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  [No.3116] 本音と道化 投稿者:逆行   投稿日:2013/11/16(Sat) 19:16:54   62clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

 朝目が覚める。きっちり閉鎖されたカーテンを下から潜り抜け外を見る。眩しい日差しが寄り道せずにやってきて、そのまま窓を突き抜けて、続いて私の目も突き抜けた。光に襲撃された私は即座に瞼を閉じる。その後ちょっとだけ開いて、眩しいと感じたらまた閉じて、それを何回かリピートする。不思議とこれがすごく楽しい。私は毎日これをやる。わくわくする。胸がどきどきする。思わず飛び跳ねたくなる。ピンと立っている自分の耳が尚一層上を向く。今日一日が始まるんだなって実感を得られる。人間の場合はどのタイミングで一日が始まったと思うのかな。眩しいのに飽きてきたら次は日光浴。お日様から元気を貰いながら、なんていい子ぶった言い回しがぴしゃりとくる調子で、カーテンと窓の間の狭い空間で出来るだけうーんと体を伸ばす。気配っていたのに伸ばす最中足が窓に衝突し、そこそこ強烈な音がして少しビクってしちゃった。所々の自分の毛が、光を反射してお星さまみたいにキラキラと輝いている。この輝きを捕えられると、心の芯の芯から晴れやかになる。自分自身を食べたくなる。きっと今日はいい日になるんだってポジティブに変身できる。私は若干ナルシストの気質が内在しているのかも。(ナルシストの気質が内在している、というきどった表現を用いるところもいかにもナルシストっぽい)
 起床したはいいものの、マスターの姿が見当たらない。もう昼も過ぎているし、スーパーに買い物にでも行っているのかな。ふと背後から、微かに女の人の声がするのを察知した。くるっと後ろを向くとテレビがつけっぱなしになっていた。若いお姉さんがソファに座り、なにやら談笑しているのが映っている。さっきまで音に気がつかなかったのはテレビにイヤホンが差されていたから。マスターはこんなふうにだらしないときが稀にある。毎日かかさず掃除していて部屋は綺麗だし、食器も使ったら放置することなくすぐに洗うし、けれども少し抜けているときがあるのだ。この間はトイレットペーパーがないのにトイレに入ってしまい、ドアをどんどんとならし私に取りにいかせた。テーブルの端っこにリモコンが置かれているのを発見。ちょっと行儀が悪いけれどテーブルに乗り、右前足を伸ばして赤いボタンをプッシュ。体重をかけるバランスをいくらか間違え、同時に音量も一つ下げてしまったけれどとりあえずミッション成功。このテレビというものがいったいどういう仕組みなのか、それは私には理解できないし考えることもしない。キリがなさすぎるから。キッチンに置いてあるレンジはどうやって食べ物を温めているのかもハテナマークだし、もっと言えば、モンスターボールはどんな原理でポケモンを収納できるのかだって把握してないのだ。ボールに入ったことはある。中はすごく広かった。どこまでもどこまでも無限に続いていた。けれど別に気持ちよくはなかった。一般的には気持ちがいいとうたわれている。しかし気持ちいいという感情が私には今一つ実感が沸かなかった。気持ちいいとは何か。ずいぶん昔の話だけれどテレビで水泳の選手が出ていて、その人が泳ぎ終わって優勝したときに心底嬉しそうな様子で「超気持ちいい」と叫んでいたのを覚えている。達成感を得たときに気持ちいいと感じるのは共感できる。そして達成感なしに気持ちいいと感じるのは不可能だと思う。

 かちゃかちゃと鍵穴のくすぐったそうな声。そして玄関が開くと共に、マスターの「ただいま」という優しげで高音の鳴き声がやってきた。「ちょっとガス料金払いに行ってた」。どうやら買い物に行ったんじゃないみたい。私はマスターの所まで一直線。マスターの顔を満面の笑顔で見上げ、大袈裟にならない程度に尻尾を振る。こういうかわいらしい仕草をすると、人間は喜ぶのがもはや私の中の常識だ。アパートの隣に住んでいるおばさんも、この間たまたま遭遇したらこっちを見てきたので、何気なく尻尾を振ってみたら、かわいいわねと褒めながらお菓子をくれた。尻尾を振るという行為は通常嬉しければ無意識にやってしまうものらしいけれど、自分にはその感覚がほとんど理解できない。私は昔保護施設にいたのだけれど、その頃から嬉しいという感情に従って振った覚えがまるでない。お母さんにはちょっと異常だとぼやかれた。私は人間を喜ばせたいからやっている。笑顔になって欲しいがために戯れる。後かわいがられたいという欲求もある。ようするに、媚を売っているのだ。
 マスターは腰を曲げ、恐らく屈託のない笑顔を浮かべた。マスターの目は非常に黒く、それでいてガラスと見紛うほどに透き通っている。若干茶色に染めた、肩まで伸ばした髪を左右に揺らしながら膝を折り、私のふさふさした頭をおもむろに撫でてきた。今日は暑いにもかかわらず、その手は氷のように冷たかった。それは当たり前のことだ。人間の方が体温は低いのだから。人間に抱きしめられると暖かい温もりに包まれるなんて、無邪気に話していた同種族がいたけれどあれは嘘だ。撫で終わった後スリッパを履きつつ時計を見上げ、昼ごはんの支度しようかと呟いて、そのままキッチンへ向うために私の横を通過した。相変わらず白い肌をしているなあと横顔を見て思った。大学に籠って研究ばかりやているせいだろう。冷蔵庫の上に置いてある箱に、ガス料金の控えの用紙をしまった。キッチンに立ち、包丁を取り出して玉ねぎをみじん切りにした。フライパンをコンロに置き、黄色い液体を注いで火をつけた。卵をぽこんとボール(モンスターボールではない)に落とし、マヨネーズと白い粉を混ぜたものも投入。長めの箸でそれらを念入りにかき混ぜフライパンに投入。ケチャップで赤く染まったごはんも続いて投入。レベル一の火炎放射に焼かれ、じゅーという美味しそうな悲鳴が放たれた。数分後箸でフライパンをぐるりと一周。黄色い塊が出来上がっているのがちらりと見えた。
 さて、暇だから私がマスターのポケモンになった経緯についてでも。マスターはお金と学力が足りなくて、授業料が安く偏差値の低い地方の公立大を受験した。めでたくそこに合格し、通学するために都会である東京から引っ越して、独り暮らしを開始した。マスターはこれを逆上京と呼んでいる。しかし、独り暮らしというのは寂しいもの。最初の頃は大丈夫だったけれど、一か月経ってから急に辛くなり始めた。しかも大学は工学部という機械を扱う理系に所属していて、そこはやたらと女子が少なくて、そのわずかな女子も既に高校のときでグループになっていて、マスターが入って行ける隙間はなかった。家でも独り。大学でも独り。あるときマスターはがらんとしている部屋の状態を見て涙が出てしまった。そこで悩んだ挙句親に電話して相談し、ポケモンの保護施設に出向いて私をもらったというわけだ。ポケモンがいれば寂しくないという単純明快な発想。その頃の私は親が別の人間に引き取られていなくなって、マスターと同じく寂しかったものだからちょうどよかった。だからある種運命なのかもしれない、などと女の子らしい妄想でもしてみる。

 マスターは出来上がったオムライスをテーブルに持ってきた。そして私の前にはポケモンフーズ。丁寧に皿に盛ってくれた。このポケモンフーズというもの、色形は極めてうんこに類似していて、最初は食べることを躊躇していたものの、意を決して食べたみたらびっくりするほど美味しかったことを覚えている。マスターと私、一人と一匹で昼ごはんを食べる。ポケモンと人だからほとんど会話がない。向こうから話しかけてくれるのを待つしかない。だから非常にきまずい。更に私達は、沈黙になるという些細なことを意識しているということを、相手に悟られないように警戒する必要がある。ポケモンフーズを噛むときのぽりぽりという音が、静かな部屋に無駄に大きく響き渡った。マスターは自分で作ったオムライスを黙々と食べる。話しかけてほしいと願っても、マスターは一向に口を開く気配を見せない。ふと私は、オムライスにケチャップで「まよねーず」と書かれてあるのに気がついた。流石マスター。私につっこませて沈黙を破壊する、そのための小ネタをちゃんと仕込んである。私は食べるのを中断し、マスターの膝に横から軽く乗っかった。当然マスターはなあにと聞いてくる。私はオムライスを指さして訝しげな表情。つっこまれたことに気がついたマスターは、安心した様子でにっこり笑った。これにて沈黙が完全消滅。こうなればマスターはどんどん話しかけてくれる。研究室の論文発表会で誉められたこと、TPPというものが今問題になっていること。マスターの出す話題は大抵、こんなことポケモンに話してどうするんだというものが多い。でもそれでいい。沈黙がなくなれば問題なし。マスターが寂しくなくなれば万々歳。たとえ頭に、幾多に及ぶはてなマークが浮かぶような話でも、相槌を打って笑っていれば大丈夫。それに、おかげで私も人間界の色々なことを知ることができた。ここまで人間について熟知しているポケモンも珍しいんじゃないだろうか。
 不意にマスターの話が止まった。ネタの引き出しが空っぽになったのだろうか。再び口をオープンしたときには、話題の路線がガラリと変更されていた。
「ティアってさ、進化どうしたいとかある?」
 イーブイは八種類のポケモンに進化することができる。不思議な石に触れたりとか、トレーナーに懐きまくったりとか、それぞれ進化する方法は様々。どれに進化するかはトレーナーにとってもイーブイ自身にとっても悩みの種だ。マスターは引き出しが空っぽになったときは、決まってこれを持ち出してくる。イーブイに対して持ち出す話柄としては、TPPなんかより遥かにオーソドックスで無難ではある。しかしマスターが、私を進化させたい理由は分からない。私の年齢が年齢だからか。進化した方がかわいいからか。進化させてバトルで使いたいからか。マスターは本心を話さない。あるいは、イーブイは進化させた方がいいという固定概念に捕らわれているだけかもしれない。
「個人的にはシャワーズがいいと思っているけれど」
 自分の意見を述べる際に、最初に「個人的に」とつける人間をよく見かける。しかしこれ、私はあまり好きではない。なんでわざわざ「個人的に」なんて前置きするのだろう。自分の意見なのだから、遠慮せずに堂々と主張すればいい。マスターは、したくない一人暮らしをせざるをえなかったから、自分のパートナーには自由にさせてやりたいと考えているのだろう。そのために、「個人的」ってつけることで、自分の発言を極力気に留めさせないようにしている。恐らく。けれど、私は別に何だっていい。私はマスターのポケモンだ。基本的にはマスターのおっしゃった通りにします。だから、遠慮しないでちゃんと言って。マスターの嫌な部分に触れて私は少し機嫌が悪くなった。
 御飯を食べ終わって私は、外へ散歩しに行こうとした。機嫌が悪くなったことは関係ない。これは私の日課だ。いってらっしゃいとマスターは一言。勝手に外に出て行くことを彼女は咎めない。さっき言った通り、マスターは自由にさせたいと思っているから。マスターは私をボールに最初の頃しか入れてなかった。窓を開けてベランダに出る。以前は窓を上手く自分で開けられず、マスターに開けてもらっていた。ベランダの壁をジャンプして、外の道路に着地する。ここでミスるとコンクリートに激突し、痛くて涙目になるので慎重に。
 



 私の住んでいる地域はマスター曰く、中途半端な田舎といった所だそうだ。基本的には田んぼが多い。青々とした稲が一列に並び、太陽から栄養をもらい健気に背丈比べをしている。アスファルトの道路はきちんと舗装されているものの、横幅が窮屈なのでトラックが横切るとき少し緊張がダッシュ。電車は本数そこそこではあるがちゃんと運行しており、時折カンコンという必死な警告音が耳をピクピク反応させる。遠方では大型スーパージャスノが広大な駐車場を保有しつつ、ドヤ顔を浮かべ胸を張ってそびえ立つ。大通り沿いにはビルもいくつか存在する。
 今日は暑い。雲は空にぽつぽつと点在して漂っているだけで、暑さの元凶を隠す共同作業をさぼっており、それでいて燃え盛る太陽は昨日よりも元気が増している。たまに心地良い風が吹くけれど、それは一瞬の幸福でありむしろ吹かないほうがありがたい。テッカニンが鳴く声もやかましく聞こえてきて、それが一層暑さを助長させていく。しかしそれらよりも問題なのは主に下からの攻撃だ。真夏の日差しによってひたすらに焼かれ、オムライスを作るときのフライパンと化したアスファルトは、ちょっと我慢ができないくらい熱く、冗談抜きでHPを零.二くらい削られる。だから私はなるべく日陰になっている所を歩く。日陰が飛び石状態になっている猛者箇所も多々あり、そこは私特有のジャンプ力を駆使して進んでいく。どうしても無理な箇所は我慢して歩く。同じようなことをランドセルを背負った男の子たちがやっているのを見て、君たちは靴をはいているでしょと怒りたくなった。男の子達は楽しそうにきゃっきゃっとやっていて、これは遊びじゃないのだよとも教えたくなった。ところがその中で間抜け面をした子が、「自分の影踏んでいるからセーフセーフ!」って言い張ってから、彼らは以後それをしなくなっていた。 
 
 今日は野生のポケモンも結構見つけられる。一匹の恐らくメスであるスバメが、電線の上を落ち着かない様子でうろちょろしていた。下からでも聞こえるくらい馬鹿でかい声で、やたらと尖った嘴からぶつぶつと文句を飛ばしている。その目付きは非常に怖い。どうやら待ち合わせていた恋人がまだこないらしい。しまいにはわーわー叫びまくり、電線がちぎれてしまうんじゃないかと心配になるくらい、ニキロ以上あるらしい体で強く揺らしていた。しかし突としてぴたっと黙り込んでしまった。そしてひどく落ち込んだ様子で「自分は嫌われたんだ……」と、空を見上げながらうつろに口籠った。スバメの目付きが曇天を連想させる悲しげな感じに変わり、先ほどまで広げていた羽はすっかり閉じてしまっていた。その後も何かずるずる呟いていたが聞こえなかった。橋を渡っているとき、ジャスノ側からばしゃばしゃと水が跳ねる音がした。見るとおたまポケモンのニョロモが二匹、凄まじい速度でこっちの方向へと向かってきていた。どっちが速く泳げるか競争しているらしい。色が薄いニョロモがだいぶリードしていた。橋の下がゴールだったらしく、そのまま薄い方が一着で駆け抜けた。遅れて濃い方もやってくる。水面のざわめきが静まった頃、色が濃い方が「俺本気出してねーから」と半笑いで、しかし必死な目をして仕切りに言い訳をしていた。その言い訳のやりかたがすごい。言い訳だと思われるかもしれないが、と前置きしてから発言している。それ言い訳だろ、という相手の反論を未然に防いでいるのだ。色の薄い方はとりあえずうんうん頷きながら、やはり相手の話を聞き流しているようだ。ちょうど空を滑空していた飛行機をぼんやりと眺めていた。ニョロモは内臓が透けて渦巻き状に表れるのだけれど、彼のずるさは渦を巻かず直線的に表れていた。
 スバメにしてもニョロモにしても、野生のポケモンなのに人間っぽくなりすぎている気がする。人間の町での生活に慣れてしまってこうなったのか。彼らには野生感があまり感じられない。ポケモンの皮を被った人間だ。人間とポケモンの境界線にいる存在だ。ポケモンってもっと純粋な筈だ。中途半端な田舎でこうなら、都会に住まうポケモンはどうなのだろう。しかしうん私も、あまり他人のことは指摘できない。(いや他人じゃないよ。他ポケモンだよ)

 中途半端な田舎には、入っていいのか駄目なのか良く分からない場所がある。前に近道をしようと空地に入ったとき、その土地の管理人にこっぴどく怒られた経験がある。その空地が現在目の前にあって、そこでポケモンバトルが行われていた。入ってはいけないことを知らないのか。確実に見つかったら怒られると予想。ましてやポケモンバトルなんか、色々なものを壊すのだから。戦っているポケモンはレパルダスとマッスグマ。接近戦が主な二匹なので周りに被害は与えにくいのだろうけれど。それにしても、二匹とも実に一心不乱になって戦っている。トレーナーの指示とポケモンの鳴き声が交錯し、激しい技の応酬が繰り広げられていた。現在はどちらも五分というところか。二匹とも多少息は上がっているものの、体力を温存する術を知っているなあという感じで、まだまだ決着はつきそうにないと思った。しかし次の瞬間、僅かな隙をついたレパルダスが、高く飛び上がっていたマッスグマの懐に潜り込み、きらりと光る鋭利な爪で思い切り引き裂いた。空地中に甲高い悲鳴が響き渡った。既に上空にいたマッスグマの体は更に上空へとぶっ放され、やがてぴたっと静止したかと思うと、今度は重力に引っ張られ地面へと真っ逆さま。なんとか体制を取り戻し、地面に激突してゴキッと足なんかを傷めることは免れた。その後またすぐに攻防が繰り広げられたが、さっきのでかなり差がついたような感じだった。マッスグマが逆転するのは恐らくない。
 偉そうにあれこれ考察してみたものの、私はバトルをしたことがない。保護施設にいるときにちびっこ達とやったあれは、バトルというよりバトルごっこというべきだし、それ以前の野生にいたときのあれは、狩る者と狩られる者の命がけの戦いだから。しかも後者は、ほとんど私はお父さんに守ってもらっているだけだった。そしてマスターの所に来てからも、マスターがバトルをしようとしないのでやったことがない。たぶん大学の研究が忙しくて、バトルをやる余裕がないのだろう。
 バトルをやらないポケモンは暇だ。やることと言ったら適当にぶらぶらするだけ。仕事を手伝ったりするポケモンもいるらしいけれどマスターは大学院生だ。バイトはやっているけれど、コンビニ店員なので手伝えることがない。働かないでごはんを貰い、その上天敵に狙われることのない平和な暮らしをしていることは、大変申し訳ないと感じるし恥ずかしくも思う。働かざるもの食うべからずということわざもある。私は生産的にならなくてはいけない。マスターを喜ばせようとして尻尾は振るけれども、それぐらいじゃあ全然足りない。もっと自分の体に傷をつけることをやらなくてはいけない。バトルに限らなくても何か。私がまだマスターの手に渡って間もないとき。マスターは抜けているところがあるのはこの頃も同じで、冷蔵庫の傍に牛乳パックを置きっぱなしにして出かけてしまった。私はマスターが自宅から消えたことで不安になり、部屋のあちこちを探し回っていたのだけれど、そのときに注意が床にいかず、牛乳パックを倒してしまったのだ。急いで拭こうとして足で懸命に床を磨いたけれど全然拭けない。むしろ牛乳は床にどんどん広がっていく。今考えれば至極当然のことだ。マスターが帰宅してきて、私は慌ててこの事実を隠そうと零れた牛乳の上に乗った。当然そんなことじゃあ隠せなかった。マスターはすぐさまぞうきんを持って拭いた。マスターは「ごめんね。こんなところに置いといて」って本当に本当に優しい口調で繰り返し繰り返し言いながら、黙々と懸命に処理をしていた。更に牛乳まみれになった私のお尻を丁寧に拭いてくれた。私は必死に謝ったけれど、その言葉は人間には通じないので、私は煩く吠えているようにしか見えなかっただろう。牛乳を黙々と拭くマスターの背中が特に強烈に印象に残り、私の胸の内で確かな懊悩の火種となって蓄積されている。こんなところにおきっぱなしにするマスターも悪かったと、言い訳の余地も少なからずあるところが懊悩のややこしさに拍車を駆け、余計長時間悩み悶えるはめになってしまった。悩みまくった結果、その負の思い出を掻き消すことなどできなくなった。私は非生産的なだけでなく、多大な迷惑も駆けていることの堂々たる証明材料。本当に嫌な思い出だ。あまり思い出したくない。思い出したくないなら、独白なんかしなきゃいいのに。 

 レパルダスとマッスグマは未だ戦いを続けている。レパルダスの体はかなり傷だらけで今にも倒れそうだった。一方でマッスグマは多少息こそ上がってはいるものの、さっきと比べてダメージが増えている感じはない。やはりバトル経験のない私の予想は的外れだった。次の瞬間、マッスグマがとてつもないジャンプ力で、今までで一番高く飛び上がった。ジャンプ力があると自負していた自分が恥ずかしくなるほど。流石鍛えているポケモンは違う。マッスグマは急降下し、勢いをつけてレパルダスに突進し、甲高い悲鳴がまたしても空地に響き渡り、やがて土煙が消えてなくなり、亀裂が入り少しへこんだ地面の上に、衝突終了後の二体の姿が見えた。マッスグマはもちろん何の被害も被ってなくて、レパルダスも少しの間倒れていて、ひどく辛そうな表情を浮かべていたが、しかし地を唸らすような凄まじい気迫を持ってゆっくりと起き上がった。トレーナーの方に首を捻って、まだまだ行けますという感じでにやりと笑った。さりげなく傷口をぺろりと舐めた。自分はこういうしぐさに対し、密かに憧れを抱いている。私は努力したい。体に幾多の傷を作りたい。そしてその傷が痛いのを我慢したい。けれども駄目だ。コンクリートに激突して涙目になったり、アスファルトが熱くてHPを削られるとか愚痴っていうようでは、そんなものには耐えられない。
 だったらせめて、マスターが言った通りに動かなくてはいけない。




 見ているのが辛くなってきたので、結末を見届けないまま先へ進んだ。何やらスピーカーを通じた男の人の低い声が、曲がり角を越えた先からうっすらと聞こえてきた。何を言っているかまでは不明だった。興味が沸いた私は、そちらに行ってみようと思ったけれど、私はこの街からは一匹では出ないという自分ルールを持っている。帰るのが大変になるし、迷子になってマスターに心配をさせたくない。この曲がり角を曲がって少し歩くと、違う町に行ってしまう。何故分かるかと言うと、足元にあるマンホールにはセキヤドうすいと書かれているが、曲がった先にあるものにはノダうすいと書かれているからだ。(この「うすい」というのはどういう意味なのか前から非常に気になっている。テレビとかレンジとかの仕組みよりもよっぽど感心がある。「うすい」じゃなくて「おすい」って書いてあるものも見かける)私は自分ルールを破りたくない。こういうときはどうするか。「特例」というカードを切ればいい。少しだけ町からはみ出すだけだからと自分を許す大作戦。
 声のする方を辿って歩く。途中「あいつらの考えはクソだ!」だと怒鳴りながら、明らかに酒に酔っていて所々破けた服を着た男性が一人、片手に持った新聞紙をぱさぱささせながら私の横を通り過ぎた。やがて私は名の知らぬ大きな公園に到着した。その公園の中央には巨大な噴水があった。放出された水は空高く躍動すると同時に、盛大な水しぶきをあげこっちを涼しくさせてきた。端の方には青々とした木々が植えられ、キャタピーとビードルがひっそりと暮らしていた。彼らは人間を驚かしてはいけないことを学習しているようだ。噴水の裏側まで歩いてみると、すべりだいや遊び方が不明なジャングルジムといった定番の遊具が設置されている。そして、更に先へ行くと何やら人がわちゃわちゃ集まっていた。彼らの視線の先には、白い合羽のようなものを着た人達が、きちんと整列し厳粛な表情をして立っていた。合羽のようとは言っても、肘の部分は何故か取り除かれているし、前の方に至っては白いひらひらのエプロンみたいになっていた。彼らの中心にいる、ちょっと老けていて髪の毛が絶滅して垂れ目になっている人は台の上に立ち、スピーカーではなくマイクを何本か束ねたものを使って、何やらわーわーしゃべっている。これは確か演説というやつだ。前にマスターと一緒に見たことがある。そのときはもっと本格的かつ賑やかなもので、数えきれないほどの人が集まり、あちこちから野次やら絶賛の声やらが飛び交い、演説者はきちんとネクタイを締め正装を着用し、周りで複数のカメラが仕切りにフラッシュをたいていた。「人民の生活が第一」と書かれた旗を傍らに立てていたが、人民の生活が第一という割には、その横に自分の顔写真をでかでかと乗せていた。
 今回の演説はもっと小規模で、演説者の話の内容もごく単純なものだった。ポケモンを解放しろ。ポケモンと人間は平等にならないといけない。バトルで傷付けられるポケモンがかわいそう。だいたいそんな感じのことを、やたらと難しい言葉を多用して淡々と述べていた。

 これを聞くべく集まっていた人達は、年齢も性別もばらばらだった。真剣に聞いている人も聞いていない人もいた。後ろにいた金髪のちゃらそうな女の人は、ポケットから携帯を取り出し写真を撮って、演説をほぼ聞かずどこかへ去ってしまった。前にいた眼鏡をかけた頭の良さげな青年は、まるでマネキンのように体を動かさず、時折うんうん頷いては手帳にメモを取っていた。彼の横にはポチエナがちょこんと座っていたが、隣にいる優しそうな顔の人に背中をどつかれ、話の途中でボールの中に戻してしまった。老人は少々眠たそうだったが結構しっかりと聞いていた。しかし途中自分の気にくわない考えがあったのか、つばをぺってやってから帰ってしまった。子供連れの主婦らしき集団は、演説を聞かず勝手にひそひそと会議をしていた。子供たちの方もいたがやはり飽きていた。みんな向いている方向がばらばらだ。けれども空気を読ますに途中で帰ることはしなかった。後、なんかもの凄く真剣に聞いていて、絶妙なタイミングで拍手をしたり歓声を上げたりしている人がちらほらいるけれど、私から見ても明らかにその動作はわざとらしかった。えーと、こういうのなんて言うんだっけ。思い出した、サクラだ。
 彼の演説は時折例え話を持ち出したり、冗談を交えてみたり工夫が凝らされているけれど、本人に自信があまりなさげなように思えた。巧みな言い回しと難解な言葉で、実に遠回しにひた隠しに述べている。本当に自分の発言が正しいと信じているのかさえ疑えてくる。それは明らかに確信に触れていない。とりあえず声は大きいけれど、タブーに触れることを怖がっているのか何なのか、かわいそう、等の重要なワードに至っては、なんか口籠って話していた。もっとはっきり言えばいいのに。台の上に立ったなら自分を曝け出さなきゃ。
 私ははっきり断言してくれる人が好き。右にいけ左にいけ、これが正しいあれが正しいを明確に提言してくれないと、何をすればいいのか分からなくなる。特にマスターにはそれを望む。もし私がバトルなんかしたら、マスターの指示通りにしか動かない。たぶん「かわせ」って命令されないと、攻撃をかわすこともさえもしない。進化のことに関してだって、マスターがどれにしたいのかはっきり話して欲しい。私はマスターの言う通りにする。それが普通の、トレーナーとポケモンの関係。ましてや私は何一つとして恩返しできていないのだから、だったらせめておっしゃる通りにさせてください。私には「ティア」という由来の分からぬ名前が付いているけれども、これが「サンちゃん」とか「ブラック」とかなら、はい、マスターの思惑を推定してその通りの進化を指さすことができるのに。百歩譲って、どうしても自分で決めろと言うのなら、その場合は好きにしていいと話して欲しい。ここまでは自由はしてもいい、という境界線を目立つように引いてくれたなら、私どんなに楽になるか分からない。そうすれば、こんなに神経質にならなくて済む。個人的になんて前置きしないで。空地に入ってはいけないならそう記して。果たしてそれはわがままなのか。他のポケモンはそのへんうまくやれているので、恐らくわがままなのだろう。
 髪の毛が絶滅している人が奥に下がり、今度はどこか風格のある人が台上に登場した。巨大な目が描かれた服を纏い、緑色の髪を肩まで伸ばし、右目に何かよく分からないものを装着していた。その人はさっき話していた人からマイクを半場ひったくり、そして演説を開始した。数分が経過した。それを聞いていた私は震えた。まずその堂々した姿に見とれた。一言一言に、これは絶対に正しいという確信のフレアドライブを纏わせていた。大変歯切れがいい。口籠るなんて絶対にない。言論の自由というナイフを最大限に有効活用。自分の本音を、心の奥底に眠っているものを、一切包み隠さず言える度胸。ポケモンの解放というタブーなテーマに怯えもしない。凄い、凄すぎる。かっこよすぎる。私もこういうふうになりたい。言っていることに同調できるかの問題じゃない。

 彼の演説が素晴らしいので、私もポケモンの解放というタブーなテーマついて少し考えてみる。ポケモンを解放して自由にして、それが本当にいいのだろうか。絶対に駄目だと私は思う。ポケモンと人間は助け合って生きている。人間とポケモンを引き離した所で何も生まれない。それにポケモンが戦うことだって、ポケモン達が好きでやっていることだ。そして、ボールの中は気持ちいいのだから、そこに閉じ込めることも悪いことじゃない。むしろポケモンはそこに閉じ込められることを望んでいる。 
 あー駄目だ。駄目駄目だ。私は全然自分の意見を言えてやしない。今述べたことの大半は、マスターとお父さんとテレビからの受け売りだ。聞いたことを適当に混ぜてみただけだ。自分の考えとはまるで違っている。私も怖がっているのかな。真の自分の意見を表晒しにすることを。タブーに接触することを。この件に関しては、言いたいことはあるのに、心に閉まってあることがあるのに、言葉にするのは無理。そもそもどうしてポケモンを解放する話がタブーなのだろう。いや、本当はどうしてか分かっている。分かっているのだけれど、それも言葉にするのが恐ろしい。だめだなあ。あらら、ちっとも人のこと言える立場じゃないわ。どうやらあの人のようにはなれないようだ。私のこの、人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直す才能はすごい。本当にこのずるさ、いんちきには厭になる。毎日毎日失敗に失敗を重ねて、赤恥ばかりかいていたら、少しは重厚になるかも知れない。けれどもそのような失敗にさえ、なんとか理窟をこじつけて、上手につくろいちゃんとしたような理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とくとくとやりそうだ。(こんな言葉も誰かからの引用だったりする) 
 演説が終了した。サクラと思わしき人達が一斉に拍手の嵐を巻き起こした。サクラ以外でも称賛の意思を示すべく、ちゃんと拍手している人がちらほら。後半の演説は素晴らしかったのが原因だろう。しかし大多数の人達は、隣の人と何やらぼそぼそと話し、ひどく困惑している様子だった。子供達はようやくつまらない話が終わったーという感じで、その場に残らず一斉に公園の遊具へと向かった。さて、終わったことだし私はもう帰ろうか。私はくるりと回って来た道を辿る。公園の中心にある噴水は先ほどと比較して何の変化も見せない。放出された水は空高く躍動すると同時に、盛大な水しぶきをあげこっちを涼しくさせてくる。人々が取り乱し困惑状態に陥っても、水だけは常に平静を保って流れ続けている、なんて中途半端に風流じみたことを言ってみたくなって、私にナルシストの気質が内在していることを思い出した。

 公園から抜け出してすぐ、よそ見をしていた私は突如何かに衝突した。固さからして電柱ではない。見上げてみるととても背の高い男の人が、微笑を浮かべて立っていた。少しだけ私は身震いした。その人は、黒い帽子を深く被り、演説していたあの人と同様に長い緑色の髪を持ち、腰には四角いブロックのようなものをつけている。光を全く宿していない、死んでいるような目が怖い。この人は不気味なオーラを全身の至るところから放っていた。そして、見ていると体がふわふわ浮いてくるような、そんな奇妙な感覚にとらわれる。スリープに念力を使って、体を浮かして遊んでもらったことがあるけれど、そのときの自分の体重がなくなったあの感覚に近いようで異なる。実際に体が浮いているわけではない。そうだ、たましいだ。たましいだけが体からすぽーんと抜け出し、空中にふわふわと浮いている状態だ。しかも空中に浮いて静止しているというわけではなく、左右に少しだけゆらゆらと揺れているという感じ。足だけは重力に強く引っ張られ、徐々に痛くなってくる。そのかわり、アスファルトの熱さは全く感じられなくなった。
「さっきの話聞いていたよね。よければ君がどう思ったのか聞かせてほしい」
 彼は非常に早口で、しかし心に染み渡ってくる声でそう言う。さっきの話について? そんなこと聞いてどうするのだろう。そもそも話したってポケモンの言葉は人間に伝わらない。えっ、まさか、この人には分かるとか。じゃなきゃ聞く意味がない。でもそんなことあるの。いよいよ私は怖くなった。逃げ出してしまうかと考えた。しかし何だろうこの人。やたらと惹きつけられてしまう。心が自然と開く。心臓を優しく撫でてくる。体中の細胞が暖かくなる。彼から放たれていたオーラが私をそっと包み込む。撫でられていた心臓が浄化されていく。空中に浮いていたたましいが、今度は五つに分裂して、彼の手、足、頭、それぞれに入っていき、やがて出てきたら眩しいほど光輝いていて、再び私の体へと舞い戻ってくる。心臓も魂も最果ての神秘に体を向かわせる小舟と化す。告白の準備が整ったと言わんばかりに勝手に口が開き始めた。それを押しとどめようとすると、空気のかたまりか何かに背中を押される。勇気を出して。そう励ましているかのごとく。
「言いたくないんなら、無理して言わなくていいんだよ」
 そんなこと言ったって、どうしようもないじゃない。勝手に言ってしまいたくなっちゃうんだから。本当は絶対に言いたくない。さっきの演説? ポケモンを解放した方かいいかについて? 言えない。言えない。言えない。そんなこと言ったら、この人はなんて思うのか分からない。怖い。恐ろしい。私はあの人とは違うんだ。胸の奥の奥の奥の奥を掻き回して、たった一つの本心を探し出して、そんなきわどい内容について述べるなんてしたくない。確かにある、私もいいたいこと。しかしそれは、ずっと心の中にしまっておくもので、絶対に言葉にできるものではないと思っていた。現に私は、さっきできずに引用を使って誤魔化していた。恥ずかしさ、妙なもどかしさ、それらが抑えてくれるから、私は今まで誰にも話さないできた。けれども今、私はこの人に心を開かれて、話してはいけないことを話そうとしている。言いたくない。でも、本当は言いたい。いや、絶対に言いたい。でも。悩んでいる間に、ついに言葉が発せられた。自分で聞きながら、実にすらすらと言っているなと感じた。

「ポケモンの解放した方がいいとか、そんなこと誰が分かるのでしょう。だいたいポケモンを解放した方がいいと思っている人は一%くらいで、してはいけないと思っている人は二%くらいで、残りの九十七%のくらいの人間は、バトルのダメージはどのくらい痛いかで、意見が容易に変わってしまう中途半端な人達だと思われます。苦しいかどうかではありません。痛いかどうかです。はい、情けないことです。情けないがために誰も言わず、みなさん心の内でひしひしと隠しておるようですけれど。隠すためにさまざまな手法を使っているようです。後、ボールの中が居心地がよいかについても、バトルが痛いかどうかほどではないにしろ、そこそこに関与することであると予想できます。そして人間は、ポケモンを縛っていないという思い込みをするために、ボールの中が気持ちいという設定を脳内で作成しているようです。あの演説になぜあんなに人が集まったのか。分からないなら教えましょう。みんな期待しているからです。誰かが針を刺してくれることを。自分でいう勇気がない代わりに、もしくは言いたくても言葉にならない自分の代わりに、誰かがこの件について絶対的に的をついて、確信をついてついてつきまくることを話してくれることを期待しているのです。心の奥底では、タブーに接触したいと思っているのに言えないから。言うと妙な空気になるのがわかっている。もしくは、何をそんなことを気にしているのかと、せせら笑いされる状況が浮かんでくるから。そうして期待して演説を聞いて、しかしその期待は超えてくれなくて、みなさんがっかりしていると思われます。私は、こうして確信をついていることに対し、優越感に浸っております。はい、誰も怖くて話せないことをすらすらしゃべっていて、かなり自負を抱いています。しかもちゃんとした言語にできるなんて、私は天才ではないかしら」
 彼は硬直していた。緑色の髪だけが風になびいており、硬直から逃れられていた。少し経って、彼は口元に絶妙な苦笑いを浮かべ、頭の後ろを右手でぽりぽり掻いて、その後は急にはっとした表情になり、さっきまでの早口とは違いゆっくりと、自分の言葉を確かめるかのように、少々声を裏返しながら叫んだ。
「そんなことを言うポケモンがいるのか!」




 あった、セキヤドおすいと書かれたマンホール。私はちゃんと戻れている。結局、さっきの緑の髪の人は何だったのだろう。どのような訳があって私にあんなことを聞いたのか。まあ、それは置いとくとして。確かにあの人には引き込まれるものがあった。けれどもやっぱり少し気持ちが悪かったのも事実だ。それは別にあの人に問題がある訳じゃなくて、なんというか心の距離が近くなりすぎたのだ。胸の内をむりやりこじ開けられるあの感覚は、私はあまり好きじゃない。他のポケモンは知らないけれど、私はたぶん仲良くやれない。そして私は、とうとう自分の中で絶対に隠しておかなくてはいけないものを、全て吐き尽くしてしまった。誰に言うかが問題じゃない。言葉にしたことが問題だ。言葉にしたことで、それが真実として表晒しにされた。

 野生の頃天敵に襲われた私達は懸命に逃げ続け、やっとの思いで辿り着いたのが大きなとある保護施設で、私達はそこで無事保護された。リーフィアであるお父さんは、体の至る箇所が黒焦げでいて死んでもおかしくない状態だったけれど、なんとか一命を取り留めた。そして私達は、そこで暮らすことになった。暮らすといっても一時的なもので、引き取ってくれるトレーナーがいればすぐに出ていくことになる。保護施設には他にも大勢のポケモンがいた。そこには食物連鎖など存在していなく、平和という言葉がしっくりきすぎる場所だった。当時の私と同じくらいの年齢の子もいて、私はその子達と仲良くなった。保護施設の係りの人は優しかったけれど、彼らは常に人間を優先していた。すなわち、親が人間に引き取られるときに、子供がいくら泣き叫んでも容赦はしなかった。エーフィであるお母さんからは、天敵から逃げてきて保護されたことは絶対に言っちゃだめだと警告された。なんでって聞いても教えてくれなかった。今なら分かる。天敵に襲われて人間に保護されるなんて、襲ってきた天敵があまりにもかわいそうだからだ。それを言ってしまうと他のポケモンから白い目で見られ、挙句の果てには嫌われる。あるときの早朝、事件が起こった。私は明け方前に目覚めてしまい、もう一度眠ろうとしても眠れず、仕方なしに保護施設の中をうろちょろした。外はまだ暗く、建物の中も電気がついておらず、歩く際に少なからず支障があったものの、それがむしろ幼き冒険心を興奮させた。しかしながら、どの部屋に行ってもその中に小さな囲いがあって、そこでポケモンが寝ているだけで、とくに面白いものは何もなかった。面白そうな場所もあったけれど、そこは鍵がかけられてて入れなかった。つまんないと言う感想を抱いた私はもう戻ろうとした。流石に保護施設の外に飛び出してみる勇気はなかった。しかし、振り返ったそのときに、何やら奥の方から二匹のポケモンが話しているのが聞こえてきた。何のポケモンかは分からなかったが、声を聞く限り大人であることは判明した。私はその会話にじっと耳を澄ませていた。心臓がどくどくしていた。面白いものとついに出くわしたのだ。話の内容はこんな感じだった。人間には孵化作業とか言って、延々と育て屋の前を自転車で通り過ぎ、卵をメタモンにたくさん産ませるやつがいる。彼らは始終笑っていた。それは人間に対するせせら笑いであったわけだけれど、当時の私は楽しくて笑っているものだと誤解した。それだけならまだしも、私はもう一つの誤解を犯した。孵化作業というものが、何か楽しいこと、面白いことなんだと。自分で孵化作業と呟いてみる。口の周りが心地良い感じがした。「ぎょう」というかわいらしい響きも気に入った。すぐにお母さんの元へと向かった。当時のあまりにも無邪気すぎる私は、寝ているお母さんをゆさゆさして起こした。なあにと言いながら無理矢理起こされた不機嫌になっているお母さんに対し、まだ早朝だと言うのに私はどでかい声でこう言ったのだ。
「私も孵化作業やってみたい!」

 あのときのお母さんの、形容しがたい歪んだ表情が忘れられない。朝起きてすぐに娘からあんな発言を聞かされたら、さぞかし驚愕するだろう。無知とは恐ろしいものである。畳み掛けるかのように、寝ているお父さんが咳払い。お父さんも起きていたようだ。更に更に、後から知ったことだけれど、他のポケモン達も何匹か目覚めていたらしく、私の馬鹿でかい声が彼らの耳にはっきりと入っていた。
 人間の場合小さい頃のときのことは、あまり思い出せないようになっていると聞く。特に三歳未満のときのことは、頭の片隅にすら残らないようになっているとか。けれどもポケモンの場合違う。ポケモンは卵から産まれるのだけれど、卵は保育器の役割も果たしているので、生まれたときには関節がはっきりしているどころか、既に技も使えてしまうし、それに意識というか記憶装置もちゃんと作動している。ゆえに小さい頃の思い出は鮮明に残っている。あのときの無邪気すぎる私、お母さんの歪んだ表情、お父さんの咳払い。時折全部色つきで蘇ってくるものだから、本当に嫌になってしまう。頭を抱え、激しく悶絶することもある。「作業」という言葉を聞くだけでもビクッてなる。
 恥ずかしい思い出は、当然大人になるにつれて増えていく。今日の出来事も、ふとした瞬間に思い出し、激しく悶絶して死にたくなるのだろうか。自分の胸の内をさらけ出してしまったわけだけれど。あの内容を今振り返っても、思わず頬が赤く染まってしまうのだから、五年経ってから振り返ったらどうなることやら。どうしましょうか、これ。そうだ。あのときに発言したことは、全部嘘だということにしよう。あれは私の本心からは遠く離れている。全部誰かからの引用なんだ。そうだ、そう考えよう。そうしよう。
 本心とは怖いものであることを学んだ。




 空が淡い茜色に衣替えを開始した。西にドヤ顔でそびえたつジャスノが、燃え盛る太陽を引き裂いてやろうと待機している。雲は激しく分裂して空に点在し、空の茜色と雲の白のコントラストが奇妙にも神秘的にも映った。もうすっかり涼しくなって、アスファルトに溜めこまれていた熱は全て外に追い払われ、私からHPを零・一すら奪い取ることはしなかった。でも夜になるのはまだまだ先だろう。夏は昼間と夕方がえげつなく長い。
 木の枝に親子関係と思わしきホーホーとヨルノズクが潜んでいた。早めに起きたと予想される子供が、親に向かって起きろと言わんばかりに嘴で突っつきまくっていた。ヨルノズクは大変不機嫌な様子で起き上がり、ホーホーをギッと睨み付けた後再び体を休めるべく目を閉じた。懲りない子供はまたしても親を突き始めた。ヨルノズクは今度こそ怒って子供を翼で枝からはたき落した。子供は地面に衝突寸での所で翼を広げ空を飛び再び枝の上へ。そしてまだ懲りていないようでにやけながら親を突き始める。ヨルノズクはもう一度叩き落とすが、明らかに楽しんでいる様子のホーホーを見てもう諦め寝るのを止めた。薄暗い路地裏に目をやると、コラッタ達がゴミ箱を漁っていた。自分が一番食べ物にたくさんありつきたいと、激しい争奪戦が繰り広げられていた。やがて一匹の体の大きいコラッタが食べ物を占領した。傷だらけになった他のコラッタ達はそいつが黙々と食べているのを傍観するばかりで、完全な諦めムードになっていた。でもやっぱり依然としてお腹は空いているのか、「別の場所に食べ物を探しに行こう」と言って、路地裏から出ようとしていた。人間の女の子が偶然その様子を見つけた。女の子はバックから袋に入っているパンを投げ与えた。さっきの食べ物よりよほど美味しそうであるそのパンに、コラッタ達はすぐに群がろうとした。しかしながら、さきほどゴミ箱の食べ物を占領していたコラッタがやってきて、パンを袋ごとすばやく掴んで逃げ出してしまった。コラッタ達は茫然と立ちすくんでいた。小さい子供に至っては泣き出していた。助けを求めるかのように、女の子の方に揃って視線を向けた。道徳的なことをして自己満足を得るためだけにパンを投げたのであろう女の子は、その状況を黙殺し既にどこかへ去ってしまった。うん、出かけたときに見たポケモン達よりはまだポケモンらしい。

 アパートの屋上に付属してある、複数の太陽パネルが見えてきた。もうそろそろ帰れる。アパートが近くなると自然と足が速くなってしまう。不意にヤミカラスの群れがバサバサと夕焼けの向こうに飛んで行った。アパートの近くのバス停の前に人間がたくさん並んでいた。すいませんと通じない言葉で思わず呟いてしまいながら、人と人の隙間を潜り抜ける。ドブ板の掴む部分がちょこちょこ前後逆向きになっていることが気になりつつ、アパートの敷地内まで。部屋の前まで向かう。出るときと同じように思いっきりジャンプ。もうすっかり慣れてしまって、バランスを欠いて転びそうになることもない。無事ベランダに着地。明日はもう少し高く飛べるようにしよう。いつも通り窓を開けて部屋に入る。部屋の鍵が閉まっていることはない。マスターは確かに抜けているところがあるけれど、私を外に締め出すようなことは絶対にしない。部屋で靴下を脱いでくつろいでいたマスターは、私が帰ってきたのを見ておかえりーと呟いてくれた。私はマスターの傍まで寄る。尻尾でも振ろうか。そう思っていたときだった。あ、そうだ、とマスターは自然な調子で呟いて、そして私の方を向きながら淡々と、
「ちょっとティア。足が痛いから軽く押してほしいんだけど」
 非常にうれしく感じだ。でかける前の、あの嫌なことなど空の彼方に飛んでいき、そのまま大気圏を突き抜けてしまった。マスターはちゃんと分かっているのだ。ああ、この人には全部御見通しなんだ。私が何一つとして働かず、ただぶらぶらして一日を過ごしていて、それについて申しわけなく思っていることを察して、それで私に用事を押し付けて、罪悪感を少しでも減らせるように仕向けてくれた。やった。大好き。
 爪なんかで傷付けたりしないように気をつけて、私は一生懸命マスターの足のつぼを押した。人間の足のどこにつぼがあるか、そしてどこのつぼを押すと気持ちいのか、そんなこと分からなくて適当に押していたけれども、マスターは気持ちいいと言っていた。本当はそんなに気持ち良くないのかもしれない。まだどこまでマスターが本当のことを言っているのか完全には見抜けない。時々くすぐったりもして遊んでみた。マスターは怒りながら起き上がって、私の頭を撫でてくれた。そして、一人と一匹はお互いに目を合わせて笑った。こういう何気ない戯れのときがすごく楽しい。大事にしようと思った。

 私がそれなりに大きくなった頃、お父さんとお母さんはそれぞれ別の人間に引き取られた。現在何をやっているかは分からない。独りになった私は正直寂しかった。自分より小さいポケモンが親と離れても平然としていたので、私も取り乱してはいけないと我慢していた。野生でのストイックな環境に身を沈めていたときは、独りぼっちになっても生き抜いてみせるという強固な覚悟が形成されていた。しかし人間の元で生活してすっかり平和のぬるま湯に浸かっていた私の心には、そのイベントはあまりにも辛く激しく衝撃を与えた。係りの人の「何かあったの? 大丈夫?」という気遣いの言葉がひどく鬱陶しかった。本当は寂しいのに寂しがってはいけないという空気がえぐかった。そんな日々が長らく続いた。あるときだった。係りの人がおいでおいでをしてきたので、私はその導きに従い保護施設の外に出た。そこで初めてマスターと出会った。当時のマスターはひどく寂し気な顔をしており、服も簡素で気配る余裕はゼロという様子で、更に目も透き通っていなかった。あれこれ話していた内容から、私はマスターに引き取られることが判明。嬉しいとも悲しいとも感じなかった。ただこれからどうなるのだろうという不安が渦巻いていた。マスターはおもむろに私の頭を撫でた後、体をそっと持ち上げて、そして優しく抱きしめた。その一連の動作には、こういうときはこうするのが一般的、というマニュアルをただ模倣しているかのようなぎこちなさがあった。人間に抱きしめられると暖かい温もりに包まれる。それが嘘であることをここで知った。人間の方が体温が低いから当たり前。マスターは静かに微笑んでいた。不意に「明日大学行きたくなくなった」とぼそっと言った。この人が何を考えているのか読めなかった。不安の渦が取り除かれることはなかった。けれども、とりあえず寂しくはなくなった。
 五年経った今でさえ、マスターが何を普段考えているのか完全には読めない。でも、それで問題はないと思う。ただ一緒にいて、お互いに寂しくなくなれば万々歳。ポケモンと人間の関係なんて、それで十分なのだ。分かり合う必要なんて何もない。本音なんか知らなくていい。言わなくていい。隠しておけばいい。心を開く必要はない。ただ同じ時間を共有していれば、そしたら共存になれるんだ。
 外はすっかり暗くなっていた。星がきらきらと命を燃やしつつ、闇のじゅうたんの上におのおの穴を開けていた。でっかい月が自らの存在を強調するかのように、雲間から強い金色の輝きを撒き散らしていた。
 心地良い風が網戸から抜けてきた。