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20 駈天狐(そらをかるきつね) 穂風湊


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 一、

 昔々、稲伏(イブセ)という集落のすぐ側に広い森がありました。そこには様々な鳥や獣が住み、多種にわたる木々が生えていました。その中で人間達によく知られていたのが、狐の母子でした。子狐はまだ幼く毛は赤茶色、瞳は栗色でくるりと巻いた六本の尾を持っていました。一方母狐は、毛並みは輝く金で見据える瞳は紅玉の色、揺れる九つの尾は見たもの全てを惹きつけたと言います。
 母狐は高い妖力を持ち、その力を用いて度々人間達に悪戯(いたずら)を仕掛けていました。ある時は食料を奪い、またある時は人間に化けて欺いたりと、人々は何度も頭を悩まされました。捕まえて懲らしめようにも、母狐は不思議な術を巧みに使い、何事もなかったかのように子狐の元へ帰るのです。そのうち母狐が悪さをしても、いつものことかと諦め半分になる者まで出てきました。
 また、人々が狐成敗に躍起にならない理由はもう一つありました。それは母狐が豊穣の力を持っているとされていたからです。実際に夏が終わる頃、母狐が田を駈けるとその側から稲に穂が咲き村が狐色に染まる、そんな不思議な出来事が起きていました。一斉に稲の背が高くなることや稲伏の地で起こるため、この現象は「狐起(きつねおこし)」または「稲起(いねおこし)」と呼ばれていました。その恩恵から、また度が過ぎた悪さをしないことから、人々は母狐を討とうとは思わなかったのです。そうして母狐と子狐は穏やかな日々を手に入れていました。
 そんな暮らしの続くある秋の日、母狐と子狐は落ち葉の上を並んで歩いていました。その日は長雨の後の待ち望んだ快晴。子狐はいつになく元気に溢れ、母狐の周りを飛び跳ねながら上機嫌に先へと進んでいきました。いつもは嫌いな足下の湿気も、太陽が顔を出してくれた喜びに比べればなんともありません。母狐が落ち着くように窘めますが、子狐は「大丈夫、大丈夫!」と本当に分かっているのか怪しい答えを返すだけです。鼻歌だけでは気分の高揚が収まらず、その場で宙返りもしてみせました。
 ――が、これが失敗でした。
 周りをよく見ていなかった子狐が着地したのは傾きの急な斜面の上。地面が平らだとばかり思っていた子狐は背中から地面に打ちつけてしまいました。さらには湿った落ち葉はよく滑ります。目尻に涙を浮かべながら立ち上がろうとする子狐のバランスを崩すには十分でした。子狐は体勢を直すこともできないまま、落ち葉とともに泥を巻き込んで下へと滑り落ちていきました。
「やっ、助けて!」
 叫んでも速度は収まるどころか徐々に増していきます。やがて視界が開けると、眼前に現れたのは昨日までの降雨で増水した茶色に濁った川でした。轟々と音を立てるそれは、母狐が偶に脅す死神の鳴き声のようにも聞こえました。どうにかしようにも周囲に掴めるようなものはありません。そして、
「ひっ!」
 短い悲鳴を川岸に残して、子狐の体は宙へ放り出されました。
 死の水激がすぐそこまで迫り、もう耳には水流の音しか聞こえません。もう駄目、子狐はそう観念し目を瞑りました。が、
「間に合えっ……!」
 轟音を割って獣の音が響き渡りました。それは大好きな声。主(ぬし)の方を見れば、母狐が必死の形相で坂を駆け地を蹴り、自ら川の方へ飛び出しました。そして空中で見事子狐を顎(あぎと)で咥えると、首を右へ振りその勢いで子狐を陸に投げ返しました。
 子狐は広葉樹の幹に音がするほど背をぶつけつつも、何とか意識を保ち助かりました。けれど母狐はどうなってしまったのでしょう。子狐は濁流に飲み込まれぬよう注意を払いつつ、川辺から首を伸ばします。
「お母さん!」
 目を凝らせば、母狐は荒波にまみれ鼻先だけを水面上に出していました。懸命に前足を掻きますがその功も空しく、後から覆い被さる波に飲まれてしまいます。
 いつもは妖術(ようじゅつ)で難を逃れていく母狐でしたが、相手が"水"であればどうしようもありませんでした。
「お母さん、頑張って!」
 子狐は痛む背中に鞭打ち母狐に併走しますが、声をかける以外に為せることはありません。それでも母狐を見失ったらもう一生会えないような気がして、子狐はただただ声を上げ続けました。
「どうした!?」
 母狐の前足の動きが鈍りもう限界かと子狐が諦めかけた時、人間の男性の声が聞こえてきました。彼は滑落に注意しつつ坂を駆け降り、子狐に近づくと彼女を抱き上げて何があったかを問い質します。まだ人間の言葉を巧く操れない子狐は鼻先を川に向けて、悲痛の鳴き声を出しました。
(お母さん、お母さんがっ! お願い、助けて!)
 子狐の視線を辿り状況を理解した男は、子狐を降ろすと自ら荒波へ身を投げました。子狐は何が起こったのか分からず暫く呆然としていましたが、彼女が気づいた時には男は母狐を下から抱え上げていました。しかし男も濁流に飲まれ思うままに動けません。それを見かねたのが川に棲む鼬でした。彼らの首領が指揮を執ると素早く陣形を展開し二股の尻尾を巧みに使って、荒波に打ち勝ち男と母狐を陸に引き上げました。
 子狐は鼬に礼を言うのも忘れ、母狐に飛びかかりました。そして涙を浮かべ激しく揺すります。
「お母さん、お母さん! 死んじゃ駄目だよ!」
「……そんなに、叫ばずても……聞こえている。だから泣くな」
 母狐はうっすらと目を開けると、娘を安心させるように前足で弱々しく泥だらけの頬を撫でました。次いで視線を移動し、焔色の瞳に男を写します。そして人の言の葉で語りました。
「主(ぬし)のおかげで助かった。真(まこと)に感謝する。いつかこの礼をさせて貰おう」
 御辞儀の代わりに母狐は目を閉じました。
 彼女の言葉に男は慌てて頭(かぶり)を振ります。
「礼だなんてとんでもない。俺はただ近くを通りかかっただけだ。子狐のあの叫びを、そしてお前の様子を見たら誰だってああしただろう。それに助けたのは俺じゃなくあの鼬達だ。だから礼をされるほどの事はしていない」
 男は申し出を断りますが、それでは自分の気が済まないと母狐は食い下がります。堂々巡りになってしまうと観念した男は、後日改めて母狐が来訪することを認めました。
 子狐はせめてもの感謝にと、自身の炎で男の服を乾かし、その日はそれで別れたのでした。

 二、

 それから数日が経ち、空は快晴、母狐の調子も快復していました。
 そこで母狐は先日の件で男の元へ向かうことにしました。果実や茸などの山の幸を集め風呂敷に包み、口を縛ります。そして母狐はその場で後方にくるりと宙返りをすると、狐の姿は消え一人の人間の女性が現れました。母狐が悪戯をする時によく使う得意の術の一つでした。ただ今回はあまり他人の目を引かないよう、控えめな容姿をしています。いつもと違い、豊潤な胸、艶やかな着物、紅のついた口元ではなく、すれ違っただけでは記憶に残らない、そんな化け姿でした。
「では行ってくる。危ないことはするんじゃないぞ」
「うんっ!」
 子狐は母狐に頭を撫でられ、気持ちよさそうに目を細めます。そして六つの尾を左右に振り、母狐を見送ったのでした。

 母狐の様子がおかしい。
 子狐がそう感じたのはこの日からでした。母狐が言うには、礼の品を渡した日に、自分が狐であることを打ち明けたそうです。理由までは話してくれませんでしたが、信頼出来そうだから、そんな事を頬を赤らめつつ漏らしていた気がします。母狐は男に惚れている、子狐が気づくまでにそう時間はかかりませんでした。
 母狐は質素な女性の姿に化け、町へ出かけることが多くなりました。目的は以前のようなからかいではなく、一人の男と会うため。翌日の朝まで母狐が帰って来ず、独り寂しく夜を過ごす日数も徐々に増えていきました。
 そして時は流れ季節が一巡した頃、ついに母狐と男が婚約の契りを交わしました。上機嫌で告げる母狐の報告を子狐は複雑な面持ちで見つめていました。
 父狐は物心ついた時には既にいなかったので、今更父親が変わろうがそれは特に問題ありません。けれど子狐が気に入らなかったのはもう一つのことでした。母狐と男が結ばれるということは、おそらく一つ屋根の下で過ごすことになるのでしょう。そうすれば母狐は今までよりさらに男と一緒に過ごすようになり、自分に構ってくれる時間が減ってしまいます。それに人の社会に溶け込むので母狐は人間の姿で暮らすはずです。そうすれば柔らかい毛皮に抱きつくことも出来ませんし、冷える夜中に暖かい九つの尻尾に潜ることも叶わなくなります。確かに喜ばしいことなのですが、同時に宝物を幾つも失ってしまう気がして、子狐は素直に祝福出来ませんでした。
 それでも我儘を言って母狐を困らせるのは避けたいことでした。自分が悲しくなるのはもちろん嫌ですが、大好きな母狐の悲しい顔を見るのはもっと嫌だったのです。なので子狐はそれらの不満を全部飲み込んで精一杯の笑顔を作り、「おめでとう」そう言ったのでした。
 それから母狐は村に移り、男の女房として生活を始めました。子狐は人間の姿をし人間の暮らしをするのは窮屈だからとそれらしい理由を付けて、独りで森で暮らすようになりました。が、本当のところは仲睦まじい母狐と男の間に挟まれるのが辛かったのです。予想した通り母狐は男に付きっきりで自分には以前ほど相手をしてくれません。実際には子狐は他の仔達に比べ愛されていた方ですが、「お母さんは私よりもあの人の方が大事で大好きなんだ」そう思い込んでいる子狐が気付くことはありませんでした。
 以来、甘えん坊だった子狐は一匹でも生きられるよう様々な努力をしました。食べ物の好き嫌いも無くしましたし、雨の日だって誰の手も借りずに上手くやれるようになりました。時々母狐が様子を見に来るのですが、子狐は母狐を顔を合わせるのが気まずく、たなびく尻尾を見かけるとそそくさと姿を隠してしまうのでした。
 そうして微妙な距離が開いたまま時が過ぎていったのでした。

 三、

 それは季節が三巡半ほどした春のことでした。
 男は都の方に用事ができ、そこへ向かうことになりました。稲伏から都までにはやや距離があり、往復で数ヶ月もかかります。それに母狐が着いてしまっては食費や通行料などの出費が嵩(かさ)み、男の迷惑になるだろう。そう考え母狐は稲伏で帰りを待つことにしました。
 長らく男が家を空けるのなら、久々に子狐と獣の姿で山で過ごすのはどうだろう。そう思いついた母狐は家の仕事を片づけると家を後にしました。
 村の外れに出て周りに人の気配が感じられないのを確かめると、その場で宙返りをしました。すると女性の居た場所には金毛の狐が現れ、満足げに九つの尾を揺らすと、森の中へ駆けていきました。

 一方その頃、子狐の方にも心境の変化がありました。いつまでもつまらない意地を張っていてはいけない。母狐としっかり話をしなければ。けれど今まで母狐が来るなり逃げていたのに、突然そうするのも気恥ずかしい。なかなかきっかけが掴めずにいたのでした。
 そんな子狐の元に母狐が「しばらく“ふたりっきり”で一緒に暮らそう」、そう言われた時の子狐の喜びようは、森の綿鳥達が紡ぐ歌など比べ物にならない程歓喜に満ち溢れていました。嬉しさのあまり、子狐はいつかの甘えん坊に戻ってしまいましたが、子狐も母狐も、森の皆も咎める者はありませんでした。
 それからは“いつも”の日常に戻っていました。昼には二匹で木の実を採りに行き、夕方には向かい合って食事をし、夜には母狐の尻尾に潜り込んで夢に入る。全てが子狐の理想通りの生活でした。三年以上の孤独もあり、子狐は一時たりとも母狐から離れることはありませんでした。それだけで子狐は幸せでした。

 そんな子狐の幸福を打ち砕いたのは、またあの男だったのでした。

 四、

 夏が過ぎ秋が見え始め、そろそろ「あの」時期になりました。村を金色に塗り変える「狐起」です。
 村の端に立ち、深緑の田の海を眺め、母狐は「ほう」と感嘆しました。今年は珍しく田植えの時点から母狐自ら協力したおかげか、例年よりもさらに出来映えが良く見えました。この海に母狐は飛び込んで行くのです。
「お母さん、行ってらっしゃい!」
 母狐の首元に子狐が鼻先を寄せます。彼女の頭に前足を置いて宥めると、そのまま子狐の額を撫でました。
「よく見ておくんだよ」
「うん!」
 子狐の返事を合図に母狐は駆け出しました。
 母狐が過ぎ去った道を中心にして、円上に次々と穂達が顔を起こします。突然目を覚まされたことに驚いて、青緑色だった表情は、ぽっと金色になり村中を狐色に染め上げていきます。
 集落から歓声が上がったのは、それから僅か数分後の事でした。

「お母さんおかえり! 今年も凄かったよ。まるで染め物みたいに階調が綺麗でね――お母さん?」
 再び森に帰ってきた母狐を子狐は満面の笑みで迎えましたが、足取りが定かでない母狐の様子に、子狐も表情を曇らせます。
「お母さん、どうしたの?」
 子狐の純粋な問いに母狐はぽつぽつと答えました。後で思えばここで訊かなければよかった、語ることで母狐が事実を再認識してしまうから。そう考えても後の祭りでした。
 母狐が村の奥から引き返すとき、こんな噂を聞いたそうです。
 男が病に伏していて命が危ないと。
 つい先日都から帰ってきた男が言うのだから、信憑性には欠けません。それを聞き母親は居ても立ってもいられなくなりました。
 けれど男の元へ向かいたくとも、都までにはかなりの距離があることを知っていましたし、そもそも正確な都の場所が判りません。母狐はもどかしい思いをしつつも、どうにも出来ずただ森で気を焼くだけでした。
 その様子をつまらなそうに見ていたのが子狐です。やっと母狐が自分だけに構ってくれていたのに、男の名前が出ただけでこの様子です。楽しいはずがありません。
 ずっと母狐と一緒にいられさえすればいいのに、どうしてその願いは叶わないのか。子狐の胸の内もまた渦巻いていました。

 ある晩のことでした。
 子狐が塒(ねぐら)でふと目を覚ますと、いつもより肌寒い気がします。眠い目をこすって首を左右に振ると、母狐の姿が見当たりません。毛布代わりの母狐の尻尾がないのだから、寒く感じるのは当然のことでした。
 では母狐はどこに行ったのでしょうか。子狐は嫌な予感を胸に洞穴(ほらあな)から這い出ました。道を聞こうにも大抵の獣達は眠っています。子狐は誰かに尋ねることも出来ず、ただ歩き回りました。
 しばらくして、枝の上で談笑をしている夜木菟(ヨルノズク)と闇鴉に出会いました。少々怖い雰囲気がしましたが森一番の物識りとその友なので何か知っているかもしれません。子狐は勇気を振り絞って声をかけました。
「夜中にごめんなさい。私のお母さん――金色の狐を見てない?」
 すると闇鴉と夜木菟は思ったよりも優しい調子で答えてくれました。
「それならさっき見たぜ」
「向こうの丘に行ったはずだ」
 羽先で示した方角に顔を向けると眩い光が木々の間から見て取れました。子狐の不安はますます高まり、二羽にお礼を言うと一目散に駆けていきました。
「お母さん!」
 林を抜け原に出ると、二羽に言われた通り、探していた姿が丘の上にありました。けれどどこか様子がおかしいのです。
 子狐は一歩また一歩と、地面の感触を確かめるようにゆっくりと前へ進みました。
「お母さん?」
 細い子狐の声に気付いたのか、母狐は満点の夜空から子狐の方に視線を移します。
 その母狐は既に子狐の大好きな“お母さん”ではなかったのでした。
 あの男と会う時の素朴なそれでいて美麗な人間の姿だったのです。足下は光の粒子となって宙に消え、子狐がおそるおそる前足を出すと、母親の体を抜け空を掴むだけでした。
「ねえ、お母さん?」
 子狐が呼びかけると母狐は今までで一番の微笑みを返しました。そして鼻先を再び空に向け――
 光となって消えていきました。
「おか……あ……さん……?」
 あとにはただ一匹、子狐が残されたのでした。

 五、

 それから数日後、稲伏に豪雨が訪れました。
 野分(のわけ)よりも激しいそれは川を溢れさせ木々の葉や枝を契ります。
 その中を子狐は重い足取りで歩いていました。焔の属性を持つ彼女が嵐の中を歩くのはかなり危険です。けれど子狐は「お母さんお母さん」と譫言(うわごと)のように呟き、虚ろな瞳で前方を見つめるのでした。母狐に負けず劣らず美しかった毛並みは水を吸って絡み合い、綿鳥のように純白な腹は泥だらけになっていました。
 母狐が光となって消えた日から、子狐はこうしてさまよい歩いているのでした。
 けれどもう体力の限界のようです。子狐は大樹の根元に辿り着くと、その場で横向きに倒れました。吐息は喘ぐように激しく、高熱も出ているようです。
 それを見かねたのがいつかの夜木菟でした。彼は両足で子狐を掴むと、大樹のうろ、彼の寝床へと運んでいきました。
「うっ……ううん……」
「気がついたか」
 子狐が目を覚ますと夜木菟がすぐ隣にいました。自分が目を覚ますまで側にいてくれたのでしょうか。そう尋ねると彼は首を縦に振りました。
「雨がずっと降り続いているからな。他に出来ることが何もない」
 夜木菟の視線に沿って外を眺めると、相変わらず水の槍が次々と地面に突き刺さっていました。雨の神、白竜様でもこんな雨は降らせないだろう、と子狐は思いました。では誰が? ――その答えは薄々分かっていました。けれどそれを認めたくない自分も同時に存在し、子狐は夜木菟に数日前と同じ質問をしました。
「ねえ……、私の、お母さん、金色の狐がどこにいるか、知らない……?」
 それを聞き夜木菟は一度息をつきました。一呼吸の間に話の順序を組み立て、そして結論から語ることに決めました。
「お前の母は、流星になった」
「そっか……流れ星かあ……」
「意外と驚かないんだな」
「私も、見てたから」
 何日か前の母狐との別れ。光に包まれたその様子は、星になったと言われてもすんなり信じることが出来ました。
「それでお母さんは……?」
「丘から光が消えた後、北つまり都の方へ星が流れていった。光の尾を棚引かせてな。おそらく愛人の元へ向かったのだろう」
「…………」
 またあの男の名前だ。子狐は露骨に顔をしかめました。それでも黙って夜木菟に先を促します。
 彼が語った内容はこういったものでした。
 星の行方が気になった彼はすぐさま早さ自慢の仲間の大比鳥(ピジョット)に追跡するよう頼みました。空を駈けゆく星の狐を見失わないように賢明に羽ばたくと、やがて二匹は都に辿り着き、星が動きを止めました。それは鳥獣達の間でも噂の、狐の愛人が泊まって“いた”家屋でした。大比鳥は都の隅にとまり、肩で息をしながら星を見上げていました。
 やがて母狐も悟ったのでしょう。間に合わなかったことに母狐は光となった涙の粒子を流し、稲伏へ、娘の待つ場所へ引き返していきました。
「そしてここからは私の想像も入るのだが」
 そう前置きして夜木菟は続けます。子狐はまだ黙ったままでした。
 稲伏に戻った母狐はそこで気がつきました。強力過ぎる妖力の全てを使い果たし変化した姿から元には戻れない。星となった体では娘を抱擁出来ない。母狐は男だけでなく同時に娘と過ごす権利さえも失ってしまったのだと。
 母狐は慟哭し大粒の涙を流しました。
 悲痛の声は雷鳴を起こし天を荒らします。留まらぬ涙は下界に滝のような降雨をもたらします。今も母狐は天で嘆き悲しんでいるのです。
「じゃあお母さんは……」
「あくまで想像、だがな」
 そうは言っても森一番の物識りが言うのです。それに鳴り響く雷(いかずち)は段々と母の声そっくりに思えるようになってきました。
「お母さん……」
 ふらっと危うい足取りで立ち上がると、子狐はうろの出口を目指します。
「おいどこに……」
「お母さんがすぐ近くにいるんだもん。会いに行かなくちゃ」
「だがその様子では」
 夜木菟が止める間もなく子狐は外へ飛び出していきました。うまく着地し一歩を踏み出そうとしたその時、
「いたぞ! 子狐の方だ!」
 人間の声が響きました。夜木菟が声に視線を向けると幾人かの大人が子狐に詰め寄っていました。走って逃げるほどの体力がない子狐はすぐに捕まってしまいます。
「最近狐がおとなしいと思ったら、こんな大技を仕掛けやがって」
「おかげで冬の蓄えが台無しだ。どうしてくれる」
「子狐を甚振(いたぶ)れば、さすがに母親も姿を現すだろう」
 その言葉を聞いて子狐は背筋を凍らせました。視線を上げれば男が木の棒を頭上に構えています。
 子狐は怖くなりぎゅっと目を瞑りました。
 人間達がこんなに怒ってるのは雨が凄いからだ。せっかくの豊作が台無しになったんだもん、当然だよね。それは森も仲間も同じなんだ。ずっと雨が降り続くと皆が困っちゃう。その雨を降らせているのは私のお母さんで。でもお母さんも好きでこんなことしてるわけじゃないんだ。悲しくて悲しくて心が痛くて辛いのはお母さんもだ。お母さんどうやったら元気になるかな。男の人にはもう会えないけど、私はここにいる。ぎゅってできたらどうだろう。お母さんの涙止まるかな。お母さんの尻尾に飛びついたらいつもの笑顔で優しく撫でてくれるかな。

 ――ああ、お母さんに会いたいな。

 胸一杯の感情を込めて子狐は叫びました。
「おかあさああああああああああぁぁぁぁぁん!!」
 子狐の咆吼は森を抜け人里に響き山を越え、そして曇天の空を引き裂きました。雲間から光が漏れ出づり、雨が術に掛けられたように止みました。小さな子狐から発せられたのは日照りの力。子狐の内に秘めた豊穣の源たる能力でした。
 叫びに応じるように開いた空から光が降りてきます。それは獣の姿を象り、そして
「お母さん!」
 何より大好きな母親の姿でした。
 子狐は自分を掴む男に噛みつくと、そこから飛び出し母狐の胸元へ飛び込んでいきました。
「お母さん、お母さんっ!」
 胸に顔を埋める子狐を母狐は光の前足でそっと撫でます。それは確かに暖かく、そして愛しい感触でした。
 それから母狐は紅玉の瞳で人間達を強く睨みつけると、彼らは短い悲鳴を残して逃げ去っていきました。次いで夜木菟もそっと席を外します。
 丘にふたりきりになった親子は長く長く抱き合っていました。
「お母さんもう大丈夫?」
 顔を上げた子狐に母狐は首肯を返します。
 子狐はおずおずともう一つ尋ねてみました。
「お母さん、ずっと私と一緒にいてくれる?」
 母狐は少し考え込み――満面の笑みで頷きました。そして子狐を胸に抱き寄せ、もう一度抱擁を交わします。
「お母さん……大好きっ!」
 子狐の言葉を丘に残し、親子は二筋の光と成って宙(そら)へ旅立ちます。二本は螺旋状に絡み合い灰色の雲を拭い去ると、月に光源を譲り彼方へと飛んでいきました。
 それ以来、満天の星に紛れ稀に二筋の流星が見られることがあると言います。光の尾を引き常に寄り添うそれらはまるで狐の母娘(おやこ)のようです。そして今宵もまたどこかで二匹の狐が天(そら)を駈(か)るのでしょう。