ここは花香る街、タマムシシティの一角に建つレストラン“すばくらめ”。所々を燻したような赤レンガの趣ある外観で、ちょうど梅雨入り時という事もあってか、辺りを囲う生垣のアジサイは黄緑色から紫へ、うっすらと変わりつつあるところであった。ぴかぴかに磨かれたショーウィンドウに並ぶのは、いかにもおいしそうなオムライスやスパゲティ。きっちりと整った店内は、洒落た絵柄の大皿や異国の絵画、ジョウロ型の花瓶に生けられた薄桃色の花々等、実にさまざまなものが落ち着いた雰囲気を醸し出している。
一見普通に見えるこの店だが、実は今、街でちょっとした話題を呼んでいるのである――
アヤメは皿を拭く手を休め、外を眺めた。
窓越しに降る雨は、無数の斜線がいくつも重なっているように見える。それは依然として止む気配はなく、店に客が来る気配もない。
「暇だね、ジョン」
足元で寝そべっていたグラエナは、同意するようにあくびをした。
休日の昼下がり、せっかくのかき入れ時だというのに肝心の客足はさっぱりだった。一応、来店する客もいたことにはいたのだが、それもせいぜい三、四組で、さっさと昼食を済ませると満足して帰っていった。
店内はすっかりがらんと静まり返り、一人厨房を任されている口数少ないコックのサエジマは、時間潰しでもするかのようなのんびりとした手つきで壁にこびりついた油だの、水周りだのの掃除をやり出した。店長にいたっては「ちょっと寝てくる、何かあったら起こしてくれ」と、頭をかきかきあくびを残して店の奥へと引っ込んでしまった。
かくしてまるっきり活気のないホールには、アルバイトのアヤメと、店長のポケモンで接客もこなせる利口なグラエナ、ジョンだけが取り残された。
いつお客が来てもすぐに迎えられるよう、入り口をちらちら見ながらの作業はすっかり身に染み込んではいるが、ちっとも開かない扉を見つめていると何とももどかしいような歯痒さに苛まれる。腕時計に目をやると、最後に時間を確認してからまだ五分と経っていない。
アヤメはため息をついた。
まるで拷問である。果たしてこのひどく退屈な時間に、自分はどこまで耐えられるだろうか。それもこれも、朝からずっと降り続くうっとうしい雨のせいだ。
「せめてもう少し小降りになってくれればいいのにね」
ジョンは黒毛の豊かな尻尾をぱたりと一振り、それから尖った顔を先までしっかり床につけて目を伏せた。
アヤメはつい苦笑した。
ポケモンはトレーナーに似るとは、全くうまいこと言ったものだ。もっとも絵的に違うのは、店の奥で同じように寝ているであろう彼の主人は、きっとまたお子様用の椅子に体育座りで眠りこけている、というところか。
初めてその図を見た時は、幅の足りない小さな椅子の上に、サンドみたいに丸くなって仮眠をとる姿があまりにも滑稽で吹き出しそうになったものだが、後に狭い店内で休憩をとるにはそれしかないことを知った。店長という多忙な肩書きは、どこでも寝れるという特性を自然と身につけさせるのだろうか。
それにしても、と再び窓の外へと視線を移す。
変わらぬ様子で降り続ける雨は、アヤメの記憶が確かなら、昼頃には止むという予報だったはずだ。それなら少しぐらい雨足が落ち着いてもいいだろうに、一向に収まる様子は見られない。
アヤメはすっかり憂鬱になって、窓から目をそらそうとした。が、ふいに思い止まって、もう一度店の外に視線を戻す。
やはり、何かおかしい。店から十数メートル離れたところを歩く人は、誰一人傘をさしていない。店の前はざあざあ降りのままなのに、だ。
「まさか……」
アヤメは拭きかけの皿を置いて、店の外へと飛び出した。ぽたぽたと水の滴る屋根の下で、かすかな予感が確信に変わる。アヤメは急ぎ店内へ踵を返すと、何事か、といった風に顔を上げたジョンを通り越し、そのまま奥へと駆け込んだ。
「店長っ! 大変です、この雨、うちの店の周りにしか降ってませんよ!」
「んぁっ……? ……あ? 何だってぇ?」
案の定、店長は小さな椅子の上で不恰好に丸まって眠っていたが、アヤメに揺すられると間抜けな呻き声をもらしながら目を覚ました。目元をごしごし擦りつつ、上擦った声で急かし立てるアヤメに腕を引かれるままに表へくりだすと、店長はあんぐりと口を開けた。
店の周りはけたたましく降り続く激しい雨天、道路を一つ挟んだ向こう側は、雲の隙間から澄み切った青空が顔を覗かせ、陽射しきらめく見事な晴天である。よくファンタジー映画なんかで、悪の帝王が待ち構える城だか屋敷だかが厳かにそびえていて、その周りにだけ不気味に雨が降っている、という演出があるが、まさにこの店がそんな状況だったのだ。
そりゃ、客も寄りつかねぇわな、と店長が呟いた。
もっとも、待ち構えているのは掴みどころのないひょうひょうとした独身男性と、冴えない女子大生アルバイターだけれども、とアヤメは思った。
「でも、どうしてここだけ……まるでこの道路が雨の境界線になってるみたいじゃないですか」
「まるでじゃなくって、まさに境界線なんだよ。んー……そうだな、多分アレかな。おーい、ジョン!」
主人に名を呼ばれたグラエナは、心得たと言わんばかりにガウと吠えると、雨もいとわず屋根から飛び出し地面に鼻面を押しつけた。
「この天気じゃあ、匂いも薄れて嗅ぎ分けにくいだろうが、絶対近くにいるはずだ。頼むぞ」
ジョンは掃除機みたいに首だけを動かしながら、ふんふんと盛んに濡れた地面の匂いを嗅いでいる。すると、何かを感じとったのだろう。突然火のついたように走り出し、店の生垣に生えたアジサイの群に向かって激しく吠え立てた。
ぎざぎざ縁の艶やかな葉っぱや、薄い色した小さな花の丸い束が、驚いたように大きく揺れた。
アヤメが事の成り行きを呆然と見つめていると、店長にちょいちょいと肩をつつかれ傘を持ってくるよう仕草で指示された。慌ててレジ横にかけてあった従業員用のビニール傘を手渡すと、店長は何も言わずに手早く広げ、真っ黒なたてがみを炎のように逆立てているグラエナの後ろについた。アヤメももう一本を手に取って、それに続いた。
ジョンは鼻にしわを寄せて牙を唸らせ、今にも飛びかかりそうな勢いだ。
その威嚇の対象に目を向けて、アヤメはあっと声をもらした。
まだ咲きかけの、薄紫色をしたアジサイの花の固まりのすぐ下に、青いしずくのようなものがまん丸の小さな目でじっとこちらを見つめている。
「ポワルンか。やっぱりな」
店長が苦々しげにため息をついた。
「最近、ゲームコーナーの景品に追加されたって噂を聞いたんだ」
ポワルンというポケモンはアヤメも知っていた。確か、天気によって姿やタイプが変わるという不思議なポケモンだ。
天候を操る技を使えるポケモンは数多くいるものの、それを自力で習得できる種類はさほど多くない。ポワルンはそのうちの一種で、日本晴れや霰など、数々の天気技を覚えることができると、昔本で読んだことがある。だが、その明確な生息地は分かっておらず、なかなか珍しい種類であるらしい。
アヤメは店長が意外に博識だったことに驚きつつも、それを顔に出したら失礼だろうなとか思いながら、もう一度アジサイの中で息をひそめる青いしずくをじっと見つめた。
「じゃあ、この子がずっとここで雨乞いしてたってことですか。何でだろう」
「知るかよ。やれやれ、とんだ迷子のお知らせだ」
店長が言うと、その迷子はびくりと身動ぎした。青く透き通る体が、ぷるぷるのゼリーみたいな動きで小刻みに震えている。
その様子を見つめながら、アヤメは頭の中でじっと考え込んでいた。
食べ物目当てで店にちょっかいを出してくる野性ポケモンはちょくちょく見かける。その大半は力づくで店に入り込もうとするため、いつも少々荒っぽいやり方でお引取り願っているものだ。
だが、このポワルンは明らかに様子が違う。食料につられてやって来たのかは分からないが、これだけ敵意をむき出しにされてもいっかな攻撃してくる素振りは見られない。
一体なぜだろう。
「全く、立派な営業妨害だ。ジョン」
ジョンはぐっと姿勢を低くした。次に主人が何か言えば、すぐにでもポワルンに飛びかかるだろう。
その声を聞いたアヤメの脳裏に、不意にさっき店長が呟いた言葉がよみがえった。
そうか。この子はゲームコーナーの景品として連れて来られたところを、逃げ出してきたんだ。
胸にちくりとするものを感じて、アヤメは店長の腕にすがりついた。
「ちょっと待ってください! ジョンも、威嚇を止めて!」
店長は驚いたようにアヤメを見た。突然の制止の声に、ジョンも戸惑った様子で主人とアヤメとを見比べている。
「なんだよ、いつも通りに追っ払うだけだろ……」
「この子はおびえているだけですよ。知らないところに迷い込んでパニックになってる。このまま追い払ったとしても、きっとまたどこかで同じことが起こります!」
「だからって、このままにしておくわけにも……あ、おい! アヤメ!」
アヤメはずいと進み出て、対峙しているグラエナとポワルンの間に割って入った。
危ないぞ。後ろで店長が叫んだが、アヤメは聞こえないふりをした。
アジサイの中のしずくが潤んだ瞳でこちらを見上げた。
「大丈夫。怖くないよ」
アヤメは驚かさないよう気をつけながらゆっくりとしゃがみこみ、ポワルンと同じ目線になった。それから目だけはポワルンを捉えたまま、指先でポケットの中のつるつるした感覚を探す。手にしたそれを取り出すと、しずくが恐れたようにたじろいだ。アヤメはしずくに笑いかけ、大丈夫、と言い聞かせながら、ボールのスイッチを押した。
「セリア、アロマセラピー」
赤白二色の球から光が放たれ、勢いよく飛び出したベイリーフはすぐさま首巻く葉っぱを振るわせた。とたんに華やかなよい香りが辺りに広がり、緊張した空気が薄れていく。
アジサイの中のしずくは、始め、呆然としたようにベイリーフを見つめていた。が、やがて見る見るうちに表情が和らぐと、ゆっくりと身をひそめていた葉っぱから滑り出た。その時にはもう、しずくの形はしていなかった。
アヤメはにっこり微笑んで、傘を閉じた。
いつの間にか顔を出した太陽が、軒先から滴り落ち、アジサイの葉を弾いた水をきらきらと輝かせた。
「じゃあ、つまりこいつは、自分の身を隠そうとして雨乞いをしてたってことか?」
「ええ。多分そうだと思います。前に、そういう話を聞いたことがあるんで」
アヤメはすっかり懐いた様子で手のひらに収まったポワルンを撫でながら、店長にうなずき返した。
通常のポワルンはまん丸の体が雲のように真っ白で、つぶらな瞳に、ねぐせがついた前髪みたいなものがついている。
アヤメはその前髪もどきをくすぐりながら、かつて読んだ本から得た知識を店長に披露した。
ポワルンは戦いを好まない温厚な性格のために、その時々の天気によってさまざまな姿に変化することで敵の目を欺いているらしい。また、自ら天候を変えることでよりその場に適した姿になって隠れたり、更にはそれで仲間に感情を伝えることもあると言われている。
「だから、あれはこの子なりのSOSでもあったんです。怖いよ、助けて、って」
「ほぉぉ、なるほどな。さすがよく知ってるな」
店長が腕を組んで感心したように言うと、アヤメはつい苦笑した。
「小さい頃から、ずっと、ポケモンが好きでしたから」
「まあお前の場合、それだけが取り柄みたいなもんだしな」
「ちょっとそれ、ひどいじゃないですか」
アヤメはむっとして言い返したが、店長はただ笑って流しただけだった。
とことんデリカシーのない人だ、アヤメは心の中でこっそり毒づいた。
「で。どうするんだ? こいつ」
店長は腕組みをしたまま、アヤメの手の中のポワルンを顎でしゃくった。
「どうするって……?」
「ゲームコーナーの景品だったんなら、お返しにあがるのが筋ってもん……」
「えーっ! 店長のオニ! 悪魔! それ本気で言ってるんですか!」
店長の言葉を遮って、アヤメは盛大に声を張り上げて抗議した。
ゲームコーナーにはいろいろと黒い噂がある。そもそもポケモンを景品にしていること自体気に食わない上に、やたら珍しい種類ばかり並んでいるのも不気味である。経営者の裏にマフィアがついているという噂も聞くし、店に入り浸っているのも強面の人間ばかり。
この手の中に大人しく収まるポケモンが、アジサイの葉に隠れて潤んだ瞳でじっとこちらを見つめていた様を思い出せば、よほど怖い目に遭ったとしか考えられない。
アヤメは両手にポワルンを包んだまま店長から遠ざけるように背中へ回し、早口でまくし立てた。
「せっかく逃げ出してきたのに、また檻の中に戻すような真似しろってことですか。そんなの絶対あり得ないですって! フリーザーもびっくりの冷徹人間ですよ!」
「だああぁぁぁ! いいから最後まで聞けよ面倒な奴だなー! それが筋だけど、そうするわけにはいかないだろって話をしたかったのに。俺だけ悪者かよ」
「えっ」
「えっ、じゃねえよ。いい加減傷つくぜ、全く。デリカシーのない奴だな」
店長が訳知り顔でにやつくのを見て、アヤメは凍りついた。
まさかこの人は読心術でも使えるのだろうか。
「んで、デリカシーのないお姉さん」
「放っといてくださいよ」
店長はからから笑い、アヤメの手の中から窮屈そうに顔を覗かせたポワルンを見つめた。
「ちょっと相談なんだが……こいつは臆病みたいだけど、人懐っこくて聞き分けも良さそうだ。……なあ、お前さ」
店長はしゃがみ込み、ポワルンの顎の辺りをくすぐった。
「うちの店で働かないか?」
ポワルンは目をぱちぱちさせた。
アヤメも驚いて店長の顔を見た。先程までの冗談めかした様子はなく、どうやら本気の申し出らしい。
「いいんですか? だって、さっきまでは追い払おうとしてたのに」
「いつもいらっしゃる食料泥棒どもとは違うみたいだしな。ちょうど人手不足だし。なかなか平日の昼間に入れる奴がいなくてさ、ニャースの手も借りたいってな。もちろん。どこまで仕事を任せられるかはこいつ次第だけど」
長年店を手伝ってきたジョンですら、できる事とできない事ははっきりしている。お客を席まで案内したり、メニューや伝票を運ぶことなら訳はないが、どんなに仕込んでもオーダーテイクは覚えられなかったらしい。毛が入るとまずいので、料理提供もタブーである。
店長は、まだきょとんとした顔で自分を見上げているポワルンの頭をぽんぽん叩いた。
「週六日勤務で、給与は……そうだな、ポフィン食べ放題ってのはどうだ? お前の好きな味の木の実で作ってやるよ」
店長がポフィン食べ放題、と言った辺りから、ポワルンはいかにも嬉しそうにきらきらと目を輝かせた。それから途端にアヤメの手のひらから飛び出して、こくこくとうなずいて見せたのだった。
その様子があまりにかわいくて、アヤメはつい笑ってしまった。
「本当にそれでいいの? だって、週六日勤務だよ? 割に合わないよ」
それでもよほど給与が魅力的に思えたらしい。ポワルンはぷるぷると首を振り、考え直すつもりはないと訴えている。
「よし。じゃあ決まりだな! ジョン、後輩にしっかり仕事教えてやるんだぞ」
ジョンはガウと一吠えすると、先程までの態度とは打って変わって親しげに尻尾を振り振りポワルンの顔をぺろんと舐めた。
「良かったね、ライちゃん」
「ライちゃん?」
「この子の名前です。ライチの皮をむいたみたいな色だから」
「ふぅん。それでライチ、ライちゃんか。え? てか、こいつメスなの?」
「店長、気づかなかったんですか?」
呆れたように言うアヤメの隣で、ポワルン改めライチが不満げにぷくっと頬っぺたを膨らませた。店長はその両頬を手で挟み、きゅっとしぼませた。
「悪い悪い。ま、今日からよろしくな。ライチ」
店長の見込んだ通り、ライチは物覚えが良くて徐々にその才能を露にした。ちょっと教えただけで簡単な接客の他、単純なオーダーも承ることができるようになったのだ。
何品もあるような複雑なオーダーはさすがにお手上げのようだが、一、二品程度ならば何とかこなせるらしい。もちろん人間の言葉を話せる訳ではないので、まず他のホールスタッフにメニュー表を指し示して注文を伝え、それからそのスタッフがキッチンに通すという方式になるため手間はかかるが、それでも珍しさからかお客の評判も上々で、彼女目当てに来店するファンもちらほら現れ始めた。
かくしてライチは、ジョンと並んで早くも店の看板ポケモンとしての地位を獲得したのである。
「それにしても店長。あの時、よく一目見ただけでポワルンだって分かりましたね」
今日も立派に繁盛して、そろそろ客足落ち着くお昼過ぎ。
桃色のポフィンをおいしそうにもぐもぐやっているライチの頭を撫でながら、アヤメは店長にずっと気になっていたことを聞いてみた。
「私、ポワルンってノーマルタイプの姿しか見たことなかったから全然分かりませんでしたよ」
「あぁ……そうだな。お前、ホウエン地方って知ってる?」
「えっと、カントーの南西にあるところですよね? 緑豊かな野生の王国だっていう……」
「そうそう。そこに天気研究所ってのがあってさ。ガキの頃社会科見学で行ったんだ。そこにめちゃたくさんいた。やっぱ、進化でもないのに姿が変わるってのが子供心に印象的だったからな」
「……って、店長。ホウエン出身なんですか?」
「なんだよ、その意外そうな顔は」
「いや……何ていうか、ホウエンの人って、ばいとか、ごわすとか言うものだと思ってたから……」
「イメージ古風だな」
からんからんと入り口のベルが鳴り、ジョンとライチが競うように迎えに行く。
ここはレストラン“すばくらめ”。寡黙なコックが作り出す数々の料理と、人当たりのいい店長、そして度々訪れる珍客、珍事がちょっとした評判を呼んでいる、今話題の店である。
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6/22追記
【ポケライフ】つけるの完全に忘れてました……
あと誤字一箇所修正。ちゃんと推敲してないのがモロバレル。
とりあえずBW2発売までに書き上げられてよかったです。
そしてせっかくタマムシ舞台なお話のはずなのに、カントー勢が一匹も出ないというパターン。
どうしよう、店にカビゴンが来襲する話でも書いてみようかな(←