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  [No.747] 季時九夜の限定回路 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/09/28(Wed) 19:23:39   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 連作形式の作品を書いてみようと思ったので、こちらに投稿させていただきます。
 全八話の連作で終わる予定です。短編小説で練習した成果が出ればと思います。

 常川水琴(つねかわ みこと)  一年生
 宮野早穂(みやの さほ)    一年生
 塚崎静佳(つかさき しずか)  二年生
 絹衣了吾(きぬい りょうご)  二年生
 白凪凉子(しらなぎ りょうこ) 三年生
 水際誠 (みぎわ まこと)   三年生
 桐生萌花(きりゅう もえか)  三年生

 笹倉美菜(ささくら みな)   学校司書
 鈴鹿大地(すずか だいち)   喫茶店店長

 季時九夜(きとき きゅうや)  生物学教師


  [No.748] 一話 可愛がり屋の拘束衣 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/09/28(Wed) 19:24:45   65clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 1

 季時九夜が授業を終えて廊下に出ると、一人の生徒とぶつかった。視線を下に向けていたので、目に入ったのは制服のスカートだった。季時は身体を教室に戻して、顔を上げた。
「あっ、きゅーやんごめん」
「廊下は走らない」
「走ってないよ」
 常川という女子生徒だった。胸のところに、服を着せた黄色いネズミを抱えていた。制服にもところどころ黄色いものが見える。意識しているのだろう。
「廊下を走らなければ僕とはぶつからない」
「走らなくても双方がよそ見をして歩いてればぶつかるんじゃない?」
「じゃあ追加しよう。廊下でよそ見はしない」
「きゅーやんだってよそ見してたじゃん」
「僕は教室にいたよ」
 常川は頬を膨らませる。どうして怒りを表す時に人間は頬を膨らませるんだろう、と季時は思った。頬の膨張率に何か因果があるのだろうか。少なくとも威嚇しているようには見えない。可愛らしくすらある。
「じゃあ、今度から気をつける」
「まだ話がある。校舎内では、ポケモンはボールに入れて携帯するのが校則だ。校則違反は、ここまで至近距離で見てしまうと、見逃せない」
「もう授業終わったしいいじゃん。あとホームルームだけだし」
「校則は授業中だけ適用されるものじゃない」
「はいはい」
「はいは一回か十回、どっちがいい?」
「はーい」常川はまたふてくされて頷いた。「でも、ちゃんと服着せてるし、悪さもしないんだからいいじゃん」
「悪さをするから校則があるんじゃない」
「じゃあ何のためにあるの?」
「何かのためにあるんじゃないよ」季時はようやく廊下に足を踏み出した。「ただ校則はあるだけ」
「それじゃ納得出来ない」
「校則は納得するためにあるんじゃないよ」
「じゃあ校則なんていらないじゃん」
 季時が教科室に向かおうとするのを、常川が追跡する。他の生徒が、季時の姿を見て、挨拶をしてくる。
「その通り、校則なんていらない」
「じゃあなくせばいいのに」
「なくしたくてなくせないもので地球は出来てる」
「大人の都合」
「人間の都合だよ」季時は階段を降りる。常川がそれに続いた。「早くボールにしまった方がいいんじゃない。僕はいいけど、他の先生は僕より厳しい」
「……はぁい」
「いい返事だ」
 常川は携帯電話についているボールで、黄色いネズミを回収した。縮小するとビー玉ほどの大きさだ。携帯電話か、バッグについていることが多い。
「なんでうちの学校ってこんなに校則厳しいの?」
「厳しい校則があるのがうちの学校なんだよ」
「そういう話がしたいんじゃなくて」
「服は感心しないな」
「え?」突然の話題の切り替えに、常川は戸惑う。
「服。ポケモンに服を着せるもんじゃない」
 渡り廊下を進み、棟を移動する。こちらには実験室や教科関係の教室がある。季時の城もそこにある。
「なんで? 可愛いじゃん」
「僕にはそうは思えない」
「それはきゅーやんのセンスが悪い」
「君はポケモンが好きなんじゃなくて、服が好きなわけ?」
「違うよ。可愛いポケモンが可愛い服着てるのがいいんじゃん」
「可愛さに可愛さを足すとあくが強いなあ」
 B棟と呼ばれるその校舎の三階に、季時の城がある。生物準備室という名前の部屋だ。生物を担当する教師は季時しかいないので、完全に季時の個人部屋だった。
「で、君はいつまでついてくるの」
「んー、たまにはきゅーやんの部屋でも覗こうかと思って」
「僕に拒否権は?」
「ないよ」
「そう。じゃあ、どうぞ」季時は部屋に常川を案内した。「ホームルームまであと六分。教室まで二分。時間が四分ある。まあ、ごゆっくり」
「はー……いつ来てもすごい部屋だよね。ポケモングッズだらけ。でも、いい加減掃除したら?」
「するよ」
「あ、そうなの? いつ?」
「決めてない」
 生物準備室は物で溢れかえっていた。それは全部ポケモンに関する物だった。季時が担当している生物学は九割以上ポケモンに関する授業を展開する。使用する資料も全てポケモンに関するものだった。
「私も早くきゅーやんの授業取りたいなー」
「生物学は二年から。今は真面目に化学を勉強しなさい」
「別に化学とか興味ないんだよねー。ポケモンのことが知りたいだけだからさ」
「知ってどうするの?」
「え、何それ、禅問答?」
「いや、これは完全に個人的な興味」季時はインスタントコーヒーの瓶を空けて、中身をマグカップに入れる。「僕はポケモンのことなんて知りたくないから」
「え、だってきゅーやんポケモンの先生じゃん」
「うん、そうだよ。常川君もコーヒー飲む?」
「すぐホームルームだけど……」
「ああ、そう。僕は担任じゃないから、ホームルームないんだけどね」季時は電動ポットからお湯を注いだ。「で、なんでポケモンのことを知りたいの?」
「え、それはだって……興味あるから」
「ふうん。でも、ポケモンならそこにいるじゃない」
 季時は常川の携帯電話を指差した。ボールがぶらさがっている。先ほどの黄色いネズミが入っている。
「いるけど、だから、それについて勉強したいの」
「勉強がしたいなら一人でも出来るよ。教科書もあるし、参考書もあるし、学術書もあるし。そんなに知りたいんだったら僕が教えてあげてもいい。授業外でね」
「なんか、きゅーやん今日いじわるじゃない?」
「怒ってるからね」スプーンでマグカップをかき混ぜながら季時は言う。
「え、なんで?」
「君がポケモンに服を着せるから」
「そんなに怒ってたの?」
「激怒してるよ。憤怒と言い換えてもいいかな」
「なんで?」
「四分経つよ」季時は時計を指差して言った。「教えて欲しかったら、授業外に教えてあげるから、またおいで」
「今教えてくれてもいいじゃん」
「説明するのに七分はかかる」
「……じゃあ、ホームルーム終わったら来るから」
「走らない、よそ見をしない」
「はーい。分かってるってば」
 常川は部屋から出て行く際、小さく唇を尖らせた。これもあまり威嚇しているようには見えないな、と季時は思った。

 2

「あの、季時先生、聞きたいことがあるんですけど」
 ホームルームが終わって三分が経過した頃、一人の女子生徒が季時の元を訪れた。二年生の塚崎という生徒だ。大人しい風貌だ。赤縁のメガネとセーラー服に黒髪が似合っていた。生物学を取っている生徒で、勉強熱心な子だった。
「何? 授業内容だったら聞きたくないな」
「いえ、個人的な相談なんですけど」
「そう。じゃあ聞くよ」季時は立ち上がって、塚崎をエスコートし、書類を取り除いた椅子に勧めた。「ああ、ドアの鍵を閉めておいて」
「え、どうしてですか?」
「邪魔者が来ると話が途切れるから」
 塚崎は不思議そうにしながら内鍵を掛けた。
「で、質問って?」
 塚崎は椅子に腰掛けて、バッグの中から四角いケースを取りだした。膝の上でその蓋を開く。中には六つ、ボールが入っていた。それを固定するように、ボール型に穴の開いたスポンジが敷き詰められている。
「私のポケモンのことなんですけど」
「ああ、うん。続けて」
「この前、友達に連れられて、ポケモン用の服屋に行ったんです。それで、可愛いと思うものがあったので買って、着せてみたんですけど……なんだかそれから機嫌が悪いんですよね。私、何かしちゃったかな、と思って」
「ああ……そう。ひどいことするなあ。世が世なら犯罪者だ」
「えっ」
「何? 最近、ポケモンに服を着せるの、流行ってるの?」
「えっと……どうでしょう。前から結構。でも、最近、駅前にお洒落なお店がオープンしたので、それで最近みんな、行ってるみたいですよ」
「なるほどね。塚崎君が行くレベルとなると、もうこの学校の女子生徒は全員行ってると考えて良さそうだね」
「それはどういう意味でしょう」
「そのお店がすごくお洒落って意味だよ」季時は微笑んだ。「で、全員に着せたわけ?」
「あ、いえ、この子だけなんですけど……」
 塚崎は一つのボールをつまんで、季時に手渡した。季時は慣れた手つきでそれを元の大きさに復元させると、足下にあった本を蹴散らした。
「体長は? というか、ポケモンの種類は?」
「あ、イーブイです」
「三十センチか。もう少しかな」さらに本を蹴散らす季時。「特異個体だったりしないよね。つまり、大きさは平均だよね」
「普通ですね」
 季時が床にボールを転がすと、イーブイが現れた。イーブイは外に出るなり、辺りを見渡して、そこが自分の知らない場所だと気づき、不安そうにしていた。
「ああ、なるほど、こりゃ相当に機嫌が悪いな」
「先生、分かるんですか?」
「全然。でも、悪いんでしょう?」季時は不思議そうに言った。「さて、ちょっと触らせてもらうよ」
 季時はイーブイを抱き上げる。イーブイは、相手が知らない人間ではあったが、あまり嫌悪感を示さなかった。季時という人間は、そういう人間だ。ポケモンに嫌悪感を抱かせない才能を持っていた。悪意や善意というものがない、まったくの無邪気な人間だったからだ。
「なんで服を着せようと思ったの?」
「えっと……可愛いかな、って」
「イーブイ、可愛くないかな?」
「え? 可愛いですけど」
「あのねえ、服ってのはさ、センスなわけだよ」
 季時は珍しく真面目な顔になった。
「センスですか」
「うん。ポケモンって、いつも裸ん坊でしょう。でも、裸でも、いいセンスだよ。そうやってね、成長して、進化して、時代の中で個性を身につけて行ってるわけ。もう、何万年もかけて自分のスタイルを確立しているのもいるわけだよ。それがさ、十何年しか生きていない小娘に否定されて、センスの欠片もない服を着せられたら、怒るよね」
「……そうなんですか」
「多分ね」季時はまたイーブイに向き直った。「それか、単純に息苦しかったかどっちかかな」
「どっちなんですかっ」
「両方かな。そもそも血の気の多い種族なんだからさ、戦いに無駄な布なんてつけたくないでしょう。ああ、これか」
 季時はイーブイの胸毛から、一本の糸くずを取り出した。それは緑色をした、明らかに人工的なものだった。
「糸くず……」
「イーブイってね、胸のところ、四肢が届かないんだよ。それに、毛が長いから、深部にあるものはなかなか取れないんだ。これ、豆知識」季時はイーブイを塚崎に渡した。「何が起きてたかって言うと、人間で例えると、耳の、鼓膜辺りに砂鉄が三粒くらい入ってて、それが取れないまま、部屋に閉じ込められて、訴えることも出来ない、って気分かな。ちゃんと謝っておきなよ」
「そんなにひどかったんですか……」
「さあ。例えだから分からないけど、まあ、似たようなものだと思う」
「ごめんね、イーブイ」
 塚崎がイーブイに謝罪の言葉を述べると、イーブイは怒ったように、身体を大きくしてみせた。これこそ威嚇のあるべき姿だな、と季時は思った。
「服を着せるのって、良くないんですね」
「え、別にいいんじゃない?」
「どっちなんですかっ」
「いや、双方の合意があるならいいと思うよ。そういうものでしょ。なんでもそうだけど、一方的なものって良くないよ。ああ、塚崎君、コーヒー飲む?」
「え?」急な話題転換に塚崎はついていけない。
「インスタントじゃないやつ。それを飲むなら授業内容についての質問も受け付けるけど」
「えっと……じゃあ、いただきます」
「あのねえ、コーヒーメーカーで淹れると、絶対に美味しい一人分は作れないんだよ。かと言ってさ、二人分作っても、飲むのは一杯でいいんだよね。実際は三人分出来ちゃうんだけどさ。まあ、これはね、ポケモンと人間の関係と一緒だよ」
「それ、どういう意味ですか?」
「意味はまだ考えてない」季時はコーヒーメーカーをセットし始める。「塚崎君、ちょっと、二百円あげるからさ、購買で良さそうなお菓子買ってきてよ」
「えっと……はい」
「ついでに、ポケモンに服を着せるのは良くないって噂、広めて来てくれるかな」

 3

 常川は季時の言うことが気に入らなかった。教室でクラスメートと雑談の延長戦をしたあと、B棟にある生物準備室に向かって歩いていた。
 別にポケモンに服を着せるのがポケモンのためにならないというのなら納得が出来る。しかし、その理由をちゃんと伝えてもらえないと、納得がいかない。常川が生物準備室のドアをノックすると、「開いているか確認して」と暢気な声が帰ってきた。
「失礼します」
「あれ、常川君か。五パーセントの予想が当たった」
「なんですか?」
「いや、こっちの話。そっちの話は?」
「さっきの話を説明してもらいに来ました」
「コーヒーが入るまであと五分かかるし、今から話すと二分オーバーするから、そのあとでいい?」
「別にいいですけど。ここ、座っていいですか?」
「そこは先客がいるんだよ」
 常川はもう一つの椅子の上にあった書類を床に移動させて、座り込んだ。部屋は中心にダイニングテーブルが置いてあった。上は書類や本だらけなので、物置としてしか機能はしていない。季時は一般的なデスクを利用していた。その上は、比較的片付いている。
「誰かいたんですか?」
「塚崎君」
「ああ、塚崎先輩ですか」
「知ってるの?」
「はい。部活の先輩ですよ」
「冗談はもっと面白い方がいいな」
「本当ですよ」
「え、だって、塚崎君、手芸部だろう?」
「そうですよ。私も手芸部です」
「……そうかあ、人生は驚きの連続だなあ」
「どういう意味ですか」
「額面通りの意味だよ」
 二人が話していると、塚崎が戻ってきた。手には羊羹が四つ握られていた。「あ、常川さん」と、来客の存在に気づいて、小さく頭を下げた。
「こういうものしかなかったんですけど」
「コーヒーに羊羹かあ」季時は渋い顔をしながら羊羹を受け取って、デスクに置いた。「そうか、君、なかなかいいセンスしてるね」
「ありがとうございます」
「やっぱりきゅーやんセンスないよ」
「いや、僕には僕のセンスがあるよ。センスがない、という言葉は一方的だな。さっき、一方的なのは良くないって話をしただろう?」
「聞いてませんけど」
「うん、君にはしていないけど、僕はしたんだよ」
 常川は今にも怒り出しそうだった。季時の人を食ったような話し方が、いちいちかんに障った。だが、どうやらこういう話し方はある程度親しい間柄の人物に限定されるようなので、嬉しいような、苛立たしいような、複雑な気分だった。
「常川さん、どうしたの?」
「きゅーやんに抗議に来たんです」
「授業を受けに来たんじゃなかったの?」季時が訊ねる。
「似たようなものですよ」
「それもそうだね」季時は否定しなかった。「ところで常川君、塚崎君のイーブイがね、服を着せたおかげで機嫌が悪くなって、今僕のところに相談に来たんだよ」
「え、そうだったんですか?」
「うん……先生に見てもらおうと思って」
「それ、本当に服が原因だったんですか?」
「いや、僕は違うと思うな」
「えっ」驚いたのは塚崎だった。「先生、さっきと言ってることが……」
「間違ってないよ。イーブイの機嫌が悪くなった直接の原因は糸くずだからね。要因は服だけど。さて丁度三人分のコーヒーが出来たからみんなで飲もう。君たち、羊羹食べる?」
「いらない」
「いただきます」
 季時の汚れたマグカップとは違う、綺麗なコーヒーカップが二つ出て来た。この部屋にも、最低限の客人をもてなす用意は出来ているようだった。
「砂糖とかあります?」常川が訊ねた。
「あるけど、どうするの?」
「コーヒーにいれます」
「それはもうコーヒーじゃないよ」
「私、苦いと飲めないんです」
「今回だけだよ」季時はスティックシュガーを常川に放り投げた。
「あるんじゃないですか」
「一応ね。ではここから授業を始めようか」季時は身体を二人の女子生徒に向けた。「そうやって、なんでもかんでも自分好みにして、君らはどこに行くつもりだい?」
「え、どこに行くって……別に、ここにいますよ」
「君たちがね、その、制服を改造したりとか、制服の上にセーターを着たりとかするのを、僕は否定しないよ。それは君たちの問題だからね。でも、ポケモンに服を着せたら、君一人の問題じゃないわけだ。分かる?」
「……?」塚崎は首を傾げた。「ポケモンにも主張する権利があるということですか?」
「うん。じゃあ、例えば常川君が僕のものになったとしよう」
「いやですよっ」
「いやでもなるんだよ。ポケモンはそうやって捕まえられるんだからね」
 季時の声はいつもと違い、少し強ばっていた。
「中には望んで飼われるポケモンもいるかもしれないね。でも大半はね、自分の意思とは関係なく飼われるんだ。哀れだね。その上、自分の意思や理想とは関係ない服を着せられると思ってごらんよ。例えば常川君にはそうだな、バニーガールのコスプレをさせよう」
「きゅーやんそういうのが好きなの?」
「いや、嫌いだよ。僕が好きなのは袴にブーツ」
「あ、それお洒落ですね」塚崎が言った。
「うん、塚崎君が例えば僕のものになって、袴にブーツという格好をさせられるのは、お互い合意の上だ。でも、常川君はバニーガールが嫌だろう?」
「嫌に決まってるじゃないですか」
「ポケモンもそう思ってるかもしれない」
 季時が言うと、常川は黙り込んでしまった。
 季時はしばらく常川の答えを待ったが、しゃべり出しそうにないので、話を続けた。
「センスが良い悪いとかさ、そういうのじゃなくて、まあ、つまり、服を着せるという行為の中に、お互いの心は通じ合ってるのか、ってところかな。はい、七分経ったよ」
 季時はそう言って、コーヒーを飲み、羊羹をかじった。そして、「悪くないね」と呟いた。
「それは、服を着たいかどうか、ピカチュウに聞いてみろってことですか?」
「聞けるものならね。でも、聞けないでしょう」
「……聞けないです」常川は項垂れる。
「じゃあ、特別に、簡単な見分け方を教えてあげようか」
 季時は白衣のポケットからボールを取り出した。それは、常川や塚崎が利用しているものとは大きさが違った。季時の世代では一般的なボール。現代では、少し時代遅れのボールだ。
「見ててごらん」
 季時がボールを床に放ると、中からカゲボウズが現れた。カゲボウズは季時を見ると、喜んですり寄ってくる。そして、季時の白衣のポケットを探った。
 カゲボウズはポケットの中から、赤いリボンを取り出した。そしてそれを口に咥えると、季時の手に置いた。季時は慣れた手つきで、それをカゲボウズの頭にくくりつけた。
「彼女のお気に入り」
「可愛いですね」塚崎が言った。「自分でつけてって持って来るんですか?」
「そう。これはね、彼女がつけたがるんだ。僕もまあ、悪くないと思うから許可してる。常川君、僕たちはね、自己満足のためにポケモンを捕まえたんだ。だったら、それ以上のことは、せめてポケモン側が訴えるまで、待ってあげるべきじゃないかな。僕らが自分の勝手で捕まえた都合はなくならないわけだしね。これが人間の都合。さっき話しただろう?」
「うん。ごめん、きゅーやんの言う通りだと思う」
「いい子だね。きっといいパートナーになれるよ」季時は笑顔を見せた。「ところでさあ、その駅前に出来たっていう店、なんて名前?」
「え、先生、行くんですか?」
「うん。そんなにみんなが行くなら、僕も行こうかなと思ってさ」
「服着せるの?」常川が怪訝そうに訊ねる。
「彼女が気に入ればね」
「でも、店内はポケモン連れ歩き禁止だったはずですから、一緒には見られないと思いますけど……」
 塚崎が言うと、季時はげんなりとした表情をした。
「ポケモンはボールに入れて携帯しろって?」
「そう、ですね」
「そのルールは、一体何のためにあるんだ」
「ルールって、何かのためにあるの?」
 常川が訊ねると、季時は溜め息をついて言った。
「いや、ルールはあるだけだ」


  [No.749] 二話 寂しがり屋の清掃員 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/09/28(Wed) 19:25:32   58clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 1

 季時九夜は午前六時に目が覚めてしまったので、仕方なく仕事に向かうことにした。今日は一時間目の授業がなかったはずだ。職員会議もない。しかし二度寝をすると危ないので、ならばいっそ学校に向かう方が良いだろうと考えた。自転車のカゴに鞄を入れて、学校に向かう。通勤にかかる時間は十分ほどだった。今の学校を季時はとても気に入っている。仕事というのは、職場までの距離が短ければ短いほど良くなる傾向にある。
 職員用の駐輪場に自転車を駐め、中庭を経由して直接B棟へ向かおうとすると、ジャージを着た集団に会った。部活の朝練だろうか。こんなに朝早くから練習しているのかと感心する振りをした。生徒たちはすぐに季時に気づいて、頭を下げた。
「先生、早いですね」唯一声まで出したのは、絹衣という男子生徒だった。二年生で、生物学を取っている。「いつもこのくらいの時間ですか?」
「いや、三年ぶりくらいかな。君たちこそ早いね」
「僕たちは、一ヶ月ぶりです。美化委員なんですよ」
「ああ」季時は深く頷いた。「それ、教室の清掃とかはしないの? 例えば、生物準備室とか」
「しませんね」絹衣は苦笑した。
「今、何してるの?」
「学校を回って、外に落ちてるゴミを拾ってるんです。紙パックとか、パンの袋とか、まあ色々。結構、無法地帯ですよ」
「ふうん。ゴミかどうかの判断はどうやってするの?」
「名前が書いてなければゴミですね」
「なるほどね。がんばって」
 季時は集団と反対の方向へ、つまりB棟へと向かった。しかし、また障害があった。そこに、ポケモンがいたのだ。
「あれ、ヤブクロンか」
 季時は、ゴミ袋の山にひっそりと隠れているヤブクロンを見つけた。きっとさっきの集団がゴミをまとめている場所なのだろう。どこから沸いてきたのかは分からないが、居心地が良さそうだった。
「ゴミの匂いを嗅ぎつけて来たのか。ふうん、ベトベターじゃなくて助かったってところか」季時は周囲を見回した。「美化委員に知らせないとな……進化すると惨劇だ」
 季時はヤブクロンの頭に手を置いて、「しばらくここにいるように」と指示を出してから、先ほどの集団を追いかけた。美化委員たちは、さきほどの場所から少し進んだ場所で、ゆっくりとした歩みでゴミを拾い集めていた。
「作業中に悪いね、委員長は誰?」
「私ですが」反応したのは白凪という、三年の女子生徒だった。「何ですか?」
「ゴミ袋、あれ、君たちの?」
「B棟にあるものですか? そうですけど」
「ヤブクロンがいたよ」
「あっ、またですか」次に反応したのは絹衣だった。「前も沸いたんですよね。この学校に住み着いてるみたいで」
「へえ。よく今まで進化、というか、破裂しなかったね」
「いつもはすぐに気づくんですけどね。さっきはいなかったのになあ……」
「ポケモンは学習するんだよ。まあ、とにかく忠告しておくよ。ゴミが荒らされたら大変だろうから」
「処理しないといけませんね。じゃあ、絹衣君、このまま校門まで行ってくれる? 私はそっちを処理するから」
「え、でも、一人で大丈夫ですか、委員長」
「一人?」白凪は季時を見た。「でも、先生、手伝ってくれますよね?」
「僕? いや、僕は仕事があるんだけど……」
「三年ぶりに早く学校に来てまで、やらなければならない仕事があるんですか?」
「ああ、うん、そうね、学校に出たヤブクロンを処理するっていう仕事があってね。生物学教師として」
「そうですか。ありがとうございます。というわけだから、私は先生とヤブクロンを処理します。絹衣君、あとよろしく」

 2

 二人でゴミ袋の場所に戻ると、ヤブクロンがいなくなっていた。白凪は季時をじっと見つめた。
「いませんね」
「なるほど、人間の気配を察知して逃げるように成長したわけだ。ポケモンは頭が良いからね」
「先生は見たんじゃないんですか?」
「僕はね、何故かポケモンに逃げられない体質なんだ」
「そう言えば、そんな話を聞いたことがあった気がします。ということは、私は邪魔だったでしょうか? 先生が一人で捕まえた方が……」
「うーん、でも、僕一人に任せると、三時間はかかるよ。動きが遅いから」
「一緒に探しましょう」白凪は姿勢を整えた。「心当たり、というか、ヤブクロンが隠れそうな場所、想像出来ますか?」
「出来るよ。じゃあ、歩こうか」
 季時は目的地を告げず、歩き出した。白凪は黙ってそれについていくる。
「そう言えば、白凪君、ポケモン非所持で有名だね。まあ、個人の思想をどうこう言うつもりはないけど、目的地まで暇だから話さない?」
「何を話せばいいですか?」
「なんでポケモン持ってないのかな、って」
「別に、大した理由ではないですけど、機会がなかっただけです。あと、ポケモンを見つけるのが下手だったり、捕まえるのが下手だったので。昔、何度か挑戦したんですけど、無理でした」
「なるほどね。でも今はもう出来るんじゃない?」
「今はもう、あまり興味がないですね。なくても生活出来ていますし、不必要かと」
「ふうん」
 季時は白衣のポケットに手を入れて歩いていた。ポケットの中にはボールがあった。それをなんとなく握り込んだ。
「そう言えば、なんで美化委員なんてやってるの?」
「綺麗なのが好きだからです。というか、汚いものを見ていたくありません、という方が正しいですね」
「へえ。あのさあ、僕の部屋汚いんだけど、掃除してくれる?」
「ご自宅ですか?」
「いや、生物準備室。別名ゴミ捨て場」
「何か報酬があれば考えます」
「そうだね……掃除の最中にコーヒーが飲めるよ」
「遠慮しておきます」白凪は首を振った。「それに、教科準備室は簡単に白黒つけられませんから、私たちでは難しいです。何を捨てて良いのか分かりませんから」
「あ、そう……別に、白黒つけなくても、あるものをあるべき場所に戻してくれればいいんだけど」
「私は掃除は捨てることだと思っていますから」
「へえ?」
「必要なものは、利用するという名目があって出されているわけですから、汚れとは違いますよね。だから、それは無理に収納しなくても、綺麗だと思います。ですが、ゴミは捨てなければなりません。綺麗ではありませんから」
「必要ないものだけ捨ててくってこと?」
「ええ。ですから、生きていく上で不要だと思うものは排除していくという考えです。先生に言うことではないかもしれませんが、ポケモンだって、はっきり言ってしまえば、私の人生には不要ですから、所持していません」
「なるほど、白凪君とは少し、考え方が似てるかもしれないね」
「では先生のお部屋は綺麗かもしれませんね」
「うん、個人的にはね。でも、普段はいらないものばかりだよ。大切なものだけどね」
 季時と白凪は、プールへと向かった。夏が終わり、朝は吐く息が多少白くなる季節だ。プールはもう使われていなかった。
「こんなところにいるんですか?」
「彼の友達がたくさんいるからね」季時はコンクリートの階段を上る。「冬場のプールはねえ、ベトベターがいるんだよ」
「そうなんですか」
「知ってる? ベトベターは、ヘドロが月の光を浴びると生まれるんだ。だからね、屋根のないプールは、ベトベターが沸くんだよ。そもそもこれ、プール開きの前に、美化委員が掃除したりしないの?」
「プールは水泳部の管轄だと思います」
「ああ、なるほど。とにかく、見てごらん」
 ロープをまたいでプールに向かう。水の張られていない、二十五メートルプールの中には、紫色のヘドロがうごめいていた。
「すごい……いっぱいいますね」
「でも、彼らは別に悪さはしないから、安心して。うちの学校もね、害はないから放っておくことにしているんだ。ほら、あそこ」
 季時が指差した先には、ヤブクロンがいた。コンクリート塀の角で、丸まっていた。
「確かにここなら誰にも見つかりませんね」
「で、美化委員としては、彼をどうするつもり?」
「どうする、とは」
「捨てるかい?」
「活動の邪魔になるようなら、やむを得ません」
「そうか。まあ、僕は美化委員とは関わりがないから、止めないよ。でも、白凪君、ポケモン持ってないんだろう? ポケモンの扱い方、分かる?」
「知識はあります」
「そう。じゃあ、あとは任せた」
 季時はそう言って、プールから出て行こうとする。白凪は慌てて季時の白衣を引っ張った。
「何かな」
「先生も手伝ってください」
「手伝うって言っても、難しいことじゃないよ。そっと行って捕まえればいい。ボールなんか使わなくても大丈夫だよ、あのくらいのサイズなら」
「いえ、その後の処理が分からないんです。ポケモンは流石に、ゴミ袋に詰めて出すわけにはいかないでしょうし」
「ああ、なるほどね。でもそれは、僕が教えることじゃないな」季時は白衣を引っ張り返す。「しばらく自分で考えてごらん。これ、貸しておいてあげるから」
 季時はポケットの中からボールを取りだした。それは、中に何も入っていない、空っぽのボールだった。
「これは……」
「よければあげるよ。まあ今日はまだ授業まで時間があるしね、少し経ったらまた来るから、ちょっと考えてみてごらん」
 季時はそう言って、さっさとプールを離れてしまった。白凪はボールを片手に取り残されて、その場に残った。何故自分がここに残されたのか、その意味も分からないままだった。

 3

「あれ、委員長は一緒じゃないんですか?」
 季時が美化委員のところへ来ると、絹衣がすぐに訊ねて来た。
「プールにいるよ」
「プールですか? どうしてまた」
「白凪君のこと、気になる?」
「え、っと……いや、どうしてプールなんだろうかと」
「ゴミ、結構出たね」質問に答えずに、季時は言った。「それ、全部回収してもらうわけ?」
「え、まあ、そうですけど」
「ふうん。楽でいいね」
「そうですね」絹衣がよく分からないままで、頷いた。「えっと……委員長は帰ってこないんですかね」
「どうだろうね。しばらくかかるかもしれない」
「そうですか、じゃあ……」
 絹衣は美化委員たちを集め、ゴミ袋をゴミ捨て場まで運ぶよう指示を出した。そして、それが終わったら自由解散するように、と説明した。
「絹衣君、君ってもしかして、副委員長?」
「え、あ、そうです」
「そうか。ふうん。あ、そこの体格の良い君、絹衣君の分も持って行って」季時はゴミ袋を一つ、背の高い美化委員に渡した。「で、絹衣君は僕と一緒に来て」
「どうしてですか?」
「しかし、ゴミ、たくさん出たなあ」季時はまた質問に答えなかった。

 4

 白凪はボールを片手に、ヤブクロンと睨み合っていた。上手く動けなかった。どのようにして捕まえ、どのようにして運搬し、そして、どこに運べばいいかが分からなかった。それに、季時から言われたことも、分からなかった。何を考えたら良いのか、何を思考すれば良いのか。
「煮詰まっているようだね」
 声がした方を振り返ると、そこには季時と絹衣がいた。絹衣はわけが分からない様子で、頭を下げた。
「先生、先生が何を仰りたいのか分からないのですが」
「なるほど。まあ、僕は一応教師だからね、分からない生徒は導くのが仕事だ」
 季時はゆっくりと歩を進める。絹衣もそのあとに続いた。
「ゴミってなんだろうか」
「ゴミ、ですか?」
「正解は不要なもの」季時は屈み込み、プールの内側をノックした。「じゃあ、このプールは?」
「えっと……どういうことですか?」
「このプールは今不要だけど、ゴミじゃないよね」
「それは……そうですけど」
「じゃあ、そのヤブクロンは?」
 季時はヤブクロンを指差した。ヤブクロンは、人間が三人もいることに怯えているのか、縮こまっていた。
「彼もね、別にゴミじゃないんだ。ちゃんと生きてる。それは、分かるよね」
「ええ……分かりますけど」
「で、絹衣君」
「はい」
「君は不要だ」
「えっ」絹衣は驚いたように声を上げた。
「本来この場にいる必要はない。君、ゴミなの?」
「いやっ、違いますよ! 何ですか急に!」
「うん、分かってる。君はゴミじゃないし、ここにいてもいい。傍観者としてとか、観察者としてとかね」
「びっくりさせないでくださいよ……」
「先生が何が仰りたいのか、よく分かりません」
「あのねえ、ゴミっていうのは、実はこの世にはあんまりないんだよ」季時はプールの中にいるベトベトンと握手をしていた。「だから、これは自分の人生には必要ないとか、そういう考え方ね、あんまりオススメしないよ。別に、僕が生物学教師だから言うんじゃなくてね」
「ポケモンが不要だというのが、良くないということですか?」
「いや、別にいいんだ、それ自体は。ポケモンがいなくたって人は生きていけるよ。ただね、君はもうちょっと視野を広げないといけないな。あのねえ、ゴミって、どこかに行くんだよ」
「それは、まあ、そうですけど」
「僕らはね、ゴミをまとめて袋に詰めて、ゴミ捨て場に置けば終わりだけど、それは絶対にどこかに行くんだよ。世の中の物量なんてほとんど変わらないよ。質量保存の法則とか、まあそういうのだね。絹衣君」
「はいっ」絹衣は真面目な声で答える。
「君、ポケモン飼ってるよね。アブソルだっけ」
「あ、はい……そうですけど」
「アブソルがいなくなったら、どうする?」
「え、それは、困りますけど……」
「うん。困るんだよね。けど、最初っからいなかったら、別に困らないんだよ。自分のものじゃないから、どうなったって困らない。でも、一度自分のものになるとね、いなくなると、困るんだよ。それが例え、今自分にとってゴミのように見えるものでもね」
 季時はプールの中のベトベターとの握手を解いた。不思議なことに、季時の手には何も付着していなかった。ベトベター側が、好意的な接触をしたせいだろう。
「このヤブクロンは、ここにいる」
「え、はい……」
「でもね、彼を処理するなら、誰かが捕まえるしかないんだよ。野生のまま放っておくと、今日みたいに悪さをするし、かと言って、殺すわけにもいかないだろう?」
 白凪は答えずに、じっとヤブクロンを見ていた。
「ボール、投げてごらん」
 白凪に近づいて、季時が言った。
「僕の短い人生経験から言うと、綺麗好きな人は、強がりで、寂しがり屋だ。それは、僕から言わせると、少しもったいないね。必要か不要かどうかを決めるのはね、経験したあとでいいんだよ」
 季時は白凪の手を握った。その手には、ボールが握られている。
「ヤブクロン、綺麗じゃないかな?」
「ええ、綺麗じゃないですね」白凪はようやく答えた。「でも、先生の仰る意味は分かります」
「それは良かった」
「ヤブクロンを捕まえたら、大切に思えますか?」
「それは君次第だし、やっぱりいらないって思うかもしれない。でも、それはやってからじゃないと分からないし、やる前の意見は、本物じゃない」
「分かりました」
「頭の良い子で助かるよ」
 白凪は、季時から一歩分前に出ると、ヤブクロンをじっと見つめた。季時はそれを見届けて、白凪から離れる。
「絹衣君」
「はい」
「あと、頼むよ」
「えっ……すいません、俺、全然飲み込めてないんですが」
「うん。でもまあ、君が適任だろうし、ここから先は、僕は不要だから。いい加減コーヒーが飲みたい」
 季時は絹衣の肩に手を置いて、プールを去った。
「ゴミにはね、ゴミ捨て場がお似合いなんだよ」


  [No.753] 三話 恥ずかしがり屋の腹話術 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/09/29(Thu) 21:22:38   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 1

「で、今のは全部教科書に書いてあることだから、分からなくなったら八十六ページを読むといいよ。理解出来ない場合のみ、僕に聞きに来て。じゃ、まだ三分あるけど、今日はここまで。お疲れ様」
 季時九夜は簡潔に授業を終わらせると、そのまま教科書をまとめて教室を出て行こうとした。だが、生徒同士が雑談を始めると同時に、前の席にいた生徒の一人が「先生」と、彼を引き留めた。
「何?」
 彼を引き留めたのは塚崎という女子生徒だった。季時とは少し顔なじみという間柄である。教師と生徒の間にも、そうした親密度は存在する。
「あの、今日も準備室にいらっしゃいますか?」
「いる予定だけど、何?」
「あとでお邪魔しても良いですか?」
「構わないけど、授業の話はしたくないな」
「あ、そうじゃないので、大丈夫です」
「そう。君一人?」
「もう一人連れて行く予定ですけど……」
「あ、そうなの。コーヒー飲める子?」
「ちょっと分かりません」
 季時は数度頷いて、「じゃあ、話を聞くかどうかは、その時に決めよう」と言って、教室を出て行こうとした。が、またも「先生」と呼び止められて、教室を出ることは叶わなかった。
「仕方ない、あと一分半は君たちの呼びかけに応じよう」
「すいません」声を上げたのは絹衣という男子生徒だった。「ちょっと質問なんですけど」
「ああ、白凪君、どうしてる?」
「俺は無視ですか」
「君のためになる質問だよ」
「えーと……先輩は、真面目に育ててますよ。なんか、ただの綺麗なポリ袋って感じになってますけど」
「ああ、身だしなみを整えてるのか。でも、ヤブクロン、ゴミつけてるくらいが健康的なんだけどね。で、質問って? 恋愛相談は、僕には無理だけど」
「いえっ……あの、ヤブクロンって、何食べるんですか? 先輩がなんかぽつっと言ってたので」
「ああ、ゴミだよ」季時は簡単に言った。「あと三十秒」
「ゴミならなんでも食べるんですか?」
「食べるっていうか、うーん、身に纏うんだよ。あれはね、栄養を循環させて生命活動を維持しているんじゃなくて、生命エネルギーを身体に直接貼り付けて生きているっていうタイプのポケモンだから。試しに学校を一周させれば、一週間分のエネルギーが得られるよ。はい、授業終わり。まだあれば準備室で」
 季時は絹衣に、右手の二本の長い指を動かして、さようなら、の合図をした。特に意味のない行動だった。絹衣もそれを真似してみたが、意味は感じられなかった。
 教室を出て、廊下を歩いている途中、また「季時先生」という声が聞こえた。幻聴ということで処理をしようと試みたが、声の主が目の前に現れたので、諦めた。幻視は経験がないので、試すことが出来ない。
「季時先生、すみません」
 相手は笹倉という司書だった。図書室の管理というよりは、もっぱら、生徒の心のケアを担当している。
「どうもこんにちは、笹倉先生」
「あの、今、お時間大丈夫ですか?」
「時間は正常に働いてると思いますよ」季時は腕時計を見た。「ええ、大丈夫みたいですね」
「季時先生は、私とお話しても生活に支障がありませんか?」笹倉はゆっくりと言い直した。
「支障ありませんよ」季時はすぐに言った。「ただ、僕の右腕は荷物を抱えて立ち止まることに不満があるみたいです」
「では、図書室に来て頂けますか?」
「ええ、喜んで」
 今日は厄日かな、と思いながら、季時は笹倉のあとに続いた。しかしほぼ毎日が平和なら、たまの厄日も受け入れるべきかもしれない。
「どんなご用ですか?」
「今一人の生徒が相談に来ているんです」
「それはいけない。僕は邪魔者ですね」
「でも私では専門的な知識もないので」
 ポケモンの話か、と季時は思った。季時は別に、そこまでポケモンが好きというわけではないので、面倒だった。どちらかと言えば、コーヒーの方が好きだ。
 笹倉に案内されて図書室に向かうと、ポケモンを膝に乗せた女子生徒が座っていた。制服の色を見るに、一年生のようだ。膝に乗っているポケモンは、ジュペッタだった。
「こんにちは。僕の知らない子だ」
「コンニチハ、ボクジュペッタ」
 どこからともなく、そんな声が聞こえた。機械的な声だ。その言葉を発したのが季時でも笹倉でもないとするなら、この少女だろう。しかし、少女の口元は動いていなかった。
「腹話術なんです」笹倉が季時の耳元で説明した。「あまり学校に来ない子で、ちょっと……」
「ああ、なるほど」面倒な子か、と、季時は判断した。「で、僕は何を?」
「ポケモンをずっと大事そうにしているので、お話を聞いてあげて欲しいんです」
「まあ、それも僕の職務内容にありましたっけね。座っていいですか?」
「ええ、どうぞ」
 季時はパイプ椅子に腰掛けて、少女と対面する形を取った。面倒であればあるほど、真剣に取り組むのが季時だった。その方が効率が良い。
「こんにちは。名前は?」
「ボク、ジュペッタ」少女はまた甲高い声で言った。
「そうか、変わった名前だね。じゃあ、こっちのぬいぐるみの名前は?」
 少女ははっとした表情をした。そして、少女もジュペッタも、その問いには答えなかった。予想していなかった質問だったのだろう。
「名前がないのかい? 可哀想だな。じゃあ、君の名前はロビンにしよう。いい名前だね」
 少女は何も答えない。反応のない相手ほどやりにくいものはないな、と、季時は思った。
 ふいに音階が聞こえ、校内放送が始まった。それは偶然にも、笹倉を呼び出すアナウンスだった。職員室まで来るように、という事務的な内容だった。
「あ……」
「ああ、いいですよ。この子は僕が引き受けます」季時はすぐに言った。「自分の部屋の方がやりやすいですから」
「あ、そう、ですか……では、お願いします。またあとで、覗います」
「ええ、まあ、気が向いたらどうぞ。さあジュペッタ君、ロビンを連れて生物準備室に行こう。あのね、仕事が終わったらコーヒーを飲むのが僕の日課なんだよ」
 少女は季時に連れられて廊下を出たあと、笹倉がいなくなったのを確認してから、ぽつりと、「私、宮野」と呟いた。
「それ、下の名前?」季時は飄々と言った。

 2

 宮野と名乗った少女は、生物準備室を物珍しそうに見ていた。勧められた椅子に座り、ジュペッタをぎゅうと抱きしめていた。
「基本的に生徒は苗字で呼ぶようにしているんだけど、なんて呼べばいいかな」
「宮野」
「宮野君か。君、喋るの苦手なの?」
 宮野はこくりと頷いた。
「腹話術はしないの?」季時は畳み掛けるように言った。「僕ね、学生時代に君みたいな子と友達だったんだ。根暗でね、自分の世界に入るやつ。だから扱いには慣れてるんだよ」
「……」
「タイミングを逃すと、普通に喋れなくなるよ」
「……はい」
 宮野はようやくきちんと口を開いて喋った。少し低い声だった。女子にしては、かなり低音が効いている。
「君は、何? 登校拒否?」
「……はい」
「間を置かないで、さくさく話そう」
「はい」宮野は頷いた。
「ちゃんと話せるのに、なんで腹話術なんかしてるの?」
「あの……自分の声が嫌いで」
「あ、そう」季時は簡単に言った。「僕も、自分の声はあんまり好きじゃないね。自分に好きなところなんてないよ」
「先生は、恥ずかしくないんですか?」
「え? 何が?」
「その、嫌いな声で喋るのが」
「別に僕のことなんか、誰も気にしていないでしょう」
 季時はマグカップを洗ったあと、コーヒーメーカーをセットし始めた。「宮野君、コーヒー飲める?」と訊ねたが、首を振られてしまった。最近の学生は子どもが多いらしい。
「私、低い声で喋ると、笑われるんです」
「あ、そうなの。僕も笑った方がいい?」
「え、いえ……」
「僕は別におかしいとは思わないな。君の声には興味がないからね。むしろ人形扱いされてるジュペッタの方に興味があるくらいだ」
 季時は宮野が抱きしめているジュペッタの頭を軽く撫でた。ジュペッタは、嬉しそうに目を細める。宮野はそれを見て、驚いた様子だった。
「ジュペッタ……先生のこと、怖くないの?」
「ああ、このジュペッタは怖がりなのかな。でもね、何故か僕はポケモンに嫌われないんだよ。不思議なものだね。随分君に懐いてるみたいだね」
「あ……はい。生まれた時から、一緒なので」
「ふうん」
 季時はしばし考え込んだあと、人差し指を親指にひっかけて、ジュペッタの額に、デコピンをした。
「ジュッ」
「わっ、何するんですか!」
「ジュペッタ、ダメだろう、君の飼い主が集団生活を送れなくなってるというのに、自分の都合だけで飼い主を困らせるんじゃない」
「ジュ……」
「先生、やめてください! ジュペッタに何するんですか!」
「こっちのセリフだよ。宮野君に何をするんだ」
 季時は優しく、ジュペッタの頬をつまんだ。ジュペッタは困ったような、諦めたような表情で、それを受け入れていた。
「先生やめて!」
「なんて悪い子なんだお前は。ご主人様を困らせるなんて。お仕置きが必要だな。そうか、実はお仕置きがされたくてここに来たんだな? いやらしいやつだ」
「先生、やめてください。もうしませんから!」
「君の意見は聞いていない。さあ、立って、これを飲むんだ」季時はコーヒーをマグカップに注いで、それを持ち上げた。「悪いことをするとどうなるか、思い知らせてやろう」
「ごめんなさい、ごめんなさい……もう、もうしませんから……」
「いいや僕は許さない。僕はね、一度決めたら必ずやる男なんだよ」
「あ、あの……」
 季時と宮野がジュペッタを取り合っているところに、割って入る声があった。声の主は塚崎だった。生物準備室の前で、呆然と立っている。その横には、常川もいた。
「きゅーやん……最低」
「先生……女の子に、そういうことをするのは……」
「え?」季時はマグカップを片手に、首を傾げた。そしてコーヒーを一口飲みながら、「何が?」と訊ねた。
「宮野ちゃんにお仕置きとか……きゅーやん見損なったよ」
「ああ、なるほど、誤解があるのか。宮野君、悪いんだけど、誤解を……ああ、なんてことだ」
 宮野は開放されたジュペッタを抱きしめながら、泣いているようだった。季時はようやく、客観的な思考を取り戻す。どうやら、端から見ると、自分は今女子生徒に何か乱暴を働こうとしていたように見えるかもしれなかった。コーヒーが上手く飲み込めない。
「頼むから、ちょっと寄ってかない?」季時は珍しく真面目な声で発言をした。「これはね、誤解なんだよ」

 3

「ポケモンに対しては結構辛辣だよね、きゅーやん」
 事情を説明したあと、一番最初に答えたのは常川だった。常川は今日はポケモンをちゃんと携帯していた。
「少し強く接するくらいで丁度良いんだよ。人間みたいに、言葉が分かるわけじゃないからね。態度で示さないと」
「それにしても、びっくりしました。先生があんな……なんていうか、ああいう言い方をするなんて……」
「自覚はないんだけどね」
「そっちの方がよっぽど悪いよ」
「塚崎君の用事は?」季時はすぐに話題を変えた。「連れてくるのって、常川君だったの?」
「あ、いえ、実は宮野さんだったんですけど」
「あ、へえ。手芸部繋がり?」
「ええ」意外そうに、塚崎は頷いた。「よく分かりましたね」
「学年の違う知り合いでしょ? すぐ分かるよ」
「なんで宮野ちゃんの時はすぐに分かるわけ?」
「あのねえ、僕にも常識くらいあるんだよ」
「どういう意味よ」常川は季時を睨んだ。
「宮野さんが今日学校に来ていたみたいだったので、先生に相談しようと思って。でも教室にはいなくて。常川さんと同じクラスなので、足跡を辿っていたら、ここに」
 塚崎が宮野に視線を向けると、宮野は軽く頭を下げて、ジュペッタをより強く抱きしめた。
「で、僕はどうすればいいわけ?」
「悩み相談?」
「僕は適任じゃないなあ」季時はマグカップを揺らした。「乙女の悩みは解決出来ないよ」
「ポケモン関係は専門じゃないの?」
「専門だよ」
「じゃあ、解決してよ」
「問題がそもそもポケモンが主題じゃないんじゃないかなあ。まあいいか、宮野君」
「はい」宮野はびくっとして答える。
「君、ジュペッタと会話出来るだろう」
 季時が言うと、塚崎と常川が、驚いたように宮野を見た。宮野はその視線から逃げるように、ジュペッタに顔をくっつける。
「きゅーやん……何言ってるの?」
「日本語」季時は足を組み替える。
「ポケモンと会話出来るって……そんなこと、あるんですか?」
「稀にね。とくに、幼少期から一緒にいたり、相手がゴースト、エスパーあたりだとこの現象が起きやすい。ポケモンの言葉が理解出来るということじゃなくてね、直接語り合えるんだ。そうじゃない?」
「え……あ……はい」宮野は渋々と頷いた。
「え、すごいじゃん宮野ちゃん。天才?」
「だねえ」季時は珍しく、普通に相手を褒めた。「ちなみに、僕も天才だよ」
「え?」常川と塚崎が同時に言った。
「僕もポケモンと会話が出来る。カゲボウズと」
「嘘でしょ?」
「いや、本当だよ。やってみようか?」
 季時は白衣の中からボールを取りだして、カゲボウズを繰り出した。カゲボウズはすぐに季時にすりよってきて、ポケットの中をまさぐった。
「また前みたいに、リボンを探してるんですか?」
「うん。じゃあ僕がカゲボウズに、こらっ、今はお客さんがいるんだからリボンはダメだよ、って語りかけるとするよね」
 季時が言うと、カゲボウズの動きが止まった。そして、少し寂しそうな表情をして、てるてる坊主のように、その場に留まった。
「ほら、やらなくなったでしょ」
「え、今のは、人間の言葉を理解したんじゃなくて?」
「まあ、そういう風にも見て取れるね。じゃあ、こう会話するとしよう」
 季時がカゲボウズをじっと見つめると、カゲボウズは常川のところにやってきて、腕を甘噛みした。常川はくすぐったそうに、「こらっ」と、カゲボウズに注意した。
「何て言ったんですか?」塚崎が訊ねる。
「常川君は美味しいよ、って」
「美味しくないわよ!」
「あれ、そうなの? 知らなかったな。まあ、とにかくね、僕、喋れるんだよ。僕の場合はある程度親しくなると、喋れちゃうかな」
「へー、すごい。それは素直にすごいよきゅーやん。もっとみんなに自慢すればいいのに」
「しないから自慢になるんだよ」季時は宮野に身体を向けた。「で、いつから喋れるようになったの?」
「私は……高校生になったくらいから……です」
「つい最近か」
「はい」
 季時はジュペッタを見つめた。
「もっと構って欲しいって言われたのかな」
「……そう、です」
「ね? お仕置きしないといけないでしょう?」季時は常川と塚崎に言った。「僕は悪くないよ」
「それにしても言い方が卑猥だった」
「君がそう思ったのは、君の責任だよ」
「でも、なんでお仕置きしないといけないんですか?」塚崎が訊ねた。
「多分ね、ジュペッタがずっと一緒にいて欲しい、みたいなことを言ったんだと思うんだな。それに加えて、宮野君は自分にコンプレックスがあるようだから、学校に来るのが嫌になったのかもしれないね。そんなところだろう?」
「……はい」
「なあんだ、そんなことか」常川は溜め息混じりに言った。「そりゃ私だってピカチュウが一緒にいてーって言ったら学校行きたくないよ」
「僕だって働きたくないよ」季時が言った。「まあとにかく、ジュペッタが宮野君を困らせていたから、僕はジュペッタを叱っていたわけ。理解してくれた?」
「はいはい」
「はいは?」
「十回」常川はふてくされて言った。
「とにかく宮野君、君の声は別に悪くないから普通に喋るといいよ。それとジュペッタ、ご主人様を困らせないように。いいね?」
 季時がジュペッタの頭を撫でると、ジュペッタは項垂れて、頷いたように見えた。
 ふいに音階が流れ、校内放送が始まった。それは、季時を呼び出すアナウンスだった。「あれ、今度は僕か」と季時は言って、マグカップをデスクに置いた。
「君たち、ここにいる? いるよね。僕が帰るまでいてよ」季時はそう言って、部屋を出る。「宮野君も、ゆっくりしていって」
 季時は生物準備室を出て、廊下を歩いていた。と、前方に笹倉を見つけた。声を掛けると、笹倉は「宮野さんは?」と訊ねて来た。
「えっと、時間大丈夫ですかね?」季時はすぐにそう訊ねた。
 笹倉は不思議そうな顔をしたあと、腕時計を確かめて、「問題なく進んでますよ」と答えた。
「それは良かった。じゃあ、宮野君もすぐに進めますよ。それでは、僕はこれで。手芸部の生徒が生物準備室にいますから、良かったら寄っていってください」
 季時は微笑みを浮かべて、職員室へ向かった。


  [No.754] 四話 怖がり屋の大恋愛 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/09/29(Thu) 21:23:40   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 1

 季時九夜にとって土日ほど心休まる日はない。朝九時に目を覚まして、たっぷりとあくびをしてから、洗面所に向かった。
 彼の家にはあまり物がない。彼はほとんどの行為を家の外で行う。家の中は、寝るか、休むかという使い方しかしない。実際、季時は顔を洗ってすぐに着替えを始めた。朝食は外で食べることにしている。というよりも、コーヒーを飲むためには外に出るしかなかった。仕事に行かなくなるから、という理由で、季時は家にコーヒーメーカーやインスタントコーヒーを置いていない。これを置いておくと、朝の一杯を準備して一時間を費やすことになるからだ。
 季時は枕元に置いてあるボールを手に取り、財布を持って、家を出た。白衣がないことを除けば、学校に行く時と同じ服装だ。季時にとっては服装なんてどうでも良いことだった。白衣だけは自分でセンスが良いと思って着ているが、それ以外のものは社会に生きるための道具でしかなかった。
 馴染みの喫茶店に向かい、いつも座る席に座った。喫茶店の店長は、彼の知り合いだった。親友と言い換えてもいい。彼が友人という言葉を使う時に対象となる人物は、この店長だけだった。
「朝飯は?」
 鈴鹿という名の男は訊ねた。客は多く、繁盛しているようだが、忙しさを感じさせない振る舞いだった。
「コーヒーだけでいい」
「腹は減ってないのか」
「昨日、飲み会だった」
「へえ、珍しいな」
「僕もそう思う」
「断れなかったのか?」
「断れなかったというか、正確にはその段階にすら存在していなかった。つまり……いや、上手く言えないな。そういうことだよ」
「二日酔いか?」
「いいや、飲み会だっただけで、酒は一滴も飲んでいない」季時は腕時計を確認した。起きてから時間を確認したのはその時が初めてだった。「九時半か」
「今日は遅いんでどうしたのかと思ってたんだ」
「どうかしてたよ。コーヒーは?」
「今淹れてる」
 若い女性の店員が、コーヒーを持ってやってきた。「顔色良くないですね」と、季時に言葉を添えた。季時は軽く手を振って、「型が古いからね」と、とくに意味のない発言をした。
「何があったんだよ」鈴鹿が興味深そうに訊ねて来た。
「仕事はいいのか」
「仕事より大事なこともある」
「お前みたいな子がいるんだ」季時は言った。「引っ込み思案で、根暗で、ぼそぼそ喋る子だ」
「将来有望だぞ」
「まあ、その子は、女子生徒なんだ。四日前に相談事に乗って、それからよく僕の部屋を訊ねるようになって、その子の家は居酒屋で、僕はそこで昨日飲み会をした」
「誘われたのか?」
「いや、違うんだ。言っただろう、断る段階にはいなかった。罠にかかったと言った方がいい。ポケモンをダシに使われた。思い出すと腹立たしい」
「よく意味が分からんな」
「こいつだよ」
 季時はボールをカウンターに乗せた。カゲボウズの入っているボールだ。鈴鹿も馴染みのあるボールである。
「影子がどうした」
「それよりお前、仕事は?」
「今から休憩だ」鈴鹿はエプロンを脱いで、カウンターの中で椅子に腰掛ける。「おーい、俺にもコーヒー一杯くれ」
「まあ、大して面白い話じゃないんだが」
 季時は溜め息をついて言った。疲労の色が見て取れた。

 2

 その前の日の放課後、季時は困っていた。自分の最愛のパートナーであるカゲボウズの姿が見えなくなったのだ。いつも、片時も離れず一緒にいるパートナーである。いなくなるなどということは、今までの人生でも、片手で数えるほどしかなかったはずだ。
 季時はまず、その認識が誤りである可能性を考慮した。しかし、いくら探してもカゲボウズも、ボールも見つからない。次に、それが過剰な考察の末に導き出された悲劇であることを考えた。しかしながら、やはり生物準備室の中に、カゲボウズの姿はなかった。季時は珍しく慌てていた。慌てるという自覚もないままに、慌てていた。だからだろう、あまりに慌てていたせいで、季時は大した思慮もしないまま、ある女子生徒の元を訪ねていた。
「どうかしましたか、先生」
 美化委員の白凪は、パートナーのヤブクロンを連れて、学校の敷地内をうろついていた。校舎内でのポケモンの連れ歩きは校則違反であるが、グラウンドや中庭は黙認されているし、委員会等で利用する場合は許可されていた。今日も、ヤブクロンはゴミを拾い集めてそれを身体に付着させていた。
「ああ、悪いんだけど、白凪君、カゲボウズって知ってる?」
「ええ、先生がお持ちのポケモンですよね」
「うん。ああ、やっぱり、白凪君は頭がいいね」
「先生、大丈夫ですか?」
「僕? 大丈夫じゃなかったことがないからね」
「大丈夫じゃなさそうですね」白凪は首を傾げた。「それで、カゲボウズがどうかしたんですか?」
「うん、その、カゲボウズがいなくなった」
「え? 逃げたということですか?」
「いや、逃げるということはないと思う。少なくとも、彼女との関係は良好だ」
「そうですか。では、ボールをなくされたのでしょうか」白凪はヤブクロンを抱きかかえる。「探すのをお手伝いしましょうか?」
「ああ、いや、君が見ていないならいい。君が見ていないということは、多分つまり、校舎の中か、敷地の外だろう」
「先生、慌てているようですね」白凪は少し楽しそうに言った。「本当に、私にお手伝い出来ることはありませんか?」
「うん、まあ、もし見つけたら教えて欲しい、ということくらいかな。ああ、時間を取らせて悪かったね。じゃあ、僕は行くから」
「いつもの会話のキレがありませんね」
 去って行こうとする季時の背中に、白凪の言葉がかかったが、すぐに落ちて消えた。それほどまでに、季時は慌てていた。
 次に季時は、学校の中でもそれなりに親しみのある生徒を探した。校内放送をかけるのも手だったが、あまり公にしたくないという気持ちもあった。生物学教師としての矜持のようなものだろう。
 季時はふらふらと廊下を辿り、家庭科室を訪れた。そこは手芸部の活動場所だった。季時がドアを開けると、そこで活動していた部員が全員振り返った。
「あ……やあ」
「あれ、きゅーやんだ」一番に反応したのは常川だった。「何? なんか用?」
「うん」珍しく殊勝な態度の季時だった。「えっと……カゲボウズを探してるんだけど」
「先生のですか?」塚崎が訊ねる。
「そう、僕のカゲボウズ。彼女、何故かどこにもいなくてね……不思議なんだけど、うん、いなくなっていたんだ。だからちょっと、探しているんだけど……」
「季時先生が狼狽えるなんて珍しい」
 一人の女子生徒が言った。それに同調するように、他の生徒も頷いていた。生物学以外で関わることはほとんどなかったが、変わり者教師として全生徒に名を知られている季時だった。
「カゲボウズに愛想尽かされたんじゃない?」
「そんなわけないだろう!」季時は少し語気を強めた。
「うわっ、きゅーやんが怒った……」
「ボールをなくされたんですか?」
「ボール? ああ、ボールをね、そう……多分そうだと思うんだよ。ボールにね、カゲボウズは収納されているから」
「どこでなくしたか、心当たりはありませんか?」
「心当たり? いや、僕は授業が終わって、部屋に戻って、誰も来ない予定だったから、インスタントコーヒーを淹れて……ああ、そのあと、トイレに行った」
「それじゃないの?」
「ボール、いつも白衣に入れてますよね?」塚崎が空想の白衣のポケットに手を入れる動作をする。「白衣は着ていました?」
「いや、僕は白衣はトイレには着ていかないし、白衣を脱ぐ時はボールはちゃんと引き出しにしまう。誰かにボールが盗まれることは有り得ない」
「でも、その時じゃん?」
「誰かが部屋に入ったってことか?」
「きゅーやん鍵かけなかったの?」
「僕の部屋は内鍵しかかからない」
「あ、そう言えば……」塚崎が思い出したように、周囲を見渡した。「宮野さん、帰ってこないね」
「あ、そう言えば。どこ行ったんでしたっけ。トイレ?」
「うーん、覚えていないけど……なんだか気になりますね」
「宮野君? ああ、あの引っ込み思案の……」季時はそこまで言って、額に手を当てた。「まずいな」
「どうしたの?」
「君に話すとややこしくなる類の話だ」
「またかんに障る言い方するなあ」
「宮野君、宮野君か……ああ、誰か宮野君と連絡取れる人、いる?」
「出来るけど」常川がすぐに携帯電話を取りだした。超小型のボールがぶら下がっている。「どうしたの、なんか本当に様子おかしいね、きゅーやん」
「悪いけど、カゲボウズのこと、聞いてもらえる?」
「え、うん……でもなんで宮野ちゃん?」
「ほら、一昨日、宮野君の相談に乗っただろう」
 文字を打ちながら常川は頷いた。塚崎も、「あれからなんだか随分明るくなりましたよ、宮野さん」と同調した。
「うん、それが、明るいというか、なんかね」
 季時は困ったように頬を掻いた。
「昨日、ラブレターを十通ほどもらったばかりだ」
 そこにいた全員の生徒が、季時の発言に言葉を失い、呆然と季時を見上げていた。

 3

「ついに女子高生から告白される日が来たか」
「ついにというか、今までになかったわけでもないけれどね。今回はまあ、僕も詰めが甘かった。反省している」
「でもどうしてすぐに分かったんだ」
「その、宮野君という子が飼っているジュペッタはね、なんて言えばいいかな、透視能力に長けているんだ。僕がボールをどこにしまったかを、多分、判断したんだ」
「でも、ポケモンだろう?」
「その子、僕と同じでね、ポケモンと会話出来るんだ」
「ああ」鈴鹿は溜め息をついた。「天敵だな」
「まあね。宮野君にとっても、僕は天敵だろうけど……好かれてしまうと、その関係は崩れるね」
「それでどうなった?」
「まあ、追跡をすることになったんだけどね」

 4

 常川が宮野にメールを送ると、宮野は素直に、カゲボウズを連れ去ったことを認めた。そして、自分が今どこにいるかを伝えてきた。それは、季時に来いと言っているのと同じだった。
「へー、宮野ちゃんがねえ。きゅーやんのどこがいいんだろうね」
「冴えないところがいいんだろうね」季時は自嘲気味に言った。「冗談はさておき、人のポケモンを盗むのは泥棒だ。生徒指導をしてくる」
「大丈夫? 襲われたりしない?」
「僕が? まさか、僕は大人だよ」
「でも先生、押しには弱そう」
 塚崎が言うと、他の生徒が控えめに笑った。季時はいたたまれなくなり、「協力ありがとう」とだけ言って、家庭科室を出た。
 宮野がいるという場所は、学校からかなり離れていた。その時、その場所がどういう場所なのか、ということを季時は疑っていなかった。そこに理由を求めていなかったのだ。あるいは、そこまで考える余裕がなかったのか。とにかく、季時は自転車に乗って目的地を目指すことにした。カゲボウズを取り返さないことには、おちおち仕事も出来ない。
 いつもの二倍の速度で自転車を漕いで、宮野がいる目的地についた。そこは少し寂れて、薄暗い、女子高校生がいるのにはにつかない場所だった。一方、カゲボウズが好みそうな、湿っぽい、じめじめした場所であった。
「ああ、宮野君」
「こんにちは……」宮野は律儀に頭を下げた。
「うん、じゃあ、カゲボウズを返してくれるかな」
「あの……」
 そこで季時はようやく、宮野の違和感に気づいた。校内ではともかく、下校時や生物準備室に来る時はいつも抱きしめているジュペッタがいなかったのだ。かといって、ボールも見当たらない。単体としての宮野を見るのは、季時はこれが初めてだった。
「ジュペッタは?」
「えっと、先生のカゲボウズと遊んでます」
「どこで?」
「私のうちです……」
「それ、どこ?」
「ここ……です」
 宮野は背後にある建物を指差した。コンクリートの壁と、換気扇、小さなドア、詰まれた空き瓶などが詰まれている。一見して、居酒屋の裏口という感じだった。実際そこは路地で、奧には似たような光景が続いていた。
「君の家、お店なの?」
「はい」
「ああ……へえ、なるほど。おや、ドーガスになりかけてるスモッグが浮いてるよ。他にも、コラッタとか……なるほどね、こんな環境なら、君みたいな特殊な子が育ってもおかしくはないか」
「そうですか……?」
「僕の実家もすごかったからね。築百年以上の日本家屋で、とくにゴーストポケモンが多かった……まあ、そんな話は今度ゆっくりするとして、カゲボウズを返してくれるかな。君がジュペッタをそそのかしたんだろう?」
「え、あ、はい……」
「君みたいな子がね、一番厄介なんだよ……あとで彼女には謝っておこう。変なこと吹き込んでいないだろうね?」
「はい……あの、じゃあ、こっちに来てください」
 宮野は季時を手招きして、路地を出た。てっきり裏口から入るものだと思っていたが、部外者がその敷居をまたぐのもおかしいのかもしれない。季時は素直に宮野のあとをついて、正面に回った。居酒屋というか、小料理屋というか、それなりに洒落た店ではあるようだった。
「どうぞ……」
「いや、ここで待ってるよ」
「……返しません……よ……?」
 宮野の控えめな訴えが逆に恐ろしかったので、季時は素直に店に入ることにした。とにかくカゲボウズに会うことが先決だった。季時はのれんをくぐって店に入る。すぐに独特の匂いが鼻を突いた。
「いらっしゃい!」
「どうも」季時は頭を下げた。「客ではないんです」
「先生……座って待っていてください」宮野はカウンター席を勧めた。「今、連れてきますから」
「ああ、はい」
 季時は素直に椅子に腰掛ける。
 店内にはポケモンが多くいた。四足歩行で、丸っこい、愛玩用として飼われることの多いポケモンたちだった。オオタチが季時の足下を通過していく。宮野のような才能を持った子どもが生まれるのも、当然という気がした。
「あんたが季時先生かい」
「ああ、はい。宮野君のお父さんですか?」
「そうそう」カウンターの奧にいる男性は快活に笑った。「いやあ、うちの娘の悩みを聞いてもらったそうで」
「いえ、別に」
 季時は宮野が消えて行った階段に目をやったが、彼女が戻ってくる気配がない。一体どういう了見だろう。
「先生、お夕飯は? 食べていきましょうよ」
「いえ、まだ早いですから」
「まあまあ。じゃあ一杯どうです」
「いえ、僕はお酒は……」
 また階段に目をやったが、帰って来ない。何をやっているんだ。季時は段々と焦り始めた。心に余裕がないせいで、会話もいつも通りには行かない。
「いやあ先生には感謝してるんですよ。しばらく家に引きこもってたと思ったら、急に元気になりましてね。いやあ、やっぱり専門家の先生は違いますね」
「いえ、そういうわけではないんですよ」
「軽いものなら食べられるでしょう? 焼き鳥でも焼きましょう。ああ、ついでにうちの小僧たちの様子も見て行ってくださいよ。こういう店にいるもんで、不健康かもしれませんから」
 ポケモンのことを言っているんだろうか。季時は店内を見渡した。確かにあまり良い環境とは言えないが、ポケモンはどんな環境でも生きていける生物だ。それに、ポケモンごとに見合った環境がある。一概にどうと言えるものではない。
「あの……宮野君は」
「すぐに降りてきますよ。それまでまあゆっくりしていってくださいよ」
「いえ、ポケモンを取りに来ただけですから」
「明日は休みなんだし、ね、お礼がしたいだけですから」
 宮野はまだ降りてこないのか。季時はもう立ち上がろうとしたが、しかし宮野の父が回ってきて、隣に腰掛けた。愛想の良い男だ。その分、何か強気に出ることが難しい。
「すぐ降りてきますって。降りたら引き留めませんから。ね、それまでの間」
「宮野君が来たら、すぐに帰りますよ」
「ええ、はい。これ、美味しいですから。まだたくさん焼けますからね」
「いや……」

 5

「で、どれだけ居座ったんだ?」
「二時間かな」
「おい!」
「飯は美味かったよ……三十分経った頃に、どうせタダなら食いたいだけ食おうと思って、食い尽くした」「それで朝飯が入らなかったのか」
「いや、そういうわけじゃないんだ。まあ……僕が長くいたのは、彼女がそこを気に入ったというのが本当の理由かな。どうもね、宮野君という子はすぐに連れてきてくれる予定だったらしいんだけど、彼女がジュペッタと遊ぶのを楽しんでいたらしい。こちらにも落ち度はあったわけだ」
「ふうん。まあ、そういう日もあるわな。で、珍しくお前が細かく話してくれたのにはどんなわけがあるんだ?」
「これさ」
 季時はボールを床に転がした。そこから出て来たのは、カゲボウズではなく、ジュペッタだった。
「……進化したのか?」
「いや、多分、トリックかなあ……」
 季時は疲れたように言って、カウンターにうつぶせになった。
「帰り際に入れ替えられた可能性が高い……」
「天敵か」
「ポケモンと意思疎通が出来る子ほど恐ろしいものはないよ。それを無意識とは言え、いたずらに使うのはね」
「ジュペッタも楽しそうだな」
 鈴鹿は床に転がってケタケタと笑うジュペッタを見て、困ったように言った。
「どうするんだ?」
「生徒指導かたがた、カゲボウズを回収しに行ってくる。そうしたらまた何か食べさせられるかもしれないから、朝飯は抜いていく」
「……なるほど。頑張れよ」
「ああ」
 季時はまったく疲れた声で言って、ジュペッタの頭を掴み、持ち上げた。
「お前の飼い主をこっぴどく叱ってやるから、覚悟しとけよ」
 季時が言うと、ジュペッタはまたケタケタと笑った。季時は疲れたように、溜め息をついて、またカウンターに突っ伏した。


  [No.756] 五話 目立ちたがり屋の失態 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/09/30(Fri) 20:09:06   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 1

 生物の授業もなく、かといってどこかに行くほどの暇でもない、一時間の空き時間、季時九夜はカゲボウズを室内に放って、事典を見ていた。ポケモンに関することだけを集めた事典だ。暇な時間、季時はそうして時間を潰すことが多かった。知識を増やそう、というつもりではない。新しいことを知りたいわけでもないし、興味のないものを見たいわけでもない。既に知っていることを再確認するように事典を眺めるのが、季時にとって、ポケモンと戯れることの次に優れた暇潰しだった。
 それは二時間目の授業の空き時間だった。一時間目と三時間目に授業を持っていたため、身動きが取れない状態だった。しかし、珍しくコーヒーメーカーで三人分のコーヒーを淹れていた。まだ一杯目だが、もう半分以上なくなっている。空き時間はまだ半分以上残っていた。
 ふと、断続的なノックの音を耳にした。季時は事典を閉じて、「閉まってはいないよ」と答えた。するとすぐにドアが開いて、白い制服を着た男子生徒が入ってきた。
「失礼します」
「失礼はされたくないな」季時はすぐに答えた。「ええと、君とは初対面だ」
「転校生です。三年生の……自分、水際と言います」
「三年生で転校生? へえ、実在するの?」季時は不思議そうに言った。「制服の色が白いのは、そのせい?」
「あ、いえ……」
「何の用?」
「ちょっと、相談に乗って頂きたくて」
「ふうん。まあ、いいよ、座って」季時は書類まみれの椅子を勧めた。「上に乗っているものは、どうにかして」
「失礼します」
「先に断っておくけど、僕は男女で対応に差があるから、そのつもりで」
「そうなんですか?」
「いや、今からそうしようと思って」季時は言って、小さな食器棚からコーヒーカップを取り出した。「ねえ、男ならコーヒーくらい飲めるだろう?」
「いただきます」
 水際という生徒は、書類を丁寧に机の上に移動させ、その机にも、少しばかりのスペースを用意した。季時はそこにコーヒーカップを置いた。わざと仏頂面で、「男なんだからブラックでいいだろう」と言った。あまりに暇だったからだろう、来客を喜んでいて、機嫌が良かった。しかし、初対面の水際には、不思議な光景に映ったに違いない。
「で、君は何組の生徒?」
「一組です」
「特待か」季時は言った。「白凪君と同じだよね?」
「あ、はい。あの綺麗な人ですね」
「うん。付き合ってるんだ」
「えっ? 先生とですか?」
「いや、他の男子とね」
「それは何か関係のある話ですか?」
「まったくないよ」季時は自分の機嫌が良いことを自覚していた。機嫌が良ければ良いほど、心に余裕があればあるほど、季時の口はよく動く。「で、そんなに目立ちたがってどうするの」
「えっ!」
 水際は今度こそ本当に驚いた。生物準備室を訪れて、一番驚いただろう。コーヒーカップを持っていなくて良かった。もし持っていたら、中身を全てこぼしていただろう。
「なんで……自分の悩みを?」
「学校指定とは違う制服の色、三年生で転校する行為、一人称が自分、これだけでも十分に目立ちたがり屋だなあと思ってね。まあ、目立っているよ、君の思惑通り」
「そうでしょうか」
「見た目はね」季時はマグカップを揺らした。「ああ、聞いてなかった、ポケモンは外に出していても大丈夫?」
「あ、ええ……カゲボウズ、でしたっけ」
 生物準備室に浮遊するカゲボウズを見て、水際が訊ねた。季時はカゲボウズの頭をぎゅうとつかんで、「可愛いだろう?」と言った。答えを望まない類の質問だった。
「で、目立ちたがり屋の水際君は、何がしたいんだい?」
「何がしたい、というわけではないんですけど……あの、自分はもともと、進学校出身で」
「だろうね。そんな顔しているよ」
「分かりますか?」
「ううん、適当に言った」
「……それで、授業を受けて、勉強をして、ただ寝るばかりの生活はどうなのだろうと思って、転入手続きをしたんです。つい一週間ほど前ですね、転校してきたのは」
「その行動力は評価しよう」
「もっと、自分の思い通りの人生を手に入れたいと思って、この学校に来て……どうすれば楽しい人生を送れるかと、考えていたんです」
「僕のところに来た理由は?」
「その、この学校で一番変わっていて、目立っている先生が、季時先生だとお聞きしたので……」
「心外だ」季時は溜め息をついた。「あのねえ、君、水際君だっけ? 心外だよ。僕は普通だよ」
「はあ」
「僕はね、心の中では服なんて着ていたくないし、仕事だってしたくないし、女子には大正時代に流行った袴とかね、ああいうものを着せたいと思っているよ。出来れば毎日、毎食、カレーがあればいい」
「やっぱり先生は自分の理想通りの……」
「いや、だけど僕はちゃんと服を着るし、仕事に来るし、制服を改革しようなんて運動は起こさないよ。食事もね、毎日適当にバラして食べる。これは、普通であろう、社会的に全うであろうという努力のおかげだ」
「何故そんな努力を?」
「生きやすいからだよ」季時は溜め息をついた。「君こそそんなに変わった人生を送って、何がしたいの? 僕には理解出来ないな」
「もっと認めてもらいたいんです。自分という、個としての存在を。勉強だけをする機械じゃない。自分は、もっと自分を持っているんだということを」
「……ふうん」
 季時は退屈そうに溜め息をついた。それを見ていたカゲボウズが、少しだけ怯えた表情になる。季時の機嫌が悪くなったのを察知したようだった。
「君、授業は?」
「先生が休みの時間ということで、休みました」
「ああ、それも演出か。じゃあ、昼休みに、白凪君を連れてまたおいで。授業はしっかり出た方がいい」
「……白凪さんですか?」
「僕から言わせれば、君は魅力のない平凡な人間だ」季時は明らかに機嫌が悪かった。「でも何かに向けて努力をする人間は嫌いじゃないから、手を貸してあげよう」
「あの、でも、どうして白凪さんを?」
「綺麗な人だから」季時は淡々と言った。

 2

「お久しぶりです」
 生物準備室に来るなり、白凪は礼儀正しく頭を下げた。何故か通学用の鞄を持っていた。季時はその時まだ昼食を食べていた。今日の昼食はカレーパンだった。これも季時が普通さを演じるための、一つのギミックだ。
「水際君は?」
「まだ昼食を。私、食べるのが早いので」
「ふうん。ヤブクロン持ってる?」
「ええ。出してもいいですか?」
「いいよ。この部屋は無法地帯だから」
 白凪は鞄の中からボールを取り出した。鞄は本来不要であるから、季時に見せるために持って来たのだろう。
「ああ、久しぶり」
 ヤブクロンを見て、季時は微笑んだ。
「やっぱり清潔すぎない?」
「私は私のやり方で育てようと思って」
「うん、完璧だ。その答えには98点をあげたい」
「残りの2点は?」
「意見に名前が書かれてないから」
 季時が言うと、遅れてドアが開かれ、水際がやってきた。相変わらず目立つ風貌をしている。「遅れてすみません」と頭を下げて、彼はドアの前に立った。
「君たち、食べるの早いね」
「先生が遅いんじゃないですか?」
「観測者の問題だね」季時は呆れたように言った。「ところで、水際君になんで連れてこられたか、聞いた?」
「いえ、どういう理由かは聞いていません」
「ほら、これだよ」
「どういうことですか?」水際が訊ねる。
「白凪君は、僕が知る中でも、結構な変人だ」
「失礼じゃありませんか?」白凪はむっとして言う。
「言い換えれば、特徴があるよ。でもね、水際君にそういう魅力はない。例えば、水際君にヴィジュアルイメージがなければ、大して魅力的には映らないと思う。特徴っていうか、キャラクター性がない」
「キャラクター性……ですか?」
「あのねえ、キャラクターっていうのは、リアクションなんだよ。相手の発言にどう答えるのかって言うね。ただ言われたように、任されたように発言するキャラクターってね、魅力がない。その点白凪君はいい」
「そのために私を呼んだんですか?」
「それが八割」
「残りの二割は?」
「それはさっき水際君に話したよ」季時は淡々と言った。「ところが水際君はなんというか、個性がない」
「……そ、その個性を欲して、どうにかならないか、と思っているんですけど」
「個性を欲している時点で、もしかしたら、没個性だね」季時はそこで残りのカレーパンを口に含んだ。指先についたパンをカゲボウズがつまむ。カレーパンの袋は、小さくまるめて、ヤブクロンに与えられる。
「私のヤブクロンをゴミ箱代わりにしないでください」
「愛情ある譲渡だよ。しかし便利だな。僕も飼おうか」
「あの、先生、自分……個性ありませんか?」
「見た目としての個性はあるよ。でもそれって、個性じゃなくて、服だろう」
 季時は白凪をじっと見る。
「彼女なんか、普通だろう」
「先生、私を虚仮にしたいのでしょうか」
「いや、褒めているよ。でも、白凪君という存在を、僕はちゃんと認識している。それは、見た目が優れているからではなくて、中身が優れているから。だから自然と、外見も覚える。そういう人はね、話したことがなくても、なんとなく覚えてるよ。とくに、学校みたいな小さい集団ではね」
「自分は、見た目だけ、ということですか」
「うん。だから、水際君はね、普通の制服を着たら、すれ違っても分からないかもしれない。僕は今君のことを、白い制服を着ている男子生徒、としか認識していないから」
「そんな……」
「ああ、そういう理由で白い制服を着ていたの」白凪は納得したように頷いた。「前の学校の制服かと思っていた」
「まあ、別に個性を求めようという気持ちは、僕には分からないけどね」季時は溜め息をついた。「白凪君もきっと分からないだろう?」
「ええ、全然。出来れば白凪凉子という存在は、普通の中の普通でありたいですね」
「ああ、それで100点だ」季時は満足そうに微笑んだ。
 水際はドアの前で、二人のやりとりを聞きながら、その特異性を不思議に思っていた。確かに、見た目だけでは、季時も白凪も、大しておかしくはない。けれど、何故かとても、濃い人間のように見えた。
「やっぱり、才能とか、そういうものなんでしょうか」
「いや、個性に才能なんてないよ。個性なんてみんなにある。君の場合は、他の要素で埋没させているにすぎない」季時は脚を組み替える。「もっと普通になりなさい」
「普通、ですか」
「見た感じ、ポケモンを飼っていないようだけど、どう?」
「あ……そう、ですね。勉強ばかりで、そういう余裕がありませんでした」
「ちょっと、ポケモン捕まえてごらん。これ、あげるよ」季時はデスクの大きい引き出しを開けた。そこには、未使用のボールが大量に詰め込まれていた。「性能が良いから、一発で捕まるよ」
「一発で?」質問したのは白凪だった。
「ちょっと細工がしてある」
「それ、いいんですか?」
「ああ、うん。認可は下りてるよ。見た目は普通のボールなんだけどね、授業用に使うために、細工してもらってるんだ。これも授業の一環だし」
「もしかして、私がいただいたボールも?」
「そうだよ。まあ、君とヤブクロンなら、普通のボールでも一発だっただろうけどね」
 水際はボールを受け取って、それをまじまじと見つめた。まったくなんの変哲もない、普通のボールだ。だが、それは特別なボールでもあるらしい。
「普通のボールだろう?」
「え?」
「普通だけどね、中身が違う。人間と同じ。ポケモンもそうだよ、僕のカゲボウズや、白凪君のヤブクロン……見た目は普通なんだ。でもね、僕たちにとっては、掛け替えのない、大切なパートナーなんだよ。これ、どうしてか分かる?」
「……分かりません」
「お互いが認め合うから」
 季時はそう言ったあと、「いい冗談が思いつかないな」と言った。照れ隠しのようでもあった。
「時に白凪君、水際君に、ポケモンを捕まえる利点があったら、先輩として教えてあげて」
「利点ですか?」
 白凪はしばらく考えたあと、ぽつりとこう言った。
「暇が潰れます」

 3

 二日後の四時間目、昼休みが終わったあと、五時間目の授業を控えている季時は、また暇な時間をもてあましていた。暇で暇で仕方がなかったので、以前、ある女子生徒から受け取った手紙を読んでいた。一通読めば十分だろうと思って残りは放置していたが、あまりに暇だったので、その決断をした。内容は予想通り、一通読めば十分な内容だった。だからこれは、内容ではなく、捨てにくいという特性を利用した、物的な訴えなのだろうと、季時は判断した。
「先生! 僕の話を聞いてください!」
 ノックもなく、生物準備室のドアが開いた。季時はゆっくりと広げていた手紙をしまって、引き出しに入れる。そして入ってきた生徒を見て、「誰?」と訊ねた。
「水際です!」
「水際君? ああ、へえ」
 彼は普通の制服を着ていた。一人称も変わっている。季時は立ち上がり、椅子を引いて、水際に勧めた。
「まあ座って」
「ありがとうございます」
「ふうん、雰囲気変わったね」
「あの、ポケモンを捕まえたんですよ」水際は興奮したように言った。「ついさっきなんです。出来れば格好いいポケモンにしようと思って、ボールを頂いてから、ちょっと山奥まで行っていて……学校に来たのも、ついさっきなんです。ああ、季時先生が休みの時間で良かった」
「興奮してるね」
「そんなことありません」水際は笑顔で首を振った。「その、この周辺だとあまり格好いいポケモンがいなかったので、電車に乗って、奥地まで行って来ました。これがなんか、すごく感動するというか、先生の言っていたことが分かりました。ポケモンって素晴らしいです」
「僕はそんなことは一言も言っていない」
「文脈から読み取りました」
「そう。さすがは秀才だ」季時は呆れて言った。「で、何を捕まえてきたの?」
「あ、ここで出しても大丈夫ですか?」
「ん、大きいポケモン?」
「いえ、そこまでは」
「じゃあ、いいよ」
 水際はボールを転がした。そして、床の開いた場所に、ポケモンが現れた。赤と黄色のコントラスト。ポケモンの名前は、ツボツボだった。
「どうですか!」
「……ツボツボか」季時は頷いた。「うん。で、格好いいポケモンは?」
「格好いいですよね」
「ツボツボが?」
「はい」
 季時はツボツボの頭に手を伸ばした。ツボツボは少し怯えた様子だったが、彼の手を受け入れる。
「ツボツボが格好いい?」
「虫で、岩で、頑丈ですよ!」
「ああ、うん、勉強熱心だね」
 季時はツボツボをしばらく撫でてから、諦めたように言った。
「僕、季時九夜は間違っていた。僕が思う以上に、君は最初から個性的だ」
「いえ、そんなことありません。先生のおかげで気づけたんです。僕に足りないものは、たくさんのものから、特別なものを選び取る努力だったんです。ツボツボのおかげで気づくことが出来ました」
「いや、そういうことじゃなくてね」
「これからは見た目にこだわらない、真っ直ぐな人生を送ろうと思います。それで個性がなくなってしまっても、別に構わないんですよね。自分を信じて生きていく、それが大事なんだって」
「僕はそんなことは言っていない」
「行間から読み取りました」
「……好きにしてくれ」
 季時は呆れたように溜め息をついて、ツボツボを撫でた。そして、「これから苦労するぞ」と、小声で囁いた。


  [No.757] 六話 面倒臭がり屋の背景 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/10/01(Sat) 11:19:32   50clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 1

 土曜日だった。季時九夜はフィールドワークに出かけていた。これにはとても深い理由があったが、ざっくりと説明すれば、補習である。単位が足らず、留年の危険性がある生徒のために、補習授業を行っていた。休みの日に仕事をさせられる季時は、とても機嫌が悪かった。
「すみません、先生」
「許したくないな」季時は山道を歩きながら、淡々と言った。「君は僕の休日がどれだけ貴重かを理解していない」
「ごめんなさい」
「許したくないな」季時はまた言った。
 補習対象の生徒は、桐生という名の女子生徒だった。特待生ばかりを集めた三年一組の生徒である。本来であれば単位が足りなくなる、というようなことはないのだが、大病を患い、今まで学校を休んでいた。
 その大病というのも、決して彼女が不健康な生活をしていたというわけではない。夜間の学校で、浮遊しているゴースに遭遇したのが直接の原因だ。ゴースのガスは人体にとても悪い影響がある。理由がそんなものであるから、季時もこの補習を断るわけには行かなかった。
 もっとも、それくらいなら、単位だけ与えてそれで終わりでも良かった。しかし、桐生に補習を受けさせてくれるよう、と頼んできたのが、白凪であった。季時は端的に言って、白凪が苦手だった。彼女は正しい。正しく美しいものに、季時は抵抗しようとしない。
「ところで、病気はもういいの」
「あ、はい、良くなりました」
「受験は?」
「します」桐生はゆっくりと頷いた。「出来れば、玉虫大学に行きたいなと思ってるんですけど……」
「ああ、へえ、桐生君、ポケモン好きだったの?」季時は初めてそうした認識をした。「なんだ、それなら早く言ってくれればいいのに」
「はあ」
「ふうん、ポケモン好きか。じゃあ、今回の件は許そう」季時はすぐに機嫌を良くした。「玉虫行って、何をするつもりなの?」
「獣医になりたいなって」
「ふうん。獣医学部か。まあ、就職にも困らないかもね」
「そう言えば、先生もやっぱり……」
「卒業生だよ」
「受験、難しかったですか?」
「いや、あまり。他の先生からね、こういうことは生徒に言わないように、と言われているんだけど、僕は勉強が苦手だと思ったことはないからね。そこにあることを覚えるだけなんだから、簡単だよ」
 季時と桐生はさらに山道を進んでいく。木々が多く、人工物がほとんどない、完全な自然だった。
「でも、特待だし、桐生君も頭良いんじゃないの。二年の頃、生物学はトップ成績だった記憶があるけど」
「どうでしょう……ポケモンのことばかりなので、他の教科は、普通ですね」
「普通ね。普通って言う辺り、頭が良さそうだ」季時は笑って言った。
 季時は今日は白衣ではなかった。山登り用の服装をしている。リュックサックにはボールが六種類収納されている。いつもの暢気な高校教師という雰囲気とは一変していた。桐生も制服ではなく、私服である。こちらも動きやすい服装ではあったが、本格的な登山服ではない。長い髪の毛は一本にまとめられていた。
「もうすぐだよ」振り返り、季時は言った。「開けた場所に出たら、休憩をして、内容をもう一度説明しよう」
「はい」
「なるほどね、ポケモン好きか」
 季時は独り言のように言った。
「こういう休日もたまには悪くない」

 2

「知っているとは思うけど、改めて説明しよう。今回の実習は、まあ、戦闘が主だね。体育とか、生物学とか、そういうのに属さない、特別授業。最近は自然も少なくなってきて、気軽に野生のポケモンと触れ合う機会はないし、ましてや戦う機会もないからね。ポケモン、持って来てるよね」
「あ、はい」
「じゃあ、出してみて」
 桐生は言われた通り、リュックにぶらさげていたボールを放り投げた。炸裂したボールから、ラッキーが現れる。季時はそれを見て、満足したように頷いた。
「珍しいポケモン持ってるね」
「小さい頃に、プレゼントしてもらったんです」
「なるほど。ある程度戦えるのかな」
「いえ、戦闘経験は、ほとんど……」
「どうして?」
「戦うこと、あまり好きではないので」
「なるほどね」季時は口を曲げた。「否定はしないけど、獣医になりたいなら、もっとたくさん戦って、ポケモンを傷つけた方が良いよ。自分のポケモンを傷つけて、それを治せるという自信がないと、他人のポケモンで同じことをするのは難しいから」
 季時は水筒を取り出し、コップに中身を注いだ。岩場に座り、溜め息をついた。
「いやあ、運動不足だ」
「大丈夫ですか……?」
「頭はクリアだよ」
「身体が、です……」
「大丈夫じゃないから、休憩をするんだけどね」季時はお茶を飲み干した。「戦闘経験がほとんどないっていうのは、どれくらいないの? せっかく個人授業だから、詳しく授業しようか」
「えっと……小さい頃、男の子と遊んだくらいで」
「野生ポケモンは?」
「全くないです」
「よし、じゃあレクチャーをしよう」
 季時は荷物をリュックサックにしまって、ボールを一つ取り出した。それを片手に持ったまま、立ち上がる。
「野生ポケモンと遭遇したことは?」
「ないです……」
「温室育ちか。悪くないけどね。大学行ったら、実習ばっかりだから、慣れておいた方が良いよ」
「……あの、先生って何学部だったんですか?」
 季時のあとをつけながら、桐生が訊ねる。
「獣医学部」
「えっ、本当ですか?」
「うん。まあ、教員免許取って、教師になったけどね」季時は珍しく、面倒臭そうな口調だった。「えーと……弱いポケモンの方がいいかな」
「どうして教師になったんですか?」
「楽だからかな。君はどうして獣医になりたいの?」
「えっと……昔ラッキーが病気になった時、獣医さんに診てもらって……格好いいなって思って。そんな、単純な理由です」
「素敵だと思うよ」季時は頷いた。「だけど、もうちょっと、現実を知った方がいいな」
「現実……ですか?」
「うん。まあ、自分で気づいた方がいいかな」
 季時は草むらが生い茂っている場所まで来て、足を止めた。そして、桐生に手招きをする。桐生とラッキーが近づいてきて、草むらの前で立ち止まった。
「この辺を歩いてると、ポケモンが襲ってくるだろう。僕がいるから、とりあえず試してごらん。危なくなったら、助けてあげるから」
「あ、はい……ありがとうございます」
「まあでも、出来るところまで、自分でやってみて。出来るところまで、というのは、全てが終わるまで、ということだけど」
 桐生は言葉の意味を完全には理解出来ないまま、草むらに一歩踏み出した。ラッキーも、おそるおそる桐生のあとをついていく。季時はそこから少し離れて、リュックサックからチョコレートを取り出して、かじり始めた。
 かなりゆっくりとした動作で桐生が歩いていると、ふいに、草むらの揺れる音がした。桐生は慌ててそちらを振り向く。と、大きな尻尾が草むらから覗いていた。オタチだ。桐生とラッキーはそれに向き合うように対峙した。
「ら、ラッキー……頑張って」
 桐生が控えめに攻撃の指令を出すと、ラッキーはゆっくりとオタチに近づいて、控えめに手を出した。オタチの身体を叩く動作だった。オタチはそれを受けても、しかし、まだ倒れる様子はない。オタチは威嚇するように、鳴き声を上げた。気弱なラッキーの戦意を喪失させるには十分な威嚇だった。
「ラッキー……まだ、攻撃して」
 桐生はまた、控えめに指令を出す。ラッキーはまた、おそるおそる、オタチを攻撃した。
「キイッ」
 たった二発叩くだけの、単純な行為だ。だがしかし、たったそれだけの行動で、オタチは動かなくなった。草むらの中で倒れ、呼吸を乱し、今にも死んでしまいそうな状態になって、喘いでいる。
「あっ……」
 桐生はそれを見て、困ったように身を屈めた。そして、助けを求めるように、草むらの外にいる季時を見た。しかし季時は、何を言うでもなく、ただ暢気にチョコレートを食べている。
「あの……先生、どうしたらいいでしょう」
「どうしたら、っていうのは?」
「その……今倒してしまったオタチを」
「桐生君はどうしたい?」
「……」
 桐生は無言でリュックサックを開けた。そこから、傷薬を取り出した。市販のものだ。
「桐生君、それはダメだ」
「え……でも」
「放っておけばいいんだよ」季時は肩を竦めた。「そのままそこに転がしておけばいいよ。そのうち、勝手に体力を回復させて生き延びるか、そのまま力尽きるかのどちらかだよ。まあ、前者が圧倒的に多いけどね」
「死んじゃうんですか……?」
「かもしれない」季時は首を振った。「でも、じゃあ、倒したオタチをわざわざ助けて回るのかい? それとも、遭遇したポケモンからは常に逃走する? ポケモンを全員捕まえて行く? そうじゃないよね」
「でも……」
「君の気持ちはよく分かる」季時は草むらに近づいて来て、倒れたオタチをそっと抱き上げた。「このオタチは、例えるなら、自分の家に侵入されたようなものなんだ。このオタチには家族がいて、縄張り、家族を守るために、戦う決意をした。そしてそれに負けたんだ。この辺を探せば、きっと家族がいるよ。大体の場合、負けてしまった野生のポケモンは、家族や仲間が引きずって行って、安静な場所まで連れて行く。けど、僕たちがこうしてここに居座っている限り、彼らはこのオタチを助けに来ることが出来ない」
「……そう、だったんですか」
「そういう場合が多い。もしこのオタチが一匹だけで生活していたなら、この場で死ぬだろうね」
 季時はリュックサックの中から、いくつか木の実を取り出して、草むらにばらまいた。そして、オタチを地面に横たわらせると、桐生の手を取って、立ち上がらせた。
「本当は野生のポケモンに慈悲を与えるべきじゃないんだ。野生のポケモンに傷薬を与えるというのも、良くない。もし、どうしても意図しない戦いの末に傷つけてしまったなら、木の実がいい。木の実は、人工的じゃないからね。市販薬は、案外毒素も多い」
「……はい」
「さっきの場所まで戻ろう。あそこまで行けば、オタチの家族も安心出来る」
 季時は桐生の手を握ったままで歩いた。桐生は終始俯いていたが、その理由を季時は尋ねなかった。

 3

 この実習は本来一日かけて行われるものである。今回は桐生一人だけなので、もう実習は済んだようなものだったのだが、しかし二人はまだ山の上にいて、今は昼食を食べていた。桐生は手作りの弁当を、季時はカレー味のカップヌードルを持って来ていた。
「それ、自分で作ったの?」
 ガスバーナーでお湯を沸騰させながら、季時は訊ねた。桐生は控えめに、「はい」と頷いた。
「ふうん。料理も出来るんだ。完璧超人だね」
「いえ……趣味なので」
「僕は出来れば一生料理なんてしたくないけどね」沸騰したお湯を注いで、蓋を割り箸で留める。「あともう少し野生と触れ合って、そうしたら帰ろうか」
「あの……私、獣医に向いていないでしょうか」
 俯きながら、桐生が訊ねる。
「向いているかいないかは、僕には判断出来ない」
「……そうですね」
「三分間、話をしてあげよう」季時にしては珍しい発言だった。「ある学生の話なんだけどね」
「学生さん?」
「昔、獣医になりたかった学生がいたんだ。その学生は勉強熱心でね、かなり小さい頃から将来の夢を決めていた。それで、うん、情報ばかりを頭に詰め込んだ。勉強魔だった。それが全てだと思っていた。だけど、ある日……大学生になってからだね、一週間くらいキャンプをするっていう授業があって、それは野生のポケモンと触れ合う授業だった。その時に、学生は思ったんだ。人間たちが傷つけて、人間たちが治して、何がしたいんだろうってね」
「……」
 桐生は動きを完全に止めていた。その話はまさに、自分の思っていることと同じだったからだ。
「戦いに傷ついたポケモンや、病気に苦しむポケモンを治してあげよう、というのが学生の夢だった。でもね、知れば知るほど、その根源が人間にあることに気づいたんだ。戦闘不能になるまで痛めつけるのは人間の指示があればこそ。病気というのだって、人間が生み出した環境に適応出来なかったポケモンが陥っていく。そのうちに、学生は獣医になることをやめた。諦めたというよりは、魅力を感じなくなった。そして、その学生は今、若い学生に説教をしているよ。こんなところで、三分間だね」
「先生も、獣医になりたかったんですね」
「まあ、昔の話だけどね」季時は割り箸を割った。「でもね、それは僕の考え方だから」
「私も同じことを考えました」
「うん。でも、獣医はいなくちゃいけないんだ。僕たちが作り出した環境からポケモンを守るためにはね」
「でも……」
「君が病気を患ったのは、ゴースのせいだろう」
 桐生はゆっくりと頷いた。
「その時の君の正直な意見が聞きたい。ポケモンなんかいなければと思ったか、人間が悪いと思ったか」
 桐生はしばらく考えてから、「あの時は、ゴースがいなければ、って思いました」と素直に答えた。
「うん、じゃあ、君は獣医になった方がいい」
「え?」
「僕も昔、似たようなことがあってね。でもその時、僕は君とは違って、偽善的な考え方をした。人間がいなければ、って思った。人間さえいなければポケモンは傷つかない、ってね。だけど、僕は死なずに生きている。人間が悪いと思いながら、ポケモンに何もしようとしない。でも君は、善悪の判断がきちんと出来ている。断言しよう、君は獣医に向いている」
「でも……」
「僕は、ポケモンが悪さをしたらポケモンが悪い、という当たり前のことに気づくまで、何年もかかった。あの時、今と同じ考え方を出来ていれば、教師にはなっていなかったかもしれない。でも教師になっていなかったら、君と話すこともなかった」
「そうですね」
「……ああ、意味のない発言をしたようだ」季時は首を振った。「さて、さっさと食べて、もう何回か戦ってみよう。傷付け方を知っている方が、傷は治しやすい」
「はいっ」
 昼食を食べながら、季時が次の野生のポケモンはどのレベルにしようか、と考えていると、地響きのような音が聞こえた。
 桐生は驚いたように周囲を覗う。季時は食事を続けた。
「先生、なんの音ですか?」
「リングマだね」
「えっ……野生の、ですか?」
「だねえ。良い機会だ、ちょっと、戦ってごらん」
「む、無理ですよ! 私のラッキーじゃ、倒せるはずないですよ……」
「倒せとは言っていないよ。戦ってごらん、と言ったんだ」季時は淡々と続ける。「傷を治すなら、傷付かないとね」
 話をしていると、地響きは次第に大きくなり、ついに、二人のいる開けた場所に、リングマが現れた。リングマは二人の人間と、一匹のポケモンを順番に見た。
「先生……」
「ラッキー、自分のご主人様を守るんだ」季時は割り箸をリングマに向けた。「さあ、頑張って」
「あの、でも、ラッキーは……」
「いいから」
 リングマはラッキーに狙いをつけた。本能的に、誰を相手にすればいいか、ということを理解しているのだろう。ラッキーは怯えた様子で、リングマを見上げていた。身長差がかなりある。ラッキーの頭上には、リングマの影が落ちていた。
「ら、ラッキー……頑張って!」
 桐生はどうすることも出来ず、ただ声をかけるだけだった。しかし、そんな声援もむなしく、リングマが振り回した爪はラッキーの身体を深く切り裂いた。ラッキーはその反動で倒れ、桐生の元に転がった。
「ラッキー!」
「あ、ラッキーが一撃か。意外と強いなあ」季時は暢気に言いながら、スープを飲んだ。「桐生君、あと三メートル下がって、ラッキーを手当てしていて」
「に、逃げた方がいいんじゃないですか?」
「まあ、それも選択肢の一つではあるね」
 季時は地面に起きっぱなしにしていたボールを拾い上げ、素早い動作で投げつけた。リングマの付近でボールが開き、中から現れたのは、オノノクスだった。
「ドラクロ安定、かな」
 季時は略語で指示を出した。オノノクスはそれに対して頷くでも、合図を出すでもなく、淡々と任務を遂行した。ラッキーを傷つけた腕の動きが、まるでスローモーションのように見えた。オノノクスは下から突き上げるように腕を這わせ、リングマの腹部を切り裂いた。
「……ああ、でも、そこまで強いわけじゃあないのか」
 季時はのんびりと言って、倒れたリングマを見つめた。地面に落ちたボールを拾い上げ、素早くオノノクスを回収する。そして、桐生の元へと歩み寄った。
「ラッキーは、無事?」
「え、あ、はい……」
「ああ、処置も適切。上手だね。いい獣医になるよ」
「先生、強いんですね」
「僕は強くないよ。強いのはオノノクスだ」
「でも、育てて来たんですよね」
「ポケモンをちゃんと育てるようになったのは、獣医になるのをやめてからかな」
 季時は倒れたラッキーの頭を優しく撫でる。
「ポケモン、人間という言い方をついしてしまうけど、僕たちは個々だからね。どちらが悪いわけでもない。時々、すごく悪い一人とか、一匹がいるだけで、他のみんなはとても優しい。君がゴースに襲われたからといって、ゴース全体が悪いわけじゃない」
「……それは、そうですね」
「今のリングマだってそうだ。食べ物の匂いにつられたか、それとも、他の人間が彼に悪さをして、人間を嫌いになっていたのかもしれない。そういう理不尽な循環から身を守るためには、やっぱり、強くないとね」
「……ラッキーでも、強くなれますか?」
「いや、どうだろうね。ポケモンにも向き不向きがある。僕と君の志が違うみたいに。役割っていうものがあるからね」
 季時は立ち上がり、ゴミやガスバーナーを片付け始める。桐生はまだラッキーの横に座って、身体を撫でていた。
「処置が済んだらボールに戻した方がいいよ。ここよりはいい環境だ」
「はい……」
 桐生はラッキーを回収し、少し緩慢な動きで、残りの弁当をつまみ始めた。将来のことについて、色々と、考えているのかもしれない。
「……幸い、医学部にはいたからね、それについての相談なら、乗ってあげられるよ」
「先生のところにお邪魔しても、大丈夫ですか?」
「うん。それに、ポケモンを強くしたいなら、それについての相談もしていいよ。あんまり、生徒に協力的じゃない教師なんだけどね。僕も人間だから、たまには気まぐれも起こす」
「じゃあ……その時は、よろしくお願いします」
 桐生は控えめに微笑んだ。
「でも私、今……獣医もいいけど、先生もいいな、なんて思ってるんです。影響受けやすいですから」
「教師? うーん、それはやめておいた方がいいんじゃないかな」季時は表情を曇らせた。「僕はそれ、あんまりおすすめしないよ」
「どうしてですか?」
「教師はねえ、休日がなくなるんだよ」
 季時が言うと、桐生はおかしそうに笑った。


  [No.764] 七話 疎まれたがり屋の温情 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/10/04(Tue) 19:50:21   47clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 1

 季時九夜は基本的には面倒臭がりであるが、しかし、仕事はきちんとこなす人間だった。それが普通であるコツだからだ。生徒に質問をされれば質問に答えるし、教師から頼み事をされたら基本的には応じるし、補習授業があれば休日であろうと対応をした。
 そして今日、久々に、季時は特殊な仕事をすることになっていた。無論、季時にとっては、という話である。他の教師にしてみれば、日常的な仕事だ。季時は生物準備室に鍵を掛けて、実技室へと向かった。体育館とほぼ同じ構造の建物で、名前だけが違った。
 重い扉を開ける。見知った生徒が多くいた。
「あ、季時先生、こんにちは」
「こんにちは」
 少し肌寒いな、と思った。まだ二学期も始まったばかりなのに、もう冬が近づいている。
 ドアを閉め、中心に向かって行く。五名の生徒と、五匹のポケモンがいた。この実技室は、例外的に、ポケモンの所持が認められている。ここが、そういうことのために作られた施設であるからだ。
「さて、じゃあ、始めようか」
 季時は面倒臭そうに宣言した。
「どうして今まで、うちにはこの手の部活動がなかったんだろうね」
「適任の先生がいなかったそうですよ」
「なるほどね。僕はもう、四年くらいいるけど」
「一念発起する生徒がいなかったんですね!」
「それも正しい」季時は五人の生徒を見渡した。「じゃあ、部長は誰?」
「私です」
「適任だね。じゃあ、桐生君、始めよう」
 季時はそう言って、二度手を鳴らした。

 2

 闘技部というのがその部活動の名前だった。活動内容は、ポケモン同士を戦わせて、その強さを競うというもの。部活動としては、かなりメジャーな部類であるのだが、この学校には昔から存在が確認されていなかった。この部活動を設立するためには、強くなったポケモンを止めることが出来る強さを持った責任者が必要だ。前任の生物学教師は戦闘においての知識がなかったために設立に至らず、季時が来てからも、そのままなんとなく、誰も作らずにいたのだという。
「部長が桐生君で、副部長が水際君ね」
「はい!」
「なんで君、副部長、というか、入部したの?」
「部活をやっていないみたいだったので」答えたのは桐生だった。「名前だけでも、とお願いしたんです」
「季時先生が顧問をされるということだったので、是非と!」
「ああ、そう」季時は面倒臭そうに答えた。「そっちの二人は?」
「萌花に頼まれたので」白凪は、桐生の名前を出した。
「ふうん。君は?」
「あ、俺は……先輩に頼まれて」
 絹衣は控えめに答えた。居心地が悪い、という感じだった。
 季時はこの時、初めて絹衣のポケモンを見た。ヨーギラス、という、目つきの悪いポケモンだ。男子生徒が好みやすい、怪獣型のポケモンである。
「頼まれたの?」季時は意地の悪い表情を浮かべた。「君に? 白凪君が? ふうん」
「なんですか!」
「いや、なんでもないよ。美化委員はいいの?」
「私はもうすぐ卒業ですし、委員会と部活動は活動時間があまり被りませんから」
「で、最後に……宮野君はどういう繋がり?」
「えっと……先生が顧問をするって聞いたので……」
 ジュペッタを抱きしめながら、宮野はゆっくりと答えた。季時はこの生徒が苦手だった。嫌いである、とか、遠ざけている、というわけではない。単純に、相性が悪かった。しかし、ポケモン関係の部活には適任だと言える。
「でも君、手芸部だろう?」
「掛け持ちオッケーみたいなのでー……」宮野は微笑んだ。「両方続けるつもりです」
「ふうん。そう言えば、正規部員が三人で、最低五人以上の部員と顧問が集まれば、発足出来るんだっけね。緩い校則だね」季時はひどく面倒臭そうに言った。「まあ、じゃあ、分かったとしよう。で、どんな活動をしていくつもり?」
「私、この前先生と課外授業をした時、何かあった時に、自分もポケモンも守るためには、強くならないといけないかな、と思ったんです。だから、そのために、戦う方法を教えてもらいたいな、って」
「他の意見は?」
 他の四名は何も言わなかった。だが、答えられない、ではなく、同じような意見だ、という意味の沈黙だった。
「で、僕は何をすればいい?」
「たまに顔を出してくだされば、嬉しいです。毎日来てもらうというのは、迷惑だと思いますし……週に一回、少しの時間でもいいので、来ていただいて、色々と教えてもらえればと思います」
「ふうん。まあ、それくらいなら、別にいいかな……」
 季時は、桐生に甘い、という自覚があった。自分と似ているからだろう。いや、自分の夢を託したい、という、邪な想いがあったのかもしれない。白凪に対しても、強く出られないし、宮野に至っては、天敵だ。面倒な部活の顧問を任されたものだと、季時は溜め息をついた。
「じゃあ、部活動っぽく、基礎練習から始めようか」
 季時は白衣のポケットからボールを取り出した。そしてそれを素早く投げつける。カゲボウズが現れて、辺りをきょろきょろと見回している。
「最初に、この動作を、一日五十回」
「えっと……ボールを投げるのをですか?」
「というか、投げて戻す」季時は足下に落ちたボールを拾い上げる。「スナップを利かせて投げる。そうすると、ボールがこっち側に転がる。バックスピンって分かる?」
「あー、俺、分かります。それ、小学校で流行りました」絹衣が手を上げた。「それ、大事なことなんですか?」
「バトルで一番大事なんじゃないかな」
「そんなにですか」
「僕たちは所詮、人間だからね。僕たちが鍛える部分って、このボールを投げる動作と、ポケモンを回収する動作くらいなものだよ。だからね、君たちがこれから戦うためのポケモンを育てるつもりなら、ボールは旧式の方が良いよ。最近流行ってる、超小型のボールだと、スピンはかけられないし、草むらに落とすと、見つけにくい」
「へー……」桐生は熱心にメモを取り始める。「一日五十回ですね」
「これもセットでね」季時はボールにカゲボウズを収納した。「これを五十回。最初はポケモンも戸惑うと思うけど、すぐに慣れるよ。ウォーミングアップみたいな感じでやって、それから部活を始めるように」
「分かりました」
「あと、白凪君と水際君のボールは、三年生だし、まあ出る機会もないとは思うけど……公式大会とかでは使わせてもらえないから、あとで市販のものと取り替えよう。もし旧型のボールが欲しい人がいたら、あげるよ。未使用のものがいくつかあるから。いる人は?」
 季時が訊ねると、五人全員がゆっくりと手を挙げた。「素直でいいね」と、季時は満足そうに頷いた。
「あとは毎日、ただ戦い続けるだけだね。僕たちが走り込みをする必要はないし、トレーニングをする必要もない。ただポケモンを戦わせるだけだ。まあ、適当にやってよ」季時はボールをポケットに入れた。「じゃあ、ボール取ってくるから、談笑でもしていてよ。お互いの持ってるポケモンのことを話していてもいいかもね」
「あの」
 声を上げたのは桐生だった。
「ん?」
「先生ってもしかして、こういう部活してました?」
「ああ、うん、よく分かったね」
「いえ、なんだか楽しそうだったので」
 季時はそう言われて、自分の顔を触ってみた。物理的な変化は見受けられない。感触では分からないのかもしれない。
「そう?」
「そうですよ」絹衣が言った。「なんか、テンション高いっていうか、いや、いいことなんですけど」
「ふうん。まあ、懐かしかったのかな」
「大会とかもあったんですか?」白凪が訊ねる。「高校時代でしょうか」
「そうだね。全国大会とか、懐かしいね」
「へえ……先生、すごいんすね」
「いや、すごいのはポケモンだよ」季時は首を振った。「じゃあ、取ってくるから」
「あ、私、手伝います……」
「いや、いい」季時は宮野の申し出を断る。「君は質問攻めにされるといい。みんな知らないだろう? この子、ポケモンと会話が出来るんだ」
「えっ」桐生がすぐに声を上げた。「本当?」
「え、あ、はい……」
「へえ! すごいな君! 言葉が通じるってこと?」
 特別な人間だと分かったからか、水際も過剰に反応し始める。宮野は年上ばかりの部活動に困惑しているようだったが、少しずつ、言葉を返していた。
 季時はそのまま何も言わずに、実技室をあとにする。少々特殊な生徒たちが集まったな、と、五人の輪を見て思った。自分の学生時代を思い出すようで、それは少し、普段よりも楽しい仕事だった。

 3

 段ボール箱に赤と白のボールを五つ詰めて、季時は廊下を歩いていた。珍しく荷物を運ぶ行為が苦ではなかった。こうした作業は、学生時代に何度もやったはずだ。当時と同じように、対価を求めない気持ちが働いていた。普段の仕事もこうなればいいのに、と、季時は少しだけ考える。
「あれっ、きゅーやんだ」
「やあ」常川だった。「今日も元気がいいね」
「えっ、気持ち悪い。どうしたのきゅーやん」
「普段通りだよ」
「普段のきゅーやんは元気という言葉は使わないと思う」
「ふうん。よく観察しているね」
「どうしたの? 具合悪い?」
 常川は季時の隣についてきた。いつもなら不満の一つも口にするところだが、季時はその行為を黙認した。
「今日から部活が始まったんだよ」
「え、ああ、何部だっけ」
「闘技部」
「仰々しい名前だよね。宮野ちゃんがいるんだっけ?」
「そうだね。手芸部、掛け持ちしていいんだってね」
「あー、そうだね。私は戦うのって好きじゃないから、あんまり……でもきゅーやんが顧問って面白そうだね」
「僕はあまり顔を出さないけどね」
「ふうん。ま、来年廃部になりそうだったら、入ってもいいかな。今は制作物で忙しいし」
「手芸部?」
「うん。あのねえ、文化祭前に一つ制作するの。それが終わったら、入ってもいいかなあ。三年生が多いって聞いたし」
「ふうん。何作ってるの?」
「内緒」
「そう」季時はそれ以上追求しなかった。「そろそろ寒くなるし、手芸部のみんなで、お世話になっている教師にプレゼント、とかしないの?」
「え、するわけないじゃん」常川は真面目な口調で言った。「あ、文化祭、手芸部とか来ないでね」
「僕は文化祭は自宅で寝るよ」
「最低」
「身長は君より高いよ」季時は階段を降りて行く。「どこまでついてくる予定?」
「ちょっと部活覗いてみようかなーって」
「手芸部は?」
「やってる途中だけど、たまたまきゅーやんがいたから」
「ふうん」
 頭の中で、手芸部のあるB棟一階の家庭科室と、三階にある生物準備室に用事のある人間同士が、たまたま巡り会う可能性はいくつあるか、と考えてみた。しかし思考が完全に組み上がる前に、季時は実技室に到着していた。
「段ボール箱を持つのとドアを開けるの、どっちがいい?」
 季時が訊ねると、常川は面倒臭そうに、重いドアを開けた。気分が良かったので、「ありがとう」と、季時にしては珍しく、感謝の言葉を口にした。
「あ、常川さん」
「やっほう」常川は宮野に手を振った。「わあ、結構広いんだね」
「来たことないの?」
「体育でポケモンの授業あるのって、二年からじゃないの?」
「ああ、君、まだ一年生か」季時は思い出したように言った。「付き合い長いからなあ」
 男子生徒二人は、水際の持っている旧型と同じサイズのボールで、バックスピンの練習をしていた。練習熱心だな、と微笑ましくなる。
「全部同じだから、好きに使って」
 季時が言うと、部員たちはすぐに段ボール箱に群がった。
 ボールも個性の一つ、あるいは住処の一つだと考えられる時代になり、ボールの移し替えも簡易的になった。季時が学生の頃までは、まだ、ボールは一生物という考え方が大きかった。たった十数年で飛躍的に進歩していく。科学の力はすごい。
「常川さんも、一緒にやらない?」ジュペッタを抱きしめながら、宮野が訊ねる。
「うーん、少人数で結構楽しそうだね。それに、ピカチュウと学校で触れ合えるのはいいかも。ねえきゅーやん、休み時間とかに実技室使ってもいいの?」
「えーと……部長としては?」
「あ、学校側が良いなら、いいですけど」桐生は常川に言った。「飲食禁止だったりしますか?」
「そういう校則はないね。まあ、今後出来るかもしれないけれど、今のところは」
「じゃあ、いいんじゃないかな。まだ部室もないし。来年か、来学期くらいに、生徒総会があるから、その時に空いている部室がもらえるかもしれないけれど。私たちは今年で卒業しちゃうから、一年生の人がたくさん入ってくれると嬉しいかな」
「うーん、そうですよね。残るのって、宮野ちゃんだけ?」
「ああ、俺も残るよ」ボールを弄びながら、絹衣が言う。「来年は俺が部長になるのかな? あ、継続って何人いればいいんですっけ」
「部活動の継続は、三人ね」白凪が答える。「もう一人入ってくれれば、来年も一応、部活動は出来そうですね」
「ううーん……軽い気持ちで来たのに、責任重大な感じがしてきた」
「まあ、無理してやることはないよ」季時は床に腰を下ろす。「楽しんでやるのが一番だ。ポケモン関係のことはね。無理するようになったら、全部やめた方がいい」
「と……とりあえず手芸部の作品が出来上がるまで」
「待ってるね」宮野は微笑んで言った。
「先生、ボールの入れ替えって、どうするんですか?」白凪がボールを持って来て言った。「さっぱり分からないんですけど」
「あ、僕も分からないです!」
「ああ……組み込まれてるチップを入れ替えればいいよ。じゃあ、水際君のを貸してくれるかな。試しにやってみるから」
 水際のボールを手にして、ふと季時は動きを止める。
「あれ、これツボツボだよね。ツボツボで戦うの?」
「はい! 堅実な戦い方をしようと思います」
「ふうん。ま、君には合ってるかな。ツボツボ使いは頭が良くないとね」ボールを操作しながら、顔を上げないままで、季時は続ける。「白凪君はヤブクロンだけど、どうする?」
「とりあえずは育ててみようかなと思います」
「進化すると、悲惨だよ」
「容姿がですか?」
「うん」
「問題があるとは思えませんが」
「いい答えだね」季時はボールを水際に返す。「どうしてもね、ポケモンの性能差っていうのは出てくるよ。これは仕方がない。多分この中だと、一番強くなるのは……」
 季時は生徒たちを見渡して、絹衣に目を留めた。
「君かな」
「俺っすか?」
「というか、ポケモンがね。ヨーギラスはきちんと育てれば、かなり強くなる。もっとも、それに対応するように育てれば、他のみんなにも勝ち目はあるけどね。でも、一匹のポケモンに対応したら、他のポケモンに対してどうすればいいか分からなくなるから、それじゃだめだ」
 季時は立ち上がり、六人の生徒を見渡した。
「……たまには教師らしいことでも言うか」
「何、もったいぶって」
「せっかく、他の生徒では得られないような経験をするんだ。君たちに是非知っておいて欲しいことがある」
 季時は自分のボールを取り出して、それを眺めた。
「君たちは若いし、幾通りもの可能性がある。これからね。例えば、とりあえず大学に行く者、なんとなく就職をする者、がんばって夢を目指す者、たくさんだ。全部素敵なことだと僕は思う。だけどね、あまり一つに固執しない方がいい」
「視野を広くということですか?」白凪が言う。
「似たようなことだね。このポケモンが強いから、このポケモンを倒すために、じゃあ例えば、火を倒すために水を育てる。そうすると草に負ける。そのためには火だ。だけど水に負ける。そうやって堂々巡りしてしまうことだってある。三竦みだね。だからね、僕は君たちに、あまり固執して欲しくない。出来るだけ、不安定で、曖昧であって欲しい。最終的な結論を出すのは、それからでいい。まずはなんでも試してみて欲しい。そのあとで、自分の信じた結論を出せばいい」
「いいこと言うじゃん」常川が、茶化すように言った。「まあ、きゅーやんは前からいいこと言うけどね」
「どうもありがとう。それじゃ、基礎練習をしようか」
 季時はそう言って、二度手を鳴らした。
「今日は仕事は終わりだ。みんなでポケモンと触れ合おう」
 季時が言うと、全員がその言葉に驚き、しかしすぐに、笑顔を見せた。


  [No.765] 八話 死にたがり屋の言葉 投稿者:戯村影木   投稿日:2011/10/04(Tue) 19:51:38   51clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 1

 他人の悪事など基本的にはどうでもいい、と季時九夜は思っている。隣で殺人が起きようが、自分に関係がなければ、基本的には、どうでもいい。そう思っている。だが、思ってはいても、理性や思考とは無関係に、身体が動くことはあった。
 仕事の用事で、地下鉄に乗る機会があった。ホームで電車を待っていた時だ。他の乗客は、本を読んでいたり、携帯電話をいじっていたり、忙しそうだった。季時は白衣のポケットに両手を突っ込んで、ぼーっと電車を待っていた。ぼーっと、とは言っても、常に周囲を観察していた。目の前には若い女性がいた。いや、女の子、と形容するべきだ。中学生くらいだろうか。私服だった。彼女も季時同様に、何もせずに、電車を待っている。彼女が先頭で、季時は二番目だった。
 電車の振動が、遠くから聞こえてくる。ようやく椅子に座れるな、と思った瞬間だった。前にいた少女が、足を一歩前に踏み出した。それは、数秒後に行われるべき行為だった。今はまだ、足を置く場所が到着していない。そのまま少女が前傾していく。季時の頭の中で、数秒後の未来が予測される。このままの速度で彼女が前に倒れ、電車が来る。電車の速度、パワー、少女と電車が接触する面積。その後の状況。様々な計算を除外しても、得られる結果は死のみだった。
「危ない!」
 声を出すことになんの意味があるのだろう? 自分への警告だろうか。あるいは、周囲の人間の注意を引くためか。その問いの答えは未だに出ないままだ。季時は少女の腹部に手を回し、彼女を引っ張った。あまりに強く、こちら側へ引き戻そう、という力が働いたせいか、季時は彼女と共に、後方へ倒れた。周囲から、おおっ、とか、きゃ、とか、ざわめきが聞こえた。うるさい、静かにしろ、と心の中で訴える。電車は既にホームに到着していた。
「……」
 何かを言うべきだった。危ないだろう、死ぬところだった、何を考えているんだ。様々な言葉を思い浮かべたが、どれも的外れで、自分には関心のないことだ、という結論を得た。季時は彼女の拘束を解くと、ゆっくりと立ち上がり、服を叩いて、何事もなかったように、電車に乗り込んだ。
 周囲の人たちも、怪訝そうにしてはいたが、電車に乗り込んでくる。季時は今の行為は夢だと思い込むことにした。いや、最近疲れているから、白昼夢だったのだろう。椅子に座り、ふう、と溜め息をつく。動悸が乱れていた。こんなところで、生涯決まっている鼓動の回数を無駄遣いするのは忍びない。
 ドアが閉まり、電車は何事もなかったかのように、走り出した。自殺未遂。それを救った男。そんな事実は、存在しなかった。電車が走り出すと、心地良い振動が、季時に与えられる。
「あのさ」
 ふいに、隣から声をかけられた。面倒臭い、と思ったが、薄目を開けて、隣を覗った。若い女性だった。いや、やはり女の子、と形容すべきだろう。
「何かな」
「なんで助けたの」
「答えはまだ出ていない」季時は咄嗟にそう答えた。「答えが出たら、聞きたいの?」
「別に……」
 少女は視線を逸らした。
 季時も視線を元に戻し、目を閉じる。
 ああ、また面倒なことをしてしまった、と、季時は自分の行動を悔いた。無意識のうちに、季時は命を救いたいと思ってしまう。獣医の道を諦め、一教師として生活しているのに、その思想だけは、まだ消えないままだった。

 2

 仕事はすぐに終わった。以前に務めていた高校で、手続きをしなければならなかった。当時は不自由していなかったが、しばらく離れてみると、随分田舎だな、と思った。電車の多い町で、車両基地があった。季時は仕事を終えたあと、次の電車が来るまで、ベンチに座って、車両基地を眺めていた。乗り物は好きだ。人を乗せて動く、という明確な役目を与えられている。そのためだけに存在するというのに、美しい外観をしていた。飾らなくても、ただ存在するために、美しくある、というものが季時は好きだ。ポケモンが好きなのも、白衣が好きなのも同じ理由だ。機能美とでも言うのだろうか。その存在そのものが、ただひたすらに美しい。
「ねえ」
 レールのビスの数を数えていると、またふいに、声を掛けられた。先ほどの少女だった。季時は視線をそちらに向ける。関わり合いたくないな、というのが本音だったが、子ども相手に無視というのも、大人げない。
「何かな」
「何してるの?」
「どこまで具体的に答えればいい?」
「もういい」少女は季時の隣に腰を下ろした。「ねえ、なんでさっき、助けてくれたの」
「答えを考えていなかった」季時は立ち上がる。「缶コーヒーを飲むけど、君、何か飲む?」
「いらない」
「じゃあ、ソーダかな」季時はすぐ近くの自販機で、缶ジュースを二つ買った。「僕は性格が悪いからね、人がいらないっていうと、あげたくなる」
「助けて欲しくなかったって言ったら?」
「喜ぶね」季時は缶ジュースを少女に渡した。「いつまでに答えればいい?」
「別にいいよ、もう」
「君、何歳?」
「十五歳」
「中三?」
「来年からね」
「死ぬなら一人で死ぬといい」季時はプルタブを起こした。「何もあんな、人の多い場所で死ななくてもいいだろう。君は会話のリズムがいいね。きっと頭が良いんだろう。ならもっとまともな死に方が出来るはずだ」
「別に、死のうと思ったんじゃないよ。ただ、なんとなく、ここで死んでもいいやって思った」
「今、この橋から落ちたら、運が良ければ死ねる」
「そうだね。死んで欲しい?」
「どちらでも」
「また助ける?」
「そのつもりはないけれど、断言は出来ない」
 少女もプルタブを起こした。一口だけ飲んで、すぐに口を離した。薄手の長袖でも寒い季節だ。冷たいソーダは、合わなかった。
「コーヒー美味しい?」
「いや」季時は首を振る。「美味しいと思ったことは一度もない」
「なんで飲んでるの?」
「さあ」
「美味しいもの飲めばいいじゃん」
「望んだ人生ばかりは選べないよ」季時は空を見上げた。「段々味覚が麻痺してきて、甘いものとか、そういうものが、苦手になる」
「何歳?」
「少なくとも君よりは上だ」
「何してる人?」
「どこまで具体的に答えればいい?」
「仕事」
「高校教師だよ」
「何の?」
「生物学。主にポケモンを扱っているよ」
「へえ。頭良いんだ」
「僕の一番嫌いな言い方だ」
「自分で言ったんじゃん」
「それもそうだね」
 季時はそこでまたコーヒーを飲んだ。
 電車はまだ来ない。
 田舎町は、電車の本数が少ない。
「ポケモン、持ってる?」
「一応ね」
「見せてよ」
「嫌だな」季時は露骨に顔をしかめる。「死にたがりが移ると困る」
「別に、死にたかったわけじゃない」
「簡潔に君の人生を教えてくれたら、ポケモンを触らせるのもやぶさかではない」
「別に。ただなんか、人生ってつまらないなって思っただけ。言われるままに学校に行って、中学生になって、来年から受験生で、高校生になって、ただなんとなく学校に行って、また受験をして、なんとなく大学に行って、なんとなく就職をして、なんとなく死んで行くんでしょう」
「素晴らしい予測力だね」季時は微笑んだ。「僕の人生と似ている箇所が多い」
「そんな人生、つまらなくないの?」
「つまらないよ」季時は笑ったままで言った。「どうしようもなくね。たまに死んでみたくなる」
「でしょ?」
「だけどね、僕は死なない」
「どうして?」
「確率の問題だよ。死ぬよりも、生きた方が、面白いことがありそうだ。死んだら、永遠につまらないが継続する。それはちょっとね」
「死んだら、思考力なんてなくなるんじゃないの」
「答えてくれたお礼に、見せてあげようか」
 話題がすぐに変わったので、少女は一瞬躊躇ったが、すぐにポケモンのことだと分かった。季時は白衣からボールを取り出すと、それを優しく地面に転がした。
「なんていうポケモン?」
「カゲボウズ」
「ふうん」
「人形でね、怨念が詰まってる」
「こわっ」
「そう、怖い。でも元は人間にあった感情だ。人形ポケモンって、不思議な話だろう? 人形は、人間がいたから作られたものだ。ということはつまり、このカゲボウズというポケモンは、人間が生まれてから誕生した生き物なんだ。それまでは存在しなかった。人間よりもあとに生まれた。人間が作った人形を媒体にして、人間の感情を詰め込んで活動している。ほとんど、人間みたいなものなんだよ」
「へえ」
「ポケモンというのはね、大半は人間が生まれる前からいた。けれど、人間が作ったポケモンや、人間の生活の影響を受けて生まれたポケモンも少なからず存在する。いや、今はかなり多くなっているね。人間が環境汚染をして生まれたポケモンもいるし、遺伝子操作をして生み出されたポケモンもいる。こういう点から、人間とポケモンの関係は根強いと言われている。君、ポケモンは?」
「持ってない。勉強の邪魔になるんだって」
「君の家は厳しいの?」
「別に。怒られたことはないけど。反抗したことないから」
「反抗しないの?」
「面倒臭いじゃん。どうせ怒られるって分かってるし」
「なるほどね」季時はカゲボウズを撫でる。「そして君の予測はいつも正しかったわけだ」
「そうだよ」
「死ねなかったのに?」
 季時が言うと、少女は視線を逸らした。
「君が思うほど、人生は思い通りには行かないよ」
「でも、思っているほど面白くはならない」
「君との会話は、結構、僕は気に入っているけどね」
 少女は答えなかった。自分の感情を表す適当な言葉を知らなかったのだろう。
「カゲボウズって、どうしてポケモンって言うの」
「それは、動物ではないのか、ということかな」
「そう」
「要するに、解明出来ていないんだ。動物と分類されている生き物は、ある程度解明出来ている。けどポケモンは分からないことが多くて、未だに研究が続けられている。不思議なものでね、カゲボウズは人間がいるから生み出されたポケモンであるのに、人間はカゲボウズを理解することが出来ない」
「へえ」
「でも、人間だって同じだろう」
「どういうこと?」
「僕は君を理解出来ないよ」
「当たり前だと思う」
「人体の構造は理解出来てもね、気持ちは分からない。じゃあ、生物って、身体の構造だけ理解出来れば、それで理解したことになるの? 違うよね。僕たちは心まで含めて、人間なんだからさ」
「それは、そうだけど」
「だったら、結局動物だって解明出来ていない。でも、特別不思議な、物理法則を無視していたり、今まで生み出されてきた理論では証明出来ない者たちを、我々はポケモンと呼んでいるよ」
「ふうん」
「こういう仕事をしているよ」
「え?」
「生物学。こういう話をするんだ」
「それ、楽しい?」
「いや、仕事だからね、楽しくないよ」
「どうして続けてるの?」
「それが知りたいんだよ」
 ゆっくりと振動が伝わってきて、電車が来たことを知らせていた。「君は帰るの?」と季時が訊ねると、少女は「次の電車で帰る」と答えた。
 缶コーヒーを飲み干して、ゴミ箱に空き缶を捨てる。
「次死ぬ時も助けがあるとは限らない」
「そうだね」
「じゃ、また」
「あ、待って」
 橋を降りて行く季時に向かって、橋の上から、少女は声を掛ける。季時はそのままホームに降り立つ。この駅には、電車が五分ほど停車する。季時はホームで、ゆっくりと上を見上げた。
「名前は?」
「聞いてどうするの?」
「どこの高校か調べて、受験する」
「高校名を聞いた方が早いんじゃない?」
「再来年もいるとは限らないから」
「頭がいいね」季時は微笑む。「季時九夜」
「きとききゅうや?」
「季時が苗字で、九夜が名前」
「珍しい名前だね」
 少女は笑った。
「よく言われるよ」
「きゅーやんって呼んでいい?」
「他人の呼称には不満を言わないようにしている」
「じゃあ、きゅーやん、さようなら」
「さようならと言われると、また会いたくなるな」
 季時は笑って、電車の中に消えた。

 3

 いつ実行するかを決めかねていた掃除を、季時はついに敢行していた。二時間も授業が空いてしまって、暇だったというのが大きな理由だ。しかし予想以上に作業は手間取った。出てくるものが思い出を喚起させることが多く、以前務めていた高校の名前が書かれた書類を見つけて、季時は二年前の出来事を思い出していた。
 季時にしては珍しく、美しい、と思える類の記憶だった。そのことを思い出していたら、授業の終了を終えるチャイムが二度鳴っていた。もう、掃除は諦めることにした。どうせ片付けても、また同じ状態になる。人生というものはそういうものだ。
 そろそろ冬も本格的になる、という時期だった。丁度同じ時期に、そんな出来事があった。少し肌寒くて、温かい缶コーヒーがとても似合った。
 諦めて昼食でも食べようか、と思っていたところで、ドアをノックする音が聞こえた。気の利いた言葉を考えて、「入ってます」と答えた。すぐにドアが開いた。
「ああ、いたいた」
「常川君か」丁度彼女のことを思い出していたところだった。いいタイミングだな、と季時は思った。「二度確認するほどのことかな」
「なんで部屋汚くなってるの?」
「いや、掃除をしたんだよ」
「綺麗になってないじゃん」
「何かを整えるためにはね、汚さないといけないんだ。君、数学得意だろう? 途中式はいつも美しくないよ」
「はいはい。はいはいはい。はいはいはいはいはい」常川はそう言いながら、机の上の書類を掻き分ける。「今日はすぐ帰るよ。これ渡しに来ただけだから」
 常川は包装されたものを机の上に置いた。重くはなさそうだった。
「何?」
「マフラー」
「マフラーね。君が作ったの?」
「うん」
「ふうん。どうして?」
「部活だから」
「なんで包んであるの? 評価しにくいんだけど」
「だから、きゅーやんにあげるの」
 常川は季時を睨み付ける。
「マフラーを? 僕に? 手作りのを?」
「そう」
「なんで?」
「もういい」常川は唇を尖らせて、振り返る。「失礼しました」
「なんで怒ってるの?」
「怒ってませんよ」
「君が怒る合図を僕は知っている」
「機嫌が悪いの」
「機嫌が悪いけど、怒ってはいないの?」
「気に入らないなら捨てていいよ」
「これ? いや、もらえるならもらうよ。最近、自転車通勤も寒いしね。かといって、自分で買いに行くのも面倒だから」
「そう」
「いや、ありがとう。理由が分からなかったから戸惑っただけだよ。ちゃんと使うよ。へえ、見てもいい? というか、僕のものだから、確認を取る必要はないね」
「好きにすれば」
 季時は包みを開けた。それは、カゲボウズと同じ色をしたマフラーだった。「いいセンスだね」と季時は言って、それをクビに巻いた。
「私は好きな色じゃないけどね」
「そうなの? じゃあどうして作ったの?」
「きゅーやんが好きそうだから」
「ああ、最初から僕のために作ってくれたのか。ありがとう」
「どういたしまして」
「で、どうして?」
「まだ答えは出てないかな」常川はそう言って微笑んだ。「答えが出たら、聞きたい?」
 季時は五秒間考えて、口元を緩めた。
「別に」


  [No.789] 読ませていただきました! 投稿者:CoCo   《URL》   投稿日:2011/10/23(Sun) 22:48:47   42clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 
 先日はげきむらと表記してしまってすみませんでした。
 たのしく読ませていただきました!
 すらすら読めるすっきりした文体も、ゴースト使いらしく意図せずもセクシーな季時先生などなどいきいきしたキャラクター達も素敵で、八話を読み終わってしまうのが惜しかったです。ごみ捨て場でもっと時間を過ごしたかった……!
 やんわりと続編を希望しておきます。

 できることなら一話ずつ面白かった! ここが! と言いふらしたいところなのですが、時間がないので……お話も、生徒の悩みを先生が解決する、というような形をもってすっきりと収まっている上、捻りがぐっといい具合に食い込み、また独特の会話テンポと回し方も素敵で、とにかく面白かったです。常川ちゃんを八話まで引っ張るところがもうさすがとしか。
 また戯村さんの作品を読めるのを楽しみにしています。

 あと、カゲボウズを「てるてる坊主のような」と比喩するところに凄まじいアレなアレを感じました。すばらしいと思います。