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18 おいでおいで フミん(HP


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 散歩中に突然、何の予告もなく母が自分の母校を見たいと言い出した。肉親の気まぐれによって、これまで乗ったことのない色の電車に乗り、人がまばらな駅へ降り立つことになった。
 そこは、これまで来た駅よりもずっと印象的だった。先ず、改札を出て外に出ると直ぐに坂がある。坂に沿うように個人商店が立ち並んでいるが、時刻は午後三時を過ぎたばかりだというのに半分以上がシャッターを閉じて沈黙を守っていた。歩いている人間やポケモンは年寄りが多く、低い気温を纏った穏やかな風が肌を撫でてくる。もう直ぐ五十近い小さな母の背中を追う。少し歩けば住宅街、錆ついた標識、昔からあるらしい古いコンビニ、そして大きくて真新しい建物。
 母が通っていた母校は、昔は偏差値が低く馬鹿が通う高校と呼ばれていたが、今では立派な進学校であり、毎年有名な国立大学へ何人もの生徒と進学させている名門校へと変貌していた。今では、母が若い頃の黒歴史を完全に塗りつぶし、真新しい校舎と共に子供の学力向上へと貢献している。途中、笑顔の母親と自分に向かって何人もの高校生が挨拶をしてきた。学力だけではなくそれなりに雰囲気も良いのだろう。勝手にそう思った。
「途中にあったコンビニに寄り道をすると、先生に怒られたものよ。でも品揃えが豊富だから、教師の目を盗んで急いで買い物するの。友達と役割分担してね」
 自らの過去を振り返り、母校の更に奥へと歩いていく母。いつまでも上り坂が続き、逆に自分が息切れを起こしてしまう。必死に後を追い歩いていく。ここに辿り着いて初めて車を見かけた。引かれないよう道のわきへと逃げる。途中、自動販売機でお茶を買う。母親が財布を出す前に僕が小銭を入れた。別にこれくらい払うと母は不満そうに口にしていたが、僕は無視することにした。
 母と僕と、お茶のペットボトルを手に持ち昇る。
 その先にあるのは古い神社。家々に囲まれたこじんまりとした土地には、赤を基調とした拝殿があった。
「ここの桜が綺麗でね。毎年足を運んでいたよのね。懐かしいなあ」
 しかし、今の季節は冬。どうせなら春先に来れば良かったのにと思ったが当然口にはしない。
 賽銭を入れて手を合わせる。心の中で、お邪魔しますとだけ言っておく。
 目を開ける。近くでスクーターが通り過ぎる音がする。母は、拝殿の右側の細い道を歩いている。僕は、ため息をついて母を追う。今日の母は、いつも以上に無茶をする。
僕の母は女の人にしては珍しく、デパートへ行った時も余計な買い物はしないためにと目的の店に行ったら直ぐに帰ろうとするし、食品を買っている時も余計なモノを買い物かごに入れようものなら結構本気で憤怒する。行動一つ一つに無駄がない彼女が、こうして思い出を振り返るなんて行為をするなんてもちろん初めてのことである(少なくとも僕が見るのは初めてだ)。故に今日というのが新鮮に感じてしまう。
 彼女が目指していたのは、参拝者を出迎える立派な拝殿ではない。その奥にある、もっと小さな場所。
 古い屋根、埃だらけのしめ縄、汚れた賽銭箱、その奥には人が入れるくらいの穴。建物ではなく、山に屋根と床をくっつけているだけのようだった。
 母は、絶対に神主が掃除をしていないであろう賽銭箱に、迷うことなく千円札を入れた。
 僕はただ、ぽっかりと口を開けた穴を見ていた。どんなに鈍感であっても、ここにはそれなりの神様が祀られているのが分かる。
 昔から、未知の領域というものが好きだった。潰れて閉鎖された工場、人が住んでいるかどうか分からないような幽霊屋敷、自分が通っていない学校、昔はどこか未開の地へ冒険するような心もちで、様々なところへ侵入しては目の前にいる母親に叱られ頭を殴られたものだ。
 そんな好奇心は、社会人になった今でもあまり薄れていない。
 幼い頃だったら、皺が多い母親が祈る穴へ迷わず入り込んでいただろう。
 やがて祈りつかれたのか、母は祈るのを止めて体を伸ばす。意識が戻ってくる。
「帰りましょうか」
 そう言う彼女の目には、既に過去を振り返っていた純粋な眼差しは消え失せていた。子供の頃に恐れた例外に対して非常に厳しい母の眼差し。
 僕は黙って神社を後にする。今度は、母親が僕の背中を追う形になる。少し進んでは母がきちんと着いてきているかどうかを確認していたら、そこまでやわじゃないと叱られてしまった。
 下り坂は思ったよりも急で、正直昇るよりも降りる方が辛い。普段歩かない足がここに来て悲鳴を上げる。後日きっと筋肉痛になるのだろう。明日は休みだという母親を恨めしく思う。
「今日は、付き添ってくれてありがとうね」
 突然の感謝に僕は振り返る。住宅の間から差し込む太陽が母親を照らしている。目を細めながら気にしないでと言うと、彼女は早歩きで僕を追い抜いて行く。行き先は、学生時代に行くと怒られたというコンビニ。
「今度は私が出すからね」
 有無を言わさずに店内へ入る母。笑って後を追う僕。
 気まぐれによって作られた時間、親子で共有したほんの少しのひと時を、僕と母はきちんと噛み締めることができた。
 
そんな母は、桜が咲く前には眠りについた。


 ここのところ、どうもあの時のことが頭に浮かぶ。
 母が亡くなった時は流石に数日間会社を休み、家で独りひっそりと涙を流す日々が続いていたが、大切な肉親が仏になって行くべき場所へと旅立ったのはもう数ヶ月の前の話で、いつまでもくよくよしていられないのだが、生憎僕は未練がましい情けない奴らしい。
 別に熱心な宗教家でもない。確かに名前も知らないあの神社に一生の思い出は出来てしまったが、特別良い場所かと言われたらそうでもない。確かに桜の木は立派だったし、拝殿も洞穴も立派に祀られていたが、きっと、いや恐らく、母の気まぐれで案内されなければ、死ぬまであそこに行かなかったのではないか。それくらい地味で偏屈な場所にある神社。後に気になって調べてみたが、特別有名な観光名所でもない。人間の記憶から忘れられ始めている神社だろう。
 やはり僕は、母の死を受け入れていないのだろうか。
  仕事をしながら考察したが、それも違う気がした(となれば、そこまで情けない奴ではないかもしれない)。例えば今のように仕事をしている時、休日を合わせ友人と気ままに出かけた時、あるいは家の中で落ち着いて読書を楽しんでいる時、冷蔵庫に限界まで詰める食材を買いこんでいる時、浮かれ気分のまま夜の街で独り散歩をする時、そんな何気ない日常の合間に、ふとあの日の光景が思い浮かぶ。閑散とした駅を降りて、古ぼけた神社まで歩いていくあの日の思い出。
 進みに進んで、いつも終わりは穴の前。
 近くに母はいない。脳裏に浮かぶ景色には自分一人。
 休日になれば、ついつい電車の切符を買ってあの駅へと行こうとした。だが、車内で駅員があの駅の名前を呼ぶ度に、僕は電車を降りられないでいた。まばらに人やポケモンが降りる流れに乗れない。何かが僕を引きとめた。それは僕自身の中にある恐怖心なのか、それとも、もうあそこへ足を運んではいけないという生物的本能による回避行動なのか。いずれにしても、先日も僕はあの駅へと降りないでそのまま駅を通り過ぎてしまったところだった。
 切符を無駄にする日々。
 休憩時間が終わり長いため息が漏れる。喉が渇いて、炭酸の抜けたコーラを口にする。帰宅時間になる。残業をせずに早く帰れと上司が脅してくる。仕事を区切って逃げるように会社を抜け出す。恋仲と待ち合わせる。適当にファミレスに入ることになる。
 自己解決する予定だったが、どうも何ヶ月も同じことで頭を悩ませるのが馬鹿らしくなり、ついに僕は、目の前に座るスーツ姿の恋人に胸の内を告白することにした。
「面白い話ね。小説としてまとめてどこかの新人賞に応募すれば、一次審査くらいは通るんじゃない?」
「せめて最終審査までは残って欲しいなあ」
 店員がお冷とおしぼりを置いて行く。僕は、平日仕事帰りに彼女と会うのが好きだった。何故なら、その時には必ず彼女はスーツを身につけているからだ。髪をまとめて、体のラインに沿ったスーツを着こなす彼女は、それは格好良いのだ。仮に僕が女だとしても、美しいという感想を持つと思う。自慢のガールフレンドだ。
「メニュー決めた?」
「決めた。僕はオムライス」
「じゃあ私も」
 インターホンで店員を呼ぶ。同じメニューを二つ。彼女だけはデザートセットを追加する。店員が義務的笑顔を見せて立ち去る。
「あまり神社に通うと、神様に気に入られちゃうから注意しなさい」
 唐突に放たれた彼女の言葉は、まるで赤の他人が喋っているのではないかと思うくらいに張りがあって、聞き取りやすい声だった。仕事中の彼女を知らないが、きっとこんな感じで声を作っているのだろう。
「思い出した。小さな頃、おじいちゃんがそんなことを言っていた。まさに、今のあなたにぴったりな言葉ね」
「同じ経験をしたことがあるの?」
「私じゃなくておじいさんがね。まだ若い頃に、たまたまある神社の神様とお友達になったんだって。でも、仲良くなりすぎて、親の都合でその地域から離れることになった時、数日間高熱に悩まされたらしいの」
 僕は、話に真面目に耳を傾けながら、黙って水を口に運ぶ。
「いくら薬を飲んでも点滴を打っても治らなくて、有名な病院の看護も全く効き目がなかったらしいの。ついには、きちんとした人にお祓いをして貰ったんですって。これまでの治療費よりもずっと高くついたけど効果は抜群、漸く体調は改善された。そんな経験もあって、おじいさんは死ぬまでその神社を訪れなかったらしいわ」
 彼女も水を飲む。向こうは真顔の僕とは違って少し楽しそうに話す。
「おじいさんは、その時婚約していたんですって。きっとそれが理由ね、神様に嫉妬されたのね」
 しかし、彼女の目だけは虚ろだった。きっと、僕と一緒で疲れているのだろう。
 掛け声と共に、同じ形のオムライスがテーブルに置かれる。
「おじいさんはね、やっぱり違う次元の生き物とは仲良くなれないんだなと、切なそうに語っていたわ」
 空っぽの胃袋に規格通りに作られたオムライスが入っていく。
「君は神様には会えたの?」
「会えてない。ただ、母親に付き添っただけ」
「じゃあ呼ばれているのかもね。そして、あなたを引きとめているのは、亡くなったお母さんかも」
 非常にまぶたが重そうだった。眠気に襲われているのは僕も同じで、体を横にすれば、このお粗末なこのソファーでも寝てしまえそうだった。
「でも良いなあ。身近な人がそういう非現実的な経験をするなんて。正直羨ましい」
 唇を舐める彼女を見ていると、実に色欲がそそられる。唾を飲み込む。
「私なんて何にもない。電車に揺られて人とポケモンの波に流されて、作り笑いをしながら昨日と同じ仕事をしてただ帰るだけ。一度で良いから、そんな奇妙な体験をしてみたいな」
「僕は、そんな話を聞いてしまったから恐くて仕方がないな」
「いずれにしても、誘われないように気をつけないといけないわね」
 いつのまにか彼女は、割り当てられた夕食を腹に収めていた。店員を呼んでデザートを持ってくるように促している。恋人は、食べ物を食べるのが実に早い。
「誘われないでね?」
 真顔になる恋人を見ると、訪れていた眠気は自然と吹き飛んだ。
「もちろん」
 本心から呟く。彼女の方も僕の心を読み取ってくれたようで満足そうに頷く。
 そう、僕はまだ誘われる訳にはいかない。母が亡くなり、久しぶりに再会した高校時代の同級生を好きになってしまったのだから。少なくとも、目の前に座る突然の誘いにも乗ってくれる優しい想い人を見放すことはできる筈もない。
 恋人の推理を信じることで実態のない恐怖を払拭することにする。唯一の肉親が守ってくれているという想像は、自らの不安を取り除くきっかけとしては最適だと思った。今度の休日、線香と花を持って母の墓にお礼を言いに行こう。そう思う。
 しかし、それでも消えないあの幻。目を閉じれば、目蓋の裏にはあの一こま。
 駅を降りて、神社まで歩いて、終わりは穴の前。
 結局、最後まで思考の一部は支配されたままだったが、彼女と更に語り、時間を共有することで、この乱れた感情を整え安らぐことにした。
 
数日後、大事な恋人は、道を歩いている時に見知らぬ車に跳ねられて絶命した。


 世の中は理不尽だと思った。世間は、常に不平等なのだと再認識する。
『人には、生きているうちに、幸せ五十と不幸五十が均等に来るようになっている。今が辛かったら、将来には幸せが沢山来る。そういうことだ』
いつだったか、幼い頃、小学生の担任にこう言われたことがある。
 昔は、なんて良い言葉だろうと思った。この一言のお陰で、真っ先に逃げ出したい一面でも、この瞬間を耐えれば必ず幸せが来るものだと信じて疑わなかった。時には歯を食いしばる程に悔しい気持ちになる出来事もあったが、感銘を受けた言葉を胸に今日まで生きてきた。
 だがどうだ。大切な人を二度も失った。この不幸は五十のうちいくつなのだ。もう僕に不幸せは来ないのか? いや、そんな筈はない。ならば、毎日嫌々早起きするのも、満員電車で潰されるのも、行きたくない会社へ赴くのも、やりたくない仕事を黙々とこなすのも、無駄に高い居酒屋で聞きたくもない上司の愚痴を聞かされるのも、終電まで家に帰られないのも、これらが全部幸せだというのか。いや、絶対に不幸の類に違いない。そうなれば、母と恋仲が居なくなった苦痛は大した不幸ではないことになる。つまり、これからの人生、更に辛いことが待っている。
 これから、割り当てられた不幸を全て受けきる自信はない。五十も経験できる筈はない。
 明日から不幸は一切来ないのか。そんな筈もない。
 僕はもう、苦しみたくはなかった。
 スーツを着て駅へと向かう。母親が最後に行きたがったあの場所へと向かう。平等に発行される電車切符を、手汗が酷い左手で握りしめる。会社へは、熱が酷いと嘘の連絡をした。普段唐突に休めば多少の嫌味を吐く上司も、最近恋人が亡くなったことを知っているからか「明日も休んで良いから気分転換をしてから戻ってこい」と言うだけで特に咎められることはなかった。少々悪い気はしたが、合法的に労働をしなくて良いなら甘えてしまうに限る。
 それに、もう戻る気はない。
 あの日を同じように車内に声が響く。あの駅名を呼ぶ。席を立ち、扉の前に立つ。僕以外に降りる者はいない。皆、沈黙を守っている。扉は、聞き覚えのある規則的な音を立てて開いた。
 その時、誰かに背中を押された気がした。
 よろけながらも駅のホームに降り立つ。同時に通り過ぎた扉が閉まる。電車が僕を置いて行く。
 アスファルト、はみ出してはいけない黄色の線、薄汚れた小さなベンチ、無駄に大きな広告、白い自動販売機。哀愁漂う場所に立つのは自分独り。
 何故か、自然と笑みがこぼれた。妙に嬉しく感じた。
 改札を出て外にでれば直ぐに改札。坂にならうように立ち並ぶ個人商店は、現実を受け入れ灰色のシャッターを閉めている場所が多い。この前とは違い、歩く人間も、ポケモンもいない。穏やかな風だけがあの日と変わらない。

 僕はあそこから呼ばれていた。数ヶ月の間絶えず呼ばれていたのだ。

 住宅が立ち並ぶ場所、標識、何十年は不動のコンビニ、近くに建つ首を上に傾けないと全体が見えない程の大きな建物。そこは母が通っていたという母校。地元からは勉強ができない馬鹿が行く場所だと後ろ指を刺されていたそうだが、月日を重ねた今、そんな古い過去等皆が忘れてしまうくらいの有名校にのしあがった。この地域一帯ではトップに君臨し、通う生徒の印象が良いと評判らしい。僕は、そんな立派に変わった高校を通り過ぎる。
 あの日、母の母校を見たのは初めてだった。常々、私は頭が悪いからあんな高校にしか行けなかったと呟いていた。だが、母は誇って良い。頭を使う勉強はできないかもしれない。それでも、息子である僕を、一人の人間を成人になるまで育て上げたのだから。それに、母校は成長を続けている。僕とは違い衰退していない。
 
 母が死に、恋人も亡くなり、親戚も居ない僕は独りぼっち。失うものは何もない。まっさらな状況。

 途中にあったコンビニで小さな日本酒を二つ、ビールを一つ買った。二つの日本酒のうち、一つは自分用、もう一つは手招きしている神様用だ。ビールは母親用だ。
 もちろん、社会人が寄り道をしても怒られることはない。

 これは、全て仕組まれたことだろう。神様が僕を呼ぶために準備を整えたのだろう。
 
 手元に既に飲み物はあるが、自動販売機で飲み物を買うことにした。今度はお茶ではなく炭酸飲料。小さな頃なら、体に悪いから止めなさいと母から怒られていたことだろう。
 少しでも健康に悪いものを体に通さなければ、僕は正気に戻ってしまう。それだけは避けたい。この夢のようなまどろみを失いたくない。もう、これまでの日常には用はないのだから。
 液体に含まれる圧縮された空気が喉を刺激する。勇気を取り戻した僕は更に坂を昇る。
 そして入り口が見えた。
 鳥居の向こうは神様の領域。遠慮することなく踏み入れる。
 最後に、一度だけ外の世界を見る為に振りむいた。もう二度と戻ることのない現実。混沌の日常。これからは、世間の荒波には巻き込まれる必要はない。頬が緩む。
 拝殿を一瞥し、更に奥へと向かう。
 古ぼけた屋根、薄汚れたしめ縄、元の色が分からない賽銭箱、全てを呑み込むような穴。
 その奥には神様がいた。
 黄金色の毛並み、細い顔、特徴的な鼻、夕焼けのように紅い瞳。四つ足の生き物が、穴の奥から僕の事を見つめている。穴の主は僕の存在を確認すると、ゆっくりと首を縦に振った。
 キュウコン。恐らくは、ここで祀られている神様。
 夢かまぼろしか、しなやかな巨体の側には母がいる。
『疲れたのかい?』
 耳に響くのは、あの優しい肉親の声。
 疲れたよ。でも原因は神様にあると思うんだ。神様が僕の生きる希望を奪ったんだ。
『辛い思いをしたね。でも、神様に悪気はなかったんだ』
 悪気はなかった。随分と身勝手な発言を耳にしても全く怒りが湧いてこない。以前の自分ならば憤怒していただろう。
母さんは、どうしてここにいるの?
『昔ね、お父さんとここに来たんだよ。その時にはお前を身ごもっていた。でも運命のいたずらか、お父さんは重い病気を患っていて既に余命を宣告されていた。駆け落ちした私達に頼る人間はいない。だからこの方にお願いしたんだ。父がいなくなった後、お前を、立派な社会人になるまで育てて下さいと』
 落ち着いて座る神様は、食い入るように僕を見つめてくる。
『神様はきちんと願いを叶えてくれた。お父さんが亡くなった後は、一切お金に困ることなく、汚い仕事もせずにお前と暮らすことができた。でも、幸せな毎日には条件があった』
 それが僕か。そう聞くと母は迷いなく頷いた。
『病気もしない健康的な男に育てるまで見守ろう。その後は自分が貰う。神様はそう言った』
 なるほど。最初から自分の運命は決まっていたのか。神様は、実に嬉しそうに声を上げる。
 僕なんか貰っても良い事はあるのだろうか。ただ単純な疑問が沸いたが、あまり深く考えないようにした。
 最初から、僕には鎖が繋がれていたのだ。
『あの日、一緒に神社へ行った時、私はお礼と謝罪をしたんだよ。死ぬまで息子と暮らせた一生分の幸せへの感謝と、身勝手で将来を決めてしまったお前への謝罪を』
 母の姿が薄れていく。神様が前足で手招きをする。
「僕は幸せだったよ」
 例えこんな結末だとしても、あなたと暮らしてきた十数年は確かに充実していました。
 それは、確かに本心だった。
 母は涙を溜めながら姿を消した。
神様を見る。表情豊かに微笑みながらひたすら僕に手招きをする。おいでおいでと。こちらへおいでと。

 あわよくば、神様と暮らす毎日が全て幸せでありますように。
 精一杯に心から願いながら、誘われるがまま足を踏み出した。