それは確か、ちょうど九月の始まる頃だった。
あっという間に過ぎ去った夏休みの後に、嘘かと思ってたけど、やっぱりちゃんと二学期が始まって、久しぶりに教室でユズちゃん以外の友達とも会って、早速二年生最初の実力テストの範囲表が配られて、呆気にとられていたあの九月の始まる頃だ。 うちの中学校では年に五回定期試験があって、生徒たちはいつも苦々しい顔をしてそれを歓迎していた。その隙間に挟み込まれる「じつりょくてすと」とはいったい何者なのだろう? 今回はどういう顔をしてこれを迎えたらいいのか、みんな迷っているようだった。
担任の三橋先生が言うには、二年生はどうやら「中だるみの時期」とかなんとか揶揄されているようで、試験の平均点は下がるし、生徒たちのやる気も下がるし、点数を見た親の気分はもっと下がる。そしておまけに、家庭によってはお小遣いも下がる。最初はこれが中二病ってやつなんだと思って「たいへんな時期だね―」なんておしゃべりしていたら、ユズちゃんにデコピンされてしまった。
ユズちゃんのデコピンはすごく痛くて、ヒットした直後は涙が出たし、五時間目の社会の時間中ずっとおでこが赤くなっていた。女子バスケットボール部のユズちゃんは握力がとても強かったのだ。もう知ったかぶりしておしゃべりしないように気をつけよう。そんな風に思った九月の終わり頃のことだった。
座敷童(ざしきわらし)がこの町に住み着いたという噂が、どこからともなく流れ始めたのだ。
「近頃は座敷童なんてもうほとんど人前に出て来なくなったから、噂が本当ならちょっとしたニュースね」
ユズちゃんはそんな風に言っていたけど、私は座敷童なんて見たことがなかったし、昔はごく普通に現れるものだったのかとか、どんな背格好をしているのかとか、実際のところ何ひとつ知らない。そんな私の困惑をよそに、噂にはどんどん情報が追加されていった。
私たちと同じくらいの年齢の女の子で、短く切り揃えた黒髪をしている、らしい。その子は夜になると天原(あまはら)駅に現れる、らしい。そして駅前広場に佇む「もろの木さま」と、なにやら話をしていた、らしい。
十月の一週目が終わる頃には、目撃証言をもとに、美術部の佐渡原くんが座敷童の絵を描いた。
「噂自体にはあんまり興味ないけど、みんな盛り上がってるからさ。でも描いてみると、なかなか風情のある光景だよね。もろの木さまと座敷童」
佐渡原くんがキャンバスに描いた、タイトル「静かな秋の、御神木のある風景」は、素人目から見ても完成度が高く、素敵な絵だった。青空と紅葉のコントラスト、座敷童(赤い着物を着た、おかっぱ頭の女の子だ)のせつなげな表情、繊細なタッチ。見事な作品だ。佐渡原くんは、天原町の生んだミケランジェロだ(と、美術部の顧問の堂阪先生は言っていた)。
天原町は、小さな小さな田舎町だ。だから、八百屋のカズくんの誕生日から、町内会長のタケじいちゃんの好物まで、みんなが知っていた。そういう町なのだ。噂なんて、あっという間に広まっていく。お寺の鐘の音が町中に響き渡るみたいに、隅から隅まで知れ渡ってしまう。何にもない町だから、新しい話題には、みんなすぐに夢中になるのだ。
「その座敷童さんは、もろの木さまに何か用事があったのかな?」
学校の昼休み、いつものように机を向い合せにして、私はユズちゃんとお弁当を食べていた。
十月ももう半ばを過ぎて、町はすっかり秋色に模様替えしてしまった。濃い緑色をした葉っぱの匂いも消えたし、ニイニイゼミで始まってツクツクボウシで終わった蝉たちの声ももうしない。夏服の期間が終わり、久しぶりに引っ張り出したブレザーを見ると、なんだが物悲しい気分になった。アイスを食べながら「あついあつい」と文句ばかり言っていたけど、私、夏は結構好きだった。
「茉里(まつり)は何をしてたんだと思う? その座敷童」
ユズちゃんが、お弁当の卵焼きをもぐもぐさせながら箸を私に向けた。お行儀が悪い。
「なんだろう? なにかお願い事かな?」
「座敷童ってさ、災いをもたらしたりとかはしないけど、結構悪戯好きなんだって」
ユズちゃんは、にやりとして言った。彼女の言うことはいつもテキトーだけど、そのかわり、いかにも本当のことのように話すのが上手だった。
本人は「茉里がぼーっとしてるだけだよ」って言う。けど前に朝の職員室で、もっともらしい「宿題を忘れた理由」を語り、国語の山内先生を言いくるめていたのを見かけたことがある。そういう才能があるから、ユズちゃんはきっと、将来は人前で話すような仕事に着くんだろうなあと、漠然と思ったことがあった。
「悪戯なの? それ、困るなあ。うちのキャベツとか大根があんまり虫に喰い荒らされないで済んでるのはもろの木さまのおかげだって、お父さん言ってたし」
駅前広場に立っているもろの木さまは、天原町の守り神だ。この町にあるどの木よりも長生きしていて、おばあちゃんやおじいちゃんたちからは、敬意を込めて「御神木」と呼ばれていた。
「うちの銭湯だって、なんとか閑古鳥が鳴かない程度にやっていけてるのはもろの木さまのおかげなんだって。もしそんな座敷童がこの町に住みついてたら、うちのばあちゃん黙っちゃいないわね。竹ぼうき持って飛んでいくと思う」
町の人たちにとっては、もろの木さまは特別な木だった。私たちが生まれて、ずっと住み続けて、育ってきたこの町を、もろの木さまは守ってくれている。どんなふうに守ってくれているのかは知らないけど、でも、小さいときからずっとそう教えられてきた。
だから、私もユズちゃんも、町の人たちはみんなもろの木さまに感謝してる。見た目はちょっと大きいだけの、古ぼけたスギの木だ。でも、それがもろの木さまなのだ。もしもろの木さまが、厳かで、立派な佇まいで、嘘みたいに背が高くて、この町をしかめっ面で見下ろすような木だったら、私はちょっと嫌だ。
「もし、もろの木さまに悪戯しようとしてるなら、相手が座敷童だって関係ないわ。今日部活終わったら駅に寄りましょう? 噂が本当かどうかも、確かめなきゃね」
ユズちゃんが真面目な顔をしてそう言った。私はぎくりとした。こういうときのユズちゃんはとっても分かりやすい。今までも、ユズちゃんと一緒にツチノコとか河童とか木霊とか、いろんな生き物を探しに行った。噂好きな天原町だけど、どういうわけかこの町には「胡散臭い噂」が立ちやすくて、ユズちゃんはそれをいつも見に行きたがる。もちろん、ツチノコも河童も木霊もいやしなかった。
今回もたぶん、ユズちゃんは座敷童を見てみたいだけだ。
「えー、でももしホントにいたらちょっと怖いな。お化けなんでしょ? 座敷童って」
「お化けでもなんでも、会ってみなきゃどんなやつなのか分からないじゃない。それに、座敷童サンのためにも、行って止めさせた方が良いわ。うちのばあちゃんがシバきに行く前にね」
放課後、ユズちゃんとは校門で十七時に待ち合わせをして(私はちょっと溜息をついて)、いつものように音楽室へ向かった。
ごく普通の田舎の農家に生まれて、一人っ子だからか少々甘く育てられて、勉強は悪くもなければ良くもなく、身長が低めで(「ちび」って言われるのには慣れたけど、「ガキ」って言われるのはちょっと傷つく)、運動神経は絶望的。そんな私が唯一「特技」と呼べるものがあるとしたら、今、吹奏楽部で担当しているフルートだった。
小学校の頃からリコーダーを使う音楽の授業が好きだった。通信簿では、音楽は六年間ずっと「よくできた」だった。いつも「がんばろう」と励まされていた体育とは対照的だ。下校のときや家にいるときだって、私はいつもリコーダーを吹き鳴らしていた。
そして小学五年生の時の誕生日。お父さんとお母さんからのプレゼントを開けると、箱に入っていたのは銀色の横笛だった。とっても嬉しかった。私は、遊び盛りの子犬みたいに、家中を転がりまわって飛び跳ねて喜んだ。
最初は全然音が出なくて、一日中その強情な横笛と格闘した。リコーダーとは勝手が違う。ほんの少し吹きこむ息の角度が違うだけで、それは全く反応してくれない。すかすかと空気が通り抜けていくだけだ。
やっと鳴らすことができたフルートの音は、リコーダーよりも透き通っていた。それは、時々うちの畑を吹き抜ける風の声にも似ていた。
それから私は「横笛吹き」になった。この町にはあまりいない「横笛吹き」になれたのは、私のちょっとした自慢だ。
吹奏楽部では、週末の演奏会に向けて全体練習を繰り返していた。ただ、曲の後半の転調するところが全然合わなくて、顧問の富岡先生がその小節ばかりを何度も調整していたから、前半のソロだけの私はすごく暇だった。シンバルの田口くんにはもうちょっと落ち着いて叩いてもらって、ホルンの堤さんが音量を抑えてくれるだけで、上手くまとまるのに。
なんて、ちょっとした不満を頭の中に巡らせていたら、だんだん眠くなってきた。なにせ、暖房を効かせた音楽室はぽかぽかで、寝るのには申し分のない環境なのだ。シンバルの音もホルンの響きも、少しずつ遠退いていった。壁にかかっていたモーツァルトやベートーヴェンも、私から目を逸らした。そしてとうとう舟を漕ぎ始めた私を、隣に座っていたのんちゃんが小突いた。
「富岡にバレたら殺されるよ、茉里」
はっとして、私は目を擦り、椅子に座り直した。
「――うん、ごめん。ありがと」
「私だって暇なんだから。一人だけ譜面台に隠れて寝るなんてずるいからね」
そういえばのんちゃんのクラリネットも、転調のところは全く出番がなかった。
「分かってるー。でも、眠くもなるよ」
「分かってない。横笛吹きは、もっとしゃきっとしなきゃ。少なくとも、縦笛吹きよりはね」
「――そうなの?」
「そうなの。ほら、頭から通すって」
富岡先生が指揮棒を振り上げ、私は一時間ぶりにフルートを構えた。
吹奏楽部の練習が終わったあと、私はユズちゃんより先に校門に着いた。辺りはもうとっぷりと夕闇に包まれていた。グラウンドではサッカー部が最後のシュート練習を切り上げ、ダウンのストレッチをしていた。野球部はもう練習を終え、残りの数人がげらげらと大きな声で笑いながら、駐輪場の奥にある更衣室へと向かっていた。
体育館の方から掛け声が聞こえる。校門側からはちょうど校舎の裏にあり、体育館の錆付いた屋根だけが辛うじて見えた。掛け声は女子たちのものだったけど、バスケ部かどうかは分からなかった。
学校の裏側にあるなだらかな丘は、夏はあんなに原色の緑だったのに、今はもうすっかりくすんだ茶色だった。そこから吹き下ろしてくる風は枯れ葉と土の匂いがして、おまけにすごく冷たかった。私はお母さんに編んでもらった紺色のマフラーをきつめに縛り直した。
少しして、ユズちゃんとバスケ部の二年生たちが、おしゃべりしながら現れた。私に気付いたユズちゃんは、遠くから手を振ってくれた。少しはにかんで、私も小さく手を振り返す。
バスケ部の女子たちは、互いに押し合ったり、体を触り合ったりして、何度も大笑いしていた。その中には、ユズちゃんも含めて、小学校も一緒だった子が何人かいる。
中学に入ってから、一気にみんなが大人になったように見えた。特に、バスケ部はみんな「早い」子たちだった。制服の着崩し方も、可愛い髪型も、化粧を覚えるのも、それに、男の子の話も。彼女たちは前に進む速さが全然違うんだという気がした。私なんかよりもどんどん前に進んでいって、そのうち全然知らない街に出て行って、後姿さえも見えなくなってしまうような気がした。
ユズちゃんもやっぱり、そのうちこんな小さな町から、さっさと出て行ってしまうのだろうか。
ときどき、本当にときどき、そんなことを考える。将来、この町での生活にはあっさり背を向けて、立ち去ってしまうのかな。私のところからは全然見えないところまで、遠く離れていってしまうのかな。
そんな日が来ても、私たちって、友達でいられるのかな。
「ごめんごめん、結構待ってた?」
それは、誰にも分からない。たぶん、もろの木さまだって分からない。それはきっと、私たち次第なんだと思う。
「もう、すっごく寒かったんだよー。早く行こう、ユズちゃん」
学校から天原駅まではそう遠くはなく、校門からすぐの橋を渡って、河川敷に沿って歩いて、商店街のあるところで曲がると五分ほどで着く場所にある。でも、家のある方向とは真逆にあるせいで、普段はあまり行くことはなかった。もろの木さまに会うのも、夏のコンクールで吹奏楽部のみんなと電車に乗った時以来だった。
久しぶりに歩いた河川敷は、校門よりもさらに風が強くて、その冷たさで頬がひりひりした。ユズちゃんの赤いマフラーが、大きくはためいている。闇の中で流れる川はどぽどぽと音を立て、少し不気味だった。
「会えるかな? 座敷童さん」
商店街に入って風が弱まり、私はやっとしかめっ面を元に戻した。
「目撃情報は、大体このくらいの時間帯よ。ちょっと寒いけど、条件は整ってるわ」
商店街は早くも眠りに就いているようで、もうほとんどのお店がシャッターを下ろしていた。薄暗い通りは人影も少ない。精肉店のおじさんと、呉服屋さんの若い店長さん。あとは駅から流れて家路を急ぐ人たちと数人、すれ違っただけだった。
「――会ったら、なんて言うの?」
「そうね、いきなり問い詰めるのも失礼だし」ユズちゃんは、にやりとして言った。「『よかったら、友達になって下さい』って、シタテに出てみようか」
座敷童と友達かあ。もしなれたら、それはちょっと面白そうだけど。でも、どうなんだろう。
「思ったんだけど、座敷童って、誰が最初に言い出したんだろう。ホントに座敷童なのかな」
「あたしは最初、野球部の古川から聞いたけど。まあ、ホントかどうかを確かめに行くんだから、その問いは無用よ」
古川くん――同じクラスの野球部で、ショートを守っていて、休み時間も授業中も、とにかく人を笑わせることに命をかけている、あの古川くんかあ。なんだか噂の信憑性に翳りが見えた。
商店街を抜け、私たちはとうとう駅前の広場に到着した。もともと小さな駅で、止まる電車の本数も少ない。それでも、町の中では人の集まる方だ。ただもう辺りは真っ暗で、人影はほとんどなかった。そして、真ん中にぽつんと佇むもろの木さまに目をやっても、そばには誰もいない。もろの木さまは一人で夜の空を見上げていた。
「いないみたい」
広場をぐるりと見渡してみても、座敷童らしい人影は見当たらなかった。駅から出てくるところの老夫婦と、ちょうど店仕舞いをしていたお弁当屋のおばさん。そして私たち二人だけだ。やっぱり、そう簡単に噂の大元と遭遇することはできない。会うことができなかったのはちょっぴり残念だけど、正直、ほっとした。
「しょうがない、張り込むわよ」
「――え、本気?」
耳を疑って、私は聞き返したけど、振り向いたユズちゃんの目は紛れもなく本気だった。
冷静になってみると、ツチノコのときも、河童のときも、木霊のときも、ユズちゃんは諦めが悪かった。そういえばユズちゃんはバスケ部で、ディフェンスとリバウンドの粘り強さに相当な定評があるらしい。悪さをする輩は竹ぼうきを持ってどこまでも追いかけるおばあちゃんと言い、このしつこさは「血」なのかもしれない。
私たちは、駅の改札口のそばにあるベンチに座り、もろの木さまを監視することにした。ぶるぶる震えながら、まるで雪山で遭難した登山者みたいに身を寄せ合って、座敷童が姿を現すのを待った。
佐渡原くんの描いたあの絵と同じ場所だとは、とても思えない景色だった。秋晴れの青空も、鮮やかに染まった紅葉もない。もちろん、あの不気味なほど表情豊かな着物姿の女の子もいない。どんよりとして、どこまでも暗い空。申し訳程度に等間隔で光る水銀灯。人気のない広場。一応石畳で舗装されているものの、それもずいぶん昔のもののようで、隙間からところどころ雑草が覗いているのだった。
もろの木さまは、時々吹きつける冷たい風に葉を揺らすだけで、じっと動かない。寒空の下、静かに、本当に静かに、佇んでいた。お年寄りには「御神木」と呼ばれるほどの由緒正しい木のはずなのに、見れば見るほど、やっぱりどこかみすぼらしい。幹はところどころ禿げているし、くねって伸びた枝も、全体的にちょっと傾いている。緑色の葉は、そのうち山の木々たちのように茶色に染まり、冬になれば落葉し、もろの木さまは素っ裸だ。真冬のもろの木さまは本当に寒そうで、見ているととても不憫になる。
第一「御神木」って、神社の境内のとか、もっと相応しい場所に立っているもののような気がするけど。どうして、お世辞にも「神聖な場所」とも言えない殺風景な駅前の広場なんかに、ひとりぼっちで立っているんだろう。
張り込みを始めてから、三十分が経ち、一時間が経ち、まもなく時計は十九時を指そうとしていた。冷たい空気が頬を刺し、マフラーは意味をなさなくなり、足先の感覚がなくなってきた。
さすがのユズちゃんも「今日はもう……限界ね」と呟き、女子中学生二人の刑事ごっこはあえなく終了した。座敷童らしき人影は、とうとう現れなかった。気配さえも、なかった。
「なによもう! 噂なんてもう信じないんだから!」
広場を猛ダッシュで駆け抜けながら、ユズちゃんは後悔をぶちまけていた。
「ユズちゃん、それ毎回言ってるよ」
「だってー! 古川がかなり詳しくしゃべってたから、今度こそと思ってー!」
「古川くんの話だよー。三分の一も真に受けちゃダメだよ」
走ると顔にぶつかる風が冷たくて涙が出た。駅前広場を横切り、真っ暗闇の商店街に入る。
まさにそのときだった。
背中に、熱を持った何かを感じたのだ。
「えっ?」
びっくりして、振り返った時には、それはもう消えていた。背後には、さっきまでと全く変わらない、駅前広場と、もろの木さま。
「何、どうしたの? 座敷童?」
急に立ち止まった私に気付いて、ユズちゃんが言った。
「――いや、なんか」
それは、光だ。確かに、光だった。突然太陽が背後から照り付けたかのような、温かい、光の玉だ。
紛れもなくそれは、もろの木さまの辺りから向けられていた。方向的に、そうに違いなかった。それは、ぱっと輝いて、一瞬で消えてしまった。今はもう真っ暗闇に戻っている。
けど、私の身体にはその温かさが残っていた。それは、ほんのり緑色の、命の脈動のような、生き生きとした光だった。驚いたことに、さっきまであんなに寒くて凍えていたにも関わらず、背中にじんわりと汗をかいていた。百メートル走でゴールした直後みたいに、息が苦しかった。
「茉里? どうしたってのよ?」
「ユズちゃん、今の――今の、感じなかった?」
「今のって、何のことよ?」
「今のは、今のだよ!」
たとえ一瞬だとしても、あんなに煌々とした輝きだったのに、ユズちゃんは気付いていないようだった。そんなはずはない。私はたった今起きた出来事を、ユズちゃんに説明した。出来るだけ詳しく、分かりやすく説明しようとした。
なのに、なぜか話そうとすればするほど、説明が曖昧になって、やがて本当にそんなことが起きたのか、自分でも疑わしくなってきた。記憶には、きちんと残っている。残っているのに、それは事実のはずなのに、ところが振り返ると、冷え切った暗闇と孤独な御神木があるだけなのだ。
心臓が、どくどくと鳴っている。
「私、もしかしたら座敷童よりすごいもの見ちゃったのかも」
「えー! ズルい茉里だけっ! 一体何見たの!?」
考えた挙句、私のおつむでは、なんとも幼稚な言葉しか思いつくことができなかった。
「――妖精さん?」