戻る
------------

104 焔水神 森羅


PDFバージョン  フォルクローレに採用されると見開きの片側に絵がつきます。



 今回、とある田舎町で変わったものを見かけたのでご紹介しようと思う。どこから説明すべきか悩むが、筆者がその町に行った経緯からというのは長くなり過ぎるだろう。唐突にはなるが、今回ご紹介したいそれを見つけたところから始めたいと思う。
 あの時、偶然目に入らなければ筆者はそれを確実に見落としていたと断言できる。元の色がわからないほど朱が剥げ、今にも自然の中に取り込まれそうになりながらその祠はあった。朽ちたのか鳥居もなく、賽銭箱もなく、供え物もないその祠は誰も管理していないことは火を見るよりも明らかで、手のひらに収まりそうな小さな陶器の神使(キュウコン)が狛犬の代わりに向き合っていた。キュウコンといえば皆様ご存じ、「お稲荷さん」の名で親しまれる稲荷神が有名である。そのため筆者も初め、ここもその一つなのだろうと思い、折角なのでお参りをすることとした。今にも自然の中に還ってしまいそうな、木製の祠は、それはそれで情緒があって良い。先述したとおり、賽銭箱はなかったので手を合わせるだけとなったが、その時である。筆者は目を疑った。
 『――水神』。
 風化した文字は読みづらかったが、間違いなく祠にはそう書かれていたのだ(水神の文字の前には地名が書かれていたため、申し訳ないが伏字とさせていただく。重要なのは『水神』の部分であるので、問題はあるまい)。
 さて、キュウコンといえばポケモンの知識に明るい皆様であればご存じであろうと思われるが、炎タイプである。水タイプのキュウコンを少なくとも作者は見たことがない。もしかすると、読者様の中には水タイプのキュウコンをみたことがあるという方がいらっしゃるかもしれないが、しかし。それでもやはりキュウコンといえば炎タイプであるのが通説であろう。話を戻すが、キュウコンなのに、水神とは。はて、と不思議に思った筆者は時間の余裕があったこともあり、地元の方々に尋ねてみることにした。……尤も、地元の方に聞けばすぐにわかるだろうと思った筆者の考えは、すぐさま撤回せざるを得ない結果となるのだが。
 聡明であられる読者様はすぐにその理由を察してくださるかもしれないが、放置されて久しい祠の由来を、「地元の方であれば知っているだろう」と考えることに無理があった。お年を召した方の中には「キュウコンってのは水を操るんじゃないのかい? だから水神なんだろう?」と首を傾げる方もいらっしゃったのだが、思えば確かに携帯獣学の権威、オーキド博士によりポケモンのタイプによる分類法を提唱されたのは、博士のご年齢を考えると数十年前のことである。オーキド博士よりも年上の方、つまり六十を超えた方々の中に「キュウコンが水神として祀られている=キュウコンは水タイプ」の方程式が成り立っていてもそれは仕方がないことだろう。
 さて、地元の方に聞けないとなると出番となるのは情報社会の申し子、インターネットである。その日のうちにはそれ以上時間が取れなかったため、筆者が帰宅してからとなったが、調べてみるとその祠とは別に、もう一つキュウコンを水神として祀る社があることが分かった(祠の方はやはり検索には引っかからなかった)。祠があった場所とは少し距離があったが、あの祠よりはもっとしっかりした社を持っている。きっと元は同じであろうと、別日に筆者はその社を尋ねてみた。が、先に記しておこう。細かい由来はこちらでもわからなかったのである。
 社のある場所で聞き込みを行うと、ある地元の方は、炎を操る獣、つまりキュウコンが荒ぶる水の神を鎮めたのだと教えてくださった。キュウコンは炎タイプであるが、それは治水の象徴であると。なるほど確かに直接的に水を操る水神ではなく、治水の象徴としてならばなんとなく理解できる。大雨の後などに起こる川の氾濫を抑える、ということなのであろう。『日本晴れ』が使えたり、『日照り』の特性を持つキュウコンであれば適役といえなくもない。だが、炎タイプというのがどうにもいただけない。タイプ相性で見れば水こそが火を制するのだから。
 また地元の方の中には、雨を操ったキュウコンが水神として祀られたのだと教えてくださった方がいた。その狐が望めば雨が止んだという。これは、水タイプのキュウコンがいたということであろうか。もしくはまだ発見されていない水タイプの狐ポケモンがいて、それを地元住民が良く知るキュウコンの姿に刷り替えたのであろうか。世界は広く、まだ発見されていないポケモンも数いる。が、これもやはり根拠に欠ける。
 また、この社を管理する宮司は、こう答えた。
「元々別の所に住んでいたキュウコンがやってきて、それがいわゆる『日照り』特性のキュウコンだったそうなんですね。で、幾日も降り注いだ雨を止ませたのだと、伝書にはそうあります。そこからキュウコンが雨を自由に操れるというイメージが生まれたのではないでしょうか。そして、日を照らし、水の量を調節するという意味で治水の象徴として祀られたんでしょう」
 もう少し細かく、と食い下がる筆者に宮司は頭を掻いて、苦笑した。
「伝書というのは、ご存知かもしれませんが、必ずしも正確に伝えられるとは限らず、写し手の勝手な想像や推察が入ることがあります。この話も少し古い伝書を漁ると、ポケモンがウインディだったり、キュウコンだったりまちまちなんですよ。本当にキュウコンだったのかさえ今となっては疑わしいのです。さらに、どこか別の所からやって来たという話も、元々ここに住んでいたキュウコンだという話もあるのです。日を照らす、『日照り』キュウコンが雨の少ない土地から迫害されてこの地に逃れてきたのだという話、雨雲を操るキュウコンが幾日も雨が降らないこの場所を憐れんでやって来た話、さらにはこの地に住むキュウコンがあまりにも日を照らし続けるので、水に飢えた人々がキュウコンを殺ししまいその霊を慰めるために祀ると雨が降ったから、という話まであります。もう、由来は元の形を失ってしまっているんですよ」
 これ以上は分かりません、と申し訳なさそうに首を振る宮司に礼を言い、数日後、筆者はもう一度あの、自然の中に還りかけている祠を訪れた。
 向かい合う陶器のキュウコンは黙ったままで、宮司の言葉が胸をついたものである。
 川を流れる石が海に近づくにつれて元の形を失うように、この祠も風化し、元の意味を失ってしまっているのである。まるでもうこの時代には必要ないと言わんばかりに。
 細かい由来が不明のまま筆をおくことについて、心より謝罪する。またこの話について進展があったら筆を執らせてもらうつもりであるので、どうかご容赦願いたい。だが、少し読者様も考えてみてほしいのだが、元の形を失ったものというのは筆者の周囲の限りではなく読者様の周りに沢山あるのではないだろうか。伝わるうちに形が変わってしまって、元の形がわからなくなったものは、多くあるのではないだろうか。元の形を失ったことさえ分からなくなっているものが、溢れ返っているのではないだろうか。
 凄惨な歴史は塗り替えられ、優しく美しものへ。
 童話の継母の悲惨な最期は、改心に成り代わり。
 伝わるうちに、優しく、美しく、丸く、物語は姿を変えている。
 
 キュウコンがどこからきて、どこへ向かったのか。
 始まりは祠と社、どちらだったのか。
 本来ならば『焔神』とされるはずのキュウコンが『水神』とされた由来は何だったのか。
 今となっては全てを正確に語る術を誰も持たないのである。
 ただ、その祠はひっそりと、滅びを待っているようであった。