※この文章には一部暴力的・残酷的・性的な描写が含まれています。苦手な方はご注意ください。
――よくここが分かったね、人間。
こん樹海の奥深くまで辿り着くなんてよっぽど腕のあるトレーナーなんだね。歓迎するよ。と言っても、何もないけどね。
最近は人間の感情の起伏も自然の逆襲もすごく平べったいものになってしまったから、ボクとしてはすごく暇なんだ。ちょうどいい、ボクの話に付き合ってよ。見かけによらず、ボクは君たちの何倍も生きてるんだ。きっと面白い話ができると思うよ。
そうだな、このところ思うことがあるんだ。
人間はそもそも好きじゃないけど、その中でもボクが特に嫌悪を感じる部類の人間はよくこう言うんだ。「不幸とは身近にある幸せに気付けない、可愛そうな性格のことだ」とね。ずいぶんと利口な思考法じゃないか。「不幸」という目に見えないものをそう定義することによってその対極にある「幸福」を見出しやすくする。今日もまた太陽が地球を照らしてくれているだけで、親しい友人がいるだけで、もっと究極的に、生きているだけで、奴さんは幸せなんだ。足元に幸福はあったんだね。この言い方じゃあ「誰も生まれながらにして不幸なわけではない」ってことだね。さすがは頭の切れる人間様だ。素晴らしい定義だよ。
虚像だね。そんなもの。
見てきたさ、ボクは。生まれながらにして不幸のどん底、決して自力では這い上がることのできない蟻地獄の中に生まれてしまった人間の子をね。それはもう数え切れないほど目の当たりにした。最初は信じられなかったけど、今じゃあんまり多すぎて慣れっこになってしまったくらいなんだ。
特にあれだ。なんだっけ? そう、戦争。あれは酷かった。
もう一瞬さ。轟音が響いて、砂煙が立ち昇って家が崩れるんだ。さっきまで産声が聴こえてたのに、次の瞬間には戦闘機のエンジン音が遠のいていくんだ。そうやって死んでいった赤ん坊には「幸福」とか「不幸」とか、そんなものが頭に思い浮かぶこともなかったんだろうね。
戦争中はレイプも横行した。もう手当たり次第さ。狂ってた。見たくもないのにボクが見てしまったその現場は女一人に男が六人も群がってた。散々辱められた末に、最後に突っ込まれたのは銃口だったよ。
ポケモン共も酷いもんさ、同じポケモンとして見ててイライラする。人間に手なずけられちまって、目の前にあるものを手当たり次第焼き払ってるリザードン。完全に破壊衝動が抑えられなくなって、もはや壊すのが気持ちよくなっちゃってる中毒状態のバンギラスやギャラドス。催眠術で味方同士戦わせて楽しんでやがるエスパータイプの奴ら。挙げればきりがない。あいつらの犠牲になった人間は本当にお気の毒だね。
分かったろ? 彼らや彼女らが自力で「不幸」から抜け出せたと思うかい?
幸せな奴らが不幸を語るなんて愚かしい。なあ止めてくれよ、形而上だけで話進めんのはさ。
戦争が終わって、家族と再会した人間は確かに「幸せ」そうだったな。生き残ったんだ、そのくらいの権利はある――そう言ってるよ、顔が。
あんまり話すとボク、嫌われちゃいそうだね? まあ慣れてるから良いんだけどさ。別に災いなんて呼んだ覚えがないんだけどね。
そうだ、ボクが見てきた人間の中で、ちょっと他とは違う物語を持った少女がいるんだ。その子の話をするよ。
あれはまだ戦争が起きる前、あの忌々しい制度が根を張ってた頃さ。人間ってホント、バカだよ。
――え? その子もまた「不幸」なのかって? 良い質問だ。
それはもう、最上級の「不幸」さ。
◇ ◇ ◇
そう、その時代は人が商品だった。
奴隷制度がまだ残ってたんだよ。人身売買ってやつだ。ある人間のなかでもましなやつがやっとその異常さに気付いて「奴隷解放宣言」ってのを出すまでは、「人」は「人」を買うことができたんだ。労働力として、召使いとして、そして性欲の捌け口として、高値で取引されていた。高く売れるもんだから、よほど治安の良い街じゃない限り、人々は毎日「人攫い」に脅える生活をしてた。小さな女の子のいる家は大変だよ、幼女は一番高く売れるからね。
ボクは一時期、まさに「人間の卸売市場」みたいな町に住みついてたんだ。なんて町かは忘れちゃったけど、名前なんてどうでもいいさ。とにかく、その街に渦巻く「不幸」の感情は尋常じゃなかった。どのくらい尋常じゃなかったかって「災いポケモン」が身震いするくらいさ。
そうそう、ボクがわりと嫌いじゃない人間もいてね。その人は言ったんだ。「皆、望まれて生まれてきた命」だと。
ただ、ボクがこれから話すその少女にはこれが当てはまらなかった。残念ながらね。
ああ――あまり話したくないな、このくだりは。なんたってボクですらこの事実を知った時、酷く落ち込んだんだ。覚悟してよ。
例を上げるよ。ラブカスってポケモン、いるだろ? あいつらの鱗って「ハートの鱗」って言って、結構な値段になるんだ。当然たくさん集めたいと思う輩が増えるわけさ。でもラブカスってそう簡単に捕獲できない。めったに網にかかんないんだ。それで人間は頭が良かったからさ、残念ながら、頭が良かったから――
養殖することにした。とらえたラブカスの雄と雌(どっちかがメタモンの時もあったな、まあ同じことさ)を無理矢理配合させて、たくさん卵を産ませる。生まれたラブカスをイケスで育てて、良い具合に育ったら鱗を捕るんだ。
言いたいことはそういうことさ。
彼女は「養殖」された子の一人だった。母親は奴隷で、相当な美女だった。生涯その母親が何人の子を「産まされた」のかなんて考えたくもない。普通じゃないだろ? でもそんなことが公然と行われていた時代だったんだ。相対的に見れば、今の時代に生まれた時点でかなり「幸せ」さ。
だから彼女は望まれて生まれてきてなどいない。むしろ逆だよ。「産まれないでっ!」って叫ばれながら、産まれたんだ。何も知らずにね。まあ商人たちからすれば「望まれた」と言えるかもしれないが、とんでもないね。そこについては論を得ないだろう?
さて、彼女は「テネ」と名付けられ、売られるために育てられることになった。「人身養殖」なんて始めたイカレたその商会の会員のうち、下っ端の下っ端、そのまた末端の「グラン」という男が扶養係にされ、テネの面倒を四六時中見ることになったんだ。
あーあ、厄介な仕事引き受けちまったよ畜生――グランは思ったさ。なんせ〇歳の赤ん坊を健康な状態で一二歳まで育て上げる大仕事だ。病気をさせてはいけないし、痩せ細ってしまってもいけない。そして気を抜けば、他の商会の「人攫い」に奪われてしまうから、まるでボディーガードのようにテネについていなければならないんだ。
もうすぐ三十の大台を迎えようとしていたグランは冴えない男だった。嫁を貰うこともできず、ほとんどスラム化した町の外れの集落に一人孤独に住み着いている。まるで古い遺跡を程よく崩したみたいな集落で、ボクが当時ねぐらにしていた洞窟の方がまだ住みやすいんじゃなかったかな。グランのやつ、頭を抱えてた。家は今にも崩れ落ちそうな乾いたレンガで組み上げられた質素なもので、一人でだって狭くてしょうがないと嘆いていたのに、そこへ赤ん坊がやってくるんだからね。衛生上、お世辞にも良好とはいえない環境。当時は流行っていた疫病にでもかかったら、赤ん坊などひとたまりもないだろうな。うちの商会は考えなしで困ると、グランは舌打ちした。
黄ばんだ薄い布切れに包まれて、真っ白な肌の赤ん坊をおざなりに手渡された時、さすがにグランは少し複雑な気持ちになった。人を売ることを生業としているのだから、いくら冴えない男と言ってもそれなりに非情な面を、グランという男はしっかりと持ち合わせている。それでもやっぱり何も知らない赤ん坊の無邪気な笑顔は、良心に訴えかけるものがあるだろうな――だからグランは赤ん坊をできるだけ見ないように、抱き上げるその手に体温ができるだけ伝わらないように、この子の未来のことなど間違っても頭によぎらないように、細心の注意を払って帰宅した。そして良心は縄で縛りあげて物置の奥底に放り投げた。
ボクはこの男と赤ん坊を見ていて、そう簡単に事が運ばないと思ったね。良心は、気付かれないようにちゃんとグランの中に居座ってたんだと思う。
なんたってグランはその日の夜、自宅のベッドに赤ん坊のテネを寝かしつけ、自分は冷たい床で寝たんだ。大事な資金源だと思って割り切ったのか、はたまた、彼の人間的な部分が良い方向に出たのか、実際のところ、それは分からないけどね。
こうして下っ端商人と売られる身の少女の、おかしな共同生活が始まったんだ。
ある天才的な理論物理学者はこう言った。「常識とは、二十歳までに身に付けた偏見のコレクション」だと。
見たところ、キミはまだ若い。彼からすると、まだまだ偏見を捨てて、物事を見る目を養うことができる可能性があるということさ。
ボクはもう何年生きてるかなんて興味がなくなってしまっているくらい生きてるから、常識とか偏見とか、そもそも何を定義するのかよく分からない。人間の定義で言うと、少なくとも、常識なんてものは時代を超えないし、全く偏見せずに物事を見ることができた人間なんていままで一人もいなかった。結局人と人のやり取りなんてものは「言語ゲーム」にすぎないのかもしれないね。過去にそう言った哲学者がいたろ。
少し話がそれたけど、グランという男もまた常識に囲まれて、偏見に縛られて、生きていた。
彼が住んでいたスラム街は治安も最悪。窃盗、強奪、殺人、誘拐、強姦――なんでもありさ。そしてそれを人は見て見ぬふりをしていた。自分に降りかからなければそれでいい。巻き込まれた奴は、運がなかった。それだけのこと。それが当時の「常識」ってやつさ。
権力にしろ財力にしろ暴力にしろ、力のある奴には逆らえない。弱者はひれ伏して従うか、逃げおおせるだけ。今で考えると不条理極まりないけど、これも当時の「常識」。
グランは、正直言って中途半端な位置にぶら下がってた。我が物顔で悪事を働くほど力はなかったけど、黙って被害を受けるほど弱者でもなかった。それだけに、鼻に着く人間だったみたいだけどね。
◇ ◇ ◇
「おい! ギャーギャーうるせえぞ! 早く泣きやませろ!」
そう叫んだのはグランの家の隣人だ。そいつの名前? 忘れたよ。そういちいち覚えちゃいられない。とりあえず覚えているのは、グランの住む辺りは皆商会の下っ端の人間で、同業者だってことだ。商人って儲かると思ってたろ? 末端はみんなこんなもんさ。
「泣くもんは仕方ねぇだろ! ガキなんだ!」グランは泣き叫ぶテネを前にどうしていいか分からず、途方に暮れていた。
「ぶん殴ってでも泣きやませればいいだろ! このヘタレ野郎が!」
「こんなガキぶん殴ったら死んじまうだろうが! それに傷ものにはできねぇんだ!」
まあこんな感じで、品のない罵り合いが、毎晩のように繰り広げられていた。
グランの「子育て」の話はその集落でまたたく間に話題になった。それはいわゆる声をひそめて伝達されるようなよからぬ噂の姿ではなくで、退屈な日常にもたらされた「笑い話」として、大声で広まった。グランの数少ない友人たちはそのことを知ると、両手を叩いて大爆笑した。時にはわざわざ家の前まで来て「ようパピー、元気か?」とか「おい、そろそろおっぱいの時間だぞ?」と、口々にからかった。そのたびにグランはそのやかましい蚊たちを追い払うために怒鳴り声を上げなければならなかったし、それに驚いたテネはいつも大泣きした。
なんでおれがこんなことしなきゃならないんだ――毎日彼は思っていただろうね。でも、彼にはテネのことをほっぽり投げて商会からずらかる勇気なんてなかったし、赤ん坊をこんな場所に放置していくほど非常になりきれない。今の生活は最低だけど、最低以下にならないためにしがみついていたんだよ。
バカかおれは。こいつはいずれ売られていく身なんだ。家畜と同じだ。余計な感情など入れ込んでたまるかよ、畜生――そんな風に自分に言い聞かせながらも、冷たい床で眠るのが常だった。可愛い男だね、意外と。
幸いにも、テネは大きな病気一つせず、健やかに育っていった。商会からの援助金は毎月支給されていたが、それも微々たるもので、結局グラン自身の生活を切り詰めていかなけらばならなかった。
ったくこき使いやがって。この仕事の報酬と育児にかかる金考えたら、実際、収支とんとんだ。下っ端は所詮どこまでも下っ端のままか。畜生――彼はいつも憤慨していた。
「――ぱぱ」
「は?」
それはテネが初めて口にした言葉だった。突然そう言われてグランはたいそう驚いたが、恐らくあの悪友が彼のことを「パパ」と呼んで馬鹿にしていたのを聴いて覚えたのだろう。そう考え付いて彼はため息をついた。
「――おれはお前の父親じゃねえ。ただ金のために育ててるだけだ」
「ぱぱ、ぱぱ」
テネは小さな両手を振り回しながら繰り返した。分かるはずないか。まいったな。こいつこのままおれが父親だと思いながら成長していくのか。全く、嫁さんもいないのに父親の役割だけ課せられるなんぞごめんだ。大体父親として何をしていいのか分からない。
「おじさんとでも呼べ。とにかく、パパじゃない」
「――ぱぱ」
――無理か。ガキはこれだから面倒だ、畜生。
テネが「パパ」という言葉を一番最初に覚えたのは偶然だよ。でも、一番最初に覚えるべき言葉でもあったんだとボクは思う。テネにとってはまぎれもなくグランがお父さんだったからね。たとえ彼女が売られる身であっても、グランは単なる商人でたまたま扶養係にさせられただけであっても、二人は父と娘だったんだよ。その時はね。
可愛そうな子さ。本当に。
――いわゆるここまでは予備知識ってやつかな。さあ、一気に時計を先へ進めるよ。
◇ ◇ ◇
「遊びに行ってくる!」
グランとテネが出会ってから、十年が過ぎた。
テネは明るくて、可愛くて、それはもう元気いっぱいの女の子に育った。テネは毎日毎日、集落にいる同年代の子供を集めては、自分たちで開発したなんとか遊びに日が暮れるまで興じているようだ。どうやらテネはこの辺りの少年少女たちのリーダー格らしい。全くおれが十何年も下っ端をやってるってのに、癪に障る奴だ――しかし、おれみたいな男に育てられてどうしてあんなに活発な子供になったのか、不思議でしょうがない――グランは頭をひねってた。
「お前調子に乗ってると『人攫い』に狙われるぞ。知らねえからな、連れ去られちまっても」
「大丈夫だよ! あたし一回も遭ったことないな、人攫いに」
テネはグランに満面の笑みで返した。ブロンドにパーマのかかった髪が揺れる。服装こそみずほらしく、履物も知り合いからのお古だが、そんなもの気にならないくらい可愛らしい顔つきをしていた。狙っている商人がいても、少しも不思議じゃない。
「そう言って余裕こいてる馬鹿が餌食になんだよ。用心しろ。あと、ポケモンにもだ。最近この辺りの野生が狂暴でしょうがねぇからな」
「ポケモン――うん、分かった。でもねでもね」テネは戸口の方からグランの方へ走り寄ってきた。「ポケモンは優しい気持ちで話しかければ、絶対乱暴しないし、ちゃんと言うこと聞いてくれるんだよ」
正直グランにはテネの表情から何も読み取れなかった。どんな生物とも仲良くなれるなんていうくだらない幻想を描く、ただただ無邪気な子供にも映ったし、全部分かりきってるような、悟りきったような、そんな表情にも映った。きっとテネが本当の娘だったなら、はっきりとこの子の表情を汲み取れるんだろうなと彼は思った。
「――狂暴なもんは狂暴だ。襲われちまったら戦うか、逃げるか、諦めるかの世の中なんだよ。相手がポケモンでも人間でもな。とにかく気をつけろ。一人っきりでは遊ぶんじゃねえぞ」
「そっか、わかった」テネはまた戸口の方へ駆けていった。「でもお父さん、心配しすぎだよ。あたし友達たくさんいるから平気だもん」
「心配なんかしてねえよ馬鹿野郎。お前がどうなろうと知ったこっちゃねえ。それにおれは父親じゃねえって何度言ったら分かる?」
テネはグランの言うことには耳をかさず、きゃははと笑いながら家を出ていってしまった。本当に、能天気なもんだ。
グランはこの十年間ずっと「自分は本当の父親じゃない。お前の両親が死んじまったから、遠い親戚だったおれが面倒見てやってんだ」と、言い方の調子もそっくりそのままに、テネに言い続けていた。しかしテネはそれを飲みこんでいるはずなのにずっとグランのことを「お父さん」と呼んだ。止めろと言ってもまるで聞く耳を持たない。
こんな人間の片隅にも置けないような商売している男が「お父さん」と呼ばれる資格など、持っていないことは自覚している。おれはその「お父さん」から子供を奪って金に変えている商会にぶら下がっているのだから。娘と仲睦まじく幸せに暮らすなど、最初から望めない。望んでなどいない。望んでなどいないはずだった。
我が子を攫われる親の心情を今まで一度も考えたこともなかったと言ったら嘘になる。身を切り裂かれるような苦しみなのだろう。それは、テネを預かるまで、この腐った脳みそで想像するしかなかった。所詮、鉄でできた頑丈な柵の向こうで全うな生き方をしている「彼ら」の身にのみ起こり得ることだった。
それが、今は鮮明に思い描くことができてしまう。テネを商会に引き渡さなければならないその時、おれはきっと身を切り裂かれるのだ。
自分の運命を知ったテネは、一体おれにどんな顔を見せるのだろう。
二人の生活は極貧そのものだった。集落の一角にやっとスペースを切り取った、男一人が住むのにも狭い石造りの部屋に、薄い布切れを敷いただけのベッド。商会からの援助金と、時々友人の伝手で舞い込んでくる日雇いの仕事で稼いだ金を合わせても、グランにはこの生活の維持と、一日二食、最低限の食事をテネに与えるだけで精一杯だった。この十年間で、テネをどこかに連れて行ってやったりしたこともないし、祝い事もすることはなかった。そもそもテネの誕生日がいつなのか、グランは知らない。
そんな生活でも、テネは文句ひとつ言わなかった。それどころか水汲みや洗濯などの家事を進んで手伝おうとした。そのうち三日に一回くらいの割合で、夕飯はテネが作るようになった。
そうやってテネが献身的になればなるほど、グランは心に何か鋭いものが刺さった気がした。
夜、グランはテネの寝息を聞きながら、冷たい床の上で考えた。
おれは何してる? ガキ一人育てて売るだけの単純作業だったはずだ。少なくともそう思ってこの仕事をもらってきた。実入りはお世辞にも良いとは言えないが、おれのような下っ端には仕事を選んでられなかった。そう、これは仕事だ。感情の入り込む隙がないくらい、忙しいのだ。この娘をあと二年、育てて商会に引き渡す――簡単だろう? 簡単だ――
「おいグラン、聞いたかよ? 先週の事件」
ある日、いつも仕事を紹介してくれる同業者の友人が、ぶらりとグランを訪ねてきて言った。何やら興奮した面持ちだ。
「先週? なんかあったのか?」
「なんだお前なにも聞いてないのか? なんでも最近この辺りを荒らし回ってた『人攫い』の奴らがよ――」その友人は一呼吸おいて続けた。「みんな喰われちまったんだよ、ポケモン共に」
友人の仕入れた情報だと、先週町の郊外で四、五人の男が、見るも無残な姿で倒れているのが発見された。その遺体についていた歯型や争った跡から推測するに、どうやらポケモンの群れに襲われたらしいということだった。
「――運がなかったんだな」グランはぼそりと呟いた。
「なんだよ、もっと驚くと思ったのになあ」
ポケモンがこの辺りで狂暴化し始めたのは最近のことではない。随分前から旅の人間が襲われたり、この集落でもその群れを見たという話は囁かれていた。「人攫い」なんて罰当たりな奴らは犠牲になったってなにも不思議ではない。まあ、罰当たりなのはおれもこの友人も変わりはないのだが。
「別に驚かねえよ。むしろ良かったじゃないか、この辺りの連中にしてみれば」
「まあな。でも子供にとってはその狂暴化したポケモンも危ねえったらねえな。お前んとこの、気をつけろよ。金に変わる前に喰われちゃ世話ねえぜ」
「声がでけえよ」
グランはそう言って友人を睨みつけ、その場はお開きとなった。
テネを心配するのは、己の食いぶちを案じているからに他ならない。決して感情的な、父が娘を想うそれのような理由で心配しているわけではない。断じて――グランは性懲りもなく自分に言い聞かせていたけど、ほとんど意味をなさなかった。十年という長い年月が、グランの心を熟させたんだよ。
愛していたんだ、テネを。それはもちろん邪な気持ちからではなくて、同心円の中心から柔らかく身体全体に広がる、正真正銘の愛だ。彼が絶対に抱いてはいけなかったそれが、今やグランを支配していたんだよ。
哀しいよね。男は娘を愛してはいけなかった。
◇ ◇ ◇
グラエナの群れが、今度は子供たちを喰い殺した。
「お父さんっ!」
テネは悲痛な面持ちで、転がるようにして集落へ帰ってきた。
騒然とする住人たちは、怪訝そうな表情を浮かべてテネとグランの方へ集まってきた。「何事だ? おい――」
テネはいつものように同年代の子供と集落にほど近い川辺で遊んでいたという。そこへ腹を空かせた奴らがやってきて、次々にテネの友達に襲いかかった。ゴム人形のように噛みつかれ、振り回される友達が目に焼き付いて、足が動かなくなった。必死にそれを引き剥がし、辛くも一人、集落へと逃げ帰った。
「お父さんお願い! 助けて! みんなが! みんな死んじゃうよっ!」
「テネ――」
事態を飲み込んだ集落の連中は顔をこわばらせた。しかしすぐに動きだし、戦える男たちはすぐに準備に取りかかった。遊びに出かけていた子の母親らしい女は、その場で泣き崩れた。
「お父さん、助かるよね? サラちゃんも、ユグくんも――」
武器を持った住人が討伐に向かったが、子供たちは恐らく生き残ってはいまい。グラエナはこの辺りでは特に危険なポケモンで、顎の力も群を抜く。子供が噛みつかれてしまったら、応急手当てを施したとしても生存率は微々たるものだ。テネが無傷で帰ってこれたのは奇跡に近かった。
「お前――」
そう、奇跡だった。グランはテネの赤く腫れたまぶたを見た。生きていてくれて、心から良かったと思った。死んだのがテネじゃなくて良かったと。死んだのが他の子で良かったと――そこまで思ってしまうほど、目の前の少女が愛おしくなった。
グランは何も言えず、ただただテネを抱きしめた。暖かい体温と、子供の匂いを体いっぱいに感じた。
この子だけがいればいいんだ。
「お父さん? ねぇ、お父さんってば!」
許されないのか? 今おれはたった一人だけ、たった一人の少女を解放してやりたいと思ってんだ。今まで奪うことしかしてこなかったおれには、それさえも許されないのか?
「すまん――すまん、テネ。おれはなんにもできねぇんだ――なんにも」
この子の未来は、決まってしまっている。グラエナに喰い殺されてしまった方がまだましだったのかもしれないと、そんなことまで考えてしまう――どちらにせよ、グランには何も出来ない。泣いたって、わめいたって、無意味だ。
その日から、テネには遊び相手がいなくなった。
それでもテネはいつものように遊びに出かけようとする。一人ぼっちでも、出かけようとする。「川に行けば、みんないるもん」と言うテネを見て、グランは悲しくなった。まだあの惨事を受け止めきれていないのだ。
グランは事件があって以来、テネにはできるだけ家の中で遊ばせた。つまらなそうに一人遊びに興じるテネを見るのは忍びなかったが、みすみすテネを奴らの餌にするつもりはない。
おれには何も出来ない。けど、守りてぇんだ。テネが失っちまったものは、取り返せない。テネがこれから奪われるものも、守ってやれない。だからせめて、今の、目の前のテネだけは全力で守りてぇんだ。良いだろ? それくらいおれにもさせてくれよ。
ある西洋の有名な音楽家は言った。「新しい喜びは、新しい苦痛をもたらす」とね。
彼にとってテネは疑いようもなく喜びだった。彼女を守るというその目的のためにすることは、例外なく喜びだった。彼はその喜びを享受していった。充たされていった。
だけどその喜びは、後の避けられない苦痛への階段だった。登れば登るほど、堕ちた時に彼を襲う衝撃は計り知れないものとなる。打ち所が悪いと、命にも関わるだろうな。
物語は、いよいよ終盤を迎える。
◇ ◇ ◇
ある蒸し暑い夜だった。
ゴンゴン、という乱暴なノックの音が部屋に響いた。グランの顔から血の気が引いた。
「――お客さんかなぁ?」テネは何も知らずに首を傾げ、グランを見る。
テネはとうとう十二歳になる年を迎えた。グランとテネが出会ってから十二年が経った――契約期間終了の年。
ゴンゴン。先ほどよりも強い力で扉が叩かれる。同時に「おいグラン! いるんだろ? 開けやがれ!」という怒声が聞こえた。
テネは途端に不安げな目でグランを見つめた。分かってる、そんな目で見るな――大丈夫だから。
グランは戸口の方へ歩いていき、扉を開けた。テネはベッドに腰掛けたまま、目でグランを追う。
そこには男が五人いた。皆似たような気取った洋服を着てやがる。一番前にいる、見覚えのあるようなないような奴は太り過ぎでボタンが弾け飛びそうだ。
グランはこの瞬間で決めるつもりだった。
商会のお偉いさんを拝んでひれ伏すしかない腐った根性が、この瞬間にもまだ残っていたら、テネを渡す。しかし、こいつらを目の前にして、それ以上に怒りがこみ上げたら――その怒りに従うつもりだった。
「元気にしてたか? グランパパよお! 契約終了のお知らせだ。御苦労さんだったなー大変だったろ、ガキのお守は――」
目の前の太った男が口髭を撫でながら言った。
「――そうだな。途中で何度も放り投げたくなった。面倒なことこの上ないな」
「はは! 違えねぇ。さて――」男は持っていたカバンからロープを取り出した。「そこにいる品物を逃げ出さんように縛っとけ。買い手は決まってる。傷ものにはすんなよ」
「――ああ」
グランはロープを受け取った。そのロープは麻を乱暴により合わせただけの安物で、ささくれ立った表面は触るとチクチク痛い。裏返すと、何箇所か血が染み込んでいた。
「お父さん? 何、どういうことなの?」テネがグランのすぐ後ろまで、恐る恐るやってきた。「『品物』って? それ――あたし、なの?」
当然、グランは後ろを振り向くことはできない。ロープを見つめて俯くだけ。
「お前、お父さんなんて呼ばせてんのか?! いい年して親子ごっこかよ、愉快な奴だ」
後ろにいた、ねずみ見たいな顔をした男が罵った。テネが震える手でグランの服の裾を掴んだ。
太った男が苛立ちを露骨に滲ませて言った。
「おら、ささっとしろ。後がつっかえてんだ――」
決まった。
グランはそのロープの両端を持つ――
――それを男の贅肉で覆われた首に回した。
「うぐっ?!」
「テネ! 全力で逃げろ! できるだけ遠くへ行け!」
両手に渾身の力を込める。テネはただただ唖然と立ち尽くしている。他の男たちがグランの腕を掴み、顔を殴り、首を絞めようとした――合計六人の男はもみ合いながら、外の路地へと飛び出した。
「――が、ガキだけは絶対逃がすんじゃねえ!」
最初の太った男がロープから解放され、指示を叫ぶ。ねずみ顔の男がテネに掴みかかった。
「きゃっ!」
聞きたくない。テネの悲鳴なんて――
「止めやがれ!」グランは覆いかぶさる男を二人殴り飛ばし、テネの口を塞いでいたねずみに凄まじい剣幕で飛びかかった。
ねずみはとっさに顔を庇ったが、無意味だった。グランは真横に張り倒すようにして拳をねじ込み、ねずみ野郎は上半身が百八十度ねじれて地面に突っ伏した。
よし、テネの逃げ道が確保できた。そこから西へ走れば――追手はおれがねじ伏せてやる。
「早く行けテネ! 奴隷になんかなりたくねえだろ?! さあ――」
そう叫んでグランは西をの暗闇を指差した。その時だ、暗闇にうごめく影を見たのは。
グランは目を疑った。
「な――」
暗闇の中、こちらへ駆けてくるのはグラエナの群れだった。砂埃を巻き上げて、舌を出し、飢えた野犬は真っ直ぐグランたち目がけて向かってくる。
商会の男どもは突然の襲来に慌てふためく。「クソっ! こんなときに! ――早くガキを捕まえろ! ずらかるぞ!」
「テネ! お前家に入ってろ! 絶対出てくんじゃねえぞ!」
グランは怒鳴った。テネだけは喰わせねぇ。テネだけは絶対に救ってやる。商会の男どもの手とグラエナの牙が迫っていた。
しかし、テネはその場を動かない。
「なに突っ立ってんだ! 早く中に――」
「どうして?」
「どうしてもこうしてもあるか! お前喰われ――」
テネが振り返った――グランは言葉を失った。
その顔は、笑っていた。
グラエナの群れは戸口まで達すると、足を止めた。群れの中で一番大きなグラエナが、テネの方へゆっくりと向かう。
テネはそのグラエナの頭を優しく撫でた。
「――どうして? どうして逃げるの?」
グランは戸口に座り込んだまま立つことができなかった。商会の男どもは腰を抜かして、後ずさりしている。
テネはもう一度グランに向かって微笑んだ。
「言ったでしょ? ポケモンは優しい気持ちで話しかければ、絶対乱暴しないし、ちゃんと言うこと聞いてくれるんだって」
グランは何も答えることができなかった。首が動かない。だらしなく開いた口も、閉じることができない。
それは、自分の頭の中で結び付いた事実を、そのとんでもない予感を、グラン自身飲み込みきれないからだった。
二年前だったはずだ。人攫いの集団がグラエナの群れに襲われたのは。テネはその頃、毎日のように外へ遊びに出かけていた。
子供たちが襲われたのは、そのほんの数ヵ月後だったか。あの時は、テネだけが生き残った。
少女の足で、グラエナを振り切れるはずがない。
そもそもグラエナが狂暴化したのは、いつからだった?
グランは自身の確信に近い予感に身震いした。憶測であってほしい。しかし、繋がってしまう。
「テネ、お前――」
「悪い人ばっかりなんだ、この世界。だからね、私たちが少しずつ消してかなきゃならないの」
テネはグランを無視し、頬笑みは浮かべたまま傍らの野犬のを愛おしそうに撫でた。
おい、何する気だ――?
「食べていいよ」
テネのその言葉を待ち構えていたように、大人しくしていたグラエナたちがいっせいに商会の男たちに襲いかかった。
耳をつんざく悲鳴、野犬の息使い、鮮血――途中からグランは目を伏せないでいられなかった。
ものの五分で路地には肉片が散らばった。
ゾッとした。グラエナが泣き叫ぶ太った男を前足で抑えつけ、喉笛からかじりつき、引きちぎるのを、テネは笑って眺めていた。まるで我が子が元気よく夕食にありつくのを見つめる母親のように。
「テネ――」かろうじて喉から絞り出した声はカラカラに乾いていた。「どういうこと、なんだ?」
テネはその笑顔をグランに向けた。ブロンドにパーマのかかった髪が揺れる。
「知ってたよー、全部」両手を背中に回し、スキップするように大股でグランに近づく。「あたしがそのうち奴隷として売られる運命だったことも、あたしはもともと売り物として生まれたってことも。全部知ってた。あたし、盗み聴きは得意なんだよ。それに、なんにも知らないフリをしてるのも得意」
テネはまるで今夜の星について語っているかのように、夜空を見上げながら続けた。
「あの子たちはあたしの親友。言ったでしょ? あたしには友達がたくさんいるって。『人攫い』が襲ってきた時にあたしを守ってくれたし、あたしのこと『奴隷の子』って馬鹿にしたサラやユグに仕返ししてくれたんだ。みんな良い子だよ。人間と違って、ね」
グランは自分の手が震えているのを感じた。愛おしく思っていたはずのテネの笑顔が、人の皮を被った化け物に見えた。夜の闇に溶け込んで、不気味にケタケタと笑う、悪魔。
テネはもう一度グランに向き直った。まだ笑顔だった。
「あたし行くね。今までありがとう――グランさん」
テネは肉を引っ張り合って喧嘩している二匹のグラエナの方へ歩き、そっと呟いた。
「あれも食べて良いよ」
グランが最後に見たテネの顔は、やはり笑顔だった。
◇ ◇ ◇
この「テネ」という少女は後にこの名前を捨てて、いつからか「ジャンヌ・キルディック」と名乗り始めたんだ。彼女は敬虔レトミア教の信者でね、このお話から十三年後に起きる宗教戦争では大勢の人間とポケモンを率いて、対立する宗派と争った。そこでまた大勢の不幸な人間が生み出されるのは、最初に話した通りさ。そうやって繰り返すものなんだよ、歴史は。
ジャンヌ・キルディックは今や歴史に名を残すほどの大物だ。彼女もひとつ、言葉を残しているよ。
「わたしが従うのは、ただ、神の意思だけです。啓示に関する、いかなる人の判断も否定します」
彼女の言う「神」とはポケモンとほぼイコールであるという見方が大多数だし、実際にそうだったと思う。彼女はポケモンしか信じられなくなって、いつもポケモンの心の声を聞こうとしていたんだ。
実際に聞くことができたのかな? 聞いた上での、戦争という選択肢だったのかな? ――それは分からないけど。
――ふう、久しぶりにこんなに話したよ。長い時間口を挟まず聴いてくれてありがとう人間。君はボクの人間ランクのなかでかなり上位にいるよ。ほとんどの人間は口ばっかりで話に耳を傾けてくれないんだ。
じゃあ、気をつけてお帰りよ。
あーそうだ、最後にひとつ。最初ボクがこの少女の話をする前に、彼女は「最上級」の不幸者だって言ったよね。そして多分君は話を聞いて思ったはずだ、結局彼女は奴隷にならずに自由を手に入れたんだから、「最上級」の不幸とまで言えないんじゃないかと。図星だろ?
じゃあ一つ質問しよう。
人を殺した人間が、その先幸せに生きれると思うかい?
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書いてて気分が暗くなりました。原因不明の頭痛に悩まされてしまうほど――
今まで書いてきたお話の中ではダントツにブラック。
まあでも暴露しますと、グロとかはわりと平気なほうですw
【書いても・描いてもいいのよ(いや、かかないだろw)】
【批評歓迎なのよ】