いつの頃でしたか、ホウエン地方のとある洞窟で、宝石の採掘がしきりに行われました。
それによって人間は輝く石を多く手に入れましたが、宝石を糧として生きるヤミラミたちは住処を追われ、散り散りになってしまいました。
しかし、宝石などなかなか見つかるものではありません。
逃げ出したヤミラミの一匹も、しばらくは木の実などを食べていましたが、やがて宝石の味が恋しくなりました。
そのヤミラミは土地を転々としている内に、人間の暮らす街へと辿り付きました。
そこで見つけたのは、貴族の住む豪邸。
目映い輝きを放つ沢山の宝石を見つけ、ヤミラミは久しぶりの餌へと喜び勇んで飛びかかりました。
しかし、当然ながら護衛の人たちのポケモンによって返り討ちにされてしまいます。
ヤミラミは傷を負い、瀕死に近い状態で人里を離れました。
「あら、あなたどうしたの? 大丈夫?」
その時、地面に倒れてしまったヤミラミに優しい声をかける者がいました。
だんだんと薄れてきた意識の中、顔を上げたヤミラミが宝石の瞳に映したのは、木の実の入った籠を抱えた一人の老婆でした。
「まあ、傷だらけじゃない! すぐに手当てしなきゃいけないわ、とりあえず家に来なさい」
そう言った老婆はヤミラミを自宅に連れて帰り、丁寧に看病しました。
少しずつ元気を取り戻したヤミラミに出された木の実のスープは、今まで食べたどんな宝石よりもおいしい味がしました。
夢中になってスープを飲むヤミラミを見つめ、老婆はぽつり、と漏らしました。
「まるでそのために貴方を招き入れたみたいで申し訳無いけれど、私の独り言かと思って聞いてくれないかしら」
スープから顔を上げ、ヤミラミは老婆を見つめました。
「悪魔は人間の魂と引き換えに、どんな願いでも三回叶えてくれるって話を聞いたの。私はもうおばあちゃんだし、ここまで幸せに暮らしてきたから自分の望むものは何も無いわ。でもね」
そこで一度老婆は言葉を切ります。
老婆の見つめる先には、老婆が作ったと思われる、赤ちゃんの服が壁に何着かかかっていました。
「もうすぐ、私には孫が生まれるの。もしもこの先……孫が困った時。あなたが悪魔なら、三回、助けてあげてちょうだいな」
そんなことを言われても、悪魔では無くポケモンに過ぎないヤミラミは何のことだかわかりません。
きょとんとした顔で老婆を見つめ続けるヤミラミの角を優しく撫ぜて、老婆は「何でもないのよ」と苦笑しました。
元気になったヤミラミは、老婆の息子とその妻が帰って来るよりも早く、老婆の家を去りました。
それから数ヵ月後。
老婆は生まれてくる孫の顔を見るよりも早くこの世を去りました。
勿論ヤミラミがそんなことを知る由もありませんし、息子夫婦がヤミラミの話を聞くこともありませんでした。
それから間も無く、息子夫婦の間には娘が生まれました。
しかし娘はすぐに病気を患い、命の危険さえありました。
ですが、その治療には多額の金がかかり、息子夫婦の収入ではとても払える金額ではありませんでした。
日増しに酷くなっていく病気の娘を眺めながら、息子夫婦は毎晩涙を流しました。
ある晩のこと、ヤミラミはかつて訪れた老婆の家、つまりは息子夫婦と娘が暮らす家へとやってきました。
老婆の死を知らないヤミラミは、是非とももう一度あのスープが飲みたいと思ったのです。
しかしそこに老婆はいなくて、代わりに泣き崩れる夫婦と寝込んだ赤子だけが見えました。
ヤミラミは、窓の外からじっとその様子を伺っていましたが、聞こえてくる言葉から何が起きているのかを何となく把握しました。
ヤミラミは、老婆の言葉を思い出します。
孫を三回助けてやってほしい、というその言葉を。
ベッドで寝ている赤子は恐らく老婆の孫でしょう。
もしあの子を助けてあげたら、老婆が喜んで、おいしいスープをご馳走してくれるかもしれない。
ヤミラミはそう考えて、そっと自分の胸に手を置きました。
やがて息子夫婦が娘の部屋を出て寝静まると、ヤミラミはこっそりと部屋に入り込みました。
見慣れないポケモンにも赤子は驚くことなく、紫色の肌と、輝く両目を持った突然の来訪者を無邪気に笑って出迎えました。
自分が病気だなんて知るはずもない赤子をヤミラミはじっと見つめます。
鋭い爪で傷つけてしまわないよう、柔らかな頬にそっと触れると赤子は不思議そうな顔で見返してきました。
まずは一回目、とヤミラミは心の中で呟きます。
そして、ヤミラミは自らの胸から外した紅い石を、頬と同じように柔らかい右の手のひらへと優しく握らせました。
翌朝、知らぬ間に娘が手に持っていた宝石を見て息子夫婦はとても驚きました。
その宝石は今まで見たことが無いほど、いえ、貴族ですらそう簡単に手に入れることが出来ないくらいに大きいものでした。
息子夫婦は、神様が娘を助けてくれた、これで治療費が得られる、娘の病気が治る、と天に向かって泣いて感謝を述べました。
その様子をこっそり見ていたヤミラミは、神様と呼ばれたことに対して少し照れくさい気持ちになりました。
それから、また何年か経ちました。
ヤミラミはとある洞窟で住処を得て、宝石こそ手に入らないもののクズ鉱石などを食べて穏やかな毎日を送っていました。
洞窟から外に出る必要は無いので、ヤミラミは外で何が起こっているのか何も知りません。
それなりに満ち足りた生活をしていて忘れかけていましたが、久しぶりに老婆の家を訪ねてみようとヤミラミは思い立ちました。
今はもうあの赤子も元気になっているでしょうし、今なら老婆もいるかもしれません。
ヤミラミは何年かぶりに日の光を浴びて、家へと向かいました。
ヤミラミが洞窟で過ごしていた間、外では大きな戦争が起こっていました。
赤と青、陸と海の勢力が争いを続け、ホウエン地方中で戦火が上がりました。
戦争は終結したものの、沢山の人が、沢山のポケモンが、その被害に遭いました。
息子夫婦と娘は命こそ助かったものの、家も財産も失い、その日食べるものすら危うい状況でした。
かつて家があった場所で、少女へと成長した娘は途方に暮れていました。
もう何日もまともな食事をとっていません。
すっかり痩せてしまった娘は、配給へと向かった母と、日雇いの労働に出かけている父の帰りを待ちながらぼんやりと空を見上げていました。
栄養が足らず、この頃娘の意識は常に途切れそうなほどです。
今日も地面に倒れこみ、娘は重い瞼に抗いきれず、徐々に目を閉じました。
朦朧とした意識の中、娘は自分の右手に、ずっしりとした何かが置かれるのを感じました。
目を覚ました娘と、戻ってきた両親が見たものは、それはそれは大きい、光り輝く透明の宝石でした。
これを売れば、しばらくの間、少なくとも戦争の傷跡が癒えるまでは無事に暮らすことが出来るでしょう。
いつかと同じように、神様へと祈り出した両親の隣で、娘は薄暗い森の中をじっと見ていました。
その森の中では、片眼を失ったヤミラミが木陰に隠れて娘たちを見つめていました。
これで二回目、あと一度助ければ、老婆のおいしいスープが飲めるでしょう。
人間の寿命というものをいまいち理解出来ない、半分のゴーストポケモンはわくわくしながらそう思っていました。
それから、さらに十数年が経ちました。
美しく成長した娘は、都市に住む由緒正しき家筋へ嫁入りすることになっていました。
しかし、それなりに安定した暮らしをしていたとは言え、嫁入り先に見合うだけの支度をするのは難しいことです。
娘と、その両親はすっかり悩んでしまいました。
そうこうしている間にも、嫁入りの日は近づくばかり。
結局その日も結論が出ずに、娘は寝床へと入りました。
何度か娘の様子を見に来ていた片眼のヤミラミは、それを知ると自分の出番だとばかりに娘の部屋の灯りが消えるのを待ちました。
そして、何の躊躇いも無く、残っていた瞳を外して、その大きな水晶を、娘の部屋の窓枠へと置きました。
ヤミラミは、何も見えなくなってしまいました。
あれほど楽しみにしていた、老婆のスープを飲もうにも、その家の場所すらわからなくなってしまいました。
三回助けたのに、ヤミラミは何も手に入れることが出来なかったのです。
それでも、いつか老婆に出会えるだろうと信じ続けて、ヤミラミは懸命に生きました。
闇しか無い世界で、ヤミラミは、長い年月を過ごしました。
ヤミラミは、森に生えている草や木の実を食べてほそぼそと暮らしていました。
しかしある時、気がつかないうちに、繁殖期のキノガッサの巣へと足を踏み入れてしまったのです。
勿論ヤミラミに悪気はありません。
ですが、自分の子どもを狙われたと勘違いしたキノガッサたちによって、ヤミラミは袋叩きにされてしまいました。
目の見えないヤミラミに、勝ち目などありませんでした。
ほうぼうの体で逃げ出したヤミラミでしたが、身体は傷だらけで、毒が体内を犯し、指先まで痺れた状態で、ほとんど瀕死の状態でした。
そんな時。
地面に倒れたヤミラミに、優しく声をかける者がいました。
「あら、あなたどうしたの? 大丈夫?」
そう、それは、いつかのように。
視力を失ったヤミラミを、その老婆は丁寧に看病しました。
少しずつ元気を取り戻したヤミラミに、一杯のスープが振舞われました。
そのスープは、遠い日にご馳走になったスープと、同じ味がしました。
無我夢中でスープを飲み干すヤミラミに、老婆は「母さんに教えてもらった自慢のスープなの。母さんはおばあちゃんに教えてもらったみたい」と話しました。
それを聞いたヤミラミは、その声にも、とても懐かしいものを感じました。
「ねえ、あなた……もしかして、」
老婆が一体どんな顔をしているのか、ヤミラミはわかりません。
きょとんとしているヤミラミに、老婆は一つの箱を持ってきました。
大切そうに扱われてきたらしいその箱を、老婆はゆっくりと開けます。
その中に入っていたのは、それはそれは大きな水晶で。
かつての、ヤミラミの瞳でした。
「昔、病気の赤ちゃんに、胸の宝石をあげたことは無いかしら」
ヤミラミは、こくん、と頷きました。
老婆は息を飲み、次の質問をします。
「じゃあ、戦争が終わった頃……一人の女の子に、片眼の宝石をあげたことはある?」
その問いにも、ヤミラミは大きく頷きました。
老婆は一度言葉を失い、しかし、震える声で尋ねます。
「…………それなら、残った瞳を、嫁入り支度で悩む家に、あげたことは?」
ヤミラミは、はっきりと頷きました。
そして、次の瞬間、長らく見ていなかった光が、ヤミラミの視界に映りました。
片眼だけで見た世界の中心では、涙を流して自分を抱きしめる、いつかの老婆にそっくりな姿がありました。
それからというもの、老婆、いえ、娘は毎日のようにヤミラミにスープを作りました。
ヤミラミはとても喜んで、そのスープを食べました。
星の綺麗なある夜のこと、娘はヤミラミに話しかけました。
「あの夜、窓の外を見ていたら、貴方の姿を見つけたの。瞳を置いて、闇に消えていく、貴方が」
「貴方の姿は、暗闇の中でもよくわかったわ。ヤミラミの癖に、何の宝石も持っていないんだもの」
「それを見たら、この宝石を大切にしなくてはいけない、そしていつか、貴方に恩返しをしなくちゃ、って思ったのよ」
「私がこうして、幸せに生きてこられたのは、貴方のおかげ。本当ならばとっくに死んでいたはずなのに、こうやって今まで生きることが出来たのは、貴方のおかげなの」
それは違う、とヤミラミは思いました。
娘を助けたのは確かに自分ですが、その自分は、老婆に助けられたのです。
この娘によく似た、あの優しい老婆に。
「ねえ、ヤミラミさん」
娘は、美しい輝きを放っている瞳を見つめて言いました。
「その瞳の分だけ、お願いしてもいいかしら」
「私ね、まだおばあちゃんに出会ったことが無いの」
「もしも貴方が、私のおばあちゃんを知っていたならば」
「私を、おばあちゃんのところに連れて行ってちょうだい」
そう言って静かに笑い、娘は目を閉じました。
ヤミラミはそれをじっと見つめていましたが、娘の手を取って歩き出しました。
一度娘にあげたこの瞳なら、老婆の姿を映し出せそうな気がしたのです。
ヤミラミは娘の手を引いて進み続けます。
世界中のどんな宝石よりも輝いた、どんな宝石よりも美しいその瞳は、天へと続く道を見落とすことはありませんでした。