マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  [No.701] 投稿者:夜梨トロ   投稿日:2011/09/07(Wed) 12:02:41   70clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 四

 僕はその時、本当の走りとは風になることなのだと分かった。
 風になっている。今、僕は風になっている。風として大地を駆けている。激しく身体が上下しており、本当にちゃんと掴まっていないと振り落とされてしまいそうだった。何よりも速く、速く、速く突き抜けていく。目まぐるしく風景は変わっていって追いつけない。その圧倒的な強さに僕は必死にしがみつきながら、同時に自分がどれだけ小さく弱者であるかを改めて思い知らされる。
 僕は風になっている。
 風になったウインディと僕は一体になって、駆け抜けていく。



 どれくらい時が経ったろうか、ある時突然ウインディの走りは減速した。ここは一体どこなのだろうか、それすらも僕にはよく分からない。僕はあまりの速さに顔を上げていられず、ずっとウインディの毛に顔を埋めていた。僅かに横目で移る景色を捉えていただけだった。僕を落とそうとしているかのような強い風は止み、遂に激しい揺れは完全に無くなる。
 埋めていた顔を上げる勇気がなかなか込み上げてこなかった。もう見てもいいのか、悪いのか。まるでかくれんぼをしていて、僕は鬼でもういいかいと言っても、もういいよと声が返ってこない時の不安にそれはとてもよく似ていた。
「着いた」
 掠れた声が僕の耳に届き、途端に安心感が僕の中に満ちる。かくれんぼで言えば、さあこれからあの子を探しに行こうと心を弾ませるあの感じ。僕は伏せていた耳を立てて、その瞬間大きな耳に少し強く温かな風が吹きこんできたのが分かった。僕の知らない風だった。
 恐る恐る顔を上げていって、しかし風景を視界に入れた瞬間僕の世界は暗闇に太陽が差すようにぱっと照らされた。
 うわ、臭い! 新鮮な空気に鼻が触れた瞬間、嗅いだことのない鼻がぴりっと辛くなるような匂いが飛び込んできた。匂いというより本当に分厚い空気そのものが入ってきた感じだ。
 その臭さに僕は嫌悪感を覚えたけれど、それはすぐに消え去る。嗅覚よりも視覚の方が衝撃的だったからだ。
「うみっ……!」
 僕は声を発した。ウインディは深く頷いた。
「そう、これが海だ」
 ウインディの立っているのは切り立った崖の先だ。それがどんな高さであるかそんなのはよく分からないけどとにかく高い。その目下、そして遠くずっと遠くの世界まで深い深い青が続いていた。空との境目が真っ直ぐ横に伸びていて、太陽の光を受けて煌めいている。青の中で引き立つ白い波があちこちで上がり、視線を横に逸らせば僕等のいる絶壁に波が弾けているのが分かった。それは荒々しく力強い。けれど視線を向こう側に戻せば高く打たれる波とは裏腹に穏やかでなんと綺麗なものだろうか。鼻につくしょっぱい強い風が激しく僕を揺らす。温い風だ。森の中では感じた事の無い風だ。耳を傾けるときゃあきゃあという高い生き物の声がいくつも飛び交っている。海上を沢山の白い鳥が飛びまわっていた。いいなあ羨ましいなあ。きっと気持ちいいんだろうなあ。僕も鳥だったならもっと向こう側まで行けるのに。
 なんでかな、ちょっと森を離れただけなのに、こんな場所があったんだということを初めて知って感動するやら嬉しいやらちょっと怖いやら、心臓の高鳴りが止まない。どきどきとして呼吸すらも苦しくなりそう。
 僕の知らなかった場所。僕が立ち入ろうともしなかった場所。なんて豪快で、壮大なんだろう。
「広いだろう」
 ウインディは感慨深そうに呟いた。僕は深く頷いた。
「海の向こうに更に陸があり、様々な生き物が住んでいる。私も個性豊かな色んな者に出逢ってきたよ」
 ああ、また懐かしそうな目をしている。
「こうして海を間近にすると、本当に戻ることはできないのだと実感させられる。もう海を渡る手段が私にはないんだ」
「じゃあ、どうやってここにやってきたの?」
 僕は思わず口走ってしまい、直後に少し後悔する。立ち入ることができないと思っていた境界線を僕はなんと呆気なく越えてしまったんだろう。
 ウインディは視線を僕に移し、細い目で見つめてくる。風に吹かれてウインディの長い毛も大きく揺れている。それのせいか、顔に暗みがかかっているように見えた。大きく重い口がそっと開く。
「……私には主人がいた。人間の主人が」
 僕は耳を疑い、もう一度ウインディの言葉を自分の中で噛み砕く。ウインディははっきりと人間と言った。海に対する感動の嵐は一瞬にして止んだ。そして身を硬直させる。心が重く静かな湖へと沈んでいく。冷めていく一方で、心臓の鼓動が激しくなっていく。鋭く鈍い記憶が叩いてくる。
 人間。
 僕は必死に表情を平静に保ちながら、自分の中でその言葉を唱えた。
 人間。人間。
 僕とお母さんを引き離した、人間。
 じゃあ、ウインディは人間の仲間ということ?
「彼と共にこの地を踏んだのだ。船を使って」
 頭の中が混乱しているせいかウインディの言葉が雑音に埋もれているように聞こえる。隣にいるのに急にとても遠くに感じる。あの日と同じ太陽が僕等を照りつける。炎の唸るような熱や音が僕の中で轟く。お母さんが必死に僕を守りながら囁くような声で僕を励ます声がこだます。大丈夫、大丈夫だから、と何度も言う声がだんだんと小さくなって、遂には聞こえなくなってきて、そしてお母さんは消えた。光に包まれて巨体は小さな球へと吸い込まれていった。音は、無かった。静寂の中でかつんと球が地面に落ちた音が響いた。ああ、色褪せていたかと思っていたけれどはっきりと僕は覚えている。モノクロになんかなっていない。忘れるもんか、あの虚しさも悔しさも淋しさも、そして怒りも。混沌とした記憶を追っていくうちに負の感情が膨れ上がっていく。
 その時突然、僕の顔が優しく撫でられる。ウインディが顔を寄せてきたのだ。はっとしてウインディの方を見ると、僕の身体の何倍もの大きさの顔面がそこにあり思わず萎縮してしまう。
「落ち着け、表情が強張っているぞ」
 掠れた声で囁く。そんな声質で僅かな声量だと、耳を澄まさなければ聞こえなかった。
 僕はじっとウインディ軽く睨む。ウインディは睨み返すことも憐れむこともせず、ただ黙って無表情で僕を見つめていた。
 上空で響く鳥の鳴き声が遠くなっていく。波の音もなんだか小さい。
「どうして人間といたやつがここにいるんだよ」
 声を低くして少し脅すような構えで僕は呟いた。聞こえただろうか、いや、きっとウインディの大きな耳なら掴んでいるはずだ。証拠にウインディの目が僅かに細まる。
「人間なんて嫌いだ。だいっきらいだ!」
 打って変わって力の限り僕は叫んだ。どろどろとした感情が一気に溢れだす。けれどウインディは表情を殆ど変えない。何も言わない。それが苛立ちを呼ぶ。何か言ってこれば僕も飛び出しやすいのに、一見平然としてる。
「人間と関わってるなら出て行けよっここは……僕等の場所は僕等のものだ、余所者は出て行けばいいんだ!」
 勢いのあまり唾が飛び出す。
 もう何も失いたくない。失うくらいなら何も変わらないでいた方がいい。もう海なんてどうでもいい。外の世界なんてどうだっていい。今まで通りいればそれでいい。
 ずっとそうしてきたのに何かが狂うように変わり始めた。そのきっかけは目の前の獣だ。既に僕自身も、森の雰囲気も彼を中心として変わってしまった。外の世界は何をもたらすか分からない。けれど事実なのはお母さんを奪ったのは外の世界、すなわち人間だ。それは紛れもない事実。もういい、懲り懲りだ。外界なんて懲り懲りだ。そしてウインディも外界の存在だ。だから出ていけば丸く収まるんだ。また日常が戻ってくる。
 それを望むべきなんだ。
 ああ、なのに、どうしてだろう。針のような言葉を投げつけているつもりなのに、どうして何も言ってこないんだ。
 これじゃあ、僕がただ喚いているだけのように見えるじゃないか。
「あんたの主人だってまだ近くにいるかもしれないだろ、探しに行けばいいじゃないか! それもせずにどうしてここにいるんだよ!」
 その瞬間何か言おうと相手の口が開いた。が、何も出てくることはない。
 しかし口よりも大きく動いたのは彼の耳、直後に体勢を低くし僕の傍に僅かに跳んだ。身体の方向を真逆、つまり僕と同じ向きに転換した。突然動き出したために僕は大きく震えた後に硬直した。視界を殆どウインディの身体が覆う。
 なんだよ、と言おうとするとウインディが足を僕の前に出し制す。情けなくなった僕は身体を縮こまらせながら、ウインディが低く唸っているのが分かった。表情は見えないが、恐らくは睨みつけていると想像できる。視線の相手を探るように僕はウインディの身体から顔を覗かせると、目を丸くした。
 人間だ。
 傍に柔らかい緑色の巨大な蛇のような生き物を携えて、こちらを見つめている。まだここから数メートル距離を置いているが、僕はまったく気付かなかった。周りを全然見ていなかった。ウインディは僕の話を聞きながら他の僅かな音を感知したのだろう。
 相変わらず吹きつけてくるしょっぱい風がぶわりと束になって襲ってくる。
 記憶が鮮やかに走り抜ける。さっき思い出したようにやってくる。けれどさっきとは違う。膨れ上がるのは虚しさでも悔しさでも淋しさでも、怒りでもなく、足をすくませ纏う恐怖だけだった。心臓の鼓動が速くなる。ぐんぐん速くなる。身体は動かない。呼吸が荒い。視界がぶれる。見えない。今僕は立っている? 座っている? いや、立っている。その足は、動かないまま。
 その僕を小さく小突いてきたのにはっと気付いた。ウインディが横目で僕を見ている。僕が我に返ったのを確認してから口が動いた。今度はちゃんとでてきた掠れた声は乗れ、と単調に滑る。
 僕は人間をもう一度改めて見る。当然僕があの日見た人間とは違いまだどちらかというと子供に見える。けれど人間なのに変わりはなく、それ以上様相を見る余裕など僕には無かった。
 ウインディは元々低姿勢だったのを更に低くし、僕が乗りやすいように配慮する。逃げるつもりなんだろう。お母さんの時と違って不意打ちを仕掛けられたわけじゃない。まだ間合いは十分とっている。逃げる余裕はある。それでもいつあちらが飛び出してくるか分からない。早く逃げなきゃと思うのに足は動かない。頭の中を炎が焼きつくす。熱が襲いかかってくる。静寂はまだ訪れない。
「早く、乗れ!」
 苛立っているようにもとれる声が僕を駆り立てた。慌てて僕は飛び上がった。助走を取っていなかったために上手く乗れなかったが、懸命によじ登る。巨体に乗り、長い毛で視界が殆ど塞がれる中で僕は少し顔を上げて人間の様子を伺った。緑の大蛇が光に包まれ、小さなボールに収納されるのが見えた。あれはお母さんが捕まえられたのと同じもの。なんて恐ろしいものだろう。
 嫌だ、あれにだけは入りたくない。捕まればここから離れてどうなるのか分からない。
 別のボールが人間の手に握られた。他にも従えているらしい。
 ウインディの身体が少し動く。
「しっかり掴まれ――どんなことがあっても」
 彼の声が僕に跳び込んできた直後、巨体が一気に動き出し加速した。方向は一直線に人間の方だ。別の鳴き声が僕の耳に跳び込んできた。
 その瞬間、それまでの掠れた声が嘘であるかのように、爆発のような咆哮がウインディから跳び出した。巨大な声量に心臓が大きく跳ね顔を毛の中に潜らせた。ウインディの全身が叫びにより震えているのが分かった。彼の身体が一層熱を帯びる。咆哮は一瞬の出来事ではなく数秒に渡り、その中で視界のはじっこに光る火の粉が舞っているのが見えた。あれは敵のものか、それとも……。
 気付いた頃には元の道である森の中へと跳び込んでいた。あっという間の出来事であった。彼が動き出してから十秒と経っていないだろう。海から遠ざかっていく。波の音などもう耳には入らない。風や木の葉がめちゃくちゃに荒々しく僕を引っ掻く。必死にしがみつく。行きよりも速いのだろうか、比べられないけれどきっと速いんじゃないかと思う。
 とても今迄怪我をし、穏やかに笑みを浮かべていた者と同じとは思えない。僕の目の前にいるのは、確かに獣だった。湧き上がる力を余すことなく発揮した獣の姿がそこにあった。
 ああ、これが、力か。



 最初こそ神速の如く走り抜けたウインディだったが、そのスピードが明らかに落ちていくのを体感できた。荒い呼吸をしている。彼の身体に耳を澄ませてみると、ひゅうひゅうと鋭い風が吹いているような呼吸音が聞こえてくる。快活な足の動きはもう無い。それでも走り続けた。僕の故郷にやってきたころにはもうふらふらと身体はぶれていた。
 顔を上げて僕は何度か彼に声をかけたが返答は一切無かった。時折僕は後ろを伺ったが当然人間が追ってくる様子は見えない。
「ウインディ!」
 聞き覚えのある声が耳に跳び込んできて僕ははっと顔を上げた。おじさんが赤と白の丸い手を振っていた。ウインディの足はもう歩いているのとほぼ変わらなかった。ひなたぼっこをした丘のてっぺんに辿りつきおじさんの傍までようやくやってくると、突然ウインディは糸が切れたように全身の力を抜き、横に倒れ込む。
 僕は慌てて倒れる前に地面に跳んだ。着地と同時にウインディが丘に倒れた。その目は閉じ、僅かに開いている口から出てくるのはか細い呼吸だけ。時々荒い咳が跳ぶ。それとは裏腹に胴体は大きく膨れたりしぼんだりを目に見えて繰り返す。
「ウインディ!」
 僕は悲鳴をあげた。おじさんがすぐに傍に寄り、身体を撫でる。僕とおじさんは何度も彼の名前を叫んだ。返事は無い。
 代わりに咳と共に少量の血が吹き出た。



 その日はウインディの傍を離れずにいた。おじさんが薬草を取りに行っている間も、彼の容体を見つめていた。良くなる傾向は一切なく、運動後からしばらく経っても呼吸は激しいまま。何もできないことが腹立たしかった。苦しい表情を和らげる方法を僕は知らないのだ。
 おじさんが戻ってきて声をかけるのに疲れていると、いつの間にか僕は眠りについていた。夢の内容は覚えていない。何か見ていたのか、何も見ていなかったのか、それもよく分からない。ただ、心地よい眠りについていたわけではない事だけは確かだった。

 目が覚めると夕日は既に山の間に落ちており、星が空に瞬き始めていた。身体を動かそうとしたが、傍で会話をしているのに気付いて寝たふりを続けることにした。重苦しい雰囲気であるのは寝起きの僕でもすぐに理解できた。起きていることを悟られないように、ただ会話の内容だけは気になって静かに耳を立てた。
 会話をしているのはおじさんとウインディ。時々聞こえてくる咳の音が痛々しかったが、会話ができるほどには回復したようだ。僕はとりあえずほっと胸を撫でおろす。けれどウインディの声は今までよりずっと掠れており、必死に耳を傾けないと聞こえないほどに小声であった。
「気付いていたんだな」
 ウインディの呟きにおじさんはそうねと返答した。
「その掠れた声に、ずっと引っかかっていたのよ」
「そうだな。さすがに隠しようがない」
「怪我なら私も多少は処置できるけど、病気に関してはどうしようもないの」
 病気。
 心の中で僕は呟く。
「分かっている。もうどうしようもないんだ。手遅れでね」
「諦めたらいけないわ」
「はは……残念ながら諦める他ないということは、もうずっと前から分かっていた」
 激しい咳がすぐに聞こえてくる。身体を軽く叩く音は恐らくおじさんがしているものだ。
 話の流れがだんだんと読めてきた。嫌な予感だけが過る。話の先が見えているけれどそれを全力で否定したい。否定したいのにできない。
「もう時間は残されていない」
 咳が収まってからウインディは言った。自分のことなのに淡々と話すウインディの落ち着きように、恐ろしささえ感じた。
 無風、無音の世界が僕達を包み込む。

「そう遠くない日に、私は死ぬだろう」


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