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  [No.568] 蒼の運河に雪化粧 投稿者:小樽ミオ   《URL》   投稿日:2011/07/06(Wed) 18:29:51   34clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

かなり流れに乗り遅れましたが、私、小樽ミオの再投稿スレッドです。
手直しをしている最中の作品もあって、全部終わってから再投稿しようなどと考えたらこんなことに(汗)
途中ですが、準備できたものからぽつりぽつりと再投稿していきたいと思います。

※ラクダさんへ
遅ればせながら、ちるりをお呼びくださりありがとうございました!(笑)


  [No.569] 【再投稿】風乗りサラリーマン 投稿者:小樽ミオ   《URL》   投稿日:2011/07/06(Wed) 18:31:44   51clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 少しくすんだ色のワイシャツに袖を通し、襟元を軽く掴んで整えてから彼は食卓に着いた。思わず大きく伸びをしたくなるような朝の日差しに照らされた純白のディッシュからは、芳しい香りを帯びたほんわりとした湯気が立ち上っている。
 「今日はあなたの大好きなハムエッグよ」、彼の奥さんはそう言って、「ありがとう」と返す旦那さんのディッシュの脇に銀色のフォークをそっと置いた。

 トーストが焼けたことを告げる快音に続いて、トースターがこんがり焼けた小麦色を吐き出す。旦那さんがそれをキャッチするよりも早く、脇で食卓を眺めていたチルタリスが首を伸ばしてそれをくちばしにくわえてしまった。「こら、食べるんじゃない」と彼はチルタリスの頭をわしゃわしゃと撫でる。叱るような言葉に反して、すっかり惚気きった満面の笑顔を浮かべながら。一方の綿鳥はそんなことには少しも頓着せず、さくさくさくと物凄いスピードでトーストをかじっては嚥下していく。

「ちるりも早く朝ごはんにしたかったのよ。それに今朝も今朝とてパン争いに負けるあなたが悪いわ」
 洗ってあったフライパンの上にふきんを滑らせつつ、奥さんは上半身を旦那さんの方へと振り向けて笑った。肩の辺りまでこぼれた髪が甘い香りを振りまきながら舞い躍る。ティーカップの湯気の向こう、彼は奥さん以上に「やられたなぁ」とからから笑っていた。チルタリスのちるりはといえば相変わらず頓着もせず、パンカスを散らしながらさくさくさくさくとトーストにかじりついている。

 今朝は目覚めがよかった。彼はふと思いつつ、愛妻のお手製ハムエッグをフォークに刺しては口に運ぶ。つんとした塩コショウの程よい風味が口の中に広がり、半熟に焼かれた卵の黄身がとろりと舌の上へこぼれ落ちる。彼は「目玉焼きには塩コショウ派」だ。愛しの妻はそれをよく分かってくれていた。ほくほく顔で朝食をほおばる旦那さんに、彼の様子を黙って見つめていた奥さんの表情もほころぶ。ちるりは首を伸ばして、自分には与えられていないハムエッグ――ちるりの朝食は普段はもう少し遅いのである――を羨ましそうに眺めていた。

「……ねぇ、ところで今日のお仕事だけど、電車とバスで行ったほうがいいんじゃないかしら?」
 唐突に、首をかすかに傾げつつ奥さんは切り出した。流れ落ちシンクを打っていた水流の音が掻き消えた。
 何で、と彼は左手で口元を覆いながら返す。右手にしていたフォークをディッシュの上に横たわらせてから。

「今日は風が強いって、天気予報で言ってたの。進みづらいだろうし、服も髪もぐしゃぐしゃになっちゃうだろうし……」
「いや、それなら構わないな。予定通りに出かけるよ」

 パン争いの話題を口にしていたときとは打って変わって、どことなく不安げな表情の奥さん。明らかに旦那さんを気遣っている雰囲気が見て取れた。しかし一方の旦那さんはと言えば、飲み干したティーカップに新たなお湯を注いでティーバッグを浸しつつそっけなく返した。立ち上る湯気の向こう側に互いの表情がかすむ。

 奥さんは無言でもう一度水を出した。
 かちゃん。洗い終わりしずくの拭き取ってあるものが次々と彼女の手で積み重ねられていく。リビングダイニングの朝にはさまざまな音が入り混じっていた。奥さんの流す水の音、食器同士の触れ合う音、そして二枚目のトーストを強奪したちるりの立てる快音。しかしそこには先ほどまでの夫婦の睦まじい会話はない。



 と、気まずい沈黙を破り捨てる突然な喚き声。ちるりであった。
 先ほどまで加えていたはずのトーストはディッシュの上へと放棄されていて、旦那さんと奥さんがちるりに目をやったときには、ちるりは電源の消えたテレビの前に翼を広げて直立していた。

 瞳をまんまるにして見つめる奥さんと旦那さん。ふと、顔を見合わせる。そこだけ朝の時計の針が止まっていた。
 ちるりは咳払いをするような仕草をしてみせると、真綿の翼で薄い液晶テレビの上面をなぞっていく。すうっ、とちるりがその翼を上げると、――その真綿には灰色のほこりが。あっ、彼は声を上げた。

「あなた、もしかしたら頼んでおいた掃除忘れた?」
 旦那さんを見つめる、「典型的な姑」のような不愉快そうな視線。眉間にしわを寄せて、綺麗好きの綿鳥は激しい抗議の鳴き声を上げる。
 「いけね。ゴメンちるり、掃除忘れてた」彼がそう頭をかいて苦笑いすると、奥さんのクスクスという笑いの中でちるりはついに目すら細めていた。

 チルタリスは総じてチルットのころから綺麗好きで、汚れを見かけると自らの翼で拭き取る習性があるという。ゆえにちるりにはこの汚れは放ってはおけないらしい。もしかすると、掃除を忘れてそのままにしておいた精神すら許せないのかもしれない。
 「綺麗好き」というくらいだから自分の翼の汚れなどは到底許すはずもなく、ちるりはきゃあきゃあと叫びながら翼をばたつかせて風呂場へと向かってしまった。

 「ごめん、やっちゃった」と彼は申し訳なさそうに苦笑しながら、椅子の背もたれに掛けてあったゼブライカ色のネクタイを手に取る。薄い黒の地にそれよりも薄い灰色の稲妻模様が入ったそれを襟元に巻きつけ、手際よくそれを喉元で締めると、「さっきのことだけれど」と彼は言った。



「――向かい風が吹いてるからって、そのたびに自分の進む道を変えるのかい」



 えっ、と、奥さんは聞き返した。何を言われたのか、よく分からなくて。シンクからは水音がこぼれたままだった。



「風ぐるまだって、向かい風を味方に付けて回るんだ。
 ――俺だって、風当たりが強いからって自分の信念を曲げるわけにはいかないよ」



 奥さんがきっちりとアイロンを当てたワイシャツの襟をしっかりと直しながら、彼は朝の日差しのあふれ出した空を窓越しに見つめていた。風呂場の方からはちるりの満足げなハミングが響いてくる。
 ああ、そういうことだったのね。いつも家ではこうしてにっこり笑っているけど、きっとひとたびスーツに実を通したら、この人はこうやっていろんな逆境を乗り越えているんだろうな。――愛する人の背中を見つめて、それからちょっと恥ずかしそうにうつむいて瞳を伏せてから、もう一度彼女は顔を上げて、答えた。


「あなたも、大変なのね」

 手にしていた食器がことりと置かれて音を立てた。そうね、あなたもいろいろあるものね、家のことも仕事のことも。やさしい笑顔を浮かべたまま奥さんは愛しい旦那さんに歩み寄る。「ネクタイ、曲がってるわ」――白い両手が首元へ、喉元へと回された。よれたワイシャツを、乱れたネクタイを正す小さな手。旦那さんはよそを向きながら、ひそかに頬を赤らめていた。


「だから俺も、ちるりと風に乗って出かけるよ。向かい風でさえも味方につけられるように、な」

 ハミングがこぼれ出す部屋の外の方を見つめて、彼は穏やかな笑顔で言った。まだ櫛を通していない乱れ髪がいとおしい。
 今すぐにでも抱きついてしまいたい衝動を抑えながら、それでも彼の両肩に手のひらをポンと置くと、こぼした。



「――でも、格好いいこと言ったけれど、何よりちるりと一緒に仕事に出かけたいだけでしょ?」



 ばれた? 彼は相変わらずの笑顔で微笑んだ。





◆   ◆   ◆





 開け放った純白のカーテンの向こう側、降り立ったテラスには予報通りの風が唸りを上げて吹いていた。空は心地のよい朝の光にからりと晴れ渡っている。ちるりの翼のような雲がちらほら、その空の青の中にやわらかな白を添えていた。髪を奪い行こうとする風に、「やっぱりね」と奥さんは呟いた。
 これくらいの風のほうがちるりと出かけるにはちょうどいいさ。そんな問答をしていると、ちるりが心地よさそうに歌声を奏でながら、真綿の翼をぱたぱたとはためかせて庭へと降りてきた。手入れを欠かさないその四肢は朝のしずくを浴びてよりいっそう美しく見えた。
 チルタリスの美しい歌声に、空を飛び交うスズメたちも上機嫌のようだった。到底チルタリスのような歌声には及ばないものの、自らの声でハミングに重ねて思い思いの歌を紡いでいる。ちるりもまた、その歌に自らの歌を絡ませるのがとても楽しそうだった。

「それじゃあ、行こうかな。ちるり、よろしく頼むよ」

 黒の背広を直して、彼はちるりのおおらかな背に跨った。ちるりの胴体にくくりつけておいた手綱のような紐にカバンをしっかりと固定し、両手でその感触を確かめる。今日も今日とて変わり映えのない、しかしながら楽しみで仕方のない感触だった。

「あなた、お弁当忘れてるわ。……そんなので大丈夫なの?」
 ああ、しまった。旦那さんはきっちりと握り締めたばかりの紐から手を離し頭を掻いた。奥さんはちょっぴり意地悪く笑って、バンダナで包まれた愛妻の弁当をそっと手渡した。自らの手のひらのぬくもりをそっと重ねながら。
 どちらからともなく、絡めあった視線を外す。そして互いにほっぺたを赤らめて、それからくすくすと笑いをこぼして。

「今度こそ行ってくる。――それにしてもいい朝だな。仕事に出かける気合いも湧いてくるよ」
 ちるりの首元に提げられたカバンに、手際よく彼は愛する妻のぬくもりの篭もった、まだあたたかいお弁当を丁寧にしまいこむ。愛妻の笑顔と精一杯の感謝の念を篭めながら、しばしの別れを惜しむかのように、ゆっくりと。
 「気をつけてね」、奥さんは年を経て少しよれ始めたようにも見える背広の背中を叩いてみせた。「ああ、気をつける」と、彼は相変わらずの、それはそれはこの朝の世界を照らし出す太陽のような、やわらかで和やかな笑顔を浮かべて、愛妻に誓ってみせた。





「ちるり、“そらをとぶ”!!」





 彼女の瞳に映るのは、見上げた太陽の光の中でまっくろなシルエットになった、上昇していく翼を持った影とその背に跨る人間の雄雄しい背中。
 風はただ、ひょおひょおと唸っていた。





◇   ◇   ◇

【テーマ】自由題(風、サラリーマン)

おとといは風が異様に強かったので、自転車通勤だと絶対に風に煽られるだろうなぁなどと思考をめぐらせつつこんな小説を思いつきました。

ふと思う、ヒウンシティなんかに出てくる会社員もこんな生活を送ってるんじゃないかなぁ、と。
あと、ああいうごく普通の会社員の中には、こうやって「そらをとぶ通勤」をしている人も結構いたりしてw と思ったり。
そういうわけで、「そらをとぶ」で通勤をするサラリーマン男性、というテーマの小説が生まれましたw

あと、当方チルタリス大好きです! サファイアでは二匹Lv.100まで育てました(笑)
ずかんでもおなじみの綺麗好き(ただしチルットのずかん)なのですから、姑チックに「あーた、ここちゃんと掃除できていませんわよ? それでウチの息子の奥さんになろうと思ってらしたんですの?」とかやってもおかしくなさそうだなぁw と勝手な想像をしていました。


  [No.606] 【再投稿】ふうりんのうたうとき 投稿者:小樽ミオ   《URL》   投稿日:2011/07/28(Thu) 13:28:36   39clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 ちりん、ちりりん。
 夏の風物詩が、透き通った風の中に清らかな声で歌った。

 薄青い空にかすかにたなびく白い雲、生い茂る深緑の手のひら。太陽の歌を紡ぐセミたちの声、縁側でひなたぼっこをする猫。
 ごくありふれた、太陽の照りつける夏の日の風景が広がっている。

 ちりん、ちりりん。
 風が吹くたびに、風鈴たちは自らの歌を思い思いに歌いだした。

 緑の木々を背景にした真っ白な網戸だけ一枚を残して開け放たれた窓。
 その窓辺で夏風に歌うその風鈴たちを見つめながら、少年は背もたれのついた椅子に座って本を読んでいた。
 少年は自分の頭の後ろからひょいと本を覗き込んだチリーンに気づくと、そのチリーンの頬をそっと撫でてやった。

 ちりん、ちりりん。
 チリーンは、どんな風鈴にも負けないような透き通った玻璃色の声で歌いながら、大好きな主人に甘えてすり寄った。







     ◇   ◇   ◇   ― 『ふうりんのうたうとき』 ―   ◇   ◇   ◇







 夏風の中、たくさんの風鈴が窓辺で歌っています。
 私はチリーン。夏だけでなく、春にも秋にも、そして冬ですらも、年中風鈴を聞くことが大好きなご主人さまのもとで、いつも大切にされて暮らしています。

「チリーン。おはよう」
 ご主人さまは、太陽よりも早起きの日でも眠そうに目をこすって起きてくる日でも、必ず笑顔で挨拶してくれます。私とご主人さまの一日は、いつもこうして始まります。
 ご飯を食べるときも、本を読むときも、ゆっくり眠るときも、ご主人さまはどんな時でもいつも一緒にいてくれます。

 それから、毎日私を膝の上に乗せて、ほっぺたを撫でてくれるご主人さま。
 そんなとても優しいご主人さまに大切にされている私は、ふたり一緒にいられること、それだけでしあわせを感じていました。
 私はご主人さまのくれるたくさんのしあわせに包まれて、ひとつの不自由もなくご主人さまのそばで暮らしていました。



 ――そんなある日のことでした。



「この風鈴、良いよね」
 ご主人さまは新しく買ってきたらしい風鈴を、窓枠に引っ掛けつつ呟きました。
 私はその言葉に胸の高鳴りを覚えました。
 ご主人さまの視線は、完全にその風鈴に集中しています。いつもは私だけを見ていた視線が、今は違う。
 その風鈴が、いつもは私だけを見てくれているご主人さまの視線を奪っている。
 そう考えるたびに、鼓動はどんどん高鳴ります。自分自身のことなのに、よく分からないおかしな感覚でした。
 ――そのとき私は、これが人間の言う“嫉妬”なのだと知りました。


「この色遣いとか、音とか。買ってよかったと思うんだ」
 ご主人さまはその風鈴の歌声に耳を済ませながら、独り言のようにまた呟きました。
 私はその言葉に、もう一度窓際に掛けられたばかりの風鈴を見つめます。
 その風鈴は、悔しいけれども確かに、ご主人さまがその姿に惹かれて選んだだけのことはありました。
 施された彩色はたった数本の線。それでもその彩色は、控えめながらも確かに煌いて自らを主張していました。
 声は玻璃のように透き通った声で、この部屋に誰よりも清らかな声を響かせています。
 ――強く、自分を狂わせてしまいそうなくらいの、“嫉妬”を感じました。


 ご主人さまは、風鈴を窓枠にかけてからずっと、その風鈴を見ています。
 「私ではダメですか」という疑問と嫉妬が、ご主人さまと風鈴を交互に見つめる度にこみ上げてきます。



 ご主人さま、――私を、私だけを見つめてください――
 ご主人さまが綺麗な色遣いを欲するなら、美しい声を欲するなら、私はそれに応えますから、どうか――



 私はようやく風鈴からご主人さまが離れたところで、窓枠からそっと風鈴をはずし、部屋の鏡台へと向かいました。
 私はその風鈴に描かれた色遣いを真似て、たどたどしい筆遣いで、一箇所の狂いも無いように出来るだけ繊細に、自分の顔にその風鈴と同じようなお化粧を施しました。
 ご主人さまは、その風鈴の姿や声がたまらなく気に入った、そう思ったのです。
 お化粧だけではなく、その風鈴のような高く清らかな声で歌うことも、試してみました。

 でも、ご主人さまは私の方よりも、買ったばかりのその風鈴の方に目が行っているようなのです。
 幾ら繊細なおめかしをしても、幾ら目一杯に出来る限りの清らかな声で歌っても、ダメでした。
 何が私に足りなくて、どうして新しい風鈴の方ばかり見ているのか、気が気ではありません。

 私の面倒は、いつも通りに見てくれます。楽しいお話もしてくれます。
 でも話し終わってしまうと、気がついたら、ご主人さまの目は窓辺で歌う風鈴に向いているのです。
 急にご主人さまが、私のことをあまり構ってくれなくなってしまったように感じました。
 そして、今まで私のことを大切にしてくれていたご主人さまが、誰か違う人と遠い世界に離れていってしまったように思いました。
 じゃあ、私は……? 独りぼっち、なの……?


 私は、努力不足なのだと悟りました。
 もっと綺麗なおめかしをして、もっと綺麗な声で歌って……
 それに、私はあんな風鈴と違って、「風」が無くたって、歌える!
 そう、あなたなんかよりも私の方がご主人さまに相応しい風鈴です!



 でも、ご主人さまは私の意に反して、静かに衝撃的な言葉を発したのです。



「――なんか最近、お前らしくないよ。なんて言うか、無理してると思う」



 私が死に物狂いでご主人さまに相応しい風鈴になろうとしていたある時、ご主人さまは悲しげな苦笑いをして、私の瞳を見つめながら仰いました。
 ご主人さまの瞳に映りこむ私、その小さな私の瞳に映りこむご主人さま、その繰り返しの合わせ鏡。
 今までとは比べ物にならないくらいに、鼓動の高鳴りが嫌というほどに感じられました。瞳の鏡に映る私は遠くて、それはだんだんぼやけながら激しく揺れ動いて見えました。
 どうして? 私はご主人さまに、今まで通りにしてほしいだけなのに。
 笑わせてあげたくて頑張ったのに。苦笑いなんて見たくなかったのに。


 ご主人さまが大好きで大好きで、仕方がないだけなのに。


 そう思ったら、嫉妬どころではないたくさんの感情がこみ上げてきて、……
 いつの間にか、自分の瞳から熱い雫が零れていくのを感じました。
 ――私は耐え切れずに、部屋を飛び出しました。


 私は飛び込んだ部屋のベットで、嗚咽を漏らしました。
 悲しいというのか、悔しいというのか、何と言えばよいのか分からない感情に駆り立てられて、私の瞳はただぽろぽろと涙をこぼし続けました。
 何故ですか? 私は、こんなにも頑張っているのです。ご主人さまに相応しい風鈴でいられるように、と。ただ、ご主人さまと今までどおりに一緒にいたい一心で。
 なのに、何もせずともご主人さまに見つめられている風鈴が、憎らしくて、妬ましくて。


 何故ですか、ご主人さま。
 ご主人さまの傍にいたいだけなのに、どうして?
 頭を駆け巡る、ご主人さまの、笑顔、えがお、エガオ――
 
 
 
 
 
 
 
 
「……リ……ン……
 ……リーン……チリーン?」



 誰かが私の名前を呼びながら、小さな私の体を揺り動かしました。
 でも、私の名前を呼んだのも体を揺らしたのも、いつも私が体に浴びている、あの窓辺を吹き抜ける風ではありません。――ご主人さまでした。

 ご主人さまの私を揺り起こす手と声とで、私は静かに目を覚ましたのでした。いつしか泣き疲れて、眠ってしまっていたようです。
 ちりん。ご主人さまの手に、私は弱弱しい調べを奏でました。

 ああ、いつもと変わらない、あたたかくてやさしい手のひら。私はどうして独り眠ってしまっていたのかも忘れ、ただご主人さまの手に撫でられていました。
 けれどよく思いだしていくと、私は悔しくて、悲しくて涙を流したのでした。――ご主人さまが、私の方を向いてくれないから。
 そんな嫉妬のあまり、思わずご主人さまにブスッとした態度をとってしまいました。間違っていることなのに。ご主人さまはハハハと苦笑いをしています。そんなどこか悲しげな笑顔に、とっさにいつもの私に帰るや否や申し訳ない気持ちで胸が締め付けられて、言葉もなく頭を垂れました。

 どうやらご主人さまは私が突然涙を零しながら部屋を飛び出したのを見て、しばらく私をそっと眠らせておいてくれたようでした。
 見れば時計の針は傾いていて、もう昼下がりの時間を過ぎていました。夏の暑さも私のほとぼりも、少し落ち付いたようです。


「いったい、どうしたんだい? この頃お前が普段とは変で、いつも心配してるんだ。さっきも泣いて部屋を飛び出したし……」

 ご主人さまは、その手のひらで私のほっぺたを撫でながら言いました。
 そこにいたのは、私のことを心配してくれるいつものご主人さま。普段と何も変わらないご主人さまが、戻ってきてくれたのです。
 苦しくて、苦しくて。ご主人さまのいない世界なんて、考えられません。私は胸の締め付けを緩めるように、今まで無意識のうちに感じていた嫉妬心を素直に打ち明けました。
 快く思わない顔をされることも覚悟していました。けれどご主人さまは、黙って私を胸元に抱いてくれました。
 ――ああ、久しぶりのあたたかさ。いつもそばにあったはずなのに。私はそのぬくもりを、ずっと感じていました。

「なんだかお前らしくないと思ってたんだよ。でも、嫉妬してたなんて気付かなかったんだよ。ごめん、本当に」
 ご主人さまは私を両手に抱きかかえると目の前へと浮かばせて、頭を下げました。
 ご主人さまは何も悪くないのに。そんな罪悪感と、自分のことを気付いてもらえた喜びがない交ぜになって、いつの間にかまた雫が零れてゆきました。

 左のほっぺたにやわらかな手のひらを感じました。
 ご主人さまは私のほっぺたをやさしく撫でると、「大事なことだから、聞いてほしい」と囁きました。
 いつになく真剣な顔をしているご主人さまに、溢れ出る涙をぬぐって、私も真剣な面持ちでご主人さまの瞳を見据えます。


「あの風鈴に負けたくなくて、……誰よりもボクのことを思って、あの風鈴のような色を真似して塗ったり、無理して声を真似たりしたんだろう?」


 何から何まで全て図星。やはり私のご主人さまは、私のことを全て見抜いていました。それくらい、ご主人さまはやっぱり私のことを分かってくれていたのです。私は恥ずかしさと悔しさ、情けなさと申し訳なさ、沢山の感情に打たれて、必死に口をかたく結んで、震える身体でコクリと頷きました。笑ってもいない、怒ってもいない、ただ私だけを見据えるご主人さまの視線に、私の弱弱しい体は今にもちぎれてしまいそうでした。


「確かに、ボクはあの風鈴の色遣いも音色も好きで、だからあの風鈴を眺めてたし、耳を澄ませてた。
 でもいつだって、そばにいてくれるお前のことを忘れたことなんて無かったよ。
 可愛い笑顔を見せてくれるお前の代わりなんて、ありはしないから。
 誰もお前の代わりにはなれっこない。だからボクは、無理せずに飾らないお前が、一番『お前らしい』と思うんだ」

 ご主人さまが片時も私を忘れていなかったということが分かって、全身の力が抜けていくような思いでした。けれど直後、もうひとつのことに体が強張りました。
 「お前らしい」。私らしいって、何?
 無理をしないで、飾らないで、自分の持っているものをありのままにさらけ出す。それが、「私らしい」?
 私は今までのことをゆっくりと思い浮かべます。私があの風鈴のように振舞ったのは、自分が自分らしさに気付いていなかったから、そういうことなのですか?


 その時になってやっと分かったのです。
 ご主人さまは「急に人が変わって、違う世界に行ってしまった」ようになどなっていなかった、と。
 そしてそんな風になって、大切な人の前から離れて行ってしまっていたのは、ほかでもない、私自身でした。


 ご主人さまは、私がご主人さまの知らないところで焦燥に身を焦がしていた間にも、いつも私のことを大切な存在として見つめてくれていたのです。私にとっても、ご主人さまは大切な唯一の存在でした。だからこそ、私は気付かないうちに「私」を棄ててまで、ご主人さまから離れないようにもがいていたのでした。
 けれどそうやって近くにいようと無理してもがけばもがくほど、私の想いとは裏腹に、ご主人さまから離れてしまっていた。そのことにようやく気付いたその時、私はその事実にずたずたに打ちひしがれて、自分でも情けないくらいに止めどない涙をボロボロと零しました。悔しさや悲しさというより、そんな負の連鎖の中でもがいていた私があまりに情けなくて、情けなくて仕方がなくて。

 けれどご主人さまは、そんな私でさえもやさしく包み込んでくれたのです。
 ご主人さまは私の瞳から零れ落ちたたくさんの涙をぬぐうと、またその手のひらで私を撫でてくれました。
 もう、どうやって感謝の気持ちを述べたらいいのか分からなくて、私はどうすることもできません。
 とにかく、この涙をぬぐってくれる手があるのだからもう泣いてはいけない、と思い、私はもう一度涙をぬぐってご主人さまに向かってにっこりと笑ってみました。
 ご主人さまも、とびきりの笑顔で、私を見つめてくれています。――他に、何を望めというのでしょう。十分すぎるくらいです。



「なあ、風鈴って、風がないと歌うことはできないだろう?
 風という助けがあってはじめて音を響かせられて、風鈴という自分の良さを知ってもらえる。
 ボクたち人間だって、それと同じことさ。誰かの助けがあってこそ、初めて自分の個性を生かせるんだ」



 ご主人さまはぬぐった私の瞳を見つめて、そう囁きました。
 私が私の歌を歌えるのは、ご主人さまの言う「風」のおかげ。
 なら、私の風はだれ? ――それは紛れも無く、私の、大切なご主人さま。ご主人さまのおかげで、私は私の歌を歌える。
 「私は普通の風鈴とは違う、私はチリーン。だから私は風なんて無くたって、私の歌を歌える」――今までずっとそう思っていたことは、とんだ思い違いでした。








「だから、これからもボクの傍でずっと、ずっと、歌っていてくれないか?
 ――飾らないお前が、ボクは一番好きだ」








 ちりん、ちりりん。
 窓辺に、別の風鈴が歌声を紡ぎました。私が、口にしきれないたくさんの想いを胸の中に感じているうちに。

 ご主人さまに伝えたいことは数え切れないくらいたくさんありましたが、それは全て私の心にとどめておくことにして、私はとびきりの笑顔を咲かせながら、ご主人さまのあたたかな腕の中に飛び込むだけにしました。
 たくさんの想いは、言葉にしてご主人さまに伝えるにはどうしても恥ずかしかったのです。なにより、口にしなくても、きっと通じ合っているでしょうから。


 ちりん、ちりりん。
 私は窓辺に歌う風鈴に負けないように、けれど今度は確かに自分だけの歌を、たくさんの愛と誇らしさをこめて歌いました。



 ――ご主人さま。これからも、「ご主人さま」という風に包まれて、歌い続けても構いませんか?





◇   ◇   ◇



 いつだったかの夏、風鈴の音を聞きながら書いた小説です。
 今よりもずっと拙い文体で書いていたころの小説だったので、こうして新たな場所で投稿させていただくにあたり、とっても懐かしい気分に浸っています。

 チリーンってとっても可愛らしいですよね!
 あの可愛らしさだからこそ、こんな風に表に出せない嫉妬心を感じてるのかな、と思ったり。
 これくらいの嫉妬だったら、とってもかわいいものだなぁ、って感じます。
 「チリーンっていいなぁ」を少しでも感じていただければ幸いです!

   ――2011年4月27日 別所にて追記のあとがきより



◇   ◇   ◇



 忘れたころに再投稿。自分で目を通していて懐かしくなりました……(笑)
 小樽ミオとして書いた最初の短編ということもあってか、思い入れのある作品のひとつです。

 暑くなるのかならないのかよく分からない今年の夏ではありますが、
 私もちりんと歌う風鈴の声を聞きながらのんびり過ごしたいと思います〜