古い桜がありました。老いた天狗がおりました。
天狗がまだころころと木の実のように転げ回っていた頃から、桜は変わらずあり続けました。天狗が妻をめとった春の盛りには、桜はうんと美しく咲きました。天狗に初めての子が生まれた春も、桜はうんと美しく咲き誇りました。天狗のそばにはいつも、家族と古い桜がありました。
数え切れないほどの春が去りました。数え切れないほどの春がきました。若かった天狗も老い、妻も子も天狗のそばからいなくなりました。しかし、古い桜だけは老いた天狗のそばに有り続けました。
ある冬の晩のことです。月を隠すように雪雲は広がり、白い雪がちらほら降っていました。桜のようだと天狗は雪色の空を見上げて思いました。細く枯れたようにもみえる古桜の枝にも雪は降り積もり、さながら花のようです。天狗にも雪は積もっていきます。天狗は身震いをして雪を振り落とすと、すこし考えて桜のもとに向かいました。雪の上の細い足跡だけが、老いた天狗を追ってきます。雪を踏みしめ、足跡だけを引き連れて天狗は古い桜のもとまでやってきました。
「まるで、春の盛りのようですな」
老いた天狗の言葉に、古い桜は身を震わせたようでした。天狗が伸ばした手が桜の枯れかけた幹とつながりました。
「いつも貴方がいてくれましたな」
妻をめとって泣いた春も、子が生まれて泣いた春も、妻を喪って泣いた春も、巣立つ子を見送って泣いた春も、いつも天狗のそばには古い桜が有り続けました。天狗のいろいろな春を、古い桜はいつだって受け止めてくれました。
「せめて一度だけ、この老いた天狗の願いを聞いていただけますか」
老いた天狗の手は、年月を経ていつしか枯れた枝のようになってしまいました。いま手をつく桜の幹とそっくりです。古い桜の幹や枝もまた、年月を経てすっかり枯れたようになっていました。幹に置かれた天狗の手をそっくりです。
「貴方の花盛りをもう一度、見たいのです。私の一緒はいつも貴方の花がありました」
天狗の手と桜の幹はもはやひとつの色に変わっていきます。天狗は目を閉じ、息を吸うと言いました。
「私の小さな命をさしあげます。どうか、今一度貴方の花を見てみたい」
天狗の指先から、天狗の熱が古い桜へと移っていきます。老いた天狗の熱は古い桜の幹を登り、枝の隅々まで行き渡りました。天狗は目を開き、祈るように桜を仰ぎ見ました。
天狗の見つめる先で、古い桜の枝に小さなつぼみがつきました。濃紅色のつぼみは、老いた天狗の見上げるさきでゆるゆると膨らんでいきます。濃く小さなつぼみはゆるゆる膨らみ、降りしきる雪の色を吸うように色を薄くしていきました。終いには、あたりの雪と同じ色になりました。雪とよく似ている、しかし雪とはやはり違う白が天狗の目の前に広がりました。
「最期に貴方の花を見られて、よかった。」
老いた天狗は、その目に雪のような桜を抱いて旅立ちました。熱の抜けた天狗の体に、あとからあとから雪が積もっていきます。
桜は散りました。老いた天狗の死を悼むように散りました。天狗の体に雪などつもらせまいと、薄雪色の花を降らせました。古い桜の木からすべての花が散ってしまうと、けっして再び、古い桜は花を付けなくなりました。
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いくつかまえのお題、桜でとんでも遅刻でお邪魔します。
せいちょう使ったら枯れかけの桜にも花咲かせられるのかとか、細胞分裂を無理矢理進めるんだから体に悪いだろうとか、桜に死って物を書いてる人間にとっちゃあこがれだよねとか。
書いてるうちに半分以上文字数減るのが不思議でなりません。
お好きにどうぞ。