●硝子の浮き玉
浮き玉はガラスを吹いて作った玉です。 ガラスを吹いて丸い形を作り、冷めないうちにガラスの封をして工房の印を押します。空気を密封したそのガラスの玉は水に浮きます。だからそれは浮き玉と呼ばれるのです。 私は小さい頃、浮き玉が大好きでした。祖父の工房にも家にもたくさんの浮き玉がぶら下がっておりました。小さいもの大きいもの。色の変わったものや、模様をつけたもの。様々ありました。 私はそれを眺めるのが好きでした。編んだ紐で玉を包み、それをいくつもぶら下げた様が好きでした。
私の育った町はガラスの町でした。いくつも、いくつものガラス工房がありました。 祖父はガラス工芸の名人でした。形の良いきれいなグラスも作りましたし、透明な器も作りました。熱を帯びた飴のように伸びるガラスを自由自在に引き伸ばして、様々なポケモンを作りました。翼を広げた鳥ポケモン、嘶く火の馬ポケモン、うねる海蛇ポケモン、まるで魔法のように火と風を操って、祖父は様々な形を練り上げるのでした。そんな祖父の隣にはいつも何匹かの炎ポケモン達が寄り添っていました。ひょっとこのような口から火を吹くブーバー、燃え盛る炎の尻尾を持つリザード、木炭を食う茶釜のようなコータス、ふかふかとしたマフラーをしたブースター。それぞれに得意な炎があって作るガラス工芸によってパートナーが違うのだと祖父は語っていました。 祖父はいろいろな作品を作りましたが、私は浮き玉が好きでした。丸いだけの最もシンプルなガラス工芸ですが、その球体がわずかに閉じ込める空気、空間が好きだったのだと思います。祖父はいくつもガラスを吹いては浮き玉を作って私にくれました。通常は種類ごとに手伝わせるポケモンを変えるのですが、浮き玉だけは別でした。今日はブーバーの炎で、今日はコータスの炎でという具合に順番に手伝わせては作っていました。祖父は浮き玉の蓋にポケモンごとに違う印を押しました。 「名人がな、硝子の玉を膨らますとその中には硝子の精が宿るんだ」 祖父はよく、こんな話を致しました。 「よく命を吹き込むって言うだろう? 職人の息吹、その相棒の炎(いぶき)が交じりあってな、硝子の精になるんだよ。浮き玉が美しいのは中に硝子の精がいるからだ。だからそいつが逃げていかないうちにこうして蓋をするんだよ」 だから私は浮き玉が好きだったのだと思います。たとえその中に何も見えなくても、ここには何かが居るのだ。何かが宿っているだと考えるだけでワクワクしたのです。 そんな祖父の話を聞いて育った私は、いつか自分もガラス職人になるのだ。そう思っていました。現に工房の子の多くはガラス職人になっていましたから。 けれども、町はいつまでも同じ姿をとどめませんでした。 他の地方や外国が安い製品を次々に作り始めて、ガラスの町は次第に傾いていったのです。一つ、また一つ。工房は数を減らしていきました。 そんな中、私が初めの学校を卒業する頃、祖母が亡くなって、あとを追うように祖父が他界してしまったのです。その頃にはこの町からずいぶんな数が無くなっていたと思います。目の前の工房から人がいなくなり、隣の工房は看板を変えました。そうして祖父がいなくなった時に、後を継ぐ気の無かった父は工房を畳んでしまい、私達家族は他の町に移ったのでした。 遺っていた祖父の作品は多くが人手に渡って、あるいは処分されました。祖父の仕事を手伝っていたポケモン達もまた、トレーナーや職人に引き取られたりしたのでした。私達家族の下に残ったのはブースターの一匹だけでした。残されたブースターは仕事が無くなってからすっかり老け込んでしまいました。私と散歩に行ったり、ご飯を食べたりする以外はリビングの陽のあたる場所でずっと眠っております。 そうして他の町に渡り、学生生活を送っているうちに、私は次第にガラスのことなど忘れていったのでした。
それからの話は暫くの月日が経ってからになります。 進学か就職か、そんなことを考えなくてはいけない時期に差し掛かっていた年の暮れでした。そのような岐路に立たされた逃避の結果だったのでしょうか。今年は徹底的にやろうなどと意気込んだ私の姿は、普段の年の大掃除では手をつけない倉庫にありました。この際、いらないものは徹底的に整理しようと思ったのです。 埃を被って灰色に汚れたダンボールをいくつもいくつも出しては開きました。昔取った授業のノート、教科書、色の褪せたおもちゃ。思いがけず懐かしいものを発見しては手を止めました。けれど多くは捨てることにいたしました。とてもとても懐かしかったけれど、私にはもう必要の無いものでしたから。住むところも、持ち物もいつまでもそのままではいられないのです。私は書類を縛り、そうでないものは袋に詰めて口を縛ると家の外へと運び出しました。今の時期の日暮れは早いもので、その時には随分と暗くなっていました。 そうして何往復かを繰り返し、倉庫に戻った時、なにやら倉庫の中で動く影があることに気がつきました。父か母が入ってきたのだろうかと、倉庫の入り口に足をかけた私が見たのはくすんだ赤い毛皮のブースターでした。私は少々驚きました。時が経ち、ますます年老いたほのおポケモンは、最近散歩にも行かず眠ってばかりでしたから。ブースターはかつての鮮やかさと膨らみを失った尻尾を揺らしながら、一つの箱をしきりに引っ掻いています。この年老いたポケモンが惹かれるようなものがこの中にあるのだろうか? 私はテープ止めされたままのその箱にカッターを入れ、扉を開くように開けました。中にはくしゃくしゃに丸めた黄ばんだ紙が何かを守るように詰められております。私は手を突っ込んで中のものを取り出しました。紙に包まれて出てきたそれは、丸い丸い、ガラスの浮き玉でした。大きさはぼんぐりやモンスターボールほどです。にわかにほのおポケモンの瞳が小さな明りを灯したような光を宿しました。 丁寧に編まれた紐で包まれたそれは持ってぶら下げることが出来ます。見上げるようにして封を確かめると甲羅の紋章が見えました。コータスだ、と私は思いました。まるで、水底に沈んでいたものが浮かんでくるように、祖父がコータスと作った時に使う印であると思い起こされたのです。 「もしかしたら、お前のも」 私は箱に詰められた浮き玉をひとつひとつ取り出しては、確かめ、一つ目の玉に掛けていきました。二番目に取り出したのは二つ並んだ火の玉の目立つブーバーの印の玉、次に見つけたのが伸びた尻尾の先に炎が灯ったリザードの印を押した玉でした。そして最後に、ブースターの横顔とえりまきを象った印の玉を取り出したのでした。 「わうっ」 私が四つの浮き玉を吊り下げたその時、ブースターが小さく鳴きました。 透き通る球体にふんふんと鼻を近づけ、また小さく、今度は二、三度鳴きました。その様子はまるで彼が四つの浮き玉に話かけているようにも見えました。 年老いたブースターは何度も、何度も、ガラスの浮き玉に呼びかけ続けました。 「そうだよな。久しぶりだもんな……」 その様子はなんだか私の胸を締め付けました。 私は今の今までガラスのことなどすっかり忘れていたのに、彼はずっとこの時を待っていたのではないかと、そう思ったのです。それなのに私は、今の今まで開きもしないでずっと暗いところに仕舞いこんでいたのですから。 「わうっ! うわう!」 ブースターが一際大きく声を上げました。 すると、気のせいでしょうか。一瞬、浮き玉の中の一つがまるでランプに火をつけたように炎を宿したように見えて、私は目をぱちぱちとさせました。炎が生まれ、玉の中で宙返りするとフッと消えたように見えたのです。それは私が、最後に取り出した浮き玉でした。 すると、まるで呼びかけに答えたかのうように残り三つの玉にも炎が宿りました。最後に取り出した最初の一つが再び燃え上がって、残りの三つが応えます。そうして四つの炎は会話をするように玉の中でそれぞれが躍り、揺れました。 宿った炎はそれぞれがそれぞれに違っていました。ガラスの壁にぶつかっては弾ける、落ち着きの無い炎、ゆっくりとけれどこうこうと燃える炎、まるでグラスの中で揺れる果実酒のように玉の中を滑る炎――今はもういないブーバー、コータス、リザード。その炎の揺らめきはとうの昔に別れてしまった祖父の相棒達を思い起こさせました。
『名人がな、硝子の玉を膨らますとその中には硝子の精が宿るんだ』
『命を吹き込むって言うだろう? 職人の息吹、その相棒の炎(いぶき)が交じりあってな、硝子の精になるんだよ』
躍る炎が私達、一人と一匹の影を伸ばして揺らめかせます。 陽が落ちて暗くなっていた倉庫はにわかに明るくなりました。暖かな光が作り出す陰影が、音の無い賑わいを生み出しました。 ああ、名人であったのだ、炎の眩しさに目を細めながら私は思いました。 祖父は――いや、おじいさんとそのポケモン達は本当に名人であったのだ、と。 炎が踊って、影が躍り続けています。 私はその光景に、いつまでもいつまでも見入っておりました。
年老いたブースターが静かに息を引き取ったのは、それから数週間後のことでした。
硝子の浮き玉。 その中に躍る炎を見たのは、今のところその時が最後です。 四つの浮き玉は未だ私の手元にありますれど、あれから炎は二度と現れませんでした。まだこの中にいるのか、見えていないだけなのか、あるいは、祖父の相棒と共に旅立ってしまったのか、それは私にはわかりません。
ただひとつはっきりとしているのは、私がその光景を忘れることが出来なかったということです。 水に浮かんだ硝子の玉は、もう沈むことがありませんでした。
今、私には相棒がいます。 まだ小さな炎しか吐けませんけれど、今の私には十分です。 いつかおじいさんとその相棒達のようになれたら――そう私は思っています。
2012年3月18日 配布
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