町はようやく戦災から立ち直ろうとしていた。
空爆の焼け跡にはバラックが立ち並び、かつての繁華街には闇市が立ち、活気に溢れていた。道行く人々にも笑顔が戻りつつあった。
正午を告げる、時計台の鐘の音が風に溶ける。
闇市の立つ裏通りの場末では、ふと流れ出した音楽が人々の耳を捉えた。チェロの音色である。雑音交じりの、不器用な演奏であった。しかしそれでも人々は「おっ、始まったか」と賑わいだし、演奏者の周りにはすぐに人だかりができた。
目を丸くしているのは、人だかりに引き寄せられて初めてそれを目にした新参の者だろう。人垣の中、どっしりとした巨体を地に下ろし、古ぼけた大きなチェロを抱えて演奏しているのは人間ではない――雷電ポケモン、エレキブルである。
エレキブルの座している辺りでは、コードや電線が絡み合って、あちこち錆び塗装の剥げた変電器を取り巻いていている。時おりパチ、パチッと火花が飛ぶ。周囲のスラムに暮らす人々がめいめい勝手に電気を引くため、常にどこかしらショートしているのだ。電気ポケモンのエレキブルにとっては格好の「指定席」だ。
彼の演奏会は既にこの町の名物となっており、町の人々は彼を童話の主人公になぞらえ、『セロ弾きのエレキブル』と呼んでいた。
やがて彼は、勇壮で格調高いクラシックの演奏をたどたどしくも終える。
割れんばかりの拍手。演奏を終えた彼は聴衆に向けて丁重に礼をする。その顔つきと図体に似合わない上品なお辞儀に、聴衆の一人が吹き出したが、隣にいた常連客にたしなめられる。
セロ弾きのエレキブルは誇り高い音楽家なのだ。
さて、その日の夕方のことだ。
エレキブルは再び「指定席」に現れ、チェロの演奏を披露していた。第一楽章の展開部に入ったとき、急に、近くから、エレキブルの演奏とは全く違った調子の、美しい歌声が聞こえてきた。見ると、すぐ近くの街頭で、一匹のプリンが歌っていた。
エレキブルの周りに集まっていた人々の耳目が、プリンの歌へと集まる。音楽としては、その歌の方が自分の不器用なチェロ演奏よりも遥かに美しいことは、エレキブルも認めざるを得なかった。しかも、プリンの明朗で楽しげな歌声と、エレキブルのチェロの重く落ち着いたメロディーとが重なった結果生じるのは、ひどい不協和音であった。
「一緒に聴くと聞き苦しいわねぇ」
聴衆の一人の老婆がこぼす。
仕方なくエレキブルは、それまで演奏していた曲を止め、プリンの歌に合わせた伴奏を弾き始める。
ところが、その途端、プリンの歌はまた全く調子の異なった、哀愁漂う静かな曲へと変わる。
エレキブルがどうにか合わせようと自分の演奏を切り替えても、プリンは逃げるようにまた別の曲へと切り替えてしまう。まるで追いかけっこだ。不協和音は続く。
どういうつもりだ、とエレキブルがプリンの方を睨むと、プリンはエレキブルに向かってふふっとほくそ笑んだ。はっきりとした悪意を感じる笑みだった。
わけもわからぬ、唐突に向けられた悪意。エレキブルは混乱しつつも憤りを覚えた。しかしプリンの歌に聞き入っている人々の笑顔を見ると、そこに割り込んで怒鳴りつける気にもなれない。
仕方なくエレキブルは店じまいをし、ちょうど鳴り始めた晩鐘に追われるよう、その場を立ち去った。
それで終わりではなかった。
その後もそのプリンは、なぜかエレキブルの近くにばかり陣取って、自分の歌声を披露した。エレキブルがいくら場所や時刻を変えようと、すぐにプリンが近くにやってきて、エレキブルは追い出される、ということが繰り返された。
なぜだかはわからないが、プリンははっきりと嫌がらせのつもりで、エレキブルの邪魔をしていた。
とうとう耐えかねたエレキブルはその日、歌い終えたプリンを呼び止めて、その件について問いただした。
「なんだ、いつもボクの近くで下手糞なチェロを弾いているエレキブルじゃないか。何のつもりだ、とはどういうことだい?」
開口一番これである。危うく頭に血が上りかけたが、どうにか抑える。
「分かりきっているだろう。何故いつも俺の演奏の邪魔をするんだ? 俺に恨みでもあるのか?」
「邪魔だなんて、ひどい言いがかりだなぁ。ボクは自分の歌いたい場所で歌っているだけだよ?」
「ふざけるな!」
「アハハ、ふざけてなんかないさ」
エレキブルは声を荒げて怒鳴りつけるが、プリンはのらりくらりとかわし、取り合わない。愚直な性格ゆえ、真正面から言い合おうとするエレキブルは疲労感を蓄積させるばかりだ。
「わかった。そんなにお前が俺の近くで歌いたいというのなら、それはよしとしよう」
エレキブルは努めて冷静になろうとしながら、話題の矛先を変える。
「それならば、何故いつも俺の演奏と正反対の曲ばかり歌っているんだ? もしお前が望むのならば、お前の歌に俺の伴奏で協演してもいい」
「やなこったね。アンタの下手糞な伴奏なんか。ボクの歌の品位が下がってしまう」
エレキブルの内心でカッと怒りが燃え上がったが、言い返す言葉は出てこなかった。『下手糞』――そう言われても仕方ないほど、自分の演奏技術がプリンの歌の美しさに及んでいないことは事実だったからだ。
ぐっと言葉を詰まらせるエレキブルの様子を窺って、プリンはニヤリと笑う。
「聴衆はボクの歌を支持している」プリンは言った。「ボクの歌とアンタの演奏が衝突して、いつもアンタの方が追い出されるっていうのはそういうことだろう? アンタが自分の自由に演奏したければ、逆にアンタの演奏でボクの歌を打ち負かせばいい。それとも、そんな自信は無いかい?」
「貴様……!」
何か言い返したかったが、エレキブルは口をつぐむしかなかった。何を言っても負け惜しみにしかならない。
体格の差で言えば、自分より遥かに小さなこのプリン。だがこの場では、圧倒的な実力差の上に胡坐をかいて自分を見下ろすプリンを、エレキブルは見上げる立場にあった。
悔しさに歯軋りするエレキブルを見て、プリンはけらけらと笑って言う。
「まあ、身の程を知っているだけまだアンタは利口かもしれないね。で、話はそれだけかい? では、ボクはそろそろ失礼させてもらうよ」
風船がはねるような、ふらふらと地に足のつかない独特の動きで去っていくプリンの背中。
夕刻の街。エレキブルは地面の瓦礫を思いっきり蹴飛ばしたが、その音は、山へと帰っていくカラスの大群のけたたましい鳴き声にかき消された。
その夜。町外れにある、戦火に焼かれたかつての豪邸の跡。
ここをねぐらと定めているエレキブルは、今宵も独り、チェロの練習に励んでいた。
夕方、プリンとの言い合いで大いに気を悪くしたばかり。エレキブルは自分の気を落ち着けるため、最も得意とする、お気に入りの曲を弾いていた。自分が初めて覚えたヴァイオリン曲の、チェロ独奏のためのアレンジだ。
爆撃で空いた天井の大穴から、上弦の月が覗き見える。
月光が、弓を操る自らの右腕を照らす。おおよそ楽器を操るに相応しくない、大きくて太く、ごつい腕。
エレキブルはこの腕が今よりもまだ細く、器用に動いていて、弓を上手く操ることができた時のことを思い出さざるを得なかった。
かつてこの邸宅には、名の知られた音楽家の一家が住んでいた。
その家に生まれた彼は、しばらくの間自分もまた人間であり、成長したら音楽家になるものだと信じていた。
エレキッドから成長し、エレブーに進化した彼はすぐさまヴァイオリンの練習を始め、瞬く間に人間の音楽家たちさえ目を丸くするほどに上達した。
しかし、戦争が彼の運命を狂わせる。
「ごめんよ。お前はこんな姿になりたくはなかっただろうけど……」
今の姿に進化させられたエレキブルを前に、彼が母と仰いでいた人間が最初に告げた言葉は、今もはっきりと脳裏に焼きついている。
「どうかそのたくましい二の腕と、雷の力で、私たち一家を守っておくれ」
戦局が不利に傾き、敵軍の本土進攻の可能性が囁かれる中、音楽家の一家は身を守るためのより強力なポケモンを欲し、エレブーをエレキブルに進化させた。
それと引き換えに、エレキブルはヴァイオリンの演奏技術を失った。
進化してから初めて、ヴァイオリンを持とうとした時の絶望感は今も忘れられない。エレキブルのごつく、力強い二の腕は、エレブーのそれに比べて遥かに不器用であり、ヴァイオリンの繊細な演奏にはいかにも不向きであった。
だが、彼は音楽家の夢を諦めなかった。ヴァイオリンをより大型のチェロに持ち替え、死に物狂いで練習を重ねた。そうして彼は、エレブーだった頃には遥かに及ばないものの、どうにか聴くに堪えるほどのチェロの演奏技術を取り戻すことができたのだ。
やがて、彼の進化の甲斐もなく、音楽家の一家はあっさりと皆死んだ。軍需工場を狙った大型爆弾の直撃を前に、彼の力など何の意味もなさなかった。
幸か不幸かただ独り生き残ったエレキブルは、今更野生に戻ることも出来ず、路上でチェロを演奏し、通行人から食料を請う生活を始めた。
エレキブルは演奏を止め、自分の二の腕を月光にかざす。
何度、この不器用な二本の腕を切り捨ててやろうと思ったか分からない。それでもなお、この両腕を本当に失くしてしまったら、自分はもう死ぬしかないことも知っている。
潰した豆の跡。手のひらに刻まれた痕跡が物語る今までの努力が、確実に自分の演奏技術を上達させていることも、彼は知っている。
落ち込んだとき、彼は演奏を終えた跡に、自分に拍手をくれ、パンを投げてくれる聴衆の笑顔を思い出す。こんな自分の演奏でも、楽しみにし、応援してくれる人間はいる。そのことだけが彼の誇りであり、その誇りゆえ、彼は今まで努力を続けることができた。
あのプリンの歌は確かに美しい。
彼は美しく、かつ多彩な声の持ち主だ。低温から高音まで、どんな声でも自在に出せる。楽しげな曲から哀しげな曲、落ち着いた曲から激しい曲まで、どんな曲でもお手の物だ。
それは、チェロという音域の限られた楽器を扱い、しかも体格から演奏技術にも限界を抱える自分には望めない能力だ。
だがしかし、あのプリンには、決して自分のように、挫折や、努力の苦しみを知りはしまい。プリンという種族に生まれついたという幸運の上に胡坐をかいて、ひとを小馬鹿にするあんな奴には。
音楽が自己の表現であるならば、この苦しみを知っている自分の音楽には、決してあのプリンの歌には持ち得ない深みを持たせることができるはずだ。
エレキブルは曲目を変え、より難度の高い練習曲の演奏を始めた。その夜が果てるまで、彼はチェロを弾き続けた。
それから数日後のことだ。
エレキブルが指定席で演奏していると、またしてもプリンが邪魔をしに来た。プリンが歌いだすと、エレキブルの聴衆の何人かがそちらへ流れた。それどころか、プリンの周りにはすぐにエレキブルよりも多い人だかりが出来た。
だが、今度ばかりはエレキブルも負けられなかった。プリンが歌いだした後も、意地になって演奏を続けた。聞き苦しい不協和音が辺りを包み込み、聴衆があからさまに顔をしかめる。それでも構わず演奏を続けた。
「いい加減にしろ!」
聴衆の一人が怒号を発し、エレキブルに石を投げつける。
「オレはプリンの歌を聴きに来てるんだ! お前のヘタクソなチェロなんて聴きたくもねェんだよ!」
「ちょっとあんた! あたしたちのエレキブルになんてこと言うんだい!」
聴衆にはエレキブルを擁護する者もいたが、石を投げた男に同調する者もおり、真っ二つに分かれて大喧嘩を始めた。もはや演奏会どころではなかった。エレキブルはがっくりと肩を落とし、すごすごとその場を立ち去った。
「惨めだねぇ」
夕日に染まる、町外れの焼け跡。
チェロを背負い、瓦礫を踏み越えてねぐらに戻るエレキブルに、背後から声をかけたのはプリンだ。エレキブルはギロリと睨み返す。
「アハハ、ボクのことが憎いかい?」
もちろん憎くて仕方がなかった。だが、自らの誇りにかけて、そんなことは口に出せない。
「憎くなどはない。俺の演奏が至らなかったことが原因だ」
「アハハハハハハ!」
エレキブルの返答に、プリンが大笑いをする。エレキブルはひどく不愉快に思った。
不愉快には思ったものの、さすがのエレキブルも今回は、プリンとまともにやり合うことなくさっさと立ち去ろうと心に決めていた。だが、やがて、ひとしきり笑った後にプリンが愉快そうに切り出した台詞は、エレキブルにとって聞き逃すことができないものだった。
「なるほど、いつかはボクの歌を演奏で打ち負かしてやろうと、アンタは本気で思っているわけだ。滑稽だね! 自分のことをいっぱしの『音楽家』だなんて思っちゃってるんだからさ!」
ピクンと、エレキブルの眉間が引きつる。
「……なんだと?」
プリンはエレキブルが挑発に乗ってきたのを見ると、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、続ける。
「自分が下手糞であることは自覚しているけれど、一部の人間たちにきゃあきゃあと騒いでもらって、『こんな自分の演奏でも評価してくれる人間はいる』なんて、幸せな勘違いをしているのかな? つくづく、惨めなことだねぇ」
エレキブルは自分の手が震えていることに気づく。彼はその震えを握りつぶす。
プリンが何を言わんとしているのかは予測が出来た。それは、エレキブル自身が薄々気づきつつも、決して認めまいとしていたことだった。
「なぁ、本当は自分でも気づいてるんじゃないかい? アンタの曲を聴きに来ている人間が、ホントにアンタの『音楽』を評価していると思っているの?」
「……黙れ」
握り拳に力が入る。意識せざるとも、その拳は電気を帯び、パチパチと火花が飛び始めていた。
それ以上言うな、とエレキブルは念じる。
これ以上は、自分を抑えられそうに無い。
だが、プリンは言った。
「人間たちはアンタの演奏する音楽を聴きたくて来てるわけじゃない。チェロを弾けるだなんて芸のできるポケモンが物珍しいから見に来ているだけだ。アンタは『音楽家』なんかじゃない。言うなれば――そうだね、『猿回しの猿』さ!」
「黙れえええええええええ!」
逆上したエレキブルは、思いっきり腕を振り上げ、プリンめがけて振り下ろした。
プリンはすんでの所でかわす。エレキブルのパンチは空を切って、地面をえぐる。
「あは、あはは! そうだよ、アンタはチェロなんかより、そのぶっとい腕で暴力を振るってる方がお似合いさ! なぁ、やめちまえよ。音楽家の猿真似なんてさ!」
なおも挑発を続けるプリン。
エレキブルはがむしゃらに腕を振り回し、大振りのパンチを間断なくプリンめがけて打ち出すが、ふらふらと不規則な動きで跳ね回るプリンにはなかなか当たらない。
「目障りなんだよ、アンタみたいな奴は!」
プリンが叫ぶように言う。
「図体ばかりでかいオランウータンが、わざわざ自分から猿芸を演じやがって! そんなに人間を喜ばせたいなら、波止場で貨物の運搬でもしてた方がよっぽど有意義だろう。才能の無い猿は身の程を知って、身の丈にあった檻の中に納まってりゃいい!」
その罵倒がどこか悲鳴にも似た悲痛さを帯び始めていることに、頭に血の上ったエレキブルは気がつかない。
そして、ついにエレキブルの拳がプリンの身体を捉えた。
クッションのような感触。体中から湧き上がる激情に任せて、何度も何度も、エレキブルはプリンを殴り続けた。この感情が怒りなのか悲しみなのか、彼自身もうわからない。拳が割れ、二本の腕が壊れるまで、殴りつけてやろうと思った。
貴様に俺の気持ちがわかるか。種族に恵まれた貴様などに、人間の勝手な都合で永遠に夢を断たれた俺の気持ちが。
どれほど殴られても、不敵な表情を変えないプリン。
だがその様子が、突然に変化する。体を震わせ、ぐすんぐすんと少女のように泣き始めたのだ。
その様子に怒りをそがれ、我に帰ったエレキブルが腕を止める。
そのまま、しばらく泣き続けていたプリンだったが、突然、かすれた声で喋り始めた。
「……くだらない、身の上話でもしてやろうか」
怒りのやり場を失い、ばつが悪そうにプリンを見下ろすエレキブルを前に、プリンは話し出す。
「ボクのご主人様は、兵士だった。遠い外国の、ずっと北の方にある寒い町で、敵兵のポケモンにズダズダに体を切り裂かれて死んだんだ」
ひやりとした北風が、エレキブルの鼻先を撫でた。プリンは続ける。
「ボクらプリンは非力な種族だ。進化してプクリンになったり、高価なマシンで強い技を覚えたりしたところで、大して強くなんてなれっこない。美しい歌声なんて要らなかった――ボクは、ご主人様を守りたかった。守るための力が欲しかった」
――どこか身に覚えのある境遇。エレキブルはぐっと言葉を詰まらせる。酷使した両腕が、今になって突然痛み出したように感じられた。
「なぁ、なんでアンタは、音楽家になりたいだなんて思っちゃったんだ? アンタのたくましい体格と、雷の力さえあれば、物凄く強いポケモンになって、誰かを守ることのできるポケモンに――ボクがなりたくてもなれなかったものになれたはずだろう?」
それまで泣いていたプリンが、自嘲気味に笑い出す。雲が落とす影が周囲を包み込む中、彼は言った。
「身の丈に合わない夢なんて持ったって、不幸になるだけじゃないか」
既に日はとっぷりと暮れていた。
嗚咽を上げて泣き出すプリン。エレキブルは言葉を失い、がっくりと膝を落として、その場にうつむいた。
自分とは違う、恵まれた境遇に居る者だとばかり思っていたプリン。
だが目の前に倒れ伏し、泣いているのは、両腕を失った自分の死体だった。
――お前は刺々しくて、素直じゃない性格だから、もし僕がいなくなったとしたらその後が心配だよ。
プリンは主人の腕に抱かれ、その優しい声を聞いた。
主人の体温の温かさを感じ、ただその中で安らいでいた。
だが、やがて目の前の風景が暗転し、気づけばプリンは寒々しい廃墟の中にいた。
一時の混乱を経て、彼は自分が夢から覚めたのだと気づく。一筋の涙が、プリンの瞳から流れた。ゆりかごから放り出された衝撃は、この朝にもまた反復された。
あれから一ヶ月ほどが経っていた。
例の一件の後、二匹は和解し、翌日には和解のしるしとして一緒に演奏を行った。二匹の共演は、その後も何度か繰り返され、彼らは商売仲間となった。
「イテテ……。あの野郎、本気で殴りやがって」
皮肉屋のプリンと、プライドが高い上にすぐに手が出るエレキブルとは、その後も喧嘩が絶えなかった。昨日もちょっと調子に乗ってからかいすぎたばっかりに、エレキブルの拳骨を食らうはめになり、殴られた頬が今になっても痛む。
だがまあ、正反対な性格の二匹は、正反対であるがゆえ、まずまず気の合った凸凹コンビになっているのではないかと、プリンは頬をさすりながら思った。
ともわれ、今日もエレキブルとの演奏会の約束がある。
昨日の喧嘩のことならば問題ない。あいつがその程度の事を翌日にまで引きずらない性格であることは、プリンにももうわかっている。
プリンはねぐらを出た。
その日の演奏会も盛況のうちに終わった。
日も傾き始めてきた折、彼らは人通りの無い裏路地へ引きこもり、売上金として聴衆から得た小銭や食料を分け合った。
戦利品のコッペパンをかじりながら、ふとプリンは、エレキブルの荷物がいつもより大きいことに気がついた。いつも背負っているチェロとその他の演奏器具ばかりではなく、大きな風呂敷に缶詰やら酒瓶やらを詰め込んでいて、まるでこれから旅にでも出る、という具合だ。
プリンがそのことについて触れると、エレキブルは聞かれるのを待っていた、と言わんばかりに、自らの決意を語った。
「町を出るって?」
プリンは呆気に取られつつ尋ね返す。何の冗談だ、と思ったが、エレキブルの目は真剣そのものだった。
「ああ、いつかお前が言ったように、このままこの町にいると俺は『猿回しの猿』に甘んじてしまう。いつかはこの町を離れて、他の地を旅しながらチェロの修行をし直すべきだとかねてから思っていた」
「アンタ、まだそんな事を言ってるのかよ」
プリンが呆れ顔でたしなめる。
「何度でも言うけどね、身の丈に合わない夢なんて持ったって、不幸になるだけだよ。プリンが強くなりたくてもなれないように、エレキブルが一人前のチェリストになろうったって土台無理な話さ。野垂れ死にするだけだ」
「夢を追い続ける中で野垂れ死にできるなら本望だ!」
エレキブルが怒鳴るように断言する。
プリンの背筋が緊張した。エレキブルの決然とした瞳は、プリンの苦しい記憶を呼び覚ました――周囲の制止を振り切って、軍への入隊を決断した、彼の主人の姿だ。
二の句を継げられずにいるプリンに、エレキブルはにこりと笑って、言った。
「お前には感謝している。互いに野垂れ死にしていなければ、また会おう」
それが別れだった。
随分とあっさりとしたものだ。
夕暮れの町。古ぼけた大きなチェロを担ぎ、去っていくエレキブルの背中を、プリンはいつまでも見送っていた。
――いつかはこんな日が来ると思っていた。
エレキブルの姿が見えなくなった後、プリンは溜息を付き、独り言をつぶやいた。
「それにしても、たった一ヶ月、か」
さすが、考えなしの馬鹿は行動が早い。
馬鹿だ、とプリンは思う。あのエレキブルも、天国にいる彼の主人も。
彼らのような種族は、何故信じられるのだろうか? 目指した夢の先に何かがあると。その夢を叶えられずとも、例えその途上で死んでしまおうとも、夢を追うこと自体が幸福であると。
夢を断たれたところで死にはしないことを、プリンは知っている。かつて主人を亡くしてしまったら決して生きていけないだろうと信じていた自分ですら、こうして今も生きているのだから。夢なんて持っていなくても彼は生きてこらられたし、むしろ持っていないからこそ要領よく立ち回って、今後も生きていけるだろう。生きがいなんてものは、手ごろなものがいくらでも近くに転がっているものなのだ。手の届かない葡萄を取ろうと、わざわざ木に登る必要なんてない。
けれど。
あのエレキブルのように、一途に一つの夢を追う生き方に憧れる気持ちもまた、決してやむことはないのは、何故なのだろうか。
「……ふんだ、ばーか。ホントに野垂れ死んじまえ」
町の中心部へ向かう、路面電車の警笛が響く。
プリンの悪態が、エレキブルに届くことは永遠に無い。
また独りぼっちだ。
『セロ弾きのエレキブル』が町から消えた。
そのことはしばらく町の人々の注目を集めるニュースとなり、様々な憶測を呼んだが、時が経つにつれ皆忘れていった。とどのつまり、彼の存在感などそれくらいのものだった。
それでもなお、ほんの一握りの者だけは、いつまでも彼のことを覚えていて、その演奏が町から途絶えたことを寂しがった。