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  [No.446] 徒然雑記  〜 自称読み専の妄想と余暇 〜 投稿者:クーウィ   投稿日:2011/05/16(Mon) 19:07:34   34clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

書き手に身を窶したる覚えは無けれども、書かずにゃ居れぬ我が性分。

出来の不出来の置いといて、恥を忍んで並べやす。
突っ込み上等酷評歓迎。何くも全ては紛れも無しに、己が意思より生まれ出でたるものなれば。


……とまぁ、要は暇人が勢いで書いた妄想の産物を、つらつらと並べ上げて陳列する場所で御座います(爆)
基本長めのものが多いので、もし閲覧されようと言う奇特な方がいらっしゃいましたならば、存分に御気を付けの程を。 

ではでは皆さん、どもども。


  [No.447] 竜の舞 コンテスト版微修正Ver 投稿者:クーウィ   投稿日:2011/05/16(Mon) 19:17:59   30clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 夕焼けに燃える砂浜を、一人の少年が走っていた。 

 波打ち際に向けて真っ直ぐに刻まれる、一筋の足跡。ただ一心に赤い海を見つめて走り続けるその少年の胸には、一匹のポケモンが抱かれていた。
 抱かれているポケモンは、抱えている少年の手元で暴れるような事も無く、ただその大きく澄んだ瞳で、自らを連れ去った人間の思い詰めた表情を、不思議そうに見上げている。

 やがて少年は波打ち際に辿り着くと、蛇のような形状をしたそのポケモンを足元に下ろし、自らもしゃがみ込むと、そっと別れの言葉を告げた。
 ――尚も少年を見上げたまま、その場を動こうとしないポケモンに向けて、彼は更に言葉を続ける。
「早く行きな。お前は、もう自由なんだ」
 それを聞いたポケモンが小さく鳴き声を上げて応じ、オレンジ色に染まる海へと泳ぎ出して行くのを、少年はその姿が見えなくなるまで、ただじっと見守っていた――




 ――あれを見たのは、あの赤い砂浜での別れから、丁度15年後の事だった。
 あの時、嵐の海で起こった出来事。……その時に見た光景を、僕は生涯、忘れる事は無いだろう――



[竜の舞]



 海は時化ていた。  

 既に黄昏時を過ぎた暗黒の空は、無数の稲妻によって随時切り裂かれ、絶えず目まぐるしく変転する水面は、泡立った波頭を霧の幕として宙に打ち上げ、まるで霞か靄がかかっているかの様に、視界を妨げている。
 踊り狂う数知れぬ雷光は剣となって、厚い雲の幕を舞台に激しく切り結び、大波が荒れ狂う様は、まるで目に見えない巨人か何かが、思いっきりこの広い海原に手を突っ込んで、遮二無二かき回しているかが如き凄まじさだった。

 そんな中、逆巻く大波が形作る起伏の合間で、壊れたドアにしがみ付いた一人の男が、己の身に降り掛かった災厄を何とか乗り切ろうと、死力を尽くしていた。
 乗船を失い、海に投げ出されたらしいその人物は、襲い来る自然の猛威に打ちのめされながらも眦を決し、新たな波が襲い掛かる度に、真正面からそれに立ち向かう。
 風の唸りが。奔り行く雲が。空を翔る雷鳴が冷然と見守る中、孤独な青年の生への格闘は、更にそれからもずっと、何時果てるとも無く続いた――



 僕がその船に乗る事になった理由は、至極単純なものだった。……ただ暮らしの上での出費が増えて、纏まった額の生活費が、入用になっただけである。
 丁度半年前、長女を授かったばかりだった僕には、経営難でリストラされた商社に代わる仕事場を、早急に見つけ出す必要があった。
 職業安定所に足繁く通うそんな僕を拾ってくれたのは、偶々船員の募集案内を届けに来ていた、延縄漁船の船長であった。彼の出した労務条件を、船上作業の経験があった僕は一も二も無く呑み下し、その場で契約は成立した。
 慌しく手続きを終え、見送る妻には努めて軽い口調で別れを告げて、さりげなく家を出て行った時。……その時はまだ、僕の頭の中には、これから洋上で過ごす数日間に対する不安など、何一つ生まれてはいなかった。


 異変の兆候に気が付いたのは、アンテナの点検の為に、マストに登った時であった。……偶々耳に入って来た、遠い遥か上空を吹き行く風の音が、凄まじいばかりに荒れ始めていたのだ。
 僕は慌ててそこから滑り降り、その容易ならざる事態を船長や同僚達に告げたが、誰も相手にしてはくれなかった。――当然だろう。全員がつい先程の朝食の時に、ラジオから天候変化の予測を、耳にしたばかりであったのだ。
 それによると、観測史上でも稀な規模の巨大台風は、僕らのいる海域を大きく逸れて、西の海上を突っ走る事になっていた。上陸の可能性がある本土や母港はともかく、大洋の真ん中に位置するこの船に被害が及ぶ可能性など、その時点では全く有り得ないだろうと断言する事が出来た。

『嵐の前には、決まって豊漁となる』――それは、この辺りの漁師であれば、誰もが知っている事実でもあった。


 しかし、僕の不安は去らなかった。……遥か上空を流れる気流の声を読み取り、先の天候を当てる術――それは、もう既に亡くなって久しい祖父が、僕に対して幼い頃より折に触れて、みっちりと教え込んで来たものであったからだ。
 毎年海が荒れる度に、数日前よりそれをぴたりと言い当て続けてきた老人は、稲妻の音に怯える幼い孫を、タバコと潮の臭いが染み付いたその胸に抱き寄せて共に眠り、嵐が過ぎ去った朝焼けの時間に起き出しては、手を繋いで傍らに寄り添う僕に向けて、口癖の様にこう呟いたものであった。

「海の声を、何時もよく聞いておけ。……さもないと、例え何かが起こって後悔したとしても、後の祭りじゃ。後から何を考え、誰に何を問おうとも、ただそこに海があるだけなんじゃから」

 ――祖父がそんな言葉を使う切っ掛けとなった出来事を、僕は今でも、鮮明に覚えている。
 祖母が海に出て、帰って来なかった日。孫である僕の入学式に合わせるべく、ランドセルを買う為に遠方まで素潜り漁に出かけて行った祖母は、急に勢力を拡大した熱帯低気圧の北上に巻き込まれ、夜通し待っていた家族達の祈りも虚しく、遂に戻って来る事は無かった。
 夜が明けた後にはいなくなっていた、優しい祖母。いつもなら仏壇の前に座っていて、起きて来た自分に優しく声を掛けてくれた祖母の不在に、当時幼かった僕は泣きながら、どうしていなくなってしまったのかと、周囲に向けて尋ね続けていた。

 誰もが曖昧な返事を返す中、最も祖母のことを愛していた祖父だけが、ただ一言答えをくれた。
『答えなんて無い』のだと―― どれだけ理由を尋ねてみても、誰にも答えられない。ただそこに、海があるだけなのだと……
 そして、嵐の海で最愛の妻を失って以来――祖父は何れ海に出て行く事になるであろう自分の孫に向けて、自らの持っている限りの知識を、遺し置いてくれたのだ。


 そんな祖父の薫陶を受け続けてきた僕には、他の船員達が聞き取れないような、遥か上空での風の唸りが、手に取るように分かった。
 そして予想通り、夕暮れが近付くに従ってどんどん雲の流れが速まって――やがて翌日の太陽が西の水平線に沈む頃には、空には嵐の予兆が、この上も無くはっきりと、浮かび上がって来ていた。

 ――漸くその頃になって、ラジオの放送や港の無線基地からは、周辺海域の船舶への避難勧告が、狂ったように連発され始めはしたものの、最早既に、急速に勢力を拡大した低気圧の大渦から逃れる術は、僕らには何一つ残ってはいなかった。



 それからの数時間は、文字通り地獄の様な有様であった。

 小さな近海用延縄漁船は、まるで鋸の目に沿って引かれて行く様に、海と風が作り上げた急峻な山と谷に、存分に弄ばれる。
 十メートル以上の落差が齎す衝撃によって、羅針盤や無線機等が次々と破壊されて行き、最後の頼みの綱であった操舵装置が故障した所で、船上に集う僕達の望みは、全て絶たれた。……最早この上は、最後に交信が繋がった、海上保安庁所属の大型巡視船の救援を信じて、身に付けたライフジャケットと手持ちのポケモン達を頼りに、嵐の海に体一つで飛び込んでいくしか、道は残されていなかった。

 海に慣れたベテラン達が、この様な事態に備えて予め用意していたモンスターボールを片手に、次々と甲板から身を躍らせていく中――その後を追おうとしていた僕は、いきなり襲って来た身を切るような風圧に、思わず首をすくめる。
 続いて耳を打った轟音と悲鳴に、咄嗟に振り向いた僕の目に飛び込んできたのは、暴風に遂に耐え切れず、無残に圧し折られたマストと、倒れて来た太い鉄の支柱に片足を潰された、船長の姿であった。

 ――もしもその時、下敷きになっていたのが別の船員だったのなら、僕はそのまま背中を向けて、海に飛び込む道を選択したに違いない。それ位に、状況は切羽詰っていた。
 しかし、その時の僕には、それが出来なかった。……前の晩、恩人でもある船長が見せてくれた、一枚の写真――それが唐突に頭の中に、鮮明な形で甦って来てしまっていたから。

 二人きりの当直時、偶々家族に話題が及んだ時に見せてくれたそれには、船長を真ん中に6人の家族が、仲良く寄り添って映っていた。
 穏やかな表情の船長夫妻の周りには、思い思いの格好をした、4人の子供達。――その内一番小さな、まだ4歳ぐらいに見える女の子は、可愛らしいヒメグマの縫い包みを胸に抱いて、無邪気に笑っていた。

 ……今この瞬間、一体お父さんの身に、何が起こっているのかも知らないままに。


 その写真の中に映っていた人々と、昔実家の仏壇に置かれていた、あの祖母の遺影とが瞼の裏で重なった時、僕の運命は決まった。

 片手に握り締めていた一つだけのモンスターボールを、船縁の向こうではなく甲板に向けて放り投げると、中から出て来た逞しいオタマポケモンに、叫ぶように指示を飛ばす。
 太い腕を鉄の支柱にかけ、渾身の力を込めるニョロボンに合わせ、僕自身も揺れ動く甲板を必死に蹴って走り寄り、微かに浮き上がったマストの下から、船長の体を引っ張り出した。次いでそのまま、歯を食い縛って痛みに耐える船長の体をニョロボンに預け、躊躇うオタマポケモンの背中を蹴飛ばすようにして、海に追いやる。

 ……そこで、タイムアップとなった。間髪を入れず襲い掛かってきた大波に、小型漁船は一溜まりも無く覆されて、甲板上にあった全てのものを、深海に向けてぶちまけたのだ。
 僕はそのまま海に投げ出されるも、無我夢中で水を掻いて水面に浮上して、偶々身近に浮かんできた操舵室のドアを両手で抱え、何とか身を任せる物を確保する。……しかし、それは同時に、長い悪夢の始まりでもあった。



 やがて、それから数時間も経った頃――僕は息も絶え絶えの状態で、奇妙に勢いを収めた暗黒の海に、亡霊の様に浮かんでいた。
 空を見上げると、上空の黒雲の海がそこだけ綺麗に途切れて、朧げながらに月明かりも見える。……どうやら台風の目の中に、迷い込んだらしかった。

 束の間の安堵と共に、そのままぐったりと材木に頬を付け、波のうねりに身を任せている内――ふと体を捻った拍子に、胸元のポケットから、一枚の美しい貝殻が、板切れの上に零れ落ちて来た。……それは、出漁中に一度燃料補給の為に寄港した三ノ島の砂浜で、幼い娘への土産にしようと、拾い上げたものだった。

 瞼の裏に蘇って来る、家族や友達の、顔・顔・顔……
 貝殻をじっと見つめている内、不意に僕の心の中に、抑え切れないほどの感情の波が、洪水の様に溢れかえった。

 ――死にたくない。……まだ、死にたくはなかった。


 板切れにしがみ付いたまま、僕は全身で泣いた。
 やり切れない寂しさと哀しみに咽びつつ、家に待つ家族の幻を掻き抱きながら、茫漠たる宵い砂漠の真っ只中で、ただ独りきり。

 海水で爛れ、疲れ切った涙腺からは、最早一滴の涙も零れては来ない。……しかしそれでも、泣かずには居られなかった。
 ――誰かに聞いて貰いたかった。訴えたかった。こんな孤独な境遇で、たった独りで死んで行かなければならない人間の、何処にも持って行きようの無い、悲痛な胸の内を――

 僕は今までずっと、全身全霊の全てを込めて、時化の海と戦い続けて来た。……もう一度。もう一度だけでも家族の元へ帰りたいと言う、その一心で。
 しかし現実には、僕は既に力尽きようとしているにも拘らず、嵐はまだ全体の半分が経過したのみで、依然小さな僕をその渦中に取り込んだまま、衰えもせずに荒れ狂っている。……結局自分には、嘗て帰って来れなかった祖母と同じく、家に待つ家族の必死の祈りも届かない大洋の真ん中で、独り煙の様に消えていく運命しか、許されてはいなかったのだ。

 漸く生活も軌道に乗り、待望の子宝にも恵まれたばかりだと言うのに、非情な運命は僕の手から、全てのものを奪い去ってしまった。最早限界に近付いていた僕の体では、この先に待ち構えている更なる脅威を乗り越える事なんて、出来よう筈がなかった。

「何故こんな目に――?」
「どうしてこんな事ばかり――?」
「何でこうならなければならない――?」

 叫んでもすすり泣いても、何も返っては来ない。……海も風も雲も、ただただ黒々と周りを取り巻いているだけで、僕の必死の問いかけに答えをくれる様な気色は、微塵も無かった。


 やがて、再び波風が唸り始めた。
 既に精根尽き果てていた僕には、先程までの様に波の動きに合わせる事も最早叶わず、ただ身を任せている板切れに、全身でしがみ付いている事しか出来なかった。

 波頭に擦られた両腕は徐々に感覚を失っていき、板切れに押し付けている両膝は、水圧に揺す振られる度に激痛が走る。
 絶えず襲い掛かってくる衝撃に、秒刻みで消耗していきながらも、僕は最後の意地だけで、抱え込んだ板切れを、手離そうとはしなかった。――自らの運命に対する強い反発が、ボロボロになってゆく一方の僕の心と体に、激しく鞭を打ち続けていたから。

 ……もう、何も感じなかった。



 ――それから更に、どれ位の時間が経っただろうか?

 全身を強張らせ、抱え込んでいる板切れと一体化していた僕は、何時の間にか体を叩き続けていた激浪の圧力が、消え去っている事に気がついた。
 次いで恐る恐る顔を上げてみた僕の目に映ったのは、嘘の様に静まり返っている深夜の海原と、直ぐ鼻先の水面に反射している、朧げな月明かりだった。

 咄嗟には、一体自分がどうなっているのか、さっぱり分からなかった。先程まで確かに自分は、荒れ狂う嵐の真っ只中で、木の葉の様に翻弄されていた筈だったのに――
 けれども、次いで上半身を起そうとした所で、僕は全身を貫く様な凄まじい激痛に、思わず天を仰いで悲鳴を上げた。……後で分かった事だが、その時の僕の両肘と膝上の皮膚は、激しい波との摩擦によって擦り切れ、削り取られてしまっていたのだ。

 しかし、次の瞬間――焦点の定まらぬ両の目の中に飛び込んで来たその光景は、僕の意識の内から苦悶と絶叫の全てを、一瞬にして奪い去ってしまった。 


 空が、切り取られていた。
 振り仰いだ空は輝く程に晴れ渡っており、嵐の真っ只中であるにも拘らず、そこには十六夜の月光が満々ていた。煌く無限の星々は、まるで銀粉をばら撒いた様に、闇のキャンバスにクッキリと浮かび出ている。……しかし、綺麗に晴れ上がっているのは限られた範囲の中だけであり、僕が今いる位置からずっと離れた空の上には、まだしっかりと黒雲が犇き、稲光が常時そこに亀裂を生んで、厚い雲のスクリーンに、幾つもの幾何学模様を描いていた。 
 そして、そのフレーム状の星空の下――幾匹ものポケモンの影が、まるで星屑の海を横切って行く流星の様に、思い思いの軌道を描きながら、所狭しと飛び回っている。空を行くその大柄なポケモンを、僕は知識としては知っていたものの、実際にこの目で見るのは、初めての事であった。

『カイリュー』――ドラゴンポケモン。人間に匹敵する知能を有し、その強大な力から『破壊の神の化身』とも称される、水と風を操る竜。
 極めて高い能力を持ちながらも、その性質は非常に温厚であり、嵐を切り裂いて難破船を導くその姿から、古代より船乗り達に『海の化身』として崇められた、蒼海の守り神。……反面、その生息数は極めて限られており、未だに詳しい生態や生息状況は全く知られていない、未知のポケモン。
 その道の専門家達ですら、生涯に一度出会えるかどうかと言う――そんな彼らが、呆然と空を見上げている僕のその視線の先で、今数え切れない程に交錯し、飛び交っている。星空をバックに、月の光の中で輪を描きつつ、軽やかに舞い続けているドラゴン達の数は、少なくとも二十に余った。

 するとその内、不意に新しく中央に躍り出てきた竜達の内一匹が、唐突に向きを変えたと見るや、一心に夜空の饗宴を見詰めていた僕の方へと、真っ直ぐに降下して来た。
 そいつはゆっくりと高度を下げて、最早気力も体力も無く、動けないままでいる僕の正面に近付き、静かにそっと、僕の顔を覗き込んで来る。相手の息遣いに慄きつつも、その曇りの無い眼差しを、身じろぎも出来ぬままにじっと受け止めている内――唐突に僕の脳裏に、不思議な感覚が芽生えた。

 僕は、こいつを知っている―― 遥か昔に遭遇したある出来事が、まるでぼやけた陽炎が少しずつ実体を伴って行く様に、ゆっくりと蘇って来始めた。



 それは、僕がまだ小学生の頃だった。

 石竹の貧しい漁師の家に生まれた僕は、将来に期待をかける両親により、地元の小学校ではなく、遠く離れた玉虫にある、名門校の附属学校に入れられていた。……自身では家業を継ぐ方が好ましいと思い、近所の友達が通う極当たり前の学校へ行きたかったが、身を削るようにして学費を準備している両親には、そんな事は口が裂けても言えなかった。
 そしてその通学路―往復の際に必ず通る道には、『ロケットゲームコーナー』と言う、大きな遊戯施設があった。とやかく噂のある店舗ではあったが、最新式のゲーム機器や豪華な景品の数々から、常に活況を呈していた、市内有数の娯楽施設だった。

 そいつは、初めて見かけた時からずっと、そのパチンコ店の表通りに面した、ショーウィンドウの中に入れられていた。傍目にも高級感溢れるケースの中で、そいつは何時も哀しそうな表情を浮かべて俯いており、時折物憂げに首を擡げては、行きかう人の波や車の列には目もくれず、ビルの合間から僅かに覗く、空の切れ端ばかり見上げていた。
 僕は初めて見かけた時から、そいつに惹かれた。無機質なケースの中で、ただ望みも無く外の世界を見つめている、哀しげな瞳。……その生気の失せた光の中に、自分が感じているものと同じものを、見出す事になったから。

 そして、そんなある日――それは前触れも無しに、突然訪れた。
 唐突に暴かれた遊戯場の裏面と、それに続く一連の手入れ。……打ち続く混乱の中、ショーケースに納まっていたポケモンの姿が見えなくなっていた事に気がついた者は、誰もいなかった。

 下校途中、現場の有様を目撃した僕は、まるで何かに突き動かされるようにして、現場から少し離れた所にある、小さな人工池にひた走った。 
 ――それから、ものの三十分も経たぬ内……再び自転車を発進させた僕は、ヘドロが溜まる枯れ草の陰で見つけた相手をサドルの上に座らせ、煩雑な町中を一直線に突っ切って、青い海に面した自らの故郷へと、只管にペダルをこいでいた。
 途中のゲートを突破する様に駆け抜け、サイクリングロードをトップスピードで下りながら、歓声を送ってくる暴走族やスキンヘッズ達の間を、荒々しい動きですり抜けて――漸く石竹の町に辿り着いた頃には、空は既に茜色に染まり始めており、更に足を伸ばして海岸線まで達した時には、もう太陽が沈みかけていた。

 暮れなずんで行く美しい空の下、細長い体を目一杯に伸ばして、橙色に染まる海に向けて泳ぎ去り、消えて行ったそのポケモン。
 ……そのポケモンの名は、『ミニリュウ』。一時は幻の存在とまで噂された、希少なドラゴンポケモンにして――今僕の目の前に佇んでいる、カイリューの進化前の姿だった。



 遠い思い出が蘇って来ると同時に、僕は改めて目の前に浮かんでいるドラゴンポケモンを、信じられない思いの内にも、無意識に見詰め直していた。
 ……姿も大きさも全く違うし、元よりこの広い海で、一度別れた者同士が再び巡り会う確率など、文字通り無きに等しい。

 しかし――目の前のカイリューの、その透き通った瞳を……それを僕は、紛れも無く何処かで、見た覚えがあった。
 ――最後の別れを告げた時、確かに両の目に焼き付けたもの。時を越えても尚色褪せていないそれは、目の前に佇んでいる相手の双眸に、確かに宿っていた。

 元より、呼ぶべき名前すら無かった。  
 ホンの一時だけ行動を共にした、行きずりの間柄。……それは所詮、仮初めの情の上に成り立っていた、ただの衝動的な行いによって、結ばれた関係に過ぎないのだから。

 しかしそれでも、口は自然と言葉を吐いた。
「お前……」
 ――ただ、一言。ただ一言だけ、限界を超えていた僕の口から、相手に向けて呟きが漏れた。
『オマエ』と呼んでみた。……あの時と同じく、無機質な二人称の中にも、確かな思いを込めて。

 ――懐かしそうな目で、そいつは僕を見た。


 疲れ切った涙腺から、とめどなく涙が零れ始める。

『独りきりではなくなった』――そんな思いが、消耗しきった僕の心を、静かな安らぎで満たしてくれた。  
 目の前のドラゴンの、大きく円らな、優しい瞳。それをぼやけた目で見詰めながら、僕は気が遠くなっていった。 

 ――薄れ行く意識の中で、誰かに抱き上げられたような気がした。

 当てもなく漂っていた時の不安定な感触とは違う、確かな拠り所と、その心地良さ。氷の様に冷え切った体に伝わってくる優しい温もりと、耳元に感じる、絶え間無い生命の鼓動…… 
 自らの身をしっかりと受け止めてくれるものの存在に、僕は心の底から安堵すると共に、そのまま深い闇の底へと、吸い込まれて行った――



 次に気が付いた時には、僕はベッドの中に居た。  
 呆然と何が起きたのか、皆目見当も付かなかった僕に対して、傍らに付き添っていた貨物船の老船医が、事の消息を告げる。……彼の話によると、僕は台風の暴風圏の外を航行していた彼らの船に、大きな流木の上に仰向けに寝転がった状態で、発見されたのだと言う。

 話の内容に対し、全く現実感が伴わない中、ただ目を丸くして聞き入っている僕に対し、彼は如何にも不思議だと言う風に、こう締め括った。
「しかし、不思議な話さ…… あんたを拾い上げた場所は、あんた等のフネが沈没した海域からは、考えられない位に離れていた。幾ら嵐の中での出来事とは言え、あそこまで単身吹き流されると言うのは聞いた事が無いと、船長も話しとったぞ?」
 その船医の言葉で、僕の頭の中に、最後に見た覚えのある光景が、ありありと蘇って来る。
「一体何があったんだろうな」と、呟く様にして口を閉じた彼の前で、結局僕は何も言えないまま、再び深い眠りの底へと沈んで行った。  

 ――もしも、あれが夢ならば。  もう一度そうする事で、再びあいつに会う事が出来る……そんな気がしていたから――



 夢の様に、5年の歳月が流れた。

 あの大災害の記憶も既に過去の物となり、幼かった娘は、早くも庭先の闖入者であったスバメと仲良くなって、将来を見据えて入学先を模索する日々が続いている。
 命を助ける事になった船長は、あの時自分の命を救ってくれたニョロボンを譲り受けて、片足を失いながらも全国を廻り、気鋭のポケモントレーナーとして名を知られている。

 そして僕自身は、今でも海で働いている。
 ただし、現在は船長の親戚の好意によって、漁船の雇われ船員からは身を引き、今は朽葉海洋大学の、海洋生物学科の学芸員に名を連ねている。ラプラスやホエルオー、それにカイリューと言った、生息数が限られているポケモン達の生態調査と分布状況の特定が、僕の今の仕事だ。


 ――あれからずっと海に出続けているけれど、カイリューにはまだ、一度も出会った事は無い。時々周りの連中が言うように、やはりあれは夢だったのかと思えるほどに、彼らの生態や生息域は、未だに謎に包まれている。
 何時だって空振りに終わる調査航海に、大学側も決していい顔はしていないものの、その都度他の分野での研究発表で成果を上げて、何とか籍を保ち続けている有様だ。

 しかし、それでも僕は、ずっと海(ここ)で生きていくだろう。……この広い海の何処かに、きっとあいつがいる事だけは、確かな事なのだから――

 海に国境は無いし、故郷(くに)は違っても大空は一つ。――この広い空の下、僕らは確実に、同じ時間を生きている。
 僕らは互いの事を、生涯忘れる事は無いだろう。道程と足跡は違えども、僕らは生きている限り永遠に、人生の喜びと悲しみを、共に分かち合うのだ。……互いが踏ませてくれた新しい地平に、誰にも恥じる事の無い、真っ直ぐな軌跡を見出す為に――

 吹き抜けて行く潮風や、寄せては返す波の囁きを感じつつ……ふと僕は、昔よく耳にしたその台詞を、誰にも聞こえないような小さな声で、そっと呟いて見た。



 ……実はあの後、ホンの束の間の間だけ、夢を見たのだ。

 波打ち際へと続く小さな靴跡と、確かに見覚えのある、鮮やかに水平線に沈み行く、美しい夕日。
 そしてその沖合いの空を、真っ直ぐ彼方に向けて飛んで行く、角にあの美しい貝殻を飾った、カイリューの姿を――



『ただそこに、海があるだけ……』



――――――――――

御題:【足跡】
足跡三部作の一番手にして、第一回ポケモンストーリーコンテストへの応募作品。

コンテスト版のを微修正した奴です。


  [No.448] 雪の降る夜 投稿者:クーウィ   投稿日:2011/05/16(Mon) 19:21:31   64clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

注意:このお話にはポケモンを食べてしまったり、出血を伴ったりと言った表現が使われています。
   それらに抵抗を覚えられる方は、予めこの作品をご覧になられる事は、御遠慮ください……







『ポケモンが好きか?』

――そう聞かれた事が、少年には何度もあった。
幼い頃から、同世代にはほぼ確実に。  顔も知らない年長者や、大きく歳の離れた大人達からも、折に触れて聞かれる事があった。

そして勿論、彼の答えは決まっていた。

「好きだ」、と。

何時も本心からそう答えていたし、その気持ちに偽りが伴った事など、一度たりともありはしない。


――しかし、それを聞いた相手の方は、誰でも必ず、こう切り返すのだ。

『ならば何故お前は、ポケモンを殺すのか……?』、と――
 
 
 


赤く燃える空の下、雪雲が去ったばかりの山道に、一組の足跡が続いていた。

薄赤く焼け始めた東の空に向け、点々と続く雪上の痕跡。
その先に位置する者の正体を、十分な経験を積んだ狩人などは、ただそれだけの痕跡で、的確に言い当てる事が出来る。
――種族、凡その年齢、体の重さなどは勿論の事。 性別や食事の有無、その時の対象の心理状態に至るまで、彼らがそこから知り得る内容は、素人からすれば信じられないほどに、多彩なものである。

この世の中には、足跡から感情を読み取る『足跡博士』なる人物の存在さえ、確認されていると言う。
それほどまでに、熟練者から見た足跡と言う奴は、様々な情報に富んでいるものなのだ。


しかし、例えどれだけ多くの事が読み取れたとしても――そこに印されているものだけでは窺い知れないものだって、当然ある。
降り積もる雪に覆い隠され無くとも、読み取る事の叶わないもの。 ……その意義を悟った時、その時人は一体、何を思うのだろうか――?



[雪の降る夜]

 
 
奥山に向けて続く足跡の先端には、一人の少年がいた。  

まだ幼さの残る顔付きとは裏腹に、それには到底不釣合いな、年不相応とも言うべき鋭い光を放つ、二つの目。
一目で獣の皮で作られたとわかる防寒具を身に纏い、腰の絞め帯に鞘入りの山刀を差している彼は、雪に埋もれないよう体重の掛け方を工夫しつつ、皮の長靴を履いた足をしっかりと踏み出しては、手に持ったコースキ(雪シャベル)を杖代わりに使いながら、足早に歩を進めていく。

そして、時折立ち止まって後ろを振り返っては、後ろに付いて来ている相手が立ち往生していないかどうかを確認し、合わせて励ましの声を掛けていた。

しかし、それを受け取る当のポケモンの方は、そんな彼には全く反応を示さないまま、ただ黙々と短い足を動かして、先に続いている少年の足跡を避けるようにしながら、淡々と近付いて来るのみである。
少年の声かけを無視するミミロルのその足跡は、片足分が奇妙な楕円形をしており、一見するとどんなポケモンの足跡なのか、全く分からない。 
……ミミロルの短い片足は、足首の辺りから途切れたように失われており、代わりに切り株のような形状の金属棒が、その代用を務めていた。

反応の芳しくないミミロルの様子を確認し終えると、少年は再び背中を向けて、前方に向け歩き出した。
空模様をチラリと見やり、天候変化の兆候が現れていない事を確かめつつ、昨夜に降り積もった雪に覆われた斜面の道を、ミミロルの小さな足でも進めそうな進路取りで、じわじわと進む。

彼は祖父から、今年の冬が厳しいものになるであろう事を、予め聞かされていた。
「今年は森の獣達が騒がしいから、雪が多く降るだろう」――  そう口にした祖父の見立てが外れた事は、彼の経験上、まだ一度も無い。

向かっている場所は、この辺りでも最も雪が浅くなる、山の南側手に位置した、林の中である。
彼らが今住んでいる住居からは遠かったが、付いて来ているミミロルの背負っているハンディキャップの事も考え、彼はワザワザ歩きやすいように遠回りしつつ、そこへ向かっている。

今後ろに付いて来ているうさぎポケモンを、住み慣れた故郷に送り返すために――




彼の家は、小さな地方の田舎町である双葉の、そのまた外れに位置していた。
しかもその上、彼がまだ幼かった頃は、両親は共働きであった為、少年は物心ついた時から、更にずっと山際の、心事湖の向かい側にある祖父母の家で育てられた。
――『距離があった』と言う理由により、保育園にも幼稚園にも行かなかった彼は、代わりに猟師である祖父の元で、人生の土台となるべき幼年時代を過ごす事となったのだ。

他の同年代の子供達が、大勢で集まって遊戯や楽器の演奏などを楽しんでいた頃、彼は祖父から狩りの方法や山野での生活術を学んだり、囲炉裏端で祖母から聞かされる、昔話に親しんだりしていた。

ユキノオーに山刀一本で腕比べを挑む英雄の話。 
陸鮫一族と水竜一族との寓話。 
人に嫁いだアブソルやハクリューの伝説。 
身を以って戦を鎮め、風になった巫の物語など――祖母が物語ってくれる言い伝えの数々は、未だ幼い彼の手を引いて奥山に分け入る祖父の教えと同じぐらい、彼に大きな影響を及ぼした。  

そして、そんな中――同時に彼は、腕の良い猟師である祖父によって、山野を駆ける獣達―ポケモン達を捕らえる術を、極自然な形で、身に付けさせられて行ったのだ。
 



黙々と付いてきていたミミロルが、不意に尻餅を付いた。
健全な方の短い足を窪みに取られ、切り株のような義足では上手くバランスが取り切れないままに、よろけてひっくり返ったのである。

気がついた少年は素早く振り返ると、これも短い両手を雪に突っ込み、立ち上がろうとしているうさぎポケモンに、「大丈夫か」と声をかける。
――しかし、彼は言葉の調子とは裏腹に、ミミロルにゆっくりと歩み寄って行くのみで、駆け寄って手を差し伸べるような雰囲気はない。

実際ミミロルの方も、彼が近寄ってくる前に短い四肢を踏ん張って、器用に雪の中から足を引き抜き、立ち上がった。  ……微かに引き結ばれた口元が、本来温和な筈のミミロルに似合わぬ頑なさで、近寄ってきた相手の助けと気遣いを、無言の内に拒んでいる。
そんな相手に対し、少年はただ一言だけ、「無理はするなよ?」、といたわりの言葉をかけてから、再び前を向いて、ゆっくりと歩き出す。
むっつりと押し黙ったうさぎポケモンの方も、そんな相手の背中を見つめつつ、依然相手の足跡を避けるようにしながらも、雪を掻いて進みだす。

少年の足取りを避ける余り、嵌らずとも良い穴に嵌り込んでしまったにも拘らず、彼女は一切の妥協を拒み続けるかのように、前を行く相手から軸をずらして歩むのを、止めようとはしない。
その為にペースが上がらず、行程は全く捗らないままであったが、少年の方はそんな事は一切気にせずに、背後のポケモンがしたいようにするのに任せておいた。

それでも、別に構わなかった。
……彼女が自分を拒む事で、前に進む事が出来るのであれば。
 
 
 
 
少年が初めて狩人として獲物を仕留めたのは、まだまだろくろく雪の山道も踏破できない、6歳の頃であった。

祖父に教えられた待機場所で、息を殺して2時間粘った末。 
風向きの関係もあってか、ふらふらと無警戒に茂みから歩み出てきた一匹のビッパを、引き始めて間もない、小さな半弓で射止めたのである。
無論急所には当たらず、ビッパは慌てて逃げ出したが、伝統に則って濃く煮詰められ、松脂によって固定された数種の矢毒が、丸ねずみポケモンの自由を奪った。

動けなくなったビッパに止めを刺す際に、まだ幼い少年の手が震えたのは確かである。
しかし、逡巡して相手の苦痛を長引かせる事が、対象への最大の非礼であると教えられていた彼には、躊躇い続ける事は許されなかった。
彼はビッパに不器用な手つきで引導を渡すと、続いて覚束無い足取りで準備を整え、相手の魂を送り返す祝詞を唱えた。

内容の方は、彼自身ももう覚えてはいない。
余りにもお粗末だったし、年齢的にも、言葉を選ぶなどと言う真似が、出来る訳は無かった。
……しかし、間違いなく心の底から思いを込めて語りかけた事だけは、今でもはっきり覚えている。
 
その丸ねずみポケモンが、呼ばれてきた祖父によって解体され、その日の夕食の膳に据えられる事になった時、かの老人もまた万感の思いを込めて、鍋の中の客人に対し、謝礼の言葉を言上した。 
夏毛であった故に毛皮は使い物にならなかったものの、今でも山刀の釣り帯として名残を止めているあのビッパについて、少年がはっきりと記憶しているのは、その二つであった。
 
 
しかし――その忘れられない経験はまた、彼が周囲から孤立する決定的な要因にも、同時に発展する。

その頃は既に、彼も小学生になっており、遅蒔きながらも周りの同世代と一緒になって、義務教育の洗礼を受けていた。
長期休暇を終えた後、その間の体験談で持ちきりのクラスメート達が、普段は殆ど話しかける事も無い彼に対して質問した時から、少年は自らが周囲とは異なった価値観を抱いている事を、否応無しに思い知らされる。

『ビッパ(ポケモン)を毒矢で射止めた  ……そしてあまつさえ、止めを刺してバラバラに解体し、鍋で煮込んで食べてしまった』――

その様な行為を夢にも思い描いた事が無かった周囲の人間にとっては、彼が言葉少なに語ったその体験談は、カニバリズム(食人行為)の告白にすら、等しかったのであろう。 

執拗な嫌がらせの末にワザとらしく絡んできた、町中育ちの体が大きいだけのガキ大将を、山歩きで鍛えられた腕っ節でなんらの問題もなく叩き伏せた所で、彼の周囲からの評価は、確実なものとなった。
不気味な危険物として、同級生は意識して彼から距離を置き、複数の教員も、ある種の精神的な『発達障害児』として、職員会議で話題に上げる始末。
少数の友人や、親身になってくれた一部の教師などと言った例外はあったが、基本的に少年は家族以外からは疎外され、様々な陰口や、偶に受け取る面と向かった不愉快な質問の中で、黙々と歳を重ねていった。


……しかし、それでも彼は、自分の意見や考え方を、揺るがせる事は無かった。
少年は周囲からどう言われようとも、自らの考え方や行いを恥じる事無く、ただひたすらに、狩りの修練に勤しみ続ける。

確かに彼には、生まれつき頑固な所があった。
祖父の事も大好きであったし、何かと陰でひそひそとやる、周囲に対する反発もあった。
――しかし、ただ単にそれだけで意地を張っていたのかと言うと、断じてそんな訳ではなかった。
彼は彼なりに思う所があったから、安易に周囲に靡いて自分の持っているものを手放す気には、到底なれなかったのである。




やがて雪原を横切り続けていた彼らは、目指す南側の斜面に抜ける尾根の付近で、一本の倒木が、道を塞いでいるのに出くわした。
少年の両手では2抱え半以上もある松の大木は、物言わぬままに雪を被って、狭い獣道を跨ぐ様に横たわっており、乗り越えるには少しばかり、難儀な代物であった。

しかし、ボンヤリとしてもいられない。  
……既に、雪が積もりだしたこの季節――余りトロトロと時間を使っていると、忍び寄って来る夜の帳が下りる前に、家に帰り着く事が出来なくなってしまうだろう。

そう考えた少年は、藪漕ぎで時間の取られる迂回を諦め、コースキを大木の側の雪の中に突き刺すと、それを足場にして、身軽に倒木の上によじ登った。
次いで、後に続くミミロルに対し、声をかけると同時に体をそちらに乗り出して、片手を差し伸べる。

ミミロルはそれでも、尚も直ぐには動こうとはしなかったが……やがて黙然と近付いて来ると、彼とは視線を合わせないようにしながら、背を伸ばしてその短い片腕を、少年の褐色に近い利き腕に、無造作に委ねた。
力を込めて引っ張ってやると、ミミロルの方も残りの腕と短い足を凍りついた樹皮に押し当てて踏ん張り、なるだけ早く事が済むように、雪を掻き分け這い上がる。
――あくまでも心を開こうとはしないミミロルに対し、それでも少年は一切、嫌な顔はしなかった。

……彼には彼なりに、この目の前のポケモンに対し、負い目を感じる理由があった。  ――彼女の片足を切り落としたのは、他ならぬ彼自身だったのだから。

それをボンヤリと反芻しつつ、少年はそっぽを向き続けて雪を払うミミロルの横顔を、陰鬱な思いで見守った。
――如何に彼女がそれを望んだのだとしても、厳冬を間近に控えるこの時期に、家族もいない独りきりのポケモンを送り出す事は、同じ北国育ちの彼にしてみれば、到底肯んじ得ない行為である。

……しかし、もうこのポケモンが次の春まで待とうとする気が無いのは、誰よりも彼自身が、十分過ぎる程に承知していた。
 



現実として、例え周囲がどう言おうとも――少年は同世代の誰よりも、ポケモン達と近しかった。

彼の行いを非であるとし、『可愛いポケモンの命』を声高に叫ぶクラスメート達は皆、野生のポケモンと最も近くまで歩み寄って、時には直接触れ合う事も出来る彼の行為を、真似する事は出来なかった。
彼らは野生のポケモンに近寄る事を恐れるか、もしくは近寄ろうとした時に威嚇され、その場で竦んで足を止めるかのどちらかであって、言葉少なながらもゆっくりと近寄り、相手の警戒心を解きつつ対応出来る少年の姿を、不可思議なものでも見るように、目を丸くして見詰めるばかりであった。


こんな事もあった。

その日彼は、何時も通りに祖父母の家に向け、双葉北郊外の田舎道で、帰途についていた。
道連れも居らず一人きりで、カバン代わりのボロリュックを背負い、時々空を横切る飛行ポケモン達を、横目で追いつつ歩いていく内――ふと少年は行く手の先に、一塊の人だかりが出来ているのに出くわした。
――徐々に近寄っていくに連れ、その人だかりの正体と、それを惹き付けている対象の姿が、はっきりと目に飛び込んで来る。

そこでは、彼と同じぐらいの年齢の一人の少女が、片手にスプレー式の傷薬を持って、地上に降り立ったムクバードに向け、懸命に話しかけている最中であった。
ムクバードは片翼を折り曲げており、どうやら飛ぶ事が出来ない模様で、鋭い鳴き声を上げながら全身の羽毛を膨らませ、目の前で自分に向けて声を掛けてくる少女を、盛んに威嚇している。
……ポケモンの周囲には、投げ与えられたと見られる幾つかのオレンの実が転がっていたが、必死になって身を竦めているムクバードには、それに手を付けるような余裕など、到底無いのだろう。

様子を見ながら近付いていった彼が、漸くそこまで行き着いた時――遂に少女が意を決したように前に歩み出て、張り裂けるような鳴き声を上げ続けている椋鳥ポケモンに向け、ゆっくりと手を差し伸べた。
しかし次の瞬間、伸びてくる手に合わせて身を引き、縮こまる一方だったムクバードの首が、突然バネ仕掛けの玩具か何かの様に前に向けて突き出され、差し出された少女の掌に、鋭い一撃を加える。

周りに出来た3人ばかりの友人達の垣根からは悲鳴が漏れ、火傷したように手を引き、傷薬を落として傷口を押さえた少女の指の間からは、赤い雫が一つ二つと、乾いた未舗装の路上に滴り落ちた。
少女は尚も、自分を傷つけた椋鳥ポケモンを何とか宥めようと、懸命に言葉をかけてはいるが――やはり、先程の反撃で足が竦んでしまったらしく、ムクバードの手前に転がっている傷薬に手を伸ばす事さえ、出来かねる様子だった。

そこまで見た所で、少年はゆっくりと前に進み、怪我をした少女に歩み寄ると、無言で相手の前に出てから、口元を引き結んだままで、下がっているように目で合図をした。
次いで、言葉も無く自分を見つめている相手から目を逸らすと、後ろに溜まっている他の連中にも、少し離れた所にある立ち木の辺りまで下がるように、声を掛ける。
全員が下がったのを確認すると、彼は改めてムクバードに向き直り、先ずは目一杯に姿勢を低くしてから、相手の方に向け、ゆっくりと近寄って行った。

それでもやはりムクバードは、当初は依然として甲高い声で鳴きながら、威嚇の構えを解こうとはしなかったが……それでも今度は、近寄ってくる相手に合わせて竦むような事は無く、やがて耳を突く鳴き声の程も、徐々にではあるが尻すぼみに衰えていき、彼が接近するのを止めたのを境に、ふっつりと途絶えた。
既に、手が届くか届かないかの距離にまで近付いていた少年は、続いてその辺りに転がっていたオレンの木の実を二つ拾うと、片方を自分で齧りながら、ゆっくりとした動作でもう一つの方を掌の上に乗せて、ムクバードの方へと突き出してやる。
……無論椋鳥ポケモンの方も、直ぐには手を付けようとはしなかったものの――やがて彼がついと顔を背け、尚も明後日の方向を見つめながら待ってやると、遂にムクバードは、ここへ来て初めて自分から前に出てきて、彼の手に乗ったオレンの実を、静かに啄ばんで食べ始めた。

余りの成り行きに、離れて見ていた少女ら4人が、呆気に取られて眺めている中……少年は木の実を食べ終わったムクバードに対して改めて向き直ると、ゆっくりとした動作で転がっていたスプレー式の傷薬を拾って、体力を取り戻した相手に向け、再びにじり寄って行く。
――そしてそのまま、落ち着きを取り戻して嘘の様に大人しくなった椋鳥ポケモンの手当てを完了すると、自分をじっと見つめている相手の頭を3本の指の先で掻いてやってから、そこで漸く立ち上がった。

少年が立ち上がるのと同時に、傷の癒えたポケモンの方も翼をはためかせて空へと飛び上がり、手当てしてくれた相手の頭上を二度三度と旋回してから、近くの森に向けて消えていく。
ムクバードの姿が見えなくなり、彼が背中から下ろしていたリュックを拾って、もう一度背負い直した時、離れて成り行きを見守っていた少女が、友人達の輪からゆっくりと抜け出して、彼に対して礼を言って来た。
彼は適当に返事を返すと共に、同時に自らの不備を尋ねて来た相手に対して、椋鳥ポケモンがどうして彼女を受け入れようとしなかったのかを、簡単に説明してやった。

――ポケモンに限らず、鳥という生き物は全般的に、自分よりも高い位置に存在する者に対し、強い警戒心を抱くものである。  ……しかも、元より生き物と言うものは皆、自分よりも大きな体格の相手に、本能的な恐怖を感じるものだ。
オマケにあのムクバードは、本来群れで行動するポケモンであるにも拘らず、たった一匹で孤立して、自分よりもずっと大きな人間に、周囲を囲まれていたのである。
……これでは、幾ら感情を込めて呼び掛けた所で、怯えきった椋鳥ポケモンの恐怖心を和らげる事など、出来よう筈も無い。

それに、ただでさえ体力的に弱っている野生のポケモンにとって、明らかに自分より大きな相手にじっと見つめられる事は、大変な恐怖なのだ。
獣達は皆、相手の挙動には非常に敏感である。  ……彼らは常に、相手の様子を良く窺っており、危急の際は自らに注意を向けられているだけでも、極端な程にそれを嫌がる。

だから少年は、出来るだけ姿勢を低くしてムクバードに近付いた後、オレンの実を自分でも齧りつつ、別の奴を相手に差し出してから、ワザとに視線を外してやった。
……こうする事で、彼は自らが空腹では無く、獲物を必要とはしていない事を相手に向けて分からせつつ、臆病な椋鳥ポケモンが安心して木の実に手を付けられる様、敵意が無い事を直接的に、証明して見せたのだ。

――これらは全て、彼が実際に彼らポケモン達と直接触れ合いながら、肌で感じ取り、身に付けて来た知識に基づいたものである。
一方でその頃の彼は、自分にとっては日常的とも言えるこの手の知識を、何故周囲の連中がこうも理解出来ていないのかと、何時も疑問に思ってもいた。

周囲はやたらと彼の事を不思議がり、時には立派な大人のトレーナー達が、そのノウハウを訪ね掛けて来たりもしたが、彼に言わせれば、そんな事に一々驚かれる事自体が甚だ奇妙で、また不可解極まりない事であった。
……大体、彼自身ノウハウなどと言う物を語るにはまだ若過ぎたし、それを聞いて来る彼ら大人達の方が、自分なんかより遥かに詳しく、ポケモン達について学んでいるのだ。


彼はただ、野生のポケモン達との間に『適正な距離』を置いて、付き合っているだけである。
――単純に、ポケモン達と諍いを起こさないよう気をつけながら接しているだけの事であって、自らに特別な才能や能力が備わっているとは、毛頭思っていない。

祖母が話してくれる聖伝の英雄達の様に、野生のポケモンに認められるような飛び抜けた実力は持っておらず、伝承の中で活躍する巫達の様に、彼らと会話が出来る訳でも無い。
ただ単に、普通に『隣人』として適正な距離と気配り、そして意思表示を欠かさないようにしながら、自分の持っている知識の範囲内で、最も適切と思われる振る舞いを、こなしているだけの話なのである。

……元々野に生きる獣達は、自らの負担を最小限に止めて置く為に、無意味な争いや騒動事は、起さない様にしているものだ。
普段は食う・食われるの関係にあるムクホークとポッポでも、ムクホークが満腹の状態であるならば同じ木に止まって羽を休めるし、小さなポッポが同じ岩の上で好物の虫を探して啄ばむ事だって、別に躊躇わない。
――例え相手が危険な捕食者だったり、主食としている小動物であったりしても、その必要が無ければ無闇に警戒したり騒ぎ立てたりしないのが自然界の常であり、掟である。

少年は単に日頃から、それに則って自らの振る舞いの程を、彼らポケモン達のそれに、出来る限り合わせているだけなのである。
……寧ろ彼は、自らが極自然な形で身につけたその感覚を、周囲に暮らす誰もが全く理解しようともしていない事に、常々驚きを隠せなかった。


町に暮らしていた人々の目には、山中で彼らと血を分け合って生きて来た自分とは、また違った風に、ポケモン達が見えている――彼は常々幼い頭で、そう思わざるを得なかった。
 



雪に覆われた倒木の上から、行く手に広がる残りの行程を見渡しつつ――少年は、傍らで口をへの字に結んで、自らの足に括り付けられた金属製の義足の結び目を直しているミミロルとの出会いを、何時とは無しに思い出していた。
――今でこそ、こうして自ら義足の調整もこなし、彼が隣に位置を占めても、暴れだそうとはしなくなったものの……これまで過ごしてきた二年間の経緯は、決して平坦なものではなかった。
 
 
彼らが初めて出会ったのは、少年が9歳の頃――丁度今時分、雪が降り始めた前後の出来事であった。

その日、彼は自力で山に入れない時期に差し掛かる前に、もう一度猟場にしている辺りを一巡りしておこうと、今日の様に積もりかけた雪の獣道に足跡を残しながら、ゆっくりと山の南側にある林に向け、弓を背負って歩いていた。
時刻はまだ早朝であり、照り返しによって目を眩ませない様に慎重に歩を進めていた彼は、やがて林の入り口辺りで、一匹のポケモンが倒れているのに出くわす。
……倒れ込んでいたのは、美しい毛並みを朝の日差しに輝かせている、立派な大人のミミロップであった。

彼が音を立てないように弓を取り、しっかりつがえつつ近寄ってみると、倒れているミミロップは既に力尽きており、今しがた息を引き取ったばかりであるらしく、まだ体温が残っている状態であった。
――思わぬ収穫に、彼が喜んだのは言うまでも無い。

早速この獲物を我が手にすべく、その場で近くの枯れ枝を雪の中から掘り出したり、自分の道具を引っ張り出して並べたりして、手早くも厳粛に、死者の魂を送り出す祝詞を上げた後――さてこそはと山刀の鞘を払って、物言わぬ骸に刃を入れた所で、それは起こった。
冬に備える為の、新しい防寒具に使えるだろう上等の毛皮を確保できた事に、内心躍り上がらんばかりであった少年は、刃を滑らせ始めた獲物の下側から、突然くぐもった鳴き声が聞こえて来たのに、文字通り飛び上がらんばかりに驚いた。

慌てて山刀を構え直し、恐る恐る冷たくなりつつあるポケモンの体を、反対側の手で押し転がして見た所――彼はそこに見たものに、思わず寸時の間固まって、同時に言葉を失ってしまった。

そこには、片足をワイヤーで作られた輪によって締め上げられ、身動きの取れなくなってしまったまだ幼いミミロルが、小さな体を精一杯に縮めて横たわっており、恐怖と悲しみに縁取られた円らな瞳を、真っ直ぐ彼に向けて来ていた。
……血に濡れた刃を構えた狩人を、涙を溜めた目で見上げつつ、瘧の発作の様に震えているその小さな体には、彼によって流された母親の血が、赤黒い染みを形作っている。

うさぎポケモンの置かれている有様を、ショックに打ちひしがれた頭で、何とか理解した時――少年はそこで漸く、手に持った山刀を取り落とすように雪の上に転がして、母親ミミロップの体を脇に押しのけ、ミミロルの脇にひざま付いた。
怯えて暴れるミミロルの、強烈な両耳による一撃を警戒しつつ――鋼鉄の輪に噛み付かれたその足の状態を調べながら、彼は何故ミミロップがそこで力尽きていたのかを悟って、暗澹たる思いに表情を歪ませる。
――彼女は、その場から動けなくなった自分の娘を、容赦の無い寒波から守る為にそこに留まり続け、結局自然の猛威に抗い切れぬままに、命を落としてしまったのだ。
足に絡んだ罠を外そうにも、ミミロップやミミロルは『不器用』な種族であり、それは叶わなかったのだろう。  ……また鋼鉄製のワイヤーは、頑丈な顎や鋭い牙を持ち合わせていない彼女らには、引き千切るには余りにも手強過ぎた。

この手の『括り罠』と言う奴は、現在は固く禁じられている手法であり、仕掛けて行った人物は、間違いなく余所からやって来た、密猟者であった。
……身を捩じらせて泣き喚くミミロルを押さえ付けつつ、完全に変色してしまっている、うさぎポケモンのその足先に絶望しながら、少年は顔も知らない相手に対し、激しい憤りを覚えていた。

――そして、やがてその双眸が、逃れられぬ現実を悟って光を失い……次いで、再び生気の戻って来たそれが、覚悟と決意を秘めて、鋼の如き冷徹な光を帯びた時――うさぎポケモンの体を押さえていた利き腕が、脇に転がっていた血染めの刃物をしっかりと探り当て、握り締めた。
 
 


「何故ポケモンを殺すのか?」――この質問を受け取る度、何時も彼は、同じ言葉を返した。  ……即ち、「食べる為」であると。
――同時にこの答えは、彼が常に抱いていた疑念に対する、痛烈な皮肉でもあった。


彼は何時も、疑問に思っていた。
町の食料品を扱っている店舗には、何時も様々な種類の肉や魚が、所狭しと並べられていた。  ……それらは皆、決まった期間が過ぎると『ゴミ』として廃棄され、透明なビニール袋に放り込まれて一顧だにされぬまま、他の塵芥や汚物などと一緒に、処分されていく。

そこでは、嘗て生きていた筈の者達に対する尊厳が、完全に失われていた。
値札を付けられたそれらは、既に単なる『モノ』でしかなく、付けられた数字に見合う条件を失った時点で、その価値を失ってしまう。
ゴミとして処分されていく彼らには、最早誰も関心を示そうとはしない。

直接手を下す立場を経験していた少年にとっては、正直実体も定かではない数字上の価値だけで、まだまだ利用可能なそれらが『モノ』から『ゴミ』へ変化する論理が、どうしても受け入れ難かった。
弔われる事も無く、顧みられる事すらないそれらの存在を、周囲は全く拘泥しようともしないし、それを指摘する彼に対しては、一様に眉を顰めるのみで、突っ込んだ議論もなそうとはせず、その場を離れる。

……必要に応じて命を奪う事が理不尽な罪であるならば、何故最初から『モノ』として捉え、嘗て生きていたと言う事実に対して目を背ける事が、正当だと見做されるのか?


確かに、そこにあるのは『モノ』であった。
商品として陳列されているそれらには、最早生命は宿っておらず、魂の抜けた抜け殻が『モノ』としか受け取れない事実は、彼もその経験上、良く分かっていた。

しかし、その一方で――同時に彼は、彼らが『モノ』に変わるその瞬間をも、非常に良く理解してもいた。
――生きている者が『モノ』に変わる瞬間は、『命』に対する厳粛な感情や観念とは裏腹に、余りにも短く、呆気ないものである。

命を絶つまでに味わう苦悩と痛苦は、獲物を目前にして高揚する勝利の喜びを以ってしても、到底拭い難いほどに重く、深い。
けれども、いざ止めを刺した後に訪れる対象への意識の冷却は、場馴れした少年ですらその都度戸惑わずには居られないほどに、急激なものだ。

実際に己の手を血で汚し、仕留めた相手の鼓動が止まる様を見届けた経験があるのであらば、その急変に対しても、心を流される事は無いであろう。
事実、彼は仕留めた相手への気遣いを失った事はなかったし、それ故にどんな時でも、そこから得られる物を、無駄にしたりはしなかった。

解体の方法を教わった時も、常時ならば体調をも崩しかねない凄惨な有様の中、動ずる事もなしに手順を覚える事が出来たし、自分がそれを実践する時も、ヘマをしたりはしなかった。
仕来たりは忠実に守り、撃ち止めた時には必ず相手を送る言葉を添えたし、無事に解体を終えた後には、同じ森に住んでいる他の者達の為にも、幾許かの取り分を残して行く事を忘れなかった。


全ては、自らが日々行わなければならぬ業をしっかりと認識し、それを贖わざる事を固く戒めた、祖父の言葉によるものだった。

彼を連れて山野に分け入る時、常にその理を言い聞かせてきた老人は、木の実を拾う時も樹木に挨拶をしたし、取ってきた魚を調理するにも、先ずは俎板に据えられたそれに対して来訪の謝意を述べ、礼を尽くした。
獣を取った時と同様、収穫から幾分かの分け前を残していくのは礼儀であったし、何の関係も無い小さな虫や蔓草についても、無闇に踏み潰したりはしない。  ……老人の感覚では、彼らは獲物も含めて全て隣人であり、それに適った礼を用いるのが、彼らと共に生きていく上での、最低限の節度であると言う。
――それは同時に、彼がまたその祖父や父から、代々受け継いできた生き方でもあった。

それ故にか祖父は、腕利きの猟師であるにも拘らず、弓矢や猟銃を持たずに山に分け入った時には、不思議なほどに獣達―ポケモン達からは、警戒されなかった。
陽気の穏やかな春であれば、歩く側からビッパやコロボーシらが様子を窺いに来たし、夏場に木陰に入れば、離れた岩場にはアブソルが姿を見せた。
実りの秋には、木の実を拾う彼らの側で、ムックルやパチリス達がせっせと冬に備えていたし、冬の雪道では、好奇心旺盛なユキカブリ達が、物珍しさに寄り集まってくる。

獣達同士と同じ様な感覚で、互いに距離を保ちながら存在を受け入れあっている祖父の傍ら、少年は極自然な形で、彼らと適正な距離を保つ感覚を、独りでに身に付けていった。
……知らず知らずの内に、周囲の世界と自らとの間に、大きな溝を育んでいっているのにも、全く気が付かないままに――


そう――自ら対象の命を奪う事で、初めてそこから得られる心の揺らめきと心情の変化とを、知る事が出来ると言うのなら。 命を奪い、生きて行く事それ自体が、彼らとの距離を離す直接的な原因ではないと、悟る機会がなかったのであらば―― 
それならばもしも、最初から――彼らが『モノ』の状態であったのならば、どうなるだろう……?





敗血症を防ぐ為、既に使い物にならなくなっていた片足を切り落としたミミロルを、彼は山の反対側にある祖父の狩小屋まで運んで行き、それから更に容態を落ち着かせてから、祖父母の家に連れ帰った。

連れ帰った当初は、ミミロルは全く食物を受け付けず、最早生きる事を拒否しているかのように、頑なな姿勢を崩そうとはしなかったが――少年がある言葉を与えた事を切っ掛けに、少しずつではあるが、出された木の実に手を付けるようになっていった。
……彼はミミロルに対し、ただ一言、「母親の思いを無駄にする気か」と、無表情で呟いたのだ。

そうなると、ポケモンの生命力は非常に強く、切り口を包み込めるよう、骨が短くなるように切った彼の手腕も相まって、一月もしない内に、彼女は体調を常の状態にまで回復させる事が出来た。
うさぎポケモンが、もう何の支障も無く、彼に向かって技を繰り出せるぐらいにまで回復した時。  ……次いで彼は、敵意を隠そうとはしない彼女の足に、ずっと製作に当たっていた、一個の棒切れを括り付ける。

――それから二年間、彼は決して心を開こうとしないミミロルに対し、敢えて徹底的な形で、様々な訓練を施していった。
当初は歩く練習から始まったそれは、次いで走る訓練を経て、跳躍の鍛錬となり――やがて最後に、最も種族的に困難な作業である、義足の『自作訓練』へと、繋がって行く。

ミミロルは、進化系のミミロップ共々、非常に『不器用』な種族なのである。  ……しかしその一方、もし野外に自立した暁には、破損や磨耗、それに進化による体形の変化などで、使っている義足が使用不可能になる可能性は、常に付き纏う事となる。
――彼を含め、凡そ人には一切心を許そうとはしない彼女の生涯を全うさせるには、その生まれ持っての特性を克服してでも、自らの必要とする物を自力で生み出す術を、身に付けさせてやら無ければならなかった。

「これを覚える事が出来たら、お前は故郷に帰れる」――少年のその言葉を受けたミミロルの方も、決して彼に対して、態度を変えようとはしなかったものの、与えられた課題をこなす為に、歯を食いしばって努力し続けた。
そしてその甲斐あって、遂にここ最近に至り――ミミロルの製作能力は、どうやら自力で自らの体の一部を削り出せるぐらいにまで、漕ぎ着ける事が出来た。
 
 
……彼がその様に振舞った背景には、彼自身が抱いていたうさぎポケモンへの負い目以外に、自らも含めてニンゲン全てが、彼ら野に生きる獣達―ポケモン達の隣人足り得なくなっていく事への、堪え切れぬ贖罪の思いがあった。

共に同じ森で営みを送っているにも拘らず、ただ一方的に搾取を繰り返すばかりで、隣人としての礼を逸し、互いを思い遣る心を忘れようとしている自分達。
祖父達が代々受け継いで来た信頼関係を、呆気なく飽食と利得のシステムの中に埋没させ、失っていく事への面目無さ――

祖母の語ってくれる物語の世界は彼方に過ぎ去り、本来隣同士に位置している筈のポケモンとニンゲン達との溝は、意識的にも無意識的にも、ただ深まっていくばかり。
それがこの時代に生を受けた少年には、如何にも残念な事であったし……また同時に、堪らなく寂しかった。
 
 
 
 
不意に頭の付近に感じた震動と物音に、少年はビクッとして目を見開き、淡い境目を彷徨っていた己の意識を、赤く染まりつつある、夕暮れの雪山に覚醒させた。
……枝から崩れ落ちて来た雪の塊が発したそれにより、彼は自分が束の間の間、疲れと消耗からまどろんでいた事を悟る。

意識がはっきりしてくるに従い、体が既に冷え切って、石の様に重くなって来ている事と、それにも拘らず焼けるような痛みの感覚は、全く衰えていない事も自覚する。
体を起そうとしつつも果たせず、復活した痛みの信号に小さく呻いた彼は、上半身を起こす事を諦めて、体の上にかけてある雨除け布を凍えた利き手で少しはぐり、自らの自由を奪っている苦痛の根源を、もう一度己の目で確認した。
――そこには、冷え切った流血に赤黒く塗れ、立ち枯れた若木の株によって太腿の辺りを串刺しにされた、無残な有様の彼の右足が、ぞっとするような悪寒と非現実的な感触を伴って、横たわっていた。

「痛い……」

そう一言呟くと、再び少年は持ち上げていた首を落として、既に足早に暮れかかっている紅の空を、乱れつつもゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、虚ろに見上げる。 ホンの一時間程前までは綺麗に安定していた空模様は、彼が朦朧とした意識の中で過去を廻っている内に怪しく変化し、山の向こうから黒い雲の塊が徐々に広がって、茜色の虚空を占領し始めていた。

……彼は知っていた。 痛みを感じると言う事は、まだ自分が死ぬまでには、相応の時間が残されていると言う事を。
しかしその一方で、このまま行けば先ず間違いなく天候が崩れ、彼は生きたまま孤独に耐えつつ、やがては降り注ぐ雪の中で、力尽きてしまうだろうと言う事をも。

それを理解している少年は、もう一度何とか体を起そうと努力してみたが、やはりそれは、徒労に終わった。
体は冷え切って力が入らず、串刺しになっている足の傷口は、突き刺さった株に肉が巻き付いており、痛みに耐えながら懸命に動かそうとしても、ビクともしない。
……仮に抜けた所で、出血多量によって力尽きるだろう事を十分に弁えている彼は、程なくして体力を消耗するだけに終わるその悪足掻きを、小さな溜息と共に切り上げた。

同時に、既に感じ始めていた耐え難い喉の渇きを癒す為、手元の雪を一掴み掴み取ると、手の内で圧縮するように握り固め、密度の高い氷状にしてから、一口二口と口に運ぶ。  ……雪をそのまま口にするだけでは、得られる水分が奪われる熱量と到底引き合わず、ただ体力を消耗するのみに終わってしまうからだ。


次いで雪片を捨てた後、力なく視線を向けたその先には、彼の持ち物の山刀が、半分雪に埋もれたままで、釣り帯をこちらに向けて転がっている。
――手が届きさえすれば、少なくとも心理的には、まだ幾らか楽になれる所なのだが、残念ながら此方に向けて伸びている釣り帯の先端部分ですら、彼が指先まで最大限に伸ばした所で、まだ腕一本分程届かなかった。

やがて手を伸ばす事を諦め、オレンジ色に光を反射している雪の上に横たわっているそれを、じっと見つめている内――ふと少年は、痛みによって歪んでいる表情を微かに緩めて、こんなにも近い位置にあるにも拘らず、どうしても手が届かないそれに向け、穏やかな口調で語りかけ始めた。

「……悪いなぁ……  ……どうやら俺、ここで死ぬかも知れないよ」

口を閉じた彼の目には、痛みを通り越したその先にある物が、しっかりと浮かび上がっていた。 
――初めて射止めた、丸ねずみポケモンの面影。 それを瞼の裏に思い描きつつ、少年は静かに息を吐いて、遠い思い出を振り返る。
 
 
少年が慣れない手つきで、ビッパの遺してくれた物を裂いては繋ぎ、それを完成させた翌日――彼は祖父に小さな船を出して貰って、綺麗に磨いた丸ねずみポケモンの骨を、早朝の鏡の様に凪いだ心事湖の真ん中に、手厚く葬った。
『捕まえたポケモンを食べた後の骨を綺麗にして、丁寧に水の中へと弔う。  ……そうすると、ポケモンはやがて再び肉体を付けて、この世界へと戻ってくる』――  ……それが、彼が祖父から教えて貰った伝承と、正しい弔いの方法だった。

青い蒼い水の底に向け、一晩かかって磨き上げた客人の名残が、ゆっくりと沈んでいくのを見守った時――彼はまだ幼かった心の内で、湖に還したポケモンに恥じぬような狩人になる事を、固く誓った。
 

それを改めて反芻した時、彼はもう一度目の前の相手に向けて、小さく謝罪の言葉を述べた。
……遠い日の誓いを果たせぬままに、こうして雪の山道で動けなくなっている自分の運命を、ただ呪うでも嘆くでもなく、不思議な思いで見つめながら……

決して、恐ろしくない訳ではなかった。
苦悩もあったし、悲しさや人恋しさ、未練や後悔だって、少なからずあった。

けれども不思議と、彼は冷静だった。 『このままでは死ぬだろう』――そう理解しているにも拘らず、何処か自嘲にも似た、不可思議な笑みが零れそうにすらなっていた。
……何故そう感じられるのかは、自分でも良く分からないままに――彼の意識は、ここに転がり落ちてきた当初の光景を、何時とも無しに振り返る。
 
 
 

大体あれは、2時間程前であろうか……?
 
普段使っていた森の中の獣道が、樹上からなだれ落ちた雪に埋もれて使えなかったのが、そもそもの発端だった。
急遽進路を変更して選んだその切通しは、崖際に続く一本の隘路であり、その辺りの風の通り道にもなっている事から、厳冬期でも比較的積雪が少なく、一年を通して通行が可能な場所であった。

けれども無論、問題が無い訳では、断じてない。 
切所ゆえに道幅が狭いのは勿論の事、積雪が少ないと言う事柄に関しても、それはあくまで、他の場所に比べたらの話。 ……歩くのに支障が出ない程度とは言え、やはり足元は雪に覆われており、しかも崖際ならではの危険な要素も、当然あった。 

その内最も恐ろしいものが、崖際に生じる雪の張り出し―雪庇である。
雪庇は風によって飛ばされた降雪が、崖際に吹き付けられて出来る天然のトラップであり、本来の道の端に偽りの大地を形作る、大自然が織り成す幻影だった。 ……一見すると雪に覆われた地面と見分けが付かないが、一度足を乗せれば立ち所に崩れ落ち、犠牲者はあっという間に平衡を失って、雪煙と共に谷底へと転げ落ちる事となる。
雪の状態によっては、それを切っ掛けに雪崩が起きる事もあり、うっかり踏み抜いてしまったら最後、例え人間だろうがポケモンであろうが、命の保障は無きに等しかった。

――今から思えば、それは予め予想して然るべきだったであろう。
狭い隘路を慎重に吟味しつつ、嘗て歩んだ秋口の記憶を頼りに、用心深く進み行く内――不意に後ろを歩いていたミミロルが、雪に隠された道際から足を踏み外し、木枯らしと牡丹雪(ぼたゆき)によって築かれていた、厚い雪庇を踏み抜いたのだ。 ……恐らく、血の通っていない義足では、小石が多くて不安定なガレ場の地面の感触が、上手く掴めてはいなかったのだろう。
うさぎポケモンの驚いたような鳴き声に、彼は慌てて振り向いて――彼女の体が大きく傾いているのを見た瞬間、どうした事か自然に体が動いて、勢い良く後ろに向けて踏み出すと同時に、ミミロルを突き飛ばすようにして道側に押し戻し、代わりに自らもまた雪で出来た天然の罠に足を取られて、体勢を立て直す暇も無いままに、遥か下にあるこの場所まで、一気に転げ落ちた。

幾度もバウンドして地面に叩き付けられ、遂に下の端にまで達した時、恐ろしい衝撃を右の太腿に感じると共に、強烈な異物感と喪失感が、彼の理性の中枢を狂わせる。
次いで襲って来た火の様な感覚と、自らの目に映った、信じ難い光景。  ……太腿を貫かれているのを見た瞬間、その一瞬彼は、現実への拒絶感から、激しいパニックに襲われた。

呼吸が異常に苦しくなり、鼓動が早まって、どこかに闇雲に駆け出したくなるような衝動が、体の奥底から突き上がって来る。  ……しかし現実には、彼は一本の枯れ木によってしっかりと地面に縫い付けられており、駆け狂う事は愚か、立ち上がる事すら出来なかった。
……結局彼は、「はひっ、はひっ……」と発作のような息遣いを繰り返しながら体を起し、手元の雪をガーディが穴を掘る時の様に掻き散らし、荒い息遣いの合間に顔を横向け、雪の中に突っ込んでは、冷たく手応えの無いそれを力一杯噛み裂いて、奥歯を砕けるほどに噛み鳴らすしかなかった。

どれくらいの間、それを繰り返していただろうか……?
やがて彼は、必死に荒れ狂うその最中、不意に目の前に何かが現れた事に気がついて、血走っていたであろう両の目を、恐ろしい形相と共にそれに向ける。
――そこには、先程彼が転落するまで、ずっと後ろに付いて来ていた、ミミロルの姿があった。

彼女の姿と、その顔に浮かんでいる表情を見た、その瞬間――彼は狂ったようにもがき回るのも忘れて、じっと佇んでいるうさぎポケモンのその顔を、唖然として見守った。
……その時のミミロルの顔には、今まで彼には見せた事の無い明確な感情の揺らめきが、はっきりと滲み出ていたのだ。
ホンの短い間、少年とポケモンはお互いの目と目を合わせたままで、まるで凍り付いたかのように、一切の動きを止めていた。

やがて少年の方が、再び込み上げて来た火の様な疼痛に、再び天を仰いだ時――ミミロルは再び表情を元の様に戻すと、静かに彼に背中を向けて、無機質な片足を機械的に動かし、その場から離れていった。
彼女は一度だけ後ろを振り向き、歯を食い縛った少年の苦痛に歪んだ顔をチラリと見やったが、直ぐに前を向き直すと、最後まで何一つ声を発しないままに、雪に覆われた木立の中へと消える。
――彼が何とか波を乗り越えて、もう一度視線を向けた時。 その時は既に、うさぎポケモンの姿は視界の内には無く、雪の上に続いている足跡だけが、その足取りを指し示しているだけであった。

ミミロルが目の前から姿を消して、もう一度独り取り残された時――彼は不意にある種の安堵に似た感情を覚えて、そのまま起した体を雪の上に横たえて、大きく一つ、溜息を吐いた。
これで取りあえずは、当初の目的は果たした――  ……そんな場違いとも言える感慨が、何とも奇妙なタイミングで、彼の心を満たす。

目的地だった林の入り口までは、もう残り僅かな距離であった。 ……後は、如何に片足が不自由な彼女と言えども、他のポケモンに襲われたりしなければ、無事に目的地まで辿り着ける事だろう。
そう思うと、何故か襲って来ている現実が非常に希薄なものとなり、彼は一先ず体を休めようと、肩に斜めにかけている布袋の中から、ビーダルの毛皮を表側に張った、一枚の雨避け布を取り出した。
……兎に角、酷く疲れていた。 雨除け布を保温を目的として体にかけると、彼は背負った弓矢と、手から離れて飛んでいる山刀の位置を確認してから、大きく一度深呼吸して、目を閉じた――
 
 
 
 
一通り、回想が終わった所で――少年は、何故自分がこれほど冷静でいられるのかが、何と無く理解出来ていた。
……どうやら自分は、今の所は生に執着するほどの未練と言うものを、持ち合わせてはいなかったらしい。
それを理解した時、彼は改めて自らの無責任さに、はっきりとした自嘲の笑みを浮かべた。


彼は何時も、心のどこかで孤独を感じていた。  

周囲の同級生達からは言うに及ばず、山に住んでいるポケモン達に対しても、自らが祖父とは違って、そこに完全に溶け込めてはいないと言う感触を、常に持っていた。
……自分が感じているその感触は、丁度二つの世界の狭間で苦悶している、彼自身の立場の投影であった。
彼は『今』と言う時代に生きているにも拘らず、参加しているコミュニティの中では異星人も同然であったし、なまじ祖父達とは違って町中での暮らしも経験していたが為に、野に住まうポケモン達の世界にも、完全には溶け込んで行けなかった。

彼はポケモン達を心の底から好いていたが、彼らをボールに入れて行を共にするポケモントレーナーにはならなかったし、またなろうと思った事も無かった。
同様に、山野に伏して狩りを続けながらも、どうしても彼らの中に溶け込んでいると言う実感が持てず、祖父が何時も話してくれるような、野生のポケモン達との一体感も、持てた試しは無かった。
……何時だって彼は、自らが信じて疑わないと思い込んでいるその生き方の中心に、冷たく明確な形を保った、後ろめたさを感じ続けていたから。

それは、いわば『偽善感』とでも言うべきものであった。
彼はこの森の一員として振舞う祖父の傍らで育ちながらも、自らの中に一抹の異物感を、常に抱き続けてきた。
……祖父と同じ様に振舞い、教えられた作法や仕来たりを、きちんと守りながらも――彼はポケモン達との最後の距離を、縮める事が出来なかった。

彼は祖父程には謙虚な姿勢を持ち続ける事は出来なかったし、仕来たりや作法の要所要所で、自らの内に立ち上ってくる疑念や徒労感と、戦わねばならなかった。
祖父が受ける事の無かったその手の教育や豊富な知識が、彼の心の純粋な部分を曇らせ、それは折に触れて疑念や打算と言った形を取って、自己嫌悪の情を煽り立てていく。

一心不乱に自分の信じる所を貫いている心算でも、実の所はただ見当違いの場所にすがり付いて、届かない物を目の前にあると、錯覚しているだけではないのか?  ……自分の行いと信念は、単に自らの内にある穢れた物を覆い隠そうとしている、パフォーマンスに過ぎないのであろうか……?
そう思う事が、特にここ数年の間は、非常に多くなって来ていた。  ……彼がミミロルを自分の手元に置いて、生きて行く為に必要な知識や技術を教え込んだのは、この何処にも持って行きようの無い思いを、整理する為であった。
――もしもあれが祖父であったなら、一思いにミミロルの命を絶って、彼女の魂が無事にもう一度この世に還って来れるようにと、心を込めて送ってやった事であろう。

……だがしかし、彼にはそれが出来なかった。 
そして結局、彼はこの件についても人知れず悩み抜き、また自らが場違いな愚行を演じたのではないかと、ずっと苦しみ続けてきたのだ。


そう――どうやら自分は、そう言った種々のイタチゴッコに、飽きてしまったらしい。
答えの得られない悩みに始終脅かされ、中途半端な立場に日々苦悶して生きていくよりは、一度楽になって穢れを落とし、他者の生の一助として役立った方が、いっそ良いのではないだろうか――?  ……祖父が話してくれた死生観と、自らの知識である自然界の循環機構をつき合わせた結果、彼はそう思ったのだ。

少なくとも今は、抱えていた責務を一つ果たし終えたばかりであり、気持ちに余裕もあった。  ……しかも現実として、死は文字通り身近にまで差し迫った問題であり、寧ろそれを避ける方が、難しい有様である。
――今なら、笑って死んで行けそうな気がした。
自ら生を否定する事は、確かに今まで犠牲となってくれた数々の命に対して、余りにも非礼な事ではあった。  ……しかし彼は同時に、この先も同じ様に犠牲を強いて重ねていく事の方が、よっぽど罪深い事だと思い始めていた。


そこで彼は、取りあえずは成り行きに任せる事にして、傷の痛みに反発する余り足の付け根を思いっきり抓った後、仰向けに寝転んだままの体勢で、道具を入れた袋の中から干し肉を引っ張り出して、口に運んで噛み始めた。
……疼痛が酷くなる度、口の中の食物を力一杯に噛み締めて、それを堪えていく内に――不意に彼は表情を変えると、硬い干し肉を噛むのも中断して、近くに広がる木立の下生えの辺りに目を向け、じっと息を殺す。

するとやがて間も無く、彼の視線の先の茂みが唐突に割れ、余り大きくは無い四足歩行のポケモンが、その姿を現した。
冷たい雪の中、常に知られている姿よりは少し長めの、ふさ付いた冬毛を身に纏ったそのポケモンは、彼と目が合うや否や、白地に水色のストライプをあしらったその体をびくりと硬直させて、やや怯えた目付きで、少年の方をじっと見つめる。

「心配するな。  ……何もしやしないよ」

そう彼が声を掛けると、そのパチリスは口振りと声の調子から、危険は無いと判断したのだろう。 尚も警戒しながらも、茂みの中からゆっくりと全身を抜き出して、彼に向かって数歩だけ、近付いてきた。
……しかしその動きは、彼の背中に見える弓矢と、彼の足に染み付いた生々しい血痕を目にした途端に、またもや雷にでも打たれたかのように、ピタリと止まる。  ……どうやら風上から現れた為に、彼がどういう状態でそこに転がっているのかについて、まだ理解出来ていないようだった。
そんなパチリスの懸念に答えてやる為、少年はゆっくりと矢だけに手をかけ、引き抜いた三本のそれを脇に投げ出すと、両手を電気リスポケモンの目にはっきりと見える場所に置いて、苦笑交じりに口を開く。

「これでいいか?  ……まぁ、見ての通りの有様でな。 動こうにも動けないから、お前を撃とうとする理由だって無いのさ」

語り終えると目を瞑り、微かに顔を俯け、彼はゆっくりと首を振って、自らの情け無い様を、自嘲気味に鼻で笑って見せる。
……しかし、直後に唐突に襲って来た痛みの波が、そんな彼の余裕を木っ端微塵に打ち砕くと、束の間の苦悶と呻き声とを、暮れかかった雪の原に晒させた。

やがて痛みの波が引き、荒い息を吐いた彼が視線を戻すと、件のパチリスはまだその場所にじっとしており、心なしか哀れげな目付きで、少年の方をじっと見つめている。
そんな相手に対し、彼は強いて穏やかに苦笑して見せると、ふと思いついたように道具入れに手を入れて、中から幾つかの萎びた塊を、その手の内に掴み取った。
苦痛を無視して、ほぼ痩せ我慢と意地だけで上半身を起し終えると、戸惑っているパチリスに向けて、手の内のそれをゆっくりと差し出す。

「食べてみな? 結構いけるぞ」

そう口にすると、自らもまた手の内にあるそれを一つ頬張り、片手の肘で半身を支えたまま、ゆっくりと咀嚼してみせる。  ……口の中に優しい甘みを運んできたそれは、オボンの実を甘い蜜で煮込んで作った、彼ら狩人が重宝して使っている、携帯菓子である。

恐る恐る寄って来て、それを受け取って齧ってみたそのパチリスにも、この伝統的な保存食は、好ましい味がしたのであろう。 
目に見えて緊張が解れたらしい電気リスは、やがて彼の直ぐ傍まで近寄ってくると、枯れ木に貫かれた彼の右足を一頻り眺めた後、小さな顔を彼の方へと真っ直ぐに向けて、痛々しげな表情を浮かべた。
そんな相手に対して、彼は尚も笑いかけて見せた後、もう直ぐ日が暮れるから、早く帰った方がいいと言い添える。
……一方のパチリスは、「お前はどうするんだ」と言わんばかりの表情で、不安そうに顔を曇らせていたが――やがて彼の再三の勧めに諦めたように、もと来た茂みに向けてくるりと向き直り、二三度振り返りつつも、黄昏時を前にした林の奥へと去っていった。

パチリスの背中を見送った後、彼は改めて干し肉を引っ張り出すと、再びそれを齧りながら、時折襲ってくるズキズキと脈打つ痛苦を紛らわしつつ、時が過ぎるのを待ち始めた。
既に空模様は、はっきりと天候が崩れる事を示唆しており、黄昏時を迎えた空は急速に光を失って、夜の帳を張り巡らせ始める。


そして更に、夜の闇が近付いた頃――今度は大きな羽音が頭上に響いて、ウトウトしていた彼の冷え切った意識を、現実の世界に引っ張り戻した。

すると同時に、頭上を通過しかかっていた羽音の主が、急に向かっていた方角を転換して、やがて彼の直ぐ近くの雪の上に、騒がしい音を立てて着地する。
……闇が迫る白い大地に降り立ったそれは、真っ黒い体色に白い胸元の鮮やかな、立派な体格の鳥ポケモンだった。
相手の姿を確認できた時、彼は今度ばかりは、背筋に冷たいものが走ると同時に、素早く上半身を持ち上げ、身構えた。  ……目の前に翼を畳んで佇んでいるポケモンは、この森でも生息数はそう多くは無い大ボスポケモン―ヤミカラスの進化系である、ドンカラスである。

少年は確かに、現在観念に近い感情を抱いて、訪れる運命がどの様なものであれ、受け入れる心算であったのだが……その大烏の姿を目にした途端に、そんな殊勝な大悟の情などは、文字通り跡形も無く吹き飛んでしまっていた。
――ドンカラスは好戦的な種族であると同時に、その一声で数え切れないほどのヤミカラスを呼び集める事が出来る、深夜の森の支配者である。 ……しかも彼らは雑食性であると同時に、相手が弱っていたり抵抗出来ない場合、腹の空き具合によっては、そのまま数に任せて『料理』する事さえある。

流石に幾ら少年でも、生きたまま無数の烏共に突き殺されて喰われる様な最後は、断じて願い下げであった。
そこで彼は、油断無く抵抗出来るよう頭の中にイメージを描きつつ、目の前で黙って彼を見つめている鳥ポケモンに向け、静かな口調で切り出した。

「……もし腹が減ってるんなら、もう少し待って貰いたい。  ……どうせ俺は、明日の朝まで持たないだろうから……それまでは、何とかこれだけで我慢しておいて欲しい」

そう口にすると、彼は道具の袋から干し肉をありったけ取り出して、目の前の大烏に対して差し出した。  ……更に、他にも仕舞い込んでいた食べられる物は、全て洗いざらい引っ張り出して、相手に向けて示した後に、手を目一杯に伸ばした先に並べていく。

「これで全部だ。  ……もしこれで満足出来ないと言うのなら、もうこっちとしてもどうにもなら無いよ」

全く身じろぎもしない相手に対し、彼は静かにそう締めくくると、いざと言う時に備えて背中の弓を構える心積もりをしておきながら、黙りこくっている相手の瞳を、正面から見返した。

……するとドンカラスは、彼が自分を真っ直ぐに見据えたと見るや、ゆっくりと雪の上に足跡を残しつつ、翼を使わず足だけで重い体を運んで、彼の方に向け歩み寄ってきた。
今までそんな動きを見た事が無かった少年が、呆気に取られて眺めている内――ドンカラスは無事に彼の隣まで辿り着くと、足元に散らばる干し肉を嘴で拾い、それを少年の手の内に、そっと落とす。

思わず言葉を失って、相手の両の目を覗き込んだ彼は、目の前の大烏の瞳の中に、敵意が無い事を見て取った。
更に、その鋭い大ボスポケモンの双眸に、ある種の予想もしていなかった輝きを、彼が見出したその時――不意にドンカラスは片翼を高く差し上げると、闇の中へと良く響く声で、力強く啼いた。

少しの間は、何事も無かった。
……しかし、やがて夥しい羽音があらゆる方向から立ち上って来ると、更にホンの数分の後には、その辺りは呼び出されたヤミカラスの群れで、一杯になってしまった。
集まってきた烏達は、整然とそこ等中に羽を休めると、逐次呼び出した大烏の指示に従って、倒れ込んでいる少年の体を覆うようにして、翼を広げて蹲ってゆく。

彼らが何をしようとしているのかを理解した少年が、傍らに位置しているドンカラスの姿を、信じられない思いで見つめ直した時――大烏が横を向いた拍子に、首の横にある古い傷跡が、唐突に目に飛び込んできた。
それを目にした瞬間、彼の脳裏に古い記憶が、まるで昨夜の出来事の様に、鮮明に浮かび上がってきた。


……もう、4年も前の事であろうか? 

彼はその時、久方振りで手に入った獲物を解体し終えて荷造りし、祖父の狩小屋に向けて、家路を辿っていた最中であった。
肩に食い込む荷物の重みを堪えつつ、帰心矢の如しの言葉のままに山を下っていたまだ幼い彼は、その途上で、一匹のヤミカラスと出会った。
――力無く岩陰に翼を休め、彼が近寄っても逃げる気配も無い暗闇ポケモンの首筋には、恐らく同族と争った際に付いたものだと思われる、深い傷があった。

既に諦めきったような表情で、黙って彼を見つめていたヤミカラスに対し、彼は持っていた干し果実を与えると共に、ありあわせの道具で出来る限りの手当てを施し、背負っていたその日の収穫を、そっくりそのまま、暗闇ポケモンに向けて差し出したのだ。

……それは別に、特別な事ではなかった。 同じ森に住んでいる者同士として当たり前の気遣いを、彼は行っていたに過ぎない。
背負っていた戦利品に関しても、まだ幼い彼は全て背負い切れた訳ではなかったので、下ろした側からもう一度現場に戻って、取り置いて来た分を背負い直せば良かった。

彼がもう一度山道を登り直し、再びしこたま荷物を背負ってそこを通る頃には、もう既に件のヤミカラスは姿を消しており、数枚の濡れ羽色の羽根と、食べ切れなかったのであろう幾つかの肉の塊が、置き忘れたように転がっているきりだった。


「お前、あの時の……」

そう口にした少年に向け、ドンカラスはくるりと向きを変えて彼の方を見やると、その鋭い目付きを僅かに和らげて、確かに束の間の間、微笑んだかのように見えた。
……しかしすぐに、大ボスポケモンは別の方向を向き直し、先程の揺らめきがまるで目の錯覚であったかのように、再び翼と啼き声を駆使し、尚も集まってくるヤミカラス達に指図をするばかりで、再び彼の方を振り返ろうとする事は、もう無かった。

そして更に、それから直ぐ――不意に群れの端の方に位置していたヤミカラス達が、何かに驚いたように騒ぎ立て始め、次いでそちらの方で、ざわざわと多くのポケモンが動き回るような気配が、漆黒の翼に包まれた少年に、伝わってくる。
何事かと顔を動かした彼の目に、群れ集っている烏達の隙間から、幾匹かの電気リス達が円陣を作るようにして、集まっている暗闇ポケモン達に相対している姿が、飛び込んできた。

それを見た彼は、思わず声を上げると共に、群れに対して指示を出そうとしていたドンカラスに向けて、攻撃を差し止めて貰えるように訴える。
一瞬此方を向いた後、改めて向き直った大烏が一声啼くと、ヤミカラス達は一斉に左右に分かれ、その合間を通ってパチリス達が、彼の方へと集まってきた。
……彼の隣にずらりと並んだリス達は、手に手にオボンの実やオレンの実などの様々な木の実を持っており、彼の周りにそれを置いては、その大きな尻尾を彼の体に乗せ掛けて、烏達の間に場所を見つけて、蹲っていく。

ドンカラスが最後にもう一度啼くと、分かれていたヤミカラス達は再び一塊になり、パチリス達ごと少年の周りを覆い尽くして、崖際の雪の原を、漆黒の翼で一杯にした。


ゆっくりと降り始めた雪片が、群れ集まる烏達の濡れ羽色の翼を、白い綿毛の様に覆っていく中――少年の瞳は何時しか、込み上げて来た思いで一杯になっていた。

瞬きする度に零れ落ちる、熱い雫の感触を自覚しつつ、彼は今まで自分が感じてきたものが、単なる妄念であった事を噛み締めていた。
――そう……別に彼は、異端な存在では無かったのだ。

彼が勝手に独り、そう思っていただけで――彼の周囲に息づいていた者達は、時折この森で命を交錯をさせる一人の少年を、疾うに受け入れてくれていた。



……自分達に最も近い位置に住んでいる、一人の『隣人』として――
 
 
 
 
 
 
 
 
 
月並みなやり取りと共に家を出てから、早二月が過ぎようとしていた。


道端で手持ちのポケモン達と昼食を取りつつ、少年は時折空を見上げながら、次は一体何処に向けて歩こうかと、雲行きを見定めつつ思案する。

……彼の隣では、ポッタイシが木の実を持ち逃げしたパチリス目掛けて猛進しており、それを眠そうな目で見つめているイーブイの背中で、こちらは楽しそうな表情を浮かべたチルットが、走り回る二匹のポケモン達に向け、盛んに美しい啼き声で声援を送っている。  
少し離れた場所では、世話好きのビーダルがまめな手つきで、仲間達が使い終わった自然の食器類を、せっせと穴を掘って埋めていた。

抜けるような青空に、天候変化の兆しが無いことを確信した少年は、ふと何かを思い出したように、自分の右足の太腿の辺りに手を触れて、次いで遠く離れた故郷の方を、眩しそうに振り返る。
……既に13になっていた彼には、同年輩の友人達に比べたら、些か遅すぎた出発ではあったが――それでも今はまだ、出て来たばかりの故郷を思う気持ちが、折に触れて自然な形で、炙り絵の様に滲み出てくるものだった。
 
 
 
 
――あの雪の降る夜から、既に二年。

あの後、彼はそのまま深い眠りに落ち、翌日の朝になってから、漸く目を覚ましたものの――既に周囲には誰一人として残って居らず、ただ幾つかの痕跡が、溶けかけて形を崩した雪の上に、置き忘れられているきりだった。
狐に抓まれた様になっていた彼は、それから直ぐに迎えに来た祖父によって応急処置を受け、何があったのかを察した老人から、事の次第を告げられる。


……何でも昨日の夜遅く、彼と共に出て行った筈のミミロルがものすごい剣幕で狩小屋の戸を叩き、呆気に取られている老人達を尻目に、その節くれだった手を自ら掴んで、まるで何処かへ引っ張り出そうとするかのように、闇の中へと誘ったのだと言う――
急いで支度をして、雪の降る中出発した老人に対し、彼女はまるでその歩みの遅さが苛立たしいとでも言うかのように、進んでは待ち、待っては進みを繰り返して、全く落ち着こうとはしなかったらしい。

そして、漸く明け方―何時しか降りしきっていた雪も止み、行く手の東の空が澄み切って、赤く燃え立ち始めた頃――ミミロルは急にスピードを上げて、老人の視界内から消え失せてしまい、足跡を追って進む老人の遥か前方で、夥しい数の黒い翼が、まるでその役目を終えた花弁か何かの様に、空に向けて散っていくのが見えたのだとか。


祖父の言葉を聞きながら、少年は改めて周りを見渡して、彼らが残していった痕跡―あの幻のようだった一夜の出来事が、夢ではなかったと証明するもの―を、夢から覚めたような目付きで、静かに瞼に焼き付けた。

……そこには、様々な物が残っていた。
例えそこに、一匹のポケモンの姿も残っていなくとも、彼らが残していった痕跡は、此処かしこに散らばっていた。  

無数の濡れ羽色の羽根に、様々な種類の、食べ切れなかった木の実。  ……昨日彼が道具袋から取り出した食料は、ただ干し果実の蜂蜜煮だけが、まるで夢を見させて貰った代償ででもあるかのように、そっくり消えてなくなっている。

そして更に、何よりはっきりと残っているのは、そこ等中至る所に記された、種類も大きさも様々な、無数の足跡だった。  ……それらは互いに重なり合い、もみ合いもたれ合って、まるで全体が一つの絵画であるかの様に、白く穢れの無い雪の大地に、揺ぎ無い存在感を示していた。

昇りつつある旭日に照らされるそれらの痕跡は、小さな個々の印しを数える事がまるで無意味な事ででもあるかのように、孤独から解放された少年の眼前一面に、物言わぬまま広がっている。  ……それは同時に、様々な命が互いに隣り合い、共に寄り集まって暮らしている、この小さな山の縮図でもあった。 
――小さくとも掛け替えの無い、彼のもう一つの故郷。  ……その内懐へと続いている一塊の足跡達は、帰って行くに従って徐々に分かれ、再び個々の存在へと立ち返って、それぞれの日常に戻るべく、林の奥へと散っていった――
 
 
  
 
昼食を終えた少年の一行は、彼が手早く荷物を纏めるとそれぞれの居場所に戻り、再び前に向けて進み出した。
……歩き続けながら少年は、あの時最後にチラリと見た、うさぎポケモンの小さな茶色い背中を、湧き上がる郷愁にも浸りながら、懐かしく思い出す。


あの時、祖父に背負われて家路に着いた道すがら、雪の上に残された彼女の足跡を辿りつつ、彼はいつか再び両者が見える日が来る事を願いながら、黙したままで淡々と、彼女との思い出に心を馳せていた。

――新たに雪の降り積もった山道からは、彼が行きの際付けて来た足跡は、勿論の事……後について来ていた彼女の足跡もまた、跡形も無く消え失せていた。  ……そこに残っているのはただ、倒れた彼の居場所を教える為に、ここまで不自由な足を懸命に伸ばし、助けを呼んで来てくれた際に残された、一筋の痕跡のみ。 

それを見つめている内に、不覚にもまた少年は、こみ上げて来たものに耐え切れないまま、老人の逞しい背に、静かに自分の顔を埋める。 上気しているその体を、ひんやり冷たく感じたのは、熱が出てきているのだろうか。  
……彼の脳裏には、彼らが初めて出会った時の光景と、こんな別れ方をしなければならなかった事への、やり切れない思いが渦巻いていた。


一体どうすれば、次に出会った時――彼らは互いに余計な障壁を抱く事無しに、歩み寄る事が出来るのだろうか?  ……そう思った時、唐突に彼の脳裏に、今まで考えようとはしなかった生き方が、もう一度明確な形を伴って、浮かび上がって来た。

ポケモンと共に歩む事それ自体を、己が天職と心得る生き方。
……今年の初め、機会があったにも拘らず見向きもせずに、次々と旅立っていく仲間達を見送った彼。 その彼が改めてその世界に身を投じ、住み慣れた故郷を離れてみる気になったのは、その瞬間であった。
 
 
 
――時は全てを押し流すが、それは何時も悪い事とは限らない。 
彼女も何時かは母親となり、凍える我が子を優しく包み込んで、共に夜空を仰ぐのだろう――

……そしてその時彼は、果たしてどうしているのだろうか――?
 
 
取り止めの無い思いを振り払うと、少年は改めて前を見据えて、空に浮かぶ見えない標識を見定め、意識して胸を張り、足取りを速めた。
……彼女や、その他の多くの隣人達に与えて貰った、もう暫くの猶予――今はそれを、少しでも有効に使うことこそが、彼の全てだったから。


今も昔も、彼は独りでは無い――それだけで、彼には十分であった。




参考書籍:『熊を殺すと雨が降る』
       『アイヌの昔話』
――――――――――


御題:【足跡】

足跡三部作が一にして、『竜の舞』の姉妹版です。

……何かツイッターの台詞が暴走していた、ミカルゲ鈴木氏に捧ぐ―― (笑  爆)


  [No.449] His Story  〜 あるアウトローの足跡 〜 投稿者:クーウィ   投稿日:2011/05/16(Mon) 19:30:20   142clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



最初の切っ掛けは、実に些細な出来事だった。

偶々すれ違った高校生達の、低劣な悪ふざけ。 自転車に乗って通勤ダッシュの真っ最中だった僕は、道一杯に広がって三列横隊で向かってくる学生達と上手くすれ違えず、道端に止めてあった自転車の列に、思いっきり突っ込んだ。
ワザワザ相手の動きに合わせて隙間を狭め、道端に突っ込むように仕向けた彼らの笑い声を聞きながら、僕は急いで自転車を起し、振り向いて悪態を吐く暇も惜しんで、再びペダルを踏み込み、先を急ぐ。 ……やっと職場に着いたのは、ぎりぎりアウトの午後3時1分の事だった。

次の日、もう一度似たような事が起こった。

前日と同じ様な隊列を組んで、殊更にニヤニヤ笑いを浮かべつつ、堂々と向かってくる学生の群れ。 ……しかし今度は、結果が少し違っていた。
その日は、僕は一度進路を変えたのみで、ワザとにそれ以上は避けようとせず、へらへらと進路を塞ぐ相手に向けて、体を硬くして突っ込んで行った。 
激突直前、勝手が違った事に対し、目に見えて狼狽した学生は、結局対応し切れずに僕の自転車と正面から激突して、その場で仲間達も巻き込み、激しく転倒する。 ……僕自身もバランスを崩しはしたものの、予め心の準備が出来ていたのは大きく、ふら付きながらも体勢を立て直し、そのまま職場に向けて、一直線に走り抜けた。
――その日は遅刻する事も無く、無事に時間内に勤務について、終日何事も無いまま、一日が過ぎた。


ところが、その次の日の事―― 

何時も通りの時間に目を覚まし、朝食を済ませたばかりの僕のもとに、一人の警官が訪ねてきたのだ。 ……何でも、昨日僕と激突して将棋倒しになった学生達の内一人が、転倒した拍子に仲間の自転車によって足を挟まれ、骨にひびが入ったのだと言う。
少年の家族からの通報により、『轢き逃げ』の容疑をかけられた僕は、自業自得の結果だと言う訴えも聞いて貰えないままに、任意同行という形で、近くの警察署へと引っ張っていかれた。

その後に展開された一連のやり取りは、今でも思い返す度に、腸が煮えくり返るようなものであった。
少年達の走路妨害と交通法規違反を主張した僕に対し、学生達は口裏を合わせて反論。 ……世間体を気にする親や、同じく問題の存在を認めようとしない担当教員の介添えもあって、僕は目出度く応酬に負け、『慰謝料』と言う名目で、治療費と自転車の修理代を、全額負担する破目になったのだ。

――それからずっと経った後に、その少年グループが集団で万引きを行って、補導された時。 その時になって初めて、関係した警官や一部の親達が、改めて僕に対して、コンタクトを取ろうと試みたらしいが……その時は既に、僕は勤めていた事業所を首になっており、慎ましく暮らしていた住まいも、引き払った後であった。



納得の行かない示談に踏み切らされた上、事件を重く見た会社に首を切られる事となった僕は、荒れに荒れた。 ……それまでずっと、俗に言うワーキング・プアの立場に甘んじつつも、真面目に陰日向も無く生きて来た僕は、突然自分を切り捨てる事になった世間と言うものに対して、激しい憎悪の念を抱かずには居られなかった。

コツコツと溜めていた貯金を、ただ切り崩し続けるだけの毎日に耐えられず――安アパートを引き払った僕は、そのまま場末のドヤ街に一部屋を借りて、毎日盛り場をぶらついて過ごすようになった。

元々ろくに無かった貯えは、憂さ晴らしに通っていた競馬や賭場での散財で、直ぐに底をついた。 
それを埋め合わせる為に、偶々賭場で知り合った連中の、小間使いのような真似をしている内――やがて僕は、何時の間にかそう言った連中が荷物を送る際に使われる、いわゆる『運び屋』として、重宝がられるようになって行く。 
今までの人生の大半を、真っ当なカタギとして過ごしてきた僕には、何かを届ける際にも特に注意を払われるような要素は無く、例え刑事の隣を通過しようとも、呼び止められるような事が無かったからだ。

――ただ、やはり事が事だけに、身の安全を確保する手段にだけは、どうしても無関心ではいられなかった。 ……丁度その頃、偶然拾ったモンスターボールで、迷い込んで来た盲目の蝙蝠を捕獲したのは、そう言う背景があった。


そしてやがて、再び転機が訪れた。

その日、頼まれていたブツを受け取りに行った僕は、折悪しく依頼主の事務所に於いて、手入れ騒動に巻き込まれてしまったのだ。
突然表通りが騒然となり、大勢の足音が入り乱れて、建物の中へと雪崩れ込んで来た時――僕は偶々同席していた、依頼主の兄貴分と一緒になって狭い階段を駆け下り、追いすがってくるガーディの群れを引き離そうと、狭い路地裏を縦横に逃げ走った。 
――その際、僕はずっと持ち歩いていたズバットを夜空に向けて解き放つと、しつこく追いかけて来ていた赤い犬の集団に向けて『超音波』を放たせ、これを同士討ちに追い込んだ。 
それで何とか僕は、一緒に逃げていた連中共々無事に追跡を振り切って、安全な包囲網の外へと逃げ延びる事に成功する。

それから数日の後、僕は再び依頼人だった男に、「直ぐに来るように」と呼び出された。 ……ただし、今回は何時もの辛気臭い事務所ではなく、今まで入ろうとした事も無い立派なクラブに、昼日中での招待でだった。
そこでは、あの夜一緒に逃げ延びた兄貴分が、数人の男達と共に上機嫌でグラスを傾けており、落ち着かない気分で席に着いた僕に対し、是非とも友人に紹介したいと、声をかけてくる。 ……友人だと紹介された黒ずくめの男は、最初に僕に対してポケモンを扱う手並みの程を訊ねて来た後、「良いアルバイト先があるんだ」と口にして、その場で僕の身の上を、依頼主だった男から譲り受けた。

その日から、僕は『ロケット団』と言う名称のマフィアグループに、構成員の一人として、名を連ねる事となった。
 

 
ロケット団員としての務めは、それほど難しいものではなかった。 

計画や指示内容は、全て上級幹部が作成する為、下っ端である僕らは、『任務』と言う形で時たま下りて来る命令をこなしつつ、普段はダラダラと支部のある町の中をほっつき歩いたり、団員同士で腕比べをしていたりすれば、良かったからだ。 ……その任務と言うヤツも、大抵の場合は出世意欲に燃えた連中や、場馴れした古参の団員が率先してこなそうとする為、気の向かぬ荒事を無理にやらずとも済むと言うのであらば、尚更の事である。
特に目立った活躍も残さず、与えられた任務をこなすばかりで、息抜きの時も万事控えめな僕を、周囲の同僚達は半分馬鹿にしつつも、何だかんだで重宝していた。
昔取った杵柄とはよく言ったもので、書類の始末や雑用と言った事柄をテキパキと進められる僕は、上級幹部から面倒な役柄の人員を求められた時、人身御供として差し出すのに、相応しい存在であったからだ。 ……そしてその面倒事の中には、幹部達が自分達のポケモンを鍛える為に行う、練習試合の稽古相手という役目も、含まれていた。

二匹目のポケモンが加わったのは、そんな日々の事であった。

その日僕は、既に度重なる練習台としての経験から、ゴルバットに進化していた相棒と共に、幹部の一人である『ラムダ』と言う男の特訓に、付き合っていた。 ……組織の頂点に立つボス、サカキの側近の一人である彼は、様々な部署に影響力を持っており、常日頃から練習相手(生贄とも言う)として派遣されて来る僕に興味を持ったらしく、「もう少し歯応えのある練習相手になって貰う為」と言う名目で、研究部門から一匹のポケモンを取り寄せて、疲れ果てて荒い息を吐いていた僕に対し、ボールごとポンと投げ渡した。
呆気に取られたままで受け取った後、言われるままに開閉スイッチを操作して、フィールドに向けて投げ込んだモンスターボールの中から出て来たのは、茶色い体毛に身を包んだ、小さな獣のポケモンであった。
見た事も無いポケモンに、目を白黒させている僕を見て、満足げな表情を浮かべた彼は、そのポケモンがイーブイと言う種族であると言う事と、さまざまな姿に進化する可能性を秘めている事。 ……そして更に、そいつがその特異な体質を利用して、自在に進化・退化を行えるように仕向けた、生体実験の被験体である事などを、矢継ぎ早に告げる。 

「その個体は実験の結果、反って進化の石による刺激を受け付けなくなってしまった失敗作であり、これ以上金をつぎ込む価値が無くなった」――そう締め括った幹部の男は、これでは闇で流す訳にも行かないからなと苦笑して、言葉も無くポケモンを見つめている僕をその場に残し、お供に連れているヤミカラスを従えて、悠々とその場を去っていった。
――既に薄暗くなり始めたフィールドの真ん中で、冷たい目付きで振り返ったまま自分を見つめるイーブイのその表情は、その後暫くの間、毎晩の様に夢に出て来る事となる。


それから、数週間後――

僕達下っ端構成員は、ほぼ全員がヤマブキシティに集められ、それぞれグループごとに分散配置させられて、作戦開始の合図が下るのを、緊張した面持ちで待ち受けていた。
やがて通信機から指示が飛ぶと共に、僕らは勇躍して目標に殺到し、あっという間に目的の大型ビルディングを、制圧し終える。 ……内部に潜ませていた『細胞』達と連携しつつ、抵抗を試みた警備員達を数と質の両面で圧倒し、怯える社員達を一箇所に押し込めたところで、僕らの作戦は無事に終結した。

警備員の繰り出してきたゴーリキーを、ゴルバットの『エアカッター』で一蹴した僕は、その後仮眠室で「ポナヤツングスカの恨み」とか何とか喚いていた協力者の男を、汗を掻きつつ何とか宥め終え、当初の予定通り担当区域であった、9階フロアの警戒に移る。

――これが世に言う、『シルフカンパニー本社ビル占拠事件』の、幕開けであった。


警戒に当たっている最中は、比較的暇だった。 
物資は十分過ぎるほどに用意されていたし、人員にも不足は無い。 ヒーリングマシーンから仮眠室まで全て揃ったビル内は、設備の面ではほぼ完璧に近く、例え激しい模擬戦をやらかしたとしても、後始末には全く困らなかっただろう。 
一般社員達は大人しく怯えており、警備員達は傷を負った手持ちポケモンの容態に掛かり切りで、僕らに反抗してくるような不穏分子は、何一つとして存在していない。 ……ただ、会社の重役達だけは、組織の要求になかなか屈しようとはせず、その為ボスと経営首脳達との協議は、ただ只管に長引いていた。

退屈な日々を紛らわす為、僕らは当直や戦闘訓練の合間を縫って、内部の協力者達に案内してもらいつつ、社内をくまなく見て回った。 
様々なブースに並べられている試作品や、市販の傷薬などの必需品の数々はどれも興味深く、ある研究区画には、大型の水ポケモンを飼っていたと言う、巨大な水槽まであった。 ……案内してくれた研究員の男は、相変わらずロシアの奥地に飛ばされた時の恨み言を述べるのに忙しかった為、僕らはそれらの珍物を勝手気ままに見て回りながら、時折その辺にあるものをこっそりポケットに入れたりして、変化の無い毎日への、積もった憂さを晴らしていた。
――僕自身も、保管されていた幾つかの傷薬を失敬すると、その内幾つかを、手持ちの容態が悪化して苦悩している警備員達に、こっそりと流してやった。 ……連中のポケモンが暴れだしたりするのは困りものだったが、流石にそのまま死なれてしまっては、此方も後味が悪かったからだ。


そうして更に、一週間が過ぎようとしていた時―― 不意に、破局が訪れた。

突如下った警戒指令と、次々と突破されていく、各階層の団員達。 ……やがて僕の前にも、圧倒的な力を持った侵入者は、その姿を現した。
目の前に現れたのは、赤い帽子を被った、たった一人の少年。 此方の姿を確認した途端、即座に戦闘態勢に入った相手に対し、僕自身もほぼ反射的に、装備しているモンスターボールを手にとって、応戦の構えを示す。
 
結論から言えば、僕達は一蹴された。 
少年の繰り出したフシギバナに対し、僕がぶつけたポケモン達は、何の有効打も与えられないまま、一方的に敗れ去ったのだ。
最初に繰り出したイーブイは、低レベルながらも出来る限りの事をやってくれたし、切り札だったゴルバットも、圧倒的に有利なタイプ相性に物を言わせて、幾度か相手に技を見舞った。 ……しかし、対する少年側は一言も言葉を発しないままであったにも拘らず、絶妙なコンビネーションで此方の攻め手を受け流し、食い下がろうとする僕らを退ける。
『電光石火』で挑みかかったイーブイは、呆気なく『蔓の鞭』に捕まって叩き伏せられ、『怪しい光』と『エアカッター』で相手を翻弄しようとしたゴルバットも、粉で動きを鈍らされたところに『捨て身タックル』を受け、壁面にぶつかって墜落する。

倒れたポケモン達に向けて思わず走り寄り、立ち上がろうとするイーブイを背中に庇った僕に対し、彼はやや驚いた表情を浮かべて、相棒の種ポケモン共々、改めて此方の顔を覗き込んで来る。 
その静かな視線を受け止めている内、不意に僕の心の中に、熱湯のような感情の奔流が、前触れも無く逆巻き始めた。 

「お前ぐらいの歳から……!」

突き上げてきた強い衝動に抗い切れず、僕はそのまま相手に向けて、自らの立場も弁えず、おらび立てていた。
言葉を用いずとも心を通わせ、ただ信じる道を一心に進み続ける目の前のコンビに対し、僕は羨望と嫉妬も露わに、語気を強めてがなり続ける。 ……そうでもしなければ、その陰に埋もれたもう一つの思いを、覆い隠す事が出来そうにも無かったから。

「お前ぐらいの歳からポケモンを始めていれば  俺も――」  そう口にする僕を見詰める彼の目は、あくまで静かに澄んでいて……そして何処と無く、哀しげな光が宿っていたような気がした。

やがて、更なる増援がやってくる気配がした時、唐突に呪縛は解かれた。 少年はハッと我に帰ると、一挙動でフシギバナをボールに戻し、去り際にもう一度僕らに一瞥をくれてから、最後まで無言のままに駆け去って行く。
その背中を為す術も無く見送ったところで、数人の団員が仮眠室を突っ切って現場に到着し、侵入者の行き先を僕に質問するや否や、勢いもそのままに追跡を開始する。 
一人残された僕は、そこで漸くちょろまかして来た傷薬と元気の欠片で、手持ちの連中を回復させる機会を得た。

再度戦列に復帰した僕達だったが、結局それ以上の戦闘は不要だった。 
回復を終えた二匹をボールに戻して、もう一度侵入者を捉えようと立ち上がった丁度その時、携行している通信機を通して、ボスも含めた幹部連中の全滅と、それに伴う本社ビルの陥落が伝えられる。 
――『各個に脱出しろ』との命が下されはしたものの、既に侵入者との戦闘で大損害を受けていた僕達には、使用可能なポケモンが殆ど居らず、勢い付いた警備員や突入してきた警官達を振り切って無事に逃げ延びる事が出来た者は、全体の半分にも満たなかった。 ロケット四兄弟を始め、名のある連中の大半が捕らえられて、組織の中核戦力を担ってきた屋台骨は、ここで一気に失われてしまったのだ。
しかし、それでも僕自身は、予め手持ちを回復させる事が出来ていたお陰で、叩き破った窓からゴルバットの足に捉まって、どうやら脱出に成功する。

本社ビルでの作戦が失敗に終わってからは、流石のロケット団も損失の大きさに鳴りを潜め、僕達残存戦力は地に伏したまま、ほとぼりが冷めるのを待っていたのだが――やがて程なくして、ボス自らが潜伏していた隠れ家を放棄、組織の解散を宣言したとの連絡が入るに至り、ここに関東地方でのロケット団の組織的活動は、ピリオドを打たれる事となった。



――――――――――



全国の地下組織でも最大の雄だったロケット団が、ボス・サカキの離脱によって事実上崩壊したその後も、側近として中核を担っていた一部の幹部達は、再び組織を復活させる事を夢見て同志を募り、目減りする一方の構成員達を可能な限り引き止めて、統制の維持に努めていた。
かく言う俺自身も、既に行き場を失っていた事もあり、予てから目を掛けられていた幹部の一人・ラムダの誘いによって、引き続きロケット団復活を目論む残党勢力の一員として、組織に加担する事となる。

再生ロケット団の中心となったのは、旧組織でも重きをなした、四人の幹部。
ボス・サカキの側近中の側近として、各部門の総括や外部勢力との交渉などで代理役を務めたアポロを筆頭に、サカキ本人の秘書官も兼ねていた、紅一点のアテナ。
作戦の実行を担っていた行動隊の若手幹部であるランスに、それに工作活動や作戦の立案に関わっていた、変装の名手でもあるラムダ。 

何れも本名では無くコードネームで知られる彼らは、旧組織で管理していた機材やポケモンを構成員に配布し、戦力の増強を図る事と、再興の拠点を取締りの強化された関東から西の城都地方へと移転させて、活動基盤が整うまでの準備期間を設ける事。 そして、最終目標をボス・サカキの組織復帰に置く事などを、基本方針として決定する。
この決議により、俺は正式にラムダの下に配属されると共に、更に彼の配慮によって、新たに二匹のポケモンを受け取った。 

「最早お前も、立派な古参団員だからな。 ……期待させて貰うぞ?」 

そう口にしつつ、手ずからモンスターボールを渡してくれる彼の口調を真似て、何時も一緒に連れているヤミカラスが、そっくりそのまま同じ台詞を復唱する。 ……後にこれが、予想もしなかった失態を招く事になるのだが――それはまた先の話。
新たにベトベターとスリープを手持ちに加えた俺は、早速新しく配属された部署の同僚達と共に、新天地となる城都地方に向け、星空の下に進発を開始した。 

既に元々の団員の八割以上が、様々な理由から組織を離れており、無事に城都に到着した暁には、また新たに団員を募って、一から訓練し直さなければならない。 ラムダの言うとおり、俺達古参の団員に課せられた責務は、決して軽いものではなかった。


それから三年程は、あっという間に過ぎ去った。 

俺達古参団員達は、来る日も来る日も『ロケット団』の名前に憧れて入団して来た、暴走族上がりのチンピラ共を相手に、組織の一員としての誇りを叩き込む為の猛訓練を繰り返し、文字通り休む暇すら無い有様だったのだ。
ロケット団員としての気風を一通り身につけさせ、どうにか使い物になるまでに漕ぎ着けると、次はそう言った新米共を簡単な任務に送り込んで、実地体験を積ませて行かねばならない。 ……最初からポケモンを扱える奴はまだしも、トレーナーとしての経験がまるで無い奴には、それもまた一から教え込んで行かねばならず、手は幾らあっても足りなかった。 

しかしそれでも、丸三年もそう言った事をひたすら繰り返した結果、どうやら組織としての地力は、そこそこの水準にまで達したようであった。
最初は目立たぬように各地に点在していた組織の構成員達も、やがて丁子や黄金にアジトを構えて、そこを拠点に勢力を拡大するようになっていく。
資金源が開拓されて行くに連れ、組織の活動も徐々に大掛かりなものとなり、黄金では地元の勢力を押さ込んで、地方単位での優位性を確実なものとしたし、丁子では再び研究部門が息を吹き返して、ポケモンを使った生体実験を復活させた。

そしてやっとその頃になって、新人の訓練が一段落した俺達は、此処に来て漸く古参らしい待遇と、本来の役割に合った任務を与えられるようになる。

ずっと同じ幹部の下で働いてきた三人の同僚の内、先ず一人が、元々の役割である工作活動の為に、単身関東地方へと派遣される。 ……奇妙な語り口が特徴のその男は、組織で唯一の外国人であり、海の向こうのイッシュ地方の出身者だった。
次いでもう一人の古参団員は、下っ端の面倒見が良い事を買われて、丁子のアジトに警戒要員の纏め役として、転出される。 ……「ひゃらひゃら」と薄気味悪い笑い声を始終上げている変わり者であったが、外面に反して内の人柄は決して悪くは無く、何故この道に進む事になったのかが、今一つ掴めない奴だった。

そして最後の俺自身は、直属の上司であるラムダの、副官のような地位を与えられる事となった。 ……既に、三年間に及ぶ昼夜を問わない訓練期間を経て、古株の手持ちが最終進化を遂げ終わっていた俺は、何時の間にか古参の団員の中でも一歩抜きん出た実力の持ち主として、広く名を知られるようになっていた。

後にラムダが、『怒りの湖』での作戦の為に丁子のアジトへ工作部門の拠点を移すと、その副官である俺自身も、それに従って日和田での活動を切り上げ、城都北部へと転進する。 
新たに着任した丁子のアジトでは、既に半年前から送り込まれていた同僚の男が、やはりひゃらひゃらと笑いながら部下達の強化鍛錬を進めており、今や遅しと待ち焦がれられていた俺達工作部門の到着を、何時もの掴み所の無い嗤いと共に迎えてくれた。
工作部門の移動が完了した事により、遂に作戦の準備が万端整った丁子アジトは、早速その月の内に、新たなミッションを実行に移す。 『湖に満ち溢れるコイキングを無理矢理進化させてギャラドスに仕立て上げ、周辺地域の不安定化を加速させると共に、新たな戦力と資金源を確立する』――そのミッションの内容は、長年に渡る研究部門の試行錯誤の成果であり、再生ロケット団の力を世の中に示す、最初のデモンストレーションになる筈だった。
 
 
丁子のアジトは、町の真ん中に位置する何の変哲も無い土産物屋の、地下部分を中心に築かれていた。 

アジトの規模は、町の中心のほぼ全域に渡る程の大規模なもので、内部には作戦に必要な全電力を賄える巨大な発電装置まであり、複数の電気ポケモンによる電力生産により、外部からの支援無しに、独力でミッションを遂行する事を可能としていた。
セキュリティも厳重を極め、侵入者に右往左往させられた嘗てのシルフ本社ビルでの戦訓から、各所に監視装置が設置されており、警戒要員の即応体制も万全で、警備網に引っ掛かる者が現れ次第、立ち所に戦力を集中出来る体制が整っていた。 
他にも様々な仕掛けが施され、主要部には暗証ロックが取り入れられており、最も重要な発電管理室には声紋照合システムが採用され、幹部以外の者には、決して開ける事は出来なかった。 ……更にこの部屋には、作戦遂行に関する全ての機能を保管するシステムが設けられており、緊急時でも独立して作戦遂行を継続する事が可能であった。
――しかし、警備の中枢を担う一般団員達の練度だけは、絶頂期の往時に比べて、著しく劣る事は避けられなかった。 それを何とか補う為に、アジトの内部には高レベルの野生ポケモンを一定の拘束の下に放し飼いにし、俺達古参団員は暇さえあれば、新人共を鍛え上げる為の、戦闘訓練に明け暮れる。 ……嘗ては盛り場でとぐろを巻く事を日常としていた者達も、組織の復活と言う輝かしい目標を達成する為、人が変わったような熱心さで、未熟な弟分達の戦力強化に奔走した。
 

ところが――そんな俺達の一丸となった努力も、アジトの陥落とそれに伴う作戦計画の放棄により、敢え無く水泡に帰する。
前回の組織崩壊から、既に約四年。 ……漸く敗亡の痛手から立ち直りつつあった俺達を襲った災厄は、今回も『子供のトレーナー』だった。

不意に鳴り響いた警戒警報に、何故か過去の経験が慨視感(デジャヴ)として蘇った俺は、直ちに野外に設置されていた送信アンテナの警備を中断、肌身離さず持っていた四匹の相棒達と共に、連絡のあった地上口へと急行した。
が、しかし――既にそこは、圧倒的な戦力を誇る侵入者によって、鎧袖一触と言った有様で突破されてしまった後であり、蹴散らされた数人の団員達が、無様な格好で散らばっている切り。 
呆けたようになっている偽の店員役に活を入れ、どうにか敵戦力の情報を聞き出した俺は、そいつに対し壁に叩き付けられて伸びてしまっている、もう一人の団員の手当てをしてやるように命じると、空ろに口を開いているアジト内部へと通じる隠し通路に向けて、飛び込んで行く。

すると入って直ぐの所に、最初の相手が待ち構えていた。 
黒髪を二本に束ね、頭の左右に振り分けているトレーナーと思しき少女が、先に行った仲間達を援護する為に、地上からの増援部隊を迎え撃っている。 ……七人もの団員を相手に互角以上の戦いを繰り広げている彼女の周囲には、何れも十分な鍛錬を積んでいると見える四匹のポケモン達が、見事なチームワークを披露しており、既に手持ちを全滅させられて手も足も出なくなった数人の団員達が、ウィンディに威圧されて小さくなっていた。

駆けつけている間に、また一匹、味方の団員が繰り出していたズバットが、少女のエビワラーに『冷凍パンチ』を叩き込まれて、呆気なく打ち落された。 すかさず次のポケモンを繰り出そうとするその団員を押し退けると、俺は即座にボールを投げてクロバットを解き放ち、有無を言わせぬ不意打ちで、前に突出していたパンチポケモンを、一撃で地に這わせる。 
いきなり敵のアベレージが上がった事により、少女とそのポケモン達の間に動揺が走ったのを見逃さず、俺は続いて二つのボールを場に投げて、一気に相手を畳み掛けた。 
少女を挟むように具現化したスリープとベトベターは、間髪を入れずヘドロと念波でトレーナーを急襲し、それを身を以って庇いに掛かったベイリーフとカラカラを、毒と混乱により無力化する。
『エアスラッシュ』でエビワラーを撃破したクロバットに対し、ウィンディが怒りの咆哮と共に『火炎放射』を吹き出して来たが、その炎の奔流は、場に解き放った最後のボールの中身によって、正面から受け止められた。 ……ボールから飛び出した漆黒の四足獣は、その高い耐久力を持って『火炎放射』を凌ぎ切り、逆に攻撃して来た伝説ポケモンを、『怪しい光』で混乱させる。

それでも少女のポケモン達は、尚も驚くほどの強靭さを持って、圧倒的な戦力を誇る俺達に対し、激しい損耗を強要して来たものの――結局最後には数に押し切られて、手持ちのポケモン尽くを、戦闘不能に追い込まれた。 
何とか無力化させた少女に対し、寄って集って攻めかかったにも拘らず大損害を被った新米団員達が、血相を変えて詰め寄ろうとする中、俺はそんな連中を一喝すると、早急に他の侵入者の後を追わせるべく、その場から怒鳴りつけるようにして追い散らす。
怒声に慌てふためいた下っ端達が、手持ちを回収して一人残らず走り去った事を確認すると、俺は此方を睨みつけてくる相手に背を向けて、先に行かせた連中の後を、走って追いかけ始めた。 ……背後で相手が何か口にするのを完全に無視し、残りの侵入者を探して駆ける俺の周囲で、手持ちの連中は不満の色も見せずに、次の獲物を逸早く捉えようと、精気に溢れた瞳で前方を探る。 

次に視界の内に現れて来たトレーナーは、目付きの鋭い赤い色の髪の少年に、似たような茶色の髪の毛を持った、マリルを従えた少女であった。 ……敵陣の真っ只中であるにも拘らず、口論の真っ最中と見える両者の周囲には、複数の団員達が手持ちと共にノックアウトされており、更にアジト内に放し飼いにされていた野生のイシツブテやビリリダマ等が、目を回して転がっている。
近付いて来る俺達に気がつくと、両者は直ぐに口論を中断し、素早く応戦の構えを取った。 無論此方も、最初から素通りする気は更々無い。
少年が繰り出したポケモンは、ゴースにズバット、それにアリゲイツとコイル。 一方の少女のポケモンは、消耗しているのかマリル一匹のみ。 ……此方のポケモンは四匹で、数の上では若干不利であったものの、先程とは違って質では明らかに勝っており、それ程厄介な相手とは思えなかった。 

しかし――実際に戦ってみると、確かに両者共に最初の相手に比べれば一歩劣りはしたものの、やはり一蹴出来るほど甘い相手などでは決して無く、結局はかなりの消耗戦となった。
少年のポケモンは統制が取れており、互いの連携の緊密さは、先程健闘した少女のそれですら、上回るほどのものであった。 ……しかしその反面、何処か動きに堅苦しさがあり、自在に互いをフォローしあっていた最初のチームと比べれば、突き崩すのは比較的容易でもあった。
それに対して少女のマリルは、単独ながらも主人の指示に的確に反応し、その息の合ったコンビネーションは、何時か目の前に立ちはだかった一人の少年とパートナーとの戦い振りを、彷彿とさせるものであった。 ……ただ惜しむらくは、少女とマリルはその後リーグチャンピオンまで一直線に上り詰めたと言うあの赤い少年に比べると遥かに未熟であり、逆にあの時から長足の進歩を遂げている俺達を迎え撃つには、余りにも非力に過ぎた。

赤い髪の少年はブラッキーを麻痺状態に陥れ、帽子の少女はベトベターを戦闘不能に追いやったが、それが彼らの限界でもあった。 
『電磁波』を仕掛けたコイルは、『シンクロ』によって自らも麻痺を移されて地に落ち、『アクアジェット』で善戦していたマリルも、スリープの『催眠術』に捕まったところで、残っていたアリゲイツ共々クロバットの放った『エアカッター』の餌食となる。
手持ちを全て失った両者は、詰め寄ってくる俺達の隙を突いて『穴抜けの紐』を使い、それ以上の追求が及ぶ前に、素早くアジトから脱出した。 

引き際の鮮やかさに感嘆する暇も無く、俺は急いで携行していた道具で手持ちのポケモン達を回復させ、更なる敵影を求めて、アジトの中枢へと踏み込んでいく。 
……入り口で入手した情報によると、侵入者の総数は五人。 未だ撃破の報告が為されていない事を考えると、まだ後二人のトレーナーが、アジトの中枢付近に食い入っている筈であった。

するとその途上で、俺は偶々発電管理室に向けて急行している、この丁子アジトの最高責任者―現組織のサブリーダーでもある幹部のアテネと、ばったりと鉢合わせした。 
直ぐにその場で現状を報告した俺に対し、アテナは満足そうに頷いた後、残りの侵入者への阻止攻撃に同道するよう、命令を下す。 次いで彼女は、既に侵入者がアジトの主要部を制圧してしまった事と、その際に俺の上司であるラムダが諸共に撃破されてしまった事などを、簡潔に語った。
漸く辿り着いた発電管理室の扉が、ラムダの連れていた例のヤミカラスの声真似であっさりと解放されたのと、侵入者の最後の生き残りが其処に姿を現したのが、ほぼ同時。 ……直後に起こったタッグバトルが、最終的にこのアジトの帰趨を、左右する事となった。

アジトを襲撃してきた連中の最後の一党は、黄色い帽子を被ったこれまでの連中と同じ年頃の少年と、覇気に溢れた鋭い眼差しと近寄り難い威圧感を併せ持つ、ドラゴン使いの青年トレーナーであった。
少年の方と対峙する事になった俺達は、相手の繰り出して来たポケモン達と真っ向からぶつかり合い、広いアジトの廊下を目茶目茶にしながら、火花を散らして凌ぎ合う。

スリープが『念力』でモココの動きを封じると、相手のオオタチは『不意打ち』で応酬し、攻撃に精神を集中していた催眠ポケモンを、ただの一撃でコンクリートの床に沈める。
少年のオニドリルが『乱れ突き』を仕掛ければ、身軽なクロバットは素早く体をかわし、後に続こうとしたポポッコに向け、『翼で打つ』で奇襲をかける。
少年が繰り出した赤い色違いのギャラドスは、同じく高レベルを誇ったマグマラシ共々大いに此方を苦しめたものの、やがてベトベターの『嫌な音』とブラッキーの『怪しい光』によって徐々に消耗して行った挙句、地響きと共に戦闘不能に陥った。
双方共に激しい損耗を重ねながらも、レベルの優位を背景にした俺達は、『月の光』で回復しつつ身を挺して攻撃を受け止めるブラッキーと、倒れ際に相手方のど真ん中で『毒ガス』を噴霧したベトベターの働きにより、何とか相手の攻勢を凌ぎ切って、敵チームを防戦一方に追いやる事に成功する。

ところがそこに至り、後一息と言うところで、突然相方の竜使いが割って入り、消耗し切った少年の手持ちを庇うようにして、男の操るカイリューが、俺達の前に立ちはだかった。 ……この時既に、彼の相手をしていた幹部のアテナは全ての手持ちを撃破されてしまっており、従って側面からの支援や合力は、全く望むべくも無かった。
新たに取って代わったドラゴンポケモンは、幹部の手持ちポケモンを一体で全滅させただけあって、少年の手持ちとはレベルが全く別次元であり、忽ちの内に俺の手元の残存戦力を、粉砕してしまった。 
殆ど無傷を保っていたクロバットは、突如空気を切り裂いて閃いた『雷』によって敢え無く撃墜され、今までずっとあらゆる攻撃に耐え続けて来ていたブラッキーも、流石に『破壊光線』の直撃には耐えられず、コンクリートの壁面を砕くほどに叩き付けられて、為す術も無く崩れ落ちる。

――この結果を目の当たりにしたアテナが、アジトの放棄と撤収を宣言した事により、丁子アジトの拠点としての活動は、完全に停止させられる事となった。



―――――――――――――――



丁子のアジトは壊滅したものの、そこで挙げた数々の功績と戦い振りによって、幹部のアテナと共にスリープの『テレポート』で脱出した俺は、一躍組織の中でも最優秀の使い手の一人として認知されるようになり、次期幹部候補として、名前を上げられる事となった。

「叩き潰した侵入者を捕らえる事が出来ていたら、幹部昇格は間違いなかったのにな」

上司であるラムダもそんな事を口にしては、「惜しい事をしたものだ」と首を振りつつ、ずっと目を掛けてきた俺の立身を、皮肉を交えつつも祝福してくれる。 ……ロケット団の幹部だけあって、酷薄な部分を十二分に持ち合わせている彼も、その裏ではなかなか憎めない部分があり、事に目下の相手に対する人当たりの良さには、ある意味理解し難い部分すらあった。 
……後に彼のそう言った性格が、彼自身が全てを賭けていたロケット団という組織に対し、最後の引導を渡す遠因となるのだが――その時はまだ、誰もそんな事態が訪れようとは夢にも思わなかったのは、言うまでも無い。

そうした身の回りの変化の一方では、組織の命運を決定付ける為の一大作戦が、着々と実行に向けて動いていた。
黄金のラジオ塔を標的としたこのミッションは、今回の組織再建に向けた活動の、言わば総仕上げとでも言うべきものであり、現時点で動ける者は幹部も含めて全員が出動する、一世一代の総力戦であった。
――前回のシルフカンパニーでの敗北から四年を経たこの作戦により、ロケット団は再び世間にその名を轟かせ、併せて潜伏中の元の指導者・サカキの復帰を以って、新たに超地域クラスの巨大組織として、復活を遂げるのである。


そしていよいよ、決行日を明日に控えた夜。
俺は同じ部門に戻って来ていた、丁子の警戒班長だった同僚の古参団員と共に、明日の企ての成功を祈りながら、門出の祝杯を挙げていた。

部門の主任である上司のラムダは、既に局長に変装してラジオ塔に潜り込んでおり、破壊工作の命を受けて関東に派遣された後一人の同輩は、隠密行動で通信を禁じられている為、何処で如何しているのか見当も付かない。 従って、新米団員達が引き上げた後の工作部門に残っていたのは、俺達二人だけであった。
丁子アジトでの攻防戦で名を上げた俺とは違い、侵入者に呆気なく暗証コードを明かしてしまった彼は、事実上の左遷を喰らう破目となっており、明日は監禁してある本物の局長の、監視役を任じられていた。 ……しかしそれでも、彼は別段気に病んでいる様子も無く、相も変わらずひゃらひゃらと笑い声を立てながら、上機嫌でウィスキーを口に運ぶ。

やがて夜も更けて、明日に備えて切り上げようと言う事になった時――ふと彼は、腰を上げたままの状態で俺の方を振り向くと、何時も浮かんでいる例の笑いをその一瞬だけ収めて、強か呑んでいる気配すら見せずに、静かに呟く。

「俺は丁子では、監視カメラのモニターをチェックする役も兼ねてたんだが…… どうしてあの時、小娘を捕まえなかったんだ?」

不意の問い掛けに、俺は完全に虚を突かれ、文字通り酔いも醒め果てた状態で、言葉も無く相手を見やる。 ……結局あの件は、後で戦った二人と同様、「『穴抜けの紐』で逃げられた」という報告で済ませてしまっており、まさか真相を知る者が存在していようとは、夢にも思ってはいなかった。

「向いてねぇんだよ、お前は…… 幹部にされちまう前に、さっさと切りのいいとこで足を洗っちまいな」

そんな俺の反応には一切構わず、彼は更にそう付け足すと、再び何時もの掴み所の無い笑みを浮かべて、「明日は頑張ろうぜ」と口にしつつ俺の肩を叩くと、何時もと変わらぬ笑い声を立てながら、上機嫌な風体で部屋を去っていく。
遠ざかるそいつの背中を見詰めつつ、俺は結局口の端にまで出掛かった言葉を、相手に投げつける事が出来なかった。 ……韜晦と孤独が入り混じるその背中に向け、俺はただ心の中で、相手に同じ質問を繰り返す。

「(何でお前は、この道を選ぶ事になったんだ――?)」、と……


翌朝、作戦は予定通りに決行された。

町中に散らばった団員達は、日頃の訓練の成果を如何なく発揮して、四年前と同じく命令と同時に目標地点へと集結し、危な気も無くラジオ塔を制圧・確保する。
内部での抵抗は殆ど無く、二人の警備員は功を争う下っ端団員達によって瞬時に蹂躙され、怯えるラジオアイドルやDJ、収録スタッフについては、気に掛ける必要すらなかった。
『局長』は手筈通りに組織に対して恭順を示し、定時番組をその場で中断して、臨時放送を全てのチャンネルで流すよう、スタッフ全員に指示を飛ばす。

一通りの手筈が整った後、俺達一般の団員は素早く各階層に分かれて配置に付いて、妨害に出てくるであろうあらゆる勢力に対し、万全の体制で備えを固める。 
各階を繋ぐ階段には必ず防衛チームが配され、あらゆる通路にはパトロールが立ち、建物の入り口付近には、怒りの湖で捕らえられたギャラドスの使い手達が、目立たぬようそこかしこに分散して、強行突入を企てようとする者に対して目を光らせる。
――士気は新米の下っ端に至るまですこぶる高く、古参や幹部連中に至っては、既にその鼻息だけで、ゴローニャでも何でも吹き飛ばしてしまわんばかりの勢いであった。

その『妨害勢力』は、占拠した次の日に姿を現した。
前日、既に幾人かの警官が、入り口の受付カウンターで阻止されたり、無理矢理内部を調査しようとして不意打ちを喰らい、拘束されたりを繰り返していたのだが――残念ながらその連中は、水際での阻止は愚か、潜入行動それ自体ですら、見咎められる事が無かった。

朝方の正午前、数人の下っ端団員達がラジオ塔に入り込み、受付を横切って階段の方へと進むのを、入り口で見張っていた連中も受付カウンターに潜んでいた者達も、全く意に介そうとはしなかった。
――だが、その連中は次の階層に通じる階段で誰何されると、途端にボールからポケモンを繰り出して見張りを一撃。 慌てふためいた一階の配員達を瞬く間に蹴散らし終えて、そのまま二階へと殺到して来る。
一方の二階の防衛陣は、不意の事態に浮き足立ちながらも、侵入者に対して攻撃を開始。 ……彼らの報告により、突入して来た三人の偽団員達の正体は、先だって丁子のアジトを襲撃して来た少年トレーナー達である事が、明らかとなる。

各階層の団員達の健闘も空しく、侵入者の勢いは衰える気配すら見せずに、厳重な布陣で臨んだ筈の支配階層を、次々と捲き上げて行く。 
三階のロックされた扉の後ろ側に配置された俺は、扉の向こうで他の団員達が蹴散らされて行く様を、逐一入って来る無線機からの音声によって把握しつつ、ただただ焦燥に駆られていた。
今回、俺は局長の正体が変装したロケット団幹部だと言う事を秘匿する為、敢えて上司であるラムダとは別の区域に配属されており、局長室に向かう侵入者達の行く手に立ち塞がる事は、最初から許されてはいない。 ……当のラムダ自身は、出発前に手持ち全てを『自爆』及び『大爆発』習得済みのポケモンで固めており、「いざとなったら、纏めて吹き飛ばしてやるさ――」と不気味な笑みを浮かべて、配置換えを願った俺の要請を、一笑に付していた。

やがて、四階の局長室に通じる階段を防衛する連中が、無線機から壊滅の報告を送信して来た後――ややもして、突如として爆発音が連続してラジオ塔を揺るがし、音源である五階局長室での戦闘を、全団員に知らしめる。
俺は急いで無線機を弄くり、工作部門の統括者である上司を呼び出そうとしたが、無線機からの応答は一切無く、ざらついたノイズ音が響くのみで、状況は全く掴み様が無かった。
ただその代わり、更に暫くした後――二人分の子供と思われる駆け足音が扉の向こうから伝わって来て、上での対決がどう推移したのかを、無言の内にも伝えかけて来る。 
……どうやら次は、地下倉庫に配置された、あいつの出番のようだった。

――後に聞いたところによると、地下倉庫での戦いも、かなりの激戦となったらしい。
事件が収束した後、俺はもう一度あいつと顔を合わせる機会があったのだが、金で臨時に雇った火事場泥棒達を加えた彼の一隊は、倉庫にある無数のシャッターの間に隠れつつ、入れ替わり立ち代って二人のトレーナーを急襲し、一時は手持ちの半数以上を無力化するところまで、追い詰めたのだと言う。 ……だがその奮戦も、更にもう一人の少年が場に駆けつけた事によって、一気に巻き返されたのだった。 
監禁されていた本物の局長は、無事二人の少年と一人の少女のトレーナー達によって救出され、解放された囚人から渡ったカードキーにより、ラジオ塔の防衛ラインは、一挙に崩壊へと突き進む事となる。

同時にその時、戦いに敗れた彼は少年達から、局長の居所を教えたのがあのラムダだと告げられて、「さてこそは……」と、呵々大笑したと言う事であった――


扉の向こうに最初の足音が到着したのは、二人分の駆け足音が去ってから、暫くの後であった。
そしてやがて、夕暮れ時も近付いてきた頃――更に三人分の足音が加わったところで、小さな電子音が目の前の機械端末から発せられ、強固な防犯扉の解錠を、立ち上がった俺の耳に告げてくる。
ゆっくりと上昇していく扉の向こうに並んでいたのは、やはりあの時アジトに乗り込んで来た、四人のトレーナー達であった。 ……俺の姿を見た途端、彼らは一斉に連れていたポケモン達と共に姿勢を低くし、戦闘体制を整える。

それに応えるべく、俺が静かにボールベルトに手を伸ばそうとする中、唐突に一人の少女が進み出で、仲間達に向けて、先に進むように促した。
反論や気遣いの言葉が飛び交う中、強い意志と口調によって他の少年達の異議を退けた彼女は、俺の顔を正面からひたと見据え、二つに分けた黒髪を逆立てるような気迫で、仲間達の前進を阻ませまいと立ちはだかる。

俺は敢えて、他の連中はそのまま行かせる事にした。 
階段を上がったこの先には、破れたラムダを除いた残り三人の幹部達が、各階に一人ずつ手ぐすね引いて待ち構えており、無理に此処で全員を引き受けずとも、別に問題は無い。 ……それにどの道、幹部連中でも押さえられないような相手であれば、俺が一時に全員と戦ってみたところで、何の成果も上げられはしないだろう。 
彼女の後ろを走り抜けていく連中が、視界の外に消え失せた時――俺は再び動作を再開すると、一番手となるモンスターボールをそっと掴み、開閉スイッチを確かめるように押し込むと、軽いステップと共に前に投げ放って、自らに課せられた闘いに向け、我と我が身を放り込んだ。

少女の実力は、前回とは比べ物にならない程の、飛躍的な進歩を遂げていた。 
俺がベトベターを繰り出したのに対し、彼女の先手はガラガラ。 迅速に投げ付けられて来た『骨ブーメラン』を『溶ける』でかわすと、間髪を入れず『地震』が襲いかかり、地面との接触率が上がっていたベトベターは、その衝撃をもろに喰らい、一溜まりも無くダウンする。
続いて場に躍り出たブラッキーは、『怪しい光』でガラガラを撹乱。 不利と見て引き下がろうとするところにすかさず『追い討ち』を仕掛け、有無を言わさず骨好きポケモンを討ち止めるものの、裏を掻かれた筈の彼女の目には、あの時と違って動揺の影すら見出せなかった。

次のポケモンを繰り出しながら、少女が叫ぶ。
「何故あの時見逃したのか」――  具現化したエビワラーの体が僅かに沈み、直後凄まじいスピードで弾け飛ぶ。 『マッハパンチ』が鋭くブラッキーの横腹にのめり込み、漆黒の獣が苦痛の悲鳴を上げる。
「ガキをいたぶる趣味なんてねぇからだよ」――  後ろに跳躍したブラッキーが、『月の光』でダメージを癒す。 窓から差し込む赤い斜陽が、月光ポケモンの試みを、微力ながらも後押しする。

追撃を仕掛けて来るパンチポケモンを、回復半ばのブラッキーが、再び『怪しい光』で迎え撃つ。 素早く目を瞑ってそれをやり過ごしたエビワラーは、そのまま勢いを殺さずに拳を突き出すも、捉えた相手はビクともしない。
入れ替わって『マッハパンチ』を受け止めたスリープが、覚えたての『サイコキネシス』でエビワラーを屠ると、俺は次のポケモンを解き放つ相手に向け、鋭い声音で切り返した。

「どうして俺達の邪魔をする」――  直接少女に照準を合わせ、スリープが『サイケ光線』を発射する。 ボールから飛び出したメガニウムが『光の壁』を張り、自らを盾にして少女を庇う。
「ポケモンを道具扱いにするなんて許せない」――  メガニウムが『神秘の守り』を繰り出して、スリープの放った『催眠術』を無効化する。 続いて放った『マジカルリーフ』が、狙い過たず精確に、催眠ポケモンの急所を撃ち抜く。

ぐらりとよろけるスリープを庇うように、再びブラッキーがフィールドに出る。 高い耐久力を背景にした、鉄壁の守備能力を誇る月光ポケモンに続き、俺は一気に決着を付ける為に、チーム最強のアタッカーである、相棒のクロバットをその場に加えた。 
対する少女の方も、既に戦闘中のメガニウムの隣にウィンディを呼び出して、此方の連携に抗する構えを見せる。 
差し込む赤い光は徐々に輝きを失い、長く伸びる影の色が目立たなくなっていく中、漸く全ての役者が出揃って、バトルはクライマックスを迎えた。
『光の壁』と『神秘の守り』により、既に小細工は通用しない。 力と力のぶつかり合いは、衰え始めた日の光に抱かれるラジオ塔内の空気を震わせて、固唾を呑んで推移を見守る人質達や敗残団員達の思いも余所に、薄暗い廊下を灼熱の決戦場に変貌させる。

逆落としに突っ込んだクロバットの『翼で打つ』は、側面から援護の為に仕掛けられたウィンディの『火炎放射』によって、メガニウムの体を捉えられないままに終わる。 攻撃を断念して切り返すこうもりポケモンに向け、ハーブポケモンの必中技(マジカルリーフ)が追撃の手を伸ばすも、ブラッキーの『追い討ち』が肋骨に炸裂した事によって、それは中途で寸断される。
懐に飛び込んで来た月光ポケモンに対し、すかさずウィンディが炎を纏った牙で喰らい付くが、直後その大柄な体は、漆黒獣の鋭い反撃により、強かに外壁に叩き付けられた。 『しっぺ返し』で大ダメージを受けた伝説ポケモンが、一時的に戦闘から脱落した瞬間を見計らい、再び急降下したクロバットが、何とか立ち直ったばかりのメガニウムの首に、強烈な一撃を叩き込む。
弱点を突かれてよろけるハーブポケモンを励ましつつ、少女は俺を睨みつけながらも、今度は憎しみを感じさせない声音を持って、叫ぶように訴えかける。

「何故あなたほどのトレーナーが、ロケット団に加担しているのか」――  踏み止まったメガニウムを気遣いながら、少女は「理解出来ない」と言う風に訊ねかけてくる。 横たわっていたウィンディが、歯を食い縛って首を擡げ、身を震わせながらも起き上がる。
「ロケット団員だったなら、腕が立っちゃあいけねぇのかよ」――  最早余力も残っていないであろう相手に対し、ブラッキーがダメ押しの一撃を仕掛ける。 勝利を確信したクロバットが、身を震わせる伝説ポケモンに対し、止めの『エアスラッシュ』を撃ち放つ。

既に、かわす力は残っていない筈だった。 ……次に訪れた結末を予想出来た者は、その瞬間には間違いなく、誰一人としていなかったに違いない。
最早相手の生き残り達は、ウィンディの『威嚇』によって辛うじて浮かしただけの体力しか、残っていなかった筈だったのだから。 

……或いは、彼らの体を動かしたものは、残りHPやPPとは、また別のものであったのだろうか――?

「あなたには、分かっている筈……!」  

少女の叫び声と共に、倒れ掛かっていた二匹のポケモン達の瞳に、新たな精気が宿った。 
メガニウムの前足がブラッキーの一撃を受け止め、ウィンディの体が跳躍して、目にも止まらぬスピードで、風の刃をすり抜ける。 
次の瞬間、漆黒獣は渦を巻く花片に飲み込まれ、クロバットは右翼に致命打を受けて、なす術も無く地に落ちた。 ……『新緑』に後押しされた『花弁の舞』は、鉄壁であった筈の月光ポケモンの体力をただの一撃で奪い去り、伝説ポケモンの『神速』は、チーム最速を誇るこうもりポケモンのスピードを持ってしても、防ぎようの無いものだった。 

僅か十秒にも満たない間に起こった出来事に、その場にいた全員が、凍り付いたように動きを止める中――天井に設置された館内放送用のスピーカーから、ラジオ塔の解放を告げる局員の声が、高らかに鳴り響く。
その勝利宣言に対し、ハッと我に立ち返った俺は、素早く倒れた二匹の相棒達をボールに戻すと、依然力無く転がっているスリープに対し、駄目元ながらも脱出指令を発する。 ……幸か不幸か、催眠ポケモンはその無茶な要請にもしぶとく応え、残された力を振り絞って、『テレポート』を発動させた。

不可思議な浮揚感に全身を押し包まれる中、目の前の少女が俺に向けて、何事かを口走る。
俺はその口の動きと表情から、彼女が何を口にしたのかを理解すると、飛び去るまでのホンの一瞬に、意思の表示を返してみせた。

「待って……!」と叫ぶ少女に対し、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて見せた俺は―自らのその目の内に、何処か寂しげな光が宿っていた事には、全く気がつかないままに―パトカーのサイレンが押し寄せてくる、その建物を後にした。
 
 
 
それから、二週間余りの後――

俺は今、浅葱の町の外れにあるあばら家の一室で、そこだけ全く埃を被っていない寝袋の上に寝転びながら、此処までずっと連れ立って来た数人の仲間達の事を、ぼんやりと思い返していた。
連中が寝起きしていたところは、やはり俺が背中を預けている場所と同じく、ある程度埃が払われて、跡が付いている。 しかしその連中も、此処一週間の間に一人減り二人減りして、昨日からは此処の住人は、俺一人だけとなっていた。 

昨日出て行った最後の一人は、ずっと工作部門で共に働いていた、あの古参団員であった。 今回のラジオ塔の作戦でも、大勢の構成員達が逃げ切れずに逮捕され、幹部達の行方ですら定かではないと言うのに、彼はまたしても官憲の追及を巧みに逃れ、配下の新米達すら一人も損なわずに、まんまと脱出に成功していた。
どちらかと言うと、部下達の身の落ち着け所を見届ける為に付いて来ていたらしい彼は、別れ際になって初めて、実家が丁子の町にある事を打ち明け、故郷に戻って新たに人生をやり直す心算であると、例によってのひゃらひゃら笑いを浮かべながら、何処までが本気か分からない態度で、素っ気無く語る。

「関東に行ったアイツの事も気になるが、さし当たってはお前の方が心配だな……  ……ま、何とか落ち着いたら連絡くれよ。 饅頭辺りでも送ってやるぜ」

あの事件の後、晴れて指名手配犯となった俺の身の上や、関東に行ったまま連絡の付かないもう一人の同僚の安否を最後まで気に掛けながらも、別れ際にはワザとに軽い口調で締め括った彼の背中を、何をするでも無しに瞼の裏に思い描いている内――ふと俺は、何時の間にか周囲がすっかり暗くなっている事に気が付いて、少し唖然とした。 ……どうやら、自分でも気が付かないままに、ウトウトと眠り込んでしまっていたらしい。
大きく鼻で溜息を吐いてのっそりと寝袋の上に起き上がると、独り自嘲気味の苦笑を浮かべてから、そろそろと立ち上がる。 枕元に並べていたボールを腰に止めると、強張っている体を軽くほぐして、欠伸をしながら首を回す。

――そろそろ俺自身も、身の振り方を算段するべき時だった。


身支度を整えて外に出ると、未だに眠りに就き切れていない浅葱の町の中心街が、見た目も鮮やかな色とりどりの灯火を煌かせ、港に身を休める大小様々な船の船員達を、盛んに誘い込んでいた。 
町の中心から放射状に延びる道路には、行き交う車のヘッドライトが交差して、それらの頭上を一定周期で、町のシンボルである灯台の光が、帯となって通過する。 町の上空を掠めた光の帯は、そのまま遥か水平線をなぞる様にして海面を舐め、水上に突き出たあらゆる障害物を、暗闇の底から浮かび上がらせる。

あの強い灯台の光を生み出しているのは、たった一匹のポケモンだと言う。 ……ただ一匹の生命の光が、この地に息づく様々な命を照らし出し、安息の地を求めて訪れる数も知れない客人達に、進むべき道を指し示すのだ。
絶え間なく走り続ける灯台の光は、闇に慣れた俺の目には余計なものであったけれども、明々と輝く町の光にも全く色褪せる事無いその様は、何か強い訴えを帯びて、俺の心をそこに留め置く。

ロケット団にいた頃は、そうやって感傷的に物事を捉える事は、殆ど無かった。 
ポケモンは道具――それがロケット団員としての心得であり、全てのポケモンはロケット団の為に存在していると解釈するのが、組織の構成員に課せられた、唯一無二の哲学だった。
自ら望んで手を下した事は無いとは言え、組織が金目当てでポケモンを狩り立てたり、無理矢理な生体実験を繰り返したりするのは、日常茶飯事の様に受け止めていた。

当初は常に抱いていた仕事への嫌悪感も、日々の任務に身を費やしている内に、自然と薄れた。 ……爪弾きされていた所を拾われた俺には、組織を抜けて流れて行けるアテなんて、何一つとしてなかったから。
そうやって俺は自分自身に言い訳しつつ、紫苑の町でガラガラとカラカラの親子を狩り出し、桧皮の町のヤドンの井戸で、新人達の研修を行った。 
所詮気ままに生きているポケモンなんかには、自分達日陰者の人間の立場など、理解出来る訳が無い。 自分の身を守る事も出来ないような野生なら、人に淘汰されても仕方が無い――そう思いながら。

けれども、こうして改めて世の中というものを見つめ直してみると、自分達が如何にポケモンという存在に支えられて生きているのかが、手に取るように分かるのだった。 ……闇を切り裂くあの力強い輝きが無ければ、日々行き交っている無数の船舶は忽ち足元を見失い、その尽くが不安と孤独に怯える余り、立ち往生してしまう事になるであろう。

――そう。 丁度、今の俺自身の様に……


暫くの間、ただひたすら声も無く灯台の明かりを見詰めていた俺は、やがて大きな溜息を一つ吐くと、「フン……」と一つ鼻を鳴らしてから、折からカタカタと揺れ始めていた、腰のモンスターボールを手に取った。 ゆっくりとした手付きで開閉スイッチを操作すると、そのまま順繰りに四つとも、自分の周囲に解き放ってやる。
中から飛び出した手持ちの連中は、まるで次の指示を待ち焦がれているかのように、感傷的になっている俺の周りで、一様に士気の高さをアピールして見せた。 闇の中に炯々と光る八つの眼(まなこ)には精気が満ち、空を翔る星屑の輝きが光となって、彼らの瞳を静かに彩る。
そんな仲間達の姿に、俺はもう一度鼻を鳴らしつつ、今度は目に見える形ではっきりと苦笑して見せると、次いでゆっくりと首を幾度か振った後に、ポケットに利き腕を突っ込んで、一枚のコインを取り出した。 ……ロケット団残党として指名手配されてしまった今、取締りが厳しくなる一方の城都や関東に身を置き続ける事は、最早不可能である。

俺の手元にあるのは、ずっと行を共にして来た四匹のポケモン達と、幾つかの地下組織に関する、おぼろげな情報。 ロケット団員として数々の作戦で功を上げてきた経験が、今の俺が持っている、最大の武器だった。
流れて行くは、北か南か――  朽葉の港で砂中から拾い上げた、表側にホエルオーが彫り込まれた古い銀貨に、己の行く道を託す事にする。

一匹一匹に対してそれを指し示し、その場の全員にとっくりと眺めさせた後、俺は静かにそれを親指で弾いて、中空高く打ち上げた。
僅かな星明りを弾き、闇に溶ける事無く宙を舞う銀貨を、四匹のポケモン達は、瞬きもせずにじっと目で追う。

絶えず羽ばたきつつも全く音を出さず、硬貨の軌跡を見守り続けるクロバット。
――最初に出会った時、路地裏に張られていた防虫ネットに引っ掛かって、無力にもがいているのみだった盲目のこうもりポケモンは、今ではどんな闇の中でも見渡せる二つの目を持ち、鋼鉄製の金網だろうと、翼の一振りで造作なく打ち破る事が出来る。

地に座り込み、静かな息遣いで結果を待つブラッキー。
――当初は夜毎に後遺症に苦しみ、全く周囲に心を許そうとはしなかった遺伝子ポケモンは、徐々に打ち解けて行くにつれ生気を取り戻し、やがて自らの体を闇色に染め上げる事によって、苦痛の楔から解き放たれた。


立ち塞がりし少女が望み、それ以前には無言の少年が諭してくれた道程を、俺も昔は夢に見ていた。 
再び光の下に出でて、誰にも気兼ねせず後ろめたさも感じる事無しに、真っ直ぐに生きる。 漸く得る事が出来た、人生の糧――不慣れな闇中の道を、共に手探りで進み続けて来た掛け替えの無いパートナー達と、過去の柵に囚われる事無く、ただ直向きに――

……けれども、それは所詮叶わぬ夢。 ロケット団員として組織に加担した時点で、俺は表の世界に戻る資格を、完全に失ってしまっていた。
ポケモンを不当に扱う事を常としている組織の構成員は、ポケモン取り扱い免許を無条件で剥奪され、逮捕・起訴されてしまった時点で、手持ちのポケモン一切に於ける、親権と所有権を放棄させられるのである。


弧を描いて落ちるコインを、上目遣いに眺めるスリープ。
――倒れても尚止まざる闘志の催眠ポケモンは、どれだけ酷使されても期待を裏切る事無く、傷付いた体に鞭打って、常に的確に役割を果たす。

光の絶えた闇の底に身を休め、新月の空を見上げるベトベター。
――身を挺する事を厭わぬヘドロポケモンの働きは、戦いが激しければ激しいほどにその存在感を増し、死力を尽くして競り合うチームの仲間達に、最終的な勝利を約束してくれた。

両者の間に落ちた銀貨の表面には、滑らかな手触りが年月を感じさせる、波間に遊ぶホエルオーの像。 ……行く先の決まった俺の視線は、遠くに見える港に停泊している、一隻の船に注がれる。 
豊縁行きの大型貨物船を目標として見定め、屈んでコインを拾い上げた俺は、肩に掛けているショルダーバッグを背負い直し、静かに仲間達に出発を告げた。
体を摺り寄せて来るブラッキーの頭を優しく撫でてやり、スリープが『念力』でトスしたボールを受け取ると、体を伸ばして催促して来るベトベターをボールに回収し、羽音も立てず先行するクロバットの後に続いて、ゆっくりと前に向かって歩き出す。


あの時少女が言わんとしていた事の意味を、俺は確かに知っている。 ……闇の中に光を求める事の困難さも、そこに手を差し伸べてくれようとした、その温かさをも。
だがしかし、俺にはその手を取る事は出来ない。 光射す場に再び立つ為の代償が、今の自分自身にとっては、余りにも大き過ぎたのだから。
――最早、後戻りは出来なかった。 心を許してくれたこいつ等と共に生きて行く為には、一度選ぶ事となったこの道を、只管進み続けるしかないのだ。

この世界で生きて行く際、過度な望みを抱いたならば、やがては全てを失うだろう。 ……闇の中を歩む際に、最も大切な事――それは、何があろうとも自分を見失わずに、常に最後の矜持だけは、捨てずに保ち続ける事だった。 
自分が最も大事にしているものを、決して裏切らない事。 それさえ守り続けていれば、例え何処で生きて行こうとも、またどのように上っ面が変化し果てようとも、俺は俺であり続けられる。



時はポケモンを変え、また人をも変えて行く。

安穏と生きていた場所から放り出されて、早6年。 既に暗中を歩み続けて久しく、日陰に生きる事に慣れた俺には、闇を切り裂く強い光も、道を指し示す温かな灯火も、最早無用のものとなっていた。
今はもう、暗い闇の中でも方角を見失うような事は無く、未知なる存在に怯えたり、立ちはだかる柵に、不意に足を取られたりする事も無い。 再び光の下に転び出で、孤独と苦悩に打ちひしがれるよりは、住み慣れた闇の中を泳ぎ渡り、見果てぬ岸辺を目指して進もう。
――信じ抜き、傍らを歩み続けてくれるこいつ等と、同じ世界で共に生き、同じ喜びを分かち合い、同じ涙を流せるように。



雲一つ無い新月の空の下、蟠る闇に溶けて行く俺達の行く先に向け、小さな流れ星が一つ、水平に飛んで消えた。


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御題:【悪】
足跡三部作の一角にして、トリの一作でもある。



再投稿もやっぱり遅れに遅れましたが、取りあえず後書き(汗)

『悪』と言うお題が決まったのを受け、『悪役』→『歴代悪役と組織』→『流浪する下っ端』――と言った流れで思考が推移した結果、こんなお話と相成りました。
一人の無名の主人公を据え、前々から印象深かった下っ端団員共と交流させつつ各地を放浪させて、歴代の主人公達の前に立ち塞がらせる。  これが、当初のコンセプトです。

当然その場合、物語の主人公は随時成長していきますが、ゲームの主人公達はまだまだ未熟な時点でそれとぶつかる為、結果的に流れ者団員の成長と葛藤、そしてゲームの主人公達の挫折と奮起が、浮き彫りに出来るかなと目論んでおりました。  ……そんな気がした時もありました(爆)
結論として、普通に金銀・城都で区切ってしまいましたので、そんな描写は出来ず仕舞いでしたけども。 


書き始めた切っ掛けは、『竜の舞』の校正や連載作品の更新が滞っていた時、「そう言や俺、まだ御題で書いた事無かったっけな……」などと思い当たり、息抜きに現実逃避したのが理由だったりします(汗)  ……よってこのお話は、見ての通りあまり情景描写も丁寧では無いですし、語り口も練り切れてはおりません。
あくまで勢いとフィーリングに後押しされた作品ですから、基本的には、作者の記述願望第一で綴られております。  ……反省はしていませんが(爆)

その肝心の記述願望と言うヤツは、此処はもう単純に、『出したいヤツを出す』と言うものです(笑)
シルフで主人公に負け、「お前ぐらいの歳からポケモンやってれば――」と嘆いた下っ端。
ポナヤツングスカ支店に飛ばされたのを根に持っているはぐれ研究員。
丁子で『ラッタの尻尾』と言うパスワードを教えてくれ、後に黄金の地下倉庫で再会した、「ひゃひゃひゃ」と笑うロケット団員。
関東でエージェントとして発電所に潜入し、後にイッシュで家庭を持って、いかり饅頭を送られている外人団員に、金銀編で中ボス役を務めた、ロケット団残党の幹部達。
……これらの『思い出深い悪役達』に光を当てて、敢えてダークサイドからフューチャーしてみようと言うのが、この作品を書き始めた、最大の動機なのです。


そしてもう一つ、どうしても書いてみたかった事――  それは、単純に悪役として蹴散らされるのみの連中にも、それぞれの個性があり、また相応の人生観や、背景があろうと言うことです。
……例えどうしようもない様な悪党であっても、必ずどこかでは別な顔を持ち、極少数の相手のみであったとしても、好意を持って接し合う事はある筈。 仲間内や行きつけのバーでなら、普段の荒々しい物言いを潜めて軽い冗談を言い合ったり、落ち込んでいる相手を励ましたりする光景が、見られるに違いないだろうと思うのです。

確かに彼らは悪役として、何時も主人公達に突っかかって来るわけですが……それでもやはり、群れを成して集団の一部として生きている、小さな存在に変わりはありません。
実際のヤクザや暴力団が、世間からの指弾や警察の取り締まりに晒されつつも、何故潰れないのか……?  それは、行き場を失ってしまったあぶれ者や、表の世界では上手く溶け込めないはみ出し者達の、最後の受け皿として機能しているからです。

世間から爪弾きされてしまった者達が、最後に身を預ける場所――  心ならずも墜ちて来た者達の、最後の拠り所としての組織と言うものを、一度表現してみたかったのです。



……それでは!  
御縁があらば、また別の作品でお会い致しましょうです。  ここまで長々と付き合って頂き、有難う御座いました……!


【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
【批評してもいいのよ】