主人は、その湖を「英知の湖」と呼んだ。
人間が英知を得るきっかけになった湖とも、英知をつかさどる神がいるとも伝えられている、シンオウ最北の湖「エイチこ」を。
雪は、依然として収まる気配を知らない。空は相変わらず鬱々としたコントラストで広がっているだけだ。
今となんら変わらない空を主人とリーフィアが最後に一緒に目にしてから、どれくらい経っただろうか。
テンガンざんに入る前に自分たちを燦燦と祝福してくれていた陽光が懐かしい。今はその日差しの傾きが時間を教えてくれることもない。
なかなか戻ってこない主人に、リーフィアは、きっとご主人さまはキッサキへの道を右も左も分からないままに手探りで歩いているのだろうと思っていた。
大丈夫、ご主人さまには何の心配をする必要もない。
この足も視界も、そして気力をも奪うような猛吹雪の中、ご主人さまといえどもやすやすと進めるはずはないのだから。
四肢に瑠璃色をした風が凍みわたる。彼女が羽織っている主人のコートの上からですら。
リーフィアは愛する主人の厚手のコートをもう一度しっかりと羽織りなおし、彼が取った雪中行軍の進路を瞼を開いていられる限り凝視していた。
けれど針葉樹の加護から零れ落ちた大雪原では視界がほぼ皆無になるほど激しく吹雪いていて、どれだけ瞳を見開いても映る色は白ばかりだ。
ついた息は淡く、そして白い。人間がするように自らの吐息で両足を温めながら、彼女は視線を木陰へと移す。
白ばかりに塗りつぶされたその世界の中、主人が残していった予備の手袋が一組、降り積んだ雪の上に横たわっていた。
◇ ◇ ◇
――主人がこの場所を発ってから、もう明らかに数時間は経過していた。空は彼女に時間を教えてはくれないが、彼女の勘がそう告げる。
しかし、まだ主人は戻ってこなかった。人間の気配どころか、動物の気配のひとつすら感じはしない。
遠い空にはさらに暗雲が立ち込め、空はよりいっそう暗くなっていた。重たく分厚い雲のために空が落ちてきているようにすら見えた。
伴って吹き荒れる猛吹雪。それはますます強さを帯び、容赦なく小さなリーフィアの四肢を切り裂きにかかる。
低下した気温の中を乗り切ることは、言うまでもなくリーフィアにとっては相当な重労働だった。
もう一度、厚手のコートを体に巻きつけて、強く握り締める。
ご主人さま、もうじき、お戻りになられますよね。ご主人さまのぬくもりが恋しくて、恋しくて仕方がないのです。
「――?」
吹雪の中に、悲壮な歌を織り成す木々たちの声ではない音が聞こえた。明らかに、それは重厚な羽音だった。
灰色が立ち込めては雪だけが降りしきるはずの空に視線を移す。何も変わらない。――空耳か。
否、空耳ではなかった。彩度のないキャンバスの中に打たれたひとつの黒い点を、彼女の瞳は貫いた。
全身に白銀をまとわせながら急降下してくる漆黒の翼の鳥が、栗色をした彼女の瞳の中に、徐々に迫り来ては映りこむ。
黒く怪しい鳴き声を轟かせ、雪の飛礫よりもひょうひょうと空を突っ切ってくるのは、――
「(ヤミカラス、“不幸の象徴”――)」
彼女は心中で静かに唸った。
不幸を呼ぶといわれ古くから恐れられてきたその鳥が、自らに視線を合わせて何度か鳴いている。
野生のごくありふれたヤミカラスに過ぎないのだろうが、こんな状況でその鳥を見てしまうのは何かよからぬことの前触れのような気すらしてしまう。彼女は自ら首を振ってそれを否定した。
数度旋回するその黒鳥の姿を見つめているうちに、瞳に捉えたそれとの距離はだんだんと縮まりつつあった。
粉塵のような雪に瞳をしばたたく間にも、それは翼を羽ばたかせて雪の中のリーフィアのもとに舞い降りてくる。迫り来るは黒鳥、否、不幸そのもの?
何の用だというのだろう。この状況で私を襲う気だろうか。寒さと恐れとで、体が身震いを起こす。
雪原に立つ彼女の視線の先に、ヤミカラスは細い――それは「やせこけた」と形容すべきほど不気味なまでに細い――黄色の足を下ろした。
視線が絡む。ぎらり光る瞳。睨むようではあるが、今すぐリーフィアを襲うような色もない。
ずっとヤミカラスに視線を向け続けている彼女に対し、その黒鳥は薄気味悪いしわがれ声で鳴き散らすと、口を開いた。
「お前は先ほどからそこで何をしている?」
黒鳥は問うた。語調こそ荒々しくはないが、瞳にはどこか嘲るような色が映っている。顛末を語ったところで襲われることはないにしても、少なくとも親切に協力してくれるようには見えない。だが、ここで無言を貫くことに何の意味があるだろうか。懐疑の色が瞳の中を満たしているのは彼女自身にも分かっていた。その色味の視線で黒鳥を貫いたまま、彼女はぽつりぽつりと事の顛末を紡ぐ。
紡げば、少しは心の整理も付くかもしれないと思った。主人と一緒に希望の陽光を瞳に閉じ込め、その希望の光でこの山道を照らしながら抜けてきたこと、けれど抜けた先で雪崩に襲われたこと、主人はふたりで生き延びるためにキッサキへと救助を求めに行ったこと、そして、自分はその主人の帰りを待ちわびてここにいるのだ、ということ。
紡げば紡ぐほど、慕情は猛吹雪などには引けをとらず積もりゆく。あたたかな腕が恋しくなる。彼女は思いを馳せた。どうせこの黒鳥にはこの恋慕は伝わりようもないと知りながら。
それでも伏せがちだった瞳をゆっくりとあげ、白雪の中に黄色の足を埋めた黒鳥の宝石のような瞳を見つめる。相変わらず黒鳥はどこか侮蔑するような目で彼女を睨んでいた。そしてゲラゲラと嘲笑してから、口を開いた。
「お前の主人は戻って来はしない」
◇ ◇ ◇
●途中保存中
(誰に命令されてもいないですが)いつまでも放っておくわけにもいかないのでとりあえずここまで。
後半部分は四十八時間以内に投稿の後、タイトルの「中盤まで」を削除します。