※いつものことながらちょっと注意
自分がいつから生きているか、思い出せない。
マダムの寝室に入れることができる人間(もしくは、ポケモン)は少ない。レディでさえ、一度も行ったことがないのだ。
執事であるゾロアークのネロは、合鍵を持たされているという。
「マダムってさ、ぶっちゃけ掃除とか得意なの?」
その瞬間、ネロは今まで見たことがないような顔をして黙ってしまった。どうやら、掃除に関してはとんでもない労力を強いられているらしい。
その顔を見て、もう二度とそれに関する質問はしないとレディは思った。自分の身が可愛いのではない。
あまりにも、見ていて辛い表情だったからだ。
さて、傍若無人で我儘でアドルフ・ヒトラーも真っ青なくらいの独裁政権を仕切るマダム・トワイライト。彼女がいつから黄昏堂を開いているのか、そもそも何歳なのか。
誰も、知らない。
何かがベッドの柱を齧る音で、マダムは目を覚ました。
ゆっくり体を起こすと、せっせと柱を木くずに戻していたコラッタと目が合う。目に何の感情も入れずに見つめれば、その小さな体は文字通り転がるように部屋を飛び出していく。
そこで、やっと自分が眠っていたことに気付いた。
乱雑な部屋。自分が所有する屋敷の中では、一番狭い部屋。その広さはさながら、物置と称していいレベルである。
それに加え、天井まで積み上げられた古今東西の本や、左右の壁に備え付けられた棚から溢れ出した骨董品がごちゃごちゃとした雰囲気をを醸し出す。
「……ネロに掃除を頼まないと」
”自分で掃除をする”という概念が、彼女の中には、無い。最終的に、自分の部屋が綺麗になれば良いのである。
たとえ掃除をしている最中に、積み上げられた本の塔が崩れて来ても、骨董品が頭に落ちて来ても、彼女は被害者の心配など、一切しないだろう。
”誰かを案じる”という感情も、彼女の中には、無い。
欠伸をしながらベッドを下りる。途中、散らばっていた宝石箱を踏みつけたような気がするが、気にしない。
時計を見ると、まだ黄昏堂を表に出すには早い時間だった。丁度お昼時だったため、足は自然とキッチンと称して作られた部屋へと動く。
近付くにつれ、オリーブオイルと大蒜が合わさった香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。無いはずの場所から、音が鳴った気がした。
基本的に、マダムは飲食をしなくても平気である。だが味覚もあるし、何が美味しいか不味いかというのは分かる。
長い時間を生きる上で、唯一と言っていいほど楽しみにしているのが、美食の存在だった。
黄昏屋敷の廊下に連なるドアたち。それぞれに名前が付けられており、開けばその名前に通ずる場所へと行ける。
たとえば、今日店を出す予定の場所はカント―・ヤマブキシティの一角だが、そのドアを開ければ遠く離れたジョウト・ホウエン・シンオウはもちろん、海を越えたイッシュやカロス地方へ行くことも可能である。
ちなみにマダムが一番気に入っている店は、カロスはミアレシティにある三ツ星レストランで、一か月に一度は通っている。もちろんディナーで、食後は少し足を伸ばしてバトルシャトーで政財界の大物達と顔を合わせてバトルするのが気に入っていた。
出不精と言われているが、“術”を使えばどうということはないのだ。
その体が、違和感なく見えればいいだけの話なのだから……。
キッチンに行くと、シェフをしているマフォクシーのルージュが丁度皿に料理を盛り付けている所だった。マダムを見つけて、少し戸惑った顔をする。
『これから起こしに伺う所だったのですが』
「気にするな。 ……美味しそうだな」
今日のランチはイタリア料理らしかった。白い更に盛り付けられた、トマトとモッツァレラチーズの冷製パスタ。種類はカッペリーニ。
付けられた飲み物はスパークリングのミネラルウォーターだった。
「以前入手したと言っていたシャルドネは?」
『今夜のディナーにお出しします。まだ十分に冷え切っていないので』
甲斐甲斐しく主の世話を焼くルージュ。ここに配属されてから、半年も立っていないのに、その腕と振る舞いは執事であるネロに匹敵していた。
彼女とネロは、あらゆる面が似ている。これを面と向かって言うと苦笑されるのだが、性格・振る舞い方・忠誠心。全てが重なるのである。
そして――。
『さきほど、フォッコ達が良い鴨を狩ってきましたが、どういたしましょうか』
「精肉して、今日のディナーに出してくれ」
『でしたら、ワインはシャルドネではなく……』
「ああ。そうだな……」
女と顔を合わせてディナーをするというのは、あまり聞いたことがない。カクライでも呼ぼうか。
「ボルドーにしてくれ」
『かしこまりました』
“部下”を大量に引き連れている所も――
同じだ。
開けるまで時間があるので、“別部屋”に足を運ぶことにした。
この屋敷にあるドアは、施設に繋がる場所だけでなく、あらゆる土地へと続いている。その数は…… 私も分からない。もし、行きたい時に通じるドアが無ければ、新しく作り出すからだ。
某猫型ロボットが出す“どこでもドア”のような物だ。ただし、あちらが一つで事足りるのに対し、こちらは場所の数だけ揃える必要があるが。
「今日はどうしようか……」
ずらりと並んだドアの前で、私は考える。時間があると言っても、この時期のため、使える時間は四時間半と言ったところ。しばらくカロスを重点にしていたため、カント―の時間帯に慣れていなくて困る。
ミアレのブテイックを冷やかすのもいいが、あれだけある数からチョイスするのは至難の業だ。
服を買うのは、今度時間がある時…… そうだな、十時間は無いと。あとネロも連れて行かなければ、荷物持ちがいなくなってしまう。
「……じゃあ」
数分考えた末、私は一つのドアの前に立った。プレートに彫られた名前は――
「……OCEAN」
開けると、青の景色が目に飛び込んで来た。ピンクと黄色の影が群れを成して、来た方向をUターンしていく。
透明な影が、私の体を映し出す。
ここは、海の中に造られたレストラン…… だった物。バブルの頃は連日成金趣味の男達が女を連れて来ていたらしいが、バブルが弾けて経営が成り立たなくなり、そのまま閉店した。
そこを、数年前にとある金持ちが丸ごと買い取り、整備されて今に至る。 ――まあ、その金持ちというのは、私の事だが。
現在では入口を黄昏屋敷に繋いでしまったため、正規だった入口は使えなくなっている。それでも、きちんと改装したため、ここで食事をしながら海中を眺めることができる。
水中のポケモン達は、こちらに気付いているのかいないのか、呑気に泳いでいる。時々オスがメスに求愛しているのも見かける。オスはメスに夢中で、自分に迫る危機に気付かない。
メスが危険を察知して逃げた瞬間、何処からともなくやって来たサメハダ―がオスを呑み込む。きっとオスは、何が起こったか分からないままに消化されてしまうのだろう。
飽きずにずっと眺めていたら、いつの間にか時が過ぎて行った。時計がもう開店三十分前を差している。
少し名残惜しい気持ちを抱えながら、マダムは部屋のドアを閉めた。
フード付きのドレスに着替える。今着ていたのはパジャマ兼用だ。後でネロが洗濯してくれることだろう。
本店に行くと、ネロと…… レディ・ファントムと目が合った。
「こいつに頼まれたんだ。黄昏堂の掃除」
似合わない格好をしていた。着ていたコートはハンガーにかけられ、シャツとスキニーパンツの姿になっている。頭に手ぬぐい、体にエプロン。手にはハタキ。
「掃除機はタイヤが絨毯を痛めるから、使うなってさ」
「そうなのか」
「自分の店なんだろ。自分で何とかしろよ」
言いながらレディは集めたゴミをゴミ箱に入れていく。途中、うげっという声が聞こえたのは気のせいではないだろう。
「マダム、なにこれ」
近付いて見ると、青白いふさふさした物が付着した物体だった。少し考えて、思い出す。
「いつだったかの、ゾロア達の“食べ残し”だな」
「……食べ残し?」
『黄昏堂の掟を、無謀にも破った客の、成れの果てだ』
レディの顔がみるみるうちに白くなっていく。
「掃除しろよ!」
迷える客は、今日は来なかった。店を開けていたというのに。
「年末だから、一人は来るかと思ったんだが」
『そうだな』
椅子から立ち上がろうとした矢先、ガクンと重心がぶれた。
『マダム!?』
「……腕に力が入らない」
ネロに起こしてもらい、どうにか立ち上がる。見ると、右腕の位置が若干ずれていた。
そっと左手で肩を触ると、解けかけている。
「そろそろ潮時か……」
寝室に籠り、針と糸を取り出す。
糸は、アリアドスの糸にセレビィが飛ぶ時に散らす粉を調合させた物。
針は、ノクタスが出す“ニードルアーム”から摂取した針。
大分朽ちた糸を抜いて、再び新しい糸で縫い合わせていく。
これだけは、一度もネロにさせたことがない。自分の体のことは、自分がよく分かっているからだ。
だが……。
縫い合わせた矢先から、布部分が破れていく。木製の関節があらわになり、キリキリと音がする。
「……もう、無理なのか」
自分がいつから生きているか、思い出せない。
いや、“生かされている”の方が正しいのかもしれない。
ある“罪”を犯した私は、それを償うために、人の一生どころでは下ろせない枷を背負って生きることになった。
普通の人間が生きる時間を超えても、私は死ぬことを許されなかった。やがてその身が持たなくなると、代わりの肉体を与えられて生きることになった。
そのうち、人間に乗り移ることも許されなくなり、私は別の物に魂を癒着させて生きるようになった。
もう二度と、普通の人間に戻ることはできなかった。だからせめて、真似事をしようと思った。
あらゆる娯楽を極めた。食事もできるようにしたし、買い物もゴシップも……。
黄昏堂を開いて、人間達の贅沢な悩みをもてあそんだ。
政財界を裏から操ることでさえ、私には遊びに思えた。
それだけしか、楽しむことが出来なかった。
……“人形”の、私には。