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  [No.2270] ストッパーブレイク 投稿者:紀成   投稿日:2012/03/01(Thu) 18:41:26   94clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

人間関係とは厄介なものである。特に思春期における女子同士の友情というものはいささかややこしいもので、特定の誰かと話しているだけで交換ノートに凄まじい嫉妬の文を書いて送られてきたりする。いらないプレゼントと言っていいだろう。
それもまあ思春期を終えて高校生になればいくらか収まるところだ。それでも生きている間はそういう感情と良くも悪くも付き合っていかなければならないのだ。
『嫉妬』『恨み』『妬み』…… 『愛する』ことより簡単であるが故に、それにズブズブと嵌っていく人間も数多い。それでも抜け出そうとしないでいれば、その先にあるのは――

破滅、だろう。

『えー、このxは横線を表しているわけだから、6を代入してそれと同じようにyも――』
先生の声が左耳から右耳へと綺麗に抜けていく。空腹感を覚える時間帯。時刻は午前零時を回ったところ。四時間目でしかも数学というのは、退屈で退屈で仕方無いカリキュラムだろう。現に周りを見れば、ほとんどの生徒が目に光を映していなかった。進学校と名高い晴明学園も、昼前の授業の反応は周りと変わらないのだな、と思わずため息が漏れる。
ミドリは一番後ろの席に座っていた。窓際の一列目。外ではグラウンドで他の学年が体育をやっていた。男子だ。格闘タイプを使っての柔道。一人の男子がナゲキに掴みかかっていった。だがナゲキの方が上だった。猪突猛進の男子の襟首を掴み、背負い投げる。
「ソラミネ、聞いてるのか」
はっとした。金縁眼鏡をかけた教師がこちらを見ている。その目にはやれやれ、という色が見て取れた。
「すみません」
「……後で職員室に来なさい」
何のお咎めもないことに周りは驚いたようだ。別の意味で静まっていた教室が、少しざわつく。ミドリは彼らの好奇の視線に気にせず、ただひたすらに窓の外を眺めていた。授業終了のチャイムが鳴ったのは、それから二十分後だった。

「ソラミネ、さっきの態度はなんだ」
所変わって職員室。ミドリは先ほどの数学教師の前に立っていた。部屋は暖房が効きすぎていて、暑い。その場にいた彼らは意外な様子でこの光景を見ているようだった。晴明学園の中でも学年を超えてトップクラスの成績を誇るミドリが職員室に呼ばれること事態、珍しい。ましてやプリント運びではなくお説教とくれば驚くのは無理もないだろう。
「お前の優秀さは皆認めてる。先生だってそうだ。高校生でアドルフ・ヒットラーの『我が闘争』を原書で読める奴なんてそうそういないぞ」
「彼の独裁的思考と今の平和ボケした世界と一体何が違うのかを比較してみようと思ったんです」
「それはいい。日常の授業で叱られるなんて、お前にあってはならないんじゃないのか」
教師が一息ついた。そして哀れんだような目をミドリに向ける。気持ち悪い、と思った。
「まだ先輩のことが忘れられないのか。……無理もないが」
ミドリは頭を抱えながら『失礼します』と職員室のドアを開けた。

屋上―― 普段は立ち入り禁止だが、実はほとんどの生徒が昼休みに使用していたりする。ミドリもその一人だった。一ヶ月前からずっとここで食べていたのだ。教室に戻る気がしなかった。
一ヶ月前。冬休みが始まるギリギリ前。寒いのに晴れ渡っていて、雪も降らない冷たい夜だった。そして、何もかも焼き尽くした赤い夜だった。
先輩が、突然姿を消した夜。町外れの屋敷を黒こげにして、死んだように消失した夜。誰も何も見ていない。何も出てこない。死んではいないと断言できた。それに関する物が、何も出てこなかったから。
だけど、自分にとっては死と同じだった。
「先輩……」
腰のホルダーでジャノビーが不安そうにこちらを見ている。ここ数ヶ月で幾度かバトルさせる機会があり、彼をバトルさせていたら進化した。ツタージャから、ジャノビーへ。
食欲が出ない。ミドリはボールを出すと、持って来ていた弁当を広げた。首を傾げる彼に、薄く笑う。
「食べなさい。お腹空いてるでしょ」
言葉の通りだったらしい。少し躊躇った後、ジャノビーは短い手を器用に使っておかずを食べ始めた。その光景を微笑ましく思い、ミドリは今日初めての笑顔を浮かべた。
昼休み終了のチャイムが鳴り響く。だがミドリは動こうとしなかった。膝を抱えて、青い硝子を張ったような空を見上げている。ジャノビーが食べ終えても、全く視線を上から逸らそうとしなかった。

『――私はさ、誰にも邪魔されない世界を生きていたいんだ』
夏の緑と空が眩しい。一枚の写真のような風景をバックに、彼女は言った。その足はしっかりと地面を踏みしめ微塵の震えもない。
『邪魔されない世界?』
『何をするにも自分で決める。自分で決めた道を行く。当たり前だけど自分で選ぶんだから、危険な道だってある。もしかしたらその先に死があるかもしれない』
『えっ!?』
『驚き方がオーバーだね、ミドリは。……まあ仕方ないか』
『でも未練を残して死にたくはないな』
『この姿で生きていられるのは、これ一度きりだから』
突然空が暗くなった。闇が、影が全てを飲み込んでいく。違う。自分の場所だけ明るいまま。向こうだけ切り離されたように染まっていく。
『先輩!?』
何者かが足の下をすり抜けていく。誰かが闇の中で深々と膝をついた。忠誠を誓うかのように。
『バイバイ、』
手を伸ばしても届かない。影が溢れ、溢れて―― 全てが飲み込まれた。

「あ、起きた」
意識を取り戻して最初に耳に入って来たのは、自分が今一番聞きたい人の声じゃなかった。低い声。あの人よりも低い。あの人も女性の割りに低かったけど、少なくとも男よりは高かった。
虚無感を覚えてミドリは目を開けた。コンクリートに預けていた腰と背中が痛い。目の前には見慣れない姿の人間がいた。いや、人であることは間違いないが、ミドリは何処の誰だと認識したことはなかった。
第一印象は―― ポーカーフェイス。その目の色は状況によって立場を変え、どんな奴を敵に回しても冷静でいられるような感じだ。そして全く面識がない自分でも確信するくらい、彼の顔は整っていた。ああ、なんか入学したての頃に女子が騒いでいた気がするなあ……くらいの認識度であるが。
ジャノビーがスカートの上で丸くなって眠っていた。重い。
「優等生で、ギアステーション兼バトルサブウェイの主からも一目置かれてて、美術部の部長で、警察署長の孫で、世界的に有名な研究者の娘で―― って、
ソラミネミドリ。神様はお前に幾つ肩書きと七光りを持たせれば気がすむんだろうな?」
「自ら望んでこの人生を歩むことになったわけではありませんから」
何故か答えていた。皮肉にも、からかいにも取れる言葉を彼は遠慮無しにサラサラと紡ぎだした。ぶっつけ本番で言えるような長さではない。少々戸惑いを感じながらも、ミドリは冷静さを保とうとした。
そもそも男性と話すことに慣れていないのだ。あの人がいた頃は、授業中と短い休み時間以外ずっと隣をキープしていたから。あの人としか話さない日も、多かった。
だからなのか、一ヶ月経っても未だに彼女以外と話すことに慣れない。男なんて、もっての他だった。
空はだんだん赤みを増し、雲に金色の縁取りがされている。薄い青とピンクとオレンジが混ざった、独特の色が一枚写真のように目に焼きつく。
「というか、貴方誰ですか」
無礼な気もしたが、名前の分からない相手と長く話せるほど、ミドリは社交的ではない。頼りになるジャノビーはまだ起きそうもなかった。
「……認識されてなかったのか。参ったな」
男がミドリの両肩に手を置いた。いきなりのことに何も反応できず、ビクッと肩を震わせる。喰われる―― そう感じた。

「俺はショウシ。硝子って書いて、ショウシだ。覚えとけ」

気がついたら彼……ショウシが額を押えて倒れこんでいた。左腕で身体を押さえ、驚いた顔でジャノビーを見ている。
ジャノビーは起きていた。いつもは何事にも動じない冷静な目を、ナイフのように鋭くさせて威嚇している。ミドリは腰が抜けて立てなかったが、状況を確認してそっと立ち上がった。
「ジャノビー……私を助けてくれたんですね」
ガクガクと頷く。頭をそっと撫でると、ミドリはショウシを見た。怒っている様子はない。ハンカチを取り出し、額に当てる。遠目からでも血が滲んでいるのが分かった。
「ごめんなさい」
「迂闊だったな。まさかポケモンに隙を取られるとは思わなかった」
やっぱ女絡みのことはどんな男にでも隙を作らせるんだな、と一人で納得している。ミドリはとりあえずこの男を敵だと認識した。そして名前と顔と性格と自分にしたことをきっちり頭の中にインプットした。


(先輩、私変な人に懐かれたようです)
帰り道。ミドリは一人で歩いていた。下校時刻はとっくに過ぎていたし、一緒に帰るような友達を彼女は持っていない。
(今までは先輩が一緒だったから、何も恐い物なんてなかったけど……いなくなっちゃったから、自分で何とかしないといけないんですね)
(一体いつ帰ってくるんですか、先輩)
(私を置いて死ぬなんて許しませんよ)
ミドリは立ち止まった。空はもう、群青色に白い点が瞬いている。

(どんな形であっても、私は貴方を見つけ出します)
(必ず)
(必ず)

彼女の持っている感情は、『嫉妬』でも、『恨み』でも、『妬み』でもなかった。そこにあるのはただひたすらに純粋な『愛』。それが純粋すぎるが故に、狂気へと変貌していくことに彼女はまだ気付かない。
どうやらカオリは崖から落ちただけではなく、落としてしまったようだ。

ミドリの、『制御』という名の何かを。