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  [No.953] 飽食のけもの 投稿者:乃響じゅん。   投稿日:2012/04/15(Sun) 20:41:39   38clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「おとぎ話の人食いは、実在している――。
 それを知るのはまじない師と、欲望という餌を撒き散らす愚か者だけ。
 謎の男ディドル・タルトは、あらゆる事件を解決する。
 彼の目的とは、果たして?」

飛馬bot(https://twitter.com/#!/tobiuma1)より抜粋

人食いと、まじない師にまつわるエトセトラ。
ポケスコ第三回に投稿した作品の完全版です。

【何をしてもいいのよ】


  [No.954] #1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師 1、2 投稿者:乃響じゅん。   投稿日:2012/04/15(Sun) 20:45:32   48clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 1

 最近、屋敷のクラウディア夫人はやたらと美しくなった。肌は土一つ見えない雪のように白いし、髪の色もイチョウのように一切ムラのない黄金色。目のブルーは海のよう。細い身体はたるみ一つなく引き締まっている。そんな体をしていながら、年頃の娘がいると初見の人間が聞けば、さぞかし驚かれることだろう。
 その年頃の一人娘――ロコは、そんな母の様子をいぶかしく思っていた。つい数カ月前までは、シミも増え、背中のにきびを気にし、髪も痛み始めた、どうすれば若い身体を保てるのかと嘆いていたのに。あまりに急激な若返り具合に、それを褒める使用人は数多くいれど、それを疑う者が果たしてどれくらいいるのだろう。クラウディア夫人は自分の見た目について良くない言葉を発する者を容赦しなかった。紅を引いた口をむちゃくちゃに歪ませながら重い扇子で十発も殴るのを、幼いロコは発見してしまった。それ以来、ロコ自身も発言には細心の注意を払うよう心がけていた。この母との生活は戦いなのだと、ロコは思っていた。それゆえに、今回の劇的な変貌についてもこちらから聞くようなことは絶対にあってはならないと頑なに思っていた。自慢したがりのクラウディア夫人の事だ、色々な人から褒め称えられているうちに、自らその秘密を打ち明けてくるだろう。知らぬ間に、誰もが認めるほどの美を作り上げていたのだ、賞賛されない訳がない。そして調子に乗ったクラウディア夫人は私に言うのだ、「私の美しさの秘密を知りたい?」と。その一言を待とうと心に決めてから、既に一か月が経過していた。
「ねぇ、ロコ」
「何でしょうか、お母様」
 黄色いドレスを来たクラウディア夫人が扇子で口元を隠しながら近づいて来る。きっとあの下には、溢れんばかりの笑みを抑えようと必死な口があるのだろう、とロコは思った。
「今日は物理の先生がお見えになる日だけれども。勉強の方は順調かしら」
「ええ。順調です」
「それでこそ私の娘!」
 クラウディア夫人は喜んだ。ロコにはイングウェイという兄もいるが、既に働いているために家の中にいることはあまりない。生活に張り合いが無い夫人は、ロコに立派な教育を施すことが趣味であり、確実に知恵をつけていく様子を見ること、つまり自分好みの人間に育っていくことが楽しみなのである。妙なところで抜けた頭だ、とロコは思った。その知恵がいつか親を裏切るようなことになったらどうするつもりなのだろう。自分がもし野心家であったなら、間違いなく得た知恵で母を出し抜いていただろう。
 ロコは目を閉じた。閉じた瞳の中にため息を込める。勉強自体は役に立つことも多く、嫌いではないものの、一日に7人8人も来た時は流石に気が滅入った。今何の話をしているのか、今の教師は誰なのか、だんだん分からなくなってくる。
 そう言えば、一人だけ関係が少し深くなった家庭教師がいた。幾何を教えてくれた若い男だ。背が高く、鼻も高くて、控え目な眼鏡をかけていた。本を持ちながら数学について語る姿に理知を感じ、不覚にも惹かれてしまったのだ。あれは半年ほど前の話だっただろうか、いつの間にか幾何についてではなく、愛について語るようになり、ロコの方もそれに乗ってしまったのだ。誠実そうな人物だと思った。だが、運悪く両手を絡ませているところを下女に見つかり、夫人に報告されたのだ。あの時は怖かった。自室の扉をとんでもない音で開け、昔見たひどい怒りの表情を浮かべて扇子で教師を叩き、教師の方は両手を頭を抱え、謝りながら情けなく退場していったのだ。「あんな男を雇ったのが間違いだった」と夫人は憎々しくこぼした。
 部屋に戻り、物理の先生を待つ。外の景色は相変わらず晴れ。
「ロコ様、先生がお見えになりました」
 下女が扉を開け、小さい身体に似つかわしい高い声でロコを呼ぶ。それと同時に物理教師が部屋に入ると、ロコは椅子から立ち上がり、振り返って軽く会釈する。下女は扉を閉めた。
「こんにちは。今日も宜しくお願いします」
「やぁ、ロコ君、今日もいい天気だね。ただちょっとにおうかな? はは」
 ロコはあまりこの男が好きではなかった。言葉に一切慎みがなく、品がない。肌はそれなりに奇麗なのだが、歯が上下二本ずつ欠けている。あまり見たい口内ではない。ロコは笑みを浮かべてみたが、きっと引きつっていただろう。この男の粗野な性格が人のそういう細かい所作をいちいち気にしないほどであるというところが、唯一の救いか。
 物理の話をしている間じゅう、ずっと彼は眉間にしわを寄せていた。一体何がそんなにおかしいというのだろうか。他人の屋敷だ、においの違いくらいあって当然だと思うのだが。こんな醜男が細かいことをいちいち気にする様は、むしろ滑稽でもある。他人を茶化すのは苦手だが、そう思わなければ気分良く学習することは叶わないだろうと思った。
「それでは、今日はこのへんで」
「ええ、その方が良さそうですわね。ありがとうございました」
 失礼な男がようやく帰ってくれるのか。ロコは少しだけそっけなく、お礼を言った。
「どういたしまして」
 気付いているのかいないのか、向こうの反応も格式ばったものだった。物理教師はドアを開き、下女の案内を受けて去って行った。去り際に一言、やっぱりひどい臭いだ。
 ロコはため息をついて、窓の外を眺める。広い芝生と周囲の森が、夕日の陰になり真っ黒に染まっている。
「早く帰って来ないかなぁ、兄さん」
 ふとイングウェイのことを思い出し、少し懐かしい気持ちになった。嫌なことがあった後は、決まってそうなのだ。一回りも二回りも年上の兄は、幼いころからロコの話をよく聞いてくれた。きっと私は退屈しているのだ、とロコは思った。

2

 ある日、ロコは母に誘われる。お茶会の誘いだ。
「今日もオコネルさんのところへ行くけれど、ロコ、あなたもいらっしゃいな。レベッカも寂しがっていたわ。天気もいいし、たまにはお話してきたらどう?」
 そう言えば、ここ一、二週間ほど屋敷の外に出た覚えがない。庭で散歩をした程度だ。少し考えたあと、ロコは答えた。
「そうですね、お邪魔しましょうかしら」
「そうと決まれば、早速準備よ準備!」
 なんだか妙に張り切っているなぁ、とロコはぼんやり考えていた。楽しそうなのは何より良いことだ。多少、厳しいお咎めが緩くなる。
 外出用の帽子を被り、馬車に揺られていく。麦畑を抜け、木々の間を抜けていくと、高い塀に囲まれた、赤い屋根が見えてきた。オコネル氏の屋敷だ。門番に青銅の門を開けてもらい、正面入口へと続く道の途中まで馬車を進める。
「ようこそいらっしゃいました。それでは、クラウディア様、ロコ様、こちらでお降り下さい」
 初老の男性があいさつをする。オコネル氏の家の執事だ。彼に言われるがまま、二人は馬車を降りた。
「こちらです。ささ、どうぞ」
 屋敷には入らず、横の道を案内される。庭の方向へ繋がっている道だ。芝生や植木の間にレンガが敷き詰められている。幅はおよそ三人分。先頭にオコネル氏の執事、後ろにクラウディア夫人、そしてロコと続いた。
 屋敷の横を通り、裏手の庭に出る。広い芝生に、色とりどりの花が咲いた花壇。奇麗に整えられた花は、ロコの家の庭とは大分違っていて新鮮に映った。そんな庭の片隅に、丸いテーブルが二つ用意されていて、それぞれに二人ずつ座っている。手前の方にはクラウディア夫人と同じ母親たち、奥にはロコと同年代の少女たち。レベッカの他にもう一人、これまた古くからの仲であるミシェルが座っていた。
「今日も良く来て下さったわね」
 ベージュのドレスを着たオコネル夫人が明るい声で言う。ロコはぺこりとお辞儀をする。
「お久しぶりですわね、ロコ」
「ええ、本当にお久しぶり、ミシェルもレベッカも元気かしら」
「もちろん」
 ロコは二人の旧友と、近況を報告し合った。何しろ暫く会っていないもので、語ることも語られることも多くあった。そして、時にはロコだけ知らなかったことも。
 小柄なレベッカが、声をひそめて言った。
「そう言えば、ロコさん、あなた最近もちきりのウワサ知ってる?」
「いいえ」
 きょとんとした顔でロコは言う。顔を三人近寄せ合って、レベッカがひそひそ声で言う。
「最近、この辺りにも出るんですって」
「出るって……何が」
「人食い」
 そんな馬鹿な、とロコは思った。言い伝えでは、人間の欲に引きつけられてやってくる存在として語られるが、実在すると思っている人間はいない。
「そんなことって、あるわけないでしょう」
 ロコは声をひそめたままおどけた。だけれども、レベッカが神妙な表情を崩さないので、ロコは再び居直った。
「農夫が一人、さらわれたそうなのよ。夕暮れ時に、ふとした瞬間いなくなっていたって。周りにいた人達の話によると、家に戻ろうとしている途中、林の方にぼんやりと火のような光を見たそうよ。それから、突風が吹いた。みんな目をつぶっていたわ。目を開いてみれば、一番後ろを歩いていた男がいなくなっていた。そして、代わりに落ちていたのは、男の右の腕……」
 きゃあ、とミシェルとロコは叫んだ。背筋がぞっとした。
「で、でも、一体何があったのかちゃんと見た人はいないんでしょう?」
 ロコは反論を試みる。レベッカは紅茶を少し口にする。そして、からっと表情を変えて、ひそひそ話の態勢を解いた。
「そう。ロコさんの言う通り、誰も見ていないから、人食いかどうかなんて本当は分からない。まじない師とか妖しい職業の人らならそういうの興味あるかもしれないけれど」
「ま、うわさですよ。う、わ、さ」
「そうよねぇ」
 三人は気が抜けて、おかしそうに笑った。
 あ、と思い出したように、ミシェルは声を上げた。
「そう言えば、ロコさん」
「何でしょう」
「あなたの家のある街で、変なにおいがするという話があるのだけれど、何かあったの?」
 ロコは面食らった。心当たりは無いことは無いが、かぶりを振る。
「まさか。私、普段通り暮らしているけれども全然感じないですわ」
「なあんだ。お母様がそんなこと言っていたから、何かあったのかと思ったけれど。お母様が少しヘンなだけなのね」
 ミシェルは安心したような、少しつまらないような表情をした。
 三人はそれからもたくさんの噂話に花を咲かせた。その多くは結局噂に留まるのだが、次から次へとおもちゃ箱のように飛び出して、ロコは楽しい気分になるのだった。

 帰りの路、ロコはスカッとした気分だった。
 久しぶりに外出したおかげか、友人と話すことが出来たおかげか。普段の閉塞感が一気に吹き飛んだ。そこで、自分がどれだけ気が詰まる思いをしていたのかを思い知る。思えば、訳もなく憂鬱な日々が長く続いていた。
 ガサガサッという音がした。ただ草むらが揺れただけだと思い、忘れようとしたが、その重い響きに嫌な予感を覚えた。馬の蹄の音が、妙にはっきり聞こえる。
「どうしたの」
 隣に座っているクラウディア夫人が、不思議そうな眼でロコを見る。ロコは目を逸らした。
「い、いえ」
 そう自分の心を隠そうとする。いや、どうということはない、ただたまたま狸か何かが近くを通っただけなのだと自分に言い聞かせた。だがどうも居心地が悪くて、落ち着かなかった。ほろを少しめくって外の様子を見ようとした。その瞬間。
 グォォォォ!
 大きな獣の咆哮が聞こえた。それと同時に、馬車が何者かに押され、傾き、横倒しになっていく。クラウディア夫人とロコは叫び声を上げ、成すがままに地面に叩きつけられた。クラウディア夫人は悲鳴を上げた。不可抗力でクラウディア夫人の身体にのしかかる。ドレスがクッションになったが、コルセットに響きそうだ。ごめんなさい、と謝ったが、返事はない。どうやら気を失っているようだ。
 何とか抜け出して、ほろの外に出る。表には、二人いたはずだった。綱を握る御者の他に、ボディーガードが一人。だが、あるはずの彼の姿が見当たらない。震えながら御者が何とか馬をなだめようとして、ある一定の方から目を離せないでいた。
 ロコはその方向を見た瞬間、顔を手で覆った。人間の背丈よりも遥かに大きい獣。橙と茶の縞模様と、白いたてがみ。犬のような鼻先が、紅く染まっている。その下にいるのは、上半身を失った人間の体だった。

 ――最近、この辺りに出るんですって……人食い。

 ロコは友人の囁いた言葉を思い出す。
 怖い。どうやって逃げよう。お母様をここにおいていく訳にもいかない。でも、自分の体力では、走って逃げることもきっと叶わない。ロコは御者を見た。とてつもなく怯えた目つきと血の気の引いた顔で、首を振る。きっとロコも同じ顔をしていたに違いない。この化物の腹が男一人で満ち、飽いて何処かへ去って行くことを祈るしかない。ロコは両手を組み、ぎゅっと目を閉じた。
 誰か助けて。そう願うしか、ロコには出来なかった。

 ふいに、草むらを掻き分ける音が聞こえた。
「失礼」
 若い男の声だった。ロコが目を開けると、全身真っ黒な衣装に包まれた男が、化物と対峙していた。
 青年は化物と対峙していた。既に、ボディーガードだったものの姿はなく、巨躯の前に靴が落ちているだけだった。男を引き止めようと思ったが、恐怖のあまり声が出ない。彼は振り返って、にっと笑う。
「安心して下さい。私たちが来たからには、もう大丈夫です」
 私たち、という言葉にひっかかりを覚えると同時に、一匹の狐が現れ、黒服の男のそばに座った。それは普通の狐とは随分違っていた。毛並みは茶色と言うより明るい金色で、目は赤い。そして数え切れない尻尾が、扇のように広がっている。
 男は巨大な化物に向かって言い放つ。その声は、人間を遥かに凌駕する化物への言葉とは思えないほど力強いものだった。
「随分と沢山の人間を食ってきたようじゃないか、ウインディ」
「何故私の名を知っている」
 地の底から響くような低い声が響いた。これは、あのウインディという人食いが喋ったのか。人食いの毛が逆立つ。どうやら、この男がただ者ではないことを悟ったようだ。
「こいつが教えてくれたのさ」
 黒服の青年が金色の狐の方を指差した。金色の狐は口元を歪ませた。得意げな様子で、笑っているように見えた。人食いも牙を見せたが、その表情は明らかに敵意を含んでいた。
 間を置かず、人食いが行動に出る。ウオオ! という唸り声を上げると、ウインディの口から赤く光る玉が吐き出された。真っすぐに黒服の男目がけて飛んでいく。肌に感じる熱から、炎の塊なのだと直感した。危ないっ。ロコは身を固くする。だが、男は動じる様子がまるでない。
「キュウ」
「はいよっ」
 金色の狐が、飛んでくる炎に向かって飛び込んだ。燃えてしまうかと思ったが、狐は全く苦しむ素振りを見せず、逆に炎の塊が狐の中にみるみる吸いこまれていく。炎が完全に消え去ると、狐は全く無傷で、むしろ毛並みが輝いているように見えた。
「人間の熱も美味いけど、あんたの炎もなかなか美味いねぇ」
 男のものでも、ウインディのものでもない男の声。これはあの狐が喋ったのか。
「お前の炎は効かないぜ。キュウは火を食えば食うほど強くなる」
 黒服の男が言う。人食いの獣は少し後ずさりをし、グルル、と低いうなり声を上げる。どう出るか、考えを練っているようだ。青年はウインディの次の行動を待つ。出来る事なら、逃げて欲しいとロコは願った。獣との物理的な距離が、そのまま身の危険を示すものだからだ。だが、ウインディの選択はロコの願い通りにはならなかった。ウインディの巨体が、青年の方に飛びかかる。火が効かなければ直接手を下すしかない、と踏んだのだろう。ロコは頭をぎゅっと抱えた。
「キュウ、とどめだ」
「はいよっ」
 狐が、口から炎を吐き出す。その火は、先ほどウインディが放ったものよりもずっと、ずっと強い炎だった。苦しむ声を上げる間もないほど一瞬のうちに、ウインディは骨まで黒い炭と化した。ぼろぼろと、その場に黒こげの物体が崩れ落ちていく。
「……ふう。よくやったぞ、キュウ」
「お前は何もしてないけどな」
 狐の言葉に対して答えに窮したのか、青年はため息をついた。おもむろにロコの方を振り返り、その目がロコの瞳を捉える。
「大丈夫ですか」
「え、ええ」
「それは良かった。最近人食いが暴れ回っていると聞いて、張っていた甲斐がありました」
「あの、あなたは」
 さっきから、途切れ途切れにしか言葉が出てこない。今無事であるということが、夢のようだった。黒服の男は右手を胸に当て、軽くお辞儀をする。
「私はディドル・タルト。この周辺の街で、まじない屋を営んでいる者です。皆からはドドと呼ばれているので、差し支えなければお嬢様もそうお呼び下さい。この狐はキュウコン。先ほどの奴と同じ人食いですが、私のしもべとしてしっかりしつけてありますので、害はありません」
「よろしく」
 キュウは言って、目を細めてけたけたと笑った。本当に無害なのだろうか。つい先ほど、主人に向かって口答えをしていたような気がするのだが。はあ、とロコは気の抜けた返事をした。
「あの、人食いと言うのは一体なんなのでしょう。あんな生き物を、生まれて初めて見ました」
 ドドは少し眉をひそめた。どこから説明すべきか、検討しているようだった。
「人食いというのは言葉通り、人間を食らう者達のことです。ただ、滅多に人前に現れなかったり、巧妙に姿を隠しているため、その存在を知っているのはまじない師か実際に食われかけた人間くらいです。多くの人は、おとぎ話などに出てくるだけで、実際にいるとは思っていないようですね」
 心当たりがある。今日の昼、レベッカからうわさを聞いているとき、自分がまずどう思ったか。まさしく、おとぎ話の中の存在だと跳ね付けようとしていたではないか。
「彼らは人間に存在を悟られないようにするのが非常に上手い。少なくとも、姿をそれと見せることは滅多にないんです。だけれども、最近はどうも違うようだ」
「違う、って?」
 ロコは彼の話に聞き入っていた。
「ここ数カ月、奴らの動きが妙に荒っぽいのです。他にも一件、あからさまに人食いのそれと分かる痕跡を残した行方不明事件がありました。人食いは妖しい世界に属する生き物です。まじない師は、それに対抗する知識と技を持っているため、人食い退治も請け負うことがあるのですが……どうもキナ臭い」
 そうだ、と言って、彼は黒服の内ポケットから一枚の紙を取りだした。
「お近づきのしるしに、便箋を差し上げましょう。この紙には特別なまじないをかけてありまして、折って投げると真っすぐ私の元へ飛んでくるようになっています。もしお嬢様の身に何かあれば、こちらに要件を書いて送ってください。すぐに駆けつけますから」
 ロコは、渡された便箋をまじまじと見た。正方形をしており、便箋と言うにはぴんと来ない。だが罫線はちゃんと書かれてある。裏面には、投げる際の折り方が図解してあった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 ドドはにっこりと頷いた。
 それから、彼は御者と二人で馬車を起こしてくれた。そして、ボディーガードの靴を持って来てくれた。御者はしょげた顔をした。持って帰り、せめて靴だけでも家族の元へ帰してやろう、という話になった。
「今日あったことは、誰にも話さない方が良いでしょう。下手に広めると、混乱を招くかもしれませんからね。それでは、私はここで」
 ドドに見送られて、馬車は再び走りだした。別れ際にもう一度お礼を言い、見えなくなるまで手を振った。クラウディア夫人は相変わらず気を失ったままで、目を覚ましたのはそれから暫く後のことだった。


  [No.955] #1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師 3、4 投稿者:乃響じゅん。   投稿日:2012/04/15(Sun) 20:50:58   50clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 3


 さっきの騒動は何だったのだろうと考える。
 人食いという、想像もつかないような化物に襲われたと思ったら、それを助けてくれる見ず知らずの男が現れた。何だか夢のようで、劇の舞台に立っているような出来事だった。だが、現実としてはそこにドラマチックさもなく、ただただ混乱のうちに終わったという印象を抱く。ボディーガード一人の命が失われたことも悲しくて、それ以上は思考出来そうになかった。唯一同じ経験をしている御者に相談すれば、幾分か気が晴れるだろうか。
 そう考えた矢先、クラウディア夫人が目覚めてしまったので、ロコは口をつぐんだ。人食いのことは他の誰にも話さない方がいい、とドドの忠告を思い出したからだ。
「あら、やだわ私ったら。眠っていたのかしら」
「ぐっすり眠っておられましたよ。馬車の揺れが気持ち良いですからね」
 ロコは努めて笑顔を崩さないようにした。夫人は腑に落ちない様子だったが、深く聞きはしなかった。
 だが、それとは全く別のところに、ロコを襲うものは現れた。
「ところで……何か臭いませんか、お母様」
 どこからか、いやな臭いがうっすらと漂ってきた。不快感を覚えたロコは無意識のうちに、眉間にしわを寄せていた。夫人は少し大げさに嗅いでみたが、良く分からない、という顔をしていた。
 最初は、肥溜めか何かにでも近づいたのだろうと思った。だがそれなら今まで同じ道を通ったときにも感じていたはずである。それではないのだろうと結論付けた。その臭いは、馬車が街に近づくにつれ、強烈なものとなってゆく。それは徐々に、かつ確実にロコを苦しめた。臭いの大本が近くにあるのか、遠くにあるのか分からないのが、ロコの神経を苛立たせた。臭いを感じまいと、呼吸の仕方を変えてみる。そのうち、吸える息が減っていくような錯覚を覚えた。何かが胸の中でぐるぐると回っている感じがした。目の奥に、重いものがのしかかっているような感覚も。意識から振り払おうとしても、最早不可能だった。
「ロコ? ねえ、大丈夫?」
 酸味、甘味、苦味、渋味、辛味、全ての味が負に転じたような臭い。この世のあらゆる食材が腐り、ごちゃまぜにしたスープを飲まされている。そんな想像が頭の中を駆け巡った。吐き気を催して、必死にこらえた。
 ロコの身体が倒れそうになる。すんでのところで、夫人はそれを支えた。その動きは平常時と変わらぬ様子だった。どうやら、母は本当にこの臭いを感じていないらしい。自分だけが、この異臭をはっきりと感じている。
「はぁ、はぁ、げほっ」
 屋敷に到着し、馬車を降りたロコは、えづき、胃の中のものをひっくり返した。水で口をゆすぐと、むせて咳が出る。涙も出た。
 下女が大丈夫かと心配する言葉をかける。彼女もどうやら平気のようだ。
「部屋まで、連れていって」
 肩を借りて、何とか自分の部屋を目指す。階段を上るために上げる足が、鉛のように重い。この時ほど、自室が二階にあることを憎らしく思ったことはなかった。
 部屋に入って、お香を焚くよう下女に頼んだ。ロコはふらふらになりながら机にしがみつく。ベッドで横になりたい気持ちを抑えて、なんとか椅子に座る。下女がお香を焚き、白い煙を上げたのを確認して出て行く。お大事に、と心配する声が、ロコの耳に届いた。
 胸ポケットから、一枚の便箋を取り出す。正方形の便箋。ドドと言うまじない師に贈られた不思議な紙。正体は判然としないが、この尋常じゃない臭いに頼れる人間は彼しかいない。震える手で、紙にインクを乗せていく。要件を書き、インクを乾かし、裏に書かれている通りにロコは紙を折り始めた。そうして完成した姿は、どこか滑空する鳥の嘴に似ていた。
――もう一度、助けて。
 ロコは窓を開き、願いを込めて便箋を飛ばした。不思議なことに、それは投げた力以上に力強く滑空し、遠くに消えた。

 その夜、明かりを全て消した頃。誰かがノックする音が聞こえた。こんな時間に誰だろうと、寝ぼけた目をこする。そうこうしているうちに、もう一度ノックが聞こえた。そこで、叩いているのはドアでは無いことに気付く。
 ノックは、窓から鳴っているようだ。ロウソクに火を灯し、ロコは異臭を覚悟で窓を開けた。窓の桟に人間の手がかかり、よじ登ってきた。ロコは驚き、思わず声を上げそうになる。そして、後に続いて尾の多い獣が、おじゃましますよ、と言ってロコの部屋のじゅうたんに飛び下りた。青年の黒い帽子を見て、ロコは彼が誰なのか理解した。そして、その目的も。
「ドドさん。それに、キュウも……来てくれたのですね」
「お休みのところ申し訳ございません。手紙が届きましたので、早速参上しました」
 ドドは紳士然と頭を下げる。
「いいえ。悪いことなんて何もありませんわ。来てくれて、本当にありがとう」
 ロコは思わず涙ぐみそうになった。一刻も早くこの臭気から解放されたい一心で、手紙を書いたのだ。窓を閉めて、臭気を遮断する。ドドは辺りを軽く見回した。
「手紙通りですね。ひどい臭いだ」
「全くだね」
 うぇ、とキュウも舌を出して苦い顔をする。ドドはロコを真っすぐ見つめた。いよいよ本題に入るのだと、ロコは身構えた。
「単刀直入に言いましょう。この臭いの元凶は、この屋敷にいる人食いです」
「うそ」
 ロコは衝撃を受けた。ウインディの巨躯を思い出して、背筋が凍る。あんなおぞましい生物が、身近に潜んでいただなんて。少し間を置いて、ドドは再び語りだす。
「今からこの臭気の出どころを探しに行きます。そこで、お嬢様には同行をお願いしたい」
 臭いのせいで喉が痛む。それが嫌で、ロコはつばを飲み込んだ。
「もちろん、危険であることは重々承知しております。ですが、きっとお嬢様にしかできないことがある。そんな予感がするのです。お嬢様の身にお怪我がないよう、必ずお守りします」
 ドドは説得を続けた。だが、ロコの心は迷っていた。人食いの姿を見て、今回も無事でいられるとは限らない。だけれど。
「分かりました。一緒に行きましょう。あなたのことを、信用致します。それに」
「それに?」
「助けて欲しい、助かりたいと言ったのは私です。私が動かなきゃ」
 ロコは笑った。ドドはゆっくりと頷いた。
「ありがとうございます、お嬢様。それでは、これをお渡しします」
 ドドがお礼を言うと、一枚のハンカチを取り出して、ロコに渡した。
「これは?」
「ハーブの香りを配合したハンカチです。これを口に当てれば、外部の臭気から守ってくれますよ」
「ありがとう」
 ロコはハンカチを顔に近付けた。すうっと爽やかなにおいが鼻を抜けていき、気分が少し楽になった。
「そういえば、どうしてここまで誰にも気付かれずに来れたのですか? 庭には警備の者がいるはずなのに」
 ロコはふと疑問に思ったこ とを口にした。ドドは、ふっと柔らかい笑みを浮かべる。
「足音を消すまじない、というものがあるのですよ。姿さえ見られなければ、勘付かれることはありません。泥棒のように、足音を殺す特別な工夫がいらないので便利なんですよ。今からお嬢様にもかけて差し上げましょう」
 ドドはロコの靴をとんと指で叩いた。すると、足下がふうっと軽くなっていくような気がした。足を軽く踏み鳴らしてみると、衝撃を感じるにも関わらず、木と木の衝突音は聞こえなかった。
「さて、行きましょう」
ロコは頷いた。謎の多い人物だが、少なくとも悪意を持って屋敷に近づいたわけではないような気がした。ドドは扉を開き、ロコとキュウは後に続いた。


 4

 
 夜の暗い屋敷というものを、ロコは歩いたことがなかった。キュウが先頭を歩き、火を吹いて灯り代わりにする。その光が当たらない陰の部分に、何か見えない魔物が潜んでいるのではないかという気分にさせられた。どれだけ気を使わずに歩いても、一切の音が鳴らない。ドドのかけてくれたまじないが、逆に夜闇に潜む何かの存在を感じさせてしまう。身体を縮こませながらも、ロコはドドにしっかりとついていく。
 二人は一階の一室に入った。母が化粧をするときに使う部屋だ。掃除の行き届いた化粧台。そして、全身鏡。ドドは全身鏡の前に立った。鏡は淵が金属で装飾されていた。それをじっくりと観察し、指でなぞった。
「ここだな」
 胸ほどの高さの一部分を、ドドはぐっと指で押し込んだ。その瞬間、かちっ、という音がして鏡が淵ごと横に開く。奥は地下へと続く階段になっていた。
「なるほど、隠し扉か。何かを隠すには丁度いい」
 下から、ハンカチで覆っていても分かる程の強い異臭が吹きこんできた。ハンカチをさらに強く押し当てる。この下に、人食いがいる。心臓がばくばくと鳴り始めた。
 地下へと続く階段は、壁のレンガが古びていて不気味さを覚えた。キュウが、燭台に火をつけて降りる。ロウソクがまだ新しい。きっと、誰かがこの部屋に出入りしているのだ。でも、誰が。
 階段が終わり、どうやら開けた場所に出たらしい。キュウが、ロウソクの全てに明かりを灯した。昼のような明るさに包まれ、ものの輪郭が浮かび上がっていく。部屋のごつごつとした壁、そして、その場所に居座る――放置されている、と言った方が正しいかもしれない――ものの姿。
「ほう。お前が人食いか」
 うっ、とロコは顔をしかめた。その人食いの姿は、ウインディやキュウコンとまるで異なるものだった。
 一言で言えば、それは紫のヘドロだった。半液状の物体が小さく盛り上がり、よく見ると目や口に当たる部分が分かる。光に驚いたのか、ヘドロは手のようなものを伸ばしてくるが、身体は地面に滴りすぐに全部崩れ落ちた。今まで見た人食い達よりも、遥かに鈍重な印象を与えた。
「こいつはベトベトンだな。身体がドロドロだから、自分ではほとんど動けねえんだ」
 キュウが喋る。ふうん、とドドは軽い相槌を打つ。ドドは一体どうやって人食いの名前を掴んでいたのかと思っていたが、どうやら同じ人食いのキュウが知っているらしい。
 ロコはベトベトンに近づけなかった。ヘドロの身体から放たれる臭いがあまりにも強烈だったためだ。ドドから貰ったハンカチも効力を失ったかのように、嫌な臭いが貫通する。
 不意に、ドドはロコをぎょっとさせ行動に出た。右腕をベトベトンの前に差し出し、近付けたのだ。ベトベトンは、うおー、と鈍い唸り声を上げて、ドドの腕にヘドロを伸ばし包みこんだ。心臓が縮みそうな思いをしたが、ドドは振り返って笑う。
「大丈夫ですよ、お嬢様。人食いとは言えど、ただその肉を食らう者だけとは限らないのです。例えば、水分だけを食らう者、爪だけを食らう者、色素だけを食らう者。色々な奴がいる。こいつは恐らく、人間の垢や体内の毒素を根こそぎ食らう人食いです」
 ドドの腕にまとわりついたヘドロは、事実すぐに離れた。ドドがその腕をロコに見せると、確かに包まれた部分だけ色が明るくなったように見える。
「ほらね」
 ドドは呟いた。ロコの頭に、新たな疑問が浮かび上がる。
「でもどうして私、こんなにひどい臭いに気付かなかったのかしら。近くにずっといたはずなのに」
 この質問には、キュウが答えた。
「こいつは人間の毒素を食うと、ゲップみたいなのを出すんだ。食えば食うほど臭いを出す。ただ一回一回の量はそんなに多くないから、臭いは少しずつ強くなっていく。それだから、ずっと屋敷にいたりなんかすると、気付かないこともあるかもしれないな」
 キュウはけたけたと笑った。そういえば、そうだ。ロコは数か月家を出ていなかったことを思い出した。ロコがドドの顔を見上げると、ドドは理解したように頷く。
「しかし、自分の毒素をこいつに食わせている人間がいるということになる。毒素をこいつに全て預けて、自分の美を保っている人間が」
「一番臭いに鈍感なのはエサやってる張本人だろうな。自分の臭いだから、気付けるわけがねぇ」
 ロコははっとした。ある人物が一人、頭に浮かんだ。まさかと思ったが、意思に反して人物の像がはっきりと浮かび上がる。
 その時、階段を勢いよく降りてくる音。ロコは背中を冷たい金属のトゲで刺されたような感覚を覚えた。まさか。
「あなた達、ここで何をしているのです」
 クラウディア夫人の声が、狭い空間に反響する。息を乱し、肩を震わせ、口元を大きく歪ませて、ドドに対して怒りをむき出しにしていた。

「こんなところに勝手に入るなんて……さては泥棒ね! 人を呼ぶわよ」
 クラウディア夫人はドドに向かって大声を上げる。口元を大きく歪ませ、今にもはちきれそうな怒りを露わにしている。ロコは、夫人のこの顔に見覚えがあった。夫人の容姿について疑いを持った執事を扇子で殴ったときだ。あの時と同じだ、と思った。あの時と全く変わっていない、まるで子どもが癇癪を起したような顔。
「私は泥棒などではございませんよ」
 ドドは素っ気ない態度で答えた。
「私はディドル・タルト。まじない師でございます。本日はロコお嬢様の依頼を受け、人食いを退治しに来たまでのこと」
「ロコが……?」
 ドドがロコの方を指した。そこでようやく夫人はロコの姿に気付いたらしい。夫人は困惑の表情を浮かべている。
「あなたはクラウディア夫人……ロコお嬢様のお母様ですね。早速ですが、今この屋敷に何が起こっているのか、奥様はご存じですか」
「さあ、ね」
 毅然とした態度で夫人は答えた。
「そうでしょうね。あなたはきっと気付かないでしょう」
「何がいいたいのかしら」
 夫人は苛立ちを見せる。
「貴女様は非常にお美しい顔立ちをしておられるようですが、その美貌を手に入れたのはつい最近のことだとか」
「ええ。そうよ」
「どうやって手に入れました?」
 冷たい緊張が走る。中にいる者は誰ひとり、夫人から目を離せなくなった。口元を歪ませながら、夫人は思案していた。
「いつもひいきにしている商人が、特別なクリームを売ってくれたのよ。これを毎日塗れば、身体の毒を全て吸いだしてくれるっていう触れ込みでね。私は運がいいと思ったわ。塗ってみたら、本当に身体の悪いところが消えて無くなってしまった。驚きよね。シミが消えるだけじゃなくて、歳とともに痛みかけていた髪まで若いころのようにつやつやになったんだもの」
「それが、このヘドロということなのですか」
 ロコがベトベトンに目をやりながら、聞いた。
「ヘドロなんて言うんじゃないわ」
 夫人はキッと睨みつける。
「これをくれた人は、こう言ったわ。これは貴女の人生のごほうびです、って。私は嬉しかった。私のためにここまでしてくれる人が、いると思う? あの人は私の欲しいものをしっかり言い当ててくれたのよ」
「これが欲しかったものですって?」
 ロコは怪訝な顔をした。
「これのせいで私は」
 ここまで言って、ロコは口をつぐんだ。言葉が出なかったのではない。臭気にやられて、また胃の中のものをひっくり返しそうになったからだ。反射的に、ロコは背中を丸めた。ハンカチをしっかり口に当て、染み込んだ香草の匂いを感じ取ろうとした。その瞬間、ロコの身を案じ一歩踏み出した夫人の姿を、ドドは見逃さなかった。
「奥様。このクリーム……ベトベトンは、確かに人の毒素を吸い取り尽くす力がある。ですが、これには裏があるのですよ」
 夫人はしゃがんで、ロコの肩を抱いた。そして、顔をドドの方へ向けた。
「このベトベトンは、毒素を吸い取った分だけ、悪臭として外部にまき散らす。あなたが美しくなるたびに、他の誰かが不幸になるのです」
 夫人ははっとした。
 その時、ドドの後ろで、ベトベトンが唸った。その口から吐き出される息。それがロコへ到達すると、ロコはいっそう強くえづいた。
「累積した奥様の毒素が、ベトベトンの吐きだす臭気を少しずつ、少しずつ強力なものにする」
 ドドは地下室の中をゆっくりと動き回りながら語り始める。
「奥様は知っておいでですか。この屋敷の周辺で、怪しい臭気が漂っているという噂を。屋敷にいる方々は常に臭気にさらされているせいか、どなたも気付いておられないようですが、外部の人間には明らかのようですよ」
 ロコはレベッカの顔を思い出した。昼間、その話を聞いたばかりだ。
「本日、お二方はオコネル氏の家にお茶をしに行った。一度家を離れたお嬢様は、その時今まで慣れていたこの家の臭気への耐性を完全にリセットしてしまった。お嬢様の今のお身体が、本来あるべき反応です。奥様、本当にこのクリームとやらを使い続けても宜しいのですか?」
 ドドは夫人に問うた。喋り終わると同時に、ロコはむせた。
 もうハンカチがあってもなくても変わらないほど、臭気は強くなっている。目を開けられず、何も見えなくなった。頭が揺さぶられるような感覚の中に、絶望が広がって行く。数秒先を生きる道でさえ、暗く霞んで消えてしまうのではないかと、ロコは思った。
 ふと、その背中に温かいものが伝わった。とても懐かしい感覚だった。暗闇の不安が、包みこまれるような安心感に変わっていく。夫人が……母が、ロコの肩を抱いていたのだ。
「ロコ、大丈夫だから。ほんの少しだけ、我慢してね。ほら、立って」
 夫人に身体を預け、ロコは立ち上がった。目を開ける気力はない。
「ロコを部屋まで送ります」
 夫人はドドに言った。
「このクリームはどうされますか」
「処分してください。こんなヘドロ、もう要りません」
「かしこまりました。仰せの通りに」
 ドドはにやりと笑って、深く頭を下げた。
「それから」
 夫人はロコを階段に下ろし、顔を上げたドドに早足で近づく。パァン、と快気いい音が響いた。ドドの頬を平手で打ったのだ。拍子抜けするドドの顔に笑みを見せて、夫人は踵を返した。
「それじゃ、後は宜しくお願いしますわ」
 夫人はロコを抱えて、階段を上っていく。呆気に取られたキュウとドドの二人だけが、地下室に取り残された。
 ロコの部屋までの幾段もの階段を、夫人は誰の手も借りずに登った。ベッドにロコを寝かせ、ロコの一番好きな香を焚く。甘い匂いが広がり、ロコの身体をほぐしていく。
「本当に、いいのですか」
「何が」
 夫人は優しい口調で返した。
「あのベトベトンを、処分しても」
 夫人は答えなかった。ただ静かな微笑みを浮かべるだけだった。
「お母様にとって、大事なものだったのでしょう。ずっと、若さと美しさを追い求めてたんだもの。それなのに」
「だって、ロコにそんな顔されちゃ、嫌でしょう?」
 夫人は苦笑した。
「我が娘のあんなに苦しそうな顔を見たら、やっぱり助けなきゃって思うのよ。あなたの親ですもの」
 ロコは布団に顔を深く埋めた。
「私、昔は良家に嫁ぐためにありとあらゆる勉強をしていたのよ。周りが十の勉強をしたら、私は十二。周りが十二したら、私は十四。そんな具合にね。教養を身につけて、絶対に良家に嫁ぐんだって思ってた。あの頃は輝いていたわ。これからどんな道を歩けばいいのかはっきりと見えていたから。でも、いざこの家に来てみたら、なんだか急に穴に突き落とされたみたいな気分になっちゃってね。どれだけ土地があって、奇麗な家に住んで、服で飾ってみても、それは変わらなかった。でも、それしかないと思い込んでいたのよね。いつの間にか、自分を美しく飾ることでしか、生きていく先が見えなくなっていたのよ。でも、きっとそうじゃないのね。私には、あなたとイングウェイがいる。まだまだ終わりなんかじゃないのよ」
 ロコは小さいころから、何度もこの話を聞いていた。美への執着が強くなった夫人を避けるようになってから、久しぶりに聞いた昔話だった。だが、今回はいつもと違って聞こえる。夫人の言葉が、胸の中にすとんと落ちていく。
「さあ、もう今日はお休み」
 夫人は立ち上がって、布団を軽く叩いた。
「あ、そうだ、ドドさん」
 地下室のことを思い出し、ロコは気になった。
「私がちゃんと言っておくわ。安心してお休み、ロコ」
 クラウディア夫人は微笑んだ。


  [No.956] #1 異臭問題、屋敷のお嬢とまじない師 5 投稿者:乃響じゅん。   投稿日:2012/04/15(Sun) 20:53:28   70clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 5


 うおお、とドドの後ろで声が荒ぶった。ベトベトンは手を伸ばし、ドドの足元に近づく。少し触れそうになって、ドドは一歩離れる。
「おやおや、餌くれるご主人が帰っちゃったもんだから、怒ったか」
 キュウはケタケタと笑った。
「頼んだぜ、キュウ」
「やれやれ、燃やすのはいつも俺だ」
「まあまあ、そう言わずに頼むよ。丁寧にな」
「はいはい」
 キュウは炎を吐いた。高熱がベトベトンの指先に触れ、たちまち全身を覆った。ただの熱では派手な炎を上げることは恐らくないだろう。キュウの炎はそれほどまでに高温なのだ。下手をすれば周囲のものを全て燃やしてしまいかねないため、狙いと出力を外さないようにしなければならないようだ。炎の真っ白な光でベトベトンが見えなくなった。唸りが、焦れから苦しみに変わった。キュウは火を止める。
「こんだけやれば、後は勝手に燃えてくれる」
 キュウは言った。悪いな、とドドは言って、頬をさすった。まだじんじん痛む。
「痛いのかい」
 キュウはおかしくてたまらないといった様子だった。ドドは怪訝な顔をした。
「痛いに決まってるだろ」
「そういえば、何でお前叩かれたんだろうな?」
 人食いのキュウは本当に分かっていないらしい。
「どんなに自分勝手な人間でも、夫人にはまだ娘を思う心があったってことさ。娘を傷付けられたら怒る」
「ふーん」
 屋敷に漂う異臭を消し去る。ロコの依頼を解決するためには、ベトベトンの始末を夫人の口から頼まれる必要があると思っていた。秘密裏にベトベトンを消し去ったとしても、夫人は人食いの魔力にとりつかれたままだっただろう。そして、すぐに同じことを繰り返したに違いない。自身の美しさよりも、大切なことがあるのだと気付かせなければ、解決したとは言えない。
「お前も悪い奴。お嬢さんに内緒で、自分にだけ臭いを感じなくなる術かけたろ?」
「バレてたのか」
 ケタケタとキュウは笑った。ベトベトンの身体が最初の十分の一にまで縮み、炎の勢いが衰え始めた。
「明日、謝んないとなぁ」
「そうよ。明日あなたには謝ってもらうわ」
 夫人が再び地下室に現れた。
「今日はお泊まりになって下さいな。ロコが随分お世話になったようだから、これくらいはさせてちょうだい。部屋はもう用意させてあるわ。案内します」
 ドドとキュウは顔を見合わせた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 結論はすぐに出た。
 炎は消え去った。ベトベトンの鎮座していた地面には黒いしみと、僅かな燃えカスが残っていた。

 ドドとキュウは二階の一室に案内された。ベッドや机などが一通り揃っていたが、ロコの部屋よりも簡素な印象を受けた。今は使われていない部屋だという。机の上のランプに火を灯し、ぼんやりと部屋がオレンジ色に輝く。
「ゆっくり休んで下さい。また明日、改めてお話し致しましょう」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
 ドドは頭を下げた。キュウもそれに倣う。夫人は扉を閉めた。ふー、とため息をつくドド。日中窓を開けて風を通せば、屋敷の悪臭も全て消え去るだろう。とりあえず安心、といったところか。一つ、伸びをした。気分がいい。
「ん? 何か落ちたぞ」
 キュウはドドの服の内側から、黒いものがぽとりと落ちるのを見た。コロコロと転がり、キュウの手前で止まった。床には光が届かないせいで、よく見えない。顔を近づけて、確認してみようとする。その瞬間、黒いものはキュウの口の中に跳躍した。キュウは思わず叫んだ。
「どうした」
 ドドは振り返った。どたばたと手足を暴れさせるキュウを見て、異常を察知した。
「何かが、口の中に……まずい、にがいっ」
 キュウは何度も口に入った何かを吐きだそうとした。だが、喉の奥に貼りついたような感覚がしぶとく残る。
「ちょっと我慢しろよ」
 ドドは術を試みた。キュウの頭が上を向いたまま、硬直する。念じて指を上に振り上げると、キュウの口から黒い、いやよく見れば濃い紫の物体が飛び出した。
(こいつか)
 更に術をかけ、ドドはそれを空中に縛りあげた。ピクリとも動かないが、まだ生きている。内ポケットから小さな空き瓶を取り出し、素早くそれを封じ込めた。すぐにキュウの姿を確認する。元凶と思わしきものを取りだしたにも関わらず、まだキュウはもがき苦しんでいた。
「まずい、にがいっ、ああっ」
「水を貰ってくる。我慢しろ」
 ドドは部屋を出ようとする。だが、キュウの衰弱は急激だった。キュウはしゅうしゅうと白い煙を上げ、縮んでいった。苦しげな声が、徐々に細くなっていく。もう助けられない、という予感がドドの動きを縛った。煙が消え去った後には、手のひらに乗るほど小さくなったキュウの頭部だけが残っていた。目を閉じ、眠っているようにも見えた。
 瓶を手に取り、中の紫色の物体を睨んだ。
「ベトベトン……お前か。畜生」
 やられた、と思った。最初に触った時か、或いは燃やして油断している隙か。ベトベトンは自身の小さな分身を用意し、自分の服の隙間に潜んでいたのだ。
 ふと、ドドは自分が笑っていることに気付いた。どういうわけか、ひどくおかしな気分になっていた。いや、理由は分からないでもない。己の中にある疑問に対する解を導く、一筋の光を見つけた、そんな確信があった。
「そんなにこいつが憎いかい? 言霊使い」
 そう呟いて、ドドは頭部だけになったキュウを撫でた。ランプの炎が、怪しく揺らめいた。

 朝、ロコは朝食を取りにテーブルにつくと、夫人が悩ましげな表情で座っていた。
「おはようございます」
「おはよう、ロコ。あなたにお手紙よ。昨日のまじない師さんから」
 夫人はロコに渡す。
「本当だったら、この場で一緒に食事しようと思ったんだけどね。空き部屋使って、泊まって行くように言ったはずなのに……。朝起きたらこの紙が置いてあるだけだったのよ。ひどいわ」
 夫人は本当に残念そうに言った。自分と会わせてくれようとしたことを思うと、この一言を言わずにはいられなかった。
「ありがとう、お母様」
「どういたしまして」
 笑顔を交わし合い、ロコは手紙に目を通す。
 手紙の内容は、今回の事件に対する考察と謝罪だった。ドドが自分だけ悪臭から逃れていたこと、ロコだけつらい目に合わせてしまったこと。だが、夫人を説得するためにはこれしか思い浮かばなかったので、どうか許して欲しい、と。
 朝食も取らずに帰ってしまったことに関しても、謝っていた。どうしてもすぐに帰らないといけない事情が出来てしまった、とだけ書いてあったため、詳しい理由を知ることは叶わない。そのお詫びにと、プレゼントについて書かれていた。手紙の後ろに、何も書かれていない正方形の紙がついていた。例によって、まじないのかかった便箋だった。
――もし再び、お嬢様の身に何かあれば送ってください。必ず駆けつけますから。
「お母様の言う通り、確かにひどい人ね」
 文章を読み終え、手紙を折りたたんだ。
「私を置いてすぐにどっかに行っちゃうなんて、まるでお兄さまみたい」
「確かに、イングウェイは無茶ばっかりしていたわね。いつも何かやった後で、報告するんだから」
 二人は顔を見合わせる。可笑しくなって、笑いだした。ドドは、まじない師だ。きっとロコの知らない世界で、誰かの為に頑張っている。
 遠い地で頑張っている、父と兄に思いを馳せた。二人は元気にしているだろうか。
「早く帰って来ないかしらね」
「そうですね」
 開けた窓から差し込む朝日が眩しい。風が一つ通り抜けると、爽やかな木々のにおいだけが屋敷を包み込んだ。


  [No.1137] #2 火矢を放つ 1、2 投稿者:乃響じゅん。   投稿日:2013/08/31(Sat) 07:40:20   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 1

 レガ・タルトは、弓矢を放つ構えをした。とは言え、手に握られる弓はない。弓を持つ手を模した体勢をとっているだけだった。身体を垂直に立て、左手を伸ばし右手を引く。両の人差し指をぴんと伸ばし、動かぬ的に狙いを定める。
 これがただの「ふり」でないことは、見守る少年の誰もが知っていた。と言うより、誰の目にも明らかだった。
 レガの引いた右腕には、一本の矢が浮いていた。術によって発生した見えない張力によって、宙に浮いたまま留まっている。射撃は、タルト一族に伝わる基本的な攻撃術だ。さらに、一人前の術師になると別の術と組み合わせることもある。
 子どもたちは矢の羽根に注目した。周囲の熱が彼に吸い込まれていくかのように、一陣の風が吹く。その瞬間、羽根に橙色の火が灯った。驚きと、片時も目を離すまいとする気持ちが同時に現れ、おかしな動作をする子どもたち。そして、観客を息づかせる暇もなくレガは矢を放つ。術で浮かせた矢とは言え、その軌道、速度ともに本物の弓矢と遜色なかった。矢が正確に的の中央を貫いたその瞬間、矢の炎は消え、代わりに的が勢いよく燃え始めた。側に控えていた者が、すぐに消火する。レガが一つ息をつくと、周囲から歓声が上がった。
「十五歳までに矢を放つ。十六歳までに火矢を放つ。これが出来れば一人前だ。誰か、やってみるか」
 レガの火矢を見ていた少年達の中でも、最年長は十四歳だった。矢を放てるほどの術力を得るにはまだ少し早い。そうと知りながらもレガが火矢を見せたのは、タルトの子どもたちは十六歳で火矢を大人たちの前で披露するという、通過儀礼を受けるからだった。

「おれ、やります」
 矢に灯った炎のような、くるくると丸まった鮮やかな橙色の髪をした少年が手を上げた。
「ジャグルか。君は勇気があるな。よし、やってみろ」
 周囲が興奮に沸き立つ。ジャグル・タルト。まだ十四歳だが、一部の仲間は彼の才能を知っていた。そういう仲間は、こいつならやってくれるのではないかという期待のまなざしを向けた。ジャグルは頷き、少し下に目線を落としながらレガの方へゆっくりと歩み寄る。自ら志願はしたが、緊張を隠しきれない子どもらしさがそこにはあった。レガは矢を一本、ジャグルに手渡した。
「大丈夫。自分のペースで、焦らずやるんだ」
 レガはジャグルの背中を軽く叩いた。やがてジャグルも、意を決したように頷き、顔を上げた。
 ジャグルは的の方に顔を向け、足を前後に開いた。沸き立つ声が止み、周囲は緊張感に包まれる。両手に神経を集中させ、矢に術力を込める。矢を持つ右手を開き、術力によって右手にくっついたまま落ちないことを確かめる。親指と人差し指をぴんと伸ばすと、人差し指に矢はくっついてきた。左手も同じ形を作り、矢を構える形を取る。
 ジャグルは的を睨んだ。決して近くはない。だが、狙えない距離でもなかった。ジャグルにとって、矢を操るのはこれが初めてではない。既に何度も練習を重ねている。
ジャグルは矢に術力を込める。思わず肩に力が入った。本当は、矢を放つのに力を込めてはいけない。力が素直に伝わらず、ブレる原因にもなる。基本的なことだから、レガの注意が入りそうな気がした。
――だが、構うものか。
 矢の先端に全ての力が集まっていくイメージを浮かべる。そして、ただひたすらに先端が赤く燃えるさまを見ようとする。本当なら、今誰もきっと火矢を放つことまでは望んでいないだろう。だがジャグルは、今こそがチャンスだと思っていた。何としても手に入れたいものが、少年にはあった。この集団の中で、いち早く実力を認められ、一人前としてやっていけるようになること。それが願いだった。
 ぼっ、という音とともに、光がはじけた。矢の先端に、熱い炎が灯っている。周囲から、期待と困惑に満ちたどよめきが起こる。レガは何も言わない。見守る連中は次第にレガの沈黙の意味を悟り、声をあげるのを止めた。しんと静まったその空気に、ジャグルの心は固まる。次の瞬間、右手に集めていた非物質の張力を解放する。弦が支えを失い、その力は恐ろしいほど綺麗に伝わっていく。炎を帯びた矢がただ一点を目がけて、宙を駆ける。
 すとん、と小気味の良い音が響いた。その直後、更に大きい音を立てて、矢が的を爆破した。黒い煙がもくもくと登る。術力を込め過ぎて、燃えるどころでは済まなかったらしい。流石にジャグル本人も予期しておらず、目を丸くした。周囲の少年たちも、同じ顔をしてその場に固まっていた。
 沈黙を破ったのは、一人の手を打つ音だった。レガだった。何も言わず、ただひたすらに拍手を送っている。その笑顔の意味が称賛であると気付くまでに、時間はかからなかった。この時、ジャグルの評価は完全に決まった。歓声が上がる。誰もがジャグルを褒め、激励の言葉を投げかけ、肩を叩いた。きょとんとしていたジャグルも、皆の嬉しそうな、それでいて少し悔しそうな顔を見るうちに少しずつ笑みがこぼれ、最後は大笑いした。
――あぁ、自分は認められたのだ。これでもう誰も自分のことを疑う者はいない。一流のまじない師としての将来は、約束されたも同然だった。あとは、上り詰めるだけ。そう思うと、ジャグルは生まれて初めて、心から笑えた気がしたのだった。


 2


 火矢の一件はすぐさま大人たちの耳に入り、ジャグルは晴れて一足早い大人の仲間入りを果たすこととなった。今までの勉強に加え、レガの後輩として、大人になってからしか学べない術の数々や請け負った仕事の一部を、そばに付いて学ぶことが決まった。
 これは、異例中の異例とも言えることだった。タルト一族は、子どもと大人とで完全に生活圏を分けていた。子ども達は、教育係である一部の大人以外の成人と関わる機会を持たない。一族が共同生活を営む村は、人食いの跋扈する深い森の中にある。中途半端に術を身に付けた者が勇んで森に入れば、逆に人食いに食われてしまうからだ。人食いは術力を持つ者を食らうと、その力を増大させてしまうことがある。共同生活圏内には守りの術がかけられており、人食いが侵入することはない。だが、力を増幅させた人食いが、人間の術力を上回らないとも限らない。たった一人の勇み足が、一族の生活を滅ぼすことになりかねないのだ。だからこそ、大人達は子どもの好奇心を統制しなければならなかった。
 もちろん、ジャグルがそんな事情を知ることはない。ジャグルは目上の人間の言葉を良く聞く質で、集団に溶け込むのが上手だった。優秀で穏やかな、悪く言えば少々精神的に老成している人物であるとも言うが、大人たちの評価はおおよそ上々だった。だからこそ、ひと足早く実際のまじない師としての仕事を見る機会を与えられた。彼なら、恐らく危なっかしいことはしないに違いない。

 その日、ジャグルは大人たちの集会に混じり、これから同じ道を歩む新人として挨拶をした。大人たちは噂だけはかねてより聞いていたらしく、彼がそうか、としきりに好奇の目を寄せていた。本人の置かれている状況だけでなく、見た目も少し変わっていた。燃えさかる炎のような、橙色でちぢれた髪の毛は、タルト一族でも珍しい。橙色か縮れ髪、どちらか片方が出ることはよくあるのだが、両方の特徴を持っている者はそういない。
「これからご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願いします」
 明朗な声で告げ、ジャグルは頭を下げた。
「それではジャグル。明日からこのレガの助手として、精進するといい。分かったね」
「はい」
「それでは、下がりなさい。詳しい話は後で本人と相談する時間を作るから」
 ジャグルは、ひと足先に外で待った。話し合いは思った以上に長く続き、昼一番に始めたと思ったのにもう太陽が傾きかけていた。流石に待たされるだけの身はつらい、と思い始め、少しだけ散歩をしようと決めた。
 子ども達の暮らす母屋と、大人たちの暮らす母屋は、小さな林で隔てられている。これが、大人たちと子どもたちの生活圏の境目だった。自分は今、林の向こう側に立っている――。数歩歩けば見知った風景が広がるはずなのに、まるで遠い国に来てしまったかのような感覚を覚えた。
 ふと、林で誰かが動く影が見えた。
「おーい、誰だい」
 ジャグルは呼んでみた。子ども達の生活で言えば、夕方から夕食にかけては自由時間だ。物珍しさに、年下の子が覗きに来たのかもしれない。そう思って、手を振ってみた。だが、林の方に動きは無かった。
「気のせい、かな」
 ジャグルは訝しく思いながら、会議をしていた母屋を振り返った。雑然とした声が広がる。どうやら、そろそろ話し合いが終わるようだ。大人たちが集会室から出て行き始める。すれ違いざまに、がんばれよ、とか、期待しているぜ、とか、ジャグルに激励の言葉をかけていく。ほぼ出て行き終わった後、ジャグルは中に招き入れられた。中にいたのはレガと、ルーディという初老の男だった。族長の側近で、初対面ではあったがかなり強い発言力を持っているらしいことは集会の短い時間の間でもすぐに分かった。
「では早速これからの話をしよう。ジャグルよ、お前はレガの仕事の手伝いをするとは言え、まだ正式に大人として認められたわけではない」
「分かっています」
「十六歳になるまで、寝床も食事場所も変えなくていい。仲の良い子もおるだろうからな、こっちに来るときは一緒にくればいい」
 レガはそこまで言うと、また険しい顔をしてジャグルを指差した。
「いいか、まだお前は大人として認められたわけではないんだ。将来、一族を背負っていく者として期待をかけておるんだ」
 くどくど同じ言葉を繰り返すルーディに、ジャグルは内心呆れた。要は、調子に乗るなということか。何度も言わずとも、そんなことは分かっている。咎める言葉ばかり投げられては、これから頑張ろうとしている若者のやる気を削ぐとは思わないのだろうか。そんなジャグルの思いをよそに、ルーディはレガの方を振り返る。
「レガよ、明日は依頼はあったかな」
「明日から七日ほど、近くの村々を回る予定です」
「おお、丁度いいな」
 興奮ぎみに、ルーディは相槌をうつ。
「早速ジャグルも、レガに同行しなさい。レガ、遠征の準備の仕方をこの子に教えてやれ」
「了解しました」
 ジャグルは腹の底から、妙な感情が湧き上がってくるのを感じた。いきなり、七日もの長旅か。不安と期待が入り混じったようなそれは、どちらに転ぶとも分からない未来へ馳せる思いだ。
「後のことは、レガに任せよう。くれぐれも精進するんだぞ、ジャグル」
「はい」
 ルーディがのんびりと歩いていくのを、二人厳かに見送った。
「俺たちも行こう。持って行くものは沢山ある。さあ、ついておいで」

 レガに導かれ、大人たちの暮らす母屋に立ち入った。ジャグルにとって、初めて入る建物だった。
 外から見るだけでは、五、六人程度しか寝泊まり出来そうにないほど小さな母屋。さっきちらと見た限りでは、一族の男全てがあの建物に収まり切っている。一体どれほどむさ苦しい空間なのだろうかと不安を覚えていたジャグルだったが、ひと足踏み入れてみればその考えは間違いだったことに気付かされた。一歩踏み入れた瞬間、領主の城にも引けを取らない豪華でゆとりある空間が広がっていた。天井は見上げなければいけないほど高く、正面に伸びる廊下の終わりが見えない。外から見たより、中の方がよっぽど広いのだ。
「どうだ、びっくりするだろう」
 レガはにっと笑った。ジャグルはただただ言葉を失い、頷くしか出来なかった。
「空間を圧縮させる術がかけられているんだ。二人か三人で一部屋、共同で使う」
 廊下の両側には、木製の扉が並んでいた。ドアには、部屋に住んでいる人間の名前が書かれた真鍮のプレートがかけられている。レガの部屋は左側、入り口から六番目だ。ネームプレートには、レガの名前しか書かれていない。
「だが俺は、一人で使わせて貰ってる」
「何で?」
「期待されてるんだよ」
 レガはジャグルの頭をポンと叩いた。
部屋の第一印象は、「計算されつくしている」と言う感じだった。白い壁、白い棚に、ワインレッドの本が一列に並べられている。その他、衣服も壁にしっかりとかけられ、整理整頓が行き届いていた。部屋に置かれているもの全てが、直線的なフォルムを持っている。後世の学者が見れば、幾何学的、と表現するかもしれない。レガは壁の引き出しを開け、この生活感のない部屋からは想像もつかないような、くたびれた革の鞄を引っ張り出した。
「まずは、着替え。今の季節は汗もそんなにかかないだろうから、二組あれば十分だ。紙とペンとインク。そうそう使うことはないが……。それから、これとこれと……」
 普段の生活に使うもの、仕事で使うものを分け、鞄の中に詰めて行く。ジャグルの分も、レガは一緒に用意した。
「よし、ここで揃えられるものは全て揃えた。灰は……まだあるな。これはいいだろう」
 小瓶に詰められた灰は、人間の女性の髪の毛と爪を燃やして作ったものである。女性は一般的に男性よりも強い術力を体内に秘めていると言われ、髪や爪を灰にすることで万能の術具となる。聞いてはいたが、実際に見るのは初めてだ。初めて聞いたときは、思わずうえと苦い顔をしたが、いざ目の当たりにしてみるとただの灰にしか見えない。ジャグルにとっては少し意外なことだった。具体的な使い方は、これから知ることになるだろう。
 必要な道具や、移動時の馬の乗り方など、暫く詳しい話を詰めていき、全てが終わる頃には日が暮れそうになっていた。
「今日はお疲れ様。少し早いけど、もう帰って寝るといい。明日から、長い旅になるから」
「ありがとう」
 ジャグルは手を振り、レガもそれに応じた。

 持っていくものを選別しなければと、子ども達の寝床に戻ったとき、ジャグルは異変に気付いた。所狭しと並べられたベッド。その一番奥の布団が、ズタズタに引き裂かれている。自分のベッドだ。手に取ってみると、刃物で乱暴に刺したり、引き回したりしたような跡が残っていた。目の前の無残な現実を、にわかには信じられない。
 自失茫然となっていたジャグルを現実に引き戻したのは、後ろから聞こえた声だった。
「お前、一人前って認められたくせに、まだ寝床はこっちなんだって?」
「だから何だよ、タム」
 タム・タルト。腕っぷしも強く、矢を難なく放てるくらいには術の扱いも上手いが、その性質は蛇のように陰険だった。子どもたちの間では、彼に逆らえる者は誰もいない。指導役の大人にはいい顔をして、喜ばせるコツも心得ているので、彼の悪行を報告したところで信じてもらえない可能性が高い。今だって、どうやってタイミングを計ったのか、寝床に自分と、タムの二人だけしかいない状況を作り上げた。普段なら、こんな風にあからさまに証拠を残すような真似はしない。何かあるな、とジャグルは思った。彼の脅しを受けて屈するつもりはないが、人をすくみ上がらせることに特化したような目つきとは、どうしても視線を合わせたくない。
「俺の前で勝手なことをしてると、どうなるか分からねぇぞ」
 ジャグルにしか聞こえないぼそぼそとした声。なるほど。ジャグルは理解した。こいつは、火矢の一件で自分が称賛を浴び一目置かれる存在になったことを、腹に据えかねているのだ。昼間に林に紛れてこっちを見ていた子どもも、恐らく彼だろう。
 一つ、ため息をついて、反論する。
「悔しいのか。悔しかったら、レガの前で俺より先にお前が手を挙げればよかったんだ。それだけだろう」
 その態度がすかしているように見えたのか、タムは今にも掴みかかりそうなほどジャグルに近づいた。
「おーい、メシだぞー」
 その時、誰かが二人を呼びに来たようだ。ほっとした。そういえばそういう時間だったのか。タムは舌打ちをして、入口の方へと向かっていく。全員で同じ行動を取っている間は、全員が同じ行動を取っている間は、あいつも手を出すことはない。

 夜、引き裂かれた布団に入って考える。今日は、色々なことが大きく動いた。喜びだけかと言えば、嘘になる。むしろ、戸惑いの方が大きかった気がする。明日は、長旅になると言うこともそうだが、生まれて初めて、この森から出ることになる。外の世界は、どんなところなのだろう。外の世界には、どんな人たちがいるのだろう。彼らは、まじない師のことをどんな目で見るのだろう。色々なことが頭の中を駆け巡り、ついには止まらなくなってしまった。
タムのことは腹が立つが、そのうち布団は縫い合わせればいい。今は明日に最大限備えることが何より大切だ。ジャグルは大きく息を吸い込み、思考を吹き飛ばした。これから、長旅になる。


  [No.1138] #2 火矢を放つ 3-1 投稿者:乃響じゅん。   投稿日:2013/08/31(Sat) 07:43:00   40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



 3


 次の朝、ジャグルは少年たちの寝床で誰よりも早く起床し、レガのもとへ向かった。しかし、大人たちの誰よりも遅かった。筒のように丸めた紙を手に持つレガと、一緒に旅立つ二人の大人が既に馬屋で待機していたのを発見し、慌てて走った。
「すみません、遅くなって」
 おうおう、遅いぞー、と笑ったのは、髪を伸ばした長身の男だった。もう一人、強面の男は腕を組んでしかめっ面をしている。悪意あってのことではないのだろうが、ジャグルは恐縮しきりであった。
「よし、これでメンバーが揃った訳だけど、新人もいることだし、自己紹介といこうじゃないか。改めて、俺はレガ。今回の遠征のリーダーをやらせてもらう。よろしく」
 レガは手を差し出し、握手を求めた。ジャグルはそれに応じる。しっとりとした、落ち着きのある手だった。その後に、残りの二人が続いた。まず、長身の方が歩み出た。
「オイラはラッシュ。ラッシュ・タルトだ。ま、名字なんか言わなくても分かるけどね。みんなタルトだから。君もね。あはは」
 ラッシュはへらへらと笑いながら、握手した。握手と言うより、振り回された感じがした。そして、強面が歩み寄る。
「ローク・タルトだ」
 ロークの名乗りはその顔面に相応しい厳格さを漂わせていた。タルト姓を名乗ったのは、ラッシュとは違い明らかに意味があるように思われた。自分が一族の一員であることの自覚だろうか、それはジャグルには分からない。握手した手は分厚く、硬かった。多くの苦労を乗り越えてきたことを、物語っていた。
「ジャグル・タルトです。宜しくお願いします」
 二人につられて、ジャグルもフルネームを名乗った。
「じゃ、早速予定を確認しよう」
 明朗な声で、レガは告げた。
 そこでようやく、持っていた紙の正体が分かった。伸ばして地面に広げると、山や森、家の絵と、それに伴う文字が描かれていた。地図だ。
 レガの話によると、今回向かうのはクラウディア領の東北部にある村々だった。タルト一族が住まうハイラ山脈はそれより更に北に位置するので、ほぼ南下する形になる。周辺の村々を三、四件ほど回り、まじない方面の相談を解決していく。最初の村に着くまで丸一日。村一つ辺り二、三日滞在し、また移動する。多少の延期は最初から考慮の上だ。七日間、と言うのは、どうも比較的短い遠征を指す言葉であるらしく、おおよそ言葉通りの意味ではないようだ。八日か、十日か、それは状況とレガの采配によりけりである。
「では、行きましょう。長旅ですが、宜しくお願いします」
 レガの一言が、全員の気を引き締めた。
 四人は馬を走らせる。馬術の心得がないジャグルはレガの前に乗った。馬術が子供の教育カリキュラムに含まれていない訳ではないのだが、ジャグルは術を磨くことに熱心だった分、おろそかにしていたことは否めなかった。だからジャグルの体は終始カチコチに強ばっていた。それ以外にもいくらか原因はあるのだが、ジャグル自身、恐縮以外に理由を求めなかった。
 村を出た後、ジャグルは一度だけ振り返った。見慣れた建物の群れが木々の間に隠れて、もうほとんど見えない。今までの自分の暮らしを、全て捨ててくるような気分だった。しっかりしなくては。どれだけ辛いことがあっても、村の少年用の宿舎で泣き寝入りすることは出来ないのだ。
 やがて森が終わり、視界が広がった。まず目に飛び込んだのは、広大な麦畑だった。前方全てが平らで、ひたすらに開けた景色だった。初めて見る光景に、思わず声をもらす。外の世界は、これほどまでに広いのか。
 空に少し橙色が混じり始めた頃、村が見えた。石造りの壁と木の屋根が集まっている。
「ジャグル」
 不意に、ロークが呼んだ。手招きするので、レガは馬を近づける。
「いいか。町中に入ったら、お前の役割は一つだ」
「なに?」
「何もするな。勿論、返事もだ。村人に声をかけられても、反応するな。ただレガのやることをじっと見ていろ」
 釘を刺すように彼は告げた。想像だにしなかった言葉に、ジャグルは面食らった。
「おいおい」
「何でさ」
 レガが咎めるのとほぼ同時に、ジャグルが噛みついた。
「何でもだ」
 まるで痛くもないと言わんばかりに、ロークはぴしゃりとはねのけた。
「ちぇ」
 感情を滅多に露わにしないジャグルも、他の同世代とは一つ上の待遇を受けた直後だったせいもあり、内心むっとした。自分は他の子供らと違って、もっとレガの役に立てる。立たなければいけないのだと思った。

 最初の村に到着するなり、小さな子どもがどこからともなく現れた。一人、二人、三人。いつの間にかわらわらと現れ、終いには大人も近寄ってきた。不思議そうな顔で見上げる小さな瞳、歓迎の眼差しを投げかける目、実に様々な視線があったが、総じて負の感情はなかった。ジャグルにしてみれば、初めて出会うまじない師以外の人間だった。歓迎されたことが嬉しくて、つい声をかけてみたくなったが、ロークの言葉を思い出しぐっとこらえた。
 この村には三人ともよく来るらしく、案内されるまでもなく村長の家まで最短距離でたどり着いた。中から、髪も髭も白く染まった老爺が出て来た。
「これはこれは、タルト様。お久しぶりです。よくぞいらしてくれました。ささ、長旅でお疲れでしょう。お入り下さい。食事を用意させましょう」
「お心遣い、感謝します。短い間ですが、宜しくお願いします」
 食事の間だけは人払いをしていたが、終わるやいなや村人がなだれ込んできた。皆、まじない師が珍しいのだ。彼らにしてみれば、我々の来訪は年に数度しかないイベントなのだろう。
「じゃ、元気いっぱいの子どもたちのために、いいものを見せてあげよう」
 レガは立ち上がって、一枚の紙を開いた。手のひら程もない、小さな紙だ。
「これ、何に見える?」
 レガが聞くと、子ども達は仕切りに手を上げて、自分の意見を言いたがっている。レガはぐるりと見回し、やがて一人の少年を当てた。
「じゃあ、君」
 彼は元気よく、
「紙!」
 と言い切った。
 周りからは大ブーイングが巻き起こった。レガはそれを制す。
「まぁ、確かに紙だね。でも、ただの紙じゃあない」
 一言一言を切っては、子ども達の顔を見渡すレガ。その語りに、いつしかその場の全員が引き込まれていく。ジャグルも、子どもと同じように、レガの手に見入っていた。
 レガは手のひらに紙を貼り付けるように、指で押さえた。それを一度周囲に見せつけると、手のひらを自分の方に向けた。そして、押さえた指を離しながら、ふうっ、と大きく息を吹きかけた。バタバタと音を立てる紙が、風圧で手に引っ付いた。
 少しの沈黙が訪れる。この後に何が起こるんだろう、その期待は最高潮に達した。
 その瞬間だった。紙が、火花を吹いて弾けた。バチバチと、橙色の閃光が掌から飛び散っていく。爽やかな音が、鮮やかな光が、隙間なく次から次へとやってくる。
「おおおおお!!」
 周囲が湧いた。火花が消えると、レガは両腕を開いて、怪しげな笑みを作った。
「ありがとう!」
 一斉に、拍手が沸き起こった。
 子供たちの興奮が、レガに質問や願いとなって浴びせられる。
「今のもまじないなの?」
−−そうだよ。まじない師は、こんなことだって出来るんだ」
「何で火花が出るの?」
−ー火花よ出てこい! っていうまじないを紙にかけたのさ。
「ぼくにもできる?」
ーーもちろん。紙にかかったまじないだから、息をふっと吹きかけさえすれば君にもできるよ。いくつか持ってきたから、お土産にあげよう。
 やったあ、とまた子供たちの喜びが聞こえる。ジャグルはレガに群がる子供たちから離れ、ロークとラッシュのそばに寄った。二人はいつの間にか、部屋の隅に逃げていたようだ。
「あいつもよくやるよなぁ。なにが楽しいのか、俺には分かんね」
 ラッシュがつまらなさそうに言った。
 ロークは腕を組んで、レガと子どもたちを見ていた。レガの行いは軽薄である、と言わんばかりに、その顔は険しい。ロークはまだしも、ラッシュまで乗り気ではないことが少し意外だった。
それでも、ジャグルは思った。楽しそうだな、と。子どもたちだけではない、それを見ている大人も、そしてレガ自身も。いつか自分も、こんな大人になれるだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、最初の1日が更けていった。

 次の日。初めてレガの仕事を見たジャグルは、すぐに自分の仕事に対する考えが甘いことに気付いた。ジャグルは大いに落胆した。
 まず、依頼の多くは失せ物や人物の特定、将来の道筋、言葉の裏に隠された心理を読み解くといったものだったことだ。自分の出番などこれっぽっちもなさそうだったのである。火矢を放つ技術など、いつ使えばいいというのだろうか。術とは武器を用いて何かを駆逐するものだと思っていたジャグルにとって、これには面食らった。少年期に学ぶ術が弓矢や剣などを用いるのは、どんな場面でもまず己の身を守れるようにすることが大事であると説く一族の方針からであるが、あまり実際に即しているとも言えないことを悟る。なんとまあ非効率的なしきたりではないかと、ジャグルは心の中で吐き捨てた。
 更に何日か過ごしてみて分かったことは、どれだけ術を知っていても、実際に人の悩みに立ち会ってみれば、どれを使えば解決するのか見当もつかないことが非常に多いと言うことだ。自分なりに、レガがどんな方法を用いるのか想像しながら聞いてみたが、まるで当たらない。なぜレガがそれを提案したか分からなくとも、終わってみればかなり的確に問題の要点を見抜き、解決に導いていたように見えた。ジャグルもまた、そこで新しいまじないを知り、術の使い方を記憶に留めていった。
 ジャグルの役割は、術とは全く関係のないような雑用ばかりだった。水を汲んできたり、他の一行の荷物を代わりに持ったり。そんなことばかりを繰り返すばかりの生活だった。最初は不満もあったが、そんな気持ちは次第に薄れていった。と言うより、思い直した。自分は大人として独り立ちするにはあまりにも力が足りない。むしろどんな力を身につけなければいけないのかでさえ、はっきりとした答えを見出せずにいるのだ。それでも、分かることが一つだけあった。一つ依頼が解決した時の依頼人の表情を見れば、こちらもほっとした気持ちになり、その後胸の底が疼くのだ。いつか、こんな風にできればいい。レガのように、楽しく、堂々と。だからこそ、ロークの言葉通り、自分の今の仕事は大人たちの仕事をしっかりと見ることなのだと思った。

 いくつかの人里を転々とし、六日目の昼に辿り着いた街は今までとは打って変わって都会だった。馬を下りて、宿を取る手はずを整えた。街の規模が大きいと、さすがに人の家に止めてもらうのも難しいのである。荷物を預け一通りの支度が整うと、レガは自由時間にしようと告げた。大きな町だし、ちょっとくらい満喫しても罰は当たらないだろう、とのことだった。お堅いロークが反対するかと思いきや、まんざらでもないようだ。
 四人同時に宿を出て、そこから先は別行動になった。ジャグルはレガについて行こうとしたが、ラッシュが強引に引っ張っていった。
 さすがに街は、規模が違った。家並みはとても綺麗だし、行き交う人の数も倍ほどあった。あれよこれよと目に留まった興味引かれるものの姿を追っていると、目が回りそうだった。
「おい、ジャグル。あの子どうよ」
「どう、って言われても……」
 たった今目の前を横切った女の子を指さして、ラッシュは声をひそめて言った。言葉の意味がまるで分からない。ジャグルは困惑していた。
「そんなことないだろー。もうそろそろ、そう言うこと考え出すお年頃じゃないのか」
 肘で体を突っつかれる。少しよろけた。
「どういうことを考え出すって?」
「なんだよ。面白くねぇな。まだまだお子様だってことか? まぁ、初めて森を出るんじゃ、しょうがないか。今まで女になんて、会ったことないもんなぁ」
 そうなのである。タルト一族で「まじない師」としてやっていけるのは、男子だけだ。ジャグルの周囲には、女子は一人もいなかった。小さい頃から、何度も聞かされた言い伝えがある。女は術力を多く持つが、それを放出する術を知らない。だから、その髪や爪を灰にして男に使ってもらうことで、初めて己の術力を解放することが出来るのだ、と。そのため、タルト一族の森には、男が暮らす集落と女が暮らす集落は、全く別の場所にある。そして、特別な事情が無い限り、その行き来は許されないのだ。
 ラッシュがひどく残念そうにつぶやいたが、しかしまたくるりと表情を変えた。行き交う女性の後ろ姿に夢中である。
「いやー、しかし街中の娘さんってのは、いいボディしてるねぇ」
「何それ」
「もっと大人になったら分かるだろ。早く大人になれよ」
 楽しそうに語るラッシュのにやついた顔が、妙に癇に障った。
「あーあ。てっきりもっと色々なこと、出来ると思ってたのになぁ」
「お楽しみの話?」
「違うよ、まじない家業の話」
 ジャグルは頭の後ろで腕を組み、不機嫌そうに言った。
「なんで大人たちって、子供に攻撃術ばっかり教えてんのかね。おれ、全然役に立たないじゃん。何に使うってんだよ」
「なんだ、そんなことか。気にすることないでしょー。これから覚えていけばいいんだし」
 ジャグルのもやもやとした怒りにまるで気付いていないかのような口ぶりで、ラッシュは話す。
「まぁ、使うときだってあるんだぜ? 人食いが出たときとか。人食い退治は金になるんだよ。世間には知られてない、理屈の分からん問題の正体を、俺らだけが知ってるんだからさぁ。何も交渉しなくても、大体すげぇ額くれんのよ」
 ラッシュはさも当然のように、あっけらかんと答える。何度もそういう場面に出くわしているのだろう。
「理屈は分からなくもないけどさ。稼がなきゃ生きていけないわけだし。分かってる、けどさ」
 反論を試みるも、何も言えない。我々は、人にはない特殊な術力を用いて人々を助ける。助けて、報酬をもらう。そうすることでしか生きていけないのだ。分かってる。分かってはいるけど、ラッシュの物言いには何かが腑に落ちない部分があった。そんな思いだけがぐるぐると廻り、何も言えず、やがてジャグルは口を堅く結んだ。
 ふふん、とラッシュは笑って、指先でジャグルを突っついた。おちゃらけたその感触がやけに癇に障った。
「お子様だなぁ、ジャグルは」
「レガんとこ行く」
 ジャグルは言い終わらないうちに、早足で歩き去ってしまった。

 とは言え、レガが今どこにいるのか、見当もつかない。行き交う人の数は、森を出たばかりのジャグルからすれば目眩がしそうだった。どこか休める場所はないかと探す。宿に戻ろうかとも思ったが、そこに行き着くまでが大変だ。できれば人通りが少なく、草木に囲まれたところへ行きたい。何気なくそんな風に思い、勘を頼りに歩いていると、建物の並びが終わって街道が横たわっていた。道の雰囲気からして、来た道とはまた別の場所らしい。人々の雑踏もほとんど聞こえない、爽やかな空気だけが通り抜けていた。街道の反対側には森が広がっている。その手前に黒い柵が張ってあるのは、恐らくその先が貴族の家の敷地だからであろう。大きな屋敷の屋根が、木々の上に少しだけ顔を覗かせている。
 左側に、人影が見えた。門の前に立つ姿が、見覚えがあるもののような気がして近づいてみる。
「おーい、レガ!」
 その正体が分かったとき、ジャグルは名前を呼んで大げさに手を振った。レガが振り返ると、同じように手を振って答えてくれた。
「街中、堪能してるかい」
「うん。まぁ、でも、ちょっと人が多すぎて疲れちゃった」
 ふふ、と柔らかな笑みを投げかけるレガ。
「普段の俺たちからしたら、そうだよなぁ。ずっと森で暮らしてきたんだ。俺たちの肌に合うのは、きっとこういう森の中なんだと思うよ」
 レガにとってのタルト一族とは、一体何なのだろう。そんなことがふと気になった。
「でもさ、ここに来ることがなかったら、そんな風に思うこともなかったし」
「それもそうだな。ところでジャグル、遠征はどうだ」
 突然の問いに、ジャグルは言葉に詰まる。少し考えて、自分の気持ちを素直に語った。
「大変だね。体も、心もとにかく体力が足りない。まず、馬に揺られるだけでも相当パワーが要るだろ。その後すぐに村人相手にまじない師の仕事だろ。レガもラッシュもロークも、凄い体力。付いてくだけで精一杯だった」
 ジャグルは肩をすくめてみせる。
「こういうのって、続けていれば慣れるものかな。もしそうなら、こんな大変さもいつかは報われるんじゃないかって思う。だからまだまだ、やっていきたい」
 ジャグルの言葉を掬い取るように、レガは耳を傾けていた。何を言っても、レガはジャグルを否定するような言葉を出さなかった。だから思わず、ジャグルもつい、沢山のことを喋ってしまった。
「それはよかった。ジャグルを遠征に連れてきたのは正解だったかもしれないな。お前は出来た奴だよ」
 ぽんぽん、と頭を優しく叩かれる。思わず嬉しくなって、頬が染まる。
 そういえば、とふと思う。
「レガはここで何してたの?」
「あぁ。待ち合わせをしているんだ。丁度誘いがあってね。紙の鳥便が昨日届いたんだ。この屋敷の前で待つって。折角だから、ジャグルも来るか」
 えっ、と思わず聞き返した。
「いいのか」
「いいと思うぜ? あいつはそんなに悪い奴じゃないからな」
 悪戯っぽく、レガは笑った。
「しかし、遅いな。約束の時間は、とっくに過ぎている筈なんだが」
 辺りを見渡していたその時、後ろで錠が外される音がした。門の向こうで、高潔な佇まいをした老人が話しかけてきた。
「遅くなってしまい申し訳ございません、レガ・タルト様。とそれから、お連れ様。中であなたのご友人がお待ちです。さぁ、どうぞ」
 ジャグルはレガの顔を見上げた。と同時に、レガも困った顔でジャグルを見た。彼にも事情が良く飲み込めていないらしい。
「えーと、失礼ですが。私が待ち合わせしていたのはまじない師のディドル・タルトなのですが、何かの間違いなのでは」
 そうレガが訊ねると、老紳士は不敵な笑みを浮かべる。
「ディドル・タルト様は、この中にいらっしゃいますよ。さあ、遠慮なくお入り下さい」
 とにかく、ついて行くしかない。ジャグルとレガは、同じ結論に至った。二人頷き合い、門をくぐった。
 レガの友人、ディドル・タルトとは何者なのか。ジャグルは逸る気持ちを抑えながら、一歩一歩を踏みしめた。

 門の内側に広がる森は、ジャグルの知るそれとは趣が異なっていた。生えるがままに任せた荒々しい自然のそれではなく、歩きやすいように、あるいは日の光が地面にまで行き届くように剪定されていた。一族の集落でも枝を時折切り落とすことはあるが、人間の歩ける道を最低限確保するに留まっていた。人の手が細部まで入った森を、ジャグルは初めて見た。
 更に進むと、視界が開けた。それは光り輝く緑の丘だった。なだらかな上り坂の上に、赤い屋根の大きな屋敷が立っている。その周りは、四角く刈られた木で囲まれていて、この広大な庭と建物のある空間を隔てる役割を果たしていた。きれいだ、と思った。それも、とても格調高い美しさだ。
 そんな威風堂々とした空間にこれから立ち入るのだと思うと、急に気が小さくなってしまった。不安に駆られ、前を歩くレガの方を控えめに叩く。内緒話をするように手を口に添えると、レガは意図を察して耳を寄せた。
「なぁ、おれ、大丈夫かな。こんな格好であんな所に入って。こういう所の礼式とか全然分かんないよ」
「分かった。それなら、俺の真似しとけ。もしも駄目なら、俺が何とかするよ」
 レガの声も、少し強ばっていた。レガも本当のところは礼式をよく知らない。それでもとにかく、ジャグルにだけは非難が行かないようにとのレガの配慮だった。おかげでジャグルは大船に乗ったかのような気持ちになれた。まじない師として恥のないように振る舞えれば、それでいい。やがて、屋敷の正面にやってくる。屋敷の大きな扉が開かれ、三人はその中に歩を進めた。
 中にいたのは、黒い服を身に纏った、若い男だった。右手に、濃い茶色の杖を握っている。
「久し振りだな!」
 レガとその男は熱い抱擁を交わした。お互いの抱きしめる強さが、再会の喜びの大きさを物語っていた。
「ドド、元気にしてたか?」
「あぁ、レガ」
「一体どうしてこんな凄い屋敷に?」
「あぁ。ちょっと前にこの屋敷の娘さんとご婦人を助けたことがあってね。以来、深いお付き合いをさせて貰ってるんだ」
「へぇー凄いな。お抱えまじない師になったってことかい?」
「そうとも言えない。有事に駆け付けるだけだよ。お嬢様に便箋を渡してるから、何かあれば投げてくれる。この家には殆ど問題はないが、付き合いのある他家には私達が必要になる家もあるみたいでね。まあ、自分の店もあるし、頻繁にくれる訳じゃないから、お抱えにはなれないよ。ところで、そっちの子は例の……?」
 ドドはジャグルの方を見やった。
「あぁ。ジャグル・タルト。今回初遠征、期待の新人だ」
 レガのあまりの誉めように思わず顔が赤くなった。そんなことない、とレガにかぶりを振った。
「ジャグルです。よ、よろしく」
 声が上擦っていたかもしれない。
「君の噂はレガから聞いているよ。私はディドル・タルト。この街の外れでまじない師をやっている者だ。気軽にドドって呼んでくれ」
 ふっと笑みを投げかけた。
「こいつがドドって呼ばれるのは、本当にちっちゃい頃に、自分の名前が言えなくてどうしてもドドルーになっちゃうからなんだ」
「お前、会う度にそれ言うよな」
 おどけて楽しそうなレガと、呆れ顔のドド。こんなに無邪気なレガを見るのは初めてだ。
「そう言えば、キュウはどうした。いつもお前にべったりくっついているのに」
「あぁ。今はちょっとな」
 そう言うと、一瞬女中の方に目をやった。女中はそれに気付かず、ただ預かった杖を大事そうに持っている。レガは何かを察したようで、それ以上この話題について話すことはなかった。
「そろそろ夫人たちが待っているはずだ。中に入れてもらおう」
 ドドが言うと、執事が現れさっと奥の扉を開けた。中は食堂だった。暫く中で待機していると、二人のドレスを纏った女性が現れた。
「夫人、今日は無理なお願いを聞いていただき、感謝します。こちらが、申し上げていた友人、レガ・タルトと、ジャグル・タルトです 」
「初めまして。私、スージィ・クラウディアと申します。こちらは娘のロコです」
「初めまして」
 ロコはスカートの両端を摘まんで、軽くお辞儀をする。参ったな、と思った。まるで別世界の住人ではないか。自分なんて場違いもいいところだ。そんな思いもあって、ジャグルの挨拶はひどくぎこちないものになってしまった。
「ジ、ジャグルで、す。よ、宜しく」
 顔を上げた瞬間、ぎょっとした。ロコが、自分を睨みつけるような目をしていたからだ。きっと彼女はこの無礼者に呆れているに違いない。
 だめだ。
 レガに励ましてもらったが、やはり自分にはこんな格式張った場所は似合わない。逃げてしまえればどれだけ楽になれるだろう、と思った。そういえばレガの挨拶はどうなったのか。聞こえなかったが、他の四人は既に談笑し始めているので、いつの間にか終わってしまったらしい。緊張し過ぎて耳に入らなかったのだと気付くまでに、少しの時間を要した。
「そう、だからドドなのね」
 夫人は笑った。レガ、名前のことをまた言ってる。さすがのドドも、貴族の前では大人びた対応で、微笑を浮かべるだけだった。
「森の中って、どんなところなのですか?」
 ロコ嬢がレガに訊ねた。既にタルト一族のことについて、いくらか知っているらしい。
「以前からハイラ山脈の森に暮らしてらっしゃると言うことは聞いていたのですが、ドドさんは長らく森に帰っていないようなので」
「実は今日レガを呼んだのは、お嬢様に今の森のことを聞かせて欲しいからなんだ」
 少し照れくさそうに、ドドは言う。
「良いですよ。何からお話しましょうか」
「それでは……家について、はどうでしょう」
 期待に満ちた目で、夫人もロコもレガの顔を見つめる。レガは目を瞑り、上を向く。
「そうですね……タルト一族は、自分たちの住まいにもまじないをかけているんです。小さい建物の中に、多くの人が暮らす工夫が沢山施されています」
 レガは喋り続けた。しかし、語るモノの焦点は、常にまじないのアイデアそのものに当てられた。家が広いと匂わす言葉を一言も発しなかったのは、貴族相手を考慮してのことだと、後で気がついた。彼は、上手く相手を立てていた。
 その後も、和やかな雰囲気で会話は続いた。穏やかでないのはただひとつ、ジャグルの内心だけだった。気を使われたのか、時々質問を投げかけられるが、一言二言で終わってしまう。うまく話せない自分にもどかしさを感じる。
 思えば小さい頃から、抑制、抑制の日々だった。一族にも、沢山の掟がある。よその人間が聞けば、ぞっとするような悪習もある。それに異を唱えようものなら、恐らく全てを敵に回すだろう。レガが語るタルト一族の生活は、まるで夢の国のように聞こえる。実際は、そうではないのだ。そう言ってしまいたかった。だが、それを言えば、ドドと屋敷の人々との間に築かれた関係の全てが台無しになる。そんなことをしたら、ますます自分が嫌になるだろう。これでいいのだ。これで。正しいことだけが、全てではない。一族の中に収まり切らない自分など、切り落としてしまえばいいのだ。

「あら、そろそろ日が傾きかけていますわね」
 夫人が、ふとそんなことを言った。
「それでは、そろそろお暇させて頂きます。今日はこれほど素晴らしいお茶会にお招きいただき、ありがとうございます」
「私の我が儘を聞き入れてくれて、ありがとうございます」
 と、ドド。
「いえいえ。また、宜しくお願いしますわね、タルト様」
「さあ、こちらへ。ドド様はこれを」
 行きと同じ執事が切り出し、再び案内する。執事の手に、柄が獣の頭を模した杖があった。両手で、丁重に差し出す。
「あぁ、ありがとうございます」
 ドドは同じように受け取った。そして、執事が先導する。レガとドドが振り返り、ジャグルもそれに倣う。
 一礼して顔を上げると、冷ややかな視線がそこにはあった。ロコの瞳が、ジャグルの顔をしっかりと捉えている。出会い頭に突き付けられた顔だ。彼女は自分をどうするつもりだろう。最後の最後に、何かしらの罵声を浴びせるだろうか。それとも、後でタルト一族の一人が無礼を働いたとして、ドドの出入りを禁止するだろうか。何も告げない彼女が少し怖くなって、あらゆる方向に想像が働き、手が震えた。彼女はじっとジャグルを冷たく睨み続ける。落ち着きを取り戻そうにも適わず、もはやジャグルに出来ることは、そそくさとこの場所から立ち去ることだけだった。ただただ、申し訳がなかった。

 屋敷を出たところで、執事にお礼を言う。それに答えた執事が戻っていくのを見送って、レガは切り出した。
「よし。ジャグル、お前は先に帰ってろ。場所は分かるな」
「ごめん、分からないよ」
 ジャグルは首を振る。
「そうか。でも、簡単だぜ。そこの門を曲がって街中に入って、左に曲がって道なりに行けば着く」
「分かった。けど、レガは?」
「この昔馴染みともう少し喋りたいんだ。悪いな」
「ううん、いいよ。じゃ、行ってるね」
 きっと、積もる話もあるのだろう。ジャグルはそう納得した。
「あと、くれぐれもここでドドと会ったことは内緒な!」
「分かった」
 何故だろうか、ふと疑問に思ったが、聞かない方がいい気がした。あの男は、多分、わけありなのだ。ハイラの森で暮らさないタルトなんて、それだけでも相当変わってる。不思議で、少し不気味なはぐれまじない師。そんなレガの秘密の友達との時間を、無碍にすることなんてできない。
 ジャグルは手を振って、宿場に戻って行った。

 手を振って見送る、レガとドド。完全に見えなくなったところで、レガの顔は一気に真剣なものへと変わった。レガにとって、本題はここからだった。この話をするために、今日レガはドドと会ったのだ。決してまだジャグルには聞かせるべきでない、大事な話をするために。
 切り出しは迅速だった。
「……ところで、その杖」
「うん?」
「キュウなんだろう。柄の頭の形、どう見たってそうじゃないか」
 きっとドドを睨むレガ。声が荒げそうになるのを、必死で抑える。
「……さすがレガ。鋭いな」
 ドドは、杖の柄の部分ーーキュウの頭を軽く撫でた。その顔は、どこか悲しげだった。
「大分弱体化してるな。何があったんだ」
 レガがまじまじとキュウの顔を見つめる。ドドは屋敷の方を見やった。
「丁度、この屋敷でのことだった。屋敷の中に人食いが住み着いていたんだ。完全に葬ったつもりだったが、最後の最後で反撃してきたんだ。思った以上の毒を、口に直接ぶち込まれた。術力の強い木を接いで命を繋いではいるが、まだ復活にはほど遠い」
 杖を握る手に、僅かながら力が込められた。
「それで、どうするんだ。もしキュウがこんなに弱ってるなんて族長にバレたら、一体どうなることか」
 心配そうな声を出すレガに、ドドはふっと笑った。
「お前が一番そういうところから遠いくせに。らしくないことを言わないでくれよ。それからだ。レガはだからこうやって、いつも来てくれてるんだろう。お前なら絶対言わないだろ? 一族の連中には上手いこと言ってくれるって、信じてるよ」
 レガはその手を取る。
「じゃあさ、信じるついでに、一つ頼まれてくれないか」
 真っ直ぐなレガの瞳は、しっかりとドドを捉える。
「俺にもしもの事があったら……あの子を頼むよ」
「あぁ」
 ドドは彼の瞳をまっすぐに見つめ、頷いた。


  [No.1139] #2 火矢を放つ 3-2 投稿者:乃響じゅん。   投稿日:2013/08/31(Sat) 07:44:48   33clap [■この記事に拍手する] [Tweet]


 非常に気分が悪かった。一人でいると、どうしてもロコ嬢の視線の意味を考えてしまう。あれはきっと、自分を非難していたのだと思う。彼女が自分を責める声が、はっきりと聞こえてくる。「あなたは未熟だ。タルト一族のなんの役にも立っていない。いてもいなくても同じだ」と。ジャグルの身支度は、誰よりも手早かった。まるで、声から逃げるかのように。
 次の日、今回の遠征最後の村を訪れる。悩みを持つ住人の話を、ラッシュ、ローク、レガの三人で分担しながら聞いていく。ジャグルはレガのサポートに回る。このスタイルを、お決まりのパターンだと思えるようになったのは、少しはこの仕事に慣れてきた証拠だろうか。
 レガは三人目にして、異様な真剣さを伴ってすがる女性に当たった。
「助けて下さい、タルト様」
 女はかすれた声で言った。
「ご婦人、今まで辛かったのですね。まずは詳しい話をお聞かせいただいても、構いませんか」
 話を聞く前に、まず相手の気持ちを救っておくこと。たとえハッタリでも、嫌な気持ちをする人間はまずいない。それが彼の編み出したテクニックなのだと、ジャグルは知っていた。
「はい」
 そして、ゆっくりと彼女は話し始めた。レガは彼女の言葉を引き出せるよう、時々頷いたり、相槌を打ったりした。さっき聞いた概要に加え、何かに見られているような感覚がある、と彼女は新たに語った。
 どうやら、彼女は不眠症を患っているらしかった。夜中、目を閉じていてもどうしても眠れない。おかげで、日中も何となく気だるい気分が続いている。それだけではない。夜中じゅう、誰かに見られているような気がするのだ。試しに起きて探しても、誰もいない。夫と一緒にベッドを共にしているが、彼はぐっすりと眠っている。何故自分だけなのか、納得出来ずに時折夫にも当たってしまうのだった。
「なるほど。分かりました。それでは早速あなたのご自宅へ行きましょうか」
 レガは促し、彼女は快く応じた。

 彼女の家に着く。レガは自分の小さな鞄を持ち出していた。レガ愛用の道具箱だ。ジャグルはこれまでに何度か見たことがある。中に入ると、男が立ち上がり、彼女とまじない師たちを代わる代わる見た。どうやら彼女の夫らしい。彼も事情は知っていたようで、どうか妻を助けて下さい、と告げた。任せて下さい、とレガ。そして、部屋全体を見回す。夕方、暗い室内はよく眠れそうにも思える。奥の扉をちらと見やり、レガは彼女に尋ねる。
「普段寝るとき、どこでどちらを向いていますか」
「え? ええと、こちらの寝室です」
「失礼ですが、見せて頂いても?」
「はい。どうぞ」
 二つのベッドを繋げて、一つにしている。愛する夫と、夜を共にしているのだろう。
「こっちを頭にして」
 窓のある方に頭を向けているようだ。朝に太陽の光を浴び、自然に目が覚めるようにしているのだろう。レガは鞄の中から小さな金属の板を取り出す。井戸水を拝借し、桶に張る。その上に金属板を浮かべた。それを見て、レガはうーんと唸った。
「南向き、ですか……」
 レガの表情に、女性はひどく不安げな顔をする。
「おそらく、夢を食らう化物に、夢を食われているのでしょう。それらは南からやってくることが多いのです」
「そうなんですか」
「一般的には、北だと思われがちなんですがね。本当は、体に良い力は、北から南に向かって流れているのですよ。枕を逆にしてみてください。よく眠れると思いますよ」
「へぇ! ありがとうございました」
 どういたしまして、とレガは落ち着き払った声で返す。知らなかった、とジャグルは少々の冷や汗をかいた。
 家を出る。ひと段落したかと思ってレガの顔を見ると、予想に反して神妙な表情を浮かべていた。訳を尋ねようとするより先に、レガはジャグルに耳打ちした。
「いいかい。この件はこれで終わりじゃない。今後の予防にはなるが、根本的な解決はまだしていないんだ」
「そうなの?」
「あぁ。人食いの仕業だ」
 人食い。その言葉が、胸に重くのしかかる。
「夢を食らう人食いが、近くにいるはずなんだ。矢、持ってるか」
 ジャグルは鞄から取り出す。よし、とレガは頷く。
「そう言えば、人食いを見たことはないよな」
「うん」
 ジャグルは頷いた。
「よし。今日で最後だし、ジャグルも一つ大仕事をしてみないか」
「大仕事?」
 聞き返すジャグルに、レガは頷く。
「ああ。お前が、人食いを退治するんだ」
 へ、と間抜けな声で返してしまった。どうやら自分は、ずっと見てばっかりで、自分でやることをすっかり忘れそうになっていたらしい。
「人食いを見つけるところまでは、俺がやろう。タイミングも、ちゃんと指示する。最後に、矢を放つのはお前だ。いけるか、ジャグル」
「……分かった」
 手が震えているのが分かる。自分に出来るだろうか。またとない機会だ。自分に出来るだろうか、と不安な気持ちを押しのけて、とりあえずやってみよう。ジャグルは気を引き締めた。

 その夜、ジャグルとレガは女性の家の南側にある広場の芝生に腰を下していた。人食いに感づかれない為に、灯りは点けない。今日は満月に近いため、月の光でよく見える。レガは女性の髪と爪を燃やして作った灰を中指から手首にかけて塗りつけた。今から使う道具の精度を高めるためだ。
「来るかな」
 ジャグルは小さく呟いた。
「きっと来るよ。あの奥さんのことを、きっといい餌場だとか何とか思ってるはずだからな。きっと油断してる。こっちから罠を張ってやらなくても、来るだろう」
 レガは手に紐を巻きつけている。その手の中で複雑に絡み合った糸は、まるで何かの模様のようだった。
「すごいな」
「この結びか? 紐に術力を与えて操作する、汎用性の高い結び方だ。今度教えてやるよ」
「本当?」
 やった、と心の中で呟く。ああ、とレガは笑った。
「レガって、本当に何でも知ってるんだな」
「そう見えるかい」
「うん」
 レガはジャグルの頭に手を置き、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「じゃあ、お前にずっとそう思ってもらえるよう、頑張んないとな」
「やめろよー」
 そう言って、いたずらっぽく笑う。
 レガはジャグルの指導係でありながらも、時には友達のように気さくに接してくれた。レガは今までの経験を話し、ジャグルは自分の考えや夢を話す。レガは決して、ジャグルの考えを否定しなかった。どんなに幼い考えでも、レガは大まじめに聞いてくれた。長かった七日間も、レガがこうして仲良くしてくれるから、乗り越えられたのだとジャグルは思う。きっと彼がいなければ、心細さに潰されてしまったに違いない。彼の笑顔を見るたびに、勇気づけられる自分がいる。いつか彼のようになりたい。彼のように、人に勇気を与えるまじない師になりたい。心の底から、そう思う。

「さて、来たぞ」
 ふわふわと浮かぶ、自分の体よりも大きなピンク色しただ円形の物体。これを生き物と呼ぶには、あまりにも不気味すぎる。鳥のように羽ばたくこともなく、ゆっくりと空から降りてくる。背中を丸めて眠っているのだろうが、一切体を動かす様子もなく移動する様は異様だった。ピンク色のそいつは、おでこの辺りから煙を出し始めた。煙は風もないのに一定の方向に引き寄せられていた。その先にあるのは、彼女の眠る家の窓。どうやら、あの煙を通じて夢を食べるらしい。誰が言った訳でもないが、ジャグルにも想像がついた。
「動きを止める。矢を番え。まだ撃つな」
 小さくレガが呟いたのが聞こえた。その瞬間、レガの手首から紐が伸び、ピンク色の巨体を縛り上げた。奇襲を受けたそいつは想像より大きな目を見開いた。頭から伸びる煙が方向を失ったことから、ひどく慌てているのだろう。
「お前たちに安全な餌場ってのはないんだぜ、ムシャーナ」
「どうして私の名前を」
ーー喋った、だと。
 ジャグルにはそれが意外で、思わず矢を構える意識が途切れそうになった。こいつらは、ただ強い力を持って、人間を食らうだけの獣ではないのか。
「さぁ、どうしてだろうな。ジャグル、打て」
 人間と同じように、言葉を持っている。とどのつまり、心も持っているということなのだろうか。人食いと言うのはもしや、ただ食らう対象がたまたま人間であるだけで、感情もちゃんと持っている。その辺を飛び回る虫や、歩き回る犬とは一線を画す生物なのではないか。
 それに、だとしたら、我々は、このタルト一族はーー。
「ジャグル! 今は考えるな! 火矢を放て!」
 レガの言葉にはっとして、ジャグルは矢じりに火を灯した。こいつらは人間より遥かに強大な力を持つ。いくらレガでも、動きを封じていられるのも僅かな間でしかない。生き物に向けて撃つのは初めてだということも忘れ、ただ的を狙うつもりでムシャーナに向かって火矢を放った。
 火矢はムシャーナの体に突き刺さり、小さく爆ぜた。さっきとは違い、獣の叫び声が辺りに響いた。刺さった部分が黒く焼け焦げ、肉が抉れていたが、まだ致命傷とは言い難い。今の一発でレガの紐も千切れかかっていた。ムシャーナは暴れて、必死に逃げだそうとしている。
「ジャグル、もう一発だ」
「でも、もう懲りたんじゃ」
「やらなきゃ、こっちがやられるんだ。彼女がじゃない。人間が、だ」
 レガの叱咤に目をぎゅっと閉じた。不意に、ロコの冷たい視線が浮かんだ。そして、彼女はジャグルに言い放った。「あなたは、役立たずなのね」。いや、違う。ジャグルは首を振った。目を開き、もう一度矢を構えた。おれは役立たずなんかじゃない。
「……やってやる」
 半ばやけっぱちで、ジャグルはありったけの術力を矢に込める。術力が火力に変換されたとき、既に矢は燃えるような赤い光を放っていた。もしこれが術を用いた矢でなかったならば、高熱のあまり持つことさえできないだろう。
 ジャグルは高熱の矢をムシャーナに放った。何の偶然か、矢はムシャーナの急所――おでこの煙を出す器官を貫いた。矢は大きく爆ぜた。人食いは叫び、ごろごろと地上と空中を彷徨いもがいた。だが炎は、人食いが身体を動かす度に執拗に追いかけ、焼き続けた。やがて表面は炭と化し、身体を中まで燃やし続ける。やがて声が消え、そのうち動きも止まった。今度こそ、ムシャーナの息の根を止めることに成功したのだ。
 ジャグルは手に嫌な汗をかいていることに気付いた。明らかに、火矢の熱に当てられただけのものではない。ジャグルはもがく姿の中に、自身の心を揺さぶるものを見てしまった。涙だった。炎の中で人食いの目から雫が溢れるのを、確かに見たのだ。感情を持つ生き物が自分の死に直面したときに発露する、悲しみと、憎悪と、虚無。なぜ? という、自分に降りかかった理不尽へのやるせなさ。もしかすると、人間だって同じ表情をするのかもしれない。殺される寸前の人間を見たことはなかったが、きっと同じ思いが、その瞳から伝わってくるに違いない。
 不意に、頭に何かが触れた。レガの手だった。暖かいその手が、くしゃくしゃの髪を優しく撫でた。
「よくやった、ジャグル。お前は、よくやったよ」
 レガは、自分の上着をジャグルの頭に被せた。ムシャーナの亡骸を私に見せないように隠したのだ。ジャグルも見たいとは思わなかった。頭の中に浮かぶのは、あの大きく見開かれた目。最期の最期、自分を見つめるその視線を、ジャグルはいつまでも忘れることが出来なかった。