真っ青な空に、白い綿雲がひとつ、ふたつ、流れていく。私の背中が地に付いた。 「チラーミィ、戦闘不能!」 鋭い声が響いた。
ライモンシティにあるスタジアムのひとつで、今日はポケモンバトル教室が開催されていた。 審判の青年が手を振り下ろし、向かい合っていた男女の内、男の方を指し示した。それが勝利の印。 「よってこの勝負、ソルトの勝ち!」 手で示された青年は「やった」とガッツして、シャンデラと喜びを分かち合った。先程、私をテレキネシスで浮かして煉獄で焼いたシャンデラ。為す術もなくやられて、地面に転がったまま、そいつを睨む敗者の私。そして、そんな私に駆け寄る、私の主。 「グン、大丈夫?」 向かい合っていた二人の、少女の方――私を抱き上げた主は、心配そうな、それでいてものすごく悔しそうな顔をする。「大丈夫」と伝えるつもりで鳴いたのに、彼女は「私の指示が悪かった」と別な解釈でとらえてしまう。 そんなことないのに。私が弱かったからなのに。そう伝えたいのに、うまくいかない。バトルにも勝てないし。なにもかも、うまくいかない。 「レンリさん」 名前を呼ばれて、主がパッと顔を上げた。審判の青年が、「ちょっといいかな」と言った。レンリは神妙な顔で頷く。青年の話の内容は、さっきのバトルの反省点だった。曰く、
筋は悪くない。 指示も的確。 相手の技も見切っていたし、そっちの技は何度も急所に当たっていた。 正直、子どもとは思えないくらい、良かった。
でも、肝心のポケモンのパワーが足りない。
「って言われてもなあ」 バトル教室からの帰り道。レンリはあっちこっち寄り道しながら、進んでいた。この季節は油断の隙をついてるみたいにすぐに日が沈むのだけど、私もレンリもそんなことお構いなし。入ったお店のひとつで、ポケモンフーズを買ってもらった。化学調味料の味がするそれを、口に入れてもらう。束の間の、幸せ。こういう物を買う時にはトレーナーカードを提示しなければならないはずだけど、求められた試しはない。テキトーだなあ、と私は思う。 そんなテキトーさで買えたポケモンフーズを、レンリも口に放り込む。やめなさい、と私は鳴くけれど、いつも通り伝わらない。 「育てが足りないのかな」 彼女は私をじーっと見た。そして、「分からないや」と言ってまた歩き出した。私も横に並ぶ。 実際のところ、育てが足りていないとは思えなかった。進化の最終段階まで育てられたポケモンと渡り合えたのだから。あの審判も、ソルトとかいう人も、憎っくきシャンデラまでもが、私をひと目見て「よく育てられている」と言った。技だって、“はたく”みたいなママゴトじゃない、申し分ないものをチョイスしている。それでもパワーが足りないとすれば。 「もう、進化しか方法がないかもな」 レンリが私を見下ろした。私は頷いて、きゅんと鳴いた。 ただし、それには“光の石”というアイテムが必要だ。そしてそれは、このイッシュ地方では滅多に手に入らない。 欲しいなあ、光の石、とレンリが呟いた。そしてまた茶色い固形フーズを口に放り込んだ。
どれだけ寄り道しても、いつかは家の前に着く時がやってくる。 「じゃ、一旦」 レンリはマンションの前に設置されたゴミ箱にフーズの空箱を押し込むと、オートロックの暗証番号を慣れた手付きで入力して、ドアを押した。中に入ってすぐの角を曲がって、細っこい少女の姿が消えた。 私は明るく照らされたマンション内から目を離して、数歩後ろへ退がった。燃える、燃えない、ペットボトルと暗がりに並べられた三つ子のゴミ箱の口から、ゴミがこぼれていた。そこからも目を離し、私はマンションの壁に沿って走り出した。 白、黒、白、黒。カーテン越しに漏れる光と、部屋を区切る暗がりが、交互に私の体を塗りつぶす。時々、黒が続いた。マンションの一番端まで行くと、私は雨樋を伝って二階へ登り、そこからベランダを区切る仕切りを二つ跳び越えて、目的地へ着地。窓は、開いていた。 ぶ厚いカーテンを頭で退けて、中へ入る。頭が痛くなりそうな程の光量が、私の目を刺した。明順応を待って私は瞼を全開にした。煌々と明かりの点けられた室内で、レンリは満面の笑みで私を迎えてくれた。「おかえり、グン」 「ただいま」と私は鳴いた。よかった、この分だと上手く誤魔化せたみたいだ。私は明かりという明かりが点けられた室内を見回す。やつらも来ていないようだ。 レンリは私を膝の上に乗せると、ローテーブルの前でペタリと座って、鉛筆とノートを広げた。 「負けちゃったけど、今日、行ってよかったな」 言葉がもう、弾んでいた。あまり声が大きくなって、あの人たちに聞こえたらまずい。私は耳に神経を集中させた。……オバサンもオジサンも、今は階下にいるようだ。問題ない。私は警戒を解く。 「相手がシャンデラだったからなあ」 レンリがノートを開く。薄い横線の入ったページに、絵を描き始めた。勉強するんじゃないのか。 「こっちの攻撃手段が“穴を掘る”しかないのは辛かったな」 左手で握った鉛筆の先から、線が紡がれていく。 私は勉強机にちょっと目をやった。勉強机は本棚として以外に使った形跡がない。ついでに、机の上に平積みにされた図鑑類の上には、うっすら埃が積もっていた。その埃を、机に付けられた細い蛍光灯が照らしている。机の下にも本が置かれ、そこはスタンドライトが照らしていた。 「もっと攻撃技ほしいなあ。前みたいに、練習すれば出来るようになるかなあ」 言いながら、線をガシガシ。紙の上に八本の毛の生えた丸い物体が現れた。 私は首を右に傾け、左に傾けた。これは、何だ。新種のカニか? それともバーコードが崩れた親父を上から見た図? いやでも、毛だか手だかの先から更になんか伸びてる。レンリは何を描いたんだ。 「でもチラーミィって何を覚えるんだろう」 謎の物体の右に、私の顔が描かれた。正直、彼女の画力で描いてもらってもあんまり嬉しくない。案の定、歪んでいる。顔のパーツの位置が歪んでいる。あと右耳がイカれている。 「ノーマルタイプだからなー。波乗りとか火炎放射とか、どうかなー?」 そして、手足が顔から生えている。私はそんなヤブクロンみたいな体型じゃない。前は少なくとも胴体に足が生えてたのに。レンリは仕上げとばかり、顔の下にこん棒、もとい尻尾を描き足した。 「出来た。グンが穴を掘るでシャンデラを攻撃したところ!」 レンリは私によく見えるよう、ノートを立ててくれた。
……。 …………。 ………………ああ、そういうことか! 上から見た図か、これ! でもってこのバーコードガニは、シャンデラか! 分かるかこんなもの!
あまりの酷さに私は笑い転げた。レンリも一緒に、笑い出す。これでまた、レンリは私が喜んでると思うんだろうな。そしてまた酷い絵を描くんだ。 ひとしきり笑い転げた後。レンリはベッドの上から重たい本を下ろした。イッシュポケモン図鑑、と題された本の大判のページを捲り、さして時間もかからず、彼女は目的のページを見つけ出した。 灰色の、頭でっかちな体。大きな耳に大きな目、長い尻尾。それに対して四肢はちんまりとしている。チラーミィ、私の種族。レンリはイラストには見向きもせず、細かい文字を指で押さえながら追っていた。文字の読めない私は、仕方ないので挿し絵を眺めた。真正面と上からという違いはあるものの、この絵はふくわらいにもなっていないし、耳が発狂してもいない。当然、顔から手足が生えたりなんてしていない。同じ人間という種族が描いたものなのに、どうしてこうも違うのだろう。レンリもこういうのをお手本にして、私を格好良く描いたらいいのになあ。 「へえ、草結びとかアイアンテールとか覚えるんだ」 挿し絵を参考にする気など爪先程もないレンリが言った。 「あ、アクアテールも覚えるんだ。どう? こっちの方がシャンデラに有利かも」 レンリが勧めるんなら、頑張って覚えるよ。私はそういうつもりで鳴いてみる。レンリはにっこり笑うと、今度はページの下の方を指で押さえた。 「光の石は、時々洞窟の中で見つかります、だって。どうしたらいいかなあ。洞窟まで遠出するのは、許してくれそうにないしなあ」 レンリはちらりとドアを振り返った。そしてまた、膝の上の私に視線を戻す。 「欲しいなあ。どっかに落ちてないかな、光の石」 「光の石が、どうしたの?」 鈴を転がすような、おぞましい声がした。
レンリは声のした方を振り返った。少女がそこにいた。 灰色のワンピース、灰色の肌。赤いセロハンでも通したみたいな目が、顔面に二つ空いた穴の中で光っている。 少女はレンリの手首を掴んでいた。 「欲しいの、光の石?」 少女が笑う、と口が裂けた。 レンリは悲鳴を上げると、手を払ってベッドの上に跳び乗った。片手に私を抱いたまま、ばさりと毛布を被る。ブッと音がして照明が落ちた。抵抗虚しく、毛布を剥がされた。もう片方の手が毛布を掴んでいた所為で、レンリはベッドから落とされる。 「やめて!」 私を痛い程抱き締めながら、レンリは床の上にうずくまった。 「何を?」 灰色の少女がせせら笑う。真っ暗になった部屋のそこここから、何かの気配が溢れ出す。暗闇が重さを持ち目を開き口を開き、レンリに近付いてくる。 「近寄るな!」 私は叫んだ。 だが、ゴーストタイプのやつらに私の叫びは無力で。めいめい好き勝手に呪い、痛み分け、精気を吸い取って離れる。私は尻尾も振り回してやつらを追い払おうとするが、やつらは笑うだけ。虫ケラ程にも扱われない自分に、腹が立った。 「出てけ!」 喉が擦り切れそうなぐらい、激しく叫んだ。 「帰れ! 失せろ! 来るな! 触るな! 私の大事なレンリに触れるなあ!」 叫んでも叫んでも効果がないんだやつらには。アクアテールが今すぐ使えたらいいのに頭の血管が沸騰しそうだ! 来るな近付くな失せろ! レンリに手を出すな! 「じゃーあ、恒例の蝋人形ターイム」 ギャンギャン鳴き叫ぶ私を無視して、灰色の少女が言う。部屋の中に光源がふたつ、現れた。青白い炎。照らされたレンリの瞳が、凍った。少女の腕にぶら下がるランプラー、片手に掴まれ、持ち上げられているヒトモシ。少女の指に沿って、蝋がへこんでいた。 私は一層喚いた。私一匹分の喧騒をすり抜けて、やつらが笑う。頭に当たったら五十点、胸に当たったら三十点。仄青いヒトモシが放物線。やめて、とレンリがか細い声で言う。彼女はガタガタ音がしそうな程震えていて、立つことさえ出来なかった。 べちゃ、と音がして、レンリが悲鳴を上げた。囃し立てる声が、打楽器の大合奏みたいに響いた。蝋を引き摺りながら戻るヒトモシ。再びの放物線。私を抱き締めたまま、レンリはポロポロ涙を零した。それも最後の方はなくなって、悲鳴さえ上げなくなった。 「そうだ」 レンリが身動ぎしなくなって、それでもヒトモシを投げていた少女が、無邪気な声音で言う。まるで、新しい玩具を貰ったかのような。 「光の石が欲しいんだってね」 私は反射的に耳を立てた。続いて描かれる白の放物線。肉の焼ける音はするのに、レンリはもう指先さえ動かさなかった。 ヒトモシが戻る。少女が声を発する。 「光の石じゃないけど、ある石のことを知ってるの。その石は、闇の石と光の石、両方の性質を持っているそうなの」 少女が投げる。焼ける。戻る。 少女はあはは、と笑うと、片腕に掛けたランプラーを持ち上げた。 「ねえ、この子とあなたで、その石の取り合い、しない? 負けた方は――」 ざあ、と音が引いて、気付いたらやつらはいなくなっていた。部屋には明かりが戻っていた。 私は耳をレンリの胸に押し当てた。彼女はピクリとも動かないが、鼓動の音は確かに伝わってきた。負ったはずの火傷も、ない。私は彼女の胸に顔を埋めたまま、溜め息をついた。 いつものこととはいえ。 いつもいつもいつも。 また頭の血が沸騰しそうな気がする。私は脳ミソに沸騰石をぶち込む代わりに、口の中を思い切り噛んだ。僅かの痛みと血の味で、私は自分の感情を紛らわせる。そうでもしないと、この苛立ちが脳天突き破って一番憎い私の腸からぶち抜いてしまいそうだ! ドアが開けられた。その音に、レンリが跳ね起きた。 「苦情が来るから静かにしなさいって言ってるでしょう」 オバサン、すなわちレンリを育てている名義上の女親が、ドアの向こうから顔を出した。その時その瞬間とても間の悪いことに、私は近くに毛布もダンボール箱もない床の上に直立していた。 オバサンは、こういう時に限って部屋の中に入ってきた。いつもはドアの隙間から顔を出すだけのくせに。 「ポケモンは持たない、って施設を出る時に約束したでしょう!」 レンリが泣き出した。オバサンは掃き出し窓を指差した。
私はベランダに出された。外は冷え冷えとしていた。明かりを透かしたカーテンの向こう、オバサンの説教の声が聞こえる。 ポケモンを持っていると馬鹿になる。私はそんな苦労を子どもにはさせたくない。野生のポケモンは伝染病が恐い。ポケモンに襲われて死んだ子もいるのよ。そんな話が切れ切れに聞こえてくる。 私は口の中の血を、ベランダの隅に吐き出した。 そして、ベランダと空を区切る格子に近付く。拳をぶつけると、ガンと耳障りな音が鳴った。こういうのは案外丈夫に作られていて、私みたいに非力なポケモンが殴ったところで、どうにもならない。 私は、どうして、非力なのか。怒りに任せて、私は格子の棒をガンガン殴った。 強くなりたい。進化したい。光の石が欲しい。 やつらを叩きのめして、レンリに近付くなんて死んでも言えないようにしてやりたい。 ノーマルと穴を掘る以外の技が欲しい。脳ミソがイカれる限界ギリギリまで、技を覚え込みたい。無効や繰り出し不可なんてクソ食らえだ。 私一匹でも、レンリを守りたい。 最後の不快な打撃音が、中空の月に吸い込まれるように消えていった。流石に、手が痛かった。格子もちょっと曲がっていた。 私は耳を立てた。ちょうど、オバサンが部屋を出ていく音がした。私は掃き出し窓の傍に寄る。少し息を殺す時間があって、それから窓が狭く開かれた。 「グン」 彼女の呼ぶ声に、私は尻尾を振って答えた。レンリは窓を閉めると、「今日も一緒に寝てくれる?」と私に尋ねた。 「勿論」私は答えた。 「もうすぐご飯だから、行ってくるね、グン」 レンリは私に手を振ると、部屋を出た。私はこういう時、待ち時間をベッドの下で潰す。オバサンやオジサンに見つかると、困るからだ。私が潜ったベッドの下では、紛い物のキャンドルライトが煌々と光を放っていた。
ご飯を食べてシャワーを浴びたら、人心地がついたようだ。部屋に戻ってきたレンリは、気の抜けた笑みを浮かべて、私と一緒に毛布を被った。 「明日も待ち合わせしよー」 ねー、と頬を私にくっつける彼女は、やっぱりショックを受けているみたいだった。いつもより幼い感じがした。彼女は子どもだし、幼いのだけれど。 「グン」 「きゅ?」 「えへへ、呼んだだけ」 こちらがくすぐったくなりそうな笑顔を浮かべて、レンリは毛布の中で、足をバタバタ動かした。可笑しくなってきて、私もちょっぴり笑った。 グン。 私の名前。
次の日は、ゴネるレンリをやっとのことで登校させ、それから暫くの間、校庭に入り込んで彼女を見守っていた。レンリは事ある毎に、というか事がなくても、授業から遁走したがるからだ。酷い時には学校の外まで私を探しに来たりする。その度に私は冷たい態度を取って、サボリなら遊んでやらんとアピールしなければならない。 こういうのは親をやっている人間の仕事ではないのか、と私はオジサンオバサンの顔を思い浮かべて腹を立てていた。あいつらが費用を払う以外に、親らしいことをやってるのを見たことがない。そもそも、なんで引き取ったんだろう。 昼までは、今日は何も起こらなかった。食べ物の調達に、学校を離れる。町にいくつかあるゴミ捨て場を回り、同じくゴミ捨て場を漁るチラーミィやレパルダスを追い払って、美味しそうな物を物色した。こういう選り好みが出来る程には強くなっていた。後は進化だけ、か。 「なんだよう。文句でもあるのかよう」 無意識に、野生のチラチーノに視線を向けていたらしい。チラーミィよりひと回り大きな体に、スカーフ状に体を包む純白の美しい体毛。光の石を見つけた、幸運な一匹。だが、強さはそこらのチラーミィにスカーフが生えた程度でしかない。相手も実力の差を悟っているようで、声が震えている。 「別に。何でもないわ」 私がそう言うと、そいつはあからさまに安堵した。チラチーノに腹パンして光の石が出てくるのならそうするが、そうじゃないもの。 私は半分以上残っていた唐揚げセットを頂戴して、その場を離れた。
このまま今日は何も起きないかと思ったらそうでもなくて、学校に戻ったらレンリがまた騒ぎを起こしていた。授業から逃げたのかどうか知らないが、校庭の高い木に登って降りられなくなっていた。「降りてきなさい」と先生のひとりが叫んでいるが、そうではない。降りられないのだ。 幸い、学校の人たちがぶ厚いマットを運んできたので、そこ目掛けてレンリを突き落としておいた。
「ひどいよー。グンひどいよー」 帰り道、彼女は暫くそんな風に文句を言っていたが、あっという間に語彙が尽き、ついでに怒る気も失せたらしく、「ねー、今日もうちに来る?」と聞いてくる。 全く、しょうのない子だなあと思いながらも、私は首を横に振った。 「縄張りの見回り?」 少し違うが、頷く。 「そっか」 レンリはカバンを振り回した。そして、気を取り直したように、 「うん、でも、昨日来たし、今日は来ないよね」 そう言って、自分を励ますように、コクコクと頷いた。そう、やつらが二日続けて来ることは、今までなかった。だから、その隙に。 「ひとりでもだいじょうぶだよ。でも一応、窓は開けとくよ」 全然、大丈夫そうではない。しかし、私の用事の方を後にするわけにもいかなくて、私は意味のない鳴き声を出した。
レンリと別れた私は、裏路地を伝い、目的地へ向かった。 ライモンシティは夜、目覚める。 太陽が沈むのと入れ替わり、街灯やネオンサインが灯り出して華美な町を演出する。ミュージカルホール、遊園地の観覧車は言わずもがな。マイナールールが売りのバトルハウスであったり、ドレディア専用とか、チラチーノ専用の品評会会場なんてものが、それぞれに趣向を凝らして自分の美しさをアピールする。その所為で、町は眩しすぎる程に光り輝いていた。だがそれは美しさの為ではない、電飾に掛けた金と欲望で光っているのだ。……というのはあのジュペッタの言葉だったっけ。 私は光を避けるように裏路地に入り込んだ。野生のヤブクロンやチラーミィを適当にいなし、進む。裏路地は、街中が明るい分、邪魔になった闇をここに集めたのかと思うほど、暗かった。目で見える明るさではない何かが、暗い。 目的地に辿り着くと、そこには先客がいた。ここは彼らの縄張りだから、先客と呼ぶのも間違いか。余りに凄惨な臭いに、嗅覚は数秒で麻痺してしまう。積もり積もって取り返しの付かなくなった、それが彼らの臭い。
華やかな街の裏側に押し込められた、廃棄物、使えなくなったモノたちの吹き溜まり。月明かりだけがここを照らす光。 「ようこそ、今宵もあちら側は随分明るいのだろうね?」 そしてその主、見上げるように大きい、周囲のスクラップの山程もある彼女、巨体に塵芥を詰め込んだダストダス。その体に遺骸も食べ残しも、どこかのジムバッジも誰かのぬいぐるみも何もかも詰め込みすぎて、彼女はもうその場から動けない。名は、女王。 にい。スカスカに欠けた歯を見せて、女王は笑う。その体に、まだ新しい組み立て式のシェルフが刺さっている。 「さて、あちら側の住人であるお前さんは、一体何を求めてここに来たのかな?」 女王の言葉が、吹き溜まりに生温い風を起こす。濃い緑の小さなヤブクロンたちが、ぞくぞくと集まってきた。びゃあああ、びゃあああ。ヤブクロンたちの擦り切れた鳴き声が、暗い低い空に当たって跳ね返る。 「強さか」 女王の言葉に呼応して、ダストダスが数匹、吹き溜まりを吹き溜まりたらしめるゴミ山の上に現れた。女王と比べるべくもないが、周囲のヤブクロンに比べればずっと大きい。 「知識か」 女王が自分の頭を指し、淀んだ風のような妙な音を立てる。デロリ、と頭を覆うボロが剥がれ、中のスクラップが丸見えになる。錆びたICチップや、風化して角がとれた辞書が紛れていた。それで脳味噌の性能が変わるわけではないが。 「両方よ」 私は女王に啓する。女王がにい、と笑う。 ダストダスが数匹、跳び掛かってきた。
数秒もかけずに、私はその全てを打ちのめした。地面に潜れるフィールドで、ノーマルタイプの技が効く相手に、何を恐れるものか。 「十分強いじゃないか」 戦いが終わり、生温い風が吹いたフィールドに、女王の笑い声が響く。 「それ以上、どう強くなるって言うんだい」 「進化よ」 私は女王を見上げ、啓する。 「でもそれには光の石が必要だ。この地方では稀少な」 「その石が欲しい」 首が痛くなるぐらい、私は女王を見上げた。女王は月を背にして、黒い壁となって私の前に立ちはだかっていた。 紺色の空に、薄い雲が飛んで、やがて、 「この掃き溜めには、それはないねえ」 ゆっくりと、女王が口を開いた。その言葉に私は落胆しない。 「ここには不必要なモノが集まってくるのさ。表の世界で必要とされる光の石は、ここには流れ着かないよ」 「分かってるわ」 「そうかい」 女王ダストダスは汚れた目を閉じた。その目は見えているのだろうか、とふと私は思った。
「私は、ある石の噂を聞いてここに来たのよ」 次なる私の言葉に、女王は目を剥き出した。あるいは、こんな私のことなど、お見通しなのかもしれない。 「その石は、光の石と闇の石、両方の力を備えていると聞いた。教えて。女王様なら知ってるでしょう。その石が何なのか。どこにあるのか」 淀んだゴミ捨て場の、温い空気がトロリと動いた。ここの風は、いくら吹いても外に出ることがない。何故か急にそう思った。 ふぅー。女王が長い息を吐く。ダストダスたちが心配するように足元に控えている。が、体調が悪いのではなかったらしい。 女王は濁った目で私を見つめた。 「お前さんは、心底あの子が好きなんだねえ」 女王の目の奥には、感心ではなく、何故か悲哀の色があった。何故だろう。疑問に思ったが、私は気にせず答えた。 「当然」 「そうかい」 女王は悲しげに瞼を下ろした。気の所為か、その奥から涙らしきものが零れたように見えた。 女王は、もう一度「そうかい」と言った。そして、重い瞼をゆっくりと開いた。そこには、もう悲愴の色はなかった。
「お前さん、いいや、チラーミィのグンよ。求められれば私は知識を与えよう。けれどもそれは、諸刃の剣。お前さんが手を伸ばそうとしているのは、死神の遺宝。それを手にした後のことは、誰にも知り得ない。だが、ひとつだけ確約しよう。 それがもたらすのは異常な進化。お前さんは主にとって、望まれぬモノになるやもしれぬ。このゴミ溜めで得た知識、それによって起こるお前さんの変化、それら全てゴミ溜めに捨ててゆけと愛しのご主人様に言われたとしても、お前さんはそれを求めるかい?」 「ひとつだけ先に教えて」 私は無礼を承知で、女王に頼んだ。 「強くなれる?」 私の問いに、女王の濁った瞳が、潤んだ。きっと女王は、この質問を予期していたのだろう。答える彼女の言葉には、塩っ辛いような響きがあったから。 「なれるよ」 女王の声は、優しいくらいだった。 「これは憶測でしかないけれど、でも、極めて高い確率で……それに触れたモノは、普通のポケモンより強くなれる」 「教えて」 私はすぐさま、そう答えた。 「弱くある方法なんて必要ない。捨てられても拒絶されても、強くなければ意味がない」 女王は微かに肯った。 「覚悟はあるようだ」 そして、語り出した。
「闇の輝石」 辺りが急に暗くなった、気がした。いつの間にやらヤブクロンたちがいなくなっている。どこかから何かが落ちる音がした。空は真っ黒な雲に覆われて、月の欠片も地上からは見えなくなった。 まるでそれは、女王のひと声で天が舞台を整えたかのようだった――女王は唄うように紡ぎ出した。 「それは特別な進化の石、闇と光の両方の石。 光を逃さぬその石は、どの深淵より深い闇でありながら、その内側に千正の光を湛えている」 女王の言葉が、私の中に響く。まるで、私の皮の内側で反響しているような感覚。私の血肉に言葉を刻み込まれているような、心地。 「闇を求めるものがいて、光を求めるものがいて、それは空ろよりまろび出る。 闇に光を、光に闇を、互いに求め食らい合う。 冥き光か、輝く闇か、選べる道はただひとつ」 女王が歌い終わった、と同時に雲が引き月が覗きはじめた。 「闇の輝石は、かつて光の谷と呼ばれた場所にある。場所を教えよう」 ゴミ山から拾い上げた、古ぼけた地図を見せてもらった。光の谷は、サザナミタウンや豊穣の社の辺りにあるようだ。歌の通りなら、私一匹で行っても手に入らなさそうだけど。場所を覚えた印に、私は頷いてみせた。
私が教えられるのはここまで、と女王は言った。 「ありがとう。これで強くなれるわ」 「お前さんは」 ゴミ捨て場を去ろうとした私に、女王が話し掛ける。私は足を止めて、女王を見上げた。 月を背にしていて、彼女の表情はよく見えなかった。 「あの子のことを……大事に思ってるんだね」 「名前を貰ったから」 口ではそう答えたけれど、何だろう、違和感があった。女王は、少なくとも、そんなことを言おうとしたのではないと思う。 しかし、女王が本意を口にすることは、遂になかった。 「分かるよ。お前さんにとっての光、見失わぬようにな」 私は頷いて、ゴミ捨て場を後にした。
嗅覚が戻る。光が過剰に溢れたこちら側の世界へ、私は戻ってきた。 レンリの家の方角を鼻先で指して、私は歩く。四肢を単調に動かしながら、私は女王の言葉の意味を考えていた。正確には、言葉の余白の意味を。 「あの子のことを」、その後に、女王は何と言おうとしたのだろう。大事に思っている? そんなの、当たり前すぎて忘れるくらい当たり前だ。私が私でいられるのは、レンリのお陰なのだから。 あの子が名前をくれるまで、私はチラーミィという個体群の一部でしかなかった。それを、あの子が掬い上げてくれたのだ。グン、という名前で、彼女のチラーミィという一個体として。それまでは、私は呼吸して食べ物を摂取していても、生きてはいなかったのだ。
私があの子に出会ったのは、女王と出会ったのとはまた違う、小さなゴミ捨て場でのことだった。あの時、彼女は大きなゴミ箱の中にいたのだった。危ない。私がエサを探して中を覗いていなかったら、どうなっていたことやら。 私に敵意がないことを感じ取ったのか、彼女は自らゴミ箱から出てきた。そして言った。孤児院に戻りたくないのだと。 「スーがいなくて寂しいの」 スーというのが、仲良しのポケモンの名前らしい。だが、孤児院の規則で一緒にいられないのだと言った。 それから、彼女は私に友だちになってほしいと頼んだ。 私がふたつ返事で了解すると、そこではじめて彼女の顔が綻んだのだ。実は、最初は同情心で友だちになろうと思ったわけではなかった。友だちになれば、食べ物を貰えるかもといった、安い期待だったのだ。それが、彼女の笑顔で吹き飛んだ。なんというか、純粋に可愛いと思った。自負と庇護欲と、少々の嗜虐心を掻き立てるには、十分の笑顔だった。 「じゃあ、えっとねー。グン! グンって呼ぶね!」 その瞬間、私は生まれたのだ。
レンリは私に色々なことを話した。孤児院のこと、学校のこと、かつて一緒に暮らしていた、狐の親子のこと。その親子の狐の、子どもの方がスーらしい。けれど、親狐がいなくなって、レンリは孤児院に送られ、スーは保護センターに送られ、離れ離れなのだとレンリは言った。 「早く会いたいなあ」 レンリは口癖のように言っていた。 だから、レンリを引き取りたいという夫婦の申し出に、彼女は一も二もなく乗った。 これでグンとも一緒に暮らせるよ。孤児院を出る前の日、太陽みたいな眩しい笑顔でそう言った彼女は、次の日にはこれ以上ないくらい沈んだ顔をして、私の前に現れた。 「ポケモン、持っちゃダメって言われた」 私と一緒にゴミ箱の隣に並んで、何時間も経った後、彼女はポツリと呟いた。 「ごめん、グンと一緒に暮らせるって言ったけど、あれ、嘘になっちゃった」 誰よりもショックを受けたのは彼女なのに、彼女は私を気遣ってそう言った。 私は、何も出来ない自分が恨めしかった。 それでも、彼女の部屋に忍び込んで、スーのいない寂しさが少しでも紛れたらいいと思った。もう少し頑張って、トレーナー免許を取れる歳になれば、そしたら、誰にも文句を言われず、スーと私とレンリと、一緒に暮らせる。 そう思った矢先に、やつらが来た。 やつらが何なのか、はっきりとは分からない。幽霊なのか、ゴーストポケモンなのか。あの夫婦に憑いているのか、部屋に憑いているのか。分かっているのは、やつらはレンリに執拗に危害を加えてきて、そして、私は無力だってこと。
だが、それも今日で終わる。 私はいつものようにベランダに登り、窓を開こうとした。鍵が掛かっているみたいで、動かなかった。 「レンリ?」 中に呼び掛けて、やっと気付いた。暗い。あの子が部屋にいる時に、明かりを落とすはずなんてないのに! 「レンリ!」 私は叫んだ。のみならず、尻尾で思い切り窓ガラスの面を叩いた。ぐじゅ、と苔を踏んだのに近い感触がして、ガラスは何事もなく尻尾を跳ね返した。カッとなって窓を殴る。結果は同じだった。 「レンリ、レンリ!」 私の叫びに返事するように聞こえてきたのは、案の定、やつらの声。 「やっと帰ってきたの? おそーい」 鈴を転がすような少女の声。バックコーラスのような追従笑いが聞こえた。 なんでよ、と私は独り言つ。昨日来たばっかりじゃない、引っ込んでろよ! 「レンリに手を出すな!」 「その位置からじゃ、何も出来ないよねえ」 「出来ないかどうか、やってみなきゃ……」 私は短い助走をつけて、窓ガラス目掛けて体当たりした。破ろう、と思っていた窓ガラスが、消えた。私は勢い余ってベッドの下まで転がり込んだ。 「一名様、ごあんなーい」 ヒトモシの体を突っ切って、私は部屋の中心に這い出た。そこには灰色のワンピースを着て、赤い目を異様に光らせた少女と、 「レンリ!」 その少女に担がれて、ピクリとも動かない彼女。 灰色の少女は、その年回りに似つかわしくない、歪んだ笑みを浮かべた。 「遅刻するからさあ、遊び疲れちゃったじゃん?」 レンリの背を叩き、こちらを見下ろす少女。その目は光り過ぎて輪郭がぼやけ、ドッキングして一つ目のように見えた。 「レンリを離せ」 私は一つ目を真っ直ぐ睨み返した。 「あなたが勝ったら、考えてあげる」 そう言って少女は窓の外を、否、かつて窓があった場所を指差した。そこには、穴が空いていた。まるで巨大な獣が窓を、その周りの空間ごと飲み込んでしまったかのように、赤黒く爛れた穴が口を開いていた。私は顔をしかめた。腐肉の臭いがする。少女は「怖気づいたの?」と笑った。 「言ったでしょ? 光と闇を兼ね備えた石のこと、取り合いしようって。それとも、今更自分がカワイクなっちゃった?」 「そちらこそ、逃げるなら今の内よ」 「そう」 少女は獣の口内へ、一歩近付いた。 「待ちなさいよ」 私は大声を張る。 「レンリは関係ないでしょ? 置いていきなさい!」 私の言葉に、少女がグロテスクな笑みを浮かべる。ぼわんと輪郭がぼやけて膨らんだ、気がした。霧のように焦点の合わない姿のまま、少女は嬌声を上げた。声だけ異様に人間臭かった。 「戦いに戦利品はつきものじゃない?」 「巫山戯たことをっ」 私が喋っている途中で、少女とその取り巻きは獣の体内へ姿を消した。 「先に、光の谷で待ってるわ」 哄笑が残滓のように響く。 私も追って、その中に跳び込んだ――
はずだった。 「ちょいタンマ」 跳び込もうとジャンプしたところで、尻尾を引っ張られた。当然、私の前進は止まり、床に落っこちる。そして、目の前で獣の口が閉じた。 「ちょっと、何すんのよ!」 怒気そのままに後ろを振り返る。尻尾を引っ張った元凶を見つけて、「ジュリー!」と怒鳴った。 「どうすんのよ! レンリに何かあったらどうしてくれんの! しかも進化できるチャンスでもあったのに、アンタ何様のつもり!」 「まー、まー」 ジュリーは宥めるような声を出した。ジュリー・ジュペッタ、自称“女王のゴミ捨て場友だち”。ゴミ捨て場出身のくせして、彼女は今日も、金の傘に銀のティアラ、赤のケープで身を綺麗に飾っていた。 「どうすんのよ」私はもう一度言った。 「道、消えたじゃない!」 「まーまー」 ジュリーはまた、暴れ馬を静めるような声を出す。 「無策で行ってどうすんの」 「無策って」 「相手、ゴーストタイプだけど、大丈夫?」 ぐうの音も出なかった。ジュリー・ジュペッタは金の傘を床に置くと、これまた光り物のストラップの付いたチャックを横に引いた。ジュリーは自分の頭に手を突っ込んで、フロッピーディスクが分厚くなったくらいの大きさの箱を取り出した。埃が立つ。 「あ、ごめん」 くしゃみをした私を横目に、ジュリーは箱を叩いて、真四角のボタンをバチバチ押した。ボタンは黄ばんでいた。元は白かったのだろう、と思われた。 「よし、完了」 ジュリーは箱から長い棒をみょんと伸ばした。ちょっと錆びているが、銀色で先の丸いそれは、アンテナらしい。ジュリーはそのアンテナで、私の額をちょいちょいと小突いた。 「じっとしてなよ」 ジュリーはそう言って、ボタンのひとつを押し込んだ。が、何も起こらなかった。あれれ、と首を傾げて、ジュリーは箱を左手でしっかり持って、右手でガンガン殴った。 「ちょっと」 箱を床に置いて、傘で殴り始めた。傘が折れた。 「そんなことしてる暇があったら、レンリの」 アンテナを持って床にガンガンぶつけはじめた。 「レンリの救出、ちょっと、聞いてるの?」 「聞いてるよ」、の、「よ」のところで、箱が私の顔面にクリーンヒットした。一瞬、頭が真っ白になった。すぐに真っ白は引いて元の視界に戻ったが、痛みと怒りが収まらない私はジュリーのケープをひっ掴んだ。 「どういうつもり?」 「うん、これで新しい技のイメージは掴めたかな?」 「どういうつもり?」 「あ、うん」 ジュリーは手元のアンテナを縮めていって、床に落とした箱を拾った。そして、それを私に注目させるようにかざす。 「これ、ね、技マシン。型式のすーんごい古いやつだけど、使い道を知ってれば役に立つよ」 「ふうん」 ジュリーの説明は、よく分かるような、分からないような、だった。技マシンは縁のない高級品だ。一瞬で技を覚えられるとかいうけれど、イマイチ実感が湧かない。 「で、それはどういう技?」 私はジュリーに尋ねながら、自分の脳内をかっさらった。新しい技らしき記憶は、ない。 「んとねー」 ジュリーは箱を裏返して見た。 「分かんない」 「分からないの?」 「うん」 ジュリーは頷いて、箱をもう一度ひっくり返した。 「海賊版だもの」 私はやつのティアラをひっさらって叩きつけた。 「ごめん! でもゴーストには効くから!」 「それはどういう根拠?」 「だってそう言っとかないと、殺される!」 私はやつのケープをひっ掴もうと腕を伸ばした。それをスルリと躱して、ジュリーが逃げる。 「こんなことで時間を潰させないで! こうやってる間にもレンリが」 「大丈夫、向こうも君が来ないと手出しは出来ない」 「だからアンタはどういう根拠で喋っ」 「レンリ!」 階下から声がした。 私たちは顔を見合わせ、そして、ベッドの下に潜った。「あ」慌てて傘とティアラを回収する。 ドアが開いた。 「レンリ、騒いでないで、準備は出来たの?」 オバサンの声。「レンリ?」オバサンは部屋の中にズカズカ上がり込んだ。足がベッドの前で止まる。 毛布を翻す音がした。 「もう」 オバサンはブツブツと何か呟いてから、ドアを開け放したまま、部屋を出た。階段をドンドンと降りる音に遅れて、オバサンの大声がベッドの下まで聞こえてきた。 「ちょっと、あの子どもがいなくなってるわよ。明日引っ越しだって言ったのに」 「引っ越し?」 思わず喋った私の口を、ジュリーが塞いだ。 「困ったな」 下の階から、オジサンの返事が聞こえてきた。ドアが開いていると、予想以上に音が筒抜けになるらしい。 「明日行かないと、上にどやされる」 「やっと子守から解放されると思ったのに、最後まであの子どもは」 ジュリーに肩を叩かれた。いけない、つい聞き耳を立ててしまっていた。 「なるほどね」 ジュリーはそう言うと、チャックを飾っていたストラップを外して、私に向かってつき出した。 「はい」 「なるほどって、どういうこと?」 「それは今言うべきことではないわ。それより、こっち」 ジュリーはストラップの、大ぶりな水色の石の部分を指差した。 「エスパーポケモンの“テレポート”の力を宿した結晶。これ使えばレンリちゃんのとこに飛べる。行き帰り二回分」 それとも、光の谷まで徒歩で行きたかった? とジュリーは笑う。 「それ、誰に聞いたの?」 「ヤブクロンたちから」 私は顔を顰めた。全く、口さがない連中だ。 「これ、いらないの?」 ジュリーが水色の石を揺らす。私は手を伸ばしてそれを奪い取った。 「貰えるんなら、貰っておくわ」 「まいどありー」 ジュリーはうっかり開けっ放しだったチャックを閉めると、ティアラを付け、傘を拾い上げて、掃き出し窓へ向かった。窓は全開。獣の口などそこにあったことが嘘のように、冷たい夜風を招き入れている。 「じゃ、頑張ってね、グンちゃん」 出て行く間際。ジュリーは振り返って、手を振った。赤いケープが風になびいている。 「言われなくても」 「そうして。結果如何によっては世界が滅んじゃったりするかもだから」 「え?」 それ、どういう意味と問い質す前に、彼女は夜闇に消えた。 「まあ、いいわ」 私は水色の石を見つめた。今の私はレンリのことだけ考えておけばいい。 進化して、やつらをぶちのめして、レンリを守る。世界のことなんて二の次だ。 レンリの元へ。彼女のことを、彼女の笑顔を、思い浮かべた。
ズキリ、と頭が傷んだ。それは錐で海馬を刺し貫いているかのような激しい痛みになって、次いで、その錐に体を吸い上げられるような感覚がした。吸い上げられて、その勢いで飛ばされるような。 と思ったら、私は空気を吸い込んで、元の大きさに戻った。視覚が機能する前に、床に落っこちた。暗かった瞼の裏に、白い火花が飛んだ。痛いなもう、と腹立ちまぎれに口にして、それから私はやっと目を開いた。 満天の星空だった。川のように縦に切り取られた紺色の空に、まぶしたような細かな光。空を切り取る崖の上で、木の葉がざわざわと揺れていた。私は起き上がった。 光の谷。 何故そう呼ばれていたのかは、すぐに分かった。歩くと足にキラキラ光る小石が幾つも引っ掛かる。体で影を作っても、小石はキラキラとレモン色に光っていた。自ら発光する石。光の石だ。私の本能がそう知らせた。ただし、ここに残っているのは屑同然の石ころだ。小さ過ぎて、進化には使えない。 昔は、夜でも明かりに困らない程に、光の石が埋まっていたのだろうか。星明りしか頼るものがない谷の中を、私はひたすら一方向に歩き続けた。 やがて。 「おそい、おそーい。大遅刻だよ」 ヒトモシとランプラーに照らされて、灰色の少女が鈴を転がすような声で、笑った。 少女を取り巻くように、たくさんのゴーストポケモンたちが侍っていた。名前は知らないけれど、白い仮面の奥に赤い目を灯したナニカの群れ。そして、彼女の姿が見当たらない。 「レンリはどこ?」 少女はクスクス笑って、その場を退いた。少女のその動作が合図であったかのように、ゴーストポケモンの群れが左右に割れる。 そこには何もなかった。 いや、闇があった。 闇がボロボロと、包帯を解くように崩れていく。 蕾を縦に割ったようなその中に、彼女が囚われていた。 「レンリ!」 名前を呼ぶ。彼女はゆっくりと顔を上げた。その動作だけでも、辛そうだ。グン、と耳を澄ませなければ聞き落としてしまいそうな小さな声で叫んで、彼女は手を伸ばした。その手を黒い布が縛り上げ、彼女を蕾の中に押し留める。レンリの体が震えた。嫌な感じのする震えが収まったと思ったら、ぐったりと闇の中に落ち込んだ。 「景品の確認は済んだ?」 「……レンリを返しなさい」 「馬鹿のひとつ覚えみたいに。あなたが勝ったら返してあげるわよ」 少女が指をパチンと鳴らした。青白い炎が、私たちを囲むように現れた。 「バトルフィールド。雰囲気たっぷりでしょ?」 少女はランプラーを腕から降ろし、進ませる。ランプラーは青い炎を揺らめかせ、私の前で止まった。お辞儀をするように体を前に揺らす。が、試合前の挨拶みたいなものは口にしなかった。私もそれに答えて無言で、首を傾けて返事にする。そして、睨んだ。 「ひとつ、確認」 バトル前の張り詰めた空気を茶化すように、少女が晴れやかな声を上げた。少女の電球みたいな赤い目が、こちらを向いた。 「チラーミィさん、あなたは“闇の輝石”を使って進化したくて、ここに来たのよね」 「そうね」 私は肯定の鳴き声を上げる。少女は視線を次に移した。 「シャン、あなたもそうね?」 「はい」 相手のランプラーは低い声でそれだけ答えた。 まるで、その言葉を待っていたかのように、空が曇りはじめた。 白い砂を撒いたような星の光は黒に塗り潰され、間もなく竜の唸り声のような遠雷の音が聞こえてきた。 そして、唐突に黒い夜空の一点が光った。カメラのフラッシュなんて生易しい、それは何億トンもの爆薬をその一点に固めて火を付けたような、光圧に恐怖さえ覚える光だった。 目を瞑ろうとして、出来なかった。ここから逃げた方がいいという本能と、逃げてたまるかという意地が喧嘩して、私はその場に立ち止まるしか出来なかった。光は真っ直ぐに私たちのいる方へ落ちてきて、そして、私たちの頭上の空間に激突した。 音もなく、光は消失した。あの光は空間を焼き切ったのだと気付いたのは数秒後、石が地面に落ちてぶつかる音を聞いたからだった。 光が激突した空間の真下に、その石はあった。ありとあらゆる闇より暗い、視認するのさえ難しい石。それは私の目の前にあって、少なくともランプラーの炎には照らされているはずなのに、絵の具を塗り間違えたみたいに、そこだけずんと闇に沈んでいた。 「闇の輝石」 少女の声もまた、闇に侵されたかのように低く聞こえた。しかし、その裏には抑えられない興奮がべったりと貼り付いていた。 「これが、通常より強大な進化をもたらすという、特別な石」 ランプラーが、そろそろと闇の輝石へ手を伸ばす。私も一歩、二歩と、小さな歩幅を刻んで石へと歩む。 私とランプラーは、闇の輝石を挟んで対峙した。 そしてその時、私は気付いてしまった。 バトルフィールドの境界線を描く青い炎。その手前に、レモン色に輝く進化の石が転がっていることに。 私の頭の中で、火花が飛び散った。光の石。私が求めていたそのものが、少し手を伸ばせば届く場所にあった。正常な、何の不安もない進化を約束してくれる石。レンリも欲しがっていた進化の石。そして目の前には闇の輝石があった。常軌を逸した強さを約束してくれる石。ただし、その他の何も保障してくれない石。ランプラーが闇の輝石に、また少し近付いた。私は光の石と闇の輝石を交互に見た。正常な進化と、レンリと一緒にいられる未来が、冷たくも柔らかい光を放っていた。強さだけを貪欲に求め続ける未来が、レンリのいない世界が、視覚が効かない程深い闇の底に沈んでいた。 ランプラーの腕は、もう闇の輝石に触れるか触れないかというところまで来ていた。数秒、思考限界まで、あと。 猶予は最早、ない。 光の石か、闇の輝石か。 レンリの傍にいられる道か、強さを求め続ける道か。 私の目が、闇の輝石を、ランプラーを、灰色の少女を飛び越えて、レンリが囚われている闇に吸い寄せられた。 そうだ。答えは決まっている。 私は地面を蹴ると、石へと手を伸ばした。
――闇の輝石へ。
石に触れた時、変な感じがした。 それとも、進化ってこんな感じなんだろうか。 目の前で、ランプラーが黒い闇に包まれていた。ふと気付いてよく見てみると、私の方は白い光に包まれていた。 同時に進化しはじめて、同時に終わった。 目の前にいるのは、ランプラーではなくて、ひと回り大きいシャンデラ。 私の体もひと回り大きくなって、それから、純白のスカーフが体から生えていた。頭から二本、首と尾に一本ずつ。これで戦うイメージは、まだ持てなかった。でも、スイープビンタの威力は上がりそうだ。 油断した私にシャンデラが噴きつけた炎を、難なく避ける。ジャンプひとつで、こんなに。私は自分の身体能力に、目を見張った。すごい、確実に強くなってる! 「それでこそ、食らい甲斐があるってものだわ」 少女が高揚の指揮を執る。 「さあ、狂宴のメインディッシュに祭り上げて頂戴!」 灰色の少女が号令を掛けた。数多のゴーストポケモンが私を取り囲む。 卑怯者! と叫びたかったが、それが通じる相手ではない。一掃できる技、と考えて、ふと、私の脳裏を光が過ぎった。 瞼の裏を塗り潰す、真っ白な光。 私は目を閉じた。観念したと思ったのか、シャンデラが大技の準備をしているのを感じる。熱が、すぐそこまで迫っていた。 光を。 技のイメージを。 「穿て――ッ!」 私を中心に、放射線状の光条が走った。有象無象の雑魚が消え失せる。ヒトモシは消えてはいないが、伸びている。が、シャンデラと灰色の少女は残っていた。全てを白く塗り潰すイメージには遠い、か。 「私の子どもたちを……」 「サマ」 シャンデラが急に言葉を発した。一体何のことだろうと思ったが、少しして分かった。少女の名前を呼んだのだ。 「サマ」 シャンデラが繰り返した。 「この戦い、手出ししないでもらえるか」 「でも」 「これは」 少女の反論を、シャンデラは断ちきった。シャンデラの硫黄色の瞳が、私を真正面から見た。 「俺たちの戦いだ」 私も睨み返した。シャンデラの目の中に、私は自分の鏡像を見た。その途端、胸の中に憎悪の火が燃え上がる。 ――闇に光を、光に闇を、互いに求め食らい合う。 女王の歌通り、私たちは、食らい合わなければならない。 「負けないでよ」 少女が言い終わるのを待たず、シャンデラは火を噴き出した。見切って、躱す。お返しにさっきの光条をぶちかましてやった。が、思ったより威力が出ない。光が、拡散してしまうからか。 私の思考を見透かしたように、シャンデラの体が光条の薄い位置に動く。ちょこまか鬱陶しいのよ。歯軋りしながらもう一撃を加える。また躱された。 「こちらの攻撃、いいかな?」 シャンデラの目が怪しく光る。私は跳んで、敵の視線と私を結ぶライン上から身を引いた。着地は出来なかった。私の足が虚空を蹴る。シャンデラが大きく息を吸う。頭の炎が巨大化した。 テレキネシスで相手の行動を制御してからの、煉獄。 視界が赤に染まった。締め上げられたように、呼吸が苦しくなった。燃えカスの酸素を求めてゼエゼエ喘ぎながら、私は毛皮の毛がチリチリと焦げていくのを、そして、毛に守られていた肉の部分が変性していくのを感じていた。私はステーキってことか。食べたことはないけど。 煉獄が途絶えた。首輪を外されたかのように、呼吸が解放された。熱気が拡散し、麻痺していた痛覚が復活する。生に剥かれた皮膚が痛い。インターバルに入ったシャンデラが、再度大きく息を吸う。未だ宙に吊り上げられた私の足元に、炎の舌がチロリ。どうやら敵はヴェルダンがお好みのようで。 再度。 意識が飛んだ。 飛んだ意識を無理矢理繋いで、私は目を開けた。シャンデラの深呼吸。だらんと垂れ下がったままの私の手足。宙吊りにされたままで。冷え冷えとした夜気が火傷だらけの体に染みる。 私は手足を動かしてみた。ズキズキ痛む。そして、無意味だった。シャンデラは、吸った空気を炎に寄越さず、そのまま吐いた。硫黄色の目がこちらを見る。 近付いてきた。 ゆらゆら揺らめくシャンデラの腕の炎を見て、まるで、死神のようだと思った。 シャンデラは私を見上げた。 「お前に恨みはないが、サマの為だ。許せよ」 そして、腕を上げた。青く光る、どこか、冷たい炎。ただの炎じゃなさそうだ、と考えて、そういえば、シャンデラは魂を焼くんだっけと思い出した。そうか。これから私は、魂を焼かれて、食われるのか。 私は女王の歌を思い出した。冥き光か、輝く闇か、選べる道はただひとつ。私は、選び取れなかった。選び取ったのは、向こうの方だった。強さを求めて手を伸ばしたのに、それでも、届かなかった。 「俺は、お前よりもずっと、強くなりたいんだ」 青い炎が闇を撫でた。私は目を閉じた。
「グン!」 耳慣れた子どもの声に、私は顔を上げる。 レンリが、闇の中から手を伸ばして、叫んでいた。 「尻尾で地面を叩いて!」 途端、頭の中に光が差した、気がした。 私は空中で反動を付けると、クルリと回った。回り際、頭のスカーフで強かに地面を殴る。支えのない私の体は中空をひゅっと滑る。テレキネシスの効果が切れて、着地。何もない空間を青い炎が突き抜けた。 「邪魔しないで!」 灰色の少女が睨んだ。再び黒い布が現れて、レンリを締め上げる。それでもレンリは細い足をバタつかせて、必死に、叫んでいた。 「頑張って、グン」 その言葉だけで。 まるで、勝利への道筋が見えたような、そんな感覚。 思わず笑みさえ零れそうになる。 シャンデラが火を噴き出す。私はそれを避けて、シャンデラに向けて走る。 グン、とあの子が私を呼ぶ声がする。その言葉だけで、彼女が私を認めてくれているというその感触だけで、力は、面白いように湧き上がる。 ダッシュした。テレキネシスの発動を見咎めて、急ブレーキ。止まった勢いで立ち上がり、頭と尻尾のスカーフを使って光の屑石を捲き上げ、シャンデラの顔に投げつける。シャンデラが石を振り払ってそこを見た時、私はもういない。 「どこに」 迷うシャンデラの声。それがこちらの道標。 私は全力で地表をぶち破った。 “穴を掘る”。 シャンデラを真下から、土塊ごと打ち上げた。 夜闇に青い炎は、よく目立つ。ダメ押しに、光を二発、三発、四発とぶつけた。シャンデラが更に高く打ち上げられる。そして、最高点に達したら後は、自由落下。 「シャン!」 少女が悲鳴を上げた。シャンデラは地面に激突して、ガシャンと割れた。 「シャン!」 少女がもう一度叫んだ。 その時だった。シャンデラの中核を成していた青い炎が、私に向かってスーッと飛んできた。最後っ屁か、と思ったが、敵意がない。瞬く間に、炎は私に“吸収”されてしまった。 私は自分の両手をぼんやり見つめた。そうか、これが闇の輝石の能力。闇と光が食らい合った結果。 フフ、と私の口から笑みが漏れた。抑えきれず、私は早速奪った力で闇のエネルギー球を作り出した。それを灰色の少女の足元に投げつけて、ひと言。 「レンリを解放しなさい」 割れたシャンデラの横で膝を付いていた少女が、こちらを睨む。しかし、最早手立てがないと理解したのか、少女はシャンデラを抱え、気絶したヒトモシを肩に乗せると、指をパチンと鳴らした。 私たちを囲っていた青い炎が消える。そして、闇がボロボロと崩れて、中からレンリが吐き出された。 「レンリ」 すぐさま、彼女のところへ跳んでいった。灰色の少女が「シャンがいなくとも、私たちだけでやるわ」と恨み言のようなものを口にしていたけれど、無視した。背中を見せる程度のことは、わけない。私は力を手にしたのだから。 「レンリ」 それよりも、こっちが大事。私は肉球でレンリの頬を叩いた。 「大丈夫だよ、グン」 レンリは微笑んだが、やっぱり疲れているように見える。本当に大丈夫なの、と私は鳴いた。「グン、頑張ったね」と言う主。相変わらず、通じてない。けど、そんなことはもう、些細なことに思えた。 「進化したんだね。おめでと」 レンリが笑った。その途端、負ったはずのダメージも何もかも、吹き飛んだ気がした。 レンリが私を抱き寄せる。 「あんまりよく見られなかったけど、かっこよかったよ、グン」 彼女は、私が闇の輝石で進化したことには気付いてないのだろうか。なら、それはそれで好都合、と私はほくそ笑んだ。力は欲しい。でも出来れば、彼女も失いたくない。 その彼女が首を傾げた。 「ね、ところで、ここどこだろ。ちゃんと町まで戻れるかなあ?」 首を傾げるレンリも可愛い。それはさておき、私は尻尾に引っ掛けてあった水色のストラップをレンリに見せる。 「それ、何?」 レンリが石に触れたタイミングを見計らって、私は強く念じた。 ライモンシティへ。私たちの帰る場所へ。
帰りは、行きほど気持ち悪くなかった。 ちょっと頭痛がして目の前が真っ暗になった後、どこかに落っこちたくらい。頭でもぶつけたのか、にゃあ、とレンリの悲鳴が聞こえた。 それにしても、視界がいつまで経っても暗いままだ。これは、闇の輝石の副作用なのだろうか。 私は右を向き、左を向いた。酷い臭いだ。 光が差した。 レンリが蓋を持ち上げていた。そう、蓋。円筒を半分に切ったような形に、一方通行のドアが付いた、ゴミ箱の蓋だ。 そこは、私たちが出会ったゴミ捨て場だった。 「汚れちゃったなあ。怒られちゃうかなあ」 そう言いながらも、レンリは笑っていた。私は汚れた云々よりも、自分の視力がまだちゃんとあったことに安心していた。「グンも汚れちゃったね」とレンリが笑う。私もつられて笑った。 ゴミ箱から出る。 「帰ろっか」レンリが私に声を掛ける。私は大人しく頷いた。 「やっぱりライモンシティだね。さっきの石の力で移動したのかな」 彼女が問う。私が頷く。レンリは、そっかー、と笑った。 レンリは道中、他愛のないことを話し続けた。穴を掘るって便利だねえとか、今度はアクアテールの練習しようだとか、チラチーノはどんな技を覚えるのかなあ、とか。引っ越しの話は出なかった。私は私で、少し別のことを考えていた。 視力のこと。さっきは暗がりで勘違いしただけだったけど、いつか、本当に失うかも分からない。闇の輝石に触れた代償が、シャンデラとの命を賭けた果たし合いだけだとは限らない。これから、他の何かを失うかもしれない。もし、レンリを見る目が失われてしまったら、レンリの声を聞く耳が失われてしまったら? しかし、闇の輝石は力を求める者の為の石なのだ。戦いに必要な、視覚や聴覚を失うなんて、あるはずない。無理やりだけどそう考えて、不安を押し込めることにする。 帰り道は、すぐに終わった。 オートロックの付いたマンションの前で、レンリはしばし、立ち止まっていた。 「ねえ、グン」 立ち去りかけた私を、レンリが呼び止めた。マンションから漏れる光で照らされた横顔は、いつになく真剣そうだった。 「一緒に、来てくれないかなあ」 私は一瞬、耳を疑った。それを、疑う余地なしにするように、レンリは言葉を重ねる。 「進化して強くなったグンを見てたらね、なんとかなりそうな気がしてきたの。ね、一緒にいさせてくださいって、頼もうよ。今のグンと一緒ならね、許してもらえそうな気がする」 私は一も二もなく頷いて、彼女の腕の中に飛び込んだ。 レンリがオートロックの扉を開き、中を進む。マンションの廊下は、細長い電灯で煌々と照らされた。 「許してもらえるといいねー、グン」 彼女が笑う。彼女が一緒にいれば、私はどこまでも強くなれる。闇の輝石に手を出さなくとも、事足りただろうか。疑念は一瞬だけ灯って、消える。 ドアの前まで来て、レンリが私を降ろす。そして、ドアノブに手を掛ける。 レンリが運命の扉を開いた。
〜 おまけ レンリさんのシャンデラ
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