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  [No.2303] 春の足音 投稿者:紀成   投稿日:2012/03/15(Thu) 11:55:38   107clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

日増しに暖かくなり、外に洗濯物を干すことも苦ではなくなった。石畳の小道に面した私の部屋。ベランダの手すりにシーツ、タオルを並べていく。端っこにはシェイミをモチーフにしたプランター。
金属製のハンガーには下着とYシャツ。あの双子のは、少し離れて別のハンガーに干す。男性、しかも五十を超えた男に若い女性の私物は干せないので、ドレディアに頼む。
部屋の中にあるロトム型のラジオから、ハスキーな女性の声が聞こえてくる。全国的に晴れ渡り、花粉が非常に多い日になるでしょう。
下の通りを歩く人達の中に、花粉マスクをつけた人が沢山いた。私は花粉症ではないが、洗濯物に花粉が付くのは好きではない。バイクに黄色く汚れが付くのもいただけない。
「……晴れたことだし、水仕事をしようか」
ドレディアが頷いた。

アパルトマンの裏。ガレージがあり、住人の自転車やバイクが置いてある。ここに子供連れで住んでいる人間はいない。若い女性や男性はいるが、それでも結婚はしていない。
ホースを使うと周りに飛び散るので、バケツに大量の水を入れて持って来た。ゴム手袋に雑巾、洗剤も忘れない。
黒がメインカラーなので、白ほどではないが汚れが目立つ。案の定、花粉と砂埃が猛威を奮って表面に模様を作っていた。少しずつ洗剤と水を使って落としていく。
ふとガレージの屋根の隙間を見れば、梅の花が咲いているのが見えた。濃いピンク色。今年は芯まで冷える日が多かったせいか、桜の蕾はまだ固い。やっと梅が咲いてきた頃だ。例年より五日ほど遅いという。
腕まくりをした腕に日光が差し込む。ドレディアが横で久々の日光浴を楽しんでいた。
終わった時には、時計が十時半を指していた。

あの二人はまだ帰ってこない。確か今日は答案返却と大掃除だと言っていた。双子とはいえ、高二になればほとんど変わってくる。文系、理系の差ではなかった。勉強が苦手なのは二人とも変わらなかった。
昼食と夕食の買出しをするため、ドレディアと一緒に部屋を出た。もうコートはいらない。薄いセーターだけで平気だ。
パン屋に行ってフランスパン、スーパーに行って野菜と果物を買い込む。ついでに珈琲店に行って豆を買う。帰る時に、学生達とすれ違った。いい顔をしている者もいれば、その反対もいる。後者はしきりに鞄を気にしている。試験の結果の問題だろう。あの二人は、どんな顔をして帰ってくるのか。
石とレンガが多く、近代的な印象をあまり受けない街。私が移り住んで五年以上が経つ。沢山の人との出会いに支えられて生きてきた。私がポケモンを手に入れるなんて、全く考えていなかった。
ここに留まることも……

帰った私がまず一番初めにしたことは、手を洗うことだった。その後にキッチンへ向かい、鍋に水を入れて沸かす。ほうれん草を洗って切り、バターでいためる。途中でベーコンと卵を入れてとじる。
水がお湯になったらそこに玉ねぎ、人参、キャベツを刻んでいれて茹でる。火が通ったらコンソメを入れ、溶けたらチーズを入れる。
「ただいまー」
二人が帰ってきた。どことなく声に張りがない。おかえり、と言った私の目に飛び込んできた物はテスト用紙だった。妹の方はため息をついた。
「今回はいけると思ったんだけどなあ」
「でも赤点は免れましたし。私も現代文が」
「いいよねヒメは。あたしなんてとりえは体育だけ……」
珍しくネガティブな発言が目立つ。買ってきたフランスパンを切り、皿に盛った。
「さあ、先に食べなさい。ヒナさんは部活があるんだろう」
「そういえばマスター、春休みどうすんの?あたし達はこの一年で溜めたバイト代でどっか行こうかと思ってるんだけど」
パンにチーズを塗り、かじる。粉がテーブルに落ちる。
「どうせなら遠い所に行こうかと思って、色々パンフ持って来た」
彼女の鞄から、色とりどりのパンフレットが出てきた。カントー、ジョウト、ホウエン、シンオウ。そしてイッシュ。ヒウンの港が表紙だ。
「ジョウト行こうかな。食べ物が美味しいらしいし」
「各地の名産品を味わいながらっていうのもいいですね」
「ポケモンも見てみたい」
「二人とも、読むか食べるかどちらかにしなさい」

友人と約束がある、ということでヒメは出て行った。皿を洗い、一息ついたところでパンフレットが目に入る。春休み。自分の場合休みと平日の違いはあまりない。
「……」
二人が行く場所とは別の場所だろう、と思っていた。ただ行くかどうかは分からない。行くとしたら――


まだ梅しか咲いていない。だが確実に桜の蕾は膨らみ、開花を待ち続けている。
春が近づいていた。