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26 黒色火炎 SB


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 地獄とは神の不在だ。
 私は地獄を知っている。



 1



 三歳になるころ母に言われた。
 私は死なないと。
 私は死ねないと。
 なぜそんなことを知っているのかと尋ねると、美しい瞳をわずかに曇らせて母は答えた。
 神様が、そう教えてくださったのよと。
 炎をはけないその代りに、神様はあなたに永遠の命を授けてくださっていたのよと。
 だからあなたは生き抜いて、と。

 当時、世界はとても狭かった。
 生まれた数か月後に炎の石の洗礼を受け、ロコンだった私はキュウコンに進化した。大きくなった体にとってもこの森はとても広く感じられたけれど、あれだけが私にとっての世界だった以上、世界の面積はとても狭かったことになる。私が話をするのは両親だけ。父と母とこの森だけで、私の世界は完結していた。
 私の母は若くてとても美しいキュウコンだった。私を生んだ頃はまだ百歳も越えていなかったと記憶している。一点の染みもない美しい毛並みが夕日に映える様は、神々しささえも感じられた。
 父も百をわずかに超えた程度の年齢だった。母よりも一回り大きく、四肢は母のそれよりも太く長い。リングマの群れと戦った後だという体の傷跡は、小型のポケモンを震え上がらせるには十分だったけれども、私は傷跡の見える父の後ろ姿を追っていくのが好きだった。
 しかし両親の年齢は、私が三歳になった時に止まってしまう。
 父は私たちをかばって矢を心臓に直接受けたため即死。
 母も矢じりが体内に入ってしまっていたため、猟師の現れた二日後に死んだ。
 父や母を殺した三人の猟師たちの亡骸は、父の死体のすぐそばにあった。父の死体は腐りかけていたが、猟師の死体は腐る気配がなかった。というのも水分がすべて抜けており、人間の原型をほとんどとどめていなかったからだ。一滴も残らず命が干からびてしまったから、腐敗からも見放されたのかもしれない。
 そして、私だけが生き残った。
 神様に選ばれたからだと、死の間際に母は言い残した。
 なぜ神様は私だけを生き残らせたのか、試みに月に向かって問うてみるけれども、返事が返ってきたことはない。

 夜に一人、空を眺めていると、無性に炎をはきたくなる。
 炎を作ることができないのにもかかわらず。
 生前、両親は私が炎をはけないことをとても心配していた。普通のキュウコンは一歳になるころには炎がはける。しかし、私は二歳をとうに過ぎても、小さな火の粉さえ出てこなかった。
 私自身、炎をはけないのを恥だと思って一日も休まずに練習していた。暇さえあれば全神経を口内に集中させて熱風を吐き出した。それでも炎は出なかった。炎の代わりに血を吐く日もあった。
 三歳になる数か月前、母は私に火炎放射の練習をやめるよう言った。優しい声音だったけれども、なぜか、異論は許さないような、そんな決意が感じられた。
 なぜやめなければならないのか、火炎放射が打てなければ一人で生きていく際に支障が出るではないかと反論すると、隣にいた父が静かに言った。
「私たちが一生お前を守るから」
 だから無理をするなと、だから心配するなと、だからこれ以上苦しむなと、父は諭すように私に言った。
 その父と母は、もうこの世にいない。

 それは四歳になるころだった。
 新月の日、森の中にある小さな泉のそばで空を眺めていると、口から黒い物があふれ出した。その黒が木々に触れると瞬時にその木の水分がなくなり、樹皮ははがれ、茶色くなった葉が一斉に地面に落ちた。命が干からびたようだった。
 これが私の炎だと、そう思った。
 これが私の炎だと、誰かに認めてほしかった。
 母に見てもらいたかった。
 父に褒めてほしかった。
 両親に安心してもらいたかった。
 父も母も、もうこの世にいないけど。

     ◇

『僕は勉強ができない』という本があったような気がする。しかし、僕は勉強ができる。ヤバいくらいできる。おそらく僕の通っている小学校の中で、いや、僕の学区内の小学校全部を合わせたって僕より勉強のできる奴はいないはずだ。
 両親はすでに死んでいる。二人がフランス料理好きだったということ以外何も知らない。そのうえ親戚たちとも疎遠だけど、僕はそれほど困っていない。なぜかって? それは当然、僕がデキル男だからだ! 
 しかし、できるというのとやる気があるというのは全く別物だと思う。だってやらなくたってできるんだもん。
「山城! お前やる気あんのか!」
 担任の福留が体育会系のよく通る声で僕にどなった。
「歴史の授業なんてやる気ありません!」
「いい度胸だ! 廊下に立っていろ!」
 ということで僕は一人で廊下に突っ立ている。
 廊下側の女子が数人、僕を見てくすくす笑った。女の子は図体だけでかくて馬鹿だから嫌いだ。馬鹿にするなって? 一三〇〇年も前の狩猟の方法をありがたくノートに書いてる時点で馬鹿なんだよきっと。馬鹿って漢字で書けないだろバーカ。え、オドシシやキュウコンの死体の絵が怖いんだろうって? んなわけあるか、馬鹿。だから見せてくるなって、バカバカ。
 あぁ、歴史の授業なんて終わらせて、早く理科の実験がしたい。

 この学校の授業は大概において僕の頭脳レベルをはるかに下回っていたけれども、理科室の設備が整っていることだけは評価できる。
 僕は理科室が大好きだ。
 ほこりをかぶった試薬瓶の香りが好きだし、炎色反応を眺めるのも大好きだ。でも、一番好きなのは顕微鏡をのぞいて細胞を観察することだった。
 ほっぺたの裏側を麺棒でこすってプレパラートにこすりつける。そいつを顕微鏡でのぞくと小さな粒粒がたくさん見える。僕のような偉大な小学生もこんな小さな細胞から成り立っているんだなと思うと感慨深い。
 僕は将来生物学の研究者になりたい。そして、一生細胞を見続けて、命のありかを探すんだ。そして、顔も覚えていない両親を生き返らせて、三人で一緒に超高級フランス料理を食べるんだ。

 間抜けなチャイムの音が鳴って、やっと歴史の授業が終わった。
 まだくすくす笑っている女子たちを無視して、窓側の自分の席に移る。次の算数の授業の準備をはじめる。すると、聞き飽きた幼馴染の声がした。
「ほら、歴史のノート貸したげる。授業聞いてないんでしょう、あんた。バカじゃないの」
 開口一番バカとは失礼な奴だ。彼女は世話を焼いてくださっているおばさんの子供だ。だから大目に見ているものの、正直なところちょっと面倒くさい。
 顔をあげる。予想通りナナがいた。男と勘違いしそうなほどの短いショートカットが揺れる。彼女は不機嫌にピカチュウノートを振り回しており、そのノートが僕の顔面に命中する。
「ヘブッ」
「あ、ごめん。うっかり」
「ごめんで済んだら警察いらん」
 許さない。っていうか、なぜ歴史のノートなんか僕が書き写さなきゃいかんのだ。歴史には興味ないんだって。
「明日テストって福留センセが言ってたよ」
「マジですか」
「マジ。やっぱお前バカじゃん」
 だが否定できない。
「だからこのナナちゃんが貸してあげようというのだよ」
 僕は逡巡したのち、小さくつぶやく。
「……そっか。……ありがとう」
 僕は自分の非を認める。優秀な研究者とは自らの過ちを認められる者のことを指すのだ。悔しいがしかたない。
 僕はあっさりと非を認めたけれど、むしろナナのほうが動揺していた。
「そ、そっか。まぁ私が暇だったから貸してあげるだけなんだけどね」
 と意味不明な捨て台詞をはいてナナは自分の席に戻っていった。

 ノートを見ると、最初のほうはナナが眠かったということだけが良くわかる汚い文字だったけれど、都合よく僕が廊下に立った後から目が覚めたらしい。十分すぎる内容がノートに書かれていた。ぼくはその中から必要な部分を取捨選択して、文章を再構築し、マイノートに書き写す。ちなみに僕のノートは大学ノートだ。
 翌日のテストはナナのノートおかげで楽々クリアできた。満点を取ったのが僕だけだったことを発表する福留の顔が忘れられない。
 ナナにノートを見せてもらったはずなのにナナよりずっと点数が良かった。そのことを突っ込むと、ナナはピカチュウノートを振り回して僕を攻撃したけれど、なぜかその時の彼女は嬉しそうに笑っていた。
 その日以降、僕は少し真面目に授業を聞くようになった。
 だって、いい点数を取るとナナが喜んでくれるから。

     ◇

 キュウコン伝説というものを知ったのは、私が百四十を過ぎたときだった。
 千年生きるキュウコンがいるらしいという話だった。
 キュウコンは千年生きるのかと、私は思った。
 あと八百と六十年生きれば、私は死んでもよいのかと思った。
 その年月が長いのか短いのか、私にはよくわからなかった。
 神社と呼ばれる建物が多くでき始めた。
 神を祀る社と書いて神社と読むらしい。そのころにはすでに言葉や文字を理解できるようになっていたため、人間社会について詳しくなっていた。
 神の使いが神使で、その神使として選ばれたポケモンがキュウコンであるらしい。それ以降私たちは神聖な生き物として認知された。人間に殺される可能性は下がったと言える。
 あと百四十年早くキュウコンが神使に選ばれていたら、私の父と母は死ななくて済んだのかもしれない。神はなぜ両親を見放したのだろう。
 そして、神はなぜ私を生かし続けるのだろう。
 神からの返事は来ない。

 私は小さな山の上にある大きな神社に住みつくようになった。
 その神社における神使はアチャモとワカシャモそしてバシャーモだった。キュウコンが祀られているわけではなかったけれど、神使を邪険にはできないらしく、ここに住みついた私にも一定の世話をしてくれた。
 私は神聖な生き物として扱われ、身の危険を感じることなく生きていくことができるようになった。その地で百年ほどは生きていたと思う。
 私はただそこで生活しているだけだったのに、人間は私に何度もお礼を言って、食べ物を分けてくれた。神の使いである私に礼を尽くせば、神に救ってもらえると思っているかのようだった。
 愚かだと思った。
 私は、まだ一度も神に出会ったことはないのだから。
 しかし、私を神使だとみなしてもらうことは私にとっての救いでもあった。もし私が本当の神使ならば、いつか本当の神に会えるかもしれない。そして、両親を生き返らせてもらうように頼む機会がおとずれるかもしれない。
 だから私は毎晩神に祈った。
 夜更けに拝殿の前で一人目を閉じ、耳を澄ませる。神に私を救ってもらうよう願う。神からの返事を待つ。“声”は聞こえない。

 神社での生活は森での生活と比べてとても楽ではあった。それでも不満はある。夜に焚かれる明りの炎だった。これが、これこそが炎なのだと、見せつけられているような気がしたのだ。
 ぱちぱちと音を立てて揺らめくオレンジ色のそれを見るたび、私は両親のことを思い出して黒の炎を静かに吐き出した。
 父は、母は、この黒の炎を見て何と言ってくれるだろう。もし死後も私を見守ってくれているならば、この黒の炎を見せて安心させてやりたいと心から願った。
 でも一方で、この黒の炎を見せたくない気持ちもあった。彼らがこれを炎だと認めてくれる自信がなかったのだ。もしもこの“黒”が炎でなかったならば、私は彼らを安心させてあげることができない。
 それは、私にとって、とても心苦しいことだった。

 神社での安息の日々は突然終わりを迎えた。
 神社における神使の一種、アチャモたちが一夜にして皆死んでしまったのだ。死体は命の一滴も残されていないかのように干からびていた。
 なぜこのようなことになったのか、私にはわからなかった。
 しかし、私が犯人だと一匹のワカシャモが主張した。その主張をエスパータイプのポケモンが念で神主に知らせ、人間たちが私を追い詰めた。
 私はワカシャモに、理由を問いただした。なぜ私を犯人とみなしたのかと。
 すると、彼はこういった。
――おまえが口から異形のモノを出すのを何度も見た。あれで喰ったのだろう。
 私は応える。
――あれは異形のモノではありません。あれは私の炎です。
 すると、ワカシャモは鼻で笑うように火の粉を噴き出した。
――あの“黒”が炎? 笑わせる。これが、これこそが、炎だ!
 そういってワカシャモは私に向かって炎を放った。
 同時に人間やそのポケモンたちが襲ってきた。
 爪や槍、石に炎。それらが一斉に向かってきた。
 ワカシャモの火が私の体を直撃した。バシャーモの爪が私を切り裂き、人間の投げた石が私にあたった。
 このままじっとしていたら、私は死ねるのかもしれない。
 そうしたら、私はまた父と母に会えるのかもしれない。
 また彼らに守ってもらえるようになるのかもしれない。
 あと数分、ここで動かなければ、そこで私の孤独が終わる。
 私は、ただ何もしないだけでよいのだ。

 それでも、私は必死で逃げた。
 もし私が死んだなら、母がきっと悲しむだろうから。
 もし私が死んだなら、父の後ろ姿を思い出せなくなってしまうから。
 だから、私は、生きなくてはならない。



 結局、私は人間たちから逃げ切れた。
 皮膚はただれ、毛はほとんど抜け落ちていたけれど、一命は取り留めた。母の言うとおり、私は死なないのかもしれない。
 騒動から四日後、神社のある村から二つ離れた小さな村のそばで私は腰を下ろした。湿った空気の漂う汚い村だった。それでも村のそばだと人間が私に餌をくれる。薬を塗ってくれる者もいた。人間に殺されそうになった後でも人間に頼ろうとする私が嫌だった。
 それでも、私は生きていようと思った。
 村人が、私が住んでいた神社の名前をしきりに話していた。私が逃げ出した翌日に、その神社と周りの集落がほぼ全滅したらしい。疫病のせいだとか祟りだとか理由は様々飛び交っていたけれど、少なくとも私の身の安全は保障されたらしいことがわかった。この村人は神の使いである私の加護を欲しているのだ。だから私を傷つけることはないだろうと判断した。

 その夜、私は夜に光を見た。
 青い焔だった。これも炎の一種なのだろうかと思った。
 青い焔はヨマワルとサマヨールの出した鬼火であるらしかった。その鬼火を炎と判別してよい物か確認するために追いかけていくと、彼らは人を食べ始めた。正確に言うと、人の魂を。
 音もなく人やポケモンの命が吸い取られていった。
 アチャモや集落を襲ったのは彼らだったのかと私は納得した。
 それと同時に、私は今まで感じたことのない空腹に襲われた。
 足りないものが何なのかはすぐに理解した。

 私は霊たちが大量に補給した命たちを、“黒”を出して彼らの魂ごと吸い取った。
 霊たちも対抗したけれど、話にならなかった。
 圧倒的に、私は強かったのだ。
 命が補給されると、私の傷はみるみる治っていき、美しい毛並みが戻ってきた。

 私はまだ生きられる。
 私が長生きすればするほど、母は喜んでくれるだろう。
 私が炎をはけるくらい強くなれば、父は安心してくれるだろう。
 だから、私は、生きなければならない。

     ◇

「キュウコン伝説って信じてる?」
 ナナが唐突に尋ねてきた。
 僕らは中学三年になっていた。僕は相変わらず学年トップの成績を維持し続けており、ナナは相変わらず偏差値五十をキープしていた。
 けれども今年は高校受験がある。僕は公立では最難関の高校に余裕で合格できるだろうといわれていた。一方ナナはなぜか僕と同じ高校を目指しており、絶望的な状況にあるらしかった。彼女の疲弊具合を見る度に、もっと並みの高校でいいんじゃないのかなと感じる。しかし、どんなことでも一所懸命になることはいいことだ。だから僕は彼女を応援しようと思っている。
 そんな大事な中学三年の秋も深まってきたころ、僕は彼女に呼び出されて近所のさびれた神社に来ていた。太陽は少しずつ西に沈みかけていた。
 赤く染まった紅葉が冷たくなった風に揺られてひらひらと落ちてくる境内の中、突然飛び出たのが先の質問だ。
「ポケモン不思議のダンジョンに出てきたやつだっけ?」
「うーん。というか、それの元ネタの方かな」
 っていうかあんたゲームやる余裕まであるのかよ、とナナがぶつぶつ言いながら続ける。いや、君だってやってるだろ。
「この神社にはね、千年以上生きたキュウコンが祀られているんだって」
「ふーん。確かにキュウコンは長命だね。でも最近の研究だと千年はちょっと鯖を読み過ぎている節があるらしいよ」
 僕は彼女に解説する。
 キュウコンという種族は確かにとても長生きできる。細胞分裂時におけるテロメアの減耗率が極端に低いことが原因だ。しかし、その減耗率を見るに、寿命はどうも最長で六百歳前後だろうというのが最近の研究で……。
「ぬぁぁぁ! 黙れぇぇぇぃ!」
 危険な空気を感じて僕は瞬時に黙った。しかし彼女の拳は僕の後頭部を強打する。人生とは不条理だ。
「だから伝説だって言ってんだろ!」
「うん、そうだね。伝説だ。だから信じる、信じないの問題だね」
 僕は後頭部をさすりながら答える。ここは反論しないのが得策と見た。勉強の疲れが出ているのだろう、彼女は最近テンションが低い。むしろ今回は押さえつけずに暴れさせてあげよう。静かなナナっていうのもそれはそれで気持ち悪い。
「で、あんたは信じてるの?」
「だから信じてないって」
「あ、そ」
 沈黙。
 そこで会話が終わってしまった。「信じないのかよ!」と突っ込んでほしかった僕は密かにがっかりする。
 やっぱりナナ、疲れてるんじゃないのかな。普通なら確実に二発目が飛んでくるのに。
 彼女は無言で拝殿に近づいていく。僕もそれに従う。拝殿の柱には大きな染みがたくさんできていて、そこにトランセルが数匹くっついていた。さなぎの状態で冬を越すつもりなのだろう。彼女は物言わぬさなぎを指でつっつく。
「で、どうしてそんなこと聞くの?」
 静寂に耐えられなくなり、咳払いを一つして僕が尋ねる。
 彼女は中間テストの結果が返ってきた後のようにボーとした顔で答える。
「私、信じてるんだよね。伝説」
 そうか、と僕は答える。
「さっき言ったように、伝説は信じる、信じないの問題だよ。だから、君が信じたいならば、それでもいいと思うし、僕はそれを支持するよ」
 だから僕は、君にもう少し元気になってほしい、という言葉は恥ずかしくて飲み込んでしまった。僕は相手を気遣うのが苦手だ。ナナは興味ないそぶりで話を続ける。
「あんたさ、小さいころひどい病気したじゃん」
「したっけ?」
「したの」
 彼女はわざとらしくため息をついた。
「孤児院モドキみたいなとこから出た後、あんたがまだ小学校低学年の時までは、あんたの叔母さんっていう人があんたの世話してたでしょ。はたから見ててもすごい適当だったけど。で、小学校入った直後に本当にダメになったの。あんたの叔母さん三日に一度くらいしかあんたの家に来なかったし、そのとき丁度ウチの一家は旅行で出かけてたしで、発見が遅れちゃってさ。本当に危ない状況だったって」
 ちなみに第一発見者は私だよ、感謝しなさい、と彼女は続ける。
「旅行は雨ばっかりでつまんなくてさ、久々に遊べるーと思ったら玄関であんたがぶっ倒れてるんだもん。びっくりしたよ」
「うん、そういうシチュエーションなら僕も驚くね」
「本当に忘れてるんだ」
「うん」
 この時、僕は少し嘘をついた。ほとんど何も覚えていないけれども、彼女の泣き顔だけは脳裏に焼き付いていたのだ。その日から、僕は彼女を泣かせないよう、優秀な小学生になれるように努力し始めた。そうか、あれは小学一年生の時だったのか。
「お母さんを引っ張ってきたら救急車呼んで入院するっていう話になって。そしたら本当にあんたが死ぬんじゃないかと思ってさ、いてもたってもいられなくなったの。でも何にもできないじゃん、小学一年生なんだから。それでここにお参りに来たわけ」
「この神社に?」
「この神社に」
 あまりご利益がなさそうな小さな神社だったけれど、僕は彼女が心配してくれていたことに感謝した。
「いや、いいのよ。そっちは。私も当時は暇だったから」
 彼女は暇なときにしか善行を働かないことはよく知っている。そして彼女はここぞという時いつも暇にしてくれているのだ。
「でさ、病院から家に帰ってきたのがもう夜で、でも翌日まで待ってられなくて、夜中に家をこっそり抜け出してここまで来たの。それで貯金箱ごと賽銭箱に投げ込んでお祈りしたわけ」
「マジか」
「うん。五百五十七円失った」
「帰りに何かおごろうか」
「じゃあ肉まん買って」
「うん」
 で、ここからが大事なんだけど、と彼女が念を押す。
「いたのよ」
「なにが?」
「キュウコンが」
「野生かな」
「あんた、バカ?」
 彼女が言うに、拝殿の奥にある本殿の中でごそごそという音が聞こえて、そばによると確かにその音の主はキュウコンだったという。毛はぼろぼろでお世辞にも美しくはなかったけれども、優しそうな声だったらしい。
「ん? 声?」
「そう、声。というかテレパシーかな。頭に直接話しかけてくるような感じ」
「なんていわれたの?」
「夜は危ないから、早く家に帰りなさいって」
 なかなか常識ある神様だ。
「でもさ、神様見つけたんだよ、引き下がれないじゃん。必死で頼み込んだの。そしたらさ、神様、なんて言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
「私には人を治癒する力はないって。でも、私があんたのことを心配しているってことをちゃんと伝えてあげなさいって。あんたが眠っている間でもいいから声に出して言いなさいって。そうしたら、病気が治るかどうかはわからないけれども、あんたを救うことはできるからって」
「救う?」
「そう、救う」
 曰く、宗教とかしきたりとかの行動にあまり意味はない。それでも、無意味な行動のおかげで救われる人は多い。だから形だけでも言葉に表すことが大事だと。そういうことらしい。
「それと一緒なんだってさ。少なくとも、治ってほしいってあなたにちゃんと伝えたら、あなたは守ってくれる人がいるっていう心の支えができるでしょ。それが大事なんだって。だから、言葉にしろって」
「言葉にしてくれたの?」
「うん。だからあんたが忘れててムカついたわけ」
 彼女はまた大きくため息をついた。
 これは本当に覚えていない。なんて言ってくれたんだろう。
「で、今日も、言葉にしなくちゃいけないことがあるからここに来たの」
 そして彼女は黙る。
 コロトックの声が小さく聞こえる以外は何の音もしない。こんな寂れた神社に来る人は僕らくらいなのだろう。またしても僕は静寂に耐えきれなくなった。
 なにを言うのさ、と僕が急かすと、ようやく彼女はしゃべり始めた。
 一言一言、かみしめるように、ポツポツと。
「私はね、あんたのことが、ずっと好きだったの。だから、一緒にいたいと思って、同じ高校を選んだの。だから、頼む、勉強手伝って!」

 結論から書くと、その日から僕らは付き合いだして、けれども彼女は入試に落ちた。
 救いは所詮、心の救いでしかない。それ以前から彼女のために勉強を教えることはよくあったのだ。付き合い始めただけで突然成績が伸びることはなかった。
 でも僕は彼女が好きだったし、彼女も僕が好きだった。だから僕らは高校が別々になった後も週に五日は会っている。家も近いしね。
 だから、僕と一緒にいたいという彼女の願いは実質叶ったわけだ。
 神頼みにしては、上出来だと思う。

 本殿の奥にいるキュウコンは、何を思っているのだろう。
 神様にも、心の救いはあるのかな。

     ◇

 村を救った神の使いとして、私は村人たちに祀られた。
 私は神に会ったことはない。神にこの村を救えと頼んだこともない。それなのに、神の御心がこの村を救ったのだと村人たちは口々に言った。
 村は以前よりも活気づき、村の空気も明るくなった。祭りが開かれ、他所からの移入も増え、村は発展していった。私の生活も豊かになった。
 村人たちが喜ぶことは私にとっても利益をもたらした。そのため、私は村人たちの求めになるべく応じることにした。
 私は村人に救いを与え、村人は私に食事を与える。悪くない関係だ。
 しかし、この村を救ったのはいったい誰だったのだろうと私は思う。
 それはきっと神ではない。
 村人は私に祈りをささげ、私は一人で神に祈る。
 村人は私に話しかけ、私は神の返事を待つ。
“声”は聞こえない。
 しかし、ふと思う。もし返事が来たら、と。
 返事をしてくれたその神は、きっと私に救いを与えてくれるだろう。なら、その神は、いったい誰に救いを求めるのだ?

 私はその村で百年近くを過ごした。その間中ずっと、村人は私に敬意をもって接してくれた。しかし、霊たちから村を守ったことを覚えている人間は徐々に少なくなっていき、住みにくくなってきてしまったのも事実である。
 その村にある神社の神使はワカシャモだった。ワカシャモが祀られている神社に住む気が起きなくて、私は村のはずれにずっと住んでいた。しかし、ある時、彼らは私に隣町の神社を紹介してくれた。私により良い住居を与えてあげようと思ったのかもしれないし、単に私が邪魔になってきただけなのかもしれない。
 その神社は小さかったものの、作られたばかりでとても美しかった。私は一番奥にある本殿に住みかを与えられた。そこに神使は一頭もおらず、神社が私を必要としていた理由を理解した。
 その地で私は長く生きた。
 ここに来た時にはすでに三百歳を軽く上回っていたが、その比ではないくらい、私は長く生きた。
 時が止まっているのではないかと感じたこともある。しかし現実はその逆で、恐ろしいくらい早く時間が過ぎ去って行くのだ。あまりに早くて、過ぎ去ったことを忘れてしまうくらいに。
 私の齢は千を超えた。

 千になれば死ぬのだと思っていた。けれども私は一向に死ぬ気配がない。これはおそらく、霊たちの集めた数百数千の命を得たためなのだろうと思った。
 けれども、私が長生きすればするほど、彼らに喜んでもらえるはずだ。
 炎はまだはけなかったけれど、私は彼らを喜ばせたい一心で“黒”を自在に操れるように訓練した。簡単なことではなかったけれど、自分のもつほぼすべての時間を練習に費やした結果、件の霊の時のようにすべてを吸収し尽くすのではなく、必要な部分を必要な時だけ吸収するすべを身に着けた。これで誰も殺めずに力を得ることができる。
 だから私はまだ生きることができるのだ。

「お狐様、あなたはなぜそれほどまでに長生きなさるんですか?」
 あるとき、十四回目の改築を終えた本殿の前まで、赤い和服を着たおさげの少女が稲荷ずしを持ってきてくれた。私はそれを頂戴しようと思い、扉を開けて入口まで歩いて行った。
 そのころには足腰は弱り、毛並みもかつてとは比較にならないくらいみすぼらしくなってしまっていた。けれども命を無駄にしてはいけない。なるべく穏やかに日々を暮すことによって私は命を節約して生きていた。
 長く生きることは悪いことばかりではない。私は人の言葉を理解するだけでなく、人と直接会話するすべも身に着けていた。四代前の神主はその力を神通力だと教えてくれた。だから私はその少女に向かって、稲荷ずしのお礼のつもりでこう答えた。
――私が長生きすればするほど、彼らが喜んでくれるからです。私が強くなればなるほど、彼らが安心してくれるからです。私は彼らを喜ばせたい。だから、なるべく長く生きようと決めたのです。
「……死ぬのが怖いからじゃなかったんだ」
 少女はかすれるような声で答えた。何かあったなと瞬時に見抜いた。
――どうかしたのですか。聞いたところで助けてあげることはできないかもしれません。けれども、話すと楽になりますよ。言って御覧なさい。
 幾度となく繰り返してきたやり取り。彼女の悩みも聞く前からほとんどわかっていた。
 私はただ、聞いてあげるだけでよい。それがきっと彼らにとっての救いなのだと私は理解していた。
 少女はようやく泣き止んで和服の袖で涙を拭き、私に深々と礼をした。
 私は何もしていない。ただ話を聞いてあげただけなのだが、彼女にとってはそれで十分だったらしい。
 私は少女の救いになれただろうか。

「あの、お狐様。一つよろしいでしょうか」
 帰り際、少女が振り返ってこう尋ねた。
「お狐様が喜ばせたいと思っている“彼ら”とはどなたですか?」
 私は少女の目をまじまじと見つめる。
 少女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「すいません、出過ぎた真似でした」
 少女はもう一度深々と礼をして、足早に本殿を後にする。

 私はなぜ少女の問いに答えられなかったのだろうか。
 私にとって、とてもとても大事な“彼ら”。
 私を守ってくれた“彼ら”。
 私を愛してくれた“彼ら”。
 私に生きていてほしいと言ってくれた“彼ら”。
 私に強くなってほしいと言ってくれた“彼ら”。
 私は“彼ら”を安心させたい一心で、炎をはく練習を続け、“彼ら”を喜ばせたい一心で、長く生きることを選んできた。

 でも、“彼ら”に出会ったのは遠い昔。
 私は“彼ら”を覚えていない。

――教えてください、神様。私はいったい、誰を愛していたのですか?

     ◇

 僕の両親が死んだとき、僕はまだ二歳だった。だから顔はほとんど覚えていないし、死んでしまった悲しみを味わうこともなかった。
 でも、ナナはそれを許してくれなかった。たとえ顔を覚えていなくても、それでも両親を大事にしてよと、当時小学生だったナナは僕に泣きながら懇願した。僕は意味が分からなかったけれども、彼女を泣き止ませたい一心で頷いた。
 だから、僕の夢は、生物学を学んで両親を生き返らせることだ。
 そして、ナナが泣かない世界を作ることだ。
 そのナナは、いま僕の胸にうずくまって泣いている。

 僕らは大学生になっていた。彼女は地元の私立大学に、僕は奨学金をもらってバイオテクノロジーを学べる国公立大学に進学していた。彼女とは住む場所が離れてしまったけれども、毎日のように電話していた。だからさみしいと思うことはあまりなかった。
 夏のある日、メタ・グラードンと呼ばれる人工の生命体に関する論文を徹夜で読んでいた時、珍しく真夜中に彼女から電話がかかってきて、そして彼女の両親が死んだことを知った。
 彼女の両親が死んだのは二週間前で、飲酒運転のトラックと正面衝突したと聞いた。即死だったから苦しまなくてよかったと彼女の親族は彼女を慰めた。そして彼女は物わかりのいい老犬のように、少し励まされた顔をして頷いた。
 でも、この表情は嘘だと思った。
 一度、彼女は泣かなければいけないと思った。
 彼女の泣き顔を見るのはつらかったけれども、仕方ない。僕はいつもの寂れた神社に彼女を連れ出したのだ。
 なんといえばよいのかわからなかったけれども、何も言わなくても彼女は泣いてくれた。僕はずっと、彼女の頭をなでつづけた。

 十分以上は泣いていただろうか、彼女はようやく泣き止んで顔を上げた。
「ごめんね。あんたの服、びしょ濡れになっちゃった」
「別にいいよ」
 僕は本当にかまわなかった。むしろ、そんなこと気にしないで、もっと泣いていてほしかった。つらい気持ちを出し切ってほしかった。それでも彼女はハンカチを取り出そうとする。だから僕は慌てて彼女を抱きしめた。気にしていないと言葉で伝えるよりも効果的だと思ったからだ。彼女もゆっくりと体の力を抜いて、僕に重心を預けた。
 その直後、拝殿の裏からメガネをかけた中年の神主さんが現れた。
「あ」
「え?」
 その直後、ナナは僕にアッパーを繰り出し、抱擁は一瞬で解かれる。僕は顎を抑えながら、笑っている神主さんを睨みつける。こんな寂れた神社にも神主さんはいるんだなと、当たり前のことを恨んだ。
「あはは、いやごめんごめん。じゃあ私はこの辺で失礼するよ」
 悪びれた風もなく、神主さんは回れ右をする。
 しかし、ナナがそれを呼び止めた。
「あの、神主さん! 神様はまだ元気ですか?」

 神様は正確には神使と呼ばれる神の使いであるらしかった。だから神様とはちょっと違うかな、と諭されたけれど、僕らにとってそれはやはり神様だった。なんといっても僕らが一緒になったきっかけを作ってくれたのだから。
 丁度神様の体を洗うところだったらしく、僕らはそれを見学させてもらうことにした。神様の体を洗うという表現がなんだか不思議に思えた。
 ぼろぼろの本殿の中は意外とこぎれいにされており、水やポケモンフーズの入った容器の奥、清潔で柔らかそうな毛布を重ねた上に、そのキュウコンは眠っていた。思っていたよりもずっと小さくて華奢だった。体には老齢が原因と思われる染みがいくつもついていたけれど、毛並みは美しく整えられており、神主さんがこのキュウコンを大事にしていることが良くわかった。
 神主さんは慣れた手つきで優しくキュウコンを起こし、拝殿の横にある洗い場まで狐を先導する。そして静かにその体を洗い始めた。
「神様は女性なんですよね」
 ナナが尋ねた。
「良く知ってるね。しゃべったことがあるのかい?」
「やっぱり話ができるんだ!」
 ナナは嬉しそうに飛び跳ねて、なぜか僕を肘で突っついた。別に信じていないわけではなかったのだけれど。
「ほとんどの人は聞こえないって言うね。うそつき呼ばわりする人もいる。でも私は小さいころ一度だけ聞いたよ。とても優しい声だった」
 神主さんはうっとりとした表情でキュウコンの説明をしてくれた。
 このキュウコンは、神主さんが生まれたときには今の状態で本殿に住んでいたらしい。そして神主さんのお父さんも、お父さんのお父さんも、全く同じように、生まれたときからそこにいる存在として狐を扱ってきたらしい。
「だから相当長命なんだろうね。何歳なのか、私でもわからないよ」
 この狐はなかなかいわれのあるキュウコンで、昔ゴーストポケモンに襲われた村を救ったとか、この神社や下の町の危機を救ってくれたとか、たくさんの言い伝えがあるらしい。
「まぁ、多少尾ひれはついてるんだろうけれども、それでも、少なくとも私にとっては救いのような存在だったなぁ」
「小さいころ、神様と何を話したんですか?」
 畏れ多くも気になったので訊いてみた。
「彼女は火をはけないんだって嘆いてたよ」
「はけないんですか?」
「うん。そう。年のせいかもしれないけれどもね。少なくとも私は彼女が火を噴く様子を見たことはないかな」
 神主さんは続ける。
「その時私は逆上がりができなかったんだ。学年で唯一だったね。それでいじめられてしまって、夜にお狐様に頼み込んだんだ。そうしたら、神の使いである私も炎をはけないんだから、逆上がりくらい気にしなくてもいいって言われちゃってさ」
 神様にそう言われたら、あきらめるしかないよなぁ、と彼は笑う。
「で、やっぱり逆上がりはできないままだったんだけど、その日以降いじめられることはなくなったね。僕がいじめっ子を相手にしなくなったからだと思う。だから、これは、お狐様が私を救ってくれたんだと思っているよ」
 だから救ってくれたお礼に、私はこのキュウコンをよろこばせてやりたい。そういって神主さんは狐の頭を優しくなでると、老いたキュウコンは静かに目を細めた。
「あの! 神主さん!」
 ナナが素っ頓狂な声を上げる。緊張している時の声だ。
「私も神様に触っていいですか?」

 体を洗い終えた老狐の顔を引き寄せるようにして、彼女はキュウコンを抱きしめた。そして、嗚咽交じりにそのまま彼女は泣き始めた。
 僕らが何も言えないで呆然としている時、突然ナナは返事をするように頷いた。きっとキュウコンと会話をしているのだろうと思った。ナナは何度も何度も深くうなずき、狐は目を細めて静かに彼女の涙を舐めとった。

 帰り際、僕らは神様と神主さんにお礼を言ったそのあとも、名残惜しくて雑談を続けた。
 その時、何の拍子だったかわからない。ただ、僕が大学でバイオテクノロジーの研究をしているということ、そして体毛が一本あれば神様の年齢がわかるかもしれないということを、僕は神主さんに言った。
 神主さんはブラッシングをした際に抜け落ちた体毛を僕に手渡した。

 この時の僕はただ純粋に知りたかったのだ。このキュウコンが長生きできる理由を。命の秘密を。
 神様に聞けば、答えてくれる。そんな気がした。

     ◇

 神が私に答えをくれたことは一度もない。
 私は神の使いと言われていたが、神に会ったことは一度もない。
 ある時私は気付いたのだ。
 私自身が、神なのだと。
 この街の人々は、私を、この神社を、神そのものだと思っている。
 だから彼らは救いを受ける余地があるのだろう。私やこの建物くらいならば、彼らに安らぎを与えることはたやすい。それが本物の神でなかったとしても、鳥居をくぐり、神聖な場所に来たという感覚が彼らを救うのだ。
 だから、私やこの建物は、彼らに必要とされている。
 ただ、神である私には、神と呼べる存在がいなかった。
 神のいない私は、誰を救いにすればよいのだろう。

 神社にはかつてないほどの人があふれかえっていた。神主も巫女も総出で働いている。
 辺りには血の臭いが充満し、梅雨の湿気た風には硝煙が染みついていた。
 戦争が始まってから六年がたっていた。
 本土の爆撃は毎日のように続いた。住民は疲弊し、死体の置き場にさえ困るようになった。
 本国が負けることは明らかだった。
 けれども誰もそれを言い出すことができずにいた。破壊された宿舎に代わってこの建物に軍の人間が居座っていたからだ。戦争に負けるかもしれない、今の状況がつらい、そんな弱音を吐いた者は、即座に銃殺された。
 軍部の連中は人々に何の救いも与えず、ただ武器の使い方だけを指南した。薙刀の使い方を理解すれば、物理的に敵国を破壊することができると思っているかのようだった。もちろん誰もそれを信じなかった。
 それでも神社には一般の人も多く集まった。
 けがをした者、老いた者、親を亡くした者、夫を見送った者、彼らは鳥居をくぐり、私たちに救いを求めた。
 神主や巫女たちは、その想いに答えようと必死だった。
 私は、本殿の窓からただその様子を眺めていた。
 それだけなのに、多くの人は私の住む本殿の前に集まり、スズメの涙ほどの供物をささげた。一〇〇〇年以上生きた私という存在そのものが、彼らの救いだったのだろう。
 軍部に見つかると危険だからと会話は禁じられていたが、私はなるべく入口のそばにより、彼らが私の姿を見ることができるように配慮した。

 ある日を境に、爆撃が止んだ。
 硝煙の臭いがしなくなった。
 神社にたった一つだけあるラヂオからは “神様”の資格を有する人間の言葉が聞こえた。その声は、本国が負け、戦争が終わったことを民衆に告げた。
 この国の中枢にいる“神様”は神であることをやめたが、人々の救いであることまではやめなかった。何の特殊技能を持たない人間でも、多くの人々を救えると知っているのだろう。聡明な“神様”だと思った。
 しかし、それを許さない者がいた。
 愚かだと思った。

「我々は! 玉砕覚悟でこの戦争を戦ってきた! 陛下が負けを認められることなどありえない! 我々は! この国と共に生き! この国と共に死すべきだ!」
 神社の軍のトップと思われるひげを蓄えた男は、ありったけの手榴弾を集めるよう部下に指示した。
 神主と巫女らは縄でくくられて一か所に集められた。神の使いである私も同様に、ゴーリキーに鷲掴みにされて捕縛された。このゴーリキーは、自身も手榴弾で殺されることを理解しているのだろうか。
 ひげの男が言うには、神の使いである私や神主らとともに死ぬことで、神に願いが通じ、陛下にもご意志が通じるということだった。
 誰もそれを信じなかった。
 けれども、誰もそれを止められなかった。
 神を殺せば、救いは失われるだろう。
 救いがない状態ならば、死ぬこともたやすいのかもしれない。
 だから軍の男は、私たちを殺そうとしたのだと思った。
 でも、私は覚えていた。
 名前を忘れてしまった“彼ら”のために、私は生き続けなければならないのだ。

 ゴーリキーに押さえつけられたまま顔を上げ、私は軍のトップの男に静かに話しかけた。
――地獄とはどのような場所か、知っているか?
 突然私に話しかけられたことに男は驚いたようだが、大きな声で怒鳴り返してきた。
「我々は幾度となく戦場という名の地獄を歩いてきた! 地獄など恐れるに足りん!」
 私はその言葉を聞いて冷笑する。彼は、何も知らないのだ。
 地獄とは、永遠に続く絶望だと。
 地獄とは、光の無い夜だと。
 地獄とは、神の不在だと。

――私は、地獄を知っている

 私は口から“黒”を吐き出した。
 太く長い“黒”が私の口から勢いよく飛び出る。回転しながら三つ編みが突然ほどけるように分離して“黒”は無数の触手となり、彼らの口内に入っていく。“黒”は体内で彼らの心をむさぼった。
 彼らの希望を、彼らの光を、彼らの救いを。

 神主や私たちはそばにいた人々のおかげですぐに縄が解かれた。
 物言わぬ軍部の男たちは、虚ろな目でそれを眺めていた。
 神主がそっと語りかける。
「キュウコン様、あなたにはこのようなお力があったのですか。この度は、本当に感謝の仕様がありません」
 私は鳥居の外側にある長い下りの階段を見下ろしながら尋ねる。
――あの“黒”は、炎に見えましたか?
 キョトンとした神主の顔を見て、私はかぶりを振った。
――いえ、何でもありません。お怪我がなくて幸いです
 鳥居の外側から子供たちの声が近づいてきた。彼らはもう、思う存分遊ぶことができるのだ。

 外の子供と違って、私の地獄は終わることがない。
 神に祈ることはやめてしまった。
 もし仮に神がいたとして、その神はいったい誰に祈るのだ? 祈りも救いも神も希望も、ただの責任の押し付け合いのようにしか思えなかった。
 私は毎日人間に救いを与え続ける。
 人間は毎日私に餌を与え続ける。
 そうして私は生き続けるのだ。永遠のようで一瞬に過ぎ行くこの世界を。
 それでも私は生きていたい。
 私は、忘れてしまった大切な誰かを喜ばせるために、生きているんだと思う。



 2



 あのキュウコンの体毛を手に入れたその日から、僕の人生は変わった。
 最初は年齢査定をしただけだった。その結果、一三〇〇歳だとわかった。僕はその結果を論文にまとめて発表した。この成果は学会にセンセーションをもたらした。僕の研究に多額の研究費がつくようになった。
 みんな知りたがったのだ。不死の理由を。命の秘密を。
 研究が忙しくなってナナとは疎遠になった。僕は寸暇を惜しんで研究を続けた。
 僕の夢は目前に迫っていたのだ。

「最近相手してくんないんだね……」
 ナナが電話越しにそう愚痴た。
 仕方がないだろう、僕は今、研究に忙しいんだ。
 もう少しで両親を生き返らせることができるんだから、君にかまっている暇はないんだよ。
 そういって無造作に僕は電話を切る。
 僕の夢は両親を生き返らせることだ。あまりにも早く逝き、一切の感情移入さえできない僕の両親。なぜそんな彼らを生き返らせたいと思ったのか、理由はもう忘れてしまった。
 でも、これだけは間違いない。
 父と母を生き返らせることができる日は、近い。

     ◇

 その少女と話した時、私は少し懐かしい気持ちがした。それは少女と以前に話をしたことがあったからかもしれないし、ただの勘違いかもしれなかった。私の記憶には細かい穴が無数にあき、出会った人の顔を覚えることは困難だったからだ。
 短く髪を切った少女は、大切な人を亡くしたことで大きな悲しみにとらわれていた。
 死んだ生物を生き返らせることはできない。だからこそ、生きているものがその生を大切に扱わなければならない。
 でも、そんな正論は彼女に不要だ。
 私は彼女の話を聞いてあげるだけでよい。
 悲しみたければ悲しむがいい。死者を恋い焦がれるなら、その通りにすればよい。ただ、あなたのそばにいる少年を、悲しませないようにだけ気を付けて。彼はきっと泣き虫。あなたが泣いていると、一人でとても悲しむだろうから。
 少女は涙をぬぐって立ち上がると、隣で俯いている少年の手を握り、ぎこちなく笑った後に、また泣いた。
 優しい子だと思った。

     ◇

 僕があのキュウコンの体毛を手に入れてから三年がたっていた。
 大学の中で最も広い講義室はすべてのライトが消されている。僕の映し出すパワーポイントの映像だけが唯一の光源だ。
 僕のスライド以外は何も見えない。見える必要もない。その会場にいたすべての人たちは、僕のプレゼンテーションに、食い入るように聞き入っていた。
 触手を振り回すメタ・グラードンの写真。こいつは失敗作。体全体から生命エネルギーを供給し続けなければ生きていけないのだから。
 生命エネルギーを供給したら、それを保存しなければならない。
 どこに?
 決まっているさ。生命エネルギーを最も保存しやすい肉体だ。
 キュウコンの突然変異体の写真が表示される。
 メタ・グラードンのような触手を用いて命を吸収し、キュウコン特有の長寿細胞にエネルギーを保存する。吸い取ったエネルギーを長寿に結び付けるその仕組みを解説したのち、僕は一瞬間を開けてから、こういった。
「このキュウコンの仕組みを応用すれば、私たちは命を完全に制御できることになります」
 会場がどよめいた。

 神様。あなたはもう神様じゃない。
 あなたは、キュウコンの突然変異体だ。
 やはり、この世界に、神はいない。

 理論はほとんど明らかになった。
 でも、一つ疑問が残っている。動機だ。
 この触手を操るのはとても困難だ。一歩間違えばメタ・グラードンのように周囲の生物すべてを吸収し尽くす存在になりかねない。触手を自在に使うためには気が遠くなるほどの練習が必要だったはずだ。
 神様、あなたはなぜそこまでして生きるのですか?

     ◇

 私はまだ生きている。
 私は人間に救いを与え、人間は私に餌を与える。
 何百年も前から変わらない生活。
 今の神主とナナと呼ばれる若い女性は積極的に私に話しかけてきた。
 今日は寒いですね、晴れましたね、ポケモンフーズが新しくなりましたよ、彼氏があんまりかまってくれないんです。どれも他愛もない話。
 別に初めてという訳ではなかった。それに話を聞くのには慣れている。私は何も言う必要はない。ただ話を聞いてあげるだけ。
 でも、ナナの彼氏という人物が来た際には、少し手伝ってあげようかなという気持ちにはなった。手伝うと言っても、たかが知れている。神頼みのご利益は恐らくこの女性も信じていないだろう。
 神とは所詮、その程度のものだ。

     ◇

 寸暇を惜しまず僕は研究を続けた。
 命の摘出、命の保管、命の修繕。たった一本の体毛から、信じられない発見がいくつも出てきた。けれどもそれらは僕を満足させるものではなかった。
 死んだ生き物をそのまま復活させる方法がなかったからだ。
 それでも研究は急ピッチで進んでいく。
 僕の研究室のボスは、研究テーマを不老不死に切り替えるよう僕に迫った。そのほうが研究費が出やすいというのが理由だった。
 僕はそれに同意できなかった。
 僕には両親を生き返らせるという夢があったからだ。
 そのように反論すると、呆れた顔をした教授に尋ねられた。
「君はなぜ両親にこだわるのかね。顔も覚えていないし、悲しみも忘れてしまったと言っていたじゃないか」
 僕は答えられなかった。
 なぜ答えられないのかも、わからなかった。

 僕はあのキュウコンの体の仕組みについてかなりのことを知っていた。数本の毛であっても細胞を増殖や変換することで多くの実験をすることができたからだ。
 疑似的にエネルギーを吸収、蓄積する装置も完成した。
 それでも、僕の心の中には大きな穴があいているような気がした。
 その穴が何なのか、全くわからない。
 装置が完成したところで両親は生き返らない。
 装置が完成したところで触手は操れない。
 装置が完成したところで僕の心の穴はふさがれない。
 もしこの装置を神様に見せたらどうなるだろう。
 自慢の触手を僕に見せつけて、鼻で笑うだろうか。
 ヒトとは所詮、この程度のものなのかもしれない。

     ◇

 ナナが泣いていた。
 とうとう彼氏に別れを切り出されたらしい。研究に打ち込みたいからというのがその理由だった。メールし続けたのが悪かったんだ、会いたいって言い続けたから嫌われたんだ、彼女はそういって自分を責めた。
 色恋沙汰で落ち込むことは珍しくない。私は時間をかけて彼女の愚痴を聞いてやる。ひとしきり懺悔が終わると、ナナは私の体をブラッシングしてくれた。
 いつものように優しく丁寧ではあったけれど、暖かくはなかった。私の体がどんどん冷えていくような気がした。
 たかが失恋で、とは思うけれども、本人にとってはつらい体験だ。仕方ない。またその話が出たらゆっくり聞いてやろう。
 そう思っていると、ナナが立ち上がって急に大きな声を上げた。
「神主さん! 神主さん! 早く来て!」

 メガネをかけた今の神主がやってきて、私の体に触れる。
「確かに、冷たい。もう、寿命なのかもしれない」
 神主は震えるような声でナナに告げた。

     ◇

 僕の足が向かった先は、いつもの寂れた神社だった。
 正直なところ、こんなところに来ないで研究をしていたかった。研究テーマが変わることは阻止しなければならなかったからだ。両親を生き返らせる研究を続けるための算段を考えたかった。
 それでも僕は、大きなリュックサックを背負ってリニアで三時間かかる故郷まで戻ってきた。
 来なければいけないと思った。

 誰にも会いたくなかったので、僕は夜に鳥居をくぐった。
 そこにいるのは神でないことは知っていたけれど、それでも僕は救いがほしかったのかもしれない。
 神社には似合わない人工的な外灯が、ポツンと一つだけ白い光を放っていた。
 その光に一人の女性が照らしだされた。
 その女性は拝殿の前の階段から勢いよく立ち上がり、僕に向かって走り出してきた。
 ナナだった。
 殴られるかと思って身構えたけれど、ナナは僕の前で立ち止まった。
 少し見ない間に、彼女の髪は伸びていた。決して美人ではない。けれどもずっと見ていたくなる表情。僕が大好きだった人。
 ごめんねと、ナナはつぶやいた。
 なぜ彼女が謝るのか理解できなかった。
 それでも彼女は僕に謝り続けた。
 うるさくしてごめんねと、迷惑かけてごめんねと。

「もう私、どうしたらいいのか、わからない」
 彼女の瞳から、次から次へと涙の雫が溢れてくる。
 彼女はなぜ泣いているのだろう。
 僕が命の研究をしたら、彼女が喜ぶはずだったのに。
 僕が父と母を生き返らせれば、彼女は泣きやむはずだったのに。
 それなのに、いったい誰が、彼女を泣かせているのだろう。

――あなたですよ

“声”が聞こえた。

     ◇

 死期が近づいていた。
 生きることの意味さえ見いだせない私にとって、死はとても身近で、恐怖とはほど遠いものだった。
 最近“黒”を使っていない。命を節約しているつもりだったけれども、そろそろ底が尽きたのだろう。またほかの生き物を襲って命を奪う気力もなかった。
 死にたいわけではなかった。ただ、どうやって生きていけばいいのかわからなかったのだ。
 ナナが日増しに暗い表情になっていくある日、ナナを救う機会に巡り合った。
 毎日続いた作業を死ぬ間際でも続けられるのは、ありがたいことなのかもしれない。そう思った。

 彼女が泣いているのには二つの理由がある。
 一つは今日訪れた青年との失恋。一つは私との死別。後者の改善は難しいと感じたので、私はすべての責任を青年に押し付けることにした。
 そして、動揺した青年の発言に耳を傾けてやる。手慣れた作業だった。
 立つだけで疲れてしまったので、ナナに支えてもらいながら、青年の話を聞いた。
 青年の話を聞くと、一つだけ引っかかる部分があった。
 彼はなぜ、両親を生き返らせるとナナが喜ぶと信じたのだろうか。
 別にどうでもよいのかもしれない。もし彼が親を生き返らせたいのならば、その通りにすればよい。それで幸せになれるならば、形式だけでもよいだろう。救いとはもともと、そういうものだ。
 どうすればナナを泣き止ませられるのかという青年の問いには、こう答えた。
――彼女に謝らなければなりません。それも一回きりではなく、ずっと。ずっと彼女のそばにいて、ずっと彼女に謝り続けなさい。
 ほら、と青年を催促する。私はそっとナナから離れ、その様子を見守った。
 ナナは青年の胸にすがりついてむせび泣き、青年は彼女のそばに寄り添った。きっとここが彼女の居場所なのだろう。
 五年後に二人がどうなっているかはともかくとして、きっとこれが今、私のやるべきことなのだと思った。

 神としての仕事も果たして、あとは死を待つだけだった。
 本殿に帰れば、今週中には逝けるのかなと、他人事のように思った。
 本殿に帰ろうとしたとき、青年が私を呼び止めた。

     ◇

 神様は何度も僕らを救ってくれた。神様にも、心の救いはあるのだろうか。
 神様は千年以上生きた。神様はなぜ生き続けたいと願ったのだろうか。
 そのような問いは、無意味だと思った。
 神様の死期が近づいていることをナナから聞いた。
 もしかすると、神様は死ぬことを願っているのかもしれなかった。
 逆に、死の恐怖を紛らわすために、僕らに世話を焼いてくれたのかもしれなかった。
 でも、そんなことを尋ねても仕方ないと思った。
 生きていたい、早く死にたい、そんな感情とは無縁の存在であるように思えたからだ。

 僕は無言で、僕が作った命の保管装置を神様の前に差し出した。バレーボールくらいの大きさの、黒くて無機質な命の珠。僕が三年かけて作った、エネルギーの塊。
 驚くのかもしれない。逆に、鼻で笑われるのかもしれない。そう思ったけれど、キュウコンはどちらの反応も示さなかった。
――ヒト頼みにしては、上出来だと思います。
 そう言って僕らに珠から離れるよう指示した。
 ナナと共に様子を見守っていると、キュウコンの口から黒い触手があふれ出す。触手は幾本にもわかれて網の目のようになり球を覆った。そして音もなく、内蔵されたエネルギーを吸収し始めた。
 神様の体に血の気が戻っていく。縮れた体毛が張りを取り戻し、神様が身を震わせると月光に照らされた毛並みが金色に光る。
 美しいと思った。
 それは、神様の毛並みだけでなく、その触手さえも神々しく感じられた。触手は、メタ・グラードンのそれとは明らかに質感が違っていた。触手というよりか、むしろ……。

「神様の出すその“黒”、私には黒い炎に見えましたよ」
 若返った神様に向けてそういうと、神様ははじけるようにこちらを見た。
――私は炎がはけるんですね。
 そう繰り返す狐の顔は、老齢を全く感じさせない。それはまるで、お父さんやお母さんに褒めてもらえた子供のような、明るい笑顔だった。