言う。「ただ、そうしなきゃいけないって思った、っていうか」

「もし誰のせいかを知っちゃったら、多分この先、もしもまたアイツと何かあったとしたら、その時その、犯人のせいにしちゃいそうだと思ったんです。あの時にあんなこと言わないで、ずっと嫌ってやってればよかったのに、余計なことしなきゃよかったって思った時、じゃあそうなったのは誰のせいだって、あの状況を作ったヤツのせいだ。と、思ってしまわないかって」
「なるほど、…………」
「それはあまり、良くないことだと思うんですよね。俺らがロクに口聞いてなかったのは俺らのせいだし、それをやめようとしたのも俺らが決めたことだし、もしこれから何かがあったとしたら、それも俺らのことですから。そりゃあ、そうは思っててもそいつのせいにはしそうですけど……でも、少しでもそうしないように、誰だかはわからないようにしといた方がいいかな、と」

悠斗の言葉を聞いていた森田は、「真面目ですねぇ」と一言添えて、なんだか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「羽沢さん! 今日は、よろしくお願いします!」森田の後ろから走ってきた相生が、やはり少しばかり裏返った声で言う。それに片手を上げて応えた悠斗の視界の端で、髪を結わえている岬が宣戦布告をするみたいに微笑んだ。「よし、じゃあそろそろ始めるぞー」所長の声がコートに響き、皆が慌ただしくそれぞれの持ち場につく。カメラマンが各々カメラをいそいそと構え、マネージャー達が壁のキレイハナと化していく。嬉しさと緊張が入り混じったような顔をしている相生の隣に立ち、悠斗はボールを一つ、手に取った。

「では、マルチバトル練習を始めます! 岬・山内ペア対相生・羽沢ペア、バトルスタート!」

「頼んだ、ヒノキ!」
「クラリス! 頑張って!」
「いってきなさい、シャウト!!」
「勝ちにいくぞ、リー!」

四つの声が木霊して、四つのボールが天に浮かぶ。
そこから飛び出した影が形をはっきり作るまでの刹那、四人は一斉に息を吸った。





松崎春奈と呼ばれたその女は、しばらく唇を噛むようにして黙っていたが、やがて観念したように「そうですね」と失笑混じりに言った。

「まさか、そこまで調べ上げるものだとは思いませんでした。悪いことは出来ないってよく言ったもんですよね」
「まー、こっちはそれでご飯食べてる身分だからね。探偵稼業なんて便利屋の基本みたいなものだし、別に珍しいものじゃない。君が悪いことをしたとかしないとかじゃなくて、普通に生きてりゃ誰だって、いつ調査対象にされるかわかったものじゃないよ。僕みたいなのは特に、お金さえもらえればどんな目的だって調べるような商売だしさ」

肩を竦めたミツキに、松崎は口を歪めるようにして笑う。知性と皮肉っぽさが同居したようなその笑みが、彼女の目の前にあるブレンドコーヒーに移り込んだ。 この店のモチーフらしい、タネボーのシルエットが二、三描かれた白いカップに注がれた茶色い液体はなみなみと注がれたままで、どうやら手付かずの状態らしい。まだゆらゆらと湯気の立っているそれの香ばしい匂いを吸い上げつつ、ミツキは「とにかく」とやや真面目な声を出す。

「どうしてこんなことをしたのか、それを聞きたいんだよね。だって面倒くさかったでしょ? 呪いって。僕も仕事めんどいってよく思うし、君は生まれつき、なんか力があるわけでもないのにやったわけだから尚更だったんじゃないの?」
「面倒だったら初めからやりませんよ。そりゃあ手間は相当かかりましたけど……っていうか、理由なんてどうでもよくないですか? どうせアンタの目的なんて、私にあいつらを元に戻せっていうことなんでしょうし」
「そりゃあそうだけどさ」

ミツキが口をむにゃむにゃさせたところで、「お待たせいたしました」とウェイトレスが二人の会話に割り込んできた。タマ大生のアルバイトだろうか、栗色の髪をサイドテールにした女性店員は、「キャラメルマキアートナナのみスペシャルチョコシロップがけLサイズでございます」と流暢に言いながら大きなコップをミツキの前に置く。ヤドキングの頭の形のようなてんこもりの生クリームにかかったチョコレートよりも強烈な、キャラメルとナナの甘ったるい香りが鼻腔を突き、松崎は露骨に深いそうな顔をした。「ごゆっくりどうぞ」そんなことには目もくれず、ダーテングのシルエットが躍るモスグリーンのエプロンを翻し、店員はカウンターへと去っていった。
甘さの塊のようなそれにストローを突き刺し、美味しそうに一口啜ったミツキは「そりゃあそうだけどさ」と仕切り直す。「聞いておきたいわけ、一応ね」

「調べた中で大体それもわかっちゃってるけど。やっぱ、本人に確認とるの大切だし、それに松崎さん? どうせ素直にやめてくれるわけじゃないんでしょ」

ミツキの言葉に、松崎は馬鹿にするような笑みを浮かべたまま何も言わない。それをどう受け取ったか、ミツキはストローの先を噛み潰して「僕から言えってことなの」と前髪に隠れた眼をわずかに細めた。「別にいいけどさ」随分と悪趣味だよね、という言葉を続けそうになって、ミツキはそれをキャラメルマキアートと共に喉の奥底へ流し込んだ。

「じゃあ言うけど。まず、君はマックスアッププロダクション所属のエリートトレーナー、根本信明の娘だ。もっとも彼のプロフィールは生涯独身で子どももいないことになってるし、それは彼の身内だって疑ってないことだ。君以外に彼の血をひくヤツは存在していないしね。つまり君は、彼の隠し子っていうわけ」

言ってから、ミツキは「それはちょっと違うか」と首を傾げる。白い生クリームをスプーンですくい取り、「正しくは、」それを口に含んで言い直した。

「根本自身も知らなかったんだ。つい、一年前までは」
「一年と二ヶ月です」
「そうだね。そう、根本さん本人も、一年と二ヶ月前までは、君がいることなんて、自分の子どもがこの世に存在してるだなんて思ってなかったんだ。彼はそういうとこはちゃんとした上で遊んでるっぽいし、事実今まで、彼に妊娠を告げた女もいないから、それは無理もない。君のお母さんは言わなかったんだ、根本さんに。根本さんの子どもが出来たってことを言わないで、彼の前から消えてずっと君を育ててたんだ。父親の存在は全然出さないで、親からも離れて。一人で」

そうするくらいには、根本さんのこと好きだったんだろうね。ミツキは言い、机の上で組んだ指を無意味に組み替えたり動かしたりして息をつく。「そんで、君のこともね」ミツキにじっと見つめられた松崎は、平然とした表情のまま座っていた。

「ここから君の話だ。じゃあなんで、そのことを君が知ったのか。まー、この件に関してはホント、同業者として心底申し訳無いと思うけどね」

苦々しく鼻を鳴らし、ミツキは舌打ち混じりに続ける。

「お母さんとの喧嘩がきっかけで、君が半ば家出みたいな感じで旅に出たのが三年前。で、そいつに出会ったのが二年前。旅先で会った占い師……つーか、サイキッカーに自分の出自を見てもらった君はそこで、自分の父親のことを知ったんだ。そのサイキッカーの言うことは、まぁ本物のサイキッカーだけあって、そいつが知らないはずの君の思い出とかも言い当てられたから信じたんだろうね。で、君はそこでまずそいつに、よりにもよって弟子入りなんぞして、呪術のやり方をかじったと」
「先生は、才能があるって言ってくれましたよ」
「確かにね、たった一年の修行でここまでのレベルになれたんだからそれは否定しないよ。それはともかく……その後、サイキッカーと別れた君は根本さんのとこに向かうことを選んだ。深い意味なんて無かっただろうけどね、ただ飛び出してきた手前帰る気にもなれず、バトルの道にも限界が見えてきた からってだけで。あとは、まあ、父親は死んだって君に言い聞かせてきたお母さんに対する不信感? とにかくその辺の諸々で、軽い気持ちで君はお父さんのとこに行った」

銀のスプーンでナナを一つすくい上げたミツキの手元を、シシコがじっと見上げている。それに気づいたミツキは、シシコのトレーナーがパソコンとにらめっこをしてる隙をついてナナの欠片を小さな口に向かって放った。 喜んでそれに飛びつくシシコを横目で見て、ミツキは代わりに生クリームを舐める。

「いきなり尋ねてきた上に、自分の娘だと名乗った君に根本さんはびっくりしたけど……でも、君のお母さんの名前を聞いて、すぐに信じた。心当たりがあったのと、その上、急に音信不通になったものだから気にしてたんだろうね。で、自分の子どもがいたことを知った彼は責任を感じ、君のことを匿うことにしたんだ。姪だかなんだか、適当な理由つけて」

問題はここから。ミツキは言って、テーブルの下の足をぶらつかせる。雨に濡れた靴から飛沫が散った。

「生まれて初めて会った親子なんだから、ギクシャクするのは当たり前だろうに。というか根本さんは実際、かなり素晴らしい部類だと思うよ。ぎこちないながらも、ぎこちないなりに君の父親であろうとしてるんだから、僕、正直見直しちゃったよ。調べててさ。相当大変だろうに、表向きのキャラだって壊さずバトルもしっかりやって、あの人はすごいよ」
「わかりきったことを言わないでください」
「うん、だから、問題は君なんだ。君も、転がり込んだはいいものの、初めての父親との生活が楽しくて嬉しいものの、いまひとつわからなかった、どうしたらいいか。どんな娘であればいいか。自分がこの、根本さんっていうお父さんが好きなことはわかってるし、彼が自分を大切にしてくれてるのもはっきりわかってる。でもまぁ、時間ってのはなんだかんだ必要だから、その分はどうしても埋められなかったんだよね」
「……………………」
「オマケに、外に出れば根本信明としての父親を見なきゃいけない。家と違って自分だけを見てるわけじゃない、無数の女に愛想を振りまく、そしてポケモンに執心する父親を。それが許せないわけじゃないけど、君はどこかで嫌だったんだ。今まで一緒にいなかった分、そうしてる間にも、自分と話してくれればいいのに、って、思ってたんだ」

松崎は肯定も否定もせず、黙ったままミツキを見据えている。その目を見返して、ミツキはコップの表面の結露を無為になぞって指を濡らして遊んでみた。 「そこで止まってりゃよかったのに」軽く言って、彼は水で机に絵などを描く。

「そしたら、あとは時間が解決ってやつ、そうなれただろうにさ」

つり上がった大きな目と裂けた口に並ぶ歯、どうやらムラクモの顔らしいそれはテーブルに揺れるキャンドルでぬらぬらと光った。「君はそこで、他の奴を羨ましがることにしたんだよ」

「根本さんのトレーナー業を見てるうちに知った、一組の親子。生まれた時から一緒にいれて、ずっとお互い近くにいたのに、まともに会話出来ないレベルで仲が悪い。なんて馬鹿なんだ、なんて阿呆な親子なんだ。私だったらそんなことはしないのに。なんでこんな奴らが、こんな幸せの価値もわかってないような奴らが、私に無いものを持ってるんだ。君はそう思ったんだよね」

「それが間違ってるかどうかは問題にしない」水の落書きを手で拭い取り、ミツキは言う。「どんな気持ちになろうが、そりゃその人の勝手だし」

「ただね。実際に行動するっていうのが……そう思った君は羽沢さんと悠斗くんに呪いをかけたんだ。不届者を懲らしめる、みたいな名目でさ。心が入れ替わるだなんて、ある意味中途半端な呪いにしたのはアレでしょ? 下手に殺したり怪我させたり、意識失わせたり記憶喪失にさせたりなんかしたら足がつくかもしれないからでしょ。パッと見ではわからない、けど確実に困るし、他人にも言えないし。地味だけどかなりキッツいよね、しかもリーグだのオーディションだのの時期だから余計に」
「お父さんのリーグ制覇も狙ってたから、この時期にやるのは当たり前です。子どもの方にも何かあったっていうのは予想してなかった副産物ですよ。まあ、途中で私も焦って、直接手を出しちゃったんですけど」

きっと、あのフェスの夜に起きた事故のことを言っているのだろうとミツキはアタリをつける。「そうだね、アレはよくないよ」わざとふざけた調子でコメントして、「ああいう隙を見せるのは危ないからね」と、スプーンでコップを軽く打ち鳴らしながら場違いな助言をした。

「とにかくそういうことだ。羽沢親子への羨望、嫉妬、呆れ、苛立ち、怒り……そういうものが、君の呪いの原動力だった。別に珍しいことじゃないよ、むしろ僕みたいな、商売にでもしてない限りは個人的な感情とか事情から個人的にやるものだからね、呪いなんて。松崎さん。君は君個人の感情として、それこそ根本信明なんて何も関係無い領域の、君だけの思いから、あの二人を困らせて、苦しめてやろうと…………」
「それだけだと思います?」

そこで松崎が声を発した。 「どうだろう」ミツキは動じることなく答え、薄茶色の液体をストローでかき回しながら足を組み替える。

「それは、君の――そこにいるポケモンが知ってるんじゃないの」
「ああ、やっぱり全部わかってんじゃないですか。今までのも、怖いくらい当たってましたよ。サイキッカーってみんなそんなにすごい力があるんですね」

やや声を明るくした松崎にはあえてコメントせず、ミツキは彼女の隣の椅子に置かれた鞄を見続ける。「そうです、そうです」繰り返して、松崎はそこから一つのハイパーボールを取り出した。壊れものを扱うような手つきで彼女はそれを持ち、そこに向かって薄く微笑む。

「そうなんです。私のギルガルド――ナポレオンがやってくれたんですよ。王者にふさわしいかどうか、それを見極める力がこの子にはあるんです」 口許を歪め、黒と黄色に鈍く輝くボールをゆっくりと手で撫ぜた松崎に、ミツキは「やっぱりね」とだけ返事をする。
何百年も前のカロスで起きた、悪の王政をこらしめ市民社会をもたらした革命の英雄の名を冠したその『この子』とやらを思い描く。その名をつけることが適当かどうかは置いておくとして、嫌な名前だねなどと悪態の一つでも吐きたいところだったが、ミツキは再度キャラメルマキアートと一緒にそれを飲み込んだ。ナナの果肉がストローに詰まる。

「ギルガルドの力、アンタならわかってるでしょう」

奇妙な自信に満ちた声で松崎は言う。「普通なら、私レベルじゃ人の心を入れ替えるだなんて呪いはまだ出来ないのに、それが出来た理由」湯気が立たなくなってきたコーヒーに、彼女は弧を描く唇を映し出した。「ギルガルドというポケモンの力が、アイツらにうまいこと合ったんだって」

「そうだね。ギルガルド……ゴーストタイプとはがねタイプ併用のおうけんポケモン。その分類の『おうけん』のもう一つの意味。王の剣じゃなくって、『王の権利』。ギルガルドにはそれを見抜くことが出来る。王者になるにふさわしいかどうか、それを知ることが出来るんだ」

ミツキの答えに、松崎は満足気に目を細めた。「その通りです」白い指を胸元で組み、彼女は歌うようにして喋る。「だから、通じたんですよ。まだまだ未熟な私の霊能力でも、あの、二人に」 彼女の言葉に、ミツキは以前富田にした問いを思い出した。
オーディションに勝ち残る可能性はあるかどうか、という問いだ。泰生がポケモンリーグの頂点に立つ確率が高いというのは知っていたが、もう一人の被害者である悠斗にもその要素があるのかを知ろうとしたのだ。富田の答えはいまいち曖昧だったが、しかし呪いが通じたということはきっと、彼もまたそこにおいて、頂点……王者の座に立てる可能性があるということだろう。
実力面からみた場合には。

「羽沢泰生も羽沢悠斗も、王者になるにはふさわしくない。少なくとも、君のギルガルドはそう判断したわけだ。だから呪いが有効になれたんだ、あの、ただでさえ霊感がなくって下手すりゃゴーストポケモンの気配すら掴めないようなあの二人に、呪いが通じたのは、その条件を満たしてたからだ。呪術は通じないときは本当に通じないけど、その人やポケモンにある得意領域と条件さえ合致すれば、すさまじい威力に膨れ上がれさすことが出来るからね。そのことがわかった時は正直言って、恐れ入ったよ」
「ありがとうございます、って、素直に言っておいた方がいいんですか?」
「まぁとりあえず。どういたしまして……で、心が入れ替わったっていうのはギルガルドのもう片方の能力だよね。いや、正確には……『記憶が入れ替わった』って言うべきか。生き物の精神とか心とか気持ちとか考えとか人格なんて、そのほぼ全部が記憶から出来てるんだから。記憶喪失になったときに人格が変わるってのもその理由だよ。ギルガルドの、記憶を操る能力を使って、君は羽沢さんと悠斗くんの記憶を入れ替えた。その結果が、アレだ。王者にふさわしくない二人は、君の思惑通り呪いにかかった、そういうわけだ」

それで合ってるかな、と聞いたミツキに、松崎は小さく頷いた。細められた眼が、ミツキの頬を刺すように見る。
「その通りですよ」楽しそうに、松崎がそんなことを言う。「だって、あの人たちは頂点に立つにふさわしくないですもん」

「探偵さん。ポケモンリーグの頂点、……バトルの王様になるのにふさわしい、『品格』って、なんだと思います?」

唐突にそう尋ねた松崎に、ミツキは少々驚いた顔をした。「なんだろう」足を組み替えながら、彼は考え込むような間を置いてから答える。

「バトルが強いっていうのは当然で、あとはポケモンのことを考えてるとか、ポケモンとの信頼関係とか? そんなもんじゃないのかな」

尋ね返したミツキに松崎は笑う。「それはそうですけど、もっと他にありますよ」やや嘲るようなその口調に、へえ、なんだろう、などとミツキは首を捻った。
「それはですね」子どもに言い聞かせるみたいにして、松崎はゆっくりと話す。

「人の、夢になること。希望になること。背中を押してくれる、勇気を与えてくれる、そんな存在になることです。自分のバトルを通して、誰かの光になって力をあげること。それが、ポケモンリーグの王様に求められることなんですよ」
「…………羽沢さんには、それが無いと?」

ストローの先を奥歯で噛みながらミツキが聞く。「そうですよ。当たり前じゃないですか」 わざとらしさすらある、嘆かわしげな声で松崎が答える。

「自分の子どもにだってそれが出来ない人が、全てのトレーナーのためにいられるわけがないんですよ」

ミツキは、それに同意も反対もしなかった。ただ、甘い液体の付着した唇を一度舐めて、「なるほどね」と短い返事だけをする。「君の考えてたことはわかったよ」彼は頷き、ガラスのコップを指で弾く。ミツキの作った少しの間、二人の鼓膜を外の雨音と客の話し声と、あちこちで鳴り響く皿のぶつかる音が揺らした。
「確認したいことは確認出来た」数秒置いてそう言ったミツキが緩く息を吐く。

「とにかく、話はここでおしまい。時間とってもらっちゃって、悪いね。その埋め合わせは、必要だったら別にするから」

だから、とりあえず、そういうことで。 ミツキは直接的には何も告げなかったけれど、言外に含めた意味は前髪に隠れた眼の光となって松崎にも届いた。が、当の彼女はピクリと眉を動かして、「待ってくださいよ」と冷たい声を出す。

「え?」

残り少なくなってきたコップの中身を吸い上げていたミツキが、その言葉に語尾を上げた。隣のテーブル下で主人の食事を大人しく待っている、シシコがきょとんとした顔で二人を見る。

「おかしいんじゃないですか? なんで、そんな流れに……私が、呪いをやめるみたいな流れになってるんですか?」

色素の薄い唇を曲げて、松崎が淡々と問いかけた。窓の外、ガラスを叩く雨がいつの間にかより一層強くなっていた。 ミツキは何も言わず、松崎を見つめて次の言葉を待つ。テーブルで組まれた手も、その下にある足も、前髪の奥の瞳も動かないままだ。
「馬鹿にしてるんですか」そんな彼に、松崎は続けて言葉を放ち続ける。「こっちだって事情があって、そんなでもなけりゃあんなことしませんよ。それなりに色々あるってんのに」冷静で落ち着いたその早口は、しかし、確かな苛立ちと嘲笑を内在させていた。

「さっきから好き勝手言ってるみたいてすけど、私が大人しくやめるなんてわからないでしょう? あなたは私があなたに従って呪いを解くみたいな前提で話してるみたいだけど、そんな保障どこにあるんですか?」
「……………………」
「おかしいじゃないですか。そんな簡単に解くくらいなら、初めからこんなことしませんよ? こっちだってそれなりのリスクは覚悟の上ですよ、こんな、ちょっと説教されたくらいでやめると思います? やめさせたいなら、力ずくでやってください。こんな話すだけじゃなくて、ちゃんとお互い、闘って――」


「――――――いいよ。君が言うなら、そうしようか」


矢継ぎ早に発される松崎の言葉を不意に遮って、ミツキがそっと口を挟む。

「お互い闘って、ね。君が、それがいいって言うんなら、僕は喜んでお受けするよ」
「…………え?」
「シマ争いとか、仇打ちとか。あとは、腕試とかいう迷惑な道場破りとか。慣れてるからさ。お望みとあればいくらでも、僕でよければ相手になるよ」

そう言ったミツキの声は変わらず明るいものだったが、「でもさぁ」先ほどまで含まれていたようなふざけた調子は掻き消えていて、「ちょっと考えれば、わかんないかな」代わりに、氷すら及ばないほどに冷えきった色へと変わっていた。
そこで松崎は、自分達を取り巻く全てがおかしいことに気がついた。店にいる客も、店員も、キャンドルに灯った炎も、窓の外を歩く人やポケモンの姿も、ガラスに打ち付けられる雨粒も、その全部が刹那を切り取られたかのように動かない。自分とミツキを残して世界が時間を止めたという異常に、松崎は全身の血が一気に冷たくなるのをどこか他人事のように感じた。


「君が僕に――――生まれてこの方呪術で生きるしか道が無くて、普通の社会生活も出来なくて、まともに人間としていられなくて、名前も人生も権利も未来も一回全部捨てて、サイキッカー以外の可能性なんてゼロの僕に、勝てるとでも思ってるの?」


そう言ったミツキの表情は笑顔のままだったが、彼の後ろ、時間が止まったカフェの情景があるだけのそこには、禍々しい何かが渦巻いているようだ。目には見えないけれど、そこには確かに、いる。かじった程度とはいえ呪術に触れた松崎には、それが嫌でもわかってしまった。
「君はちゃんと家族がいて、普通に生活してきたんだよね」黒い前髪の陰の奥で、二つの瞳が鋭い光を放つ。「それを悪く言う気は毛頭無いけど、」暗闇の中に浮かび上がるそれは、酷く恐ろしい力を持っていた。「そんな人に見くびられるのは、ちょっと僕は我慢出来ない」

「あんなメールもらって丸腰で来ちゃうような、何の罠も仕掛けも策も用意しないような、のうのうと首謀者自ら顔見せちゃうような、そんなツメの甘さなのに、僕に喧嘩売るっていうの? 自分で言うのもなんだけど、僕はプロだ。プロのサイキッカーだ。個人的な恨みだの何だので動くようなものじゃなくて、他人のそれを生業にしてるようなヤツだ。そうするほかないから、呪いと魔術でこの世に縋り付いてきたようなヤツなんだよ。わかるよね? 君も、少しくらいは」

淡々とした、特段怒りも悲しみも滲まない、どちらかと言えば楽しそうにさえ聞こえる声にしかし、松崎は深い深い闇の底のような気迫を感じざるを得なかった。
この人は、まともな存在では無い。根拠はどこにも無いし何の証拠も無い考えだったが、それは確信に他ならなかった。

「それでも、君がそれでも僕と闘うんだって言うなら僕は何も言わない。何度だって相手してやるよ、君が何も出来なくなるまで、いくらでも返り討ちにしてやるよ。君が全部捨ててサイキッカーになって、僕を負かすまで何度でもやってやるよ! それくらい、君が考えてるっていうんなら!!」

周囲の空気が生温かく歪む。押し広げられるような、それでいて潰されるような不快感に、松崎は息をすることすら出来なくなってしまった。
止まるのではないかと思うほどに速くなった鼓動に見開いた目は、ミツキを見ることしかかなわない。「それが嫌なら、諦めなよ」残酷なまでにまっすぐな声が耳を撃つ。「だって、君は」彼の口許がゆっくりと動くのに、松崎は自分が意識を保てているのかわからないくらいに頭の中が白くなっているのを感じた。


「君はさ、きっと……サイキッカーなんかにならなくたって、もっといい選択肢がいくらでもある人間だから」


ふっ、と、ミツキが声を柔らかいものにする。途端、二人の周りの世界は動き出し、雨日のカフェは何事も無かったかのように音を取り戻していた。
「君がサイキッカーになりたい、って思うならそれでもいいけどさ」全身の力が抜けてしまったらしく、椅子にもたれたまま動けなくなった松崎にミツキは言う。「誰かのことを恨んだり羨ましかったりっていう理由だけで、なるもんじゃないと思うからさ」

「じゃあ、今日のところはとりあえずこれで。ギルガルドちゃんにもよろしくね」

もう会わないかもしれないけど、と付け足して、ミツキはコップの残りを吸い上げる。チョコの粉末が沈殿してまっ茶色になった液体と、側面にこびりついたクリームを若干未練たらしそうに見遣り、彼は椅子を後ろにずらして立ち上がった。

「あ、そうだ。一個言っときたいことがあったんだ」

ジャケットの前を軽く正したミツキが去り際、不意に思い出したように言う。
うなだれていた頭を僅かに上げて、松崎が彼の方を見た。その、光を失った目に向かって、ミツキはこの店に入ってきた時のような、軽い調子の声を出す。


「根元信明選手が、ここ最近とんと女性問題起こさなくなってるけど、その時期と君があの人のとこに来た時期が重なってるっていうのは、流石に君も気がついてるよね?」

「……………………」

「もしも、……根元さんが、今まで女の人にかけていたお金を使わなくなった分、貯めてる理由がさ。次のリーグでトレーナー引退して、君といる時間を作ろうとしてるっていうんだったら、君はどう思うかな」


それだけ言い残し、ミツキは片手を振りながらくるりと背を向け歩き出した。
ごく自然な動作で店を出てしまった彼に取り残され、松崎は一人、冷めきったコーヒーを前に座り込んだままである。窓ガラスを濡らす雨の音が頭の奥まで鳴り響く中、彼女はただ、穏やかな時間の流れる店内で俯いていた。





「ヒノマル、ニンフィアにギガインパクト!」
「追い詰めてやるぞチャーム、ギガドレインだ!」

悠斗と相生、岬と山内のマルチバトルが始まって数十分ほど。良く言えば盛り上がるギリギリの戦い、悪く言えば泥試合となったこのバトルは、四者全てが残すとこら一匹という状況となった。
最初に沈んだのは岬のガルーラで、数度に渡るマリルリのばかぢからやじゃれつく、アクアジェットに押し切られて倒れてしまった。しかしマリルリもその間受けた、グロウパンチやけたぐりのダメージが蓄積していたところに山内のコジョンドによるとびひざげりを喰らってあえなく戦闘不能。交代で出てきたシャンデラのエナジーボールと、相生のサーナイトのサイコキネシスによってコジョンドは退けられたのだが、次に出てきたジャローダのリーフストームでサーナイトはぐったりと力尽きた。

「かわしてオーバーヒートだミタマ!」

悠斗が叫び、シャンデラが蒼い炎を勢いよく放つ。それは見事にジャローダを包み込んで燃やし尽くそうとしたが、しかし「うちのチャームは一発じゃ落ちん!」細い眼を輝かせ、炎の中から這い出たジャローダに、シャンデラは気圧されたようにして天井へと一時避難した。

「クラリス、ムーンフォースッ!」
「リーフストームだ、チャーム!」

相生のニンフィアが、神々しい光を頭上に集めて一気に放射する。しかしそれを凌駕する勢いで、ジャローダの放った葉々の奔流が聖霊の光線を打ち破った。撃ち込む度に威力を上げるその技に、ニンフィアが唖然と立ち竦む。
「シャドーボールで押し退けろ!」悠斗の声に応えたシャンデラが、ニンフィアの前に立ち塞がって紫の弾を高速で放つ。全身を黒い影に射抜かれたジャローダは長い体勢を崩しかけたが、「もう一度リーフストーム!」すぐにまた、威力をさらに増した十八番をシャンデラ目掛けて解き放つ。たまらず喰らったシャンデラの下で、「今よヒノマル、ニンフィアにギガインパクト!」岬が叫んで、ケッキングが力の限りを尽くした光の塊をぶん投げる勢いで放った。ぶっ飛ばされたニンフィアは、「ハイパーボイスだクラリス!」よろめきながらも大口を開けて大音量の声を喉からぶっぱなつ。

技と技が交錯する戦場で、誰が最初に力尽き、誰が最後に残るかわからない。互いの戦意と闘志と気勢だけが渾然一体となって、それ以外のものは何もかも、十六の瞳からは消え去っていた。


そして、それが、唐突にやってきた。

自分が飛ばす指示と、ポケモン達の鳴き声と、わざとわざがぶつかり合う音に紛れて聞こえてくる、今この場に存在しないはずのものが確かに耳に届く。

「ミタマ、よけろ! シャドーボールだ!」

巧妙なテクニックには人一倍自信があるという、有原のベースが細かく音を刻んでいる。自分の口から発された声に合わせて、シャンデラが闇の底から這い出るような音と共に深い紫をした魔弾を生み出していく。

「こっちには通じない、ヒノマル! ニンフィアにアームハンマーよ!」

耳をつんざくようなほどの鋭さと激しさを持った、しかし吹き抜ける一陣の風のような爽快さでもある、富田のギターソロが耳の奥を駆け抜けていく。岬の強かな声に弾かれて、ケッキングのぶっとい腕がニンフィアめがけて振り下ろされる。

「チャーム、こっちもいくぞ! 相性なんかもう気にするな、最大レベルのリーフストームッ!」

怒涛のように押し寄せるドラムの音、それは、楽器に隠れてあまり見えないが、こうしている時にはアフロ頭が物凄いことになる二ノ宮の得意技だ。畳み掛けるようなその音達に割り込んで、山内の大声とジャローダの美麗な葉音が交差する。

「ハイパーボイスだ、クラリス!」

隣に立つ相生が、芯の通った声をまっすぐに飛ばしていった。ケッキングの、暴力的な攻撃を跳躍して避けたニンフィアが四つの脚で着地すると共に大きく、大きく口を開ける。
その小さな身体のどこから生まれているのだと思うほどの、何もかもを揺るがしそうな叫声にコート中が震わされた。そのせいか、それとも違うのか、悠斗の視界がガクンとぶれてノイズが走る。痛みに似た衝撃が頭で弾ける中、それでも悠斗は戦場に向かって声を出した。

「今だミタマ、一気に終わらせてやれ、全力で――――」

そんな叫びが終わるよりも前に、悠斗は自分の意識がどこかへ引っ張られるのを感じた。
何より激しい戦いが繰り広げられるコートではなく、自分が本来立たなければならない場所へ、立ちたいのだと強く願ってやまない場所へ、誰かが自分を引っ張っているようだった。

長いこと聞き慣れた、ギターの音が聞こえてくる。
それに身を委ねるようにして、悠斗は真っ白に染まった視界を瞼で覆った。

ほんの僅かな刹那、全てが見えなくなって聞こえなくなって、そして、


「――――終わりに近づく、一駅分の二人旅を……」


次に目を開けた時、悠斗はキドアイラクのバンドメンバーが奏でる音の中、最後のサビを歌い上げていた。

高らかに、軽快に、優しく、それでいて少しだけの切なさを以て、そして愛おしく。マイクスタンドを越えて、目の前の客席すらも部室の壁すらも超えて、どこまでも自分の歌声を響かせるように、彼は歌う。富田のギターと、有原のベースと、二ノ宮のドラムと混じり合うように歌詞を追い、リズムを刻み、メロディーラインを駆けていく。
最後の言葉が口から溢れ、後奏は曲の終息へと向かっていく。背中に一筋の汗が伝い、落ちていくのを感じながら、悠斗は長い長い息を吐いた。

「悠斗、っ……」

無意識に振り向いた悠斗の視線の先で、富田が口の動きだけでそう言った。悠斗はそれに笑顔を返し、マイクスタンドから離した片手の親指を立てた。
富田が目を丸くして、それから笑う。続いて、悠斗のサインをどう受け取ったか、有原と二ノ宮も満面の笑みを顔中に浮かべてそれぞれガッツポーズを決めた。四つの笑顔が交差した中心、ギターの余韻が消えるその瞬間に、互いの視線が混じり合う。

「最高!!」
「キドアイラク最高!」
「絶対いける!!」

途端、部室中に割れるほどの拍手と歓声、口笛や足音などが反響した。演奏を聴いていた全ての者が、口々に賞賛の声を発して輝かんばかりの笑みを湛えている。人もポケモンも同じようにして、たった今披露されたステージに魅了され、夢のような時を送った顔をそこに浮かべていた。
上がった息を整えながら、悠斗は潤む視界でそれを見渡す。見知った顔も、知らない顔も、紫色の顔も毛深い顔も長い牙が突き出た顔も――皆が、自分達の音楽に拍手を送り続けていた。惜しむことのない、大きな拍手を。

悠斗は、喉の奥から溢れ出しそうな熱をぐっと抑えて息を吸う。
その、夢に見た、そしてこれからも夢見続ける、ここで生きていきたいのだと願ってやまないこの場所で、

「――――ありがとうございました!!」


彼はそう、声をいっぱいに響かせた。





「えー、今日はお集まりいただき、ありがとうございます……」

少しの距離で仕切られた客席を見渡して、泰生はマイク越しに挨拶する。可能な限り物を取っ払った部室に押し込められているのはサークル員達のみならず、一軽の者が連れてきたポケモンも確実にスペースを取っている(一軽の部員曰く、彼らもバンドメンバーらしいが)。しかもそれに感化されたのか、二軽のサークル員までもがポケモンを出しているせいで、狭い部室は飽和状態を通り越して廊下に溢れかえっている者が出る始末だった。
「一曲だけの演奏ですが、聴いてください」シンプルな口上に、それでも皆は歓声や拍手などで盛り上がる。一軽のメンバーたるバシャーモが、首から下げたギターを長い爪で掻き鳴らして(フォークギターだけど)さらに場を沸かせた。彼らに一度軽く礼をして、泰生はマイクを握って言う。

「それでは、どうぞ……『始発電車を待ちながら』」

その言葉が終わると共に、二ノ宮がスティックを四度、打ち鳴らす。そして有原と富田がそれに乗るようにして両指を動かし始めて、部屋中に曲の始まりが告げられた。
勢いのあるスタートを切った前奏に、泰生はすっと息を吸う。あの後皆で話した結果、曲は結局変えなかったのだけれども、悠斗がかけ合って『始発電車』の歌詞の一部を変更した。ただ単にポケモンを登場させないのではなく、それに触れた上で、それでも自分達の足で駅一つ分の距離を歩いていく、という歌詞に変わったのだ。
その言葉を追いながら、泰生は歌う。歌詞を語り、リズムを刻み、音階に身を寄せているとどうにも、自分が何かと一体化しているかのような錯覚に陥った。富田のギターが低音から高音を一気に移動する。有原のベースが低く重い音で空気を震わせる。二ノ宮のドラムが軽快かつ着実なテンポで鳴り響いた。そこに音を載せていきながら、泰生は不思議な高揚感を覚え、首筋に汗を伝わせた。

それは、その時、急に訪れた。

富田達の演奏と、そこに乗せる自分の声と、サークル員達の手拍子と、少しばかり混じる機材のノイズ。
そこに見え隠れするようにして、ここには無いはずの声が聞こえてきた。

『ミタマ、よけろ! シャドーボールだ!』

凛と重く通った声に続いた、肌が粟立つ影の音。それを掻き消すようにして奏でられる、スラップベースのテクニカルな音の波。

『こっちには通じない、ヒノマル! ニンフィアにアームハンマーよ!』

空気を切り裂く女声と、空間全てをぶっ壊すような鈍い音。そこに被さるのは六つの弦を目にも留まらぬ速さで行き来する、派手な旋律のギターソロだ。

『チャーム、こっちもいくぞ! 相性なんかもう気にするな、最大レベルのリーフストームッ!』

勢いづいた男の声と、夏風のような涼しさを持った、しかし底知れぬ力を兼ね備えた葉擦れの音。それと競い合うように、また溶け合うようにして、両腕を限界まで動かすドラムセットの音達が耳に飛び込んでいく。

『ハイパーボイスだ、クラリス!』

爽やかな叫び声を押し退けたのは、どんなスピーカーを使ってもここまでの大音量は出せないのではないかと思われるほどの、鼓膜が破れそうになるくらいのとてつもない嬌声だった。
間奏が終わり、最後のサビに続くメロディーを泰生は歌う。視界がぼやけ、マイクに置いた自分の手も、少し前方にいる皆のことも、まともに見えなくなってきた。それでも口と喉は自然に動いて、彼をどこに連れていくように歌い続けた。ギターとベースとドラムの音に引っ張られ、引っ張るようにして、泰生の歌声が響いていく。
まるで、誰かと共にそうしているみたいに。

ギターの音と飛び交う指示と手拍子の波と轟音とドラムのリズムと誰かの悲鳴とベースの低音と高らかな咆哮と自分の歌声と、
そして彼の意志が大きく耳に響いて、

『今だミタマ、一気に終わらせてやれ、全力で――――』

一瞬だけ視界が真っ白に弾け、あまりの眩しさに刹那目を閉じて、泰生は大きく開いたその口で、


「――――オーバーヒート!!」

ポケモントレーナーとしての言葉を、064事務所のコートいっぱいに響かせた。

最後の最後とばかりに奮い立ったように、シャンデラが全身の炎を強めて高く舞う。恐ろしいほど大きなシルエットとなるまで膨れ上がった蒼い炎は、彼を包み込んでもまだ余りあるほどで、その標的となったケッキングとジャローダは、呆然として見上げるしかなかった。
「チャーム、よけ――」慌てた口調で山内が叫ぶが、「でんこうせっか!」間髪置かずに指示を飛ばした相生と、すかさず飛び出したニンフィアがそれを許さない。軽やかな体当たりをモロに喰らったジャローダは回避をすること敵わず、彼女が再び目を開けた時には既に、ケッキング共々自分達を覆い尽くす、視界いっぱいの蒼の炎が燃え盛って迫ってくるところだった。

「……………………」

その炎も収束し、煙を残して消えた中、コートには全身を焦がして倒れているケッキングとジャローダ、そして得意げに胸を張るニンフィアと、満足そうに宙を漂うシャンデラが残されていた。それに一度頷いて、泰生は後ろを、壁に沿ってバトルを見ていた森田がいる方を振り返った。

「泰さん……!?」

裏返った声で森田が言う。丸い目をいっぱいに見開いて、彼は口をぱくぱくさせた。
それに片手を上げて返し、泰生は深い頷きを返す。それから視線を移した先、自分の元にゆっくりと漂ってくるシャンデラに、彼はそっと手を伸ばした。
ふわりふわりと揺れる、不気味にして幻想的、そして美しさを持った蒼い焔。ある種恐ろしくも見える黄金の瞳にはしかし、泰生に向けるいくつもの感情が見え隠れする。言葉の代わりに炎を揺らした相棒の身体に泰生の手が触れて、抱きかかえるように腕を回した。

「羽沢さん! ありがとうございました、勝ちましたよ!」
「負けちゃったかぁ……お疲れ、チャーム」
「オーバーヒートには敵わないわね、流石だわ」

相生が、コートで喜びに踊っているニンフィア同様、飛び跳ねんばかりの勢いで泰生に笑いかける。山内が苦笑を浮かべながらしゃがみこんで、床に伸びたジャローダの背筋を優しく撫でた。岬は肩を竦め、目を回して倒れているケッキングの片腕をぽん、と軽く叩き「お疲れ」と告げた。
「ケッキング、ジャローダ、戦闘不能! よってこの勝負、相生・羽沢ペアの勝利!」ジャッジ役の職員が声を張り上げる。コートのあちこちでは未だバトルが続いていて、誰もが勝星を獲るべく前を見据えて闘っている。人もポケモンも一緒になって、ただひたすらに、より高いところを目指して進み続けている。

泰生は、頭の中に駆け巡る様々な記憶から意識を戻して息を吸う。
その、ここしか無かった、自分の唯一無二であった、ここで生きていくのだと決めてから一度も揺らぐことのないこの場所で、

「――――ありがとう」

彼はそう、心の底から生まれた言葉を口にした。





「あームラクモ? 僕だよ、うん、終わったよ。え? 聞いてたでしょ、特に何も無かったよ、うん。まあ、わかってたけどね、アマの呪いにしてはいい方だって」

店を出たミツキは傘を持っていない方の手で携帯電話を取り出し、耳に当てるなり話し出す。勿論それはカモフラージュにすぎない、ムラクモとのテレパシーを隠すための手段だ。
『ひとまずお疲れ』携帯のスピーカーなどではない、ミツキの頭にムラクモの声が直接鳴り響く。『で、肝心の解除はしてくれそうなのか?』仕事にはいつでも真面目な相棒の言葉に、結論を急ぐその顔を想像しながらミツキは「まーね」と気の抜けた答えを返した。

「結構キツい感じで言ってやったし。アレだけ言われてそれでもやめないとか、それはバカでしょ。流石にあの子がそこまでの駄目な奴だとは思いたくないよ」

『それはなぁ。お前にあそこまでされて、まだ食い下がったらそれはマジモンの阿呆だよな。つーかお前大人気なさすぎだろ、腹立つのはわかるけど色々ぶちまけすぎ』

「ゴメンゴメン。一応、半分は脅しの演技だったんだけどね、ついいらっときちゃってやりすぎちゃった……とりあえず万が一、ホントに何もしなかったら本当に力ずくでいくけどね」

そこは心配いらんでしょ。軽い調子でそう呟いて、ミツキはビニール越しの雨空を見上げる。あの、それなりに恵まれててそれなりに恵まれなかった少女は今も、手つかずのコーヒーを前に俯いているのだろうか。水滴で滲んだ鈍色の視界に、そんなことを考える。
『それより、ミツキ』ムラクモの声が思考を遮って、ミツキは前方へと視線を戻した。黄色いお揃いのレインコートを着て、少年とジグザグマが水溜りの水を跳ねさせながら走っていく。その飛沫が数滴高く飛び、ミツキの頬をピシャリと濡らした。

「うん? なにかな、ムラクモ」

それを傘の柄を持った指先で拭いつつ、ミツキはタマムシのどこかにいるムラクモへ尋ね返す。『なんで、最後余計なこと言ったんだよ』返ってきたのはそんな疑問だった。『あのガキにあんなこと、教える必要も義理も無いだろ、俺らには』

「そうだけどさ。確かに、言わなくて良かったなって思うし」
『だろ? つーか、お前行く前は言わない気満々だったじゃねーか。絶対教えてやるもんかってくらいでさ』

その言葉に苦笑して、ミツキは「そうだね」と照れたように言う。「でもさ、あの子見てたら気が変わって」雨音に溶けるような声で、彼はそこに笑みを滲ませた。

『なんだよ。かわいかったからか? お前のタイプじゃないだろ、『おじょうさま』は』
「まぁ、僕はOLとかおねえさん系列属性だからね……それは違くて。――なんかさ、あの子にも、ちゃんと進んでほしいって思ってさ」

ミツキの返事に、ムラクモが黙る気配がした。「呪いって体力とか結構削るし、慣れてないなら尚更。その代償分はあの子だってもらっていいでしょ」前髪の奥に隠れた両眼を少し補足して、彼は半分独り言のように言う。「あとさ、」

「羽沢さんと悠斗くんが前に進めたんだから、あの子だって、まだ遅くなんかないし。せっかく生きてるんだから、後悔はなるべくしないように、してほしいなって思ったんだよね」

しばらく間を置いて、ムラクモは『なるほどな』と溜息と共に答えた。『お前はそういうヤツだよ』観念するような語調で、ミツキの相棒たるゲンガーは、ミツキに向かって言葉を送る。


『本当に優しい奴だよな、ミツキは』

「まーね!」


明るくそう言ったミツキに、間髪置かず『調子乗んじゃねえぞ』とツッコミが入る。すっかりトゲトゲしさと苛立ちを取り戻したそのセリフは、ミツキの頭にガンガンと響き渡った。

『優しい分の一億倍はお前、ただのクズでしか無いからな!? 俺知ってっからな、お前最後アイツが放心してんのいいことに、自分が飲んだ分の金払わないで出てきただろ!? 何ナチュラルにおごられてんだお前は!!』
「あ、バレた? いや〜人の金で食べる美味いものは本当においしい!!」

ぎゃあぎゃあと頭の中に響くムラクモの小言を慣れた調子でスルーして、ミツキは「あっ」と声を上げる。
鼓膜を揺らす雨音が聞こえなくなったと思ったら、いつの間にか空の隙間から綺麗な青が覗いていた。タマムシの道を歩く人々と同じようにビニール傘を閉じて、彼は大きく伸びをする。

「ムラクモー」

間抜けな声で呼びかけたミツキに、『んだよ』とムラクモが不機嫌に返す。「部屋の洗濯物干しといてー、あと今日の夕飯ラーメン食べに行こう」
至極どうでもいいその内容にムラクモは一瞬、呆れたように絶句したが、『わかったよ』と溜息混じりに答えた。それに満足げな相槌をして、ミツキは雨の匂いに満ちた空気を大きく吸う。そんな彼の横を、どこからともなく現れたバタフリーが五、六匹、雨の終了を喜ぶみたいに飛んでいった。

「これで虹でも出ればいい感じに綺麗な終わり方なんだけどなぁ。そこまで求めるのも贅沢かな」

益体の無いことを呟いたミツキに、ムラクモが『なんか言ったか?』と問いかける。なんでもないよー、とそれに声を返し、ミツキは携帯から響いた本物の通知音――森田と富田の名前が表示されたそれに少しだけ微笑んで、晴れていく町並みを仲間の待つ家へと向かい、上機嫌で歩いていった。


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